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2012/12/31

縄文の父子から「よい御年を!」

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芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈 + 縦書版

今年最後で最大の仕儀、「芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」(+縦書版)を「心朽窩新館」に公開した。

これは先般ブログで終えた「芥川龍之介漢詩全集」に、私の秘蔵っ子にして中国語に堪能なT・S・君の評釈(全篇初公開)を加えた、謂わば、僕の企画した「芥川龍之介漢詩全集」の教え子との共作になる完全決定版である。彼の絶妙な「詠み」を是非、この年末年始の穏やかな心で、凝っくりと味わって戴きたいと思う。

これを以って――藪の「野人」と化した僕の、最初の一つの憂鬱が――完成したと言ってよい。

2012/12/30

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 浄智寺/松岡山

   淨 知 寺

 明月院ノ西北ナリ。金峯山ト號ス。五山ノ第四也。寺領七貫文餘アリ。相摸守師時ノ建立。開山佛源禪師、詳ニ元亨釋書ニ見へタリ。本尊釋迦・彌勒・彌陀ナリ。龜山院ノ細字、文應元年ニ佛源禪師ハ宋ニ歸ル。附法ノ弟子眞應禪師ハ壯年ナルヲ以テ、徑山石溪和尚ノ法嗣佛源禪師言ヲ殘シケル故ニ、眞應・佛源兩師ヲ開山トモ云ナリ。寺へ上ル坂ノ下南ノ方ニ甘露水ト云名水アリ。

 寺寶

 竺泉畫像        一幅

 佛源木像        一軀

 伊達天像        一軀〔澤間法眼作〕

 地藏          一軀〔運慶作〕

 平貞時證文       二通

  此外寺寶ドモ有シガ、度々ノ囘祿ニ亡シト也。

[やぶちゃん注:「淨知寺」は「淨智寺」の誤り。

「澤間法眼」は「宅間法眼」の誤り。]

 

  松 岡 山

 山門。東慶總持禪寺ト額アリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、金銅ニテ鑄之(之を鑄る)。此寺ハ平ノ時宗ノ室、尼ト成テ學山和尚ト云。二代目ハ後醍醐天皇ノ姫宮、薙染シ玉ヒ、住持アリシトナン。或ハ學山已前ヨリモ尼寺ニテ有ケルガ、學山住テヨリ世上ニ名高クナルト也。今モ百廿貫文ノ寺領アリ。

[やぶちゃん注:「學山和尚」は「覺山和尚」の誤り。]

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(2)


Konohakamakiri


[木の葉かまきり]

 

 同じく「いなご」類のものに「七節(なゝふし)」といふ昆虫がある。これは體が棒狀に細長く、足を前と後とに一直線に延ばすと、全身が恰も細い枝の如くに見えて頗る紛らはしい。中央アメリカに産する「七節」の類には、體の表面から苔の如き形の扁平な突起が澤山に出て居るが、常に苔の生えて居るやうな場所に住んで居るから、見分けることが特に困難である。「かまきり」の類にも巧みに木の葉を眞似て居るものがある。内地産の普通のものでも色が綠または枯葉色であるから、綠葉や枯草の間に居ると容易には分らぬが、東インドに産する一種では胴の後半も扁平であり、後足の一節も扁たくなつて居るので、灌木の枝に止まつて居ると、その葉と紛らはしくて到底區別が出來ぬ。更に巧なのは、蘭(らん)の花に似たものである。これも印度の産であるが、身體の各部がそれぞれ蘭の花の各部に似て、全部揃ふと形も色も蘭の花の通りになる。胸部は幅が廣くて上向きの花瓣の如く、腹部も扁たくて下向きの花瓣の如く、前翅と後翅は兩側に出て居る花辨の如くで、且常にこれを左右に開いて居るから、餘程注意して觀察せぬと蟲か花か識別が出來ぬ。この「かまきり」はかく花に紛らはしい形をして、花に交つて居ると、多くの昆蟲が花と誤つて近よつて來るから、容易に捕へて食ふのである。


Rannohanakamakiri


[蘭の花かまきり]

 

[やぶちゃん注:「七節」節足動物門昆虫綱ナナフシ目 Phasmatodea(又は Phasmida)に属する昆虫の総称。草食性昆虫で木の枝に擬態した姿が特徴的である。「七」は単に多いの意で実際に体節を七つ持っているわけではない。目の学名は幽霊の意のギリシア語“phasma”に由来。英名“stick-incect”・“walking-stick”、仏名にある“baton du diable”(バトゥン・ド・ジャブル)は「悪魔の棒」、独名“Gespenstschrecken”(ゲシュペンスト・シュレッケン)は“Gespenst”(幽霊)+“schrecken”(驚かす)。中文名「竹節虫」(以上は、ウィキナナフシ」及び荒俣宏氏の「世界大博物図鑑1 蟲類」を一部参考にした)。

『中央アメリカに産する「七節」の類』形状からするとユウレイナナフシExtatosoma tiaratum 若しくはその仲間か。ネット上の複数画像を見ると、大型の枯葉そっくりのものの他に、緑色の突起物を体中から生やした、まさに緑色の苔そのものとしか見えない個体などを見ることが出来た(後者には「中央アメリカ」のタグが附されていた)。しかしながら、Extatosoma tiaratum は英語版ウィキ分布域にオーストラリアの“Queensland and New South Wales”及び“New Guinea”とあるので、この緑色のものは本種ではないようだ。識者の御教授を乞う。

『「かまきり」の類にも巧みに木の葉を眞似て居る』「東インドに産する一種」は、カマキリ目Mantidae Deroplatyinae 亜科Deroplatyini 族カレハカマキリ Deroplatys spp. の類を指していると考えられる。掲げられた図の種はかなり特徴的で専門家なら同定出来そうだが、昆虫の苦手な私にはここまでである。因みに、カマキリ目の学名“Mantidae”(マンティダエ)はギリシア語“mantis”(占いの仕方)を意味するが。これは元来は“Mantwv”(マントー)という名の女予言者(「月から啓示を受けた者」の意)で、古代テーバイにおいて神託を告げた巫女たちの称号であったという(TOMITA_Akio氏のHP「バルバロイ!」のページに拠る)。そこには『マントーのように魔力を持っていた人物の霊魂は、再び人間となって生まれ変わるまで、昆虫の姿をとると考えられていた』とあり、前脚を振り上げて左右の鎌を合わせる習性が神託を得るために祈禱を捧げている占い師の姿に見えたのであろう。

「かまきり」「蘭の花に似たもの」これはしばしば華麗な擬態として映像で見ることのあるハナカマキリ Hymenopus coronatus である。以下、ウィキカマキリ」の当該種の記載によれば、分布は東南アジアで、一齢幼虫は花には似ておらず、赤と黒の二色で同地域のカメムシの一種に似ており、ベイツ型擬態(自己防衛を目的として他の有毒種に擬態すること)と見られる。二齢幼虫は脚の腿節が水滴型に平たくなり、体色もピンクや白で、ラン科の花に体を似せており、英名も“Orchid Praying Mantis”(蘭を装うカマキリ)と呼ばれ、擬態をしている昆虫として代表的な種である。但し、成虫になると体が前後に細長くなってカマキリらしくなり、あまりランの花には似なくなる。ヒメカマキリ科だが日本のヒメカマキリとは性質が大きく異なり、共食いもする。オスは体長三センチメートルほどで、メス(約七センチメートル)の半分にも満たない、とある。属名“Hymenopus”は恐らくラテン語の婚礼の神“Hymen”(これは処女膜の語源でもある)由来、種小名“coronatus”は“corona”(花環・古代ローマで戦勝を祝して授けた花の冠。無論、太陽のコロナも同語源)であろう。]

一言芳談 四十七

   四十七

 

 敬佛房云、後世の學問は後世者にあひてすべき也。非後世者(ひごせしや)の學生(がくしやう)は人を損ずるがをそろしき也。虵(へび)の心をば虵がしるやうに、後世の事をば後世者がしるなり。たとひわが心をば損ずるまではなくとも、人の欲をましつべからむ物をば、あひかまへてく不可持之(これをもつべからず)。

 

〇非後世者、智解(ちげ)胸に滿ちたりとも、無常を知らず、辯論世にすぐるゝとも、來生の事を思はぬ人は非後世者なり。

〇虵の道をば虵が知る、世話にいふ事なり。智論偈曰、智人能知智、如虵知虵足。

 

[やぶちゃん注:Ⅱは「學生」を「學問」とするが、Ⅰ及びⅢを採った。「蛇」の表記も同じ。

「後世者」念仏によって救われるという純粋「智」を知る者。

「非後世者」Ⅱの大橋氏脚注に「一言芳談句解」には、

非後世者の學生とは、身と口と心とあはざる學者の事をいふ。

とある(正字化した)。ところが氏は、これを『念佛行者でないもの』と訳しておられる。こうしてしまうと、浄土教以外の僧衆を指し、極めて偏狭なファンダメンタリズムに堕すように思われる。ここは前段を受けて、学識に奢った学僧を言っているものと私は解する。

「人の欲をましつべからむ物」人の欲をそそるような対象。

「智論偈曰、智人能智、如虵知虵足。」Ⅰの訓点を参考に書き下す。

 智論の偈に曰はく、智人は能く智を知る、虵の虵足を知るがごとし。

「智論」は「大智度論」(龍樹の著作とされる書で「摩訶般若波羅蜜経」(大品般若経)の百巻に及ぶ注釈書)で、これは同書の「巻第十之下」に以下のようにある。

復次唯佛應供養佛。餘人不知佛德。如偈

 智人能敬智  智論則智喜

 智人能知智  如蛇知蛇足

以是故諸佛一切智。能供養一切智

個人tubamedou氏のHP「つばめ通信」にある「大智度論門」の訓読には以下のようにある。

また次ぎに、ただ仏のみ、まさに仏を供養すべし。余人は仏の徳を知らず。偈に説くが如し、

『智人は、能く智を敬い、智論ずれば則ち智喜ぶ

 智人は、能く智を知り、蛇の蛇足を知るが如し』、と。

ここを以っての故に、諸仏の一切智は、よく一切智を供養したもう。

また、そこには以下のような現代語訳が示されてある(一部の改行を続け、字配を変えさせて戴いた)。

また次ぎに、ただ、『仏』のみが、『仏を、供養する』に相応しいというのは、その他の人は、『仏の徳』を、知らないからです。これを、歌にして説いてみましょう、――

 『智慧をもて智慧を敬い、論議せば智慧は喜ぶ、

  智慧にして智慧を知るとは、蛇なれば蛇足知るべし』、と。

この故に、『諸仏の一切智のみが、一切智を供養できる』のです。

また、「偈の別訳」として文語定型訳も併記されおられる。これも引用させて戴く。

  智慧ある人は敬わん、智慧ある人を敬わん、

  智慧ある人の論ずれば、智慧ある人ぞ喜ばん、

  智慧ある人は知りぬべし、智慧ある人を知りぬべし、

  蛇なればこそ知りぬらん、蛇の足をば知りぬらん。

この「虵(じや)の虵足(だそく)を知るがごとし」とは面白い謂いである。「蛇(じゃ)の道は蛇(へび)」の諺(この語源説には大蛇(「じゃ」)の通る道は小蛇(「へび」)さえもよく知っていると蛇の読みによる差別化した説もある)に知られた「戦国策」の「斉策」の逸話から生まれた「蛇足」(まさに本条にぴったりの、「知足」(足ることを知れ)で、余計な事や不必要な事の譬えである)を合体させてあり、謂わば――蛇は蛇だからこそ自分に足などないことを知っている、則ち、蛇のような畜生でさえ、足ることを知っているのだ――というのである。実に面白い。]

2012/12/29

ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ 藪野直史


僕の愛してやまない映画「誓いの休暇」をこれより語り始める(なお、新たにブログ・カテゴリ『ソヴィエト映画グレゴーリー・チュフライ監督作品「誓いの休暇」論 或いは 待つ母というオマージュ』を創始し、『映画』ではなくそちらで掲載することとする)。これは僕が野人となる直前に「約束」したことであったが、結局、今日まで実践し得なかった。それには僕なりの「覚悟」が必要であったから、と弁解しておくに留めよう。僕にはそれなりに「覚悟」が出来た気がする。それだけのライフ・ワークにこれはなるということである。
 本プロジェクトを――そう言上げした際に――エールを送って呉れた――古い教え子の上海在住の知喜君及び新しい教え子のイタリア留学中の研太君――の二人に捧げる   藪野直史


 私の愛してやまない映画「誓いの休暇」は、原題を

БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ” (バラーダ・ア・ソルダット 「ある兵士のバラード」)

と言い、そのスタッフは、

製作:モスフィルム Мосфильм

監督:グレゴーリー・チュフライ Григорий Чухрай

脚本:ワレンチン・イエジョフВалентин Ежов/グレゴーリー・チュフライ

撮影:ウラジミール・ニコラエフ Владимир Ивашов/エラ・サベリエワ Эра Савельева

美術:ボリス・ネメチェク Борис Немечек

音楽:ミハイル・ジフ Михаил Зив

キャストは、

スクヴオルツォフ・アレクセイ(アリョーシャ)Скворцов АлексейАлёша):ウラジミール・イワショフ Владимир Ивашов

シューラ Шура:ジャンナ・プロホレンコ Жанна Прохоренко

アリョーシャの母エカテリーナ Катерина:アントニーナ・マクシモーワ Антонина Максимова

将軍:ニコライ・クリュチコフ Николай Крючков

負傷兵ワーシャ Вася:エフゲニイ・ウルバンスキイ Евгений Урбанский

その妻:エリザ・レジデイ Эльза Леждей

軍用列車の兵士ガヴリルキン Гаврилкин:アナトリイ・クズネツォフ Александр Кузнецов

軍用列車の少尉:エフゲニイ・テレリン Евгений Тетерин

他によるもので、フルシチョフの雪解け時代、

1959年製作

になる、

モノクローム 1時間35分 ソヴィエト映画

である。因みに本邦での初公開は、昭和35(1960)年11月(因みに私はこの時、3歳と9ヶ月であった。無論、初公開は見ておらず、恐らく実見はNHKのTVで小学校高学年の時と記憶する。その後、三度程、同じNHKで観た後、大学生になった1975年頃に初めて映画館で見、その後、映画館ではもう一回、ヴィデオ・レーザー・DVD等、発売されたソフトは総て所持しており、全篇の総視聴回数は映画化を含めて恐らく二十回を下らない)。

 本作は1960年のカンヌ映画祭最優秀特別作品賞・サンフランシスコ国際映画祭監督賞・ロンドン国際映画祭監督賞・テヘラン国際映画祭銀メダル(監督賞)・ミラノ国際映画祭名誉賞及び同イタリア批評家連盟賞などを受賞、同年第三回全ソヴィエト映画祭でも最優秀作品賞及び同最優秀監督賞と映画評論家特別賞の三賞を受けた。

 執筆に際しては、2000年IVC発売のRUSSIAN CINEMA COUNCIL企画・制作のDVDRCFF-1018)「誓いの休暇」所収の本編及びチュフライ監督のインタビュー等の特典の映像と邦訳字幕及び英語字幕、映画評論紙「イスクゥストヴォ・キノ(映画芸術)」一九五九年四月号に掲載された同作のキノ・ポーベスチ(文学シナリオなどと訳される。通常の日本で公開される際のパンフレットに載る外国映画のシナリオはスーパー用台本の翻訳に画面を採録して追加したものであるが、これは脚本家の書き下ろしたシナリオそのもののこと)の田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳(共立通信社出版部発行の雑誌『映画芸術』一九六〇(昭和三五)年十一月号(第八巻第十一号)掲載)を用いた。字幕は極力英語字幕を参考にして私のオリジナルなものとし、邦文訳の著作権を侵害しないよう勤めたが、田中ひろし氏訳の文学シナリオは必要上、多くの引用をさせて戴いたので、特に田中氏には謝意を表しておきたい。

 手順としては、それぞれのシークエンスごとに、私のオリジナルな映像解析を含めた映像再録を行った上で(但し「□」で示したものは大きなシークエンスの場合もあり、時に1ショット1カットの場合もあり、通し番号全体には絶対的規定属性はない。あくまで、私の再現上での便宜のために仮に附したものに過ぎない)、「■やぶちゃんの評釈」として、私の附言したい解析や「文学シナリオ」との比較などを行った。【始動 2012年12月29日】

 

 

□1 プロローグ

 

〇田舎道。春。

手前の日向の中に、何れも真っ白な十数羽の鶏とアヒルが三々五々に群れを作って、何かを啄みつつ、ゆっくりと動いている。鶏とアヒルの鳴き声。

左奥の向こうの道奥から、黒っぽい服と黒いショールを纏った女性(主人公アリョーシャの母でエカテリーナである。以下、「エカテリーナ」とする)が木蔭の中をゆっくりと、しかし何か毅然とした雰囲気を漂わせながら歩んでくる。

左(左には画面外の左奥に斜めに延びる道があるらしい)から三人の乙女が笑いながら走ってインすると同時に鳥たちが吃驚して少し跳ね飛ぶ。インした三人が画面右手母の方に踵を返すが、その時、右手から更に二人の乙女が彼らに加わる。それに更に加えて、画面右手のやや高くなった方(奥に田舎のログ・ハウスとその手前に車の前半分が見える)から、やはり三人の乙女が五人と等速度の小走りで加わって笑い声が最高潮に達する。その際、娘たちは道の右手に四人、左手に四人に別れる。

エカテリーナを認めて、すれ違う際、彼女たちの笑い声は一瞬途絶え、彼女たちも、何か、神妙な感じで歩む。

が、エカテリーナを行き過ぎると、笑い声が、再び起こり、娘たちはまた陽気なスキップになる。

左の高い位置にも道があり、そこを左手前(自家用車の手前)からインした自転車の男が、速いスピードで奥へと走り抜け、右手にある並木(電柱も立っている)の奥を、娘たちの歩むこちらの道へ抜け、娘たちの彼方へ消える。

この時、カメラはさっきの自家用車の全景が写る位置まで手前に移動している。

さらにここで我々は初めて腹部の前で掌を重ねて(左手で右手を押さえて)いるエカテリーナの表情を認めるが、それはひどく悲しげで、視線は虚ろである。

右手前から赤ちゃんを抱いた若い女が、右に夫らしい若い男を連れてインする。

二人の左手を通過する間際になって、二人が母に気づいて二人同時に軽く会釈をする(しかし何かそれはひどく軽いもので、それは、二人がこの母に対して挨拶を交わすことを躊躇させる何かがあるような感じを与えるものである)。母も女に気づいて、視線をそちらに向けて、これも軽い会釈のような挨拶の雰囲気が表われる(ここと次の母が赤ん坊を見るシーンから彼女が母のかなり親しい知人であることが観客には分かる)。但し、その表情の憂愁に変化は起こらない。寧ろ、娘の顔を認めた時には(その視界には若き夫も入っている)、硬い表情である。

但し、次の瞬間、娘の抱く赤ちゃんの顔に一瞬眼を落とした、その一瞬だけ――本来、きっととても美しいであろう――この母の笑みが射す。

しかし、再び前を俯いて愁いの虚ろな表情に戻り、等速度で行き過ぎ、画面の左へアウトする。

この行き過ぎた辺りで、二人は立ち止まって、左回りで画面正面を向く。映像上、若い男の顔をはっきりと出すために、男は奥で少し左に移動し、女は画面手前右寄りに近づく。女は去ってゆく母の後ろ姿を追っている。

ここでバスト・ショットになる女は如何にも若い。しかし、母である。そして、その表情には、何かいたましいものを見つめるような悲しさがある(彼女は作品の最後の帰郷シーンに登場するアリョーシャの家の隣人の娘ゾイカ(Зоя:ヴァレンティーナ・マルコバ Валентина Маркова 演)である)。[ここまで1シーン1ショット54秒で撮っている。]

 

〇村外の一面の麦畑の中の田舎の一本道に向かってゆっくりと歩むエカテリーナ(ここは一種のゾイカの見た目になり、前のシーンとの編集が上手い)。

道は一回左にカーブしながら、その先で右に向いた直線となり、その道が一回丘陵上の頂点で見えなくなっている。その彼方にはぼんやりとした高圧鉄塔があって、中央よりやや左にずれて、一種のパースペクティヴの消失点として機能している。なお、道の消えたその遙か向こうには、そこよりもやや高い丘陵が左右に延びているようにも感じられる。

エカテリーナの足音。約2秒後に、本作の印象的なメイン・タイトルの音楽が始まる。

画面中央上寄りまで、エカテリーナが道を進んだところで。

 

〇煽りのショットで奥から手前へエカテリーナが進んでくる。背後には丘陵の遠景。左右に遠く森が見える。

カメラは左右に見えていた森の尖端が少し見える位置まで、ややティルト・アップして、エカテリーナのバスト・ショットで止まる。この時、彼女は最初は手を左右に垂らしており、バスト・ショットで前で先と同じように腹部の前で手を組む(一度、握って、緩めて、また握っている)。

ここでメイン・テーマが一回切れて、不安を感じさせるテーマが流れる。

なお、服装はショールが(恐らく)黒、黒っぽく見えた服は小さな格子状に編まれたものである。

 

〇左へのカーブが終わって右に延びる少し手前からの田舎道。(エカテリーナの見た目)

消失点の高圧鉄塔は、今度は画面中央よりもかなり右に寄ってある。

右手前の、道右側の麦の穂が風に揺れている。

音楽はメイン・テーマに戻る。

ナレーションが始まる。

「この道は町へ続いている……」

「この村から出て行く者たち……」

「この村へ帰って来る者たち……」

「旅立ちも帰還もこの道に拠る……」

 

〇エカテリーナの右手から。肩から上のアップ。痛ましく眉根を顰ませるエカテリーナ。

左の空を電線が四本変わった形(彼女の背後に電信柱が隠れており、そこで直角に電線が折れているようにも見える)右手奥には森と電信柱様のもの、そして別な集落とおぼしいものが見える。

「しかし彼女は誰も待ってはいない……」

エカテリーナは何度か瞬きをするが、その悲痛な眼には涙が光っている。

「彼女の息子――アリョーシャは――戦場から遂に帰らなかった……」

道を見ていたエカテリーナが少し、左の方、広がる麦畑の彼方へと顔と視線をゆっくりと向ける。

と同時にカメラは右回りに回転を始める。

麦畑の向こうに丘陵をすべって、直ぐ近くの麦の中に痩せた木(白樺か)、遠い森、を撮って、

「故郷から遠く離れたロシアの名も附されぬ異邦の地に葬られた……」

また道の左側に戻って、

「彼の墓には見知らぬ人々が花を供えにやって来る……」

道の左カーブが右直線になるところが写し出される(ここまでカメラは九〇度以上右に回った計算になる。最後の位置は、先の同様の画面位置よりもやや後ろの下がった道の左側からの撮影のように思われる。高圧鉄塔は再び画面中央よりやや左手にある)。

その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、

「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」

「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」

この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!

彼女の黒いスカートが風に搖れている。

「彼が生まれたその日から――前線に旅立ったその日まで――ずっと一緒だった……」

「彼は私たちの親しい友であった……」

「私たちはこれから彼についての話をしたい……」

エカテリーナは左から振り返ってこちらに向く(その時、左肩に掛けた黒いスカーフを何故か、一度、外して、また掛けかける)。

「彼女さえ――彼の母親であるこの女性でさえ――知らないことを……」

そして、黒装束にしか見えないエカテリーナは、眼を落しながら、画面の左方向へ消えて行く。

 

〇雲のある空に題名“БАЛЛАДА О СОЛДАТЕ”。“Б”及び“Д”の頭が右に大きく伸びた印象的な字体である。ここは静止画像と思われる。音楽、高まる!

 

〇丘にマリア像のように毅然と佇む、エカテリーナを右に配した、煽りのショット。強い風が彼女に吹き荒ぶ。空の雲は中央に空隙があり、その雲の左には太陽が隠れているように見える。カタストロフのテーマ!

ところが、ここでのエカテリーナのスカーフは《白い》!

 

〇エカテリーナの眼をしっかりと見開いた顔のアップ!

白で! しかも模様の入った如何にもお洒落なスカーフ!

そして彼女の顔は明らかに《若い》!

その、彼女は表情は何かを目撃したような!

その顏が更にアップになりながら、一瞬、ブレて、また焦点が合う! その間、彼女の眼は何かをはっきりと見据えるように、眉が上がり、グッと見開かれる!

目と鼻と鼻唇溝のみまでクロース・アップ!(途中、ピントが外れて、また合う! 皮膚の皺まで見える究極のアップ!)

そこに、向かってくる戦車がオーバー・ラップして!……

 

■やぶちゃんの評釈

 アリョーシャの母を演ずるアントニーナ・マクシモーワは作品の最初と最後にしか出ないが、私は彼女こそが本作の、もう一人の主人公であると考えている。それが、本論の「待つ母というオマージュ」という副題の意味である。

 画面に登場する車は、当初、ボンネットしか映っていないために、農耕用トラックのように見えるが、実は自家用車であることが後で分かるようになっている。これは、まさに大祖国戦争(第二次世界大戦をソヴィエトやロシアはかく呼ぶ)後、数年、ゾイカの結婚と出産から五年年以上は経っていないと推せば、上限1946年から下限は1950年がこの冒頭のシーンであろうかと思われる。則ち、ここでは、若い娘たちが、賑やかな笑い声を立て、農民の中には自家用車まで持つようになっていること、このサスノフスカ(後にアリョーシャが語る村名)という田舎の村さえ十全に近代化されて、平和と豊饒の時代が到来していることを示す。但し、最後のシーンのゾイカの家は、居間の上に電灯線のようなものが下がっており、既に電化されている気配がなくはない。もしかすると、これはランプ掛けなのかも知れないが。私ならそこでランプを配し、その時期の、この村の貧しさを示したい感じはする。当時の日本でもそうだったから。

 ゾイカはエカテリーナの息子であるアリョーシャと幼馴染みで、そして、その最後のシーンを見ても、恐らくはアリョーシャが好きだったのである。父のいない母子家庭のエカテリーナの隣人として、ゾイカは高い確率で、美少年のアリョーシャと結ばれることを自然と考えていた「娘」であったのだと私は確信する。このトラウマを持った哀しい表情に、私はそれを初回に見た瞬間から、直感してきたのである。

 今一つ、驚くべきカメラ・ワークに着目したい。それは、

 

その後、カメラは停止せずに、何か、道を撫でるような女性的なやさしい視線(焦点を道の地面に合わせている関係上、下向きの人の視線のように見える)で道を撮りながら、ゆっくりと今度は右側に後退し始め、

「人々は彼を『英雄』『ロシアの解放者』と讃えるけれど……」

「彼女にとってはただ――彼女の一人の息子であり――彼女の可愛い子供――だった……」

この時、画面の右から、道の《右側に立っているエカテリーナの後ろ姿》が現われるのだ!

 

と、私が解説した部分である。これはカメラ位置を十全に認識している鋭い観客から見ると、不思議なのだ。則ち、ここでチュフライはエカテリーナ役のアントニーナ・マクシモーワにカメラの後ろを廻って右手に行くことを指示し、観客がエカテリーナが画面の「左」にいるものと思っている観客の「意識を裏切って」、右から出現させるのである。私はこれと同じ手法を多用する映画作家を知っている。私の愛するアンドレイ・タルコフスキイである。そして、実はチュフライはタルコフスキイの師――それが正しくないとすれば、兄弟子に相当する人物であり、タルコフスキイは終生、彼への敬意を忘れなかった相手なのである。タルコフスキイ作品を語る者は、チュフライを語らずんばあらず――これが私の発見した深い感懐なのである。タルコフスキイの場合は、この手法はある霊的な意味を確信犯で込めているのだが、しかし私は、それをこの法然チュフライから授けられたのだと見る。チュフライは超自然的な力を映画が確かに持っていることを、知っていた。それがこのシーンであり、親鸞タルコフスキイはそれを恐ろしいまでに純化して自身の映像に反映させた――異論のある方は、いつでも応じよう。

 次に、文学シナリオを見よう。

 冒頭には、

   この映画を祖国のための戦いに散った、我々の仲間である兵士に捧げる。

とある(以下、田中ひろし氏訳になる『〈文学シナリオ〉「ある兵士のバラード」』の全訳からの引用)。ここに、チュフライの映画製作の、「心」が示されており、それは、ナレーションの最後に相当する。これをソヴィエト映画の強制的常套語だ、などと言う輩は、これ以上、私の本論を読むことを辞められたい。これは、大祖国戦争を実体験として経験した人間にとって、言わねばならぬ真意であったのである。

   《引用開始》

 現在の農村。陽気な休日の宵。暮れかけたばかりなのに、家々の窓にはもう灯が明るく輝いている。遠く離れたコルホーズのクラブでは、若者達が集っている。そこでは街灯があかあかと燃え、音楽が聞えて来る。しかし、ほかの村角は空虚と静寂に沈んでいる。こんな時間には路上で人に会うことも稀である。お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎるか、恋人達が黙ってすれ違うか、クラブヘ急ぐ娘達のグループが走り去って行くか、そのくらいのものである。

   《引用終了》

 実際の映像は『宵』ではないことは明白である。これは光量の問題もあるが、実際の映像の方が、確かに効果的である。「コルホーズのクラブ」という記載は、脚本検閲への配慮のように私には思われる。この時代でも、勿論、ソヴィエトは社会主義的政策への讃歌的内容の有無を脚本に求めていた。

 「お客に行く若い夫婦者が赤ん坊を抱いて通り過ぎる」という部分に子を持った母ゾイカを登場させ、本作全体の中に美事に有機的に位置づけて、同時に、本作が如何なる物語となるかを――則ち、私の言う『母の物語』としての――伏線として提示した手腕は、これ、絶妙である。

   《引用開始》

 一人の黒い衣裳をまとった婦人が村の通りを歩いて行く。娘達は、すれ違う時、一瞬笑声を止めた。しかし、この婦人と挨拶をかわすと、また自分達の道を駆けて行く。ほかの通りで婦人は若い夫婦者と会う。若者は彼女に丁寧に挨拶する。彼女は、ほほえみながら返礼して行き過ぎてゆく。村の囲いを出ると、彼女はそこにたたずむ。そして、広々とした耕地の中を遥かに遠い丘に続いている道を、見つめている。

(ナレーション)

『この道は我々の州都に通じている。そこには、二つの高等学校と一つの工場、そして鉄道の駅もある。我々の村を出て行く者も、やがて故郷に帰って来る者も、この道を通って行き、また通って来るのである。』

『彼女がそこに現れるようになってもう何年の年月が経つだろう。いや、彼女は誰も待ってはいない。彼女が待った息子のアリョーシャは戦争から帰って来なかった。彼女は息子が帰って来ないことを知っている。彼の遺体は、ふるさとを遠く離れた外国の村に葬られた。春がやって来ると異郷の入々は、彼の墓に花をたむけた。人々は彼を、ロシヤの兵士、英雄、また解放者と呼んだ。しかし彼女にとって、彼はただの息子のアリヨーシャであり、生れてから戦場へこの道を去って行くまで、そのすべてを知っていた可愛い子供なのであった。彼は我々の仲間であった。我々は、彼とともに前線にいた。だから我々は、彼の母親もそのすべてを知らない、彼の物語を始めよう。』

  《引用終了》

 ナレーションは文学シナリオをほぼ忠実に再現している。則ち、このナレーションこそが、どうしてもチュフライの言いたかったことである、ということを我々は心せねばならぬのである。

  《引用開始》

 ……黒い衣裳の婦人の姿が、ゆっくりと変る。それははるかに若いが同一の婦人である。彼女は同一の場所に立っている。しかし、彼女の背景には新しい村の明るい家屋はない。そこには、戦時中の陰鬱な百姓家が建っている……。

 強風が彼女の着物の裾を吹き上げ、頭からネッカチーフを吹き飛ばす。黒雲が空に渦巻いている。

 婦人は遠くを見つめている。風は、さか立ち、ひん曲った大地を吹きまわる。バラ線に唸りを上げ、黒々とした塵埃を原野に吹き上げる、

 ここは戦場の最先端である。

   《引用終了》

 ここは脚本を忠実に再現する(というか、文学的な時間の跳躍を映像化する)ことが難しい。実際の映像はそれを、エカテリーナの若返りで、非常に上手く表現している。ただ、過去への回帰が、非常に短い映像であることから、観客には十全にそれが理解されなかった可能性は拭えない。実際に愚鈍な私は、三度目ぐらいで、初めて、彼女のスカーフの違いや表情の若々しさに気づいた。それにしても、メイクもさることながら、汗腺まで見えるような超アップでも怖気ぬアントニーナ・マクシモーワの「若さ」の演技に、私は脱帽するのである。

 最後に。実は、これらのシークエンス全体にはオープニング・タイトルが被る。その解説は一切、行っていない。この時代としては普通な仕儀ではあるのだが、私としては、折角の印象的な冒頭シークエンスなだけに、少し残念な気がしている。

 

 

一言芳談 四十六

   四十六

 

 敬佛房云、非人法師の身に學問無用といふことも分齊(ぶんざい)あるべき事也。器量あらむものは、如形(かたのごとく)往生要集の文字よみ風情の事をもて、生死無常のくはしきありさま、念佛往生のたのもしき樣など、時々はくり見るべき也。されば、僧都御房も念佛者の十樂おぼえざらんは、無下の事也など仰せられたる也。又學問すべしといへばとて、一部始終を心得わたし、文々句々分明(ぶんみやう)に、存知(ぞんじしら)せむなどいふ心ざしは、ゆめゆめあるべからず。たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體(てい)なり、大要(たいえう)貴(たつと)き所くりみるほどの事なり。此(この)故實を得つれば、相違なし。教(をしえ)の本意(ほんい)後世にすゝむ、大なる要(かなめ)となる也。又これ程の事なりとも、我執名聞(がしうみやうもん)もまさる樣におぼえば、一向に可停止之(これをちやうじすべし)。藥を毒となす事、返々(かへすがへす)をろかなる事也。一文一句なれども、心得によりて念佛もまめにおぼえ、後世の心もすゝみ、いそぐ樣なる心ばへいでくる體におぼえば、たうとき文どもをも、時々ははみるべき也。但(ただし)、天性(てんせい)器量おろかならんものは、これはどの學問もなくとも、一向稱念すべき也。行(ぎやう)を眞心(まごゝろ)にはげまば、教(おしへ)の本意(ほんい)にたがふべからず。信心道心(しんじんだうしん)も、行(ぎやう)ずればおのづからおこる事なり。

 

