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2012/11/18

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート1〈頼朝奥州追伐進発〉

      ○賴朝卿奥入泰衡滅亡

[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]

賴朝仰せけるは「義經を討てまゐらせしは忠に似たりといへども兩度の宣旨賴期が度度(どど)の使を用ひず、仰せを背きて筵引に及ぶ事、其科(とが)遁(のがれ)難し」憤(いきどほり)深く思ひて、 京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける。文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる。去んぬる治承四年千葉介軍勢を率(そつ)して、賴朝の御陣にはせまゐりしより諸國皆隨付(したがひつ)きたるその例に依るべしとなり。往初(そのかみ)入道前將軍賴義勅を蒙りて、安陪貞任(あべのさだたふ)、鳥海宗任(とりのうみむねたふ)を退治の時の御旗の如く、一丈二尺二幅(はば)なり。白絲を以て伊勢大神宮、八幡大菩薩と云ふ文字を上に竝べて縫(ぬは)せられ、下には山鳩二羽差向ひて縫付けたる。今度奥州追伐(つゐばつ)の御旗なれば、その佳例(かれい)をぞ移されたる。同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途(かどいで)し給ふ。千葉介常胤、八田(やた)右衞門尉知家は東海道の大將として、常陸、下総兩國の勢を率して宇太、行方(なめかた)を經て、岩崎より隅田川の湊(みなと)にて渡逢(わたりあ)ふ。北陸道は上野國高山、小林、大胡(おほご)、左貫(さぬき)の軍勢を催し、越後國より出羽國に押懸(おしかゝ)り、念種關(ねじゆがせき)にして寄合(よせあふ)べしと定らる。賴朝卿は大手に向ひ、中路(なかみち)より攻下(せめくだ)り給ふ。先陣は畠山次郎重忠なり。和田義盛、梶原景時は軍奉行(いくさぶぎやう)を承る。既に陸奥國伊達郡(だてのこほり)阿津樫山(あつかしやま)に著き給ふ。

[やぶちゃん注:〈頼朝奥州追伐進発〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は「吾妻鏡」よりも浅井了意作「将軍記」に類似する、とある(「将軍記」なる作品は私は未見)。

「奥入」は「おくいり」と読む。

「京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける」泰衡が討ち取った義経の首の到着は同月十三日であるから、わずか十日余りで泰衡の追討を決している。これはどうも最初からそういう計画であったことがしっかり臭ってくる速さである。なお、ここでは恰も迅速に宣旨が出たように読めてしまうが、実際には朝廷側が難色を示した。以下、「吾妻鏡」でその経緯を順に見よう。まず、最初は文治五(一一八九)年六月二十四日の条から。

 

〇原文

廿四日壬子。奥州泰衡。日來隱容與州科。已軼反逆也。仍爲征之。可令發向給之間。御旗一流可調進之由。被仰常胤。絹者朝政依召献之云々。及晩。右武衞消息到來。奥州追討事。御沙汰之趣。内々被申之。其趣。連々被經沙汰。此事。關東鬱陶雖難默止。義顯已被誅訖。今年造太神宮棟。大佛寺造營。彼是計會。追討之儀。可有猶豫者。其旨已欲被献殿下御教書云々。又御厩司事。就被免仰。申領状訖云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

廿四日壬子。奥州の泰衡、日來、與州を隱容するの科(とが)、已に反逆に軼(す)ぐるなり。仍て之を征せんが爲に、發向せしめ給ふべきの間、御旗一流、調進すべきの由、常胤に仰せらる。絹は、朝政、召しに依りて之を献ずと云々。

晩に及びて、右武衞(うぶゑい)が消息到來す。奥州追討の事、御沙汰の趣、内々に之を申さる。其の趣、連々沙汰を經らる。此の事、關東の鬱陶(うつたう)、黙止し難しと雖も、義顯(よしあき)已に誅され訖んぬ。今年は造太神宮の上棟、大佛寺の造營、彼れ是れ、計會(けいくわい)す。追討の儀、猶ほ豫有るべしてへれば、其の旨、已に殿下、御教書を献ぜられんと欲すと云々。(以下略)

