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2012/11/22

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート3〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

賴朝卿の先陣矢合して攻掛る。小山朝光加藤次景廉(かげかど)等命を顧みず戰ひければ、金剛別當攻破られ、大將國衡以下城を出でて引退く。泰衡が郎從佐藤信夫莊司(しのぶのしやうじ)は繼信、忠信が父なり。叔父河邊(かうべ)太郎高經、伊加良目(いがらめ)七郎高重等を相倶して石那坂(いしなざか)の上に陣を張り、逢隈河(あふくまがは)を掛入れて、隍(ほり)を深くし、柵(しがらみ)を引き、石弓を張(はつ)て待掛たり。常陸入道念西が子息常陸冠者爲宗、同次郎爲重、同三郎資綱、同四郎爲家、その郎從等と潜(ひそか)に株(くひぜ)の中より澤原(さら)の邊に進出(すゝみいで)て、鬨の聲を揚げたりければ、佐藤荘司等前後の寄手を防がんと命を棄てて防ぎ戰ふに、爲重、資綱、爲家は疵(きず)を蒙る。すでに危く見えし所に、冠者爲宗勇捍(ようかん)を勵し、右に廻り、左に馳(はせ)て打て廻るに、莊司以下宗徒(むねと)の兵十八人が首を取る。殘る軍兵四方に散りて敗北す。阿津樫山の上經(きやう)岡(をか)に首を梟(か)けて逃るを追(おひ)て進み行く。

 

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月八日の条。

八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又號湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潛相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之號。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙未。金剛別當季綱、數千騎を率いて、阿津賀志山の前に陣す。夘(う)の剋、二品先づ試みに畠山次郎重忠・小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光等を遣はし、箭合(やあは)せを始む。秀綱等、之を相ひ防ぐと雖も、大軍襲ひ重なり、攻めに責むるの間、巳の剋に及び、賊徒、退散す。秀綱、大木戸に馳せ歸り、合戰敗北の由、大將軍國衡に告ぐ。仍りて弥々計畧を廻らすと云々。

又、泰衡が郎從の信夫(しのぶ)佐藤庄司〔又は湯庄司と號す。是は繼信・忠信等の父なり。〕叔父河邊太郎高經・伊賀良目(いがらめ)七郎高重等を相ひ具し、石那坂(いしなざか)の上に陣す。湟(ほり)を堀り、逢隈河(あぶくまがは)の水を其の中に懸け入れ、柵(しがらみ)を引き、石弓を張り、討手を相ひ待つ。爰に常陸入道念西は子息、常陸冠者爲宗・同次郎爲重・同三郎資綱・同四郎爲家等潛かに甲冑を秣の中に相ひ具して、伊逹郡澤原(さははら)邊に進み出で、先登して矢石を發(はな)つ。佐藤庄司等、死を爭ひて挑み戰ふ。爲重・資綱・爲家等。疵を被る。然れども、爲宗は殊に命を忘れ、攻め戰ふの間、庄司已下、宗(むねと)の者十八人の首、 爲宗兄弟、之れを獲(とり)て、阿津賀志山上の經(きやう)ケ岡に梟(けう)するなりと云々。

今日早旦。鎌倉に於いて、專光房、二品の芳契に任せて、御亭の後山へ攀(よ)ぢ登り、梵宇の營作を始む。先づ白地(あからあま)に假柱四本を立て、觀音堂の號を授く。是れ、御進發の日より、廿日たるべきの由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告に依りて此くの如しと云々。

而るに時尅、自づから阿津賀志山の箭合せに相ひ當る。奇特と謂ひつべしと云々。

・「金剛別當秀季綱」金剛秀綱(生没年未詳)。後文では一貫して「秀綱」と記されるから、単なる誤字と思われる。羽後国由利郡新城(現在の秋田県秋田市新城)を所領する奥州藤原氏の郎党。

・「夘の剋」は卯刻で、午前六時頃。

・「巳の剋」午前十時頃。

・「佐藤庄司」佐藤正治(もとはる 永久元(一一一三)年?~文治五(一一八九)年?)信夫庄(現在の福島県福島市飯坂町)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した陸奥の豪族。湯庄司(現在の飯坂温泉に由来)と号した。妻は藤原秀衡の娘であったともいわれる。この後、捕縛されたものの、赦免されて本領を安堵されたとも伝えられる。名は基治とする記載もある。

・「伊賀良目七郎高重」伊賀良目高重(?~文治五(一一八九)年)。福島県信夫郡にあった五十辺(いがらべ)村周辺(現在の福島市中央東地区の一部)を領していた豪族。藤原秀衡・泰衡父子に仕えた。伊賀良目氏は岩谷観音の祭祀者として知られる。

・「石那坂」現在、福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場の碑が建てられているが、同定は定かではない。

・「常陸入道念西」「ねんさい」と読む。幕府御家人。通説では伊達氏初代当主伊達朝宗(大治四(一一二九)年~正治元(一一九九)年)に比定されている。諸説はウィキ「常陸入道念西」及び伊達朝宗に詳しい。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、本戦功によって、この伊達郡に移り、伊達氏を名乗るようになったともされる。

・「伊逹郡澤原」福島県伊達郡の中の旧地域名らしい。「北條九代記」の「澤原(さら)」はルビの脱字か。

・「宗(むねと)」主だった人々。

・「經ケ岡」本地名は現在も厚樫山東麓に残っており、中通り北部の阿武隈川北岸の宮城県境・厚樫山東麓に比定されている(「角川日本地名大辞典」に拠る)。]

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