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2012/11/27

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート7〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

國衡は城を出でて、出羽の道より大關山を越える所に、和田小太郎義盛、大高宮(おほだかみや)の邊にして追詰めければ、國衡深田に馬を入れて打てども上(あが)らず、終に首をぞ取られける。金十郎、勾當(こうたう)八、赤田次郎が籠りし根無藤(ねなしふぢ)の城も落ちて郎等或は討死し、勾當八、赤田以下三十餘人は生捕(いえどら)る。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き、残り総てを示しておく。

〇原文

十日丁酉。(前略)

又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳拔于先陣。及昏黑。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挾十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕號高楯黑也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等彌得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。彌結烏合之群。於根無藤與四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗績。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岡百度詣。是奥州追討御祈精也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。(前略)

又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。其の後退散の武兵等、泰衡の陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗の由、之を告ぐ。泰衡、周章し度を失ひて逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦、逐電す。二品、其の後を追はしめ給ふ。扈從の軍士の中、和田小太郎義盛、先陣に馳せ拔け、昏黑(こんこく)に及びて、芝田郡大高宮邊に到る。西木戸太郎國衡は、出羽道を經て、大關山を越えんと欲す。而して今、彼の宮の前路の右手の田の畔(あぜ)を馳せ過ぐ。義盛、之を追ひ懸け、返し合はすべしの由を稱す。國衡、名謁(なの)らしめ、駕を廻らすの間、互ひに弓手(ゆんで)に相ひ逢ひ、國衡、十四束の箭(や)を挾み、義盛、十三束の箭を飛ばす。其の矢、國衡、未だ弓箭(きゆうせん)を引かざるに、國衡の甲(よろひ)の射向(いむけ)の袖を射融(いとほ)して、膊(かひな)に中(あた)るの間、國衡は疵を痛みて開き退く。義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く。時に重忠、大軍を率して馳せ來たり、義盛・國衡の中を隔つ。重忠が門客、大串次郎、國衡に相ひ逢ふ。國衡、駕する所の馬は、奥州第一の駿馬〔九寸(くき)。〕高楯黑(たかだてぐろ)と號すなり。大肥満の國衡、之に駕し、毎日必ず三ケ度、平泉の高山へ馳せ登ると雖も、汗を降(くだ)さざるの馬なり。而るに國衡、義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣(さしお)きて、深田に打ち入るの間、數度、鞭を加ふと雖も、馬、敢へて陸(くが)に上(あが)る能はず。大串等、彌々理を得、梟首す。太だ速かなり。亦、泰衡が郎從等の金十郎・匂當(こうたう)八・赤田次郎を以つて、大將軍と爲し、根無藤(ねなしふぢ)邊に城郭を搆へるの間、三澤安藤四郎・飯富源太已下、猶ほ追ひ奔り攻め戰ふ。凶徒、更に雌伏の氣無し。彌々烏合(うがふ)の群を結び、根無藤と四方坂の中間に於いて、兩方の進退、七ケ度に及ぶ。然るに、金十郎、討ち亡ぼさるるの後は、皆、敗績す。匂當八・赤田次郎已下、生け虜らるもの卅人なり。此の所の合戰、無爲(ぶゐ)なるは、偏へに三澤安藤四郎の兵略に在る者なり。

今日鎌倉に於いて、御臺所、御所中の女房數輩を以つて、鶴岡へ百度詣で有り。是れ、奥州追討の御祈精なりと云々。

 

・「昏黑」日没。日が暮れて暗くなることをいう。

・「芝田郡大高宮」現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部にある大高山神社付近。個人のHP「畑の中の地元学」の「藤原国衡終焉の地はブルベリー農園?」に当該地の紹介がある。

・「大關山」「角川日本地名大辞典」は笹谷峠とする。「奥の細道」に出る有耶無耶関跡があることで知られる難所。宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高は九〇六メートル。

・「射向の袖」鎧の左側の袖。

・「開き退く」戦陣では「退く」は忌み言葉であることから退却することを「開く」と言った。その影響が叙述に出たものであろう。

・「義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く」これは、大将軍を討ち取るということになるため、義盛も――止めの二の矢をわざと難度の高い遠矢で射ることを選択し(恐らくは戦後の論功行賞で、より殊勲なる戦功に相当すると考えたからであろう)――矢を構えたままやや後退したため、両者退く格好となり、その間に有意な間隙が生じてしまったのである。

・「大串次郎」大串重親(生没年未詳)。武蔵国出身。『宇治川の戦いにおいて、川を渉る際に馬を流され、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという』(高校の古文ではかつて教科書に必ず載っていた名(迷)場面である)。『源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて引き返した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる』(以上はウィキの「大串重親」より引用した)。

・「九寸(くき)」「寸(き)」は馬の丈(背の部分までの高さ)を測るのに用いた語。長さは「寸(すん)」に同じ。標準となる四尺(約一二〇センチメートル)を略し、四尺一寸を「ひとき」、四尺二寸を「ふたき」、三尺九寸を「返りひとき」などと称した。これは四尺九寸、実に一五〇センチメートル弱となり、この高楯黑という名の馬(いい名だ)、当時の馬としては巨漢である。

・「道路を閣(さしお)きて」目的語が道路であるから、この「さしおく」の「おく」は、隔てるの意で、道を踏み違えたことを指す。以下の泥田にはまり込んで、首を掻かれる國衡のシーンは、無論、「平家物語」の義仲最期を意識している。

・「根無藤」現在の宮城県刈田郡蔵王町円田字根無藤。ネット上を見ると、この地名の由来には、前九年の役で劣勢となった安倍一族が陣を引き払う際、大将安倍貞任が公孫樹の根元に藤で出来た鞭を挿して去ったが、その藤が芽を出し、公孫樹に絡みつく大木となったという説と、いや、刺したのは勝利者となった源頼義だとする説などがあるようである。

・「四方坂」四方峠。現在の宮城県刈田郡蔵王町平沢及び柴田郡村田町足立にある。標高三四八メートル。

・「三沢安藤四郎」不詳。陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した安倍貞任の子孫を自称した安東氏(津軽安藤氏とも呼称)の関係者とも言われる。]

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