・「調進」新調すること。

・「朝政」頼朝直参の家臣小山朝政(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)。奥州合戦でも活躍した。

・「右武衞」右兵衛の唐名で、ここでは右兵衛督であった親幕派の公卿一条能保のこと。

・「連々沙汰を經らる」何度も審議をなさった。

・「關東の鬱陶、黙止し難しと雖も」幕府の苛立ち、これは、朝廷としても看過することも出来難きことではあるけれども。

・「義顯」幕府の謀叛人義経の二度目の強制改名の名。当初は「義經の妾白拍子靜」の注で示したように親幕派(但し先の一条能保とは不仲)の関白藤原兼実の息子の「良経」と同訓であるのを憚って「義行」と改めた。ところが、その後、義経の逃亡が長引き、隠れ住む先も定かならざる事態の中で、これは「義行」(よく行く)という呼称が悪いとして「義顕」(よく顕われる)に改名をしていた。

・「造太神宮の上棟」伊勢神宮の式年遷宮のこと。

・「大佛寺」東大寺大仏殿。

・「殿下」藤原兼実。

 

同年六月二十五日の条。

〇原文

廿五日癸丑。奥州事。猶可被下追討 宣旨之由。重被申京都云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿五日癸丑。奥州の事、猶ほ追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて京都へ申さると云々。

 

同年六月二十六日の条。

〇原文

廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意与州之間。依有宣下旨也云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿六日甲寅。奥州に兵革(ひやうがく)有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三。〕を誅す。是れ、與州に同意の間、宣下の旨、有るに依りてなりと云々。

既出であるが出す。それでも奥州進発に変化がないのが不審な向きもあるかもしれないが、実は、この事実をこの時点では頼朝はこの事実を知らないのである。現在の「吾妻鏡」の記事はアップ・トゥ・デイトに書かれたものではなく、ずっと後年になって諸資料を基にして編集執筆されたものなのである。

 

同年六月二十七日の条。

〇原文

廿七日乙夘。此間奥州征伐沙汰之外無他事。此事。依被申宣旨。被催軍士等。群集鎌之輩。已及一千人也。爲義盛。景時奉行。日來注交名。前圖書允爲執筆。今日覽之。而武藏下野兩國者。爲御下向巡路之間。彼住人等者。各致用意。可參會于御進發前途之由。所被觸仰也。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿七日乙夘。此の間、奥州征伐の沙汰の外他事無し。此の事、宣旨を申さるるに依りて、軍士等を催さる。鎌倉へ群集(ぐんじゆ)するの輩、已に一千人に及ぶなり。義盛、景時を奉行として、日來、交名(けうみやう)を注す。前圖書允(さきのずしよのじよう)執筆たり。今日、之を覽る。而るに武藏・下野兩國は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は、各々用意を致し、御進發の前途に參會すべきの由、觸れ仰せらるる所なり。

・「軍士等を催さる」諸兵徴集のお触れをお出しになられた。

・「日來、交名を注す」日単位で到着した武士より順に名前を届け出させる。

・「前圖書允執筆たり」「前図書允」は不詳「執筆」は書記係。

 

同年六月二十八日の条。

〇原文

廿八日丙辰。鶴岡放生會。來月朔日可被遂行之旨。有其沙汰。是於式月者。定可有御坐奥州之上。爲泰衡征伐御祈禱。及此儀云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿八日丙辰。鶴岡の放生會、來月朔日に遂行せらるべきの旨、其の沙汰有り。是れ、式月に於いては、定めし奥州に御坐有るべきの上、泰衡征伐の御祈禱と爲し、此の儀に及ぶと云々。

鶴岡八幡宮寺の放生会は通常は八月十五日に行われた(実際に当日は頼朝は奥州征伐に出陣中で、鶴岡八幡宮では当八月十五日、式日であるので再度、放生会が行われている)。

 

