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2012/11/17

一言芳談 十二

   十二

 

 黑谷善阿彌陀佛、物語(ものがたりに)云、解脱(げだつ)上人の御もとへ聖(ひじり)まゐりて、同宿したてまつりて、學問せべきよしを申。かの御返事に云、御房は發心(ほつしん)の人と、見たてまつる。學問してまたく無用なり、とくかへりたまへ。これに候ものどもは、後世(ごせ)の心も候はぬが、いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へとて、追返されし云々。

 

〇同宿、おなじいほりにやどることなり。

〇學問して全く無用なり、南都に學匠ありけり。春日大明神夢中に法門など御物語ありけれども、御面(おもて)をばむけさせ給はず。學匠なれば法門をばいへども、道心がなき故に面はむけぬなりと仰せありけるとなん。

 

[やぶちゃん注:「黑谷善阿彌陀佛」遁世聖であるが『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には、『伝未詳。黒谷は比叡山西塔の別所で、ここには黒谷聖人が住していた。善阿弥陀仏は明遍と交際のあったことが』「沙石集」巻一の三「出離を神明に祈る事」に見える、とだけある。これは非常に長く、善阿弥陀仏は寧ろ、狂言回し役であるが、彼の実際の姿がくっきりと浮かび上がるシーンがあり、何より、神式の朝拝を行い、本地垂迹説に則り乍らも神国としての垂迹の神霊を祭るべしと語る公顕僧正の(この考え方自体は神仏習合の当時にあっては決して特異なものではない。後掲する解脱上人の「愚迷発心集」などにも表われる)、ある種の説得力(というより迫力)がある面白い言説を聴聞して、思わず随喜してしまう若き日の(と思われる)善阿弥陀仏は――謂わば、曾てはこうした弁論術を好み、信望したのであり――一種のレトリックやディベートを学問学識と勘違いしているような、どこの世界にもいる輩(いや、私もその一人でもあろう)であったことが分かり、本条を読み解くに頗る興味深い事実である故、当該部全文(エピソードは「三」の冒頭から三分の二ほどで総てではない)を示す(底本は読み易い一九四三年筑土鈴寛(つくどれいかん)校訂の岩波文庫版を用いた)。後に極少数の語注を附しておいた。

 

三井寺の長吏、公顯(こうけん)僧正と申ししは、顯密の明匠にて、道心有る人と聞えければ、高野の明遍僧都、かの行業(ぎやうごふ)おぼつかなく思はれけるまゝに、善阿彌陀佛といふ遁世ひじりをかたらひて、彼人の行儀を見せらる。善阿、僧正の坊へ參ず。高野ひがさにはぎだかなる黑衣きて、ことやうなりけれども、しかじかと申し入れたりければ、高野聖と聞いて、なつかしく思はれけるにや、ひたひつきしたる褻居(けゐ)に呼び入れて、高野の事、又後世の物語なんど通夜(よもすがら)せられけり。さてその朝、淨衣き、幣もちて、一間なる所の帳かけたるに向ひて所作せられければ、善阿、思はずの作法かなとみけり。三日が程かはることなし。さて事の躰(てい)能々みて、朝の御所作こそことやうに見奉れ。いかなる御行にかと申しければ、すゝみて申したく侍るに、問ひ給ひけるこそ本意なれ。我身には顯密の聖教をまなびて、出離の要道を思ひはからふに、自力よわく智品(ちほん)あさし。勝縁の力をはなれては、出離の望とげがたし。仍つて都の中の大小神祇は申すにおよばず、邊地邊國までも、聞及ぶにしたがひて、日本國中の大小諸神の御名をかきたてまつりて、此一間なる所に請じ置き奉りて、心經三十卷、神呪など誦して、法樂に備へて、出離の道偏に和光の方便を仰ぐ外、別の行業なし。その故は、大聖(だいしやう)の方便、國により機に隨つて、さだまれる準(のり)なし。聖人は常の心なし。萬人の心を以て心とすと云ふが如く、法身は定まれる身なし。萬物の身をもて身とす。肇論(でうろん)に云はく、佛は非天非人(ひてんひにん)と。故に能天能人なり。然れば無相の法身所具(しよぐ)の十界皆一知毘盧の全躰なり。天台の心ならば、性具(しやうぐ)の三千十界の依正(えしやう)みな法身所具の萬德なれば、性德の十界を修德(しゆとく)にあらはして、普現色身(ふげんしきしん)の力をもて、九界の迷情を度す。又密教の心ならば、四重曼荼羅(しぢゆうまんだら)は、法身所具の十界也。内證自性會(ないしようじしやうゑ)の本質をうつして、外用(げゆう)大悲の利益を垂る。顯密の心によりて、はかりしりぬ。法身地(ほつしんぢ)より十界の身(み)を現じて、衆生を利益す。妙躰の上の妙用(めうゆう)なれば、水をはなれぬ波のごとし。眞如をはなれたる緣起なし。寶藏論に云はく、海の千波湧かす、千波即ち海水也と。然れば西天上代の機には、佛菩薩の形を現じて、是れを度す。我國は粟散邊地也。剛強(がうがう)の衆生因果をしらず、佛法を信ぜぬ類には、同體無緣の慈悲によりて、等流法身(とうるほつしん)の應用(おうゆう)をたれ、惡鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獸の身をしめし、暴惡のやからを調伏して佛道に入れ給ふ。されば他國有緣の身をのみ重くして、本朝相應の形ちをかろしむべからず。我朝は神國として大權(だいごん)迹をたれ給ふ。又我等みなかの孫裔也。氣を同じくする因緣あさからず。この外の本尊をたづねば、還つて感應へだたりぬべし。仍つて機感相應の和光の方便を仰いで、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。金を以て人畜(にんちく)の形を作るを見て、金をわするれば勝劣あり。金を見て形をわするる時は、ことなる事なきがごとし。法身無相の金をもて、四重圓壇(ゑんだん)十界隨類(ずゐるゐ)の形を造る。形を忘れて躰を信ぜば、いづれか法身の利益にあらざる。智門は高きを勝れたりとし、悲門はくだれるをたへなりとす。ひききひとのたけくれべは、ひききをかちとするが如し。大悲の利益は等流(とうる)の身、ことに劣機に近づきて、強剛(がうがう)の衆生を利する慈悲すぐれたり。されば和光同塵こそ諸佛の慈悲の極りなれと信じて、かくのごとく行儀ことやうなれども、年久くしつけ侍りと語らる。善阿、誠にたつとき御意樂(ごいげう)也と隨喜(ずゐき)して、歸つて僧都に申しければ、智者なれば、愚の行業あらじと思つるにあはせて、いみじく思ひはからはれたりと、隨喜の涙を流がされけるとなん、ふるき遁世上人かたり侍りき。

