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2012/11/30

北條九代記 賴朝上洛 竝 官加階 付 惣追捕使を申賜る

      ○賴朝上洛  官加階  惣追捕使を申賜る

建久元年十一月七日賴朝卿上洛し給ふ。池大納言賴盛卿の六波羅の舊跡を點じて入り給ふ。次の日院參あり。網代(あじろ)の車大八葉(えふ)の文(もん)を居(すゑ)られたるに召され、夜に及びて退出あり。次の日禁中に參内し給ふ。除目(ぢもく)行はれて、賴朝卿參議中納言を經ずして、直(たゞち)に權大納言に任ぜらる。同二十四日右大將に任じ給ふ。御直衣始(なほしはじめ)あり。藤の丸うす色竪文の織物差貫(おりものさしぬき)に野劍(のだち)を帶(たい)し、笏(しやく)を持ち梹榔毛(びりやうげ)の車に召され、前駈(ぜんく)六人随兵(ずゐひやう)八人にて院參し給ふ。美美敷(びびしく)ぞ見えにける。次で兩職を辞退して、十二月二十九日鎌倉に歸り給ふ。翌年正月十五日政所の吉書始(きつしよはじめ)を行はる。前因幡守平朝臣廣元を政所別當に補(ふ)せられ、中宮屬(ちうぐうのさくわん)三善康信問注所の執事となる。和田左衞門少尉平朝臣義盛を侍所の別當とし、梶原景時を所司とし給ふ。去ぬる文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙(かうぶ)り、正二位に轉ぜらる。廣元申しけるやう「世既に澆薄(げうはく)にして、人また梟惡(けうあく)なり。天下反逆の輩更に以て絶べからず。東國は御住居なれば、静謐すべしといへども、南方西北國に於ては定(さだめ)て奸濫(かんらん)の企(くはだて)を起さん歟、 是を靜められん爲に、毎度軍勢を催して發向せしめ給はば、民の煩(わづらひ)國の費幾(つひえいくばく)、その限(かぎり)候まじ。只この次に六十餘州の惣追捕使(そうついふし)を申し賜り、國衙荘園(こくがしやうゑん)に守護、地頭を居ゑられば、如何なる事にもその恐あるべからず」と申しければ、賴朝卿甘心(かんしん)し給ひ、「誠に本末相應の忠言なり」とて、即ち奏聞を經て、諸國の守護地頭權門勢家(けんもんせいけ)の莊工(しやうく)を論ぜす、段別(だべつ)五桝(しやう)の兵糧米(ひやうらうまい)を宛課(あておは)すべきの由申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり。賴朝是より諸國に守護を置きて国司の威を抑へ、莊園に地頭を居ゑて、本所(ほんしよ)の掟を用ひず。王道は日を追て衰敗し、武威は月に隨ひて昌榮す。天下その命を守り、国家この權(けん)に服す。

[やぶちゃん注:本話の内、

①頼朝が上洛して権大納言(建久元(一一九〇)年十一月九日拝命)並びに右大将(同十一月二十四日拝命)に任ぜらるるも、両職を辞退して(同十二月三日)、下向(十二月十四日京都進発、同二十九日の午後八時頃、鎌倉現着)

の部分は、

「吾妻鏡」巻十の建久元年十一月七日・九日・二十四日・十二月二日・二十九日の条

に拠り、

②政所・問注所・侍所及び所司任命

の部分は

「吾妻鏡」巻十一の建久二(一一九一)年一月十五日の条

に拠る。次いで、後半部の、

③征夷大将軍・正二位拝命(建久三(一一九二)年七月十二日)

は、

「吾妻鏡」巻十二の建久三年七月二十日の条

に拠る(タイム・ラグは飛脚によるため)。続く部分は実は時計が巻き戻されており、

④大江広元の提言によって(文治元(一一八五)年十一月十二日)、諸国に守護・地頭を置く

という部分は六~七年遡った、

「吾妻鏡」巻五の文治元(一一八五)年十一月十二日・二十八日・二十九日及び文治二年三月一日の条

に基づくものである。

 なお、ここに「六十餘州の惣追捕使」とあるが、この文治元年十一月の通称文治勅許の際、地頭職を義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求めて承認されてはいるが、一応、頼朝が守護任命権を持った「諸國惣追補使」となったことは「吾妻鏡」巻六の文治二年三月一日に示される。筆者は文治二年三月一日を以って「諸國惣追補使」になったと当然思っていよう。しかし、ことはそう単純ではない。実は、これが、

正式な「諸國惣追補使」として公的に「確認される」のは

実はもっとあと、正にここで時計が本話の頭に戻って、頼朝の凱旋上洛から権大納言・右大将叙任及びあっという間の辞任という場面の中で行われたのであり、まさに正しくは

頼朝が名実ともに諸国追補使となったのは建久元(一一九〇)年

であると考えられているのである。

 そうして私は、上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏が「源平の盛衰」(講談社学術文庫一九九七年刊)などで主張なさっているところの、

頼朝の諸国追補使公認の建久元(一一九〇)年を鎌倉幕府の成立とする

という考え方を全面的に支持するのである。即ち、本話こそが

〈鎌倉幕府成立〉

と標題すべきシークエンスであると私は考えるのである。

 