同年六月二十九日の条。

〇原文

廿九日丁巳。日來御禮敬愛染王像。被送于武藏慈光山。以之爲本尊。可抽奥州征伐御祈禱之由。被仰含別當嚴耀幷衆徒等。當寺者。本自所有御歸依也。去治承三年三月二日。自伊豆國。遣御使盛長。令鑄洪鐘給。則被刻御署名於件鐘面云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿九日丁巳。日來御禮敬(らいきやう)の愛染王像、武藏慈光山に送られ、之を以て本尊と爲し、奥州征伐の御祈禱を抽(ぬき)んずべきの由、別當嚴耀幷びに衆徒等に仰せ含めらる。當寺は、本より御歸依有る所なり。去ぬる治承三年三月二日、伊豆國より、御使の盛長を遣はし、洪鐘を鑄しめ給ひ、則ち御署名を件の鐘面に刻まると云々。

・「愛染王像」愛染明王像。通常は一面六臂の忿怒相で、頭部には如何なる苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠を頂き、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座る。弓箭を持っていて身体は真紅、後背に日輪を背負って表現されることが多い。また、天に向かって弓を引いたり、騎馬であったりと、武士にも好まれた。

・「慈光山」埼玉県比企郡都幾川(ときがわ)村西平(にしたいら)にある天台宗都幾山慈光寺。

・「治承三年」西暦一一七九年。

 

同年六月三十日の条。

〇原文

卅日戊午。大庭平太景能者。爲武家古老。兵法存故實之間。故以被召出之。被仰合奥州征伐事。曰。此事窺天聽之處。于今無勅許。憖召聚御家人。爲之如何。可計申者。景能不及思案。申云。軍中聞將軍之令。不聞天子之詔云々。已被經奉聞之上者。強不可令待其左右給。隨而泰衡者。受繼累代御家人遺跡者也。雖不被下綸旨。加治罸給。有何事哉。就中。群參軍士費數日之條。還而人之煩也。早可令發向給者。申狀頗有御感。剩賜御厩御馬。〔置鞍。〕小山七郎朝光引立庭上。景能在緣。朝光取差繩端。投景能前。景能乍居請取之。令取郎從。二品入御之後。景能招朝光。賀云。吾老耄之上。保元合戰之時。被疵之後。不行歩進退。今雖拝領御馬。難下庭上之處。被投繩。思其芳志。直千金云々。二品又感朝光所爲給云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

卅日戊午。大庭平太景能は武家の古老たり。兵法の故實を存ずるの間、故(ことさら)に以て之を召し出だされ、奥州征伐の事を仰せ合せられて曰はく、「此の事、天聽を窺ふの處、今に勅許無し。憖(なまじ)ひに御家人を召し聚む、之を如何と爲す。計り申すべし。」てへれば、景能、思案に及ばず、申して云はく、「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔(みことのり)を聞かず。」と云々。

「已に奏聞を經らるるの上は、強ちに其の左右(さう)を待たしめ給ふべからず。隨つて、泰衡は累代御家人の遺跡を受け繼ぐ者なり。綸旨(りんし)を下されずと雖も治罸(ぢばつ)を加へ給はんは何事か有らんや。就中(なかなんづく)、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり。早く發向せしめ給ふべし。」てへれば、申し状、頗る御感あり。剰(あまつさ)へ御厩(みうまや)の御馬〔鞍を置く。〕を賜はる。小山七郎朝光、庭上に引き立つ。景能は緣に在り。朝光、差繩の端を取り、景能の前に投げる。景能、居乍ら、之を請け取り、郎從に取らしむ。二品入御の後、景能、朝光を招き賀して云はく、「吾れ老耄(らうもう)の上、保元合戰の時、疵を被るの後、行歩進退せず。今、御馬を拜領すと雖も、庭上に下り難きの處、繩を投げらる。其の芳志を思ふに値千金。」と云々。

二品、又、朝光が所爲に感じ給ふと云々。

・「大庭平太景能」大庭景義(大治三(一一二八)年)?~承元四(一二一〇)年)。既出で、知られた武将であるが、ここでは主役級であるので解説しておく。景能とも表記。鎌倉権五郎景政の曾孫とされる。以下、ウィキの「大庭景義」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(一一五六年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した』。『治承四年(一一八〇年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという』(景親は梟首)。『その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された』。『後に景義は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ』が、出家の理由については「吾妻鏡」などに僅かに記述があるのみで、『今日でも謎が多いが、それによれば建久四年(一一九三年)の八月、大庭景義は同じ相模の有力武士の岡崎義実とともに、老齢を理由に出家したことになっている。しかしわずか二年後に景義は「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま三年を過ごして参りました」と書面を奉じ、許されたとある』ことから、『この時期に景義らが何らかの事件により失脚した可能性が高いと想定される』とある。

