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2012/10/30

北條九代記 瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる

      ○ 瀧口三郎經俊斬罪を宥めらる

 

山内瀧口(やまのうちたきぐちの)三郎經俊は源家譜代の被官として、代々相州に居住しける所に、經俊如何思ひけん、平氏に心寄せ、大庭三郎影親に與(くみ)して、兵衞佐賴朝を石橋山に攻め追ひ奉る。然るに源家の運命盛(さかり)に開け、東國には平氏の輩足を留むべきやうも無ければ大庭影親長尾兄弟を初として、石橋山合戰の餘黨等(ら)悉(ことごとく)降人(がうにん)に成て出けるを、科(とが)の輕重に從ひて或は殺し、或は許さる。瀧口經俊も身の置所(おきどころ)の無きまゝに己(おの)が不忠不義を抱きながら、恥を捨てて降人にぞ出でたりける。賴朝即ち山内の莊を召放ち、その身は土肥實平に預置かる。この間生捕(いけどり)降人多き中に至て重科(ぢうくわ)の輩は殺し給ふといへども其は僅に十が一にして、宥(なだ)めらるゝは少なからず。されども瀧口が事は重々不義の罪科人(ざいくわにん)なりとて殺さるべきにぞ極(きはま)りける。經俊が老母は賴朝の御爲には乳母(めのと)なり。我子の斬(きら)るべき由を聞て、泣々(なくなく)鎌倉に参りて申入れけるやう、「祖父資通入道は八幡殿に仕へて、禪室の御傅(めのと)なりき。其より以來(このかた)代々忠勤を源家に盡し奉りし事誰か是に比(たくら)ふべき。父俊通は平治の軍に六條河原に骸(かばね)をさらし、隨分の働を以て御恩を報じまゐらせたり。其子として三郎經俊既に大庭影親に與せし事その科(とが)餘ありといへども、これ只一旦平家の後聞を憚る所にて候。凡(およそ)軍旅を石橋山に張出(はりいだ)し候輩(ともがら)多く候へども、皆恩免を蒙り、科を宥め給ふ所君の御惠(めぐみ)深く渡らせ給ふ故なり。然らば經俊も爭(いかで)昔の勳功に御許(ゆるされ)を蒙(かうぶ)らざらん」と泣口説(なきくど)きて申しければ、賴朝何とも仰せられず、土肥次郎を召して、預置所(あづけおくところ)の鎧(よろひ)をまゐらすべきの由仰せらる。實平持參して櫃(ひつ)の蓋を開きて取出す。山内の尼が前に置かせて宣ふやう、「これは石橋合戰の日三郎經俊が射ける矢既にこの鎧の袖に立ちたり。その矢の口巻(くつまき)の上に瀧口三郎藤原經俊と漆(うるし)にて書付けたり。文字の際(きは)より箆を切て、鎧の袖に立ながら、今まで置かるゝ所なり」とて見せ給ふに、老尼は重て子細を申すに及ばすして、泣く泣く御前を立ちにけり。誠にその罪狀遁るゝ所なしといへども、且(かつう)は先祖の勳勞を感じ、且は老母の悲歎に優(いう)じて死刑を宥め給ひし事、「仁慈類(たぐひ)なき良將かな」と諸人賴しくぞ思ひ奉りける。

[やぶちゃん注:「山内瀧口三郎經俊」山内首藤経俊(やまうちすどうつねとし 保延三(一一三七)年~嘉禄元(一二二五)年)。藤原秀郷の流れをくむ刑部丞俊通の子。母は源頼朝の乳母である山内尼で相模国鎌倉郡山内荘を領した。以下、ウィキの「山内首藤経俊」よりほぼ全文を引用させて頂く(アラビア数字を漢数字に代え。記号の一部を省略変更した)。『平治の乱では病のため参陣せず、源氏方で戦った父・俊通と兄・俊綱の戦死により家督を継ぐ。治承四年(一一八〇年)八月の源頼朝の対平家挙兵に際し、頼朝から乳母兄弟にあたる経俊にも加勢を呼びかける使者として安達盛長が派遣されたが、経俊は要請に応じず暴言を吐いたという(「吾妻鏡」七月一〇日条)。なお三井寺にいた経俊の兄弟である刑部房俊秀は、頼朝挙兵に先立って以仁王の挙兵に加わり、南都に落ち延びる道中で討ち死にしている(「平家物語」)』(この「暴言」については『「富士と背を比べたり、鼠が猫を狩る様な」として、平家と頼朝(勢力)の大小を嘲ったとされる』という脚注がある)。『経俊は平氏方の大庭景親の軍に属して石橋山の戦いで頼朝に矢を放っている。景親降伏後の十月二十三日に頼朝軍に捕らえられて山内荘を没収され、土肥実平に身柄を預けられた。十一月二十六日、経俊は斬罪に処せられる事が内々に決められたが、母の山内尼が頼朝の元を訪れ、涙ながらに父祖である山内資通入道が源義家に仕え、源為義の乳母父であった事など源氏への奉公を訴えて経俊の助命を求めた。頼朝は尼に対し、経俊が自分に放った矢の刺さった、当時自身が着用していた鎧の袖を見せると、尼はそれを見て顔色を変えてさすがにその場は引き下がった。結局、経俊は赦されて頼朝に臣従する』。『その後、元暦元年(一一八四年)五月の志田義広、七月の平家残党の反乱の追討に出陣。この年に伊勢国の守護となっている。また大内惟義の後を受けて伊賀国の守護も兼ねており、特に戦功もない経俊にこのような重任が課されたのは、ひとえに頼朝の乳母子であるためと思われる。翌文治元年(一一八五年)四月に頼朝の怒りを買った無断任官者二十四名の内の一人になり、頼朝から「官職を望んでも役に立たない者である。無益な事だ」と罵倒されている。ここまで失態を重ねた上に、頼朝からの人物評価は低いが、それでも乳母兄弟である経俊の地位は保全された。その後、源義経の家臣・伊勢義盛と交戦して破る。奥州合戦、頼朝の上洛にも供奉』。『頼朝死後の梶原景時弾劾に参画。元久元年(一二〇四年)に伊勢国・伊賀国などで起こった三日平氏の乱で経俊は平氏残党の反乱鎮圧に失敗した事により、伊勢・伊賀の守護職を解任され、両国の守護職は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。その後、朝雅は失脚し、経俊の子の六郎通基に殺害された。その後、職の回復を願ったが許されなかった(「吾妻鏡」同年九月二十日条)』。『「吾妻鏡」では建保四年(一二一六年)七月二十九日に源実朝に供奉して相模川に赴いた記録が最後である』とある。

・「禪室の御傅(めのと)なりき」「禪室」は義家のことか。「傅」は貴人の子を守り育てる役目の男。守役。

・「比(たくら)ふ」「た比(くら)ぶ」「た較ぶ」で、比べるの意、「た」は強意の接頭語。

・「矢の口巻」鏃を指し込んだ箆(の:矢柄。)の先を糸や籐で巻き締めた部分。矢の本体と鏃の接合部。

・「且(かつう)は」「且(か)つは」の音転。 

・「優じて」「優す(ず)」はさ行変格活用の動詞で、厚くもてなす、優遇する、褒めるの謂いがある。ここは老乳母の、子息処罰への悲嘆を目の当たりにして、特別に厚遇し、特に経俊の死罪を減じて大目に見たことを指している。]

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