「池大納言賴盛卿」平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)。頼朝の助命を願い出た池禅尼の子で清盛の異母弟。平家滅亡後も頼朝から厚遇された。没年でお分かりの通り、ここは旧故頼盛邸を宿所としたのである。

「院參」勿論、後白河院の元へである。

「直衣始」現代音では「のうしはじめ」と読む。関白・大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」とも読む。

「竪文」「かたもん」と読み、綾の織物の文様の緯(よこいと)を浮かさずに固く織ったもの。緯に経(たていと)をからめて織ったもので「浮文(うきもん)」の対語である。

「野劍(のだち)」自衛用の短刀。刺刀(さすが)。

「梹榔毛(びりやうげ)」「檳榔毛の車」と同じで「びらうげのくるま(びろうげのくるま)」とも読む。牛車の一種で、白く晒した檳榔(びんろう:単子葉植物ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu)の葉を細かく裂き、車の屋形を覆ったものを言う。

「美美敷」形容詞「びびし」で、①立派だ。美事だ。②美しい。華やかだ。ここは総ての謂いでとってよかろう。

「吉書始」吉書とは年始や改元、政務の新規開始などの際に吉日を選んで総覧に供される、それ専用に書き記された儀礼的文書のことで、吉書始は吉書奏(きっしょのそう)とも呼ばれる吉書を総覧する儀式を指す。

「中宮屬(ちうぐうのさくわん)」中宮職(ちゅうぐうしき:本来は律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所のこと。)の主典(さかん:佐(たすけ)る官の意の「佐官」の字音の当字。律令制で四等官(しとうかん)の最下位。記録・文書を起草、公文の読み役を務めたりした。)。

「所司」「しよし(しょし)」と読み、侍所の次官の職名。

「文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる」は、元暦二(一一八五)年三月の誤り(文治への改元は同年八月十四日)。ここは更に③のパートであるから、厳密には、

『右大將家、建久三年七月十二日、元暦二年三月に平家追討、その賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる』

という風になっていないと、本当はおかしい。

「廣元申しけるやう……」以下、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月十二日の条の後半を示す。前半は源義経の都落ちと逃亡、関係諸人の処分などが記され、このゆゆしき一件を受けての広元の主張となる。

〇原文

十二日辛夘。(前略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟惡者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日辛夘。(前略)凡そ今度の次第、關東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太8はなは)だ思し食(め)し煩ふの處、因幡前司廣元申して云はく、「世、已に澆季(げうき)にして、梟惡の者尤も秋(とき)を得るなり。天下の反逆の輩有るの條、更に斷絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依りて靜謐せしむと雖も、奸濫(かんらん)定めて他方に起らんか。之を相ひ鎭めんが爲に、毎度、東士を發遣せらるるは、人々の煩ひなり。國の費(つい)えなり。此の次(ついで)を以つて、諸國に御沙汰を交へ、國衙庄園毎に守護地頭を補せられば、強ちに怖れる所有るべからず。早く申し請けせしめ給ふべし。」と云々。

二品、殊に甘心し、此の儀を以つて治定(ぢぢやう)す。本末の相應、忠言の然らしむる所なり。

・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり。末世。世も末。「北條九代記」の「澆薄」も同じく、道徳が衰えて人情の極めて薄くなっていることを言う語である。

・「梟惡」性質が非常に悪く、人の道に背いていること。

・「御居所たるに依りて」二品頼朝様のお膝元なれば、の意。

・「毎度東士を發遣せらるるは」毎回毎回、いちいち関東の兵卒を派遣なさっておっては、の意。

・「御沙汰を交へ」命令系統をしっかりと組織した上で上意下達させて。

・「國衙庄園毎に守護地頭を補せられば」は、つい最近まで無批判に、国衙に守護を、荘園に地頭を置くという風に解釈されてきたのだが、近年の研究では守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護するための地頭が正しい解釈として支持されているようである。諸国に設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めるのは(しかも頼朝政権当時は全国的なものではなく、東日本に偏ったもので、畿内以西では朝廷や寺社勢力が依然、有意な力を持っていた)、正に私が支持する鎌倉幕府成立の建久元(一一九〇)年前後とされているのである。

 

「莊工(しやうく)」荘園。

「段別(だべつ)」段別・反別で普通は「たんべつ」と読む。田を一反単位に分けることであるが、通常はそれに課税することを意味する。一反は九九一・七四平方メートで約一〇アール、約三〇〇坪強。

「五桝(しやう)」五升。約七・五キログラム。

「申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり」ここには勿論、省略があって、以上を受けて、同月(文治元(一一八五)年十一月)二十八日に北條時政から後白河院への以上の要請が吉田経房を通して上奏され、それが即決で「次の日」二十九日に勅許されたことを指している。両日の「吾妻鏡」を部分的に引いておく。

〇原文

廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升。〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。

廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。(後略)

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家庄公を論ぜず、兵粮米〔段別五升。〕を宛て課すべきの由、今夜、北條殿、藤經房卿中納言に謁し申すと云々。

廿九日戊申。北條殿申さるる所の諸國の守護地頭・兵粮米の事、早く申し請くるに任せて御沙汰有るべきの由、仰せ下さるの間、師中納言、 勅を北條殿に傳へらると云々。(後略)]

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