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2012/11/24

芥川龍之介漢詩全集 九

   九

 

黄河曲裡暮烟迷

白馬津邊夜月低

一夜春風吹客恨

愁聽水上子規啼

 

〇やぶちゃん訓読

 

 黄河 曲裡(きよくり) 暮れ 烟迷(えんめい)

 白馬 津邊(しんへん) 夜月 低し

 一夜(ひとよ)の春風 客恨(かくこん)を吹き

 愁聽(しうちやう) 水上 子規(ほととぎす)啼く

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。

大正四(一九一五)年九月二十一日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七九)所載。

詩の前には、心を動かす人としてミケランジェロ・レンブラント・ゴヤを挙げて、それぞれの感心した事柄を簡潔に述べた上で『かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の審判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせていゐる』と書き、続けて『櫻の葉が綠の中に点々と鮮な黄を点じていたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黄色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がして一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした』(ここで改行と思われる)『新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未だに出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた』とあって表記の詩が記され、後には『あまりうまくない』と記している。以下、この書簡について「・」で注する。

・「新聞」とは「五」の注に記した『松江新報』に発表した芥川来遊前後を記した井川恭の随筆「翡翠記」のことを指す。「秋は曆の上に立つてゐた」は「翡翠記」の「十六」に現われる(厳密には「秋は已に曆の上に立つてゐた」。その冒頭を以下に引用しておく。引用は島根国語国文会一九九二年発行の寺本喜徳編「井川恭著 翡翠記」に拠ったが、これは新仮名新字体であるので、恣意的に正仮名正字体に代えてある。

   《引用開始》

古浦へ行つた翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲勞(つかれ)が節々に殘つてゐる四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうへに長々と伸ばしてゐた。

 秋は已に曆の上に立つてゐた。窓框(まどわく)に頤(おとがひ)をもたせて茫然(ぼんやり)とながめると、透(す)きやかな水をひろびろと湛へてゐる湖の面がものうい眼のなかに一杯に映つた。十六禿(はげ)のうすい朱(あけ)のいろの崕(がけ)が靜かな影を冴えた木の隈に涵(ひた)してゐる上には、眞山(しんやま)や蛇山(じややま)や澄水山(すんづさやま)が漸次(しだい)にうすく成つて消えて行く峰の褶曲(しわ)を疊みながら淡い雲を交へた北の空をかぎつてゐた。

 みづうみの手前の岸には白い莖をそろへて水葦が風にそよぎながら立つて居り、水の涯(ほとり)の村里やを取り卷いて搖(ただよ)うてゐるさびしい透明な氣分を一點にあつめた哀しい表情がかすかやどつてゐた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんぢ)と乘り降りの人の稀れな驛々を汽車はたゆたげにすぎて行つた。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云つて頻りに賞めてゐた。

   《引用終了》

因みに、これを読んでも井川(恒藤)恭の文才が並々ならぬものであることが分かる。ウィキの「恒藤恭」によれば、ここまでの井川の事蹟は(アラビア数字を漢数字に代えた)、『島根県松江市に兄弟姉妹八人の第五子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後三年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し三五〇円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に一ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う』。『健康を回復した恭は、一九一〇年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。二年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える』。大正二(一九一三)年、『恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったと述べている。京都帝国では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている』とあり、その少年期や思春期はまさに文学という額縁に彩られていたことが分かる。

・「定福寺」以下、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」から「松江連句(仮)」の「定福寺」という龍之介の句及び私の注を示してここの注に代える。

   《引用開始》

      定福寺

〔丶〕 禪寺の交椅吹かるゝ春の風          阿

 

[やぶちゃん+協力者新注:この「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「常」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく。]

   《引用終了》

この常福寺は、井川の馴染みでもあり、龍之介の滞在中、真山白鹿城登山の拠点として、住職の妻の接待を受けている(「翡翠記」二十三)。ここでは、謂わば、その御礼のための常福寺追想の漢詩を龍之介が作りたいと思いながら(それは恩義ある住職に龍之介のそれを返礼とせんがために井川から望んだものなのかもしれない)出来ないことを言っている。俳句では、やはり「松江連句(仮)」に、

 

〔駄〕 梵妻だいこくの鼻の赤さよ秋の風

         (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

 

とある(「梵妻」は僧侶の妻。大黒天が厨くりやに祀られたことから大黒(だいこく)とも言う)。

・「竹枝詞」以下、竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。

 

「烟迷」踏み迷うほどに濃い靄が立ち込めること。]

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