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2012/11/29

北條九代記 無量光院の僧詠歌

    ○無量光院の僧詠歌

 其比平泉の無量光院(むりやうくわうゐん)の住持の僧助公(じよこう)法師は學智行德の道人なり。多年泰衞と師檀(したん)の契(ちぎり)淺からざりしに、思(おもひ)の外なる兵亂起りて、國家悉く滅亡す。泰衡の館(たち)は大厦高堂(たいかうだう)灰燼となり、數町(すちやう)の郭地、寂寞として飄々たる秋の風は響(ひびき)を失ひ、蕭々たる夜の雨は音絶えて、心細き事限なし。今夜は名におふ九月十三夜この人世にあらましかば、傾く月にあこがれて折から興を催し給ひて、人々集り、吟哦(ぎんが)の遊(あそび)もありなん。移變(うつりかは)る世の中とて、只我獨(ひとり)のみ詠(なが)むる事よと漫(そゞろ)に涙の浮びければ、一首の歌を吟詠す。是を聞きける人、鎌倉殿に言上して、助公法師は憤(いきどほり)を含み、逆意を企つる由風聞しければ、即ち搦(からめ)取りて、梶原景時に子細を推問せらる。助公申されけるは「抑(そもそも)無量光院と申すは鎭守府將軍藤原秀衡の建立として、宇治の平等院の地境(ちけい)を遷(うつ)し、丈六の彌陀を安置して本尊とす。堂内四壁の扉には觀經(くわんぎやう)の説相(せつさう)を圖畫(づぐわ)し、三重の寶塔甍(はうたふいらか)既に雲に輝き、院内の莊嚴(しやうごん)は、光り、又、空に映ず。しかのみならず、出羽陸奥(みちのく)兩國の中に一萬餘の村里あり。淸衡、武貞、基衡に至る代々伽藍を建立し、秀衡父の讓(ゆづり)を承(う)け、佛餉(ぶつしやう)燈油の寄附を致し、九十九年以來(このかた)堂舍の建立數を知らず。西は白川の關を境ひ、東は外濱(そとのはま)に至る。中央に衣の關を構へて、左は高山に隣り、右は長途を經(ふ)る。南北の嶺連り亙つて、産業は海陸を兼ねたり。三十餘里の行程(ぎやうてい)は竝木(なみき)の櫻、春毎に雪か花かと怪(あやし)まる。駒形山の峯よりも麓(ふもと)に流るゝ北上川、衣川に續きて、宦照が小松楯(だて)、成通(なりみち)が琵琶柵(びはのしがらみ)、皆、翠岩(すゐがん)の間にあり。衣川の舊き跡は、秋草空(むなし)く鏁(とざ)す事數十町、礎(いしずゑ)殘りて苔生(む)し、城郭の名のみ聞えて、狐兎の栖となり果てたり。是等の事を思續(おもひつゞ)くるに、誰か哀(あはれ)を知ざらざらん。折しも長月の十三夜、今年は例に替りて獨り詠(なが)むる月影の更(ふけ)行くまゝに曇りがちなるを見て、

  昔にもあらでぞ夜はの憂(うれは)しく月さへいとど曇りがちなる

  浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし

折節懷舊の催す所を聞きて讒(さかしら)致す者ありて、當時を恨み憤ると風聞仕る事は、前世の報(むくい)と存ずるなり。如何にも計ひ給ふべし。科(とが)なき身には力及ばず」とぞ申されける。景時、涙を流し歌の樣(さま)をはうびして、賴朝卿に斯(かく)と申せば、誠に哀(あはれ)と思召(おぼしめ)して、「この上(うへ)は還住(げんぢう)せられよ、相違の事あるべからず」とて賞(しやう)を加へてぞ歸されける。

[やぶちゃん注:初代藤原清衡は中尊寺、二代藤原基衡は毛越寺を造営したが、三代藤原秀衡が建立したのが無量光院。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、「吾妻鏡」には無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁であった「平泉館」があったと記載されている。無量光院は宇治の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した(新御堂とは毛越寺の新院の意)。現代の発掘調査の結果、四囲は東西約二四〇メートル・南北約二七〇メートル・面積約六・五ヘクタールと推定され、平等院(現在の境内は約二ヘクタール)よりも遙かに規模が大きかったと推定されている。参照したウィキの「無量光院跡」によれば、『本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた』。本文の無量光院の由来は「吾妻鏡」の九月十七日及び二十三日の条を、また、衣川周辺の様子については同九月二十七日の条を引いている。

「助公」この人物に纏わるエピソードは、頼朝帰鎌後、当年も押し迫った「吾妻鏡」文治五 (一一八九) 年十二月二十八日の条(これが当年の最終記載である)に現われる。即ち、これは事実に即して鎌倉での出来事として終始描かれているのだが(だから前話の最後でも頼朝の帰鎌を語っている)、読む者は無量光院の描出から自然に尋問の場へと移って、恰も裁きが無量光院で行われているような錯覚を与えて素晴らしい、と私は感じている。

〇原文

廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人。〔号助公。〕爲囚人參著。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。淸衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。

 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月も曇ぬる哉

如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日癸丑。平泉内、無量光院の供僧一人、〔助公と号す。〕囚人と爲りて參著す。是れ、泰衡の跡を慕い、關東を反(そむ)き奉らんと欲するの由、風聞有るに依りて、召し禁(いまし)めらる所なり。今日、景時を以つて子細を推問せらるるの處、件の僧、謝し、申して云はく、「師資相承(ししさうじやう)の間、淸衡已下四代の皈依(きえ)、佛法の惠命(ゑみやう)を續(つ)ぐなり。爰に去ぬる九月三日、泰衡誅戮(ちうりく)を蒙るの後、同十三日の夜、天、陰(くも)り、名月、明らかならざるの間、

 昔にも非らずなる夜のしるしには今夜(こよひ)の月も曇りぬるかな

此の如く詠じ畢んぬ。此の事、更に當時の儀を蔑如(べつじよ)し奉るに非ず、 只だ折節 、懐舊の催す所なり。異心無しと云々。

景時、頗る之を褒美す。則ち、此の由を二品に達す。還へりて御感有りて、其の身を厚免せられ、剩さへ賞を加へらると云々。

・「師資相承」訓読すると「師資、相ひ承(う)く」で、師の教えや技芸を受け継いでいくこと、また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくことをいう。「師資」は師匠・先生または師匠と弟子の意とも。

・「昔にも非らずなる夜のしるしには今夜の月も曇りぬるかな」初句が硬い。曇るのは勿論、涙のせいでもある。歌意は、

――昔日の栄華は最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……そのしるしに……今夜の月も……曇って見えぬことよ……

 

「昔にもあらでぞ夜はの憂しく月さへいとど曇りがちなる」前掲通り、「吾妻鏡」とは、かなり異なる。連体中止法が利いて、作者の感涙がはっきりと伝わる。俄然、こちらの方がうまい、と、私は思うのである。通釈しておく。

――昔日の面影も、最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……今、たった一人、憂いに沈んでいる……だから……月さえも、ますます曇りがちに……なる……

「浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし」前掲通り、「吾妻鏡」には不載。出所不明。識者の御教授を乞う。「浮雲」は「憂き」を掛けるが、二句目の音律が今一つである(と私は思う)。通釈しておく。

――漂う雲よ……遮る雲よ! お前は何と情けのないことか!……秋風よ! お前を、我がものにしてでも……私は……月を見たい……

 

さても、他にも注すべきところはあろうが、私はこの寂寥の風雅を、これ以上、私の下らぬ注で穢したくないと思う。……]

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