〇非人法師、和俗に、遁世の僧を非人といふなり。金剛寶戒(こんごうほうかい)章にもあり。

〇形の如く、おほかたにならふ事なり。

〇十樂、聖衆來迎(しやうじゆらいがう)、蓮華初開(れんげしよかい)、身相神通(しんさうじんづう)、五妙境界、(ごめうきやうがい)、快樂無退(けらくむたい)、引接結緣(いんぜふけちえん)、聖衆倶合(しやうじゆぐゑ)、見佛聞法(けんぶつもんぽふ)、隨心僕佛(ずゐしんぐぶつ)、増進佛道(ぞうしんぶつだう)。

〇我執、われありがほにおもふ心なり。

〇停止、やめやむるなり。

〇たふとき文、往生極樂をすゝむる經釋の事なり。

〇天性、うまれつきの事なり。

〇まごゝろ、まことの心なり、眞心。

〇行ずればおのづから、信心道心をこしらへて後に念佛せんと思ふは未練のゆゑなり。たゞまづ行ずべきなり。稱名こゑすみぬれば、いかにも信心うごかずといふ事なし。されば覺鑁(かくばん)上人も信は聲をいだすにおこるとのたまへり。

 

[やぶちゃん注:本条はその結論から言えば、学識の無効性を述べていると言って差し支えない。冒頭、才能や理解力のある人間はと限定して、その才覚を以って「往生要集」の素読をせよ、と言っているように思えるが、私はこれは大橋氏が訳されるような「素読ぐらいは」の謂いではないと考える。実際、次に敬仏房は「たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體なり、大要貴き所くりみるほどの事なり。」(大橋氏訳『ただ、素読などしたときに、容易に理解できるぐらいのことでよく、大事なところ、貴いところは本をひらいて見るぐらいでよいのです。』)と述べており、これは実はアカデミックに解釈したり、湛澄や大橋氏や私が注を附したりするようなことは、敬仏房は否定しているのである。即ち、「素読」こそが「肝要」なのである。言わずもがな乍ら、往々にして知識欲の増大は奢りへと容易に変化する。だからこそ、やはり敬仏房は「又これ程の事なりとも、我執名聞もまさる樣におぼえば、一向に可停止之」と述べ、「藥」(学識)がかえって「毒」(往生の障り)となるようなことは致命的に「返々をろかなる事也」とまで言うのである。そもそも智に奢る者こそが、無辺の大慈悲心という仏法の真意から見れば、実は「天性器量おろかならんもの」であるのだから、即ち、我々「天性器量おろかならんもの」たる衆生は須らく「一向稱念」、只管、念仏を唱えるがよい、そのように「行を眞心にはげまば、教の本意にたがふべからず。信心道心も、行ずればおのづからおこる事なり」と述べている、最終章こそが敬仏房の真意であると読むべきである。

「分齊」Ⅰは「分際」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「文字よみ」素読して。

「生死無常のくはしきありさま」Ⅰは「生死無常のいとふべきことわり」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「僧都御房」Ⅰは「明遍僧都御房」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「十樂」念仏行者の十種の楽しみを言う法数。標註にあるが、それぞれを解説すると、「聖衆來迎」楽(仏様が迎えに来る楽しみ)、「蓮華初開」楽(己自身の仏性花である蓮華が花開く楽しみ)、「身相神通」楽(己自身に神通力が具わる楽しみ)、五妙境界、(眼耳鼻舌身の五感が清浄になる楽しみ)、「快樂無退」楽(以上の様態の変化によって極まりのない快楽を受ける楽しみ)、「引接結緣」楽(自由自在に人を救えるようになる楽しみ)、「聖衆倶合」楽(至善の仏と出逢う楽しみ)、見佛聞法(仏を正しく見、その正法を聞く楽しみ)、隨心僕佛(思うままに素直な供養が出来る楽しみ)、増進佛道(さらに仏法の世界が深まり広がってゆく楽しみ)。

「此故實を得つれば、相違なし。大なる要となる也。」Ⅰは「此故實を得つれば、教(けう)の本意(ほんい)に相違せずして、後世にすゝむ大要(だいえう)となるなり。」とある。意解に過ぎ、「大要」などの言辞も生硬で採らない。Ⅱ・Ⅲに拠った。この場合の「故実」とは、そうした(素読による直観的理解や要綱要所の披見という)習慣の謂いである。

「金剛寶戒章」法然の奥義書とされるが、偽書説も強い。

「覺鑁上人」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、ウィキの「覺鑁」に拠った)。]

2012/12/28

妻の病いとお揃いでへバーデン結節発症 附プロジェクト延期

私ごとながら、一ヶ月前から左中指の第一関節に痛みがあり、右の薬指の第一関節にもこの数日違和感が出たので、今日の午前、リュウマチを疑って、リハビリに通っている整形で診てもらったところ、幸い、リュウマチではなかったものの、変形関節症(妻は変形股関節症)の一種であるへバーデン結節の診断を受けた。レントゲンを見る限りでは骨変形(棘状の突起が生ずるらしい)はまだ現認出来なかったが(ということは結節は出来ていない初期ということである)、指の関節が左右とも全体に詰まって(軟骨がすり減って)いる状態にはあった。
 へバーデン結節――僕好みの、このカタカナ名(発見した医師の名)はクソ事大主義的で――「いいね!」だ――。
 今のところ、生活の不便は特になく、必ずしも強い変形にならない場合もあるようだし、ともかくもまずはリュウマチではなかったので安心した。

なお診察とリハビリに半日かかったため、本日起動する予定だったあるプロジェクトは明日に延期する。

一言芳談 四十五

   四十五

 

 敬佛房云、後世者(ごせしや)はいつも旅にいでたる思ひに住するなり。雲のはて、海のはてに行(ゆく)とも、此身のあらんかぎりは、かたのごとくの衣食住所なくてはかなふべからざれども、執(しふ)すると執せざるとの事のほかにかはりたるなり。つねに一夜のやどりにして、始終のすみかにあらずと存ずるには、さはりなく念佛の申さるゝ也。

 いたづらに、野外にすつる身を、出離のためにすてゝ、寒熱(かんねつ)にも病患(びやうげん)にもをかさるゝは、有がたき一期(いちご)のおもひ出かなと、よろこぶ樣なる人のありがたきなり。

 

〇始終のすみかにあらず、十因云、實一生假棲、豈期永代乎。

 世の中はとてもかくてもおなじこと、宮も藁屋もはてしなければ。

〇よろこぶやうなる人のありがたきなり、身命を惜しまぬ人、世にまれなり。

 

[やぶちゃん注:「つねに一夜のやどりにして」私なら次の発句を示して注としたい。

 世にふるも更に時雨のやどりかな 宗祇

 世にふるも更に宗祇のやどりかな 芭蕉

「野外にすつる」Ⅱの大橋氏は脚注で、『風葬(曝葬)のたぐい。』とされ、「一言芳談句解」に『いたづらに野外にすつるとは、鳥べ山のけぶり、立去らぬ共云、かゝらん後は何にかはせんと、みさゝぎ(陵)をなげきし心なり』とある、とする。

「十因云、實一生假棲、豈期永代乎。」Ⅰの訓点を参考にしながら訓読すると、

 十因に云く、實(げ)に一生は假の棲か、豈に永代を期(ご)せんや

となる。「十因」は「往生拾因」。平安後期の三論宗の東大寺僧侶、永観(ようかん 長元六(一〇三三)年~天永二(一一一一)年)の撰。一巻。念仏が決定往生の行であることを十種の理由(因)をあげて証明し、一心に阿弥陀仏を称念すれば、必ず往生を得ると明かした書で、法然の専修念仏の先駆として注目される。Ⅱの大橋注では「一實に一生は假の棲」となっている(正字化して示した)が、電子化されたで確認すると、同書の「序」にある言葉で「籠石室人 終遭別離之歎。實一生假棲 豈期永代乎。而今倩思 受何病招何死哉。重病惡死一何痛哉。」である(正字化した)。

「世の中はとてもかくてもおなじこと、宮も藁屋もはてしなければ」は「新古今和歌集」の蝉丸(生没年不詳。平安前期の歌人にして隠者)の和歌(一八五一番歌)。

 世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋もはてしなければ

「はてしなければ」は「結局、最後にはなくなってしまうのだから」の意。諸本に載るが、第三句を、

 世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁屋もはてしなければ

 世の中はとてもかくてもすぐしてむ宮も藁屋もはてしなければ

とする本が少なくない(水垣氏のとうた」の「蝉丸」を参考にした)。]

2012/12/27

トモダチ作戦参加の米兵8人 東電に94億円賠償請求 (すべて引用)――だからね、友達なんて、いねえんだよ!

 東日本大震災後、三陸沖に派遣された米原子力空母ロナルド・レーガンの乗組員8人が27日までに、東京電力福島第1原発事故の影響が正確に伝えられず被ばくし健康被害を受けたとして、同社を相手に計1億1000万ドル(計約94億円)の損害賠償を求める訴えをカリフォルニア州サンディエゴの米連邦地裁に起こした。米メディアが伝えた。

 乗組員らは、米軍による被災地支援の「トモダチ作戦」で急派され、搭載機が発着する飛行甲板などで作業していた。東電によると、事故収束作業をめぐり、海外の裁判所で同社が訴えられたケースはないという。

 東電は「訴状が届いておらず、コメントは差し控えたい」としている。

 訴えたのはロナルド・レーガン乗組員のリンゼイ・クーパーさん(階級不明)ら。米兵8人のほか、その家族1人が原告に加わっている可能性もあるという。

 原告側は、東電が米軍や市民に対し、事故で放出された放射性物質の危険などについて「事実と異なり、誤解を招く情報」を広めたと主張。米軍側は安全だと信じてトモダチ作戦を遂行したため、乗組員が被ばくし、がんのリスクが高まったなどとしている。

 米メディアによると、8人は実際の被害に対する金銭補償としてそれぞれ1000万ドルを請求。これとは別に、算定不能な精神的苦痛や再発防止に向けた抑止効果を狙った「懲罰的賠償」として、全員で合わせて3000万ドルを請求した。

 トモダチ作戦は震災発生2日後の昨年3月13日から開始され、空母などを投入し支援物資を輸送するなどした。在日米海軍司令部(神奈川県横須賀市)は「こうした訴えがこれまでに起こされたという話を聞いたことはない」としている。(共同)

さても

おっぱじめようか! ♪ふふふ♪

芥川龍之介漢詩全集 三十三 了

   三十三

 

異花開絶域

滋蔓接淸池

漢使徒空到

神農竟不知

 

〇やぶちゃん訓読

 

 異花(いくわ) 絶域(ぜついき)に開く

 滋(しげ)れる蔓(つる) 淸池に接す

 漢使 徒(いたづ)らに空しく到る

 神農(しんのう) 竟(つひ)に知らず

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介が残した現在知られる生涯に最後の漢詩である。龍之介満三十二歳。以下、当時の事蹟その他については、前の「三十二」の注冒頭を参照のこと。

本詩は前の「三十二」と同じく、

大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」

の、掉尾に置かれているものである。以下、前の「三十二」の注に掲載した「ひとまところ」全文を参照されたい。
――実は本詩について私は前の「三十二」と同様、既に二〇一一年五月七日のブログ「龍之介よ、スマトラのわすれな草の花、見つけたよ」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、「三十二」と同じく、本頁での評釈に合わせて記載をし直して示すこととする。

 まず、本詩については平仄と韻を調べた。

 

 異花開絶域

 滋蔓接淸池

 漢使徒空到

 神農竟不知

 

 ●○○●●

 ○●●○◎

 ●●○○●

 ○○●●◎

 

これは平起式の五言絶句の平韻平仄式の、

 

 ○○●●

 ●●○◎

 ●○○●

 ●◎

 

に則っており、韻字である「域」「知」はともに詩韻百六種の平声上平の第四韻「支」である。

 次に、私の勝手な自在なる現代語訳を示す。

   *

……不可思議な一つの花が……遙か遠い……絶海の孤島に……言葉に尽くせぬ美しさで……咲いている……

茂ったその蔓は……あくまで透き通った……そこにある……秘かな……清らかな池に……乙女が美しい手を挿すように……浸っている……

――漢からやって来た勅使――彼らはただ……徒らに空しく……そこに辿り着くだけ……彼らの眼に……その花は……見えぬ……

いや――かの本草の神たる神農でさえも――遂にその花を「示す」ことはおろか……「名指す」ことさえも……出来ぬのだ……

 

 邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第四章 中国旅行後の芥川文学」の『「女仙」への帰着』で、本詩を同年に発表した「第四の夫から」と関連させて解読されており、それによれば「絶域」は同作の舞台チベットであり、花はやはり同作に描写される仙境のシンボル桃花とされる。そうして龍之介は『中国に対する幻想を中国旅行によって破壊された芥川は、愛する田園詩人陶淵明らが生きた時代より、さらに古い漢の時代の中国の使者についてゆき、遠い西域で古き美しい夢をみようとしたのである。しかしこのような精神的な旅も、やはり「漢使」とともにしなければならないところが意味深い。芥川及び芥川文学と中国古典の世界とは切っても切れない関係にあることを物語っているのである』とし、先の「第四の夫から」の話との高い近似性を述べた上で、『夢が破れても、なお東洋のエピキュリアンとして、夢のような精神世界を求めずにはいられない芥川がのぞかれる』。そんな『他の誰にも劣らない生命力を持っていた』はずの『芥川からすべてを奪い去り、』『死に追い込んだのは「時代」である。中国旅行後の漢詩』(邱氏の推定を含め「三十一」から本「三十四」まで)『はわずか四首に過ぎないが、芥川文学の神話構築と崩壊の実態が示唆される点で不可欠な資料だと言える』と、この「第二章 芥川と漢詩」の「第二節 芥川の漢詩」を結んでおられる。「第三節 まとめ」などを含め、ここまでお付き合い戴いた方は、是非、邱氏の「芥川龍之介の中国」をお読み戴きたい。

 さて、以上の邱氏の「異花」についての見解は至当で十全に腑に落ちる解釈であるとは思うのだが、私は本詩を一読して、

「これこそ、あのスマトラのわすれな草の花だ!」

と思わず独りごちたことも事実なのである。――あの芥川龍之介の「沼」に現われる――スマトラのわすれな草の花――である。

   *

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。

   *

この「スマトラの忘れな草の花」は、私が非常に高く評価する小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)の、龍之介が自死を間近に控えた終盤の、印象的なシークエンスで以下のようにも現れる(地の文は私の要約、『 』は引用)。

   *

――龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして、

『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。

訝る多加志に龍之介はこう言う。

『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』

『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』

『その花はね、魂なんだよ』

『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』

と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆく――

   *

と描かれた、あの花である。私はこの漢詩の「異花」こそ、あの、「スマトラのわすれな草の花」なのだと――大真面目に――信じて疑わないのである。それは邱氏に言わせれば、中国神話の世界の仙境の霊花たる桃の花と同じだ、とされるであろうが――やはりこれは――絶望を知った者だけに見える島「ファタ・モルガーナ」の――常人には見えぬ「非在の異花」――「ときじくの花」――なのだ、と私は最後まで拘りたいのである。……私はかつて、「芥川多加志略年譜」の最後に、後、ビルマで戦死することとなる龍之介の次男『多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――』と書いた……よろしければ、そちらもお読み戴きたい。……さすれば、芥川龍之介と芥川多加志の二人の「スマトラのわすれな草の」花供養とも……なろうかと……存ずる……。]

一言芳談 四十四

   四十四

 

 敬佛房云、むかしの人は世をすつるにつけて、きよくすなほなるふるまひをこそ、したれ。近來(このごろ)は遁世をあしく心えて、かへりて、氣(き)きたなきものに成(なり)あひたる也。

 後世者といふものは、木をこり水をくめども、後世をおもふものゝ、木こり水をくむにてあるべきなり。

 某(それがし)は事にふれて、世間の不定(ふじやう)に此身のあだなる事をのみ思ふあひだ、折節につけて、起居のふるまひまでに、あやうき事おほくおぼゆるに、御房(ごばう)たちは、よにあぶなかりぬべきおりふしにも、いさゝかも思ひよせたる氣色(けしき)もなき也。まして、うちふるまひたるありさまなど、よに思ふ事もなげにみゆるなり。さればたゞ、無常の理(ことわり)も、いかにいはむにはよるべからず。さゝかなりとも心にのせてのうへの事也。

 

〇遁世をあしく心えて、されば今の世の遁世者には貪(どん)の字をかくべしといへり。

〇木をこり水をくめども、是は本と末とを知るべしとの心なり。やゝもすれば末が大事になるなり。世俗は身を愛して世をいとなむ。後世者は後世のために萬をいとなむなり。

〇世間の不定に、世間も不定なり。此身もあだなりとなり。

〇あぶなかりぬべき、わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時などなり。

〇打ち振舞ひたる、常になすわざ、支度する事、おほかた常住の思あるに似たりとなり。

〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。

 

[やぶちゃん注:師と思う相手から、かく言われる「彼の弟子を自認する」者の気持ちは、いかばかりであったろう。

――「わが身に病をうけたる時も、又人の死をきく時、世のさはがしき時」であっても、ましてや、「おほかた常住の」日常にあっても何も感じていない連中には、「無常の理も」、どんなに説いたとしても、そなたたちには、分かるまいの、だから、「さゝかなりとも」心にかけておくしか、これ、あるまいよ――

ガツンとくる強烈なパンチ、である。

「〇いかにいはんには、口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。」という標註について、Ⅱの大橋氏の脚注には、この文ではなく、

 是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし

とあるとする。これはどうもⅠとⅡを合体させたものが、本当の註の全文であるように思われる。即ち推測であるが、この標註は、

〇いかにいはんには、是はいふといはぬとにはとあるべきを、かきあやまりたるなるべし。口には何といふもの義か。無念を口にいふにはよらず、心にかけての事なり。

というのが正しいのではあるまいか? 識者の御教授を乞うものである。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 亀井坂/長寿寺/管領屋敷/明月院/禅興寺

 七日源敬公ノ月忌ナル故、早晨ニ光明寺ノ衆僧ヲ招キ齋饌ス。齋シ畢テ卯刻ニ及テ庵ヲ出、東北ノ方へ行。

[やぶちゃん注:現在の亀ヶ谷坂。「源敬公」右に光圀自身による『尾張大納言義直公ノ道號也』という傍注が附されている。これは家康の九男、尾張藩初代藩主徳川義直(慶長五(一六〇一)年~慶安三(一六五〇)年五月七日)のこと。光圀の父徳川頼房は家康の十一男であるから、伯父に当たる。]

  

 

   龜 井 坂

 淨光明寺ノ北東ニアリ。此地ヲ龜井谷ト云。龜井坂ノ入口ニ勝榮寺ト云寺ノ跡アリ。

[やぶちゃん注:「勝榮寺」「鎌倉廃寺事典」に禅宗で所在地未詳とする。元応元(一三一九)年に北条貞時夫人覚海緣成尼の強請により、夢窓疎石が当時に寓したことが「夢窓国師年譜」にあるのが最古の記録で、後には建長寺正統庵の末寺となり、廃年は未詳とする。]

 

   長 壽 寺

 龜井坂ノ下ニアリ。建長寺ノ末寺、尊氏ノ建立也。尊氏ヲ長壽寺殿ト云。束帶ノ影像アリ。

 

   官領屋敷

 明月院ノ馬場ノ南隣ノ畠也。

[やぶちゃん注:「官領屋敷」の「官」は「管」の誤り。]

 

   明 月 院

 龜井坂ノ東北ナリ。建長寺ノ首塔頭也。高嶽院ト明月院ト建長寺ヲ輪番ニ勤ル也。上杉安房守憲方建立、法名道合明月院ト號ス。開山密室禪師、諱ハ守嚴、大覺ノ孫弟子也。密室ノ木像アリ。建長寺百貫ノ御朱印ノ内ニテ、三十一貫文此寺ニ附スト也。

 寺寶

 指月和尚畫像       一幅

 二十八祖唐繪       一大幅ニ畫ス

 趙昌畫          三幅對

 〔中ハ鶴ニ岩木、左右ハ種々ノ牡丹花、細字ニ牡丹ノ名ヲソレゾレニ書付ル。〕

 徽宗鳩畫         一幅

 仲峯自畫自讚       一幅

 〔贊云、天目山下不遠、遠山有眉※、要識幻住眞、畫圖難辨別、春滿錢塘潮、秋湧西湖月、覿面不相瞞、也是眼中屑、遠山華居士冩幻影、請汚老幻、旧本信筆。今ノ住持長老碩岷曰、仲峯國師名ハ明本和尚ト云、旧ハ明ノ字ナルべシト云。〕

[やぶちゃん注:「※」=「目」+「健」。但し、「新編鎌倉志卷之三」の当該項では「睫」である。「旧」は文脈から正字「舊」とはしなかった。]

 布袋木像         一體〔運慶作、極テ奇ナリ。〕

 源義經守ノ佛舍利

 藕絲九條袈裟       一ツ

  黄龍ヨリ千光へ傳へ、千光ヨリ大覺へ傳ルト云。

 氏滿在判ノ明月院地圖   一枚

寺内ニ織田三五郎長好ガ寺トテ、長好院ト云アリシガ、今ハ破レ亡ヌ。其跡トテモナシ。長好院ノ名寶モ皆他所へ散ズト也。明月院ノ寶物モ古ハ多カリシガ、今ハ散失シテ此外ハナシト云。庭除ノ風景殊ニ勝レタリ。方丈ノ西北ニ上杉憲方ガ石塔ノ岩室アリ。十大羅漢ヲ切付タリ。其東ノ畠、古ノ明月院ノ遺跡也トゾ。明月院前住、寛文十二年子ノ十月ニ卒ス。遺偈ノ寫シ。

  建長前住大年寛和尚遺偈、示寂八十一歳、十月廿九日、滅却正法驀直現出、白日靑天寒風拂地

[やぶちゃん注:「寛文十二年」西暦一六七二年。この「大年寛和尚」なる人物と遺偈については「新編鎌倉志卷之三」には不載。この偈の「驀直」は禅語では「まくじき」と読み、真っ直ぐに、の意である。何故、この最近の住持の遺蹟を光圀が記したのか不詳であるが、どうも、現住職碩岷に見せられた、この前住の偈自体に光圀は打たれたのではあるまいか。なお、建長寺絡みでは検索で大年碩寛なる人物の名前だけが検索で引っ掛かるが、現住の「碩岷」という名といい、本人の「大年寛和尚」という名といい、何となく気になる。識者の御教授を乞う。]

 

   禪 興 寺

 明月院ノ門ノ北ニアリ。本ハ十刹ノ第一ナリシガ、今ハ頽破シテ、僅ニ古ノ堂バカリ殘テ、明月院ノ持分也。福源山ト號ス。平時賴建立。開山大覺禪師也。最明寺崇公禪門覺靈トアル位牌アリ。蘭溪ノ付ラレタルト云。筆者モ蘭溪カ或ハホウリンカト云。

 最明寺建立故ニ寺ヲ最明寺トモ云。本尊ハ釋迦、首ハ惠心作ナリト云。

 寺寶

 伊達天像           一軀 運慶作

 蜀大帝像           一軀

 地藏像            一軀 運慶作

 土 佛            一軀 隆蘭溪作

 上杉重房木像         一軀

 北條時宗・時賴木像      二軀

 大覺禪師木像         一軀

 〔傍ニ開山建長大覺禪師ノ坐ト書付シ位牌アリ。大覺ノ自筆ト云。〕

[やぶちゃん注:「伊達天」は「韋駄天」の誤り。

「蜀大帝」は関羽のことか。]

芥川龍之介漢詩全集 三十三

   三十三

 

有客來相訪 通名是伏羲

泉石烟霞之主

但看花開落 不言人是非

與君一夕話 勝讀十年書

天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁

悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖

書外論文 睡最賢

虛窓夜朗 明月不減故人

藏不得是拙 露不得醜

 

 〇やぶちゃん訓読(一行中の二句の間は二字分の空きを入れた)

 

 客有り 來つて相ひ訪ふ  通名 是れ 伏羲(ふつき)

 泉石烟霞の主なり

 但だ看る 花の開落せるを  言はず 人の是非

 君と一夕を話すは 十年書を讀むに勝(まさ)る

 天 若し情有らば 天も亦 老いん  搖々たる幽恨 禁じ難く

 悲火 常に心曲を燒く  愁雲 頻りに眉尖(びせん)を壓す

 書外論文(しよぐわいろんぶん)  睡(すゐ) 最も賢し

 虛窓(きよそう) 夜(よ) 朗らかにして  明月 故人を減ぜず

 藏(かく)し得ざるは 是れ 拙(せつ)  露はし得ざるは これ 醜

 

[やぶちゃん注:龍之介満三十二歳。この詩が書かれた大正十三(一九二四)年九月十八日前後を管見すると、その六ヶ月前の大正一三(一九二四)年四月発行の『女性改造』に「岩見重太郎」、七月一日の『サンデー毎日』には「桃太郎」(この二作は中国旅行との関連が極めて濃厚な作である)が当該九月一日には後の「長江游記」が「長江」として『女性』に発表されている。同年中では一月の「一塊の土」、四月の「寒さ」「少年」等が意欲作と見えるが、全体に「野人生計事」「新緑の庭」などのアフォリズム的な小品(それらがまたよいのであるが)が多い。龍之介の創作停滞への焦燥が見える一年ではある(リンク先は総て私の電子テクスト)。

私はこの詩は、龍之介の中で非常に大きな意味を持っているものであると考えている。それは何故か?――実は本詩について私は既に二〇一一年五月七日のブログ「芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、本頁での評釈に合わせて記載をし直そうと思う。実は、この年の夏、龍之介は軽井沢で運命的な邂逅をしているのである。即ち、

かの「越し人」片山廣子との出逢い

である。片山廣子について、私は多くのテクストや論考を重ねてきたので、ここではもう詳述しないが(私のブログ・カテゴリ「片山廣子」等を是非、参照されたい)、私は、本詩を龍之介が創ったその時、龍之介の中では「越し人」廣子への、掻き毟りたくなりような切ない思いが、正に「悲火 常に心曲を燒く」如く燃え上がって、そのじりじりと焼け焦げるような焦燥の中にあったという事実を、この詩の背景として感じないわけにはいかないからである(その辺りの具体的な事実を、本詩を正当に訂正され評釈された邱氏が理解しておられたかどうかは定かではない。評釈の書き様からはそうした印象はあまり感じられないのが、やや残念ではある)。これが信じられない方のために、一つだけ言い添えるならば、恐らくはこの詩を創作する十三日前、龍之介は廣子から、あの情熱的な手紙(九月五日附)を受け取っているという事実を示すだけで足りよう。以下、私の電子テクスト「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」から「片山廣子芥川龍之介宛書簡Ⅰ 大正一三(一九二四)年九月五日附(抄)」を引用する(記号類の意味や私の論考はリンク先を参照されたいが、論考は結構な量であるから覚悟されたい)。

 

〔略〕あんなに長いお手紙をいただいてたいへんにすみませんでした〔略〕

二十三日にお別れする時に、もう當分あるひは永久におめにかゝる折がないだらうと思ひました。それはたぶん來年はつるやにはおいでがないだらうと思つたからです わたくしがあそこにゐるといろいろうるさくお感じになるかもしれないと思つたのでした。それでたいへんおなごりをしくおもひました。夕方ひどくぼんやりしてさびしく感じました(略)

二十四日もたいそうよく晴れてゐました。もみじの部屋ががらんとして風がふきぬいてゐました。通りがかりにあすこの障子際にステッキが立つてゐないのを見るとひどくつまらなく感じましたそしてつるやぢゆうが靜になつたやうでした。(略)

二日か三日の夜でした氣分がわるくて少し早くねました星が先夜ほどではなくそれでもめについて光つてゐましたふいとあなたのことを考へて今ごろは文藝春秋に小説學の講義でも書いていらつしやるかしらと思ひました それから何も考へずにしばらくねてゐましたがそのあとでとんでもない遠いことを考へましたそれは(おわらひになつては困ります)むかしソロモンといふえらい人のところへシバの女王がたづねて行つて二人でたいへんに感心したといふはなしはどうしてあれつきりになつてゐるのだらうといふうたがひでした。(略)

わたくしたちはおつきあひができないものでせうか〔……〕あなたは今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはないとおつしやいましたが〔……〕

 

即ち、相愛の関係に発展していた廣子への、内なる恋情の炎の只中にあった龍之介の秘密の感懐、それが本詩なのである。

搖々幽恨難禁 悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖

とはまさに、その廣子への思いそのものである。そしてまたこの詩の中にこそ、龍之介がが愛し、私が愛する――李賀がいる――のである。……それは以下の語注に譲ろう。

 

本詩は、

大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」

に所載する。このノートは冒頭に以下の如き明確なクレジットを有するので、創作時期はこの時期と確定出来る。次の「三十三」も含まれるが、全体が一つの連続した龍之介の詩想の中で書かれたものと考えられることから、取り敢えず、ここにその旧全集所載の全文を示しておきたい。なお、底本は旧全集を元としつつ、現在所蔵する山梨県立文学館のものを底本とした新全集の字配(特に冒頭の前書きなど)で示した、

という前書きがある。

 

大正十三年九月十八日如例胃を病んで臥床す 「ひとまところ」は病中の閑吟を錄するもの也

              澄江子

 

   小庵

 朝寒や鬼灯のこる草の中

 秋さめや水苔つける木木の枝

   旅中

 秋風や秤にかゝる鯉の丈

 手一合零餘子貰ふや秋の風

   碓氷峠

 水引を燈籠のふさや秋の風

   枕べに樗良の七夕の畫贊を挂けたり

 風さゆる七夕竹や夜半の霧

   枕頭にきりぎりす來る

 錢おとす枯竹筒やきりぎりす

 煎藥の煙をいとへきりぎりす

 

 有客來相訪 通名是伏羲

 泉石烟霞之主

 但看花開落 不言人是非

 與君一夕話 勝讀十年書

 夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁

 悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖

 書外論文 睡最賢

 虚窓夜朗 明月不減故人

 藏不得是拙 露不得醜

 

 一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、

 

 異花開絶域 滋蔓接淸池

 漢使徒空到 神農竟不知

 

この内、俳句部分については、既に私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」で「ひとまところ」所収分として抽出、語注を附してあるので参照されたい。

次に漢詩の間に挟まれた、不思議な「一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、」なる妖怪の名の羅列は、芥川龍之介画になる「化け物帖」(日本近代文学館蔵)の八点の題名とほぼ完全に一致する。当該画は一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したが、その解説書(産經新聞社刊)十四頁に全図(「1-7」~「1-12」)が載り、そこには一枚を除き、妖怪の絵に添えて題名が脇に添えてあって、

「一目怪」(1-9)、「人魂」(1-7)、「化傘」(1-11)、「のつぺらぼう」(1-10)、「竹林坊」(1-12)

とあるからである。無名の「1-8」は実は「1-7」を元にした彩色画と思われるもので、構図その他が酷似するから、正にこのメモは自画の「化け物帖」全画の備忘録(目録?)として書かれたものと断定出来るのである。

そして、既に、お気づきのことと思われるが、本詩の、

天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁

夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁

となっていて異なることにお気づきになろう。これは、

旧全集も新全集も「夭」表記

となっているもので、旧全集ではなく現物に当たった新全集がこう表記しているということは、実際に現物が「天」ではなく「夭」に見えるということ

なのであろうが、これは邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」の本詩の「解説」で、初めて邱氏によって、

   《引用開始》

書き間違いか誤植か不明であるが、第六句「夭若有情」の「夭」は「天」の間違いである。

   《引用終了》

と指摘されたものである。邱氏がわざわざ『書き間違いか誤植か不明であるが』としながら、『間違いである』と断定なさっているのは、これが李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの引用であり、中国語として「夭」では意味が通らないということが判然としており、「天」以外に文意が通じないからでもあろう。これは、実際に本詩を読もうした際、どうしても意味不明な事実からも明白であったなずなのだが、中国人の邱氏がこれを指摘なさるまで、これまで誰もこのことに気づかなかったというのは(邱氏に先行する村田秀明氏の「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)で指摘されているかどうかは、当該論文を未見なため不明。芥川龍之介の、容易には目に入らないような研究者の論考での指摘は過去にあるのかも知れないが、一般人の目に入らないというだけで、その論文は――アカデミズムの所産であろうが何だろうが――「糞」でしかないと、私は考えている)、私を含めて「芥川龍之介を愛する日本人」として恥ずかしいことであると私は思うのである。それだけ、この奇抜な詩を本気で読もうとした自称「芥川龍之介研究者」が一人もいなかった、という衝撃的な哀しい事実が暴露されたことにほかならないからである。

 

 以下、本詩については語釈を示さず、邱氏の現代語訳を参考にしながら書いた私の訳を示す(訳中で語彙の分かるように勤めたつもりではある)。特に邱氏のそれでは、私のよく分からなかった最後の六句「書外論文 睡最賢/虚窓夜朗 明月不減故人/藏不得是拙 露不得醜」で啓示を得た。ただ私は、これを牽強付会と知りつつも、この「故人」を「旧知・旧友」(又は古き詩人の意か?)ではなく、「心焦がれる恋人」(勿論、廣子のこと)と採って訳したことを言い添えておく。

 

   *

客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々の長(おさ)じゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……

彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼(たれかれ)の人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……

君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……

天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない! 目が眩むような激しい愁いが僕の胸の中にはあって、どうにもならないんだ!……

その悲しみは、火の如く心中に炎を上げてる! 僕の眉は、その愁いのために何時だって顰められてる!……

書物なんか、うっちゃっちまえ! 人の書いたものを批評するなんてぇのも、もう、やめだ! 何より遙かに賢いのは……ただ……眠ること、さ……

 

――今宵……明月は紗のカーテンの掛かった窓を照らし……その光りは焦がれる恋人の窓下にも同じ如、射している……

――隠し得ぬのは……これ、如何にもな私の「拙劣さ」であり……あなたに見せ得ぬのは……これ、私の真実(まこと)の「醜さ」である……

   *

 以上の私の訳への疑義があれば、是非とも御教授願いたい。特に「明月不減故人」の部分はあやしい。

 一つ、付け加えると

「客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々の長(おさ)じゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……/彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼(たれかれ)の人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……」という部分は訳を考えながら、この年の夏の、軽井沢での廣子との思い出の情景のインスパイアに間違いないと、私には直感的な確証が生まれた。また、

「君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……」の部分は、

正に龍之介と廣子の関係、ソロモンとシバの女王の関係(先の「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」及び芥川龍之介「ぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」を参照)、そして、阿呆一生」の、

 

       三十七 越 し 人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

の前書冒頭の「彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した」の一言を思い出させずにはおかないものであった。更に、

「天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない!」には廣子との大きな年齢差(龍之介満三十二歳、片山廣子四十六歳で廣子が十四歳年上)が意識されているようにも思われる。