・「公顯僧正」(天永元(一一一〇)年~建久四(一一九三)年)天台僧。安芸守源頼康の子。近江園城寺の増智らに学び、朝廷・平家一門・源頼朝らから遍く信任を得て同寺(園城寺は天智・天武・持統三帝の産湯に用いたとされる井戸があることから三井寺とも呼称する)長吏となった。建久元(一一九〇)年、天台座主に任ぜられたが、延暦寺の抗議を受けて辞任している(主に講談社「日本人名大辞典」を参考にした)。

・「褻居」居間。普段の居所なれば「褻」であろう。

・「すゝみて申したく侍るに、問ひ給ひけるこそ本意なれ」発語として――しかも僧正ともあろう仏者の発語として、実に「いやな謂い」ではないか。『自分から申し上げたく御座いましたが、貴僧がお訊ね下さったことこそ我らの本意(ほい)で御座った!』――実に白ける謂いではないか!

・「肇論」後秦の仏書。著者は僧肇(三八四年~四一四年又は三七四年~四一四年)。仏法の実相・空・般若・涅槃といった諸概念について当時の一般的な理解や道家思想などと比較しつつ説いたもので、後の中国仏教や思想界に大きな影響を及ぼし、注釈書も多く書かれた(WikiDharma の「肇論」などに拠る)。

・「無相の法身所具の十界」総ての執着を離れた菩薩の究極の境地(無相)にある永遠不滅の真の仏身(法身)は、迷いと悟りの全世界をやすやすと併呑している(所具の十界)という意味であろう(以下の注では一部で一九六六年刊岩波古典文学大系版の渡邊綱也氏の頭注を参考にさせて頂いている)。

・「一知毘盧」「いつちびる」と読む。衆生済度のために十界に偏在する昆廬舎那仏(びっるしゃなぶつ)のこと。

・「性具」『万有が菩薩界以下の九法界の善悪三千の諸法を具えているということ。』(渡邊氏注)。

・「依正」「依正二報」の略。依報(えほう)と正報(しょうほう)、即ち、過去の業(ごう)の報いとして受けるところの環境、及び、それを拠り所とする身体をいう。

・「性德」アプリオリな「生得」とほぼ同じい。衆生が本性として備えている先天的能力。

・「修德」修業によって得られた後天的な(アポステリオリな)能力。

・「普現色身」普現色身三昧とも言い、如来・菩薩が一切衆生を済度するために、変化自在な姿形となって顕現することをいう。

・「内證自性會」「自性會」は大日如来の法身が諸内眷属を集めて三世に亙って両部の大経(大日経と金剛頂経)を説くとされる法会。「内証」は、自分の心のうちで真理を悟ることをいうが、ここは一種の悟達の決定を讃えて接頭語のように附されたものであろうか。

