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2012/10/29

北條九代記 平氏東國討手没落

      ○ 平氏東國討手没落
大相國淸盛入道大に驚き、嫡孫小松少將維盛を大將軍とし、薩摩守忠度を副將とし、上總守忠淸、齋藤別當實盛を侍大將として、三萬餘騎、賴朝追討のため、駿河國富士川の西の岸に下著す。賴朝大軍を率して、黄瀨河に出向(いでむか)はる。甲信兩國の源氏等(ら)北條時政に從つて、二萬餘騎にて推來(おしきた)る。平氏は富士沼の水鳥の騷ぐ羽音(はおと)に驚き、一戦にも及ばす、逃落ちて、都に歸る。九郎義經奥州より上りて、賴朝に對面す。大庭景親降人(がうにん)に成て出でたり。石橋山の役(えき)に方(あた)つて、強敵の張本なれば、首(かうべ)を刎(は)ねられけり。佐竹太郎義政味方に屬す。その弟秀義は金砂(かなさ)の城に楯籠る。叔父佐竹藏人返忠(かへりちう)して城を落す。今度寄手の中に熊谷、平山が勲功を第一に賞せらる。志多(しだの)三郎先生(せんじやう)義廣、十郎藏人行家等、国府(こふ)に参向す。賴朝は鎌倉に歸りて、和田小太郎義盛を侍所の別當にぞ補(ふ)せられける。
[やぶちゃん注:後半部は常陸国金砂城(現在の常陸太田市上宮河内町の西方にある金砂山の山城)に於ける頼朝軍と常陸佐竹氏との戦いである「金砂城の戦い」を語る。まず、現在の知見をウィキの「金砂城の戦い」で見る(ここでは「きんさじょう」と音読みしている。アラビア数字は漢数字に代えた)。『治承四年(一一八〇年)十月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず佐竹氏を討つべきと主張した。その意見を取り入れた頼朝は平家追撃を諦め佐竹討伐に向かうことにする』。『十月二十七日、頼朝は軍勢を引き連れ佐竹氏のいる常陸に向かって出発する。この日は頼朝の衰日(陰陽道で行動に支障があるとされる日)にあたり、周囲は出発に反対したが、頼朝は「二十七日こそ以仁王の令旨が到着した吉日である」として反対を押し切って出陣した。十一月四日、頼朝は常陸国府に入る。そこで軍議が開かれた』。『まず、佐竹一族の一人佐竹義政が、縁者である上総広常に矢立橋に誘い出された所を誅殺された。この動きを見て動揺した佐竹氏の中には頼朝方に寝返ったり逃亡する者も出てきた。五日、金砂城に立て籠もった佐竹秀義らに対して総攻撃が仕掛けられ、熊谷直実、平山季重が真っ先に城を登った。佐竹氏当主隆義は在京中で不在であったものの、金砂城が断崖に位置する難攻不落の城郭であり、佐竹氏の守りは強固であると見た頼朝は、広常の献策により、金砂城には入城していなかった秀義の叔父佐竹義季を味方につくよう勧誘する。義季は頼朝軍に加わって金砂城を攻撃した。城のつくりに詳しい義季の案内で金砂城は攻め落とされた』。『その後、城を守っていた秀義は奥州(または常陸奥郡)の花園城へと逃亡した』。『佐竹義李は御家人に列せられ、佐竹秀義の所領が頼朝の家人たちに与えられた。新たな占領地を得たことによる御家人たちへの恩賞、地理的には現に鬼怒川水系と香取海を支配して更に北の奥州藤原氏と提携の可能性があり、関東に残る平氏方最大勢力であった佐竹氏を屈服させた事は、関東を基盤とした頼朝政権確立の上で重要な位置を占める戦いであった』。『しかし、頼朝は関東の諸豪族に対しては一旦帰服を促す使者を派遣した上で対応を決定しているのに対して、佐竹氏に対してはそうした動きが確認できないことから、この戦いは相馬御厨や香取海沿岸の帰属問題で佐竹義宗(隆義の弟)や片岡常春と対立関係にあった上総広常・千葉常胤などの房総平氏および同一族と婚姻関係にある三浦義澄が房総地域から佐竹氏勢力を排除するために頼朝に攻撃を要求したとする学説もある』。また、延慶本「平家物語」『によると治承五年の春に佐竹隆義が頼朝と戦った記載があったり』、「玉葉」の翌治承五(一一八一)年四月二十一日条に『浮説ながら佐竹氏が常陸国で頼朝と敵対したとの記載がある。また佐竹氏の存在が奥州藤原氏と共に頼朝の上洛拒否の理由とされた。以上のようなことから、この金砂城の戦いのみで佐竹氏を屈服させたわけではなく、治承・寿永の乱の後期まで佐竹氏は常陸国において頼朝に対して敵対的な行動を取り続けたとみる学説もある』とある。