 さて、本詩の中に「いる」李賀について以下に述べる。芥川龍之介が李賀を愛読していたことは古くから知られていたことなのだが、私は未だ嘗て、それを裏付ける芥川龍之介自身の筆になる一次資料を見たことがない。邱氏の本詩の「評価」の欄の指摘によって、この「天若有情 天亦老」の部分こそが、李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの援用であることが分かって初めて、私は芥川龍之介の作品の中に、明らかな「李賀の存在を現認した」のである。だからこそ「夭」は真正の誤りだと言えるのでもある。以下、李賀の「金銅仙人辭漢歌」を引用する(「序」があるが省略した)。

 

   金銅仙人辭漢歌   李賀

茂陵劉郎秋風客

夜聞馬嘶曉無跡

畫欄桂樹懸秋香

三十六宮土花碧

魏官牽車指千里

東關酸風射眸子

空將漢月出宮門

憶君淸涙如鉛水

衰蘭送客咸陽道

天若有情天亦老

攜盤獨出月荒涼

渭城巳遠波聲小

 

○やぶちゃんの訓読

 

   金銅仙人漢を辭するの歌   李賀

茂陵の劉郎 秋風の客

夜 馬の嘶(いなな)くを聞くも 曉(あかつき)に跡無し

畫欄 桂樹 秋香を懸け

三十六宮 土花碧(みどり)

魏官 車を牽きて千里を指せば

東關の酸風 眸子(ぼうし)を射る

空しく漢月と將(とも)に宮門を出づれば

君を憶ひて 淸涙 鉛水のごとし

衰蘭 客を送る 咸陽の道

天若し情有らば 天も亦老いん

盤を攜(たづさ)へて獨り出づるに 月 荒涼

渭城 巳に遠く 波聲小なり

 

この十句目に芥川が用いた、

天若有情天亦老

が現われるのである。我々は遂に芥川龍之介の直筆のラインに李賀を見出したのである。

 さて、この詩自体の解釈はそれだけで膨大なスペースが必要なので専門家の諸本に譲るが、要は人が非情無情とするところの対象(仙人の銅像)にも悲痛慷慨の思いがあるとし、李賀はそれに代わってその悲しみを詠んだものであり、私は――龍之介はこの金銅仙人の、否、その李賀の「思い」を――自身の廣子へのやるせなき「思い」と――ダブらせたのだと解釈するのである。

 なお、邱氏はその「評価」で、この漢詩全体が、幾多の中国古来の常套句や諺、複数の詩人の詩文からの「集句詩」であるということも指摘しておられ、諺や慣用句を逐一指摘(私は邱氏の著作権を侵害することを欲しない。当該書を参照されたい)、李賀以外では、『「悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖」の部分が白楽天の「朱陳村詩」の「悲火焼心曲 愁霜侵髯根」を典拠とし』、「虛窓夜朗 明月不減故人」が『明代陳継儒(一五五八~一六三九)の詩句「幽堂昼深清風忽来好伴虚窓夜朗明月不減故人」の後半部によっている』と指摘され、最後に『中国旅行後に書かれたこの詩』は『作者が失われた神話世界に尚執着していたことを物語っている』の述べておられる。なお、邱氏が指摘しておられない部分で、私が新たにネット上から見出した部分がある。それは冒頭の「有客來相訪 通名是伏羲」の二句で、これは正に邱氏が「虚窓夜朗 明月不減故人」の部分で指摘された陳継儒の、また別の文「岩幽栖事」にそのままある句である(その全文は例えば中文イトなどにある)。その文脈は「問是何往還而破寂寥 曰有客來相訪 通名是伏羲」である。最後に多くの霊感を頂戴し、引用をさせて戴いた邱雅芬氏に心より謝意を表して終わりとしたい。

……「天若有情 天亦老」……しかしもう……彼の宿命の時間は余り残されては、いなかったのである……]

2012/12/26

一言芳談 四十三

   四十三

 

 敬佛房云、資緣無煩人(しえんむほんにん)も、のどかに後世のつとめするは、きはめてありがたき也。これをもておもふに、資緣の有無によらず、たゞ心ざしの有無による也。然ば、某(それがし)は資緣の悕望(けまう)は、ながく絶(たえ)たる也。たゞ後世ばかりぞ大切なる。又自然(しぜん)にあれば、あらるゝ也。後世を思ふ人は、出離生死のほかはなに事もいかにもあらばあれと、うちすつる意樂(いげう)に、つねに住するなり。佛の御心に眞實にかなひて、誠の供養なる事、たゞいさゝかも、出離の心をおこすにある也。有待身(うたいしん)、緣をからずといふことなければ、紙衣(しえ)、自世事おりにしたがひて、いとなめども、大事がほにもてなして、後世のつとめにならべたる樣に思ふ事、返々(かへすがへす)無下(むげ)の事也。

 

〇敬仏房云、資緣(しえん)の氣遣をやめよとのすゝめなり。

〇資緣、衣食住(えじきじゆう)のたすけなり。

〇悕望ねがひのぞみなり。

〇又自然にあればあらるゝなり、佛藏經の説のごとく、釋尊白毫相(しやくそんびやくがうさう)の餘輝(よき)をたまはるゆへに、成り次第にしてもなるものなり。

〇誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。

〇有待の身、衣食(えじき)をかる血肉の身。

〇後世のつとめにならべたる樣に、今の世の僧はまづ衣食を大事として、後世の事を思はぬなり。浮世(ふせい)の小節(しようせつ)と出離い大事とをわきまふべし。

 

[やぶちゃん注:「資緣無煩人」Ⅰの本文では「資緣煩ひ無き人」と訓読している。私はⅠの方が直言としてはいいと思う。「無煩人」は心配のいらない人。

「資緣の有無によらず」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、

峰の通ひ路にすみやき谷のけはしきに、いづみをつるも、すて人の手ばさ(き)なるべし。我雪山童子の仙人につかへたるも、資緣はなく、漁父が澤畔にさまよひしも、たすけある躰にはきこえず、たゞ有ればあらるるまでの事なり。所詮資緣によらず、心による也。

とあるとする(引用に際して正字化した)。

「有待身」Ⅱの大橋氏脚注に、「一言芳談句解」に、

有体身は無常の身をいふ。一年一月一日をおくり、まづは死をとぐる身なれば也。生死の大事と自然にあればあらるゝ世の中とを、同じく思ふは、無下の事といふ。まことに有がたき言葉なり。

とあるとする(引用はママ。「待」でなく「体」とある)。

「自世事」Ⅰは「自」がなく分かり易い。Ⅱの大橋氏は、『「みづからの世事」と読むべきか』とし、続群書類従本でも「紙衣自世事」とある、と記す。

「誠の供養、華嚴行願品云、諸供養中法供養最。所謂、如説修行供養、乃至不離菩提心供養。」の評註をⅠの訓点を参考に書き下しておく(「 」は私の推定)。

 誠の供養、華嚴行願品に云はく、「諸々の供養の中に法供養を最もとす。」と。所謂、如説修行供養、乃至、不離菩提心供養。]

芥川龍之介漢詩全集 三十二

   三十二

 

買酒窮途哭

誰吟歸去來

故園今泯泯

廢巷暗蛩催

 

〇やぶちゃん訓読

 

 酒を買ひ 窮途(きゆうと)に哭す

 誰(たれ)か吟ぜん 歸去來(かへりなんいざ)

 故園 今 泯泯(びんびん)たり

 廢巷(はいかう) 暗蛩(あんきよう) 催(もよほ)す

 

[やぶちゃん注:龍之介満三十一歳。恐らくは関東大震災直後の嘱目絶唱である。

本詩は、大正一二(一九二三)年(年次推定)九月二十一日附高橋竹迷宛絵葉書(岩波版旧全集書簡番号一一四一)

に所収する。但し、本絵葉書は、

未投函

のものである。従ってこれは死後の全集の「書簡」で初めて日の目を見たものである(旧全集後記には本書簡に関する注記は一切ない)。以下にその書簡(絵葉書の絵は不明)を示す。

 

   買酒窮途哭誰吟歸去來故園今泯泯廢巷暗蛩催

乞玉斧

 

                   芥川龍之介

ワタシノウチハブジデスガ親戚皆燒カレマシタ

 

高橋竹迷(明治一六(一八八三)年~昭和二六(一九五一)年)は曹洞僧で文人。山梨県北巨摩郡秋田村(現在の北杜市長坂町大八田)の清光寺住持。本名矢島定坦、幼名喜一。岐阜生。美濃市の永昌院高橋慧定の養子となり、得度して定坦を名乗る。盤えんは書画に親しみ、多くの文人と親交があった。芥川と知り合ったのは、この前月の大正一二年八月二日に北巨摩郡教育委員会が主催した夏期大学講座の講師として招かれた(五日まで滞在し、毎日二時間の文学論を講義)際で、短い期間であったが、龍之介とは肝胆相照らす仲となった。到着したその日八月二日附の小穴隆一宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三四)には、『この山中の淸光寺にあり日々文學論なるものを講じ居り候淸光寺の方丈さんは高橋竹迷氏と申し曹洞宗中の文人なり 方丈さん畫を書き僕句を題す この間多少魔風流ありと思召され度候』とあり、また三日後の五日の、知り合いで南画家の岸浪靜山に宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三六)では竹迷と寄せ書きまで成し、『夏期大學の先生に來たところ思ひかけず庵主は竹迷上人なり、爲に教育會のお客だか竹迷上人のお客だかわからぬやうに相成候』ともあって、龍之介が竹迷の名僧文人としての評判(もしかするとおの岸浪を介してかも知れない)逢う前から既に聴いていたことが窺われる(以上は主に新全集人名解説索引及び鷺年譜に拠った)。

 邱氏は本詩についてかなりの分量の記載をなさっており、本詩を龍之介の漢詩中でも、エポック・メーキングな眼目の詩と捉えておられるのがよく分かる。従って、ここでは例外的に邱氏の評を多く引用、提示したい。

 邱氏は、当該詩の「解説」で、『この詩はやはり中国旅行後の心情と深く関連するものと思われる。他の漢詩と違い、行分けせずに一行になっている異例な詩形にしてあるのは、自身の真の気持ちを隠したかったからか。「未投函」であることもその点を暗示している』とされ、『自身の真の気持ちが素直に表れたこの漢詩』を『告白を恥じる芥川は中国文化について深い造詣を持つ「曹洞宗中の文人」高橋に送る勇気を持たなかったのである』と記されておられる。これは非常に優れた洞察と私は読んだ。

「窮途哭」邱氏は『恵まれない酷い境遇にあることを指す』とされ、南北朝の宋の劉義慶の編になる小説集「世説新語」の、竹林の七賢の指導的人物であった阮籍(二一〇年~二六三年)の故事を部分的に引用されておられるが、ここで私は当該項である「棲逸第十八」の冒頭の、私の大好きな阮步(阮籍)の逸話に附された冒頭註である「魏志春秋」からの引用を以下に全文提示することとする(原文は明治書院の「新釈漢文大系 七十八 世説新語 下」を用いたが、訓読は私の勝手なものである)。

 

魏志春秋曰、阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反。嘗遊蘇門山、有隱者莫知姓名、有竹實數斛杵臼而已。籍聞而從之、談太古無爲之道、論五帝三王之義、蘇門先生翛然曾不眄之。籍乃嘐然長嘯、韻響寥亮。蘇門先生乃逌爾而笑。籍既降、先生喟然高嘯、有如鳳音。籍素知音、乃假蘇門先生之論、以寄所懷。其歌曰、日沒不周西、月出丹淵中、陽精晦不見、陰光代爲雄、亭亭在須臾、厭厭將復隆、富貴俛仰閒、貧賤何必終。

〇やぶちゃんの書き下し文

魏志春秋に曰く、「阮籍、常に意に率して獨り駕し、徑路に由らず、車跡、窮むる所、輒(すなは)ち慟哭して反(かへ)る。嘗て蘇門山に遊ぶに、姓名の知る莫き隱者有り、竹の實數斛と杵と臼と有るのみ。籍、聞きて之に從ひ、太古無爲の道を談じ、五帝三王の義を論じるも、蘇門先生、翛然(いうぜん)として曾て之を眄(かへりみ)ず。籍、乃ち嘐然(こうぜん)として長嘯、韻響、寥亮(れうりやう)たり。蘇門先生、乃ち逌爾(いうじ)して笑ふ。籍、既に降り、先生、喟然(きぜん)として高嘯、鳳の音(ね)のごとく有り。籍、素より知音(ちいん)なれば、乃ち蘇門先生の論を假りて、以て所懷を寄す。其の歌に曰く、

 日は沒す 不周の西

 月は出づ 丹淵の中(うち)

 陽精 晦く 見えざれば

 陰光 代りて 雄と爲す

 亭亭として在るは須臾(しゆゆ)

 厭厭として將に復隆せんとす

 富貴 俯仰(ふぎやう)の閒

 貧賤 何ぞ必ずしも終はらんや

と。

以下、底本の語注や訳を参考に語注を附しておく。

・「阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反」龍之介がこの「窮途哭」の典拠とした部分である。私なりに訳すなら、

阮籍は、常に気が向く儘に馬車を走らせて――その時には既にある道に依らず、未だ誰も(たれ)一人通ったことのない道を切り開いては行き――遂に馬車の行かれぬ場所に行き当たってしまうと、大声を挙げて泣きながら帰った。

である。真理を求めた佯狂の隠逸人阮籍の面目躍如たるポーズではないか。

・「蘇門山」河南省輝県西北にある山。

・「五帝三王」神話伝説時代の帝王。三皇五帝。異説が多いが、例えば伏羲・神農・黄帝を三帝、五帝は嚳(こく)・堯・舜・禹・湯などとする。

・「翛然」ものに捉われないさま。

・「寥亮」高らかに。

・「逌爾」表情を和らげて笑うさま。

・「知音」ここは文字通り、音・音楽を解する能力を持っているの謂い。阮籍が鳳凰の鳴き声のような仙人の長嘯に込められた神韻を瞬時に悟ったことをいうのであろう。

・「不周」不周山。崑崙山の西北にあるとされた伝説の山。

・「丹淵」阮籍の「詠懐詩」の「其二十三」にも出る。月の出る伝説上の淵か。明治書院版注には「山海経」の「大荒南経」に載る『甘淵の誤りか。甘淵は日輪の御者である羲和の女(むすめ)が浴する所』とある。

・「陽精」太陽。

・「陰光」月。

・「亭亭」高いさま。

・「須臾」ほんの一時。

・「厭厭」幽かで昏いさま。

・「將に復隆せんとす」(陽光が射しても直に)また昏い闇がまた降りて来て深くなる、という、夜の更けることの繰り返しの方で示したものか。私は訓読を誤っているかも知れない。

・「俯仰閒」うつむくことと仰ぎ見る間、見回している間であるが、ここは、一瞬の間の意。

・「何ぞ必ずしも終はらんや」(富貴もあっという間に凋落するように)貧賤と言ったって、そのままに終わるとは限らぬ、の謂い。

・「誰吟歸去來」「歸去來」は無論、陶淵明の「歸去來の辞」を指す。ここで、芥川龍之介は、深い愁いに、酒に酔うている――しかも愁いは、その酔いによって銷(け)されぬばかりか――より増幅され自覚され――遂に彼は「道」に「窮」し、慟「哭」している。その慟哭の底から――龍之介の――声が聴こえて来るのである……震災の累々たる死骸の山……荒蕪と化した帝都東京……(しかしそれは龍之介が震災以前から抱いてきた何もかも壊れてしまうがよいという現実世界への強烈な呪詛の体現だったのではなかったか? ひいては彼の自死へと繋がる近代軍事国家と変貌しつつあった日本という現存在への深い絶望感へと直結するものではなかったか? と私[やぶちゃん]は直感しているのだが。この私の感懐は勝手なものであろうか? 最後に示させて戴いた邱氏の評言をお読みあれ)……「今の世に一体、誰があの「歸去來の辞」を吟ずるであろうか!?」……『最早、今となっては誰一人として「歸去來の辞」を吟ずることは、もう、ない――ああっ! 「田園將蕪」(田園將に蕪(あ)れんとす)――いや――田園――故郷――この世界は既に消え去ってしまおうとしているではないか!』……という龍之介の声である。

 ここで私は叫びたくなる。……

 芥川龍之介にとって、かの関東大震災は、我々にとっての三・一一のカタストロフと同じなのだ! 事実、帰るべき故郷を消失した福島第一原発の周辺の民を見るがよい! 故郷は見えない悪魔によって永遠に容易に消失するではないかッ!――しかし、間違ってはいけない!――決して震災は物理的な「喪失」の原因なのではない! この震災後の「喪失感」自体が、ずっとそれ以前からの、そして、それずっとそれ以後の、現代人の宿命的「喪失感」そのものの、一つの象徴であると私は言いたいのだ!……

 再度、断言する。

 関東大震災は、芥川龍之介にとって、魂や精神としての「日本という原風景としての故郷」の、永遠の喪失の一つのシンボルであったのである。

「泯泯」滅びること、消え去ること。

「暗蛩催」「蛩」はコオロギであるから、闇の瓦礫山の間から聴こえて来る蟋蟀の音(ね)だけが、「催」、せきたてるように高く、真っ黒な画面に鳴り響いて、本詩は終わるのである。

 

 邱氏はその「評価」で、『多くの典故を用い、故郷に帰る望みのない悲しさを如実に反映した作品である。中国旅行後の心情の変化が表われ、芥川文学の神話構築と崩壊の実体が示唆される作品であろう』とまで述べられ、次に、後に既に自死を決しつつあった芥川龍之介が書いた「病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」(『文藝春秋』大正一五(一九二六)年二月。後に『侏儒の言葉』に所収。リンク先は私の電子テクスト)の中の「二」、

僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動寫眞を見る如く、黄色き光の斷片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に會ひて「死相がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顏をしてをりしなるべし。

の前半部を引用されて、起句の「買酒窮途哭」の評言は『この記述を思わせる』と述べておられる。一般的には龍之介の神経衰弱の原因の一つは、大正十(一九二一)年三月末から七月中旬迄の四ヶ月に亙る大阪毎日新聞社海外特派員としての中国旅行後の、過剰にして無理な創作活動に原因したとも言われている。邱氏は続けて言う。

   《引用開始》

……芥川にとって、阮籍、陶淵明らに代表される中国古典の世界がいかに重要であったかが想像されよう。人間の強欲により、中国と日本のとの間に悲惨な戦争が起り、芥川も永遠に自己の精紳の故郷を喪失した。「窮途」で慟哭した芥川はついに自殺を決するに至るのである。二十一世紀に入った今日でも、この詩を読むと芥川の純粋で一途な魂の同国がいまだに荒野に響いているように思われてならない。

   《引用終了》

 なお、震災からその直後の芥川龍之介の感懐については青空文庫所収の芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際してを参照されたい。但し、これは筑摩書房全集類聚版によるもので、恐らくは作品集「百艸」に載った震災関連作品を一つにし、上記のような題名を誰か(芥川龍之介ではない)が勝手に作成したものと考えられ(但し、閑連作品を総覧出来る便宜は頗るよい)、岩波版旧全集及び宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)にはこのような題名は所載していないことを付記しておく。]

2012/12/25

溜飲が下がるとはこのことだ――「黒田英雄の安輝素日記」の「虫が蠢く~バカ知事井戸敏三~」に激共感

またまた愚昧な知事が傷だらけの清盛に塩を塗り込んで喜んでいるのを見て、首長がこれだから学校のイジメはなくならんと、暗澹たる気分になって――「井戸敏三 バカ」で検索を掛けてみたら……これ! 実に! 溜飲が下がる記事を見つけた!

ブログ「黒田英雄の安輝素日記」の「№1948 虫が蠢く~バカ知事井戸敏三~

一年近く前の記事であるが――この歌人であられるらしい御仁……実に僕の魂に似ているという気がする……是非、お読みあれ!

北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ

      ○諸將連署して梶原長時を訴ふ

同十月下旬の比、結城(ゆふきの)七郎朝光(ともみつ)御殿の侍所に伺公(しこう)の折から、傍輩(ぼうはい)の輩(ともがら)に語りけるは、「古(いにしへ)より書(かき)傳へたる言葉にも忠臣は二君(じぐん)に仕へずと云へり。普く人口に膾炙して稚子嬰兒(ちしえうに)までも知りたる事ぞかし。我殊更に故賴朝卿の厚恩を蒙り、誠に有難き御憐愍(ごれんみん)の程身に餘りて忘るべからず。その上御近侍として、晝夜、朝暮(てうぼ)御前に伺公し、種々の御歎訓種々(しゆじゆ)の御教訓樣々の仰事(おほせごと)今に耳の底に殘り候なり。故殿御薨去の時節に御遺言おはしましけるあひだ、出家遁世せしめずして、後悔その限(かぎり)なし。この比の世間の有樣高きも卑(ひく)きも只薄氷を踐(ふ)むがごとし、危きかな」とて、懷舊の至(いたり)涙を流しければ、當座の諸侍(しよさふらひ)皆共に、「さもこそ」と計りにて打止(や)みぬ。梶原景時是(これ)を立聞(たちき)きて、賴家卿の御前に參り、讒訴しけるやう、「結城七郎朝光こそ、先代を慕(した)うて當時を誹(そし)り、忠臣は二君に仕へずとやらん申して、傍輩の人々にも、その心根を勸(すすめ)語る、是我が君の御爲内より亂す賊敵なり。かゝる者を宥置(なだめおか)れんは狼を養(やしな)うて愁(うれへ)を待つと申すべき歟。傍(かたはら)の輩(ともがら)を懲(こら)しの爲(ため)早く罪科を斷り給ふべし」とぞ勸めける。賴家卿聞給ひて「惡(にく)き朝光が詞(ことば)かな。己(おのれ)出家遁世したればとて、國家に於て何の爲にか事を闕(かく)べき。身の程を自讃して當代を誹る不覺人(ふかくにん)は、なかなかに是(これ)柱(はしら)を食(は)む蠹蟲(とちう)、稻を枯(から)す蟊賊(ほうぞく)なり。石の壺に召(めし)寄せ討て棄つべし」とぞ仰(おふせ)付けられける。近習(きんじゆ)の輩(ともがら)その用意に及ぶ所に、阿波局(あはのつぼね)とて女房のありけるが、結城には遁れざる一族なり、この事を聞(きき)付けて、潜(ひそか)に朝光に知(しら)せたり。朝光熟(つらつら)是を思案しけれども、如何にとも爲方(せんかた)なし。前(さきの)右兵衞尉義村は朝光と斷金(だんきん)の友なりければ、行(ゆき)向ふて案内す。義村出合ひて、「さて何事か候」と云ふ。朝光「さればこそ火急の事候。我(われ)亡父政光法師が遺跡(ゆいせき)は傳領(でんりやう)せずといへども、將軍家の恩賜として數(す)ヶ所の領主となる。その厚恩を思ふに山よりも高く海よりも深し。この故に徃事(わうじ)を慕ひて、一言を傍輩の中にして嘆傷(たんしやう)せしに、梶原景時讒訴の便(たより)を得て御前へ申し沈めしかば、忽(たちまち)に逆心(ぎやくしん)に處せられ、誅戮(ちうりく)を蒙らんとす。只今この事を知らせ候。如何(いかゞ)思慮をも廻(めぐら)して給(た)べ」と云ふ。義村聞きて、「縡(こと)既に重く甚(はなはだ)危急に迫れり。殊(こと)なる計略にあらずは、禍(わざわひ)誠に攘難(はらひがた)からん歟。凡そ文治より以來(このかた)、景時が讒(ざん)に依て命を殞(おと)し、門(かど)を滅せし人勝(あげ)て計(かぞ)ふべからず。その中に又今に見存(ながらへ)てある輩も祖父親父(しんぷ)、子孫に及びて愁(うれへ)を抱き、憤を含む事甚(はなはだ)多し。景盛も去ぬる比彼(かれ)が讒を以(もつ)て既に誅せらるべきを不思議に遁れて候。その積惡必ず賴家卿に歸(き)し奉らん事疑(うたがひ)なし。世の爲(ため)君の爲彼を對治(たいじ)せずはあるべからず。但し弓箭(きうせん)の勝負を決せば、邦國(ほうこく)の騷亂を招くに似たり。宿老等(とう)に談合すべし」とて、和田左衞門尉、足立藤九郎入道を呼びてこの事を語る。兩人聞も敢(あへ)ず、早く同心連署(れんじよ)の狀を以て將軍家に訴へ、若(もし)彼(かの)讒者を賞して御裁許なくば、直に死生(ししやう)を爭ふべきなりとて、前右京(の)進仲業(なかなり)は文筆の譽(ほまれ)ありとて呼(よび)寄せて語る。是も景時に宿意ありければ、手を撲(うつ)て喜び、軈(やが)て訴狀を書認(かきしたゝめ)しに、千葉常胤、三浦羲澄、同義村、畠山重忠、小山朝政、同朝光、足立遠元、和田義盛、同常盛、比企能員、所(ところ)右衞門尉朝光、民部丞行光、葛西淸重、小田知重、波多野忠綱、大井實久、澁谷高重、山内經俊、宇都宮賴綱、榛谷(はんがへの)重朝、安達盛長入道、佐々木盛綱人道、稻毛重成入道、藤九郊景盛、若狹兵衞尉忠季、岡崎義實入道、土屋義淸、東(とうの)平太重胤、千葉胤正、土肥先(のせん)次郎惟光、河野通信、曾我祐綱、二(の)宮四郎、長江四郎、諸(もろの)次郎、天野遠景入道、工藤行光、右京進仲業以下の御家人六十六人、鶴ヶ岡の廻廊に集會して、一味同意の連判をぞ致しける。その訴狀の中に「鷄(にはとり)を養(か)ふ者は狸(たぬ)を畜(か)はず、獸(けもの)を牧(か)ふ者は犲(やまいぬ)を育(やしな)はず」と書きたり。義村この句を感ずとかや。小山五郎宗政は姓名(しやうみやう)を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮(おもんぱか)る所なり。和田左衞門尉義盛、三浦兵衞尉義村之を持參して、因幡前司廣元に付けたり。廣元連署の訴狀を請取り、暫く思案しけるは、「景時佞奸(ねいかん)の讒に於ては右右陳謝するに所なし。さりながら故將軍賴朝卿に眤近(じつきん)の奉公を勤む。今忽に罪科せられんは如何あらん。潜(ひそか)に和平の義を廻さん」と猶豫(いうよ)未だ決せずして披露するに及ばず、和田左衞門尉御所に參會して廣元に近(ちか)付きて申しけるは、「彼の狀定(さだめ)て披露候か。御氣色如何候」と。廣元「いまだ申さず」と答ふ。義盛居直り、目を瞋(いから)して「貴殿は關東御政道の爪牙股肱(さうげここう)、耳目(じぼく)の職に居(ゐ)て、多年を經給へり。景時一人の權威に恐れて、諸將多輩(たはい)の鬱胸(うつきよう)を閣(さしお)かるゝ條、寧(むしろ)憲法(けんはう)の掟(おきて)に契(かな)はんや」といひければ、廣元打(うち)笑ひて、「全く怖るゝ所なし。只彼(かの)滅亡を痛(いたは)り、同くは和平の義を調へんと思ふ故にて候」と申されしかば、義盛愈(いよいよ)怒(いかり)をなし、傍(そば)近く居寄(ゐよつ)て、「怖(おそれ)なくば、何ぞ數日を過し給ふぞ。披露せらるべきか否や、只今承り切るべし」と云ふ。廣元「この上は申し上くべし」とて座を立ちつゝ賴家卿に見せ奉れば、即ち景時に下されたり。景時更に陳謝すべき道なくして、子息親類を相倶し、相州一宮に下向す。然れども三郎景茂は暫く鎌倉に留めらる。その比(ころ)賴家卿は比企六衞門尉能員が宅(いへ)に渡御あり。南庭に於て御鞠(おんまり)を遊(あそば)しける。北條五即時連(ときつら)、比企彌四郎、富部(とべの)五郎、細野四郎、大輔房源性(げんしやう)、御詰(おんつめ)に參らる。その後御酒宴(ごしゆえん)に及びて、梶原三郎兵衞尉景茂御前に候(こう)ず。右京進仲業銚子(てうし)を取りて座にあり。賴家卿即ち景茂を召して、「近日、景時、權威を振ふの餘(あまり)、傍若無人の有樣なりとて、諸人一同に連判の訴狀を上げたり。仲業その訴狀の執筆を致しけるぞ」と宣ふ。景茂申しけるは「景時は故殿の寵臣として今はその芳躅(はうしよく)なき上は何(いづれ)の次(ついで)に非義を行ふべき。仲業が翰墨(かんぼく)は只諸人の誡(いましめ)を記せるなるべし」と事もなげに申しければ、聞人皆御返事の神妙(しんべう)なる事を感じける。賴家卿斯程(かほど)まで慮(おもんぱかり)の拙(つたな)くおはします故に、國主の器量は葉(は)よりも薄く、政道の智惠は闕果(かけは)て給ひ、只常々は遊興を事とし、鞠(まり)の友十餘人歌の友十餘人この外には近仕(きんじ)する人是(これ)なし。諸將、諸侍、次第に疎くなり、言語(げんぎよ)、行跡(かうせき)非道なるを見聞き奉りて、上を輕しむる故によりて、かゝる珍事は起出(おこりい)でたる。猶是より行末は又いかゞあるべきと賴なくこそ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年十月二十五日・二十七日・二十八日、十一月十日・十二日・十三日などの記事に基づく。前話に続いて源頼家の暗愚を徹底的に剔抉する。順に「吾妻鏡」を見よう(今回は「北條九代記」の筆者の効果的なシナリオ化を学んで会話文を改行し、直接話法の末の訓読を恣意的に変更してある)。

《発端》

〇原文

廿五日甲申。晴。結城七郎朝光於御所侍。稱有夢想告。奉爲幕下將軍。勸人別一萬反彌陀名號於傍輩等。各擧而奉唱之。此間。朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日甲申。晴る。結城七郎朝光、御所の侍(さむらひ)に於いて、夢想の告有りと稱し、幕下將軍の奉爲(おんため)に、人別一萬反(にんべついちまんべん)の彌陀の名號を傍輩等に勸む。各々擧(こぞ)つて之を唱へ奉る。此の間、朝光、列座の衆に談じて云はく、

「吾、聞く、忠臣は二君に事(つか)へず。と云々。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻(きざみ)、遺言有るの間、出家遁世せめしざるの條、後悔、一(いつ)に非ず。且つは今、世上を見るに、薄氷を踏むがごとし。」

と云々。

 朝光、右大將軍の御時、無双の近仕(きんじ)なり。懷舊の至り、遮(さいぎ)つて人々の推察に在り、聞く者、悲涙を拭(のご)ふと云々。

・「結城七郎朝光」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉」に既注済。当時は満三十一歳で、先に記したように、彼は建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加して以後は梶原景時(本事件当時は五十前後)と並ぶ故頼朝の側近中の側近として自他ともに認めた栄誉を担う人物であった。

・「人別一萬反」各人一人ひとりが一万遍、南無阿弥陀仏と念仏を唱えること。

 

《景時の讒訴》

〇原文

廿七日丙戌。晴。女房阿波局告結城七郎朝光云。依景時讒訴。汝已擬蒙誅戮。其故者。忠臣不事二君之由令述懷。謗申當時。是何非讐敵哉。爲懲肅傍輩。早可被断罪之由。具所申也。於今者。不可遁虎口之難歟者。朝光倩案之。周章斷膓。爰前右兵衞尉義村。与朝光者断金朋友也。則向于義村亭。有火急事之由示之。義村相逢。朝光云。予雖不傳領亡父政光法師遺跡。仕幕下之後。始爲數ケ所領主。思其恩。高於須彌頂上。慕其往事之餘。於傍輩之中。申忠臣不事二君由之處。景時得讒訴之便。已申沈之間。忽以被處逆惡。而欲蒙誅旨。只今有其告。謂二君者。不依必父子兄弟歟。 後朱雀院御惱危急之間。奉讓御位於東宮〔後冷泉〕御。以後三條院被奉立坊。于時召宇治殿。被仰置兩所御事。於今上御事者。承之由申給。至東宮御事者。不被申御返事云々。先規如此。今以一身之述懷。強難被處重科歟云々。義村云。縡已及重事也。無殊計略者。曾難攘其災歟。凡文治以降。依景時之讒。殞命失職之輩不可勝計。或于今見存。或累葉含愁憤多之。即景盛去比欲被誅。併起自彼讒。其積悪定可奉皈羽林。爲世爲君不可有不對治。然而决弓箭勝負者。又似招邦國之亂。須談合于宿老等者。詞訖。遣專使之處。和田左衞門尉。足立藤九郎入道等入來。義村對之。述此事之始中終。件兩人云。早勒同心連署狀。可訴申之。可被賞彼讒者一人歟。可被召仕諸御家人歟。先伺御氣色。無裁許者。直可諍死生。件狀可爲誰人筆削哉。義村云。仲業有文筆譽之上。於景時插宿意歟。仍招仲業。仲業奔來。聞此趣。抵掌云。仲業宿意欲達。雖不堪。盍勵筆作哉云々。群議事訖。義村勸盃酌。入夜。各退散云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日丙戌。晴。 女房阿波局(あはのつぼね)、結城七郎朝光に告げて云はく、

「景時の讒訴に依つて、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す。其の故は、

『忠臣二君に事へざるの由述懷せしめ、當時を謗(そし)り申す。是れ、何ぞ讐敵(しうてき)に非ざらんや。傍輩を懲肅(ちようしゆく)せんが爲に、早く断罪にせらるべし。』

との由、具さに申す所なり。今に於ては、虎口の難を遁るべからざるか。」

てへれば、朝光、倩(つらつら)之を案じ、周章、膓(はらわた)を断つ。爰に前右兵衞尉義村、朝光とは斷金の朋友なり。則ち、義村が亭に向ひ、火急の事有るの由、之を示す。義村に相ひ逢ひ、朝光云はく、

「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る。其の恩を思へば、須彌(しゆみ)の頂上よりも高し。其の往事を慕ふの餘り、傍輩の中に於いて、忠臣二君に事へざるの由を申すの處、景時、讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間、忽ち以つて逆惡に處せられて、誅を蒙らんと欲すの旨、只今、其の告げ有り。二君と謂ふは、必ずしも父子兄弟に依らざるか。後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御(たま)ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々。先規、此くの如し。今一身の述懷を以つて、強(あなが)ちに重科に處せられ難からんか。」

と云々。

 義村云はく、

「縡(こと)已に重事に及ぶなり。殊なる計略無くんば、曾て其の災を攘(はら)ひ難からんか。凡そ文治以降、景時の讒に依つて、命を殞(おと)し職を失ふの輩、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。或ひは今に見存(げんぞん)し、或ひは累葉(るいえふ)、愁憤を含むは、之れ多し。即ち、景盛、去ねる比、誅せられんと欲す。併(あは)せて彼(か)の讒より起る。其の積悪、定めて羽林に皈(き)し奉るべし。世の爲、君の爲に對治せずんば有るべからず。然れども、弓箭(きうせん)の勝負を决せば、又邦國の亂を招くに似たり。須らく宿老等に談合すべし。」