・「外用」衆生の機に応じて如来・菩薩が本来の法身から外へと働きかけ、それが現わしたところの作用のこと。

・「妙躰の上の妙用」『物の実体とその不変の性の有する微妙な作用。』(渡邊氏注)。

・「緣起」因縁によって万物が生じ起こること。

・「寶藏論」先の「肇論」の著者僧肇の作と伝わるが、現在では後世の偽作とされる。

・「西天」天竺。

・「粟散邊地」ちいさな粟を更に撒き散らしたかのような極小の、しかも東方の僻地。

・「剛強」荒く猛々しいこと。

・「同體無緣の慈悲」如来・菩薩と一切衆生とは同一体であると観想するところから生じる広大無辺の慈悲。

・「等流法身」『等流とは、因が果を流出するのであるから、その本源は同じという意。仏身が時と所に応じて無碍自在に顕現し、働き示すこと。』(渡邊氏注)。

・「大權迹をたれ給ふ」「權」は仮りの姿の意。仏が畏れ多い神なるお姿と仮りにおなりになって本邦へ垂迹なされた、という本地垂迹説を語る。

・「機感相應の和光の方便」『衆生に善根があって仏を感じ、又衆生に善根を生ずる可能性があれば、仏が是に感応して触発すること。』(渡邊氏注)。

・「金」岩波大系版では「こがね」と訓じている。

・「隨類」『仏が衆生の機類に随って姿を現じ教えをたれること。』(渡邊氏注)。

・「智門」如来・菩薩に具わった広大無辺の智慧。

・「悲門」如来・菩薩に具わった広大無辺の大慈悲心。

・「ひきき」低い。

・「劣機」『機根の劣っている者。』(渡邊氏注)。

・「和光同塵」如来・菩薩が本来の威光を和らげ、塵に穢れたこの世に仮の身を現し、衆生を済度すること。

・「御意樂」『「実に貴いお心がけ」程の意』(渡邊氏注)。

 

「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)。藤原信西を祖父に持つ。号を解脱房、勅謚号を解脱上人と言った。笠置寺上人とも呼ばれた。平治の乱では祖父は自害、また彼の父藤原貞憲も配流された。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り、十一歳で出家、叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。寿永元(一一八二)年には維摩会(ゆいまえ:興福寺において毎年十月十日より七日間に亙って行われる「維摩経」を講説する大会。)の竪義(りゅうぎ:「立義」とも書く。「リュウ」は慣用音で、立てるという意味。義を立てる・理由を主張するということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて論題提出僧すなわち探題より出された問題につき、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧、竪義者(りゅうぎしゃ)。竪者(りつしや)・立者とも書く。)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って建久四(一一九三)年、以前から弥勒信仰を介して信仰を寄せていた笠置寺に隠遁、以後、般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始して弥勒講式を作るなど弥勒信仰を一層深めた。元久二(一二〇五)年には「興福寺奏状」を起草、法然の専修念仏を批判して、その停止を求めてもいる(そうした人物の言行をさえ引く「一言芳談」の懐の広さを見よ)。承元二(一二〇八)年には海住山寺に移り、観音信仰にも関心を寄せた(以上は主にウィキの「貞慶」を参照した)。

「聖」高野聖。……ここであることが見えてくる。善阿弥陀仏は「沙石集」話柄で、独特の姿をした高野聖として登場する。……即ち、この解脱上人に追い返された(これは言わずもがなであるが――善意で追い返しているのである)高野「聖」とは――実は――これを語っている善阿弥陀仏本人であったのではあるまいか?

「またく」全く。

「これに候ものどもは、後世の心も候はぬが、いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へ」私はこのエピソードを、解脱上人貞慶が未だ興福寺にいて、しかも寿永元(一一八二)年の維摩会竪者を務めた後、学僧として期待された頃から、建久四(一一九三)年に隠遁してしまうまでの間の出来事と読む。従ってこの「候ものども」は貞慶を除く(いや寧ろ当時の名声高き学僧であった貞慶自身をも含めて)興福寺の高僧・学僧総てを指していると考える。そして学識を鼻に掛けた彼らはその実、心から極楽往生を願う素直な心さえも持っておらぬ(「後世の心も候はぬ」)、ところが、何もしないでおるよりはましであろうと、学問をしているに過ぎぬのだ(「いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へ」)と痛烈に内部告発している、と私は読むのである。この、直情径行で一見異形の、しかし『直き心』を持ったとみた青年僧(「沙石集」の善阿弥陀仏は私にはそう映る)の、追い出されてとぼとぼと行くその背中へ、解脱上人は――かのツァラトゥストラの如く――逃れよ、逃れよ、荒野へ――と呟いているように私には見えるのである――

「法門」仏の教え。]

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