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2012/11/08

一言芳談 二

   二

 

有云、俊乘(しゆんじやう)上人、高野の奥の院に七ヶ日參籠結願(さんらうけちぐわん)の夜、深更におよびて、よろづ寂寞(じやくまく)たりける時、入定(にふぢやう)の御殿のうちに、たゞ一聲(ひとこゑ)、念佛の御聲(みこゑ)さだかにしたまひけり。人是をきゝて、悲喜、身にあまり、感涙たもとをしぼりけるとぞ。

 

(一)俊乘聖人、高野參籠の時、大師の御告ありしこと古事談に見ゆ。

(二)寂寞、物しづかなる義なり。

 

[やぶちゃん注:「俊乘上人」重源(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)のこと。紀季重の子。長承二(一一三三)年、真言宗の醍醐寺で出家、南宋を三度訪れたともされる(彼自身の虚説とも)。後に法然に学び、四国・熊野など各地で修行をして勧進念仏を広め、勧進聖の祖となった。東大寺大勧進職として治承四(一一八〇)年十二月の平家攻略により焼失した東大寺の再建復興を果たした。

「入定の御殿のうちに、たゞ一聲……」弘法大師空海は死んでおらず、現在も高野山奥の院の霊廟に禅定を続けていると信じられている。以下、ウィキ空海」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『空海は肉身を留めて入定していると信じられて』おり、『奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである』。『現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後百年以上を経た康保五年(九六八年)に仁海が著した「金剛峰寺建立修行縁起」で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。「今昔物語」には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年三月二十一日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついている』のを証左としている、とある。

「(一)」以下の標注は「古事談 巻第三 一〇五」を指す。以下に示し、「・」で注を附した(底本は二〇〇五年刊岩波新古典文学大系版を用いたが、総て正字に代え、読みは底本に拠らず私が附した。原文行頭の「へ」の字形の記号は省略して一字空けとし、割注は〔 〕で示した)。

〇原文

 東大寺聖人舜乘坊、入唐時、教長手蹟之朗詠ヲ持渡、唐人育王山長老以下見之、感歎無極、其中天神御作、春之暮月々之三朝ノ句、殊以襃美、不堪感懷、遂乞取納遊王山寶藏〔云云〕、

 此上人昔參籠高野山之時、夢中大師、汝者可造東大寺之者也ト被仰卜見ケリ、燒失之後、果テ如夢、以之非直也人歟、

〇書き下し文

 東大寺聖人舜乘坊、入唐の時、教長(のりなが)の手跡の朗詠を持ちて渡る。唐人、育王山長老以下之れを見て、感歎極まり無し、其の中に天神の御作、「春の暮月(ぼぐゑつ) 月の三朝(さんてう)」の句、殊に以て襃美し、感懷に堪へずして、遂に乞ひ取りて育王山の寶藏に納む、と云々。

 此の上人、昔高野山に參籠する時、夢中に大師、「汝は東大寺を造るべき者なり」と仰せらると見けり。燒失の後、果して夢の如し。之れを以て、直なる人に非ざるか。

・「教長」藤原教長(天仁二(一一〇九)年~治承四(一一八〇)年)。保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長に加担して敗れ、出家して投降、常陸国浮島(現在の茨城県稲敷市浮島)に配流となる。六年後の応保二(一一六二)年に都に召還されて高野山に入った。歌人・能筆家としても知られる。

・「育王山」阿育王山。浙江省寧波の阿育王禅寺。

・「天神」菅原道真。

・「春之暮月々之三朝」「和漢朗詠集」春に載る「三月三日(さんじつ) 附(つけたり)桃」に載る道真の賦の序の部分。以下に示し、「●」で注を附した(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、やはり正字に代えた)。

〇原文

春之暮月 々之三朝 天醉于花 桃李盛也 我后 一日之澤 萬機之餘 曲水雖遙 遺塵雖絶 書巴字而知地勢 思魏文以翫風流 蓋志之所之 謹上小序  菅

〇書き下し文

春の暮月(ぼぐゑつ) 月の三朝(さんてう) 天も花に酔(ゑ)へり 桃李(たうり)の盛んなるなり。我が后(きみ) 一日(いちじつ)の澤(たく) 萬機(ばんき)の余(あまり)、曲水(こくすい)遙かなりといへども、遺塵(ゐぢん)絶えんたりといへども、巴(は)の字(じ)を書きて地勢(ちせい)を知り、魏文(ぐゐぶん)を思(おも)て風流(ふりう)を翫(もてあそ)ぶ。蓋(けだ)し志(こころざし)の之(ゆ)くところ、謹んで小序(せうじよ)を上(たてまつ)る。   菅

●「春の暮月 月の三朝」は三月三日のこと。

●「一日の澤」今日という日の曲水の宴を催された天皇の御恩沢。

●「萬機の餘」天皇の政(まつりごと)の暇(いとま)。

●「遺塵」底本の頭注に『昔のあと。わが国でこの宴が平城天皇の大同三年』(西暦八〇八年)『より中絶していたことをさす』とある。

●「巴の字」曲水の宴の水の流れが巴(ともえ)の字、その意の如く、円形を描くように回っているさまを言う。

●「魏文」曲水の宴の濫觴は魏の文帝に遡ると言う。

●「蓋し志の之くところ」は中国の「詩経」大序に基づく「言志」の思想に拠る。『およそ、古くから唱える如く、思うがままに「詩は志を言う」ものでありますから』の謂い。

●「此の上人、昔高野山に參籠する時……」本話の当該部であるが、これは更に「古今著聞集 卷第一 神祇」(二十六)に同話があり、同ソースであることが分かる。以下に示し、「★」で注を附した(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、やはり正字に代え、ルビは一部を省略した)。

   俊乘房重源東大寺建立の願を發して大神宮に參籠の事

俊乘房、東大寺建立の願を發(おこ)して、その祈請のために大神宮にまうでゝ、内宮(ないくう)に七箇日參籠、七日滿つ夜の夢に、寶珠を給ると見侍けるほどに、その朝、袖より白珠おちたりけり。目出く忝なく思ひてつつみて持て出でぬ。さて又、外宮(げくう)に七日參籠、さきのごとく七日みつ夜の夢に、又前のごとく珠をたまはられけり。末代といへども、信力のまへに神明感應を垂れ給ふ事かくのごとし。その珠、一は御室(おむろ)にありけり。一は卿二品(きやうにほん)のもとにつたはりて侍りける。夢に、大師、「汝(なんぢ)は東大寺つくるべきものなり」と示させ給ひける。はたしてかくのごとし。たゞ人(びと)にはあらぬなり。

★「外宮」の祭神は豊受大神(とようけびめ:「古事記」では伊弉冉尊(イサナミ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とする。「うけ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である)。

★「信力」神仏への信心の持つ力。

★「神明感應」神仏が信者の信心に応じて効験利益(こうげんりやく)を示すこと。

★「御室」仁和寺。

★「卿二品」藤原兼子(けんし 久寿二(一一五五)年~寛喜元(一二二九)年)。刑部卿藤原範兼の娘で、通称は卿局(きょうのつぼね)。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも呼ばれた。後鳥羽天皇の乳母。]

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