てへれば、詞、訖りて、專使を遣はすの處、和田左衞門尉、足立藤九郎入道等、入り來る。義村、之に對し、此の事の始中終(しちゆうじゆう)を述ぶ。件の兩人云はく、

「早く同心の連署狀を勒(ろく)し、之を訴へ申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を召仕はらるべきか。先づ御氣色を伺ひて、裁許無くんば、直(すぐ)に死生(ししやう)を諍(あらそ)ふべし。件の狀、誰人(たれひと)の筆削(ひつさく)たるべきや。」

と。義村云はく、

「仲業(なかなり)、文筆の譽れ有るの上、景時に於いて宿意を插(さしはさ)むか。」

と。仍つて仲業を招く。仲業、奔り來つて、此の趣きを聞き、掌を抵(う)つて云はく、

「仲業が宿意を達せんと欲す。不堪(ふかん)と雖も、盍(なん)ぞ筆作を勵まざらんや。」

と云々。

 群議、事訖りて、義村、盃酌を勸め、夜に入り、 各々退散すと云々。

・「阿波局」北条政子の妹で源実朝の乳母、頼朝の異母弟阿野全成(後、頼家と対立した北条方に組みしたため、建仁三(一二〇三)年五月、頼家の命によって謀反人として捕縛殺害された)の妻。

・「懲肅」こらしめいましめること。

・「斷金の朋友」金をも断ち切るほど硬い友情。「易経」の「繋辞 上」の「二人心を同じうすれば、其の利(と)きこと、金を断つ」に基づく。

・「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る」彼の父太田(小山)政光は下野国国府周辺の小山荘に住し、小山氏の祖となって広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていたが、その遺跡は兄朝政が継いでいる。朝光は既に見てきたように阿津賀志山の戦いで敵将金剛別当を討ち取るなどの活躍を見せ、その功によって奥州白河三郡が与えられている。因みに彼の後妻で三男であるこの朝光の母寒河尼は頼朝の乳母で、朝光は実は頼朝の落胤という俗説さえもある。

・「讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間」景時は讒訴するに絶好の機会と心得、そのまま直ちに粛清するよう、頼家様に申し上げたがために。

・「後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々」「宇治殿」は藤原頼通(道長長男)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇の二代に亙って関白を勤めたが(構造上は後朱雀の生前の「命」があったから子後冷泉には連続した「一君の命」としての忠誠で仕えたが、三代目の予定の立太子である「二君」までは感知しなかったということで、「二君に仕えず」ということか)、晩年は失意のうちに失脚、彼とは対抗勢力にあった後三条天皇(後冷泉天皇異母弟)が即位し、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となって藤原摂関家は衰退へと向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移っていった(以上は主にウィキの「藤原頼通」に拠った)。

・「強ちに重科に處せられ難からんか」無理矢理、重い罰に処せられるというのは、これ、どうみても理不尽で、出来ない相談、有り得ぬ話ではないか。

・「累葉」子孫。

・「勒し」書き記す。

・「仲業」中原仲業(生没年不詳)。幕府吏僚。鎌倉幕府に参じた京下り官人。建久二(一一九一)年の前右大将家政所開設記事の公事奉行人の項に名が見える。中原親能の家人であり、前年の源頼朝上洛をきっかけに下向したのであろう。主に文筆をもって仕え、政所職員として政所発給文書の執筆や地方巡検の使節などを務めた。頼朝以降も政所に伺候し、頼家の政所始には吉書を清書、実朝の代には問注所寄人も兼ねた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。彼が景時に遺恨を抱いていたとあるが、その具体な理由は不明。

 

「蠹蟲(とちう)」木食い虫。鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属するキクイムシ類などの、木材穿孔性の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。

「蟊賊(ほうぞく)」根切り虫。鱗翅(チョウ)目ヤガ(野蛾)科 Noctuidae に属するカブラヤガやタマナヤガなどの幼虫の総称としてあるが、ここでは広く、そうした農作物の根や茎の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。

「石の壺」御所内の北にあった部屋の名。

「結城には遁れざる一族なり」結城朝光とは深い縁のある一族である、の謂いだが、具体的にどのような縁戚関係にあったのか、調べてみたものの私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものであるが、寧ろ、これは梶原氏の勢力の排除を目論んでいたと思しい北条時政已下の幕府内の対抗勢力による、芝居仕立ての筋書きの臭いが、いや濃厚である。

 

《景時弾劾状六十六人連判》

〇原文

廿八日丁亥。晴。巳剋。千葉介常胤。三浦介義澄。千葉太郎胤正。三浦兵衞尉義村。畠山次郎重忠。小山左衞門尉朝政。同七郎朝光。足立左衞門尉遠元。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。比企右衞門尉能員。所右衞門尉朝光。民部丞行光。葛西兵衞尉淸重。八田左衞門尉知重。波多野小次郎忠綱。大井次郎實久。若狹兵衞尉忠季。澁谷次郎高重。山内刑部丞經俊。宇都宮彌三郎賴綱。榛谷四郎重朝。安達藤九郎盛長入道。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道。稻毛三郎重成入道。藤九郎景盛。岡崎四郎義實入道。土屋次郎義淸。東平太重胤。土肥先次郎惟光。河野四郎通信。曾我小太郎祐綱。二宮四郎。長江四郎明義。諸二郎季綱。天野民部丞遠景入道。工藤小次郎行光。右京進仲業已下御家人。群集于鶴岡廻廊。是向背于景時事一味條。不可改變之旨。敬白之故也。頃之。仲業持來訴状。於衆中。讀上之。養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。義村殊感此句云々。各加署判。其衆六十六人也。爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名。不加判形。是爲扶弟危。傍輩皆忘身。企此事之處。爲兄有異心之條如何。其後。付件狀於廣元朝臣。和田左衞門尉義盛。三浦兵衞尉義村等持向之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丁亥。晴る。巳の剋。千葉介常胤・三浦介義澄・千葉太郎胤正・三浦兵衞尉義村・畠山次郎重忠・小山左衞門尉朝政・同七郎朝光・足立左衞門尉遠元・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・比企右衞門尉能員・所右衞門尉朝光・民部丞行光・葛西兵衞尉淸重・八田左衞門尉知重・波多野小次郎忠綱・大井次郎實久・若狹兵衞尉忠季・澁谷次郎高重・山内刑部丞經俊・宇都宮彌三郎賴綱・榛谷四郎重朝・安達藤九郎盛長入道・佐々木三郎兵衞尉盛綱入道・稻毛三郎重成入道・藤九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋次郎義淸・東平太重胤・土肥先次郎惟光・河野四郎通信・曾我小太郎祐綱・二宮四郎・長江四郎明義・諸二郎季綱・天野民部丞遠景入道・工藤小次郎行光・右京進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊に群集(ぐんじゆ)す。是れ、景時に向背(きやうはい)する事一味するの條、改變すべからずの旨、啓白(けいびやく)するが故なり。頃之(しばらくあ)つて、仲業、訴狀を持ち來り、衆の中に於いて、之を讀み上ぐる。

「鷄(にはとり)を養(やしな)ふ者は狸(たぬき)を畜(か)はず。獸(けもの)を牧(か)ふ者は豺(やまいぬ)を育(やしな)はず。」

の由、之を載す。義村、殊に此の句に感ずと云々。

 各々署判を加ふ。其の衆六十六人なり。爰に朝光の兄小山五郎宗政、姓名を載すと雖も、判形(はんぎやう)を加へず。是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何(いかん)。其の後、件の狀を廣元朝臣に付す。和田左衞門尉義盛・三浦兵衞尉義村等、之を持ち向ふ。

[やぶちゃん注:六十六人としながら三十九名の名しか載らない。また、「北條九代記」では何故か千葉胤正の位置が、ずっと後の東平太重胤の後にある。人数も含めて、気になるといえば気になるのである。]

「小山五郎宗政は姓名を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮る所なり」という叙述は、「吾妻鏡」とは正反対の叙述である。長沼宗政(姓は下野国長沼荘(現在の栃木県真岡市)を領したことに始まる)は結城朝光(姓は下総の結城したことに始まる)の実兄(ともに小山政光の子)であるが、「吾妻鏡」ではにも拘らず花押を押さなかったことを厳しく批判しているのに対し、ここではそれは逆に弟朝光のことを思いやってのこと、と述べているのである。しかし、何故、それが思いやりになるのか、やや分かり難い。親族だからこそ冷静な立場から、他の連中と違ってやや中立的立場を守って、いざ事態が逆転した際には小山の血脈を守ろうとしたといった謂いか? しかしだとすると、次の次の「勝木七郎生捕らる 付 畠山重忠廉讓」の最後で糞味噌に言われたままになっている(筆者もいいぱなしにしている)のはすこぶるおかしい気がするのである。私は筆者が「是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何。」という批判を「弟」「兄」の叙述から誤読したのではあるまいかと秘かに疑っている。

 

《大江広元の連署状上達躊躇》

〇原文

十日戊戌。晴。兵庫頭廣元朝臣雖請取連署狀。〔訴申景時狀。〕心中獨周章。於景時讒侫者雖不能左右。右大將軍御時親致昵近奉公者也。忽以被罪科。尤以不便條。密可廻和平儀歟之由。猶豫之間。未披露之。而今日。和田左衛門尉與廣元朝臣。參會御所。義盛云。彼狀定披露歟。御氣色如何云々。答未申之由。義盛瞋眼云。貴客者爲關東之爪牙耳目。已歷多年也。怖景時一身之權威。閣諸人之鬱陶。寧叶憲法哉云々。廣元云。全非怖畏之儀。只痛彼損亡許也云々。義盛居寄件朝臣之座邊。不恐者爭可送數日乎。可被披露否。今可承切之云々。殆及呵責。廣元稱可申之由。起坐畢。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日戊戌。晴る。兵庫頭廣元朝臣、連署狀〔景時を訴へ申すの狀。〕を請け取ると雖も、心中、獨り周章す。

『景時の讒侫(ざんねい)に於いては左右(さう)に能はずと雖も、右大將軍の御時、親(まのあた)りに昵近(ぢつきん)の奉公致す者なり。忽ち以つて罪科にせられんこと、尤も以つて不便の條、密かに和平を廻らすべきか。』

の由、猶豫(いうよ)の間、未だ之を披露せず。而るに今日、和田左衛門尉と廣元朝臣と、御所に參會す。義盛云はく、

「彼の狀、定めて披露するか。御氣色は如何(いかん)。」

と云々。

 答へ未だ申さずの由、義盛、眼を瞋(いか)らして云はく、

「貴客は關東の爪牙耳目(さうがじもく)として、已に多年を歷(ふ)るなり。景時一身の權威を怖れ、諸人の鬱陶(うつたう)を閣(さしお)くは、寧(いずくん)ぞ憲法(けんぱふ)に叶はんや。」

と云々。

 廣元云はく、

「全く怖畏(ふい)儀に非ず。只だ彼(か)の損亡を痛む許りなり。」

と云々。

義盛、件の朝臣の座邊に居寄(ゐよ)り、

「恐れずんば、爭(いかで)か數日(すじつ)を送るべきか。披露せらるべきや、否や、今、之を承り切るべし。」

と云々。

 殆んど呵責(かしやく)に及ぶ。廣元、申すべきの由を稱し、坐を起ち畢んぬ。

 

《連署状上達と景時への申し開きの下知》

〇原文

十二日庚子。晴。廣元朝臣持參件連署申狀。中將家覽之。即被下景時。可陳是非之由被仰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日庚子。晴る。廣元朝臣、件の連署申狀(まうしじやう)を持參す。中將家、之を覽(み)、即ち景時に下され、是非を陳ずべきの由、仰せらると云々。

・「爪牙耳目」爪や牙となり耳や目となって身を輔弼けるところの臣。

・「憲法」掟。ここは「道理」でよいであろう。

 

《景時黙秘し、所領一宮へ下向》

〇原文

十三日辛丑。陰。梶原平三景時雖下給彼状。〔訴状〕不能陳謝。相卒子息親類等。下向于相摸國一宮。但於三郎兵衞尉景茂。暫留鎌倉云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日辛丑。陰る。梶原平三景時、彼(か)の状〔訴状。〕を下し給はると雖も、陳謝に能はず、子息親類等を相ひ卒いて、相摸國一宮に下向す。但し、三郎兵衞尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留まると云々。

 

《頼家の蹴鞠の宴での出来事》

〇原文

十八日丙午。晴。中將家渡御比企右衞門尉能員宅。於南庭有御鞠。北條五郎時連。比企彌四郎。富部五郎。細野四郎。大輔房源性等候之。其後御酒宴之間。梶原三郎兵衞尉景茂候御前。又右京進仲業取銚子同候。羽林召景茂。仰云。近日景時振權威之餘。有傍若無人之形勢。仍上諸人一同訴狀。仲業即爲訴狀執筆也云々。景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。列坐傍輩。景茂御返事趣神妙之由。密談云々。羽林今夜御逗留也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日丙午。晴る。中將家、比企右衞門尉能員の宅へ渡御、南庭に於いて御鞠(おんまり)有り。北條五郎時連・比企彌四郎・富部五郎・細野四郎・大輔房源性等、之に候ず。其の後、御酒宴の間、梶原三郎兵衞尉景茂、御前に候ず。又、右京進仲業、銚子を取り同じく候ず。羽林、景茂を召し、仰せて云はく、

「近日、景時權威を振ふの餘り、傍若無人の形勢有り。仍て諸人一同、訴狀を上ぐ。仲業、即ち、訴狀の執筆(しゆひつ)たるなり。」

と云々。

 景茂、申して云はく、

「景時、先君の寵愛、殆んど傍人を越ゆと雖も、今に於いては其の芳躅(はうちよく)無きの上は、何の次(ついで)を以つて非儀を行ふべけんや。而るに仲業の翰墨(かんぼく)を愼(つつし)み、軼(たが)ひに諸人の弓箭(きうせん)を怖る。」

と云々。

 列坐の傍輩、景茂が御返事の趣き神妙の由、密談すと云々。

 羽林、今夜、御逗留なり

・「芳躅」先人の業績・行跡を讃えていう語。

・「非儀」非道な所行。

・「仲業の翰墨を愼み」連署状の仲業の文章は誠に謹み深く穏やかに書かれてあり、の謂いか。「養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。」をさえ、かく論ずれば、これはもう、私でさえその場にあれば「景茂が御返事の趣き神妙」と感嘆するであろう。]

一言芳談 四十二

   四十二

 

 又云、裘荷(きうか)・籠負(ろうふ)など執しあひたるは、彼(かれ)を用(もちゆ)る本意(ほい)をしらざる也。あひかまへて、今生(こんじやう)は一夜のやどり、夢幻(ゆめまぼろし)の世、とてもかくてもありなむと、眞實に思ふべきなり。生涯をかろくし、後世をおもふ故、實(まこと)にはいきてあらんこと、今日ばかり、たゞいまばかりと眞實に思ふべきなり。かくおもへば、忍(しのび)がたきこともやすく忍ばれて、後世のつとめもいさましき也。かりそめにも、一期(いちご)を久からむずる樣にだに存じつれば、今生の事おもくおぼえて、一切の無道心のこと出來(いでくる)也。某(それがし)は二十餘年、此(この)理(ことわり)もて相助(あひたすけ)て、今日まで僻事(ひがこと)をしいださざるなり。今年ばかりかとまでは思しかども、明年(みやうねん)までとは存ぜざりき。今は老後也。よろづはたゞ今日ばかりと覺(おぼゆ)る也。出離(しゆつり)の詮要(せんえう)、無常を心にかくるにある也。

 

〇裘荷、つゞら、かはごのたぐひ。

〇籠負、竹のかごの笈(おひ)なり。修行者の負ひまはるものなり。

〇忍がたきことも、新拾遺の歌に、世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば。新續古今に、是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする。兼好家集に、うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん。

 

[やぶちゃん注:「彼を用る本意をしらざる也」それをどのような目的で用いるのかという本来の意味を分かっていないのである、の意。無論、言わずもがなである。只管、念仏をするため、只管、速やかな極楽往生を「する」ためにのみ、それらは「在る」のである。即ち、「今生は一夜のやどり、夢幻の世」を生きる「便(よすが)のため」に、では、ない。「今生は一夜のやどり、夢幻の世」であることを自覚するためにこそ、ためだけに、それらは「在る」、と敬仏房は謂うのであろう。

「夢幻の世」Ⅱの大橋氏の脚注によれば、「一言芳談句解」には、

ほとけは如露電と説給ひ、一生は唯一そく(息)きたらざれば、死につく事、めのまへの境也。まことにいみじき位に職し、寶心にしたがひしも、かぎり有て、それより年ふりしは、碑の銘きえて、苔のしづく所也き。はては木はたき木、地は畑となる事、いにしへいまはからざりき。とにかくたのむましきは此身、住はてぬはうき世。はてぬこそたのもしなんど、おもふ人はまれなれ。しかし無常もよくよくみれば常にて、つねといへばはやうつり行無常、所詮夢幻の世

とあると記す(引用に際して正字化し、踊り字「〱」は正字に直した)。

「生涯をかろくし、後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと」Ⅰでは、

 後世をおもふ故實には、生涯をかろくし、生きてあらんこと、

とある。また、大橋氏脚注によれば、「続群書類従」第二十八輯下に所収する版本では、

 生涯をかろく後世をおもふ故、實にはいきてあらんこと

とあるとする旨の記載がある。文意は変わらないがⅠの「故實」は、敬仏房の直談の法語としては、私は生硬に思われる。

「いさましき也」心が奮い立つのである。

「一期を久からむずる樣にだに存じつれば」生死の一期――命――というものが永遠に続くもののように思ってしまっただけで。

「僻事」道理に外れたこと。

「今年ばかりか」「明年まで」「今日ばかり」総て主体は隠されており、勿論、総て「己が命」である。

「出離の詮要」生死出離の肝心な大事の意。生死の相対世界の煩悩を離脱し、常住涅槃の境に入ること。

「世のうさもいかばかりかはなげかれん、はかなきゆめとおもひなさずば」国際日本文化研究センター和歌データベース「新拾遺和歌集」の00866番に番外作者として以下の標記で載る。

 よのうさも いかはかりかは なけかれむ はかなきゆめと おもひなさすは

「是もまたありてなき世と思ふをぞ、うきをりふしのなぐさめにする」国際日本文化研究センター和歌データベース「続新古今和歌集」の01933番に式子内親王の歌として以下の標記で載る。

 これもまた ありてなきよと おもふをそ うきをりふしの なくさめにする

「うきこともしばしばかりの世の中を、いくほどいとふわが身なるらん」国際日本文化研究センター和歌データベース「兼好法師集」の00232番に番外作者として以下の標記で載る。

 うきことも しはしはかりの よのなかを いくほといとふ わかみなるらむ

私は以上の三つの歌集本を所持しないので以上以外には注すべき私の側の内実を持たない。悪しからず。]

芥川龍之介漢詩全集 三十一

   三十一

 

山徑誰相問

開窓山色靑

山頭雲不見

山際一游亭

 

〇やぶちゃん訓読

 

 山徑(さんけい) 誰(たれ)か相ひ問ふ

 窓を開けば 山色 靑し

 山頭 雲 見えず

 山際(さんさい) 一游亭

 

[やぶちゃん注:龍之介満三十歳。これ以前、大正一〇(一九二一)年の三月末から初夏にかけて毎日新聞特派員としての念願であった中国旅行を終えている。そこで龍之介は「多くの大陸の実相を見、感懐を得、それは「上海游記」(同年八月~九月)・「江南游記」(翌大正一一年一月~二月)・「長江游記」(大正一一年二月)・「北京日記抄」(大正一四(一九二五)年六月)・「雜信一束」(大正一四(一九二五)年十一月)といった中国紀行文集「支那游記」に結実したが、同時に、この旅は龍之介の肉体と精神を著しく消耗させ、結果として死期を早めさせた遠因の一つにも数えられている。作家としては、円熟期に入り、多くの作品集刊行と、この大正一一年一月の中」俊寛」・「将軍」・神々微笑」、三月のトロツコ」など、数々の新たな試みを施した名作群を生み出している。但し、大正一〇年の中国旅行後は、下痢や神経衰弱に悩まされ、同年末には睡眠薬をなしには眠れない状況に陥っている。それにはまた、「藪の中」のモデルともなった、秀しげ子が弟子格の南部修太郎とも関係を持っていたことが露見するというショッキングな私生活での変事にも起因している(龍之介の中国旅行決断の動機の一つは、彼にとってストーカー的な淫女として変貌し始めていたしげ子から距離をおくためであったとする見方もある。南部との三角関係は私の電子テクスト我鬼窟日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注釈の注釈を参照されたい)。

本詩は、

大正一一(一九二二)年四月二十四日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号一〇二四)

に所載する。なお、龍之介はこの翌日から翌五月一杯、京都を経由した長崎再訪の旅に出ている。

「一游亭」は四阿(あずまや)であるが、同時に小穴の俳号でもある。即ち、本詩は彼へ、一時の旅の離別への挨拶の戯詩である。]

一言芳談 四十一

   四十一

 

 敬佛房云、遁世者は、なに事もなきに、事闕(かけ)ぬ樣(やう)をおもひつけ、ふるまひつけたるがよきなり。

 

〇なにごとも、人も道具もありあひにすべきなり。衣食住もありあひがよきなり。物をもてあそべば志をうしなふ。無ければ、なかなか心やすきなり。

 

[やぶちゃん注:これは短いが、本文は分かり難い。標註がそれを解いて如何にも分かり易いように見えるが……いや、これ、なかなか……この湛澄の在り合せで済ませなさいという解は、後に見る兼好法師の解と全く同じく、現実に堕した偽解のように私には思われるのである。

「なに事もなきに」は、如何なる事態にあっても、それに対処するに足る「もの」が全くない場合でも、の意。

「事闕ぬ樣をおもひつけ」不足しているなどと不満を漏らすことなく、対処出来ぬと思うたものを用いて――いや、寧ろ対処するに足る何物も持たないという存在のままに――何としてもその事態に対処し、切り抜けることをのみ心掛けて、の意であろう。実際には無一物即無尽蔵なればこそ如何様にも対処出来るのだという悟りをこそ、ここでは述べているように私には思われる。

「ふるまひつけたる」常に平常心で振る舞うようにする。

 なお、本条は、冒頭に示したように「徒然草」に引かれているのであるが、それは、

 一、 遁世者は、なきにことかけぬやうをはかひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。

とあって、引用ではなく、兼好流に解釈・変形したものなのである。これは本文の謂いとはかなり異なった印象を受ける。即ち、本文の核心にある、

――無一物即無尽蔵故の自在無礙(むげ)という物質的貧の中にこそある――無限の心の豊かさをこそ、理想とせよ――

という哲学を、兼好は、よりプラグマティックに「分かり易く変造」し、

……そのぅ、まあ、なんだ、な……物がないから不自由だ、なんて思ちゃあ、これ、いけないんだ、な……ともかくも、いろいろと使えそうなものをだな、これ、自分で工夫采配してだ、な……そうして、その、何とかしてだ、な、うまく自他を誤魔化してでも、だ……所謂、辻褄合わせをして、そのぅ、何でもいいから間に合わせをして、だわ……そんな風に人生、暮らすんが、これ、最上なんだと思うんだ、な……

と述べているのである。どこかの如何にもな立志伝中の経済界偉人の名言集に出るみたような「徒然草」のこの言葉は、私には、似非も似非、所謂、噴飯物にしか、これ、思われんのだ、な。……]

2012/12/24

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 杜戸/小壺/鷺浦/飯島

   杜  戸

 小壺村ノ東南ノ濱ニ小社アリ。三嶋明神ヲ勸請シタルト云。御當家四代ノ御朱印高七石アリ。祭禮ハ治承四年九月八日ニ賴朝勸請アリシ故ニ、今モ此日ヲ祭日トス。

 神寶

  猿田彦面         一ツ 運慶作

  靑葉ノ笛ノ寫シ      一管

  アコヵ小鼓筒       一ツ

[やぶちゃん注:「アコヵ」「阿古が」。但し、正しくは「阿古(あこう)」と読み、鼓胴作りの名工の名。初世の阿古は室町中期将軍義政の頃に在世した。]

  駒角           一本

  古證文          一通

  〔文和二年六月廿六日、相模國葉山郷内オリ田云々平判トアリ。相傳テ和田義盛ガ狀ト云トナン。〕

   證文          一通

Denmaksakokaou

〔此ヲ二位尼ノ袖判ノ狀ト云。其文ニ云ク。〕

 下 婦神禰宜職、奧ニ暦應二年十二月十六日トアリ。婦神ト云ハ何ノ義ゾト社司ニ問へバ、社司モシラズ。只是ハ此神ノ名ナリト云。

 

[やぶちゃん注:「〔此ヲ二位尼ノ袖判ノ狀ト云。其文ニ云ク。〕」という割注は、底本では花押の下にある。以下に、新編鎌倉七」の「杜戸明神」の条にある花押を以下に示しておく。 

Madennmasako2

これはもう、花押としては全く別物という感じである。]

  後鳥羽院々宣       一通

  〔勅使左中辨則實トアリ。其内ニ嘉元々年守殿明神トアリ。又刑部少輔物部恆光ノ字アリ。守殿ト書テ、モリトヽヨムカ、又モリトノト云カ、未審ラズ。此院宣文字漫滅、紙巳ニ朽幣シテ、何事トモシレ難シ。〕

[やぶちゃん注:「朽幣」は「朽弊」の誤り。]

 社ノ北ニ飛柏槇ト云樹アリ。三嶋ヨリ飛タルトテ岩ヨリ木へ倒レ懸リテアリ。社ノ西ニ千貫松、同ク南ニ腰懸松トテ、賴朝ノ憩タル木ト云。濱へ差出タル石ヲ高石ト云。高石ノ後ノ山ヲ心無(シンナシ)山ト云。御殿山・御城山ト云ハ所ノ總名ナリ。社ノ西ノ岩ニ、賴朝遊館ノ柱ノ穴アリ。賴朝ノ泉水トテ、岩間ニ淸キ所アリ。遊魚アリケルト云。左リ卷ノ采螺、昔ハアリシガ、今ハナシト也。若是ヲ取レバ神物也トテ、其僅海へ歸シ入ルト云。カケヒ疫神ト云木二本アリ。今ハナシト云。神主守屋和泉、物語シケルハ、不動・金迦羅・勢多迦・獅子等昔ハ有タリシガ、今ハスタレテナシト也。此地海中へ出張テ、水石至テ淸シ。類ヒナキ絶景ナリ。出崎ニ離レタル嶋ヲ夷磯ト云。杜戸ノ南ノ海上ニ名嶋ト云アリ。折シモ夕陽波ニ浮ンデ日ヲ洗フガ如シ。又舟ニ駕シテ歸ル。路次ニ濱邊ヲ見ル。杜戸ノ濱ニ添テ心無山、其西ノ村ヲアブツルト云。山ヲアブツル山ト云。其西ハ小壺村ナリ。

[やぶちゃん注:采螺は先にも出たが「榮螺」。光圀はこれを誤字ではなく確信犯的に「サザエ」の意で用いているようにも思われる。]

 

   小 壺 村

 漁村アリ。小壺ヲ隔テ、南ノ入ヲ多古江ノ入ト云。多古江川アリ。其川ノ南ノ小流ヲゴザイ川ト云。小壺ノ東北ノ向ニ當リタル地ヲコウノ嶽ト云。藥師アリト也。多古江川ノ東ニ六代御前ノ塚アリト云。

[やぶちゃん注:「ゴザイ川」は「ゴサイゴ川」の誤り。「御最後川」で六代御前がこの川畔で斬られたことに由来するという。]

 

   鷺  浦

 小壺ノ入ノ云ク。漁師ノ家多クアリ。片濱ニテ景地ナリ。

[やぶちゃん注:「ノ云ク」底本には右に編注で『(ヲ云ィ)』とある。この「ィ」は「意」の意か。]

 

   飯  島

 小壺村ノ西ナリ。賴朝舟着岸ノ煩ナカランメンガ爲ニ筑クト云。山ニ住吉明神ノ社アリトナリ。道寸ガ城モアリ。飯嶋ノ西ヲ和歌江嶋ト云。其西ハ材木座ノ漁村也。舟ヲ飯嶋ノ濱ニ着テ、馬ニ乘ジテ海濱ヲ歸。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 江嶋~(2)/森戸への船旅

 下宮ノカリ屋ノ前ヲ行、坂ノ上ノ左ニ無熱池ト云アリ。天笠ノ無熱池ヲカタドルト云。岸邊ニ蝦蟆(カイル)石トテ蝦蟆ニ似タル石アリ、昔慈悲此山ニ籠リシ時、蝦蟆障礙ヲナシケル故、加持シケレバ、終ニ此石ニナリケルトナン。池ノ右ノ方ノ坂ヲ上ル、道ノ左ニ福石ト云アリ。參詣ノ輩此石ノ前ニテ、或ハ鳥目、或ハ貝魚類ナドヒロフ時ハ、必ズ豐貴ニナルトナン。慈悲ノ木像アリ。鐘ニ金龍山與願寺鐘トアリ。土御門院ノ細字ニ、慈悲ノ宋ヨリ持來碑石此ニ納置ク。今ハ二ツニ折レテアリ。靑石ニテ幅二尺七寸、長サ四尺八寸、厚サ三寸五分也。左右ニ龍ヲ彫、中ニ古文字アリ。其文ニ曰ク

Jihihibun

〔今案ニ楷書是ナルベキ歟。一字ノ大サ如此、コノ四字ヅヽ三行ナリ。剥缺シテ筆畫分明ナラズ。文字ノ外ニ緣アリ。極テ奇ナリ。舊記ニ屏屛風石トハ誤ナリ。〕

[やぶちゃん注:「蝦蟆(カイル)石」カエル石で「蝦蟆」は蟇蛙。

「障礙」は「しやうげ(しょうげ)」と読む。「障碍」と書く。仏教で悟りの妨げとなるものをいう。障害。現在はこれで「しょうがい」とも読める。

最後の長い割注は実際には図の下にある。以下に、「新編鎌倉志巻之六」に載る碑文図を参考までに載せておく。

Hiseki

この図の方がより正確である。]

 寶物

  緣起            五卷 畫ハ土佐、筆ハ不知。

  天照太神ノ角        二ツ

  〔是ハ羽州秋田常樂添狀アリ。住僧云、蛇ノ角ナランカト。浮屠ノ民俗ヲ愚カニシ誣ル、此類多ルベシ。〕

[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。

「誣ル」は「しいる」と読み、事実を曲げて言う、悪意をもってありもしない事を述べる、の意。 「強いる」と同語源である。]

  弘法作刀八昆沙門金像   一軀

   金ノ厨子ニ入テアリ。

  同阿彌陀繪        一幅

  九穴貝          一ツ

  二股(マタノ)竹     一本

  駒ノ玉          一ツ

  太田道灌軍配團扇     一本

   練物ニシテ黑塗ナリ。

  北條氏康證文       一通

   其外禁制書ナド文狀多シ。

  慶安二年御朱印      一通

  〔境内山林竹木等ノ免狀、獵師町地子同船役者公役也トアリ。〕

 是ヨリ舟ニ乘ジテ島ヲ廻リテ南行ス。辨才天ノ窟ノ東ニ石窟アルヲ龍池ト云。此東ニ二ツヤグラト云テ穴二ツアリ。一ツハ新田四郎富士ノ人穴ヨリ此穴へ出ケルトナン。山ノ出鼻嶮キガケヲ泣面崎(ナキツラガサキ)ト云。其東ヲ聖天嶋ト云。又其東ニ離タル所ヲ鵜嶋ト云。始メ山ノ開ケル時、鵜十二羽來テ、此ニ集ル故ニ云トナリ。今ニ辨才天ノ使者也トゾ。此ヨリ海上ヲ渡テ東ノ方へ向フヲ、順風ニシテ一瞬ノ間ニ杜戸ニ到ル。杜戸ノ東南ニ社アリ。世計酒ト云村アリ。酒ヲ造テ此社ニ奉リ、年ノ豐凶ヲ知ナリ。杜戸ノ東ニ、離デサキアルヲ、トツテガ崎ト云也。豆州ノ大嶋等見ユル。城ガ嶋ノ北ニ見タルハ見崎、其北ヲ荒崎ト云。

[やぶちゃん注:「世計酒」は「よばかりざけ」と読むが、村名というのは如何にもおかしい。光圀の聞違いか、「世計ト云社アリ」の誤りであろう。これについて記す「新編鎌倉志巻之七」の「佐賀岡」の条にも、『此の所に佐賀岡の明神と云あり。守山大明神と號す。逗子村延命院の末寺、玉藏院の持分なり。里俗、世計(ヨバカリ)の明神と云ふ。毎年霜月十五日、酒を作り置き、翌年正月十五日に、明神へ供す。酒の善惡に依て、戌の豐凶を計り知る。故に世計の明神と云ふ』とある。

「見崎」ママ。この「トツテガ崎」とは突渡崎で、現在の森戸と葉山の中間点の出先である柴崎海岸である。あそこから城ケ島は確かに見えるが、その北の剣崎が見えるというのは、やや不審な気もする。岬の頂上部が見えるということであろうか。実際に居住されおられる方の御教授を乞うものである。]

芥川龍之介漢詩全集 三十

   三十 甲

 

銅駝名惟在

春風吹棘榛

陌頭何所見

三五踏靑人

 

〇やぶちゃん訓読

 

 銅駝(どうだ) 名 惟だ在り

 春風 棘榛(きよくはん)を吹く

 陌頭(はくたう) 何の見る所ぞ

 三五 踏靑(たうせい)の人

 

 

     三十 乙

 

  銅駝名惟在

  春風吹棘榛

  陌頭何所見

  三五射鴉人

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   銅駝 名 惟だ在り

   春風 棘榛を吹く

   陌頭 何の見る所ぞ

   三五 射鴉(しやあ)の人

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。

本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「三十九」と連続して書き込まれているものである。「底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。

ここで「乙」としたものについて述べておきたい。実は邱氏は「甲」しか挙げておられない。では私の「乙」は何かというと、実は「手帳(五)」のこの詩の次の行には二字下げのポイント落ちの「射鴉」の字があり、次行からは俳句群が始まっているのである。そこを再現してみると(ポイントは同じにした)、

 

〇銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見

 三五踏靑人
   射鴉

〇更鉢の赤畫も古し今年竹

 金網の中に鷺ゐる寒さかな

 白鷺は後姿も寒さかな

 茶のけむりなびきゆくへや東山

 霧雨や鬼灯殘る草の中

 冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき[やぶちゃん注:以下、略。]

 

となる。邱氏はこの「射鴉」を後の俳句の前書と採られたのであろうと思われる。これは批判めいた謂いではない。何を隠そう、実は私も「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部分でそのように処理しているのである。しかし、今回、これを素直に眺めてみると、どうも前書としては「射鴉」は如何にも前書らしからぬ気がしてきた。句の皿の赤絵には鴉を射る絵が描かれていたということになるのであろうが、こんな前書による句のイメージの拡大は甚だ邪道で、龍之介らしからぬ。また、わざわざここでそれを前書とするなら、続く数句が「射鴉」の句であるべきであろう。しかし次は「鷺」である。網囲いの鷺を鴉から守るために射ている人が描かれた赤絵というのも苦し過ぎる。鷺の句は実景だ。そもそも実はこの「皿鉢の」以下続く二十七句には一箇所も前書きはない。さすれば――この

×「射鴉」は句の前書きではなく

この前の、五絶の結句、

〇「三五踏靑人」の「踏靑」の部分の推敲形

と読むのが正しいのではあるまいか?

