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2012/10/29

北條九代記 朝將帥の元始

卷第一
      ○本朝將帥の元始
夫武將元帥の始を按ずるに、人王の第一代神武天皇東征の時、道巨命(みちおみのみこと)を以て軍帥とし給ふ。是物部氏の始祖なり。崇神天皇十年に四道の將軍に命じて四方の國を治めしむ。將軍の號是より起れり。第十二代景行天皇四十年に皇子日本武尊(わうじやまとたけるのみこと)を以て大將軍とし、武日武彦(たけひたけひこ)の二人の命(みこと)を左右の副將として東夷を征伐し給ふ。神宮皇后三韓を伐(うつ)て、鎭守將を遣して、其後を治めらる。鎭守府の稱(な)は是より起れり。日本國中に殊更東夷叛き易く、帝都を襲ひ奉るを以て、東征の將軍を置きて、國司の外に鎭守府を任じ、邊要(へんえう)の警(かため)とせらる。聖武天皇の御宇に始れり。藩鎭才幹の器(き)を逞(たくまし)く、智謀武勇(ぶよう)を兼ねざる則(ときん)ば、この仁にあたるべからず。文屋綿丸(わたまる)より征夷將軍の號あり。坂上田村丸は征東夷將軍と稱す。参議藤原忠文(ただぶん)を征東大將軍に任ぜらる。その後久しく中絶せしに木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ。其後右大將賴朝を征東六將軍に任ぜられしより連綿として相續し、その子賴家は少將にして是を兼ねたり。舍弟實朝は兵衞佐の時より右大臣に至るまで是を兼ね給へり。徃昔(そのかみ)は國司職五ヶ年にして改補(かいふ)せられ、武將勳功大なれども、數ヶ國を管領(くわんりやう)する事なし。然るを後白河法皇叡慮短くおはしまして、平氏相國淸盛に高位を授け、一類に給はる分國三十七ヶ國、日本の半分に越えたり。是より武威盛(さかり)になり、主上上皇近臣の御惱(おんなやみ)と成りにけり。是にも御後悔の叡慮なく、賴朝を六十餘州の惣追捕使(そうついふし)に補(ふ)せられ、暫は公家武家牛角(ごかく)なりけるを、王法次第に衰微になり、武家日を追て昌榮(しやうえい)せり。京都には兩六波羅に奉行を置き、築紫には探題を居(すゑ)、諸國には守護を定め、荘園に地頭を置きて、公家の政務を用ひず。賴朝の權威雲に翔(かけ)り、賴家實朝に至り、僅に父子三代四十二年を持ちて、天下の柄(へい)自然として北條時政の手に屬(しよく)せり。承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る。是も只二代にして跡絶えたり。又親王家を申下し、將軍と崇め奉りしも、四代にして終り給ふ。その間(あひだ)北條遠江守時政より相摸守入道高時に至る天下國家の執權たる事前後九代を持(たもち)たり。武將三代、攝家二代、親王四代、是も亦九代なり。
[やぶちゃん注:「是物部氏の始祖なり」とあるが、道臣命は大伴氏の祖神であるから、「大伴氏の始祖なり」の誤りである。
「邊要」京を離れた辺地の要所。
「聖武天皇の御宇に始れり」現在の知見では、大野東人(おおののあずまびと 生年不詳~天平一四(七四二)年)が聖武天皇により天平元(七二九)年、陸奥鎮守将軍に任じられたのを濫觴とするとされている。
「文屋綿丸」文室綿麻呂(ふんやのわたまろ 天平神護元(七六五)年~弘仁一四(八二三)年)。弘仁二(八一一)年に「征夷将軍」に任ぜられている。
「坂上田村丸」文室綿麻呂の前任者であった東夷征討の責任者坂上田村麻呂は延暦一五(七九六)年鎮守将軍に任命され、翌延暦一六(七九七)年に征夷大将軍に昇格している。また、同類の称を遡るならば、和銅二(七〇九)年に「鎮東将軍」に任ぜられた巨勢麻呂(こせのまろ)がいる。
「参議藤原忠文」(貞観一五(八七三)年~天暦元(九四七)年)の「征東大将軍」叙任は天慶三(九四〇)年で平将門追討を目的としたもの。当時六十八歳であったが、実際には忠文の関東下着前に、将門は平貞盛・藤原秀郷らに討たれていた(ウィキの「藤原忠文」に拠る)。
「木曾義仲都に上り、兵權を執るの日征東將軍に任じ給ふ」寿永二(一一八三)年八月十六日に「旭の将軍」(征夷大将軍に準ずる特別職として後白河法皇が与えたもの)の号を受けたことを指す。彼は翌寿永三年一月十五日には、正式な征東大将軍の宣下を受けている。
「牛角」互角。
「承久の末に攝家の御息を鎌倉に申下し、征夷將軍に仰ぎ奉る」建保七(一二一九)年一月二十七日に実朝が暗殺され、建保七年は四月十二日に改元されて承久元年となる。将軍の後継者として五摂家の一つである九条家の九条道家三男(源賴朝同母妹坊門姫曾孫)三寅(みとら)が満一歳で鎌倉に迎え入れられたのは七月十九日であった。但し、その後の承久の乱をはさんで、六年後の嘉禄元(一二二五)年、元服し賴経と名乗り、翌嘉禄二(一二二六)年、将軍宣下により第四代将軍となっている。以上の史実を考えれば、「承久の末」は誤りで、直下の「攝家の御息を鎌倉に申下し」に応ずるならば、「承久の始め」とすべきところである。]

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