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2012/11/09

北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎

      ○淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎

木曾義仲の嫡子淸水冠義高は人質として賴朝に渡されしを、婿にしてかしづかる。然るに義仲朝敵の名に懸り、江州にて討れ給ふ。其子なれば婿ながら心操(こゝろばせ)計難(はかりがた)し、誅せらるべきなりと、内々眤近(ぢつきん)の輩に仰含めらる。女房等聞窺ひて、姫君の御方へ告知せたり。淸水冠者その曉(あかつき)女房の姿に出立ち、姫君の御方の女房達に打圍まれて忍出で給ふ。海野小太郎幸氏は淸水と同年にて晝夜御前を立去らず、已に相替りて張臺(ちやうだい)に入りつつ、宿直(とのゐ)の下に臥して髻(もとどり)許(ばかり)を枕に出し、引被(ひきかづ)きて、日闌(たく)るまで起上らず。既に又起出つゝ、淸水殿の常の御座に立入りて、日比の有樣に替る事なく、只獨(ひとり)雙六(すごろく)を打つ。是は日比淸水殿の慰(なぐさみ)として、朝暮に翫(もてあそ)ばれしかば、幸氏必ずその合手にまゐりたる所なり。殿中の男女はこの事夢にも知らざりしを、晩景に及びて、斯(かく)と知りければ、賴朝大に怒り給ひ、幸氏を召戒(めしいまし)め、堀(ほりの)藤次親家以下の軍兵を方々の道路に差遣し、討留(うちとゞ)むべき由仰(おほせ)付けらる。親家人數を分ちて、追手を掛けし所に、郎従藤内光澄武藏國入間河原(いるまかはら)にして追付き、敢(あへ)なくも淸水冠者を討取り首級を舉てぞ歸りける。この事隱密(おんみつ)し給へども、姫君既に漏聞(もれき)かしめ給ひ、愁歎の色深く魂を消す計(ばかり)にて、漿水(しやうすゐ)をだに聞入(ききい)れ給はず。賴朝も御臺も理(ことわり)に伏(ふく)して、御哀傷甚し。殿中打潜(うちひそ)みて、物の音も定(さだか)にせず。姫君は貞節の心ざし金石(きんせき)よりも堅くして、一生つひに二度(ふたたび)人に嫁(か)し給はず、有難き心操(こころばせ)なり。御母御臺深く憤り給ひ、縱(たと)ひ仰(おほせ)の事なりとも、何ぞ内々姫君の御方へ申さしめず、楚忽(そこつ)に淸水殿を討ち奉り、姫君是故(これゆゑ)御病重く、日を追ひて、憔悴し給ふ。この男の不覺なりとて、堀親家が郎從藤内光澄を引出し、首を斬りてぞ棄てられける。

[やぶちゃん注:過去、「新編鎌倉志巻之三」の「常楽寺 木曽塚」や「鎌倉攬勝考卷之五」の「常楽寺」で語ってきたように、これは鎌倉初期の出来事の中でも、私にとって最も忘れ難い、元暦元(一一八五)年四月の大姫(当時満六歳)と清水冠者義高(同じく十一歳)の悲恋のシークエンスである。以下に「吾妻鏡」の当該関連部分(四月二十一日・二十六日・六月二十七日)を示す。

 

〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)

廿一日己丑。自去夜。殿中聊物忩。是志水冠者雖爲武衞御聟。亡父已蒙 勅勘。被戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於昵近壯士等。女房等伺聞此事。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今曉遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出内畢。隱置馬於他所令乘之。爲不令人聞。以綿裹蹄云々。而海野小太郎幸氏者。與志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衞太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日己丑。去ぬる夜より殿中聊か物忩(ぶつそう)。是れ、志水冠者、武衛の御聟たりと雖も、亡父已に 勅勘を蒙り、戮(りく)せらるるの間、其の子として其の意趣尤も度(はか)り難きに依りて、誅せらるべきの由、内々思し食(め)し立ち、此の趣を眤近(ぢつきん)の壮士等に仰せ含めらる。女房等、此の事を伺ひ聞きて、密々に姫公(ひめぎみ)の御方に告げ申す。仍りて志水冠者計略を廻らし、今曉遁れ去り給ふ。此の間、女房の姿を假り、姫君の御方の女房、之を圍みて、内(かくない)を出で畢んぬ。馬を他所に隱し置き之に乘らしむ。人をして聞かしめざらんが爲に、綿を以て蹄を裹(つつ)むと云々。