そこで平仄を調べると「踏靑」「射鴉」は全く同じで変化は生じないから、代字としても平仄上は全く問題がない。

更に、実は筑摩書房の全集類聚版(これは私が岩波旧全集と読んでいるものの、その前の版(通称、小型版全集)を元としていると思われる)の当該部(第八巻一四九頁)を見ると、驚くべきことに(そのままの新字で示す。底本では「射鴉」はポイント落ち)、

 

〇銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見
   射鴉

 三五踏青人

〇更鉢の赤画も古し今年竹[やぶちゃん注:以下、略。]

 

となっているのである。

以上から私は、「射鴉」は特異な語であるものの、「甲」の推敲形「乙」として挙げることとした。大方の識者の御意見を乞うものである。

 

「銅駝」「晋書」の「索靖傳」に載る故事に基づく。西晋の五行学者索靖(さくせい 二三九年~三〇三年)の故事(原文は邱氏の引用されたものを正字化した。書き下しは私の勝手な読み)。

靖有先知遠量、知天下將亂、指洛陽宮門銅駝嘆曰、「會見汝在棘榛中耳」。

靖、先知遠量有り、天下の将乱を知りて、洛陽宮門の銅駝を指して嘆きて曰はく、「汝と會ひ見えんは、棘榛の中に在るのみ。」と。

この銅駝とは当時の晋都洛陽の宮城門外にあった青銅製の駱駝の対像。索靖は五行に基づく予知能力によって天下の混乱を予見、その銅駝を指さし、「あなたとは荊(いばら)の茂る廃墟の中で再会することとなろう。」と慨嘆した。後、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)の侵攻があって洛陽は半ばが灰燼に帰した。

「棘榛」荊棘。バラ・カラタチなどの棘(とげ)のある低木類の総称。

「陌頭」道のほとり。街頭。

「踏靑」中国で仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩。文字通り、青き草を踏む意で、初春の野に春をさぐる「探春」に次ぐ遊びであり、唐代以後に盛んになった。地方によっては一定の日に行う行事であったが、一般には清明節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李の咲く中で酒宴を開いて、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する(以上は平凡社「世界大百科事典」の植木久行氏の記載に基づく)。

「射鴉」見かけない熟語ではある。「踏靑」の情景には子女の彩りのある姿が垣間見えるが、「射鴉」では如何にも男子、如何にも黒い印象が強くなる。また、これはもしかすると、中国の三本脚の烏の神話との関連があるか? 以下にウィキ三足烏から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『東アジアでは三足烏の足が三本なのは、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とするが、三は奇数であり太陽と同じ陽となるからだといわれている』。『鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられていることが多』く、中国では『三足烏(さんそくう・さんぞくう 拼音: sānzúwū サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ(ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。日烏(にちう 拼音: rìwū リーウー)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比される。しばしば三本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれる。また、金色という説もあり、金烏(きんう 拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の一七一二年(正徳年)刊の「和漢三才図絵」の天の部の「日」の項にも認められる』。『太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある(中国では漢代までには黒点が発見されていた)。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。また別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある』。また別の伝承として『このような物語もある。大昔には十の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、十の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、九つの太陽に住む九羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように一つになった(「楚辞」天問王逸注など)』という伝説である。さて、これが代字であるとした場合、この謎の「射鴉」、識者の御教授を切に乞うものである。

 因みに、邱氏は以上の三首を中国旅行(実質の滞中は大正一〇(一九二一)年三月三十日から同年七月中旬)よりも前の作と推定した上で、それ以前の「十八」から「二十七」の漢詩を含め(この全十三首を邱氏は芥川龍之介漢詩の第三期と位置付けている)、『芸術の新天地を模索する中国旅行前の一九二〇年に、芥川が多大な情熱を持って漢詩製作に没頭し、多くの自信作を残した』と述べ、本詩は、その一つとして『超現実的な神話世界を構築する重要な舞台としての「中国」を見る熱い思いが伝わってくる』と結んでおられる。]

芥川龍之介漢詩全集 三十九

   三十九

 

山嶂同月色

松竹共風烟

石室何寥落

愁人獨未眠

 

〇やぶちゃん訓読

 

 山嶂(さんしやう) 月色に同じく

 松竹 共に風烟(ふうえん)

 石室 何ぞ寥落(れうらく)

 愁人 獨り未だ眠らず

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。

本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「四十」と連続して書き込まれているものである。底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。「手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。

「山嶂」「嶂」は高くけわしい山、又は、屏風のように連なる峰。

「風烟」風煙。風と、霞や靄。又は、風に靡く霞。

「石室」ここは所謂、「窟(いわや)」「岩室(いわむろ)」の謂いで、岩壁に自然にできた洞穴、又は岩に横穴を掘って住居とした、隠者の住居を謂う。窟だとまさに龍之介の書斎「我鬼窟」も容易に連想される(しかし、「根がティヴ」――これは文字遊び――な私などはどうしても墳墓の石室の雰囲気が画面にちらついて払拭出来ないで困ってしまう)。

「寥落」荒れ果ててすさまじいこと。荒廃すること。

「愁人」素直に読むならば、起句からの寂寞たる景の中にいるのは、心に愁いを抱いた詩人自身ととれる。ところが、である。これも実は私には困った熟語なのである。何故なら、不倫相手であった秀しげ子のことを龍之介は「愁人」と呼んでいるからである。初出は龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八(一九一九)年の九月十二日で(リンク先は私のマニアック注附テクスト)、

九月十二日 雨

 雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。

とある。ここの私の注も以下に引いておく。

 完全に、妖艶な蜘蛛の巣に絡め捕られた芥川龍之介がここに居る。小津安二郎のようなロー・アングルで雨音だけで撮ってみたい一日である。慄っとするほど素敵だ――。

・「雨聲繞簷」は「雨聲(うせい) 簷(のき)を繞めぐる」と読む。

・「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい(それに引き替え、「或阿呆の一生」で同人を「狂人の娘」と呼んだのは、これ、逆にいただけない)。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。

 これがまた、邱氏の推定する大正九年であるとすれば、しげ子は龍之介の中でまだ強い嫌悪の対象にはなっていない時期であるから、この「愁人」の語に彼女を重ね合せるのは強ち見当はずれではないと言える。寧ろ、新全集の推定するように、これよりもずっと後の晩年の作とすると、「愁人」は彼女ではないと断言出来るのである。

「愁人獨未眠」邱氏も指摘しておられるように、一読、これは知られた韋応物の五絶「秋夜寄丘二十二員外」の結句に基づく。

 

   秋夜寄丘二十二員外   韋應物

  懷君屬秋夜

  散歩詠涼天

  山空松子落

  幽人應未眠

 

    秋夜 丘二十二員外に寄す

   君を懷ひて  秋夜に屬(しよく)し

   散歩して  涼天に詠ず

   山 空(むな)しうして 松子(しようし)落つ

   幽人(いうじん) 應(まさ)に未だ眠らざるべし

 

「丘二十二員外」丘氏の排行二十二男の員外郎の意。作者の友人で名は丹。蘇州の人という。員外郎は公務員の定員外に補任された補佐官。]

一言芳談 四十

   四十

 

 敬佛房云、近來(このごろ)の遁世の人といふは、もとゞりきりはつれば、いみじき學生(がくしやう)・説經師となり、高野にのぼりつれば、めでたき眞言師、ゆゝしき尺論(しやくろん)の學生になり、或(あるひ)はもとは假名の「し」文字だにもはかばかしくかきまげぬものなれども、梵漢(ぼんかん)さるていに書(かき)ならひなどしあひたるなり。然而(しかうして)生死界(しやうじかい)を厭(いとふ)心もふかく、後世(ごせ)のつとめをいそがはしくする樣(やう)なる事は、きはめてありがたき也。はやもとゞりなどきりけん時は、さりとも、此心をばよもおこしたてじとおぼゆる樣なるを、我執(がしう)・名聞(みやうもん)甚しき心をさへ、おこしあひたる也。某(それがし)が遁世したりし比(ころ)までは、猶(なほ)世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ、世間・出世につけて、今生(こんじやう)の藝能ともなり、生死(しやうじ)の餘執(よしう)とも成(なり)て、つひに後世のあだとなりぬべきは、ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか。されば、大原・高野にも、其(その)久(ひさびさ)さありしかども、聲明(しやうみやう)一(ひとつ)も梵字一(ひとつ)もならはで、やみにしなりと云々。たゞ、とてもかくても、すぎならひたるが、後世のためなり。

 

〇もとゞりきりはつれば、髮を剃り終ればなり。

〇説教師、説法者なり。

〇釋論、釋摩訶衍論なり。

〇梵漢さる體に、梵字も漢字も大方(おほかた)にかくとなり。

〇ありがたきなり、ありかぬるなり。

〇はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり。

〇大原高野、大原は良忍(りやうにん)上人より聲明の處となり、高野は大師より梵字の處となる。

〇すぎならひたるが、不調法(ぶてうはふ)ながらとほせとなり。

 

[やぶちゃん注:「學生」比叡山・高野山等の諸大寺で学問修行を専門とする学僧。

「説經師」経文や教義等を講釈しながら大衆を教化する僧。

「眞言師」密教の法によって加持祈禱を行う高野山の学僧。

「尺論」標註にある通り、「釈摩訶衍論」の略称。釈摩訶衍論は古代インドの仏教書で馬鳴(めみょう)作と伝えられるが疑問。成立年未詳。漢訳は梁(りょう)の真諦(しんだい)訳が一巻、唐の実叉難陀(じっしゃなんだ)訳が二巻がある。大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説いたもの。「起信論」とも。私は若い頃、珍しく仏典の中では一箇月もかけて真剣に読んだものの一つであるが、実は殆んど全く分からなかった。

「某が遁世したりし比までは、猶世をのがるゝ樣にはあるをだにもこそすつれ、なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりしあひだ」「すつれ」は「捨つれ」、「ならひあひ」は「狎らひ合ひ」であろう。私の珍しく大好きな文法である「こそ……(已然形)、~」の逆接用法がうまく効いている部分である。「某が遁世したりし比」は敬仏房の事蹟が不祥なため、定かではないが、高い確率で末法思想の蔓延った鎌倉幕府成立前後と考えてよいであろう。――私が出家した頃までは、猶お遁世するためにはありとある身の物でさえ、その一切を捨て果てたものであったが、しかし今や、出家遁世の身でありながら、あろうことか逆に「無一物たらんことを望むことは、感心せぬこと」であると皆が皆、狎れ合って合点してしまっているために――という意である。

「世間・出世」俗人だろうが出家だろうが、世の衆生はこぞって、の意。

「今生の藝能ともなり」一生を懸けた芸事。この「藝能」とは文脈から言えば、具体には冒頭にあるところの、「いみじき」(優れた)学僧・説教師や「めでたき」(立派な)真言師と呼ばれる僧になること、釈摩訶衍論の「ゆゝしき」(素晴らしい)学識僧となること(この「ゆゝし」は「尺論」ではなく「學生」にを修飾すると私はとる)、或いはまた、難しい梵字や漢字を相応の達筆で書けるような文人僧となること、を意味する。即ち、今の世の僧という僧(勿論、ここには深い自戒とともに語る敬仏房本人も含まれていよう)は、世を厭いて一切を捨てて一心に往生を願うために出家したはずの者が孤高に念仏一つを唱えることもせず、「優れた名僧」という名声ばかりを望み、学識や能書をひけらかすだけの存在に成り下がっている、と厳しく指弾しているのである。

「つひに後世のあだとなりぬべきは」Ⅱ・Ⅲによるが、Ⅰでは『つひに後世のあだとなりぬべくば』となっている。――今はこのような名声ばかりを望み、そのどうということもない下らぬ才知をひけらかすばかりという有様となって、それらが生を求め死を厭うという執念となって、遂には殆どそれが後世の極楽往生の深刻な障りとなってしまっているに違いない(Ⅰ「ということは」)(Ⅱ「ということであるならば」)――私が問題にしたいのは、敬仏房はここで実は謂いを休止しているということである。即ち、『かつては~であったのに、今は……と成り下がっているようにしか見えぬ。』《間合い》『だからもうずっと以前から私は――と心底、そう唱えて来たのである。』ということである。この間合いなしで、続けて読むと、文脈が捩じれ、時制もおかしくなるからである。

「ちかくもとほくも、とてもかくても、あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」――今も昔も、何がどうあろうと、しっかとそこを見据えて、決してそうあってはならぬ、私はそうなるまい、ということを自(おのづ)から好み、幾たびも幾たびも心底より、念仏を唱えながら、同時にかくも心に狎れさせて来たのであった。――という謂いである。Ⅱの大橋氏のここの脚注には、「標註」(Ⅰの原本)に、

此かの字は、すみてよむべし。決定のかなり。かなといふ心。新古今の歌に、をのづからすゞしくもあるか其衣日も夕ぐれの雨の名殘に

とあるが、これは誤解で、「しか」は「こそ」の結びである、という注が附されてある(「標註」の引用は正字化した)。Ⅰで森下氏がこの項を原本から採らなかったのも、誤りであることが分かっていたからであろう。なお、私が実は前の注で問題にしたのは、まさに、この過去の助動詞「しか」の扱いだったのである。即ちここでは、

①敬仏房が「遁世したりし比まで」という謂わばフランス語の大過去(過去に於いてある時期継続していた事態)に相当する時制

がまずあり、それに続いて、

②敬仏房が、僧衆が「なきをもとむる事はうたてしき事なりと、ならひあひたりし」という体たらくになったことの実感を持った①の後の過去のある一瞬の過去時制

があって、その後に、

③敬仏房が「あひかまへて、せじとこそ、このみならひしか」が決心し、それが今話している現在まで続いているという半過去(現在も継続している過去の事態)がある

ととらないと、訳がおかしくなるということなのである。③の強意の係助詞「こそ」とその結びである過去の助動詞「き」の已然形「しか」はそうしたものとして独特なのである。私は本条の謂いではないが、湛澄の誤りは、実は単なる学才(国文法)のひけらかしに過ぎない「誤り」では毛頭なく、そうした時制の微妙な変化を感得しようとした結果の「誤り」、正しく時制を制御しようとする故の「誤り」であったように思えてならないのである。湛澄が時制に拘っていた証左は註の「はやもとゞりきりけん時は、はやとはすぎさりし時なり。むかしの事を歌にもはやとよむなり」という一文にもよく表れているではないか。但し、私は古典文法に疎い(というか嫌いだ)。だからこの私の見解は逆に、乏しい知識を牽強付会したところの――教仏房が厭うところの――大いなる救い難い痴愚の「誤り」であるのかも知れない。大方の識者の御意見を求むるものである。

「大原」現在の京都市左京区北東部比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模な盆地の名。平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、また延暦寺に近かったことから、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立された。また、戦争・政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、出家・隠遁の地としても古くから知られていた。惟喬親王や建礼門院をはじめ、大原三寂(常盤三寂)と称された寂念・寂超・寂然兄弟、藤原顕信・西行・鴨長明などの隠遁の地として知られている(以上はウィキ大原」より)。大橋氏脚注に『中世における声明研鑽の中心地』とある。

「聲明」梵語“abda-vidy”の漢訳。仏教の経文を朗唱する声楽の総称。インドに起こり、中国を経て日本に伝来した。法要儀式に応じて種々の別を生じ、また宗派によってその歌唱法が相違するが、天台声明と真言声明とがその母体となっている。声明の曲節は平曲・謡曲・浄瑠璃・浪花節・民謡などに大きな影響を与えた。梵唄(ぼんばい)とも言う(ここまで「大辞泉」、以下はウィキ明」より)。日本での声明の発祥地は三千院のある大原魚山である。天平勝宝四(七五四)年に東大寺大仏開眼法要の際に声明を用いた法要が行われた記録があり、奈良時代には既に声明が盛んにおこなわれていたと考えられている。平安時代初期に最澄・空海がそれぞれの声明を伝えたが、それ以外の仏教宗派にも各宗独自の声明があって現在も継承されている。

「すぎならひたるが」如何なる才知名声も等閑し、只管、念仏を唱えることを好むことが。

「大方に」一通りは。

「良忍上人」(延久五(一〇七三)年又は延久四年~天承二(一一三二)年)天台僧で融通念仏宗の開祖。聖応大師。比叡山東塔常行三昧堂の堂僧となり、雑役をつとめながら、良賀に師事、不断念仏を修める。また禅仁・観勢から円頓戒脈を相承して円頓戒の復興に力を尽くした。二十二、三歳の頃、京都大原に隠棲、念仏三昧の一方、来迎院・浄蓮華院を創建し(寂光院も良忍による創建説がある)、また分裂していた天台声明の統一を図り、大原声明を完成させた。永久五(一一一七)年には阿弥陀仏の示現を受けたとして「一人の念仏が万人の念仏に通じる」という自他の念仏が相即融合しあうという融通念仏を創始、称名念仏で浄土に生まれると説いては結縁した人々の名を記入する名帳を携えて各地で勧進した(ウィキ「良忍に拠る)。]

2012/12/23

どこかの顔色のえらく悪い男が言った言葉について

――「事故は何が問題だったのか完全に究明されていない。」(正しい)

――「福島第2は大丈夫だった。」(事実である)

――「なぜ第1はだめだったのか、しっかりもう一度検証し、」(当然である)

――「その上でこれから再稼働も含めて考えていきたい」(このレトリックは流石にオシメをつけて一回首相を辞めた男の噴飯――噴糞ものの発言である)

芥川龍之介漢詩全集 二十八

   二十八

 

不負十年未醒名

也對秋風催酒情

拈筆含杯閑半日

寫成荒竹數竿聲

 

〇やぶちゃん訓読

 

 負はず 十年 未醒(みせい)の名

 也(また) 秋風に對して 酒情を催す

 筆を拈(ねん)じ 杯を含みて 半日(はんにち) 閑たり

 寫し成す 荒竹 數竿の聲

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。また、以下に示すように芥川龍之介の真作かどうかも疑おうと思えば疑われる。しかし、私は最終的に芥川龍之介の真筆と判断する。以下を是非、お読み戴きたい。

本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十九」「四十」と連続して書き込まれているものである。

この「手帳(五)」は、

新全集後記では、大正一二(一九二三)年から晩年にかけて記されたもの

と推測している(但し、だからといって本詩の創作年代を遡ることが出来ないという理由にはならない)。邱氏のこれに大きく反するところの、

大正九(一九二〇)年前後説

というのは、後に示すように、

本詩がこの時期の複数の先行作品と類似していること

及び、

「手帳(五)」には書かれていない中国旅行中の記載が「手帳(六)」「手帳(七)」には現われていること

を証左となさっている(これはこれで説得力がある)。

但し、この「手帳(五)」に書かれたメモと関わる作品は新全集後記によれば、

「三つの宝」(一九二二年)・「貝殻」(一九二七年)・「侏儒の言葉」(一九二三年~二五年)・「玄鶴山房」(一九二七年)・「河童」(一九二七年)など、圧倒的に

大正一一(一九二二)年以降の作品群のヒントが多い

ことも事実ではある。

なお、この「手帳(五)」は現在では所在不明である。

 

「不負」とは負った期待に応えていないことを言う。

「未醒名」「未だ名を醒(さ)まさず」と訓ずることも出来るが(その場合は世間的な名声を得ない、若しくは、真の自身の存り方を悟っていない、といった謂いになろう)、ここは「未醒」を文字通り主人公の「名」と採りたい。そして「未醒」という雅号の持主は、芥川龍之介ではない。これは、芥川龍之介の友人であった洋画家小杉放庵(明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)の初期の画号である小杉未醒に他ならない。大正九(一九二〇)年当時、未醒は満三十九歳であったが前年に考え方の相違から二科会を、同年には日本美術院も脱退し、後の大正一一年には春陽会創立に参加している。また号も大正一三(一九二四)年に放庵と改めてもいる(すると、副次的にそこからも本詩が大正一三年よりも前の作であると断ずることも出来よう)。初期の画は東洋的ロマン主義の傾向を示し、また、未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えた。フランス帰国後(大正二(一九一三)年渡仏、翌年帰国)から東洋趣味に傾き、油絵をやめて墨画が多くなった。大正一四(一九二五)年に手がけた東京大学安田講堂の壁画はフランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させて日本的な志向も示しているとされる。歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作もある(以上の事蹟などはウィキの「小杉放庵」に拠る)。龍之介とは家が近くでもあり、また龍之介のパトロン的存在で、龍之介の加わっていた、田端の文芸サロンの中心的人物実業家鹿島龍蔵が作った道閑会のメンバーでもあったから、親しく交際していた。

 さて、この経歴から見た時、本詩が芥川龍之介の作品ではなく、小杉のものである可能性がここに浮上してくるとは言えるのである。即ち、龍之介が手帳に備忘として小杉未醒の詩をメモした可能性である。

 更に、芥川龍之介には大正一〇(一九二一)年三月の「小杉未醒氏」(『中央芸術』発表、発表時は大見出しが「小杉未醒論」で題は「外貌と肚の底」)があるが、そこにもそのような疑惑を起こさせる箇所があるのである。以下に全文を示す。

 

   小杉未醒氏

 一昨年の冬、香取秀眞氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其處に居合せた天岡均一氏が、初對面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の畫は君に比べると、如何にも優しすぎるぢやないか」と、いきなり一拶を與へた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれてゐるなと云ふ氣がした。

 成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶樂部らしい、勇壯な面目を具えてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも、寧ろ未醒蠻民と號しさうな邊方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云ふ程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も變るかも知れない。が、差當り僕の見た小杉未醒氏は、氣の弱い、思ひやりに富んだ、時には毛嫌ひも強さうな、我々と存外緣の近い感情家肌の人物である。

 だから僕に云はせると、氏の人物と氏の畫とは、天岡の翁の考えへるやうに、ちぐはぐな所がある譯ではない。氏の畫はやはり竹のやうに、本來の氏の面目から、まつすぐに育って來たものである。

 小杉氏の畫は洋畫も南畫も、同じように物柔かである。が、決して輕快ではない。何時も妙に寂しさうな、薄ら寒い影が纏はつてゐる。僕は其處に僕等同樣、近代の風に神經を吹かれた小杉氏の姿を見るやうな氣がする。氣取つた形容を用ひれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は氣樂さうに、林處士の詩なぞは謠つていない。しみじみと獨り爐に向つて、Rêvons……le feu s'allume とか何とか考へてゐさうに見えるのである。

 序ながら書き加へるが、小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。

 

・「香取秀眞」(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は著名な鋳金工芸師。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。

・「天岡均一」(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒で高村光雲らに学んだ。

・「天狗倶樂部」は文士を中心としたスポーツ社交クラブ。黎明期のアマチュアスポーツ、特に野球と相撲の振興に努め、後に野球殿堂入りする人物を五人輩出している他、日本初の学生相撲大会を開催するなどしていた。中心人物は家の押川春浪(以上はウィキの「天狗倶楽部」に拠った)。

・「突兀」「とつこつ(とっこつ)」と読む。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。

・「邊方瘴煙」「へんぱうしやうえん」と読む。辺りに立ち込めた瘴気(毒のある悪しき気)を含んだ煙。

・「梅花書屋の窓」窓辺に梅の花の咲く書斎という景。

・「唐人」画中の配された画家の分身たる中国人。

・「林處士」林逋(九六七~一〇二八)。林和靖。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第四代皇帝仁宗(一〇一〇~一〇六三:彼との縁は父第三代皇帝真宗の時から。)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと』二十年におよんだとし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた』。『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩「山園小梅」が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。こちらに三野豊氏の美事な当該詩の訳がある。

・「Rêvons……le feu s'allume」フランス象徴派の詩人アルベール・サマン(Albert Samain一八五八年~一九〇〇年)の詩“Octobre est doux”(十月は穏やかだ……)の一節。「夢見よう……灯がともっている」といった意味か。以下に原詩を示しおく(こちらの仏語サイトより。私の力では訳せないので悪しからず)。

 

Octobre est doux...

 

Octobre est doux. - L'hiver pèlerin s'achemine

Au ciel où la dernière hirondelle s'étonne.

Rêvons... le feu s'allume et la bise chantonne.

Rêvons... le feu s'endort sous sa cendre d'hermine.

 

L'abat-jour transparent de rose s'illumine.

La vitre est noire sous l'averse monotone.

Oh ! le doux "remember" en la chambre d'automne,

Où des trumeaux défunts l'âme se dissémine.

 

La ville est loin. Plus rien qu'un bruit sourd de voitures

Qui meurt, mélancolique, aux plis lourds des tentures...

Formons des rêves fins sur des miniatures.

 

Vers de mauves lointains d'une douceur fanée

Mon âme s'est perdue ; et l'Heure enrubannée

Sonne cent ans à la pendule surannée...

 

以上の疑惑は最後に解明したい。

「也」は発語の辞。「亦」よりも軽く、多く詩や俗語で用いる。

「催酒情」銷憂物たる酒をあおりたくなる。邱氏は、過去形で採り、『秋風に向かい、酒で憂さを紛らしたこともある』と訳しておられる。

 

 最後に私の疑惑についての見解を述べたい。ここで着目したいのは、「小杉未醒氏」の最後にある「小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。」という部分である。ここから小杉は漢詩の自作をしたこと、龍之介はそれを実見していること、但し、それらが十五首ほどの「五言絶句ばかり」であったことが分かる。

 さて、翻って見ると本詩の起句は「未醒」という雅号を持った本人の詩と読むのがまず自然である。しかし、この詩は七絶であるから、龍之介の、この謂いとは齟齬を生じることになる。

 これが未醒の詩でないとすれば――残るのは龍之介が小杉未醒に仮託して詩を創った――という仮定は可能である。……しかし果たして、その場合、若年の龍之介が起筆から「不負十年未醒名」とやらかすかどうか、という疑問は依然として残る。

 ただ、

――「未醒」という号の如く、十年一日、うつらうつらと夢幻の中を生きてきた「唐人」と思しい人物が、「秋風」に吹かれながら「酒」に憂いを散ずる景色や、酒を含んで筆を執りつつ、のんびりと半日かけて、風の中の、淋しい、竹の立てる声(ね)を描き出した――

というのは、未醒自身の自讃ととるより、龍之介の仮託による讃とする方が遙かに――詩的には――自然である、と私は思うのである。

 更に付け加えると、芥川龍之介の「手帳」群には、無論、古人の俳句や措辞の断片がメモされていることは、俳句全集を編集した際に、事実としてあることは私がよく知っている。しかし、この漢詩の載る「手帳(五)」には、これらの漢詩三首の後には直に続いて多量の龍之介の俳句草稿及び三首の自作短歌が載っており、この漢詩だけが(若しくは漢詩三首だけが)小杉未醒の詩のメモであるとうるには、如何にも不自然なのである。また、調べた訳ではないがこれらが小杉の詩であるという事実も現在のところは、ないようである。

 邱氏は、この詩について、

   《引用開始》

前半の二句「不負十年未醒名 也対秋風催酒情」は、二十六番詩として紹介された一九二〇年九月十六日小島政二郎宛書簡中の漢詩の前半部に類似している。後半の二句「拈筆含杯閑半日 写成荒竹数竿声」は、二十七番詩として紹介された一九二〇年十二月六日小穴隆一宛書簡中の漢詩の後半部に類似している。しかし、前出二作に比べ、読者に訴える力は弱い。

   《引用終了》

と、その「評価」の項に記しておられる。私は、これを全面的に支持すものである。それは――本詩が芥川龍之介自身の詩であり、且つ、彼が愛した画狂人小杉未醒への、既成の自信作を剽窃した(だから『前出二作に比べ、読者に訴える力は弱』くなってしまった、所詮、贈答詩にほかならない、という確信を持っているからである。従って以下の二つの詩についても私は芥川龍之介の詩と断じて疑わず、疑義論は論じない。]

平清盛は誰が何と言おうと僕の大河随一である事 又は 清盛はトロツキーであった

僕はNHKの大河ドラマで二度だけ泣いたことがある。

一度目は「山河燃ゆ」の、エンディングで松本幸四郎演じる天羽賢治が自死するシーンであり、今一つは、今日の「平清盛」の藤木直人演じる西行と松山ケンイチ演じる清盛のオーバー・ラップのシーンだけである。

清盛の「侍」=軍人による本邦の革命的行動は、まさにトロツキーの「永久革命論」のそれに似ている。勿論、彼が朝廷をもその腹中に食わんとしなながら、自身が結果、ブルジョアジーに憧れてエイリアン化したところで、取り敢えずの終末は来たったのだが、その美味しいところを、巧妙に再生構築したのがスターリン的な頼朝であったとも言える。そこにはレーニンのような辛気臭い説教を垂れる孔子染みた存在も不要だったし、マルクスのような経典をせっせと綴る神も、これ、いらなかったのだ。孔子も神もいなければこそ、戦国を経て、鎌倉の幻影を実体化・大系化するプラグマティックな幻影城としての徳川幕府が生まれ、それは結局、明治天皇という後白河法皇みたような薄っぺらい御旗を掲げた輩による、先軍的「近代」国家建設へと繋がったのではなかったか?

――清盛という「武士の世」を希求する男の悲哀は、確かに、実は架空の「天羽(あもう)賢治」(山崎豊子作「二つの祖国」の主人公)の悲哀に直結していたのではなかったか?

そうして――『より強い日本』を幻想する今の日本人に、確かにそれが繋がっているのではないか?