「佐竹太郎義政味方に屬す」以上のウィキの記載との齟齬でお分かりのように、この部分、筆者は「吾妻鏡」を誤読(若しくは省略した結果、誤記載となってしまった)しているように思われる。佐竹義政は和議に応じたものの、その場で謀殺されている。先のウィキが基づいたところの「吾妻鏡」の当該箇所、治承四(一一八〇)年十一月四日から六日の条を実際に読もう。
   *
〇原文
四日壬子。武衞着常陸國府給。佐竹者。權威及境外。郎從滿國中。然者。莫楚忽之儀。熟有計策。可被加誅罰之由。常胤。廣常。義澄。實平已下宿老之類。凝群議。先爲度彼輩之存案。以緣者。遣上總權介廣常。被案内之處。太郎義政者。申即可參之由。冠者秀義者。其從兵軼於義政。亦父四郎隆義在平家方。旁有思慮。無左右稱不可參上。引込于當國金砂城。然而義政者。依廣常誘引。參于大矢橋邊之間。武衞退件家人等於外。招其主一人於橋中央。令廣常誅之。太速也。從軍或傾首歸伏。或戰足逃走。其後爲攻撃秀義。被遣軍兵。所謂下河邊庄司行平。同四郎政義。土肥次郎實平。和田太郎義盛。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱。熊谷次郎直實。平山武者所季重以下輩也。相率數千強兵競至。佐竹冠者於金砂。築城壁。固要害。兼以備防戰之儀。敢不搖心。動干戈。發矢石。彼城郭者。構高山頂也。御方軍兵者。進於麓溪谷。故兩方在所。已如天地。然間。自城飛來矢石。多以中御方壯士。自御方所射之矢者。太難覃于山岳之上。又嚴石塞路。人馬共失行歩。因玆。軍士徒費心府。迷兵法。雖然。不能退去。憖以挾箭相窺之間。日既入西。月又出東云々。
五日癸丑。寅尅。實平宗遠等進使者於武衞。申云。佐竹所搆之塞。非人力之可敗。其内所籠之兵者。又莫不以一當千。能可被廻賢慮者。依之及被召老軍等之意見。廣常申云。秀義叔父有佐竹藏人。藏人者。智謀勝人。欲心越世也。可被行賞之旨有恩約者。定加秀義滅亡之計歟者。依令許容其儀給。則被遣廣常於侍中之許。侍中喜廣常之來臨。倒衣相逢之。廣常云。近日東國之親疎。莫不奉歸往于武衞。而秀義主獨爲仇敵。太無所據事也。雖骨肉。客何令與彼不義哉。早參武衞。討取秀義可令領掌件遺跡者。侍中忽和順。本自爲案内者之間。相具廣常。廻金砂城之後。作時聲。其音殆響城郭。是所不圖也。仍秀義及郎從等忘防禦之術。周章横行。廣常彌得力攻戰之間。逃亡云々。秀義暗跡云々。
六日甲寅。丑尅。廣常入秀義逃亡之跡。燒拂城壁。其後分遣軍兵等於方々道路。搜求秀義主之處。入深山。赴奥州花園城之由。風聞云々。
〇やぶちゃんの書き下し文(日ごとに注を附した)
四日壬子。武衞、常陸國府に着き給ふ。佐竹は權威を境外に及び、郎從は國中に滿つ。然れば、楚忽の儀莫く、熟々(つらつら)計策有りて誅罰を加へらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平已下の宿老之の類、群議を凝らす。先づ彼の輩の存案を度(はか)らんが爲に、緣者たる上總權介廣常を以て遣はして案内せらるるの處、太郎義政は即ち參ずべしの由を申す。冠者秀義は、其の從兵義政に軼(す)ぐ。亦、父四郎隆義は平家方に在り。旁々(かたがた)思慮有て、左右無く參上すべからずと稱して、當國金砂城(かなさじやう)に引き込もる。然而(しか)れども、義政は廣常の誘引に依りて大矢橋邊に參ずるの間、武衞、件の家人等を外に退かせて、其の主(ぬし)一人を橋の中央に招き、廣常をして之を誅せしむ。太(はなは)だ速やかなり。