・「憖(なまじ)ひに」無理矢理に。

・「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔を聞かず。」「十八史略」に載る以下の故事に基づく(原文及び書き下し文・語注の一部は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ」を参考にさせて頂いたが、書き下し文の一部に手を加えてある)。

〇原文

六年、匈奴寇上郡雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐厲次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上棘門軍兒戲耳。

〇書き下し文

六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐厲(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備へしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せ入る。大將以下、騎して送迎す。已にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先驅曰はく、「天子、且に軍門に至らんとす。」と。都尉曰はく、「軍中には將軍の令を聞きて、天子の詔を聞かず。」と。上、乃ち使ひをして節を持し、將軍亜夫に詔せしむ。乃ち言を伝へて門を開かしむ。門士、車騎に請ふて曰はく、「將軍約す、軍中は驅馳(くち)するを得ず。」と。上、乃ち轡(ひ)を按じ、徐行して營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上、曰く、「嗟乎、此れ、真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ。」と。

「上郡」は陜西省の地名。「雲中」は山西省の地名。「周亞夫」(?~前一四三年)は周勃の子で、兄の周勝之が人を殺して領国を召し上げられたため、その後を継いで条侯(絳侯)となった。「細柳・覇上・棘門」陜西省の地名。長安の近郊。「屯・次」何れも留まって守備すること。「轡を按じ」轡(くつわ)を引いて馬を抑えること。

・「治罸」治罰。取り締まり、罰すること。景能は泰衡は家来筋に当たるのであるから、綸旨なしに私罰しても構わない、と言うのである。

・「就中、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり」中でも特に、群参しておる兵士らが無為に日を費やすというのは、却って戦意が殺(そ)がれ、殿の支障ともなりまする。

 

「文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる」「吾妻鏡」を引く。

〇原文

八日丙寅。千葉介常胤献新調御旗。其長任入道將軍家〔賴義。〕御旗寸法。一丈二尺二幅也。又有白糸縫物。上云。伊勢大神宮八幡大菩薩云々。下縫鳩二羽。〔相對云々。〕是爲奥州追討也。治承四年。常胤相率軍勢。參向之後。諸國奉歸往。依其佳例。今度御旗事。別以被仰之。絹者小山兵衛尉朝政進之。先祖將軍輙亡朝敵之故也。此御旗。以三浦介義澄爲御使。被遣鶴岡別當坊。於宮寺。七ケ日可令加持之由被仰云々。又下河邊庄司行平。依仰調献御甲。今日自持參之。開櫃盖置御前。相副紺地錦御甲直垂上下。御覽之處。冑後付笠標。仰曰。此簡付袖爲尋常儀歟。如何者。行平申云。是曩祖秀郷朝臣佳例也。其上。兵本意者先登也。進先登之時。敵者以名謁知其仁。吾衆自後見此簡。可必知某先登之由者也。但可令付袖給否。可在御意。調進如此物之時。用家樣者故實也云々。于時蒙御感。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日丙寅。千葉介常胤、新調の御旗を献ず。其の長(たけ)、入道將軍家〔頼義〕の御旗の寸法に任せて、一丈二尺二幅なり。又、白糸の縫物有り。上に云はく、伊勢大神宮・八幡大菩薩と云々。

下に鳩二羽〔相ひ對すと云々。〕を縫ふ。是れ、奥州追討の爲なり。治承四年、常胤、軍勢を相ひ率いて參向の後、諸國歸往し奉る。其の佳例に依りて、今度の御旗の事、別して以て之を仰せらる。絹は小山兵衛尉朝政、之を進ず。先祖の將軍、輙(たやす)く朝敵を亡すの故なり。此の御旗は、三浦介義澄を以て御使と爲し、鶴岡別當坊に遣はされ、宮寺に於て七箇日加持せしむべきの由、仰せらると云々。

