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2012/11/03

北條九代記 木曾義仲上洛 付 平家都落

      ○木曾義仲上洛 付 平家都落

東國には兵衞佐賴朝の武威日を追(おつ)て盛なり。北國には木曾冠者源義仲旗を擧げ、西海南海にも軍起り、築紫には緒方惟義、四國には河野通淸(かうのみちきよ)源氏に屬す。平家愈(いよいよ)驚きて、軍勢を東北國に遣すといへども、運の傾く癖(くせ)なれば、至る所利なくして引返すより外の事なし。去ぬる治承四年六月に淸盛の計(はからひ)として、都を攝州福原に遷さる。翌年十二月又舊都平安城に遷返(うつしかへ)す。治承五年閏二月四日大相國淸盛入道靜海西八條の亭に薨じ給ふ。春秋六十四歳なり。子息宗盛卿その跡を繼ぎて、平氏一門の棟梁たり。七月十四日改元ありて、養和と號す。同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ。木曾殿その嫡子淸水冠者義高を人質に遣して和睦す。賴朝是を鎌倉に連れて歸り、かしづきて婿とせらる。同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す。越中國礪竝山(となみやま)以下所々の軍に木曾義仲に打負て、都に引返す。俣野五郎景久、齋藤別當實盛等皆討死せり。同七月木曾義仲北國より攻上りければ、平氏大に恐惑ひ、宗盛等の一門主上を守護して、西海に赴く。然れば淸盛公の舎弟池大納言賴盛はその母池尼賴朝を助けられし恩に依つて、鎌倉より内通ありて京都に留り給ふ。平氏の一門は福原にも溜(たま)らず、筑紫に向ひ、太宰府に至る。豐後の緒方三郎惟義に襲はれ、九國を離れて、四國に赴く。阿波民部重能(しげよし)是を迎へて、讃岐國屋嶋に内裏を造り、此所に暫く止まりて南海、山陽道を打靡けり。

[やぶちゃん注:「西海南海」「西海」は九州、「南海」は四国及び紀伊半島を指す。

「緒方惟義」(生没年不詳)。惟栄・惟能とも書く。豊後大野郡の郡領大神(おおが)氏の子孫で同郡緒方荘の荘司。平氏による大宰府掌握後には平重盛と主従関係を結んでいたが、頼朝挙兵後、付近の臼杵氏・長野氏らと平氏に反旗を翻して豊後国目代を追放、以後は中北九州における反平氏勢力の中核となった。寿永二(一一八三)年、豊後国守藤原頼輔から平氏追討の院宣と国宣を受けて平氏を大宰府から追放したが、宇佐宮焼打事件で遠流された(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「河野通淸」?~養和元(一一八一)年)伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本領とし、伊予権介に任じて河野介と称した。頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際、伊予国内で競合関係にあった高市(たけち)氏が平家と結んでいたことから、通清も同治承四(一一八〇)年の冬に挙兵、国中を管領して正税官物を抑留した。しかし、翌養和元年には平家方の備中国の住人沼賀入道西寂に攻められて討死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「治承四年六月に淸盛の計(はからひ)として、都を攝州福原に遷さる」治承四(一一八〇)年六月二日に京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれて、ここに正式に行宮が置かれ、清盛は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画していた(和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域。以上はウィキの「福原京」に拠る。次の注も同じ)。

「翌年十二月又舊都平安城に遷返す」「翌年」「十二月」はそれぞれ「同年」「十一月」の誤り。遷都から凡そ六ヶ月後の治承四(一一八〇)年十一月二十三日に京都へ還幸した。これは源氏の挙兵に対応するため、清盛が決断したとされる。

「同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ」「同二年」では「養和二年」となるので誤り。寿永二(一一八三)年が正しい。この「不和」とは、寿永二(一一八三)年二月、頼朝と敵対し敗れた源為義三男志田義広及び、頼朝から追い払われた源為義十男源行家ら叔父が義仲を頼って身を寄せ、この二人を庇護したことで頼朝と義仲の関係が悪化したことに起因する。別説として「平家物語」「源平盛衰記」では甲斐武田氏第五代当主武田信光が娘を義仲嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したともある。義高は同三月中に鎌倉に入っている模様である(ウィキの「義仲」に拠る)。

「かしづきて婿とせらる」「かしづきて」の「傅く」という動詞は①「大切に守る」・「大事に育てる」。②「世話を焼く」・「後見する」の謂いで、意味から高校生がしばしば間違えるが、謙譲の敬語では、ない。ここは②、「婿」は頼朝長女大姫の婿である。