從軍、或ひは首を傾けて歸伏し、或ひは足を戰(をのの)かして逃走す。其の後、秀義を攻撃せんが爲に軍兵を遣はさる。所謂、下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥次郎實平・和田太郎義盛・土屋三郎宗遠・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直實・平山武者所季重(むしやどころすゑしげ)以下の輩なり。數千の強兵を相ひ率ゐて競ひ至る。佐竹冠者は金砂に於て城壁を築き、要害を固め、兼て以て防戰の儀に備へ、敢へて心を揺がさず、干戈を動かし、矢石を發(はな)つ。彼の城郭は高山の頂きに構ふるなり。御方(みかた)の軍兵は、麓の溪谷に進む。故に兩方の在所、已に天地のごとし。然る間、城より飛び來る矢石、多く以て御方の壮士に中(あた)る。御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃(およ)び難し。又、嚴石、路を塞ぎ、人馬共に行歩(ぎやうぶ)を失ふ。茲(ここ)に因りて、軍士、徒らに心府を費し、兵法に迷ふ。然りと雖も、退去すること能はず、憖(なまじひ)に以て箭(や)を挾みて相ひ窺ふの間、日、既に西に入り、月、又、東に出づと云々。
[やぶちゃん各注:・「軼ぐ」過ぎるの意味で、秀義の郎等は義政のそれよりも遙かに武運に優れている、の謂い。
・「旁々」これは副詞で、いずれにしても、どのみちの謂い。]
五日癸丑。寅の尅、實平・宗遠等、使者を武衞に進(しん)じて申して云はく、佐竹の構へる所の塞(とりで)は、人力の敗るべきに非ず、其の内に籠る所の兵は、又、一を以て千に當らずといふこと莫し。能く賢慮を廻(めぐ)らさるべし者(てへれ)ば、之に依りて老軍等の意見を召さるるに及ぶ。廣常、申して云はく、秀義の叔父に佐竹藏人有り。藏人は、智謀、人に勝れ、浴心、世に越ゆるなり。賞を行はるべきの旨、恩約有らば、定めし、秀義、滅亡の計を加へん歟(か)者(てへれ)ば、依りて其の儀を許容せしめ給ふ。則ち、廣常を侍中が許に遣はさる。侍中、廣常の來臨を喜び、衣を倒(さかしま)にして之に相ひ逢ふ。廣常云はく、近日東國の親疎、武衞に歸往し奉らつらずといふこと莫し。而るに秀義主(ぬし)、獨り仇敵を爲すは太だ據所(よんどころ)無き事なり。骨肉と雖も、客、何ぞ彼の不義に與(くみ)せしめんや。早く武衞に參じ、秀義を討ち取りて、件(くだん)の遺跡を領掌(りやうじやう)せしむべし者(てへれ)ば、侍中、忽ちに和順す。本より案内の者たるの間、廣常を相ひ具して金砂城の後(しりへ)に廻り、時の聲を作る。其の音(こゑ)、殆(ほとほと)城郭に響く。是れ、圖らざる所なり。仍りて秀義及び郎從等、防禦の術を忘れて周章横行(しうしやうわうかう)す。廣常、彌々(いよいよ)力を得て攻め戰ふの間、逃亡すと云々。秀義、跡を暗(くらま)すと云々。
[やぶちゃん各注:・「佐竹藏人」佐竹義季(生没年未詳)。頼朝の挙兵には加わらなかったために頼朝軍の追討を受けたが、ここに見るように上総介広常の懐柔策に乗って頼朝軍に内通、甥佐竹秀義を亡ぼした。その功によって後に幕府御家人となったが、頼朝に、この時の親族の裏切りを疎まれ、文治三(一一八七)年三月二十一日に駿河へ蟄居させられている。
・「侍中」秀義。
・「衣を倒にして」慌てるさまを言うが、歓迎するの意にも用いる。ここは後者。]
六日甲寅。丑の尅、廣常、秀義逃亡の跡に入りて城壁を燒き拂ふ。其の後、軍兵等を方々の道路に分ち遣はして、秀義主(ぬし)を搜し求めるの處、深山に入りて奥州花園城に赴くの由、風聞すと云々。
[やぶちゃん各注:・「花園城」現在の茨城県北茨城市華川町花園にあった山城。]
   *
「国府(こふ)」「こくふ」の略。]

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