又、下河邊庄司行平、仰せに依りて御甲(よろひ)を調へ献(まつ)る。今日、自ら之を持參し、櫃(ひつ)の蓋(ふた)を開き、御前に置く。紺地錦の御甲直垂上下を相ひ副(そ)ふ。御覽ずるの處、冑(かぶと)の後に笠標(かさじるし)を付く。仰せて曰はく、「此の簡(ふだ)、袖に付くるを尋常の儀と爲すか。如何に。」てへれば、行平、申して云はく、「是れ、曩祖(なうそ)秀郷朝臣の佳例なり。其の上、兵の本意は先登なり。先登に進むの時、敵は名謁(なのり)を以て其の仁を知る。吾が衆は後より此の簡を見て、必ず某(なにがし)先登の由を知るべき者なり。但し、袖に付へしめ給ふべきや否やは御意に在るべし。此の如きの物を調進の時は、家の樣(ためし)を用ゐるは故實なり。」と云々。

時に御感を蒙る。

・「一丈二尺」約三・六メートル。

・「先祖の將軍」平将門を滅ぼした藤原秀郷。小山朝政は秀郷の直系子孫とされる。

・「下河邊庄司行平」彼も藤原秀郷流小山氏庶流の下河辺氏の直系。

参考鳩は、源氏の白鳩(八幡宮の門の額の八の字は鳩になっている)。参考先祖將軍は、平将門を討伐した藤原秀郷。参考朝敵は、平将門。

 

「鳥海宗任」安倍貞任の弟安陪宗任。鳥海の柵の主であったことから鳥海三郎とも呼ばれた。

「同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途し給ふ。」この間、七月十二日に追討の宣旨受取の飛脚が発せられるが、「吾妻鏡」十六日の条には、

〇原文

七月小十六日甲戌。右武衞〔能保〕使者後藤兵衛尉基淸。幷先日自是上洛飛脚等參著。基淸申云。泰衡追討 宣旨事。攝政公卿已下。被經度々沙汰訖。而義顯出來。此上猶及追討儀者。可爲天下大事。今年許可有猶豫歟之由。去七日被下 宣旨也。早可達子細之由。帥中納言相觸之。可爲何樣哉云々。令聞此事給。殊有御鬱憤。軍士多以豫參之間。已有若干費。何期後年哉。於今者。必定可令發向給之由。被仰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日甲戌。右武衞〔能保。〕が使者の後藤兵衛尉基淸、幷びに先日是より上洛する飛脚等參著す。基淸、申して云はく、「泰衡追討の宣旨の事、攝政公卿已下、度々沙汰を經られ訖んぬ。而るに義顯(よしあき)出で來る。此の上、猶ほ追討の儀に及ぶは、天下の大事とたるべし。今年許りは猶豫(いうよ)有るべきかの由、去る七日、宣旨を下さるなり。早く子細を達すべしの由、帥中納言、之を相ひ觸る。何樣(いかやう)たるべきやと云々。

此の事を聞かしめ給ひ、殊に御鬱憤有り。「軍士多く以て豫參の間、已に若干(そくばく)の費へ有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必定發向せしめ給ふべし。」の由、仰せらると云々。

「後藤兵衛尉基淸」後藤基清(?~承久三(一二二一)年)実父は佐藤仲清(佐藤義清(西行)の兄弟)。後に後藤実基の養子となった。源頼朝に仕え、元暦三(一一八五)年の屋島の戦いに参加したが、後に娘が一条能保の妻となった関係上、在京御家人として一条能保の家士となっていた。この後、正治元(一一九九)年に源通親への襲撃を企てた三左衛門事件で讃岐国守護を解任され、それ以後は後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となり、承久の乱では後鳥羽上皇方について敗北、幕府方についた子の基綱に処刑された(以上はウィキの「後藤基清」に拠る)。

・「帥中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。元暦元(一一八四)年前後に頼朝によって実質的な初代関東申次役に任ぜられたと考えられている。