「同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す」も前の誤りを構造上受けてしまうので、「同年」は寿永二(一一八三)年の誤りであると注しておく。「四月」十七日のことであった。

「越中國礪竝山」越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市及び石川県河北郡津幡町)で五月十一日に行われた倶利伽羅峠の戦い。

「俣野五郎景久」(?~寿永二(一一八三)年)相模国大庭御厨俣野郷の住人。身長六尺(約一八二センチメートル)を超える強力で相撲の名手とされる。治承四(一一八〇)年の石橋山の戦で平家方の兄大庭景親に従い、富士山北麓で甲斐源氏に敗戦、京都へ逃れた。その後、平維盛に従って六月一日、倶利伽羅合戦敗走後の加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原村地区)での篠原の戦いで敗れ、自害した。

「齋藤別當實盛」(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)は越前国の出身、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれた。彼は義仲の父源義賢(よしかた)が義朝長男鎌倉悪源太義平に大蔵合戦で討たれた際、幼い義賢次男であった駒王丸(後の義仲)を無事に木曾へ逃がした。保元・平治の乱においては上洛し、かつての主の敵ながら義朝に忠実な部将として仕え、義朝滅亡後は関東に帰還、平氏に仕えていた。義仲は恩人である実盛を生け捕りにして殺害しないように部下に伝えていたが、『味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評し』(以上はウィキ斎藤実盛より引用した)、また、義仲を愛し、従ってその愛惜を共有していた松尾芭蕉が「奥の細道」の途次、実盛の兜(かぶと)を蔵する多太(ただ)神社(現在の石川県小松市在)を訪れて実盛を偲び、

   むざんやな甲の下のきりぎりす

の名吟を残しているのは周知の通りである。

「阿波民部重能」田口成良(たぐちのしげよし 生没年不詳)のこと。阿波国・讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安三(一一七三)年の清盛による大輪田泊の築港では奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られている。鹿ケ谷の陰謀では首謀者の一人であった西光の四男広長が阿波国阿波郡柿原(現阿波市吉野町)にあり、清盛の命により成良が柿原に襲撃して広長を討ち取っている。治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛、平重衡の南都焼討で先陣を務め、美濃源氏の挙兵では美濃国へ出陣するも蹴散らされて被害を蒙っている。寿永二(一一八三)年七月の平氏の都落ちの後は四国に戻って讃岐国を制圧、屋島での内裏造営を行って四国の武士たちを取りまとめた。一ノ谷合戦・屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦ったが、屋島の戦いの前後に源義経率いる源氏方に伯父の田口良連、弟の桜庭良遠が捕縛襲撃され、志度合戦では嫡子の田内教能が義経に投降したとされる。「平家物語」によれば、嫡子教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、三百艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたともされる。但し、「吾妻鏡」には平氏方捕虜として成良の名が見えており、真相ははっきりしない。延慶本「平家物語」によれば、成良は主人を裏切った不忠の者として斬罪が決められるや、怒って数々の暴言を吐き、御家人達の不興を買ったために籠に入れられて火あぶりの刑にされたともある(以上はウィキの「田口成良」に拠る)。

「打靡けり」制圧した、の意。都落ち以降の平家をひたすら西海への遁走と滅びへの勾配としか捉えない「平家物語」を主軸とした文学的仏教的読みが多いが、私はそうは思っていない。例えば上横手雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、清盛を中心とした平家には、『畿内における軍事政権の樹立が困難であるならば、太宰府を中心とする九州ないしは内海の地域的軍事政権の樹立が構想されていたと考えてよ』く、『其の後の政治的推移によって実現はしなかったものの、のちに都落ちした平氏が最初に根拠地としたのは太宰府だった。そして地域的軍事政権とは、思い切った表現をするんならば、太宰府幕府(ないしは太宰府国家)のことなのである』と述べられ、治承三(一一七三)年の鹿ヶ谷の謀議を契機とする『クーデターによって成立した平家政権は、同四年の富士川での敗戦を契機として、養和元年以来、相次いで斬新な政策を打ち出し、武家政権への脱皮をとげつつあった。ただ、それらの政策が実を結ぶには、時すでにおそく、事態の転回は、より急速であった』と、目から鱗の歴史学上の解説されておられるが、まさにここでの「北条九代記」の筆者の書き振りと、そうした真相とが軌を一にしているように思われて私には甚だ興味深いのである。]

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