而うして海野小太郎幸氏は志水と同年なり。日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し。仍りて今、之れに相ひ替りて、彼の帳臺に入り、宿衣の下に臥して、髻を出だす。日闌(た)くるの後、志水の常の居所に出でて、日來(ひごろ)の形勢を改めず、 獨り雙六(すごろく)を打つ。志水、雙六の勝負を好み、朝暮に之を翫(もてあそ)ぶ。幸氏、必ず其の合手たり。然る間、殿中の男女に至るまで、只今に坐せしめ給ふ思ひを成すの處、晩に及びて縡(こと)露顯す。武衞、太(はなは)だ忿怒し給ひ、則ち、幸氏を召し禁(いまし)めらる。又、堀藤次親家已下の軍兵を方々の道路に分ち遣はし、討ち止(とど)むべきの由を仰せらるると云々。

姫公、周章し、魂を銷(け)さしめ給ふ。

[やぶちゃん補注:「内」は「廓内」と同義で、御所内のこと。

   *

〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)

廿六日甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄皈參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此事雖爲密議。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令斷漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日甲午。堀藤次親家が郎從の藤内光澄皈參(へんさん)す。入間河原(いるまがはら)に於いて、志水冠者を誅するの由、之を申す。此の事密たりと雖も、姫公、已に之を漏れ聞かしめ給ひ、愁歎の餘りに漿水(しやうすい)を断たしめ給ふ。理運と謂ひつべし。御臺所、又、彼の御心中を察するに依りて、哀傷、殊に太だし。然る間、殿中の男女、多く以て歎色を含むと云々。

[やぶちゃん補注:「皈參」は「返參」で帰参と同義。「入間河原に於いて」入間川八丁の渡し付近。現在の狭山市入間川三丁目には、後に政子が建てたとされる義高を祀る清水八幡宮が残る(「狭山市」公式HPの清水八幡宮)。]

   *

[やぶちゃん補注:この間、五月一日の条に甲斐・信濃にあった清水冠者義高の残党征伐進発の下命の記事、同二日の条には『依志水冠者誅戮事。諸國御家人馳參。凡成群云々』とある。]

   *

〇原文(元暦元(一一八五)年六月小)

廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騷。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衞不能遁逃。還以被處斬罪云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日甲申。堀藤次親家が郎從、梟首(けうしゆ)せらる。是れ、御臺所の御憤りに依てなり。去ぬる四月の比、御使として志水冠者を討つの故也なり。其の事已後、姫公、御哀傷の餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追ひて憔悴す。諸人驚き騷がざる莫し。志水誅戮の事に依りて、此の御病ひ有り。偏へに彼の男の不儀より起る。縱(たと)ひ仰せを奉(うけたまは)ると雖も、内々に子細を姫公の御方に啓(まう)さざるやの由、御臺所、強ちに憤り申し給ふの間、武衞遁逃する能はず、還つて以て斬罪に處せらると云々。

[やぶちゃん補注:「内々に子細を姫公の御方に啓さざるや」は頭に「何故」などが省略されていよう。逆に破格が政子の憤激を伝える。]

 

「朝敵の名に懸り」この「懸り」は、私には仕組まれた謀事(はかりごと)に陥る、はまるの意で採りたい。

「眤近(ぢつきん)」底本ルビは「ぢつちん」であるが、誤植と判断した。

「海野小太郎幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。

「宿直」宿直衣(ぎぬ)・宿直装束(そうぞく)のこと。宿直(とのい)の際に着用する直衣(のうし)。

「日闌る」日がすっかり昇る。

「敢(あへ)なくも」あっけなくも。また、「死ぬ」「死別する」の忌み言葉である「あへなくす」の意も効かしていよう。

「漿水」濃漿(こんず)とも。流動食の重湯(おもゆ)のこと。

「理に伏して」大姫がかくなるも、仕方なく、もっともなること、と思い。

「楚忽」粗忽。]

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