・「若干」沢山。

以下、十七日に奥州追討軍の部署定めが行われている。筆者はこれも本文執筆の参考にしているので引いておく。

〇原文

十七日乙亥。可有御下向于奥州事。終日被經沙汰。此間。可被相分三手者。所謂東海道大將軍。千葉介常胤。八田右衞門尉知家。各相具一族等幷常陸。下総國兩國勇士等。經宇大行方。廻岩城岩崎。渡遇隈河湊。可參會也。北陸道大將軍。比企藤四郎能員。宇佐美平次實政等者。經下道相催上野國高山。小林。大胡。佐貫等住人。自越後國。出出羽國念種關。可遂合戰。二品者大手自中路。可有御下向。先陣可爲畠山次郎重忠之由。召仰之。次合戰謀。有其譽之輩。無勢之間。定難彰勳功歟。然者可被付勢之由被定。仍武藏。上野兩國内黨者等者。從于加藤次景廉。葛西三郎淸重等。可遂合戰之由。以義盛。景時等被仰含。次御留守事。所仰大夫屬入道也。隼人佑。藤判官代。佐々木次郎。大庭平太。義勝房已下輩可候云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日乙亥。奥州于御下向有るべき事、終日沙汰を經らる。此の間、「三手に相ひ分けらるべし。」てへり。所謂、東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し、宇太(うだ)・行方(なめかた)を經て、岩城(いはき)・岩崎を廻り、遇隈河(あぶくまがは)の湊(みなと)を渡り、參會すべきなり。北陸道の大將軍は比企藤四郎能員・宇佐美平次實政等は、下道を經(へ)、上野國高山・小林・大胡(おほご)・左(さぬき)貫等の住人を相ひ催し、越後國より出羽國念種關(ねんじゆがせき)へ出でて、合戰を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山次郎重忠たるべきの由、之を召し仰す。次に合戰の謀(はかり)は、「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功を彰(あらは)し難からんか、然らば、勢を付けらるべし。」の由、定めらる。仍りて武藏・上野兩國内の黨の者等は、加藤次景廉・葛西三郎淸重等に從ひて合戰を遂ぐべきの由、義盛・景時等を以て仰せ含めらある。次で御留守の事は、大夫屬入道に仰す所なり。隼人佑(すけ)・藤判官代・佐々木次郎・大庭平太・義勝房已下の輩は候ふべしと云々。

・「東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し」この「東海道」は海岸通りを指し、現在の常磐線のルートを言う語。常陸は八田が守護、下総は千葉が守護であった。

・「宇太」現在の福島県浜通り北端の旧宇多郡。現在の相馬市。

・「行方」現在の茨城県南東部の行方市及び潮来市一帯。

・「岩城」現在の福島県いわき市。

・「岩崎」現在の福島県小名浜市岩出岩崎。小名浜港から北方約五キロメートルの内陸。

・「遇隅河の湊」現在の宮城県亘理(わたり)町高須賀地区。阿武隈川の河口で港として栄えた。

・「宇佐美平次實政」(?~文治六(一一九〇)年)現在の静岡県の伊豆田方郡大見荘の住人。頼朝挙兵以来の直参。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党であった大河兼任の乱で戦死。

・「下道を經」とあるが以下で高山を初めとして現在の群馬県内を通っていることから、これは現在の「上の道」と呼称されるルートと思われる。

・「上野國高山」現在の群馬県藤岡市高山。

・「小林」現在の群馬県藤岡市小林。高山の約五キロメートル東北。

・「大胡」現在の群馬県前橋市大胡町。前橋の約一〇キロメートル東方。

・「左貫」現在の群馬県館林市明和町の旧地名。

・「出羽國念種關」現在の山形県鶴岡市鼠ヶ関。鶴岡市南西部に位置し、新潟県との県境に面している。ウィキ鼠ヶ関によれば、『名の通り古代より関所が置かれていた。古くは、蝦夷進出の拠点となり、磐舟柵と出羽柵の中間にあるとされた、都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかと推定されているが、史跡が発見されていないため、史実として確定していない。白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』。昭和四三(一九六八)年、『発掘調査が行われて存在が確認され、鶴岡市指定史跡「古代鼠ヶ関址」となった』とある。

・「合戰の謀」戦闘時の企略。

・「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功を彰(あらは)し難からんか。然らば、勢を付けらるべし。」我こそは勇士の誉れと心得、血気をはやる連中の中には、附き従う家来がおらぬばかりに勲功を立て難いと考える者もあろう。そこで一つ、そうした者どもには補充の軍勢を附すことと致す。