――戦うがいい、愚かな人類よ――貴賤の差も、総ては下らぬ幻である――

結局は――殺し合って自滅する――それが我々人間という存在の――実相以外の――なにものでも――ないのだ……

北條九代記 賴家安達彌九郎が妾を簒ふ 付 尼御臺政子諫言

      ○賴家安達彌九郎が妾を簒ふ  尼御臺政子諫言

同年七月十日三河國より飛脚到來して申しけるは「室平(むろひらの)四郎重廣と云ふ者數百人の盜賊を集め、國中に武威を振ひ、富家(ふか)に押寄(おしよせ)ては財産を奪ひ、良家に込入(こみい)りて、妻妾を侵し、非道濫行(らんぎやう)宛然(さながら)跖蹻(せきけふ)が行跡(かうせき)に過ぎにり。驛路(えきろ)に出でては徃還の庶民を惱(なやま)し、謀略既に國家を亂さんとす。早く治罸(ぢばつ)を加へられずば黨類蔓(はびこ)りて靜め難からん歟」とぞ言上しける。則ち評定を遂げられ、誰をか討手(うつて)に遣すべきとある所に、賴家の仰(おほせ)として、安達彌九郎景盛を使節とし、參州に進發せしめ、重廣が横惡を糺斬(きうざん)すべし」との上意なり。「多少の人の中に使節に仰付けらるゝ事且(かつう)は家の面目なり」とて、家人若黨殘らず相倶して參州に趣き、國中の勇士を集め、重廣を尋搜(たづねさが)し、誅戮を加へんとするに、逐電して、行方なし。彌九郎景盛が妾(おもひもの)は去ぬる春の比京都より招下(まねきくだ)せし御所の女房なり。容顏、殊に優れたりければ、時の間も立去(たちさり)難く、比翼の語(かたらひ)淺からざりしを、君の仰なれば、力なく國に留めて參州に赴きけり。賴家内々この女房の事聞召(きこしめ)し及ばれ、如何にもして逢(あは)ばやと御心を空にあこがれ給ひ、是故にこの度も使節には遣されし、その留主(るす)を伺ひて、艷書を通(かよは)し給ひて、彼(か)の陸奧(みちのく)の希婦(けふ)の細布胸合(ほそぬのむねあは)ぬ事を恨(うらみ)佗び、錦木(しにきゞ)の千束(ちつか)になれども、此女房更に靡かず。「現無(うつゝな)の君の御心や。守宮(ゐもり)の驗(しるし)も恐しく小夜衣(さよごろも)の歌の心も恥しくこそ」と計(ばかり)申しけるを、中野五郎能成を以て是非なく御所に召入れ給ひて、御寵愛斜(なゝめ)ならず。北向(きたむき)の御所石(いし)の壼(つぼ)に居(すゑ)られ、「小笠原彌太郎、比企三郎、和田三郎、中野五郎。細野四郎五人の外は北向の御所に參るべからず」とぞ仰定められける。翌月十八日に安達彌九郎歸參(かへりまゐ)る所に彼の女房は御所に取られ參らせたり。血の涙を流して戀悲(こひかなし)めども、影をだに見ること叶はねば、况(まし)て二度(たび)逢ふ事は猶かたいとのよるとなく、畫とも分かぬ物思(ものおもひ)、遣る方もなき海士小舟(あまをぶね)、焦(こが)るゝ胸の煙の末(すゑ)、立(たち)も上(あが)らで泣居(なきゐ)たり。讒佞(ざんねい)の者有て、景盛、深く君を恨み、憤(いきどほり)を含みて、野心を挾(さしはさ)む由申しければ、賴家卿、さらば景盛を討(うた)んと計(はか)り給ふ。因幡前司廣元申しけるは「是(これ)強(あながち)に憚り給ふべき事にても候はず。先規(せんき)是あり。鳥羽院は源仲宗が妻(め)に美人の聞(きこえ)有しかば、仙洞(せんとう)に召され、仲宗をば隱岐國に流され、女房をば祇園の邊(あたり)に置れ、御寵愛限(かぎり)なく、祇園女御と名付けて、御幸度々なりしが、後に此女御を平忠盛に給はりて、相國淸盛を生みたり。景盛を討(うた)せられんに何か苦しかるべき」とぞ申しける。是に依て近習の輩一同して、小笠原彌太郎旗を揚げて、藤九郎入道連西(れんさい)が甘繩の家に赴く。此時に至(いたつ)て俄に鎌倉中騷動し、軍兵等(ら)爭集(あらそひあつま)る。御母尼御臺所急ぎ盛長入道が家に渡らせ給ひ、工藤小太郎行光を御使として賴家卿へ仰せらるゝやう、「故賴朝卿薨じ給ひ、又いく程なく姫君失せ給ふ。その愁(うれへ)諸人の上に及ぶ所に、俄に軍(いくさ)を起し給ふは亂世の根源なり。然るに安達景盛は、その寄(よせ)侍りて故殿殊更憐愍(れんみん)せしめ給ふ。彼が罪科何事ぞ。子細を聞遂げられずして、誅伐し給はば、定(さだめ)て後悔を招かしめ給はん歟。若猶追討せられば、我先(まづ)その矢に中るべし」とありしかば、賴家卿澁りながらに止(とゞま)り給ふ。鎌倉中大に騷ぎ、諸人驚きて上を下にぞ返しける。尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて、「昨日相計(あひはから)うて一旦賴家卿の張行(ちやうぎやう)を止(やめ)たりといへども、後の宿意を抑(おさへ)難し、汝野心(やしん)を存せざるの由(よし)起請文を書きて、賴家卿に奉れ」とありしかば、景盛畏(かしこま)りて、之を獻(さゝ)ぐ。尼御臺所彼(かの)狀を賴家卿にまゐらせ、この次(ついで)を以て申さしめ給ふは、「昨日(きのふ)景盛を誅伐せられんとの御事は楚忽(そこつ)の至(いたり)と覺え候。凡(およそ)當時の有樣を見及び候に、海内(かいだい)の守(まもり)叶(かなひ)難く政道に倦(うん)じて民の愁(うれへ)を知召(しろしめ)さず、色に耽り戲(たはぶれ)に長じて、人の謗(そしり)を顧み給はず、御前近侍(きんじ)の輩更に賢哲の道を知らず、多くは侫邪(ねいじや)の屬(たぐひ)なり。その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば、故殿(ことの)頻(しきり)に芳情(はうぜい)を施され、常に御座に招き寄せて樂(たのし)みを共にし給ひて候。只今はさせる優賞(いうしやう)はなくして、剩(あまつさへ)皆實名(じつみやう)を呼ばしめ給ふの間、各々恨(うらみ)を殘す由(よし)内々その聞(きこえ)の候、物毎(ものごと)用意せしめ給はば、末代と云ふとも、濫吹(らんすゐ)の義あるべからず」と諷諫(ふうかん)の詞を盡されたり。御使佐々木三郎兵衞入道この由(よし)言上せしかば、賴家郷は何の御詞(ことば)をも出されず白けて恥しくぞ見え給ふ。

[やぶちゃん注:標題は「妾(おもひもの)を簒(うば)ふ」と訓じている。
「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年七月六日・十日・十六日・二十日・二十六日、八月十八日・十九日・二十日などに基づく。

「室平四郎重廣」は旧渥美郡牟呂村(現在の愛知県豊橋市牟呂町辺りを拠点としていた野武士で、野盗の首領のような者であったか。

「跖蹻」盗跖と荘蹻。魯と楚の大盗賊の名。

「安達彌九郎景盛」(?~宝治二(一二四八)年)は頼朝の直参安達盛長(保延元(一一三五)年~正治二(一二〇〇)年)の嫡男。以下、ウィキの「安達景盛」によれば、この事件を詳細に「吾妻鏡」が記録した背景には『頼家の横暴を浮き立たせると共に、頼朝・政子以来の北条氏と安達氏の結びつき、景盛の母の実家比企氏を後ろ盾とした頼家の勢力からの安達氏の離反を合理化する意図があるものと考えられる』とある(以下の引用ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『建仁三年(一二〇三年)九月、比企能員の変で比企氏が滅ぼされると、頼家は将軍職を追われ、伊豆国の修禅寺に幽閉されたのち、翌年七月に北条氏の刺客によって暗殺された。景盛と同じ丹後内侍を母とする異父兄弟の島津忠久は、比企氏の縁戚として連座を受け、所領を没収されているが、景盛は連座せず、頼家に代わって擁立された千幡(源実朝)の元服式に名を連ねている。比企氏の縁戚でありながらそれを裏切った景盛に対する頼家の恨みは深く、幽閉直後の十一月に母政子へ送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処罰させるよう訴えている』。『三代将軍・源実朝の代には実朝・政子の信頼厚い側近として仕え、元久二年(一二〇五年)の畠山重忠の乱では旧友であった重忠討伐の先陣を切って戦った。牧氏事件の後に新たに執権となった北条義時の邸で行われた平賀朝雅(景盛の母方従兄弟)誅殺、宇都宮朝綱謀反の疑いを評議する席に加わっている。建暦三年(一二一三年)の和田合戦など、幕府創設以来の有力者が次々と滅ぼされる中で景盛は幕府政治を動かす主要な御家人の一員となる。建保六年(一二一八年)三月に実朝が右近衛少将に任じられると、実朝はまず景盛を御前に召して秋田城介への任官を伝えている。景盛の秋田城介任官の背景には、景盛の姉妹が源範頼に嫁いでおり、範頼の養父が藤原範季でその娘が順徳天皇の母となっている事や、実朝夫人の兄弟である坊門忠信との繋がりがあったと考えられる。所領に関しては和田合戦で和田義盛の所領であった武蔵国長井荘を拝領し、平安末期から武蔵方面に縁族を有していた安達氏は、秋田城介任官の頃から武蔵・上野・出羽方面に強固な基盤を築いた』。『翌建保七年(一二一九年)正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された。出家後も高野山に居ながら幕政に参与し、承久三年(一二二一年)の承久の乱に際しては幕府首脳部一員として最高方針の決定に加わり、尼将軍・政子が御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴え、京方を討伐するよう命じた演説文を景盛が代読した。北条泰時を大将とする東海道軍に参加し、乱後には摂津国の守護となる。嘉禄元年(一二二五年)の政子の死後は高野山に籠もった。承久の乱後に三代執権となった北条泰時とは緊密な関係にあり、泰時の嫡子・時氏に娘(松下禅尼)を嫁がせ、生まれた外孫の経時、時頼が続けて執権となった事から、景盛は外祖父として幕府での権勢を強めた』。『宝治元年(一二四七年)、五代執権・北条時頼と有力御家人三浦氏の対立が激化すると、業を煮やした景盛は老齢の身をおして高野山を出て鎌倉に下った。景盛は三浦打倒の強硬派であり、三浦氏の風下に甘んじる子の義景や孫の泰盛の不甲斐なさを厳しく叱責し、三浦氏との妥協に傾きがちだった時頼を説得して一族と共に三浦氏への挑発行動を取るなどあらゆる手段を尽くして宝治合戦に持ち込み、三浦一族五百余名を滅亡に追い込んだ。安達氏は頼朝以来源氏将軍の側近ではあったが、あくまで個人的な従者であって家格は低く、頼朝以前から源氏に仕えていた大豪族の三浦氏などから見れば格下として軽んじられていたという。また三浦泰村は北条泰時の女婿であり、執権北条氏の外戚の地位を巡って対立する関係にあった。景盛はこの期を逃せば安達氏が立場を失う事への焦りがあり、それは以前から緊張関係にあった三浦氏を排除したい北条氏の思惑と一致するものであった』。『この宝治合戦によって北条氏は幕府創設以来の最大勢力三浦氏を排除して他の豪族に対する優位を確立し、同時に同盟者としての安達氏の地位も定まった。幕府内における安達氏の地位を確かなものとした景盛は、宝治合戦の翌年宝治二年(一二四八年)五月十八日、高野山で没した』。彼については『醍醐寺所蔵の建保二年(一二一三年)前後の書状に景盛について「藤九郎左衛門尉は、当時のごとくんば、無沙汰たりといえども広博の人に候なり」とある。「広博」とは幅広い人脈を持ち、全体を承知しているという意味と見られ、政子の意志を代弁する人物として認識されていた。宝治合戦では首謀者とも目されており、高野山にあっても鎌倉の情報は掌握していたと見られる』。『剛腕政治家である一方、熱心な仏教徒であり、承久の乱後に泰時と共に高山寺の明恵と接触して深く帰依し、和歌の贈答などを行っている。醍醐寺の実賢について灌頂を授けられたという』。一方、当時から彼には頼朝落胤説『があり、これが後に孫の安達泰盛の代になり、霜月騒動で一族誅伐に至る遠因とな』ったと記す。……既出の盛長頼朝誤殺説といい、まあ、とんでもない親子ではある……。

「彼の陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び、錦木の千束になれども、此女房更に靡かず」底本頭注には『陸奧の希婦―陸奥の希婦の細布程狹み胸合ひがたき戀もするかな(袖中抄)』とある。「袖中抄」は文治二(一一八六)年から同三年頃に顕昭によって著され、仁和寺守覚法親王に奉られた和歌注釈書。また、「錦木」にも注して『一尺ばかりなる五色に彩りたる木、陸奥の俗男女に會はむとする時その門に立つ』とあるが、これは所謂、能の「錦木」などで知れるようになった奥州の錦木塚伝承を下敷きにした謂いと考えてよい。それは、

陸奥狭布(けふ)の里(架空の歌枕)に、恋する男と恋される女がいた。当地の習慣に従って男は思う女の家の門に錦木を立てる(錦木が家内にとり込められれば求婚が容れられた証左となる)。男が三年も通って、立てた錦木の数は千本に及んだが、それは顧みられることなく、女は何時も家内にあって機(はた)を織り続けるなかりであった。男は悲恋の果て、思い死してこの世を去るが、女も男の執心に祟られ、やがて世を去った。この世にて添うことの叶わなかった二人は同じ塚の下に千束の錦木と細布と一緒に葬られた。塚は錦塚と名づけられて哀れな恋の語り草となった。

というもので謡曲「錦木」は恋慕の執心が旅僧の回向によって救われる複式夢幻能。ウィキの「錦木」によれば、『昔東北地方で行われた求愛の習俗で、男が思う相手の家へ通い、その都度一束(ひとつか)の錦木を門前の地面に挿し立てたという。 女が愛を受け容れるまで男はこれを続けるので、ときには無数の錦木が立ち並ぶことになった。千束が上限であったともいう。いわゆる「錦木塚伝説」はこうした背景から生まれた伝説であり、秋田県鹿角市・古く錦木村と呼ばれた地域に今も塚が遺る』。『また、こうしたロマンチックな習俗については古くから都にも知られ、多くの歌人の詠むところともなった』。として、以下の和歌が示されてある。

 錦木はたてながらこそ朽にけれけふの細布胸あはじとや 能因法師

 思ひかね今日たてそむる錦木の千束(ちづか)も待たで逢ふよしもがな  大江匡房(「詞花和歌集」恋)

 立ち初(そ)めてかへる心はにしきぎのちづかまつべきここちこそせね  西行(「山家集」中 恋)

「錦木」の梗概として私が参考にした、たんと氏のHPtanto's room たんとの部屋」の謡曲「錦木」の解説頁などを参照されたい。

但し、前の「陸奧の希婦(けふ)の細布胸合ぬ事を恨佗び」の部分は、それでも解し難い。ここは、恐らく、

――あの男女が遂に逢えなかった陸奥の狭布(けふ)の里で女が織り続けたという、細い細いというその布では、細布故に胸元を合わせることが叶わない――合う(逢う)べき筈のものが合わない(逢えない)ことを深く悲しみ恨んで、

の謂いであろう。

「守宮(ゐもり)の驗(しるし)」古代中国で、男性が守宮(ヤモリ)に朱(丹砂。水銀と硫黄の化合物。)を食べさせて飼い、その血を採って既婚の婦人に塗っておくと、その婦人が不貞を働いた場合、その印(しるし)が消えるとされた。これが本邦に形状の似るイモリに取り違えられて伝わったものがこれである。この辺りのことは、私の電子テクストである南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分等を参照されたい。

「小夜衣の歌」「新古今和歌集」巻二十の「釋教歌」にある(新編国歌大観番号一九六三)、

   不邪婬戒

 さらぬだに重きが上の小夜衣(さよごろも)わがつまならぬつまな重ねそ

に基づく謂い。「つま」は「褄」に「妻」を掛けて、不倫を戒める。

「因幡前司廣元申しけるは……」以下は「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月十九日の条に拠るが、あたかも大江広元が頼家を焚きつけているかのように読めるのは、ここは原典の記述の前後が逆転しているからで、筆者の恣意的な作為である。以下に「吾妻鏡」を示す。

〇原文

十九日己卯。晴。有讒侫之族。依妾女事。景盛貽怨恨之由訴申之。仍召聚小笠原彌太郎。和田三郎。比企三郎。中野五郎。細野四郎已下軍士等於石御壺。可誅景盛之由有沙汰。及晩小笠原揚旗。赴藤九郎入道蓮西之甘繩宅。至此時。鎌倉中壯士等爭鉾竸集。依之尼御臺所俄以渡御于盛長宅。以行光爲御使。被申羽林云。幕下薨御之後。不歷幾程。姫君又早世。悲歎非一之處。今被好鬪戰。是亂世之源也。就中景盛有其寄。先人殊令憐愍給。令聞罪科給者。我早可尋成敗。不事問。被加誅戮者。定令招後悔給歟。若猶可被追罸者。我先可中其箭云々。然間。乍澁被止軍兵發向畢。凡鎌倉中騒動也。萬人莫不恐怖。廣元朝臣云。如此事非無先規。 鳥羽院御寵愛祗薗女御者。源仲宗妻也。而召仙洞之後。被配流仲宗隱岐國云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日己卯。晴。讒侫(ざんねい)の族有り。妾女(せふじよ)の事に依つて、景盛、怨恨を貽(のこ)すの由、之を訴へ申す。仍つて小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎已下の軍士等、石の御壺へ召し聚め、景盛を誅すべきの由、沙汰有り。晩に及びて、小笠原、旗を揚げ、藤九郎入道蓮西(れんさい)が甘繩の宅に赴く。此の時に至りて、鎌倉中の壯士等、鉾を爭ひて竸(きそ)ひ集まる。之に依つて尼御臺所には、俄かに以つて盛長の宅に渡御、行光を以つて御使と爲し、羽林に申されて云はく、「幕下薨御の後、幾程も歷(へ)ず、姫君、又、早世し、悲歎一(いつ)に非ざるの處、今、鬪戰を好まる。是れ、亂世の源なり。就中(なかんづく)、景盛は、其の寄せ有り。先人、殊に憐愍(れんびん)せしめ給ふ。罪科を聞かしめ給はば、我、早く尋ね成敗すべし。事、問ひもせず、誅戮を加へらるれば、定めし、後悔を招かしめ給はんか。若し猶ほ、追罸(ついばつ)せらるべくば、我れ、先づ其の箭(や)に中(あた)るべし。」と云々。

然る間、澁り乍ら、軍兵の發向を止められ畢んぬ。凡そ鎌倉中、騒動なり。萬人、恐怖せざる莫し。廣元朝臣云はく、「此の如き事は、先規、無きに非ず。 鳥羽院、御寵愛の祗薗(ぎをん)の女御は、源仲宗が妻なり。而るに仙洞に召すの後、仲宗を隱岐國へ配流せらる。」と云々。

・「讒佞」人を中傷し、上の者に諂(へつら)うこと。

・「小笠原彌太郎・和田三郎・比企三郎・中野五郎・細野四郎」頼家直々の指名になる悪名高き愚連隊、五名の近習である。順に小笠原長経・和田朝盛・比企宗員・中野能成・細野四郎(名不詳。木曾義仲遺児とも)。但し、五名には宗員の下の弟比企時員を数えるものもある。

・「藤九郎入道蓮西」影盛の父安達盛長の法号。当時、満六十四歳。

・「行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)。二階堂行政の子で政所執事。後は彼の家系がほぼ政所執事を世襲している。

・「羽林」頼家。近衛大将の唐名。

・「幕下」頼朝。

・「寄」人望・信頼の意とも、仔細(妻を奪ったという頼家側の問題点)の意とも、両方の意味で採れるが、続く文からは頼朝以来の信任という前者の謂いである。

・「鳥羽院」は白河院の誤り。

・「源仲宗」(?~治承四(一一八〇)年)源三位頼政の子。父とともに以仁王の令旨に呼応して平家打倒の挙兵をしたが宇治平等院の戦いで平知盛・維盛率いる平家軍に敗れ、討ち死にした。白河院の寵愛を受けた祇園女御の元夫ともされる(私は年齢的な問題からこの説はハズレだと思っている)。

・「祗薗の女御」(生没年・姓氏共に不詳)は白河院の妃の一人で、別号を白河殿・東御方と言った。個人サイト「垂簾」「白河天皇后妃」の記載によれば、寛治七(一〇九三)年頃に白河上皇に出仕したと推定されるが、正式に宣旨を受けた女御ではなく、藤原顕季(白河法皇の乳母子で院の近臣)の縁者で、三河守源惟清の妻かとも、また蔵人源仲宗の妻とも、祇園西大門の小家の水汲女とも伝えられており、当初は身分の低い官女であったものかとも記されてある。子女はもうけず、法皇の猶子であった藤原璋子を養育し、晩年は仁和寺内の威徳寺に暮したが、彼女は実は平清盛の母とも(祇園女御の妹が母という説もある)伝わるが、伝承の域をでない、とある。筆者はここで専ら清盛御落胤説を提示したかったものと思われる。また筆者は、それを歴史的事実として受け入れることで、この後に起こるところの実際の嫡流の断絶という事態を避けるためには、血を残しおくために女は機能しなくてはならない、女とはそういうものである、だからそのための如何なる破廉恥な行為も高度な政治的判断の中にあっては肯定されねばならない、といったことを暗に広元の言に絡めて述べているようにも思われる。筆者は承久の乱の記述で政子という女性の政治介入を厳しく批判している。但し、これは江戸時代に強まった婚家(源氏)が滅び、実家(北条氏)がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に反するという政子への一般通説の批難に裏打ちされていることも事実ではあろう。

 

「尼御臺所は盛長入道が家に逗留し給ひ、安達景盛を召されて……」以下は、翌日、「吾妻鏡」正治元(一一九九)年八月二十日の条に拠る。

〇原文

廿日庚辰。陰。尼御臺所御逗留于盛長入道宅。召景盛。被仰云。昨日加計議。一旦雖止羽林之張行。我已老耄也。難抑後昆之宿意。汝不存野心之由。可献起請文於羽林。然者即任御旨捧之。尼御臺所還御。令献彼状於羽林給。以此次被申云。昨日擬被誅景盛。楚忽之至。不義甚也。凡奉見當時之形勢。敢難用海内之守。倦政道而不知民愁。娯倡樓而不顧人謗之故也。又所召仕。更非賢哲之輩。多爲邪侫之属。何况源氏等者幕下一族。北條者我親戚也。仍先人頻被施芳情。常令招座右給。而今於彼輩等無優賞。剩皆令喚實名給之間。各以貽恨之由有其聞。所詮於事令用意給者。雖末代。不可有濫吹儀之旨。被盡諷諫之御詞云々。佐々木三郎兵衞入道爲御使。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿日庚辰。陰り。尼御臺所、盛長入道の宅に御逗留。景盛を召し、仰せられて云はく、「昨日計議を加へ、一旦は羽林の張行(ちやうぎやう)を止むと雖も、我れ、已に老耄(らうもう)なり。後昆(こうこん)の宿意を抑へ難し。汝、野心を存ぜざるの由、起請文を羽林に献ずべし。」と。然らば、即ち御旨に任せて、之を捧ぐ。尼御臺所、還御し、彼の状を羽林に献ぜしめ給ふ。此の次(ついで)を以つて申されて云はく、「昨日、景盛を誅せられんと擬すは、楚忽の至り、甚だ不義なり。凡そ當時の形勢を見奉るに、敢へて海内の守りに用ゐ難し。政道に倦(う)みて民の愁いを知らず、倡樓(しやうろう)に娯しみて人の謗(そし)りを顧みざるの故なり。又、召仕ふ所、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫(じやねい)の属たり。何をか况や、源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍つて先人、頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給ふ。而るに今、彼の輩等に於いて優賞無く、剩(あまつさ)へ皆、實名を喚ばしめ給ふの間、各々以て恨みを貽(のこ)すの由、其の聞へ有り。所詮、事に於いて用意せしめ給はば、末代と雖も、濫吹(らんすい)の儀有るべからず。」の旨、諷諫(ふうかん)の御詞を盡さると云々。

佐々木三郎兵衞入道、御使たり。

・「老耄」北条政子(保元二(一一五七)年~嘉禄元(一二二五)年)は当時満四十二歳。であった。

・「海内」日本国。

・「剩皆實名を呼ばしめ給ふの間」北条を始めとする家臣団の連中を皆、官位や通称でなく、本名で呼び捨てになさるために、の意。本名を呼ぶのは甚だしく礼儀に反し、不吉でもある。ただ、ここは文脈上では「その上源氏は將軍の御一族北條は我が親族なれば」という前文に強く限定されているので、増淵氏の訳のように『他氏と同様に、(将軍家の縁戚でなく)単なる北条氏として呼ばせなさっているので』という、北条氏は家臣団とは別のグレードであるのに、という訳の方が説得力はあるように思われはする。

・「濫吹」狼藉。]

一言芳談 三十九

   三十九

 

 敬佛房云、彼兩上人明遍・明禪も、住運(にんうん)の御發心(ごほつしん)などは、みえず。たゞつねに理(ことわり)をもて、制伏(せいふく)し給し也。しからば、道理を忘れざるを、又道心といふべき也。後世(ごせ)のつとめは、心つよくてのうへの事也。よろづさはる事のみあるをば、おぼろけの心にては、いかでか、たへこらふべき。然而(しかうして)人ごとに、道理のごとく、道理をたて得ざるあひだ、皆心にまけて、はては後世もおもはぬものに成(なり)あひたるなり。道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり。

 世間出世至極(せけんしゆつせごく)たゞ死の一事也。死なば死ねとだに存ずれば、一切に大事はなきなり。この身を愛し、命を惜しむより、一切のさはりはおこることなり。あやまりて死なむは、よろこびなりとだに存ずれば、なに事もやすくおぼゆる也。しからば、我も人も、眞實に後世をたすからむとおもはんには、かへすぐも、道理をつよくたてゝ、心にまけず、生死界(しやうじかい)の事を、ものがましくおもふべからざるなり。されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。

 

〇任運の御發心、むかしの上人達も、自然(じねん)に發心して相續し給へるにあらず。下地(したぢ)が凡夫なれば、道心のたゆむこともあるべけれども、佛法の道理をつよくたて、妄心(まうしん)を禁制して相續し給へるなり。まして今の世の人は、事にふれて道心さめやすし。たゞ義理をつよくたてゝ、みづから心の師となり、妄心の私にかちて相續すべし。

〇道理を忘れざるを、意味ふかきことばなり。義にいさむ武士の討死(うちじに)するごとく、出家は出家の義にいさみて、捨邪歸正(しやじやきせい)の道理をきつと心にかくべし。

〇よろづさはる事のみ、一鉢(いつぱつ)むなしく、八風(はつぷう)しづかならず。衆苦(しゆく)身にあつまり、諸緣心にたがふ。

〇おぼろけの心にてはいかでかたへこらふべき、竹窓二筆云、先德、有言。出家大丈夫之事也。非將相之所能爲也。夫將以武功定禍亂、相以文學興太平。天下大事、皆、出將相之手。而曰出家非其所能。然則出家豈細故哉。

〇道理をつよくたてゝ、心の師となり、己に克ちて、晩節をたもち、私に負くることなかれとなり。

〇經、涅槃經。

 

[やぶちゃん注:本文は、Ⅱを元としながら、Ⅰを参考にしつつ、Ⅲを視認しながら、新たに私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」であることを最初にお断りしておく。

まず、Ⅱが冒頭、

 彼兩上人も、明遍・明禪 住運の御發心などは、みえず。

という不可解な配置にあるものを(明禪」の下の字空けはママ)、Ⅰの記載が「明遍・明禪」がなく、

 彼兩上人も住運の御發心などは見えず、

となっていて、標註の方に「彼の兩上人、明遍、明禪」とあるのを受けて、上記の位置に恣意的に移動させたものである。これは割注のようなものとして後から加えられたものが、かくもおかしな表記として本文内に混入書写されたものと類推する。

 更に、本文に示した最後の一文、

されば經に、心の師となりて心を師とせざれといへる也。

は、Ⅰ及びⅢにはない。大橋氏注によれば、これは殆どⅠのみに載る一文であるらしく、「続群書類従」本もこの一文を欠く、とある。しかし、このよく知られた名言は非常に含蓄に富んだいい台詞であり、私はどうしてもこの本文に示したかった。されば、ここにかく復元したものである。

 謂わば、私は個人の思いとしては「一言芳談」の原形としてはⅠに賛同したい(但し、書誌学的には最後の一文は寧ろ後世の誰かによって追補された可能性の方が高いかも知れぬ)のだが――ところが――Ⅰでは、何と本文の前段部が「用心」の部に、改行されている後段部分が「念佛」の部に分離されてしまっているのである。――以上、私が「組み直し、読みを振った特殊なもの」をここに示した理由である。

「八風」修行を妨げる八つの現象。人が求めることによって生ずる四順(しじゅん)と、人間が避けることによって生ずる四違(しい)の八種から成る法数。ウィキ風」によれば、四順は利=目先の利益を得たい・誉=名誉を受けたい・称=称賛されたい・楽=様々に楽しみたい、四違は衰=肉体が衰えたり金銭及び物品を損失したりする・毀=不名誉を受ける・譏=中傷される・苦=様々に苦しむ、といった人心を動搖させるところの幸不幸の状態・傾向の総体を謂い、それらを物を動かす風に譬えたものである。

「道理のかひなく、道理を始終とほさぬが第一の後世のさはりにてあるなり」やや分り難い。ここは、

極楽往生をするのだという道理(強い信念に基づくはずの究極唯一の希求)を持っていながら、結局、その甲斐がない状態――即ち、まさに――その道理を『完全に最後まで押し通すことが出来ない』という事態が――極楽往生の、第一の障りとなるのである。

という謂いである。

「世間出世至極たゞ死の一事也」この世に生を受けた者総て一人残らず、彼らの究極の思いは、これ、「死」の一事のみである。

「ものがましく」大袈裟である。仰々しい。ことごとしい。

「竹窓二筆云……」「竹雲二筆」は明代の禅僧雲棲袾宏(うんせいしゅこう 一五三五年~一六一五年)の随筆集。当該漢文をⅠの訓点に従いつつ、Ⅱの書き下しも参考にしながら、以下に私の書き下し文を示しておく。

「竹窓二筆」に云く、先德、言へること有り、『出家は大丈夫の事なり。將相(しやうしぃやう)の能く爲す所に非ざるなり。夫れ、將は武功を以つて禍亂(くわらん)を定め、相は文學を以つて太平を興(おこ)す。天下の大事、皆、將相の手に出づ。而して出家は其の能くする所に非ず。」と曰ふ。然らば則ち出家、豈に細故(さいこ)ならんや。』と。

「細故」細かなこと。取るに足りないこと。この雲棲の語は禪語としてふさわしい強烈なパラドクッスで、小気味よい。]

2012/12/22

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(1)

    二 形の僞り

Konohamusi

[木の葉蟲]

 

 色や模樣のみならず身體の形までが何か他物に似て居れば、敵の眼を眩ますには無論更に都合が宜しい。琉球の八重山邊に産する「木の葉蝶」が枯葉に似て居ることや、内地に普通に見る桑の「枝尺取り」〔エダシャク〕が桑の小枝にそのまゝであることは、小學讀本にも出て居て餘り有名であるから、こゝには略して二、三の他の例を擧げて見よう。東印度に産する「木の葉蟲」などはその最も著しいもので、「いなご」の類でありながら身體は扁たくて木の葉の如く、六本の足の節々までが各々扁たくて小さな葉のやうに見え、翅を背の上に疊んで居ると、翅の筋が恰も葉脈の如くに見える。そして全身綠色であるから、綠葉の間に居ると誰の目にも觸れぬ。印度コロンボの博物館には、玄關の入口に生きた「木の葉蟲」が澤山飼うてあつたが、その眞に綠色の木の葉に似て居ることは誰も驚かぬ者はない。この蟲に限らず、およそ他物に酷似するには、色も形もともにその物と同じでなければならぬから、形の似て居る場合には無論色も極めてよく似て居る。

[やぶちゃん注:「木の葉蝶」鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科コノハチョウ族コノハチョウ Kallima inachus Boisduval, 1846。インド北部からヒマラヤ・インドシナ半島・中国・台湾・先島諸島から沖縄諸島・奄美群島の沖永良部島と徳之島にかけて分布し、コノハチョウ属(Kallima 属)の中では最も広い分布域を持つ。分布域内で幾つかの亜種に分かれており、日本に分布するものは亜種 Kallima inachus eucerca Fruhstorfer, 1898 とされ、宮崎県以南で見られる。但し、参照したウィキの「コノハチョウ」には、『翅の裏側が枯葉に似るため、擬態の典型例としてよく知られた昆虫だが、疑問を呈する向きもある。もしも枯葉に似せた姿を擬態として用いるならば、枯葉を背景に羽根の裏を見せるか、枯れ枝に葉のような姿で止まるべきだと考えられるが、この蝶は葉の上で翅を広げるか、太い幹に頭を下に向けて止まるため、枯葉に似せる意味がないだろう、と云う説による』とある。種小名“inachus”はギリシア神話のイナコス河の神でオケアノスの子、イオの父で、彼は、

Pakicetus inachus パキケトゥス・イナクス(約五三〇〇万年前の新生代古第三紀始新世初期のイーペル期(Ypresian ヤプレシアン)の水陸両域に棲息していた四足哺乳動物で、現在知られる限りで最古の原始的クジラ類の化石種であるパキケトゥス属の一種)

や、

短尾下目Majoidea 上科 Inachidae Inachus 属(和名はヨツバイソガニか)の属名など多くの使用例があって好まれる名であるらしい。属名の意味は遂に分からなかった。

「枝尺取り」昆虫綱チョウ目シャクガ科 Geometridae の幼虫の総称であるシャクトリムシの内、特にエダシャク(枝尺)亜科 Ennominae にこの和名がある。ウィキの「シャクトリムシ」によれば、『シャクガの幼虫は、他のイモムシと比べて細長いものが多い。通常のイモムシは体全体にある足と疣足を使い、基物に体を沿わせて歩くが、シャクトリムシは体の前後の端にしか足がない。そこで、まず胸部の歩脚を離し、体を真っ直ぐに伸ばし、その足で基物に掴まると、今度は疣足を離し、体の後端部を歩脚の位置まで引き付ける。この時に体はU字型になる。それから再び胸部の足を離し、ということを繰り返して歩く。この姿が、全身を使って長さを測っているように見えることから、「尺取り虫」と呼ばれる』とあり、『エダシャク亜科には、木の枝に擬態するシャクトリムシがいる。そのような種では、体表が灰褐色の斑など、樹皮に紛らわしい色をしている。そうして、自分より太い木の枝の上で、後端の疣足で体を支え、全身を真っ直ぐに緊張させ、枝の上からある程度の角度を持って立ち上がり、静止すると、まるで先の折れた枯れ枝にしか見えなくなる。昔、農作業の際、茶を土瓶に入れて持参し、枯れ枝のつもりでこのようなシャクトリムシに引っ掛けると、当然ながら引っ掛からずに落ちて土瓶が割れる。それで、この様なシャクトリムシを「土瓶落とし」と呼んだという』とあるので、丘先生が尺取虫とせずに『枝尺取り』としたのは極めて正確であることが分かる。亜科名“Ennominae”はギリシア語の“ennomos”(法にかなった)で、いやこりゃもう、謂い得て妙である。

「木の葉蟲」ナナフシ目コノハムシ科 Phyllidae の昆虫で、熱帯アジアのジャングルに広く分布しており、二十種ほどが確認されている。ウィキコノハムシ科」によれば、『草食性で、メスは前翅が木の葉のようになっており、翅脈も葉脈にそっくりで、腹部や足も平たく、飾りのための平たい鰭もあり、木の葉に擬態することができる。一方、オスは細長い体型で、腹部のほとんどが露出しているため木の葉に似てないが、後翅が発達していて飛ぶことが出来る。周囲の色によっては、黄色や茶色の個体も見られる』とある。科名“Phyllidae”はギリシア語で「葉」を意味する“phyllon”に由来する。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 江嶋~(1)

   江 嶋〔或榎嶋或ハ繪島工作ル〕

龍口ヨリ嶋マデ十一町四十間也。潮ノ落タル時ハ砂濱也。徒歩ニテモ渡ル。潮盈タル時ハ六町計モ水ヲ踰ル也。嶋ノ入口ヨリ辨才天ノ岩窟マデ十二町半、嶋ハ方廿五町餘有ト也。坂ノ上三石ノ華表アリ。金龜山ト云額アリ。辨才天ノ巖窟甚廣大ナリ。此巖窟ヲ江嶋ノ神トス。社壇ノ下ニ蛇形ト云テ、寶殊ヲ蛇ノ纏ヒタル躰ニ作リテアリ。弘法ノ作ト云。故ニ弘法ヲ巖窟ノ開基トス。嵯峨帝弘仁五年ニ弘法此窟中ニ參寵シテ、天照太神・春日・八幡等ノ諸神ノ像ヲ刻テ、勸請セラル。窟中暗黑、松明ヲ振テ入ル。胎藏界ノ穴、金剛界ノ穴トテ窟中ニ堺アリテ左右ニ分レ行、入事一町餘ニシテ石佛アリ。此ヨリ奧へハ、穴隘シテ立テ行べカラズ。行タル人モナシト云。ソレ迄ノ路ノ側ニ、弘法ノ祈出タルトテ、巖間ヨリ落ル淸泉アリ。蛇形ノ池、弘法ノ臥石アリ。手ヲ以テ授ルニ人肌ノ如ク、濕ニシテ滑膩ナリ。護摩ノ爐トテアリ。觀音アリ。弘法ノ作ト云。石ノ獅子、弘法歸朝ノ時、取來ルト云。

[やぶちゃん注:「天照太神」底本では「太」の右に『(大)』と誤字注をする。

「隘シテ」「せまくして」と訓じているように思われる。

「滑膩」は「カツジ」と読み、滑らかで光沢のあること。]

   長明海道記

 江ノ嶋ヤサシテ鹽路ニ跡タルヽ神ハ誓ヒノ深キナルヘシ

[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。

 江の島やさして潮路に跡たるる神は誓ひの深きなるべし

「跡たるる」は本地垂迹説に基づく。法華経普門品に「誓深如海」(弘誓深きこと海の如し)とある。]