・「加藤次景廉」(仁安元(一一六六)年?~承久三(一二二一)年)は直参、頼朝挙兵の際、平氏の目代山木兼隆の首を討ち取っている。

・「葛西兵衛尉淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)。頼朝に従って歴戦、頼朝の寵臣で幕府初期の重臣の一人。初代奥州総奉行葛西氏の初代当主。

・「大夫屬入道」初代問注所執事三善康信(保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)。入道後は善信を名乗った。

・「隼人佑」三善康清(生没年未詳)。康信の弟。実務官僚。以仁王挙兵の際に兄康信の意を受けて伊豆へ下り、頼朝に挙兵の旨を伝えた人物である。

・「藤判官代」藤原邦道。京から下洛していた文官。

・「佐々木次郎」佐々木経高(?~承久三年(一二二一)年)は頼朝に挙兵時から仕えた直参。幕府では三箇国の守護を兼ねたが、承久の乱で官軍に属して敗北、自害した。

・「大庭平太」大庭景能。

・「義勝房」成尋(じょうじん 生没年未詳)。武蔵七党の一つである横山党の出。石橋山の戦いで頼朝に従い、御家人となった。幕府南門の建立、僧でもあったことから後白河法皇一周忌千僧供養などの奉行を勤めている。俗姓は小野。

以下、進発当日文治五(一一八九)年七月十九日の条の冒頭を示す。

〇原文

十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無雙勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣於長茂。長茂成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々。御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。(以下、略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日丁丑。巳の尅、二品奥州の泰衡を征伐せんが爲に、發向し給ふ。此の刻、景時、申して云はく。「城四郎長茂は、無雙の勇士なり。囚人と雖も、此の時、召し具せられんこと、何事か有らんや。」と云々。

尤も然るべしの由、仰せらる。仍りて、其の趣、長茂に相ひ觸る。長茂、喜悦を成して、御共に候ず。「但し、囚人として旗を差すの條、其の恐れ有り。御旗を給はるべし。」の由、之を申す。而るに仰せに依りて私の旗を用ゐ訖んぬ。時に長茂、傍輩に談じて云はく、「此の旗を見て、逃亡の郎從等來り從うべし。」と云々。御進發の儀、先陣は畠山次郎重忠なり。(以下、略)

・「城四郎長茂」城長茂(じょうながもち 仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)は。越後平氏の一族で城資国の子。以下、ウィキ長茂より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『治承五年(一一八一年)二月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽助職が家督を継ぐ。同年六月、兄に変わって信濃に出兵した。資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、助職は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、一万の大軍を率いていながら三〇〇〇ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後、助職は奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる』(「玉葉」寿永元年七月一日の条による)。『同年八月十五日、平宗盛による源義仲への牽制として越後守に任じられる。都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。この頃、諱を助職から長茂と改めた』。『しかし越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来なかった。寿永二年(一一八三年)七月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された』。『その後の経歴はほとんどわかっていないが、元暦二年(一一八五年)に平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる。文治五年(一一八九年)の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた』。『頼朝の死後、梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、一年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。正治三年(一二〇一年)、軍を率いて景時糾弾の首謀者の一人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)』。身の丈七尺(約二メートル十二センチ)『の大男であったという』とある。ここで彼は「私自身の旗を見てきっと散り散りになった家来どもが帰参して従うであろう。」と述べている通り、「吾妻鏡」同月二十八日の条には、城の領地の近くであった新渡戸(しんわたど)駅(不詳。栃木県塩谷郡高根沢町寺渡戸とも宇都宮市上小池町とも言われる)に着いた頼朝が軍勢の総数を調べるため、御家人らに命じて、それぞれが現在、連れている手勢総てを書き出させたところ、城長茂の家来は驚くべきことに二百人以上にもなっていた、とある。

 

「陸奥國伊達郡阿津樫山に著き給ふ」頼朝は七月二十九日に白河の関を越え、翌八月七日に現在の福島県伊達郡国見町厚樫山近くの国見宿へ到着している(「吾妻鏡」の当該条は次のパートの注で示す)。]

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