 此日腰越村ヲ出テ、海濱ニ網ヲ設ケ、若干ノ魚鱗ヲ捕ラシム。御代官成瀨五左衞門、從ヒ來テ我ヲ饗ス。辨才天ノ窟ヲ出テ前ニ魚板(マナイタ)岩トテ面平ニ、大ナル岩アリ。其上三屋シテ四方ヲ眺望スルニ、萬里ノ廻船數百艘、帆腹膨朜トシテ、或ハ又漁艇商船海上ニ滿ミテリ。豆駿・上下總・房州等ノ諸峯連壑分明ニ眼前ニアリ。富士ハ兒淵ノ眞西ニアタル。兒淵ト名ルコトハ、昔建長寺廣德庵ニ自休藏主ト云有僧(僧有リ)、奧州志信ノ人也。江嶋へ百日參詣シケルニ、雪下相承院ノ白菊ト云兒、邂逅シテ後、忍ヨルべキ便ヲ求メシニ、其返事ダニナシ。或時此兒、夜ニ紛レ出テ江嶋ニユキ、扇ニ歌ヲ書テ渡守ヲ賴ミ、若我ヲ尋ル人アラバ見セヨトテ、カクナン。

  白菊トシノアノ里ノ人トハヽ 思ヒ入江ノ嶋ト答へヨ

  ウキコトヲ思ヒ入江ノ嶋陰ニ 捨ル命ハ浪ノ下草

ト読テ此淵ニ身ヲ投ケリ。自休尋來テ此事ヲ聞、カク思ヒ続ケル。

  懸崖嶮處捨生涯  十有餘霜在刹那

  花質紅顏碎岩石  妓眉翠袋接塵沙

  衣襟只濕千行涙 扇子空留ニ首歌

  相對無言愁思切 暮鐘爲執促歸家

ト読テ其儘海ニ入トナン。是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。

[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。

「御代官成瀨五左衞門」ウィキ腰越地域に、『戦国時代になると後北条氏の支配下に入り、北条氏滅亡後は徳川氏の支配下に入った。当初は玉縄藩領だったが、後に成瀬重治が知行し、その際検地を受けた。その後も旗本領となった』とある。

「膨朜」は「膨※」(「※」「朜」の最終の横一角を除いた、(つくり)が「亨」)であろう。「膨※」は「ボウカウ(ボウコウ)」と読み、腹が膨れるの意。順風満帆のこと。

「連壑」は「レンガク」と読み、連なった谷。

「奥州志信」は「しのぶ」と読み、陸奥国信夫郡(しのぶのこおり)。ほぼ現在の福島県福島市に等しい。

稚児白菊の和歌を分かり易く書き直しておく。

 白菊(しらぎく)と信夫(しのぶ)の里の人問はば思ひ入江(いりえ)の島と答へよ

 うきことを思ひ入江の島かげに捨つる命は波の下草(したくさ)

禅僧自休の漢詩を書き下しにしておく。

 花質 紅顏 岩石に碎け

 十有 餘霜 刹那在り

 娥眉 翠黛 塵沙に接す

 衣襟 只だ濕ふ 千行の涙

 扇子 空しく留む 二首の歌

 相ひ對して言ふ無し 愁思 切なり

 暮鐘 孰(たれ)が爲にか 歸家を促す

以下の文章は、底本では「是ヨリシテ兒淵トハ云トゾ。」に直に繋がっていて、改行していない。]

巖本院從者ヲ勞フべシトテ行厨ヲ送ル。成瀨氏海人ヲシテ石決明ヲ取シム。則魚板岩ノ前ナル海へ入テ捕之(之を捕ふ)。或ハ菜螺・大龍蝦・蛸魚等アリ。獻之(之を獻ず)。因テ諸士ト共ニ樂ム。遂ニ一葉ニ乘ジテ嶋嶼ヲ廻リ、巖本院ガ樓ニ上ル。士峯ノ雪筵ヲ照シ、海波淼漫トシテ無限風光ナリ。

[やぶちゃん注:ここに注を挟みたい。

「行厨」「カウチユウ(コウチュウ)」と読み、弁当のこと。

「菜螺」「榮螺」(サザエ)の誤字か。

「大龍蝦」イセエビ。

「蛸魚」タコ。

「淼漫」「ベウマン(ビョウマン)」と読み、水面が果てしなく広がっているさま。淼淼(びょうびょう)。

以下の文章は、底本では「海波淼漫トシテ無限風光ナリ。」に直に繋がっていて、改行していない。]

ソレヨリ後緣起ヲ見ル。其略曰、武烈帝ノ時、金村大臣ト云長者、子十七人アリケルニ、皆五頭龍王ニ取ルヽトゾ。龍口寺ノ東ノ端ニ長者谷ト云所アリ。此時西ノ山沸出、辨才天女示現シテ五頭龍王ト夫婦トナル。欽明帝貴樂元年四月十四日、東ノ山ヲ諸神筑キ成ケルトゾ。此地ノ開基ハ役行者也。次ニ泰澄、次ニ道智、次ニ弘法、皆コヽニ來リ居ル。次三文德帝仁壽三年、慈覺上官ヲ創造ス。正治元年慈悲良眞下宮ヲ建立スル也。慈悲初ハ天臺宗ナリンガ後ニ禪ニ成トナリ。慈悲入宋シテ慶仁ニ逢、碑文ノ石ヲ取來ルト云。龍口山ノ後ニ當リテ阿彌陀池・光明眞言池トテ二ツアリシヲ、泰澄祈リツブスト也。又按ズルニ東鑑ニ者、養和三年、兵衞佐殿、腰越ニ出シ玉フ、御家人等供奉ス。ソレヨリ江島へ御參詣、今日高雄文覺、兵衞佐殿御願祈誓ノ爲、大辨才天ヲ此島ニ勸請ス。今日鳥居ヲ立ラルト云リ。昔北條時政、此島ニ詣テ、子孫ノ繁榮ノ事ヲ祈ル。三七日ノ夜、一人ノ美女來リ告テ云。汝ガ後胤必ズ國權ヲ執ン。其レ無道ナラバ七世ニシテ失フ事アラン。既ニシテ歸ル。時政驚怪シテ見レバ、大蛇ノ長二十丈バカリナルガ海中ニ入ヌ。其遺ス所ノ三鱗甚大ナリ。取テ是ヲ旗ニ着ク。所謂北條ノ三鱗形ノ紋是也。上宮巖本院ト額アリ。朝鮮國螺山筆也。辨才天女、弘法ノ作。幷ニ千躰地藏アリ、役行者ノ作ト云。巖本院再ビ酒饌ヲ設テ饗ス。多景ニヒカレ、シバシバ盃ヲ傾ク。人ヲシテ下宮ヲ見セシム。

[やぶちゃん注:「欽明帝貴樂元年」西暦五五二年。

「諸神筑キ」の「筑」は「築」の意。

「文德帝仁壽三年」西暦八五三年。

「正治元年」西暦一一九九年。

「養和三年」寿永二(一一八三)年。但し、これは養和二年四月五日の誤りである(底本にはその編者注記はない)。以下に「吾妻鏡」の当該部を示す。

〇原文

五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日乙巳。武衞、腰越邊、江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高尾の文學(もんがく)上人、武衞の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請し奉り、供養の法を始め行ふ間、故(ことさら)に以つて監臨せしめ給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏せんが爲なりと云々。今日、即ち鳥居を立てられ、其の後、還らしめ給ふ。金洗澤邊に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎・愛甲三郎等、箭員(やかず)有るに依つて、各々色皮(いろがは)・紺絹(こんきぬ)等を賜はる。

・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。

足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱

・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。

・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。

・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。

下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆

・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。

・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。

 

「腰越ニ出シ玉フ」「出シメ玉フ」の「メ」の脱字。

以下は、改行されている。]

芥川龍之介漢詩全集 二十七

   二十七

 

 題倪先生隻鷄之圖

 

明燭似風消慘悽

淸香如水滌塵迷

展將一幅澄心紙

寫得中秋白羽鷄

 

〇やぶちゃん訓読

 

  倪先生隻鷄の圖に題す

 

 明燭 風に似て 慘悽(さんせい)を消し

 淸香 水のごとく 塵迷(じんめい)を滌(すす)ぐ

 展(の)べ將(ささ)ぐ 一幅の澄心紙(ちようしんし)

 寫し得たり 中秋白羽(はくう)の鷄(けい)

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この前後は新年号の執筆に多忙の日々を送っていたが、私は、本詩の香りともどこか通じる雰囲気の「秋山図」の原稿の改稿の一部を、正に同日附で、掲載予定の『改造』の当時の文芸欄担当記者であった瀧井孝作に送っている(岩波版旧全集書簡番号八一四)のが大いに気になっている(リンク先は青空文庫)。実は以下、私が注する画人が多く、「秋山図」には登場するからである。なお、他に大正一〇年新年号の発表作中「秋山図」以外で着目されるのは、「山鴫」(『中央公論』)と「アグニの神」(『赤い鳥』)の二作品である。

 本詩は、

大正九(一九二〇)年十二月六日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号八一六)

に所載する。小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに父と思えと言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓をもらっている。

 詩の後に、

 臘初六日

のクレジットと、その下部に、

     雲 田 生 拜

次行に、

雲 林 庵 主 侍史

その後に、

二伸 この詩一時ばかりにて成るうまいかまづいかよくわからず 但し小島政二郎の句ようりはうまい自信があります

と記す。以上から分かるように、龍之介は自身を「雲田」、小穴を「雲林庵主」と呼称している。実はこの書簡の前にある小澤忠兵衞(碧童)宛書簡(岩波版旧全集書簡番号八一五)の中で前日(十二月五日)に瀧井孝作と改造社社長山本実彦が来て、六日中の「秋山図」脱稿を促されて『ずつとペンを握りつづけです』と書いてそれに続けて、『その後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか』と記している(「その後」は前とは繋がっていない謂いで、この前に碧童に逢って以降、の謂いと思われる)。更にそれに先立つ同年十月三十日の小穴宛書簡(岩波版旧全集書簡番号七九五)の本文宛名には『倪小隆先生』とあり、同人宛十二月三日の書簡(岩波版旧全集書簡番号八一三)には『この頃四王呉惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます』と記して、ここでの宛名は『倪隆一先生』である。この『四王呉惲』は清初の正統派文人画家を代表する王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)の「四王」に、呉歴と惲寿平(うんじゅへい)を加えた清初六大家のことで、この最後の惲寿平が龍之介が称揚する惲南田(一六三三年~一六九〇年)で、また、雅号の中に現われる「倪」や「雲林」は、それより三百年ほど遡る元代の画家で元末四大家の一人、倪雲林(倪瓚げいさん 一三〇一年~一三七四年)の名前に因んだものである。以上から本詩も含めて、これらの雅号は謂わば、「勝手に雅号」、龍之介が小穴に勝手に附けたもの、真正の小穴の雅号ではないということが判明する。更に、この倪雲林について、中国旅行で現物を見た龍之介は、大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」で以下のように記している(底本は岩波版旧全集を用いたが、一部に私の読みを歴史的仮名遣で附した)。

 

     松樹圖

 

 雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀と云ふ畫帖の中にあつた。畫帖の中の畫は大部分、董其昌(とうきしやう)の舊藏に係るものらしい。

 雲林筆と稱へる物は、文華殿にも三四幅あつた。しかしその畫帖の中の、雄剄(ゆうけい)な松の圖に比べれば、遙かに畫品の低いものである。

 わたしは梅道人(ばいだうじん)の墨竹を見、黄大癡(くわうたいち)の山水を見、王叔明の瀑布を見た。(文華殿の瀑布圖ではない。陳寶琛(ちんはうちん)氏藏の瀑布圖である)が、氣稟(きひん)の然らしむる所か頭の下つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。

 松は尖つた岩の中から、眞直に空へ生え拔いてゐる。その梢には石英のやうに、角張(かどばつ)つた雲煙(うんえん)が横はつてゐる。畫中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林の外に行つたものはない。黄大癡の如き巨匠さへも此處へは足を踏み入れずにしまつた。況や明淸の畫人をやである。

 南畫は胸中の逸氣(いつき)を寫せば、他は措いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴と生きてゐはしないか? 油畫は眞を寫すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出來ない。モネの薔薇を眞と云ふか、雲林の松を假(か)と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの圖を眺めながら、そんな事も考へた覺えがある。

 

・「宣統帝」清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(一九〇六年~一九六七年)。

・「董其昌」(一五五五年~一六三六年)明末の文人で特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことで有名で、その影響から清朝においては彼の書が正統とされた。また独自の画論は文人画(南宗画)の根拠を示し、その隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれ、本邦の書画にも多大な影響を与えている(ウィキの「董其昌」に拠る)。

・「文華殿」明代は皇太子の住居で国政の最高機関である内閣が置かれた。清代には紫禁城東南部に配され、乾隆帝が編纂した四庫全書が収納されて儒教の講義が行われた。中華民国に至り、開放されて旧帝室御物の書画陳列室となっていた。

・「梅道人」(一二八〇年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。名は呉鎮。墨竹を能くし、元の山水画様式を確立した。明代以降の画に大きな影響を与えている。

・「黄大癡」(一二六九年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。本姓は陸、黄公望とも呼ばれた。山水画の正統的巨匠。諸学諸芸に通じ、詞曲や鉄笛も得意とした。道教の新興宗派であった全真教に入信している。

・「陳寶琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣となり、一九一一年には溥儀の帝師(侍講)となったが、翌年に溥儀は退位、そのまま溥儀に従って紫禁城にとどまり、「徳宗実録」の編纂に当たった。張勲復辟(ちょうくんふくへき:一九一七年七月一日からの十二日間だけ安徽省督軍であった張勲が溥儀を復位させた事件。)の際には議政大臣に推薦されている。一九二五年以降は溥儀に従って天津で暮らすしたが、一九三二年の満州国成立には加わらず、天津で死去した。蔵書家として知られ、十万冊を有していたという(以上は主にウィキ陳寶チンに拠る)。

・「逸氣」昂ぶった気持ち。

 

以上からも、龍之介の南画家倪雲林及び惲南田への並々ならぬ傾倒振りが看て取れる。

 

「慘悽」凄惨な風景。ここはそうした妄想やイメージの謂いか。

「澄心紙」清澄な心を、清くまっさらな画紙にダブらせている。

 なお、本詩に関わって邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第一章 神話構築としての中国」の「創作の背景」で、まず龍之介の「或阿呆の一生」の、

 

      二十二 或 畫 家

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

 

の前半部を掲げ、小穴と「秋山図」の誕生の深い関連性を考察された上で、この書簡や詩によって、『画家小穴隆一に自分の魂を発見したという芥川は、小穴隆一の面前、素直に中国南画に対する熱愛ぶり披露している。ということは、雄鶏の墨絵を描く小穴に巡り合うことがなかったら、王力谷・呉鎮。王時敏・王鑑・惲南田を登場させる「秋山図」を、芥川は創作しなかったかもしれないということである』と述べておられる。

 ――さすれば正に――この『一羽の雄鷄の墨畫』――こそが本詩の画題にほかならなかったと考えてよかろう。――そして――「秋山図」――芸術美の本質は、クリエーターによる絶対美の創造などにあるではなく、寧ろオーディエンスの、その瞬間の現存在こそが、美的感動の本質と大きな関わりを持っている、という立場を表明する、私の好きな「秋山図」という作品を視野に置いて本詩を読む時――実は結句にある「中秋白羽鷄」は――純白の「澄心紙」の、文字通り――心象の風景――「心景という白一色の画面」の中にこそ「描かれている」――と言えるのではあるまいか?]

一言芳談 三十八

   三十八

 

 又云、たとひ八万の法門を通達せりとも、凡夫の位(くらゐ)には程(なを)あやまちあるべし。佛助(たすけ)玉へとおもふ事のみぞ、大切なる。

 

〇八万の法門、八万四千の佛教也。三賢十聖(さんげんじつしやう)の菩薩も、なほ因分にして、果海の佛には及びがたし。いはんや凡夫のあさきさとりは、あやうき事也。たゞをろかに信ずるがよき也。是を果分不可説といふ。淨土宗の故實なり。一枚起請に、たとひ一代の、とあるも、この心なり。

 

[やぶちゃん注:標注はⅠでは「八萬の法門、八萬四千の佛教なり。」(表記はママ)で終わっているが、実際には以上のように長い。Ⅱの脚注にあるものを正字化して復元した。

「法門」悟りに入る門の意で仏法、仏の教え。

「通達」隅々まで通じること、滞りなく通じることであるが、ここは、目を通す、学び尽くしたつもりになる、といった皮相的謂いでとらなくては意味がそれこそ「通達」しない、通じない。

「八万四千」仏教では「非常に多くの」「無数の」「総ての」の意で用いられる一種の法数(ほうすう:定型化された仏教の教理を数によって仮に示すもの。)である。

「三賢十聖の菩薩も、なほ因分にして」「三賢十聖」は大乗仏教の菩薩の修行階梯の内で、上位の聖位である十地(十聖)及びそれ以前の十住・十行・十回向(三賢)を総称する謂い。三賢十地とも。間違ってはいけないのは、彼らは未だ菩薩(修行者。これを悟りを得た仏の謂いと誤解している人が案外多いように思われる)であるから、未だ「因分」や果報の世界、即ち、因果応報の世界に住んでいるのである。

「果海」空海の密教教学で言う因果を超越した世界。第十住心。

「「果分不可説」因分(原因)となる対象については説くこと(解析)が可能であるという「因分可説」の対語。果分(結果)である存在については解析は不可能であることを示す。仏教の真の究極の結果たるものが悟達(悟り)であるから、果分不可説によってそれを説明することは出来ない、という謂いである。]

2012/12/21

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(6) 了

[カメレオン]


Kameleon

[アフリカの北部に産する「やもり」の類の一種にして、常に樹上に住み、昆蟲を見れば急に長き舌を延ばしその先端を粘著せしめて捕へ食ふ。隨意に體色を變じてその居る處と同色と成るを以て有名である。]


[やぶちゃん注:この挿絵ページは国立国会図書館の近代デジタルライブラリーにある原書の画像では何故か飛んでおり、原本の二〇三頁の右に裏側から透けて見えるだけである。この裏からの反転の不鮮明な透けと講談社版のキャプション(前者と比較すると表記だけでなく表現の一部も明らかに違うことが分かる)を参考に可能な限り、推定再現したものである。「長き」は「長い」かも知れない。]

 以上はいづれも動物の色が常にその住む場處の色と同じであるために、そこに居ながら恰も居らざる如くに裝うて、食ふこと及び食はれぬことに便宜を得て居るものであるが、或る動物では體の色が行く先先で變つて、どこへ引越しても相變らず留守を使ふことが出來る。この點で最も有名なのは「カメレオン」の類である。皮膚の中にある種々の色素が或は隱れ或は現れるために、その混合の程度に從つて實にさまざまの色が生ずる。そして、その色はいつも自分の居る場處の色と同じにすることが出來て、綠葉の間に居れば全く綠色となり、褐色の枝の上では褐色となり、白紙の上に置けば殆ど白に近い淡い灰色となり、炭の上に載せれば極めて濃い暗色となるから、いつも外界の物と紛らはしくて見附け難い。一體この動物は樹の枝に留まつて、飛んで來る昆蟲を待つて居るもので、それを捕へるときには極めて長い舌を急に延ばし、恰も子供が、黐(とりもち)で「とんぼ」を取る如くにして捕へるが、身體の色がいつも周圍と同じであるから、蟲は何も知らずにその近邊まで飛んで來る。常には長い舌を口の中に收めて居るから、下顎の下面は半球形に膨れ、且左右の眼も別々に動かすから、容貌が如何にも奇怪に見える。身體の色が周圍の色と同じであることは、昆蟲を驚かしめぬための外に、敵の攻撃を免れるの役にも立つであらうから、これは食ふためにも、食はれぬためにも至極有利なことであらう。我が國に産する雨蛙なども、居る場處次第で隨分著しく色を變へるもので、綠葉に止まつて居る間は鮮やかな綠色でも、枯木の皮の上に來ればこれに似た褐色になる。なほその他、體の色を種々に變ずる動物の例は幾らもあるが、多くは周圍の色に紛れて身を隱すためである。

[やぶちゃん注:爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目カメレオン科 Chamaeleonidae に属する九(若しくは十)属約二百種の総称。模式属はカメレオン属 Chamaeleo。荒俣氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」によれば、カメレオンの名は古代ギリシア時代からこの動物を指す語として用いられており、語源的にはギリシア語の“khamai”(地上の、又は小人の意)と“leōn”(ライオン)の意であるとある。以下、ウィキの「カメレオン科」によれば(引用箇所ではアラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、主にアフリカ大陸・マダガスカルに分布し、最長種はフサエカメレオン属ウスタレカメレオン Furcifer oustaleti で全長六九センチメートル、最小種はヒメカメレオン属ミクロヒメカメレオン Brookesia micra で体長は最大でも二九ミリメートル程度しかない(二〇一二年二月現在で世界最小の爬虫類とされる種で、ウィキの「ミクロヒメカメレオン」にマッチ棒の先にちんまりする画像がある。これ、凄い。……それにしても「ミクロヒメ」という和名はなんとかならんかったんかのぅ……)。『種にもよるが気分や体調により体色を限定的ながら変色させることができる。例を挙げると』

 黒ずむ―体調不良。体温が低い(色を黒くすることで熱を吸収しやすくなる)

 白くなる―体温が高い(日光を反射させる)

 派手になる―興奮している時

種により変色の幅は異なり、ほとんど変色しない種もいる。体色による性的二型が顕著な種もいる一方で、雌雄で体色があまり変わらない種もいる。一般にはカメレオンは周囲の色に合わせて自在に体色を変えられるという誤った俗説があるが、種によって変わる色は決まっている』(これは本書の叙述からみても恐らく丘先生も誤解しておられる。しかし我々の多くも近年までそう誤解していた)。『頭部には、前方に角が生える種もいる。左右の目を三六〇度、別々に動かすことができる。近い位置に獲物を見つけると顔と両目を獲物に向けて立体視をおこない、狙いを定める。舌は蛇腹状、またはゴムの様に筋肉が収縮している。舌骨を押し出すことで縮んでいた筋肉が急激に弛緩し、前方に射出される。舌は粘着質で覆われており、獲物を付着させることができる』。『趾指は五本だが、前肢は内側の三本の指と外側の二本の指、後肢は内側の二本の趾と外側の三本の趾が癒合し二股になっている。これにより木の枝を掴むことができる。趾指の先には爪があり、枝に食い込ませることで体を支えることができる』。『主に森林に生息』し、『食性は動物食で主に昆虫類や節足動物、大型種は小型爬虫類、鳥類、小型哺乳類も食べる』。『繁殖形態は主に卵生だが、カメレオン属には卵胎生の種もいる』。ウスタレカメレオン属ラボードカメレオン Furcifer labordi『は、約九か月間を卵で過ごした後、孵化して二か月で成熟して繁殖し、四~五か月で死ぬ。これは二〇〇八年時点で知られている四肢動物としては最も短い寿命といわれる』とある。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 万福寺/袂浦/龍口寺/龍口明神/片瀬川/西行見帰松/笈焼松/唐原/砥上原

   万 福 寺  〔或ハ作滿〕

 龍護山ト號ス。眞言宗、手廣村靑蓮寺ノ末ナリ。開山行基。本尊藥師、行基作。義經ノ宿セラレシ所ナリト云。辨慶申狀ヲ書テ硯水ヲ捨タル所ノ池幷ニ松アリト云。馬上ヨリ望見テ過ヌ。

 〔私闇齋遠遊記ニ、辨慶書タル申狀ノ草創猶在、東鑑ニ載スル所ニハ、首尾ニ左衞門少尉ノ五字アリ、愁ヲ紅ニ作リ抱ヲ胞ニ作ル。想ニソレ淨寫シテ、コレヲ添、コレヲ改ルナラン。〕

[やぶちゃん注:「万」は「萬」としようと思ったが、変えずにおいた。割注は底本では全体が一字下げ。

「私闇齋遠遊記」不詳。朱子学者山崎闇斎(やまざきあんさい 元和四年(一六一九)年~天和二(一六八二)年)の紀行か。識者の御教授を乞う。

「草創」は「草稿」の誤りであろう。以下の異同については、私が完全校閲・比較提示したものが「新編鎌倉志巻之六」の「滿福寺」注にある。是非、参照されたい。]

 

   袂  浦

 腰越ヨリ江嶋へノ直道、南へノ出崎ノ入江ノ濱、袂ノ如クナル地ヲ云トナン。

  夫木集        讀人シラズ

  ナヒキコシ袂ノ浦ノカヒシアラハ 千鳥ノ跡ヲタヘストハナン

[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。

  靡(なびき)き越し袂(たもと)の浦の甲斐しあらば千鳥の跡を絶えずとはなむ

「カヒ」は甲斐と貝を掛けていよう。]

 

   龍 口 寺

 寂光山ト號ス。腰越村ノ末ニアリ。日蓮ノ取立タル寺ニテ、初ヨリ開山ナシ。祖師堂ニ首ノ座ノ石アリ。石ノ籠モアリ。日蓮難ニ遭ヒシハ文永八年九月十二日ト云リ。七坊アリ。七ヶ寺ヨリ輪番ニ勤之(之を勤む)。七坊、妙傳寺〔比企谷ノ末〕、本成寺〔身延ノ末〕、本立寺〔比企谷ノ末〕、法玄寺、勤行寺〔玉澤ノ末〕、東漸寺〔中山ノ末〕、是ナリ。外ニ常立寺ト云アリ。悲田派武藏ノ碑文谷ノ末ナリ。近ゴロ公事有テ、今ハ輪番ニ入ラズ。本堂ニ日蓮ノ木像アリ。番神堂ハ松平飛騨守利次室再興也。

 

   龍口明神

 寂光山ノ東邦ニアリ。昔五頭龍王アリ。人ヲ以テ牲トセシニ、江嶋ノ辨才天女夫婦ノ契アリテヨリ、龍口明神ト祭ルトナリ。

 

   片 瀨 川

 藤澤海道ノ南へ流出ル小川也。駿河次郎淸重討死ノ所也。東鑑ニ片瀨ノ在所ノアタリニテハ片瀨トイフ。石上堂村ノ前ニテハ石上川ト云。

             中務卿宗尊親王

  歸來テ又見ンコトハカタセ川 ニコレル水ノスマヌ世ナレハ

  海道宿次百首        參議爲相

  打ワタス今ヤ汐干ノカタセ川 思ヒシヨリモ淺キ水カナ

[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。

  歸り來て又見ん事もかたせ川濁れる水の澄まぬ世なれば

將軍職を辞任し、本意ならず帰洛した際の歌とされる哀傷歌である。

  打ち渡す今や潮干(しほひ)の片瀨川思ひしよりは淺き水かな]

 

  西行見歸松〔又西行戻(モドリ)松云〕

 片瀬村へユク路邊ノ右ニアリトナン。此所迄西行來シガ、是ヨリ歸タリト云。

 

   笈 燒 松

 片瀨村ヨリ南へ行道アリ。此所ヨリ出、六町程ユキテ在家ノ後ロノ竹藪ノ際ニアリトナン。駿河次郎淸重ガ笈ヲ燒シ所ナリト云。

 

   唐  原

 片瀬川ノ出崎、海ノ方、東南ノ原ヲ云。

   夫木集         藤原忠房

  名ニシオハハ虎ヤ伏ラン東野ニタツトイフナルモロコシカハラ

   同集          讀人不知

  遙カナル中コソウケレ夢ナラテ 遠ク見ユケリ唐カ原

[やぶちゃん注:最初の和歌の「タツ」は二字で「有」の草書の誤写であろう。和歌を読み易く書き直しておく。

  名にし負はば虎や伏すらむ東野(あづまの)に有りと云ふなる唐(もろこし)が原

  遙かなる中こそ憂(う)けれ夢ならで遠く見にけり唐が原

後者は「夫木和歌抄」では「唐が原」が「唐の原」である。]

 

   砥上原〔又砥身原トモ科見原トモ書ト云〕

 片瀬ヨリ西ニ當リテアリ。

   長明海道記

  ヤツマツノヤ千代ノカケニ思ナシテ トカミカ原ニ色モカハラシ

   里俗西行ノ歌トテ語シハ

  浦近キトカミカ原ニ駒トメテ 片瀨ノ川ノ汐干ヲソマツ

  立カヘル名殘ハ春ニ結ヒケン トカミカ原ノクスノ冬哉

[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直しておく。

  八松(やつまつ)の八千代の蔭に思ひなして砥上(とがみ)が原(はら)に色も變らじ

長明入鎌直前の嘱目吟とされる歌である。

  浦近き砥上原が原に駒とめて片瀨の川の汐干(しほひ)をぞ待つ

  立ち歸ヘる名殘(なごりは春に結びけむ砥上が原の葛(くず)の冬枯(が)れ

但し、前者は後世の西行仮託作「西行物語」所収のもの、後者は西行の作ではなく、冷泉為相の和歌である(嘉元元(一三〇三)年頃に編せられた「為相百首」に所収する)。]

芥川龍之介漢詩全集 二十六

   二十六

 

 昨夜歸途得短韻

 

十載風流誤一生

愁腸難解酒杯傾

煙花城裡昏々雨

空對紅裙話旧盟

 

〇やぶちゃん訓読

 

   昨夜の歸途、短韻を得

 

 十載(じつさい) 風流 一生を誤まる

 愁腸 解き難く 酒杯傾むく

 煙花 城裡 昏々たる雨

 空しく紅裙(かうくん)に對し 旧盟(きゆうめい)を話す

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。

大正九(一九二〇)年九月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七七一)

に所載する。

「十載」これは杜牧の詩に基づくのであろうが、しかし実際の芥川龍之介に即して考える時、ある意味を持つように思われる。十年前は龍之介十八歳、明治四三(一九一〇)年であるが、この三月に府立第三中学校を卒業し、四月に第一高等学校文科(一部乙類)への進路を決定している。龍之介の「風流」たる文芸への道は、この時に決まったと考えてよい点が一つ、 今一つの人の「風流」たる(と私は思っているし、龍之介もそう思っていたと確信する)性への本格的な眼ざめや童貞喪失なども、私はこの十八の頃に推定するのである。それは芥川龍之介の赤裸々な未定稿VITA  SEXUALISが『これで中學二年までのVITA  SEXUALISの筆を擱く』で終わっていることに基づく(龍之介には別にやはり大胆に同性愛経験を記した未定稿VITA  SODMITICUS(やぶちゃん仮題)もある。未読の方は是非お読みあれ。リンク先はいずれも私のテクストである)。

「愁腸」憂愁に沈んだ心。

「煙花」妓女・芸妓、また、彼女らの境遇、花柳界のことを指すが、結句との絡みからもここは具体な遊廓をイメージしてよい。

「紅裙」妓女・芸妓。

「旧盟」昔、二人で交わした約束。ここでは作者のみでなく妓の老いも詩背に読むべきである。

 本詩は晩唐の杜牧の七絶「遺懷」をインスパイアしたものと考えてよい。以下に示した訓読は龍之介自身が、この直後の大正九(一九二〇)年十一月に『文章倶樂部』に発表した漢文漢詩の面白味の中の中で漢詩の中で『抒情詩的(リリカル)な感情』のある例として示したものを、句読点を排除して示したものであるが、読みは私が振った(リンク先は私のテクスト)。

 

  遺懷

 落魄江湖載酒行

 楚腰纖細掌中輕

 十年一覺揚州夢

 贏得靑樓薄倖名

 

    遺懷

 

   江湖に落魄して酒を載せて行く

   楚腰(そえう)纖細 掌中に輕し

   十年一たび覺む 楊州の夢

   贏(か)ち得たり 靑樓薄倖(はつかう)の名

 

起承は若き日の遊蕩のフラッシュ・バック、結句は「今の私の手の内にあるのは……『色町の浮気者』という不名誉な名ばかり……」の意である。承句の「楚腰繊細」を「楚腰腸斷」とするテクストもあり、すると更に龍之介の「愁腸」に隣接する。但し、この詩の背景は逆にポジティヴなもので、淮南節度使牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)の幕僚であった杜牧が八三五年三十三歳の春に監察御史に任命され、揚州を去って長安に向う直前の作と推定されており、一種の旧巷との離別や主君への謝意を自己卑下によって示したものであろう。]

一言芳談 三十七

   三十七

 

 敬佛房(きやうぶつばう)、三心(さんじん)をば、ならひて具(ぐ)するものとな習(ならひ)そ。

 

〇三心をば、うちかたぶきて念佛すれば、自然(じねん)に三心はそなはるなり。是を行具(ぎやうぐ)の三心といふ。語燈錄を見るべし。

 

[やぶちゃん注:「三心」は既出。「二十八」参照。

「語燈錄」「黒谷上人語燈録」。道光の編になる法然の法語や遺文を集めた書。全一八巻。文永一一(一二七四)年成立。「漢語灯録」「和語灯録」「拾遺」から成る。]

2012/12/20

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(5)


Katuonoebosi


[かつをのえぼし]

 

 海岸から少しく沖へ出て、鰹などの取れる邊まで行くと、海の表面に「かつをのえぼし」と名づける動物が澤山に浮いて居る。その一つを拾ひ上げて見ると、恰も小さな空氣枕の下へ總(ふさ)を附けた如き形のもので、水上に現れて居る部分は白色、水中に浸つて居る部分は濃い藍色である。總の如くに見えるものは實は珊瑚や「いそぎんちやく」に似た動物個體の集まりで、常に小さな魚類などを食つて居るが、これを捕へるために伸縮自在な長い紐を幾本となく水中に垂れて居る。この紐には處々に特殊の毒刺があつて、人間の皮膚にでも觸れると、そこだけ赤くなつて劇しく痛む位であるから、小さい魚などはこれに遇ふと忽ち殺され、引きずり上げられて食はれてしまふ。されば、この動物が小魚を捕へるには水中に見えぬことが必要であるが、黑潮の水の中で濃い藍色をして居るのは、そのためには最も都合が宜しい。また水面上に現れて居る部分が白色であるのは、浪の泡立つて居るのと紛らはしくて、上から見ては容易に區別が出來ぬ。この外に「かつをのかむり」〔カツオノカンムリ〕と名づける動物も、同樣の處に住み同樣の生活をして居るが、外形が稍々異なるに拘らず、やはり水上の部は白色、水中の部は濃藍色である。

[やぶちゃん注:「かつをのえぼし」は、海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物なのである(以下の記載も数十冊の私の所持するクラゲ関連書等を勘案して記したものである)。従ってここでは詳細な学名を示しておきたい。

刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalisLinnaeus, 1758

である。英名は“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。本邦では所謂、刺毒の強烈なクラゲの謂いとして「電気クラゲ」があり、これは多くの記載で種としては箱虫綱箱虫目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ Carybdea rastoni 及びカツオノエボシ Physalia physalis を指すと明記するのであるが、クラゲ類はその殆んどが強弱の差こそあれ、刺胞を持ち、毒性があるから、「電気クラゲ」でないクラゲは極めて少数と言ってよいし、感電的ショックを受けるというのなら、二種とは異なる、

鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属 アカクラゲ Chrysaora pacifica

や、同じ旗口クラゲ目の、

ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲCyanea nozakii

及び

オキクラゲ科アマクサクラゲ Sanderia marayensis

カツオノエボシと同じ嚢泳亜目に属する繩状の、

ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii

なんぞは彼らに優るとも劣らぬ強烈なる「電気クラゲ」である。即ち、「電気クラゲ」とは、実際には『夏期の海水浴場で刺傷するケースが圧倒的に多い』アンドンクラゲCarybdea rastoni 及びその仲間(最強毒を保持する一種として知られるようになった、沖縄や奄美に棲息する箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲChironex yamaguchii ――本種も私の偏愛するクラゲであるが――大雑把に言えばアンドンクラゲを代表種とするアンドンクラゲを含む立方クラゲ目(Cubomedusae)に属し科名を見てもお分かりの通り、アンドンクラゲの仲間であると言って差し支えないのである)が「電気クラゲ」として広く認識されている傾向が寧ろ強いと言ってよいと私は思っている。

 話を戻す。カツオノエボシ Physalia physalis の属名“Physalia”(フィサリア)はギリシア語で「風をはらませた袋」の意で烏帽子状の気胞体の形状に基づき、英名の“Portuguese Man O' War”や“Man-Of-War”の「(ポルトガルの)軍艦」とは、気胞の帆を張ったポルトガルのキャラベル船(三本のマストを持つ小型の帆船であるが高い操舵性を有し、経済性・速度などのあらゆる点で十五世紀当時の最も優れた帆船の一つとされ、主にポルトガル人・スペイン人の探検家たちが愛用した)のような形状と、本種の発生源がポルトガル沿岸でそれが海流に乗りイギリスに漂着すると考えられた(事実どうかは不明)ことに由来する。“Bluebottle”(青い瓶)や“Bluebubble”(青い泡)も気胞由来。和名「カツオノエボシ」は鰹が被っていた烏帽子で、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まずこのクラゲが先に沿岸部に漂着、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を祝祭的に儀式正装の烏帽子に見たて、カツオノエボシと呼ぶようになった。また、今直ぐに掘り出せないのであるが、かつて読んだ本に、地中海で(イタリアであったか)、本種を採って引っ繰り返したその形状が女性の生殖器にそっくりであるところから、漁師たちはそうした猥雑な意味での呼称(呼称名を思い出せない。「海の婦人」だったか、もっと直接的な謂いだったか)をしている、という外国の文献を読んだ。当該呼称が確認出来次第、掲載したい(因みに今調べていたらイタリア語の隠語では男性器を「鰹(カツオ)」(!)と言うらしい)。

「水上に現れて居る部分は白色、水中に浸つて居る部分は濃い藍色である」「小魚を捕へるには水中に見えぬことが必要であるが、黑潮の水の中で濃い藍色をして居るのは、そのためには最も都合が宜しい。また水面上に現はれて居る部分が白色であるのは、浪の泡立つて居るのと紛らはしくて、上から見ては容易に區別が出來ぬ」の部分こそが、本章「色の僞り」の眼目で、青魚などと同様のブルー・バック効果である。

「動物個體の集まり」丘先生は説明し出すと本章から離れるために、これで済ませておられるが、これを十全に読者が理解出来ているとは思われない。カツオノエボシの個体は実は四つの性能を特化したポリプ集団(刺胞動物の着生性適応の形態で一般には塔状の触手を伸ばした形状を持つ)が集合して一つの生物種を構成している、丘先生もおっしゃるようにサンゴなどと同じ群体である。

第1のポリプは海上に突出している気胞体

で主に二酸化炭素の入った浮き袋によって海面に浮遊する(但し、この気胞は必要に応じて萎むことが出来、一時的に沈降する場合もある)。気胞には三角形をした帆のような部分があって、風を受けて移動する(カツオノエボシ自身は殆んど遊泳力を持たない)。この中空の軸上部分総体が各群体の支持部分に当たり、幹(かん)と呼ぶ。カツオノエボシはクダクラゲ目の中ではこの幹が著しく短いのが特徴である。

第2ポリプは気胞体の下端(幹の基部)にある栄養体

で、垂れ下がる触手を出芽させて発達させる部分で、群体クラゲであるクダクラゲ目の中でもカツオノエボシはこの部分が著しく発達している。

第3のポリプはそこから海面下に長々と垂れ下がって周囲の海中にも展開する触手体(感触体)

で、細長い巻き髯状で、平均でも一〇メートル程度、長いものでは約五〇メートルにも達する。触手は表面に毒を含んだ刺胞に覆われており、各個虫は口は持たず、獲物の小魚や甲殻類を殺して摂餌する機能(触手は筋肉を使って獲物を消化を行うことに特化したポリプである食体へと導く)及びそれによって外敵から身を守る強力な防禦器官に特化しているが、その触手群は刺胞叢と呼ばれる独特で複雑な構造を有している。

第4のポリプは栄養体などと一緒に幹部分に発達する触手を欠く生殖体

で次代の生殖の役割を担うが、カツオノエボシでは一部のクラゲに見られるようなライフ・サイクルの中で当該部がクラゲとして独立することはなく、子嚢である。

群体とはいってもそれぞれか独立して生活を営むことは出来ず、以上の個虫は互いに融合して体壁は一続きになっており、内部には栄養や老廃物などを運搬するための共有する空洞が形成されている。

「この紐には處々に特殊の毒刺があつて、人間の皮膚にでも觸れると、そこだけ赤くなつて劇しく痛む」刺胞動物の刺胞は百分の一ミリメートル程のカプセル状のもので、内部は毒液で満たされていると同時に刺糸と呼ぶ中空の管が巧妙に小さく巻き込まれており、何らかの刺激を受けると、刺胞の内外を反転させるように一瞬にして発射されるようになっている。これらは現在二十三種のタイプに分類されるが、一種のクラゲであっても、生活史の時期や成体の部位によって異なったタイプの刺胞を持つ場合もある。発射の刺激については詳細は必ずしも明らかではないが、最初は接触による物理的発射がなされ、刺さった対象の傷口から放出されるグルタチオンなどのタンパク質に、今度は化学的に反応して一斉に刺糸が射出されることが分かっている。カツオノエボシの毒性はコブラの持つ毒の七十五%相当と言われ、成分は未だ解明されていないが、活性ペプチドや各種酵素、その他の因子からなる多成分系の総合作用により、神経系や呼吸中枢に作用し(刺毒による致死性は低くても海産危険動物にありがちな刺傷による意識喪失による溺死というリスクが高まる)、皮膚壊死性や心臓毒性も認められ、アナフラキシー・ショックの危険性も指摘される厄介なものである。海面に一個体の気胞を発見したら、その二十メートル圏内に侵入すると危険とも言われ(水面下で触手が四方へ広がっている可能性があるため)、漂着個体は勿論、干からびた個体であっても刺糸は発射されるので注意を有する。沖縄の修学旅行では、イノー観察の際、教え子が、小さなビニール風船と間違って(中にはコンドームと確信して――いや――実際に私は廃棄されたコンドームを和賀江島で見つけたことがあるが――実に――ようく似ている)意気揚揚と持ってきては私の眼前に棒の先に附けたそれを突きつけた男子生徒もいたが、私の説明に、それこそカツオノエボシのように真っ蒼になって捨て放ったのが懐かしい思い出である。いや、実は三十数年前、私は台風一過の由比ヶ浜でビーチ・コーミングをしていたのだが、そうした一センチに満たない本種の小個体が幾つも打ち上がっているのを見つけた。数十メートル先でふざけ合っている男子中学生の一群がいたが、中の一人が突然のたうち回り始めて、救急車で搬送されていったことがある。おそらくはやはり、これにやられたものであろう。コンドームを玩んでは……なるまいぞ……。

 なお、この外にもこのカツオノエボシや以下のカツオノカンムリの体を限定して食らい、且つ、その刺胞を発射させずに(!)飲み込んで、体内にそのまま吸収、背中にそれを蓑のように貯えて、ちゃっかり自分の防禦システムに用いているという(盗刺胞という)、トンデモ生物がいる。消化管内に気泡を生じさせて浮遊する、美しい軟体動物門腹足綱裸鰓目アオミノウミウシ Glaucus atlanticus である。この話をし出すと盗刺胞から藻類の核情報を盗み出して「葉緑体さん! 私はウミウシじゃあなくってよ! 藻なのよ!」と言って、葉緑体を盗み取っているらしい(盗葉緑体ははっきりしているがその盗核については一仮説段階ではある。しかし実際に盗核情報は一部で確認されている)といった大脱線へと向かってしまうので、ここは僕のブログアオミノウミウシと僕は愛し逢っていたのだ盗核という夢魔をお読み頂くことにして、そろそろ、このやめたくない注も、お開きと致さねばなるまい。
 

「かつをのかむり」ヒドロ虫綱花クラゲ目盤泳亜目ギンカクラゲ科カツオノカンムリ Velella velella。カツオノエボシと同じく暖海性外洋性の群体クラゲの一種で、黒潮海域に棲息し、鍋蓋状の気胞体(水辺板・盤部とも呼び、キチン質で出来ており、辺縁部分は鮮やかな青藍色で中央は無色透明、やはり丘先生の言う通りのブルー・バック機能を持つ)の上に三角形の帆があってこれで風を受けて移動する。やはり鰹の群れと一緒に見つかり、その気胞体が長径約五センチメートルの平たい楕円形を成すため、烏帽子ならぬ冠の名を冠する。下面には摂餌専用の個体である栄養体、周縁には餌捕獲を行なう触手状の青く短い感触体がある。気胞体の年輪様模様の中内部に気体が入っており、それで浮遊する。主に参照したウィキの「カツオノカンムリによれば(以下の引用もそれ)、群体個体の大きさからすると、感触体(触手体)が短いため、完全に水面を突き抜けて気中に顔を出している部分が結果として多くなり、これは他のクラゲには殆ど見られない本種固有の特徴と言える。多くの子供向けの図鑑等ではその特異な形態を面白く語っているだけのものが多いが、触手の刺胞毒はそれなりに強い(私は常々、子供向けのものだからこそ、傷害や毒性の少しでもある海洋生物には必ずその取扱いの注意を明記すべきであると考えている。特にこれらの死滅個体でも刺胞が有効であるものは猶更である)。『なお、このクラゲは群体性であるため、管クラゲ類に所属するものと考えられて来た。しかし、生殖個体として小さなクラゲを作る事から、クラゲに見えるのは、浮きをもつ、群体性ポリプであるとの判断となった。浮きをもつ固着性動物の群体というのは奇妙に見えるが、現世ではともかく、古生代のフデイシやウミユリには似た例が多く知られている。現在では生殖個体の形質から花クラゲ目に移されている』とある。なお、学名(属名と種小名が同じ私の好きなタイプである)“Velella”(ヴェレラ)は、荒俣氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」によれば、ラテン語の“vēlum”(帆・帆布)と“ellum”(小さな)の合成である、とある。

耳嚢 卷之五 全一〇〇話公開

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に根岸鎭衞「耳嚢 卷之五」全一〇〇話を公開した。前のブログで述べた通り、これを以って「耳嚢」全十巻のターニング・ポイントに到達した。

耳嚢 巻之五 齒牙の奇藥の事 / 耳嚢 巻之五 完 耳嚢全1000話中500話終了

 齒牙の奇藥の事

 

 齒の動き又は齒ぐきはれてなやむ時、南天を黑燒にしてつければ快驗を得る由人のかたりし故、予が同寮の人其通りになせしに、快く不動(うごかざる)事神の如しと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズ。本話で百話、卷之五が終了。私がブログで本プロジェクトを始めたのが二〇〇九年九月二十二日であるから、三年と八十五日、延べ一一八五日でこの「耳嚢」駅伝の折り返し点に、遂に到達した。但し、野人となった本年は約七ヶ月で二巻分をこなしているから、あり得ないと思っていた完全テクスト化も、このまま順調に行くならば、再来年の春には完成するはずである。一点の星ではあるが、一等星の光明が見えてきた気がする。

・「南天」キンポウゲ目メギ科ナンテン亜科ナンテン Nandina domestica Thunb.ウィキナンテン」の「薬用など」の項によれば、『葉は、南天葉(なんてんよう)という生薬で、健胃、解熱、鎮咳などの作用がある。葉に含まれるシアン化水素は猛毒であるが、含有量はわずかであるために危険性は殆どなく、逆に食品の防腐に役立つ。このため、彩りも兼ねて弁当などに入れる。もっとも、これは薬用でなく、食あたりの「難を転ずる」というまじないの意味との説もある』。『南天実に含まれる成分としては、アルカロイドであるイソコリジン、ドメスチン(domesticine)、プロトピン(英語版)、ナンテニン(nantenineo- methyldomesticine)、ナンジニン(nandinine)、メチルドメスチン、配糖体のナンジノシド(nandinoside)などの他、リノリン酸、オレイン酸が知られている。鎮咳作用をもつドメスチンは、多量に摂取すると知覚や運動神経の麻痺を引き起こすため、素人が安易に試すのは危険である。また、近年の研究でナンテニンに気管平滑筋を弛緩させる作用があることが分かった』。『また、ナンジノシドは抗アレルギー作用を持ち、これを元にして人工的に合成されたトラニラストが抗アレルギー薬及びケロイドの治療薬として実用化されている』とあり、漢方でもナンテンの葉は胃腸の痛みや脱肛、眼病や歯痛みを抑える生薬として実際に使用されていることが各種の漢方記載からも分かり、ここに記された解熱効果やアルカロイドのドメスチン(domesticine)の持つ知覚麻痺作用は、歯槽膿漏や歯周病などによる歯茎の腫脹を伴う発熱や痛みへの効果がないとは言えまい。中国原産で東アジアに広く分布し、日本では西日本の暖地の四国や九州に自生しているが、古い時期に渡来した栽培種の野生化したものと考えられている。但し、属名の“Nandina”は和名ナンテンに基づいてつけられており、種小名の“domestica”も「家族の」「個人の」「本国の」「国内の」という意味である。安永四(一八五七)年に来日して本邦初の日本植物誌を著して日本植物学の基礎を作ったスウェーデンの植物学者で医師のカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg 一七四三年~一八二八年 学名には命名者略記“Thunb.”が用いられている)が本邦の民家の庭に栽培されていたナンテンを見て(彼はたった一年の在日であったが将軍家治に謁見、箱根町を中心に植物八〇〇余種を採集した)、かく命名したのものと思われる。

・「黑燒」本巻の黑燒屋の事の私の注を参照のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 歯の奇薬の事

 

 歯が動く、または歯茎は腫れて痛む折りは、南天を黒焼きにして塗付致せば、見る間に軽快、これ、得らるる由、さる御仁が語って御座った故、私の同僚の者、歯の痛き折り、この、私の話した処方通りに致いたところが、

「――いや、もう! 大層、快う御座っての! 歯の動がざること、これ神の如し! で御座る! ほうれ!――」

と、

「イー!」

をして、わざわざ見せて御座ったことじゃ。

2012/12/19

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 十一人塚/七里濱/金洗澤/腰越村

  十一人塚

 極樂寺ノ切通ヨリ七里濱へ出ル路邊ノ左ニアリ。昔新田義貞ノ勇士十一人、此所ニテ討死有シヲ、塚ニ築コメ上ニ十一面觀音堂ヲ立クル跡ナリト云。

 

  七 里 濱

 腰越へ行、北ハ山、南ハ海ナリ。濱ノ浪打際ヲ云也。關東道七里アリ。古へ戰場ニテ、人ノ死骨、或ハ太刀ノ折レ、具足ノ金物ナド、砂ニ交テ今ニアリ。

[やぶちゃん注:「關東道七里」既に示した通り、「關東道」は坂東里で一里は六町、六五四メートルであるから、四キロ五七八メートル。但し、例えば現在の稲村ヶ崎の突端を起点に、現在の海岸線を西に計測してみても、当該距離の到達点は新江ノ島水族館辺りになってしまう。現在の七里ヶ浜の全長は二・九キロメートルとされる。この齟齬について、例えばウィキ七里ヶ浜には、近年これについては、鶴岡八幡宮と腰越の間の距離を言っており、それを「浜七里」と呼んだのではないかという説が出されている、とある。これは密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門(南西)方向に七里の腰越までが浜七里だとし、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向の横浜市栄区に今も野七里という地名が現存する、とある。但し、八幡宮からこの野七里までの直線距離は関東里の七里に満たないが、間には険阻な丘陵があるので朝比奈切通しを経由すると若干遠回りになる、ともある(それで実測関東道で七里となるということか)。『これはまだ通説にはなっていないようだが、興味深い説である』と記されてある。]

 

   金 洗 澤

 七里濱ノ中程、海へ流出ル澤ナリ。行合川トモ云也。此所ニテ古ハ金ヲ掘タル故ニ金洗澤ト云。亦日蓮龍ノ口ニテ成敗ニ極テ、敷皮ニナヲリケル時、奇瑞多キニ因テ其由ヲ告ル使ト、鎌倉ヨリ時賴ノ赦免ノ使ト、此川ニテ行合タル故ニ行逢川トモ云ト也。此後ロノ谷ニ津村ト云地アリ。昔ノ津村ノ湊ト云是ナリ。

 

   腰 越 村

 江嶋ノ前ノ村也。嚴本院ノ縁起ニハ、昔江嶋ニ大蛇住テ人ヲ取タル故ニ、子死戀ト書クト云フ。〔戀、一作越〕此海ノ前へ出タル山ヲ八王子山ト云ナリ。海中へ指出タル松アリ。是ヲ常動松ト云フ。常ニ風波此岸ニアタル故ニ此松動クト云。

[やぶちゃん注:「嚴本院」の「嚴」は「巖」の誤り。

「常動松」初見。読み不詳。現在の「小動(こゆるぎ)」という地名の由来であるから、これで「こゆるぎ」と読ませているか。識者の御教授を乞う。]

北條九代記 新田開作

      ○新田開作

同四月二十七日兵庫頭廣元朝臣奉行として東國の地頭等に仰行はるゝ趣は、近年は兵亂(ひやうらん)打(うち)続きて庶民手足を措(お)くに所なし。是(これ)に依(よつ)て農桑(のうさう)の營(いとなみ)に怠り、田畠多く荒蕪(くわうぶ)に及べり。今既に天下軍安の時至り百姓既に安堵の地に栖宅(せいたく)す。今に於ては要求便宜(びんぎ)の所新田を開作すべし。凡(およそ)荒地不作の揚と稱して、年貢正税(しやうぜい)を減少せしむ。向後は許すべからず。具(つぶさ)に沙汰を遂べしとなり。夫(それ)古(いにしへ)國を建て、民を居(を)らしむるは必ず土地を理(り)し、水勢の及ばざる所に於て家を造り、棲(すみか)を治む。大川の游波(いうは)寛緩(くわんくわん)として迫らず、小河の細流潺湲(せんえん)として以て注ぐ。卑隰(ひしう)の地を田とし、高原の土(ど)を畠(はた)とし、堤(つつみ)を作りて洪水に備へ、民(たみ)耕して是(これ)に田作り、又耘(くさぎ)りて畠を營み、久しく損害なければ、稍(やや)村里を築く。彼(かの)壽永、元曆の騷亂に方(あた)つて、軍兵横行(わうぎやう)して、居民(きよみん)を追捕(ついふ)す。是が爲に山野に逃亡し、農桑の時を失ひ、饑凍(きとう)の歎(なげき)に沈み、溝瀆(こうとく)に倒(たふ)れて、死亡するもの數を知らず。然るを今(いま)世は適(たまたま)治(おさま)り、人は漸く歸住(かへりす)みて、東耕西收(とうかうせいしゆ)の務(つとめ)を勵(はげま)すといへども、地頭は貪りて、賦歛(ふれん)を重(おもく)し、守護は劇(はげし)くして、公役(くやく)を繁(しげ)くす。春耕(たがやし)して風塵(ふうぢん)に侵され、夏耘(くさぎ)りて暑毒(しよどく)に中(あた)り、秋陰雨(いんう)を凌ぎて刈り、冬寒凍(かんとう)に堪へて舂(うすつ)く。年中四時(じ)に休む日なし。又私に自(みづから)出て、徃(わう)を送り、來(らい)を迎へ、病(やまひ)を問ひ死を弔(とぶら)ひ、牛馬を養ひ、子を育(そだ)つる。夫(それ)猶水旱(すいかん)の災(さい)に罹る時は日比(ひごろ)の勤苦(ごんく)一時(じ)に空しく、手を拱(こまね)きて取得(う)る物なし。剩(あまつさへ)暴虐の目代(もくだい)年貢を責(はた)れば、價(あたひ)を半(なかば)にして雜具(ざうぐ)を賣り、資財なき者は倍息(ばいそく)の利銀(りぎん)を借り、或は田宅(でんたく)を壞(こぼ)ち、子女を販(ひさ)ぎ、是を以て、相(あひ)償(つぐな)ふ。若(もし)辨(わきま)ふる事なければ、妻子を捕へては裸にして荊(いばら)の中に臥(ふ)さしめ、農夫を縛(しば)りては跣(すあし)にして氷を履(ふ)ましむ。或は牢屋に繋ぎて、水食(すゐしよく)を止(とゞ)め、或は井池(せいち)に浸して、寒風に侵(をか)さしむ。兎(と)ても角ても有(ある)も無(なき)も、定めし限(かぎり)の正税(しやうぜい)を肯(うけがは)しむ。哀(あはれ)なるかな、米穀多けれども、農民は食(くら)ふことあたはず、糟粕(さうはく)にだに飽く時なし。悲しきかな。絲帛(しはく)は盈(みつ)れども、機婦(きふ)は衣事(きること)をえず、短褐(たんかつ)をだに暖(あたゝか)ならず、皆悉く官家(くわんけ)に納む。官家は是を虐取(はたりとり)て、衣裳には文采(ぶんさい)、飲食(いんしよく)には酒肉、其奢侈(しやし)に費す事(こと)金銀米錢宛然(さながら)沙(いさご)を散すが如し。更に民の苦勞を思はず、膏(あぶら)を絞り血をしたてて、用ひて我が身の樂(たのし)みとす。されば天理の本(もと)を尋ぬれば、彼も人なり、我も人なり、一氣(き)の禀(うく)る所その侔(ひとしか)らざれば、上下の品(しな)はありといふとも、君として世ををさめ、臣として政(まつりごと)を輔(たす)くるに、仁慈(じんじ)こそは行足(ゆきたら)ずとも、荒不作(あれふさく)の所に年貢を立てて責取(せめとり)給はんは天道神明(しんめい)の冥慮(みやうりよ)も誠に計(はかり)難しと、心ある輩は歎き悲(かなし)み給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年四月二十七日の条に基づく。「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、『荒不作の土地から新たに年貢を取ろうとする頼家の政策の非を説く』本話は、笹川祥生氏の「『北条九代記』の「今」」(「軍記物語の窓」第一集 平成九(一九九七)年和泉書院刊)によると、作者が執筆した延宝三(一六七五)年前の、江戸幕府『当代の悪政非道への批判が込められているとする』とある。実際、以下の通り、素材とされた「吾妻鏡」はたった六十字程の、如何にもあっさりした事実の提示のみである。

〇原文

廿七日戊子。仰東國分地頭等。可新開水便荒野之旨。今日有其沙汰。凡稱荒不作等。於乃貢減少之地者。向後不可許領掌之由。同被定云々。廣元奉行之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊子。東國分の地頭等に仰せて、水便の荒野を新開すべきの旨、今日、其の沙汰有り。凡そ荒不作(あれふさく)等と稱し、乃貢(なうぐ)減少の地に於いては、向後、領掌(りやうじやう)を許すべからざるの由、同じく定めらると云々。

廣元、之を奉行すと云々。

「夫古國を建て……」以下、最後までが筆者の批判である。これ、かなり力(りき)が入っている。

「寛緩」ゆったりとして穏やかなさま。

「潺湲」さらさらと水の流れるさま

「卑隰」低地の湿った土地。

「壽永、元曆の騷亂」西暦一一八二年(養和二(一一八二)年五月二十七日に寿永に改元、寿永三(一一八四)年四月十六日に元暦に改元)から一一八五年(元暦二年八月十四日に文治に改元)で源氏と平氏が相い争った治承・寿永の乱の時代。但し、源氏方では寿永を使用せず、以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永二(一一八三)年以降は京と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになった。一方、平氏方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその壇の浦での滅亡(文治元年三月二十四日)まで引き続き使用している(ウィキ寿永の記載等を参考にした)。

「農桑」農耕と養蚕。

「溝瀆」みぞやどぶ。

「東耕西收」日々の耕作と、その収穫の作業。

「賦歛」徴税。

「劇くして」横暴で。

「舂く」臼を搗く。穀類を杵や棒の先で強く打って押しつぶしたり、殻を除いたりする。

「又私に」この前までは賦役の苛斂誅求を謂い、ここからは農民の私的な日常を述べる。

「徃を送り、來を迎へ」親しい者が遠くへ去り行くのを心を込めて見送り、新たに巡り逢った者を優しく迎え。

「目代」代官。

「倍息」倍の利息。

「若辨ふる事なければ」万一、農民が既定の賦役をなすことが出来なければ。

「妻子を捕へては……」主語は目代。

「兎ても角ても有も無も、定めし限の正税を肯しむ」何はなくとも、有無を言わせず、定めただけのきっちりとした税額を受け入れさせ(て支払わせ)る。

「糟粕にだに飽く時なし」穀類その他一切の農作物の、利用出来る部分を取り去った残りでさえも、満足に食い足ることさえ出来ぬ。

「絲帛」糸と布。

「機婦」機(はた)織る婦人。

「短褐をだに暖ならず」粗末な衣服でさえも纏うこと儘ならず。

「虐取(はたりとり)て」「はたる」は「徴る・債る」と書き、取り立てる、徴収するの意。

「文采」豪華な織りで彩ること。

「血をしたてて」「したつ」はタ行下二段活用の動詞「滴つ」で、したたらせる、の意。

「天理の本を尋ぬれば……」以下、「誠に計難し」までが「心ある輩」の「歎き悲」しむ内容。

「彼も人なり、我も人なり」かの権力者側とても人であり、我らも同じ人である。

「一氣の禀る所その侔らざれば」人という存在は生れついた際、確かにその在り方は等しくはないから。

「品」身分。

「仁慈」思いやり。

「冥慮」人智を超えている(とは言え)、そのみ心。]

芥川龍之介漢詩全集 二十五

   二十五

 

 偶  成

 

瑟々侵階月

幽人帶醉看

知風露何處

欄外竹三竿

 

〇やぶちゃん訓読

 

  偶  成

 

 瑟々(しつしつ)として 階を侵す月

 幽人 醉(すゐ)を帶びて看る

 知んぬ 風露(ふうろ) 何處(いづく)よりぞ

 欄外 竹(ちく) 三竿(さんかん)

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。

大正九(一九二〇)年九月十日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七六九)

で、葉書に本漢詩を記し、次行の下方に、

 我鬼窟主人 ㊞

(㊞は「我鬼」)とある。邱氏は転句を『読み取りづらい』とし、『最後の句はもと素晴らしい別天地を演出すべきであろうが、「三竿」では不十分である。』(これは「二十」で引用した邱氏の見解を参照されたい)と評されるのみで、三十四首の内で、最もそっけない。

「瑟々」風が寂しく吹くさま。

「幽人」隠者。

「風露」涼風と露。]

耳嚢 巻之五 こもりくの翁の事

 こもりくの翁の事

 

 享保元文の頃の人にて京都に住(すみ)ける老人、郭公(ほととぎす)の歌よみける。

  たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公

此歌難有(ありがたく)も叡覽に入りて感じ思召(おぼしめし)、こもりくの翁といへる名を給はりしに、妬(ねた)める者にや又歌の道にねぢけたる人にや、この歌は古人のよみしにはあらぬかと沙汰しけるを聞(きき)て、又詠(よめ)るよし。

  一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす

かくよみければ、初め誹(そし)りし人も恥(はぢ)思ひけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。和歌技芸譚。

・「享保元文」西暦一七一六~一七四一年。

・「こもりくの翁」諸本注をしないが、これは江戸中期の歌人である柳瀬方塾(やなせみちいえ 貞享二(一六八五)年~元文五(一七四〇)年)のことで、少なくとも彼をモデルとした伝承譚である。通称は小左衛門、名は美仲、隠口翁(こもりくのおきな)は号。遠江浜松の呉服商で、武者小路実陰(さねかげ)や荷田春満(かだのあずままろ:春満とも言った江戸中期の国学者。賀茂真淵の師で、真淵・本居宣長・平田篤胤とともに国学四大人に数えられる人物。)に学び、賀茂真淵らと遠江に歌壇を形成した。最初の本歌とよく似た、

  はつせ路や初音きかまく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす

の歌碑が浜松市善正寺に残る(以上は講談社「日本人名大辞典」を参照した)。

・「叡覽」当代は烏丸光栄(からすまるみつひで)に古今伝授を受けた、歌道に優れた桜町天皇である。

・「たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

尋來て初音聞かまし初瀨路や又こもりくの山ほとゝぎす

で載る(正字化した)。

「こもりくの」は初瀬の枕詞。「こもり」は「隠り・籠り」で「く」は場所の意で、両側から山が迫って囲まれたような地形の謂いから、同様の地形である大和の泊瀬(初瀬)に掛かる枕詞となったとする。但し、別に「はつ」は身が果つの意を含ませて(「こもる」にも隠れる、死ぬの意がある)、死者を葬る場所の意を込めている例(「したびの国」(黄泉国)の枕詞とした例や「万葉集」で葬送の場面に用いられた例)もあるとする(後半部は「日本国語大辞典」に拠る)。「初瀨路」「はつせじ」。古くは「泊瀬」とも書いた。初瀬街道。大和初瀬(現在は「はせ」と読むのが一般的なようである。現在の奈良県桜井市)と伊勢国(現在の三重県松阪市)の六軒を結ぶ街道。ウィキの「初瀬街道」によれば、『古代からの道で壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)が通った道でもある。また江戸時代には国文学者である本居宣長も歩いており、その様子は彼の著書である菅笠日記に記されている』とある。

――わざわざこの奥深き里へと尋ね来たのだから、やはり聴かせておくれ……この古来の道なる初瀬(はつせ)路の、山ほととぎすよ、その声(ね)を――

 なお、底本の鈴木氏注には、江戸後期の京都梅宮大社神官で国学者の橋本経亮(つねあきら)の書いた随筆「橘窓自語」(天明六(一七八六)年)の巻一に、

荷田東滿遠州濱松にありし時、濱松宿に柳瀨幸右衞門味仲といふ人、

 初瀨路やはつねきかまく尋てもまたこもりくの山時鳥

といふ歌をかたりしかば、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」といはれたりしに、かの味仲中院通躬卿の門人にて、「すなはち中院殿の點ありし歌也」といひければ、「當時の歌仙通躬卿の子細なく點せさせ給ひし上は一首譬いにしへに例なくとも、これを據に我もよむべし」、と東滿いはれて、その故よしをしるされたりしふみ、いまも濱松にありてみたりしなり

と記す旨の記載がある(原注の引用を正字化し、一部を改行、鍵括弧を補って示した)。「荷田東滿」は荷田春満の別名。「柳瀬味仲」は前出の柳瀬美仲。「中院通躬」は「なかのいんみちみ」と読み、江戸中期の公卿で歌人。但し、話柄の趣きはかなり違う。

・「この歌は古人のよみしにはあらぬか」このままであると、これは古人の盗作ではないか、という風にも読めるが、前注に引用した「橘窓自語」の話柄からは「この歌は古人のよみしにはあらぬが」で、「こもりくの山時鳥といふこと、いまだきかず」、則ち、「こもりくの山時鳥」という詞は堂上の和歌には先例がない、との謂いであろう。現代語訳では、かく訳した。

・「一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす」賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある神域である糺(ただす)の杜(もり)を、人がかくもいちゃもんをつけて咎めた(糺した)ことの意に掛けてある。――京の糺の森なら、よろしゅうおすか? それじゃ、でも、あまりに、不遜で御無礼では?――というニュアンスであろうか? いや、これはもしかすると――下鴨神社の祭神賀茂建角身命の化身である八咫烏(やたがらす)を背後に暗示した――例えば、神域の禁忌を、畏れ多い叡感を得た歌に譬えて、「……あなたはそれでも難癖をおつけになって平気か?」といった一種の呪言歌――というか――脅迫歌なのかも知れないな。……和歌が苦手な私の乏しい知識では、この程度のことしか思い浮かばぬのでおじゃる。……識者の御教授を乞うものである。

――その聴きたかった一声……これが、如何にもはっきりと聴こえぬ……聴こえぬから怪しい?……怪しいから……その森の名さえもどうのこうのと、これ、糺(ただ)いておらるる方があらっしゃるが……さても、神域の――神意の御意に――難癖を附くるとは……これ、あってよきものでありましょうや?……♪ふふふ♪……いやいや、やはり、聴きたいものなのですよ――京の市中の糺の森にては、ではのうて――奥深き、こもりくの初瀬の山の、ほととぎすの一声を、はっきりと――な――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  こもりくの翁の事

 

 享保・元文の頃の人にて、京都に住んで御座った老人の、郭公(ほととぎす)を詠んだ歌、

  たづね來て初音きかまし初瀨路のまたこもりくの山郭公

 この歌、有り難くも帝の叡覧に入って、お詠み遊ばさるるや叡感に思し召され、

「以後、この者、『こもりくの翁』と名乗るがよい。」

と、畏れ多くも名を賜はっておじゃる。

 ところが、これを妬(ねた)んだ者であったか、または、少しばかり歌の道を知れるを鼻に掛けた、これ、性根のねじけた御仁にてもあったものか、

「――こもりくの山郭公――じゃとな?……この歌、これ、古人の詠んだ和歌には、とんと、先例のなきものでおじゃる。」

と如何にも馬鹿に致いて申したを、こもりくの翁、これ、耳に挟んだれば、また、詠んだ歌、

  一聲のさだかならねば杜の名のいかにたゞすの山ほとゝぎす

 かく詠んだところが、初めに誹(そし)った御仁も、これ、大いに恥入って、黙らざるを得ずなった、ということで、おじゃる。――

一言芳談 三十六

   三十六

 

 敬佛房(きやうぶつばう)云、念佛の法門は、歌一首にて心得たるよし、僧都御房(そうづごばう)に申(まうす)なり。仰云(おほせていはく)、さぞ。

  たゞたのめたとへば人の僞(いつはり)をかさねてこそは又もうらみめ

 

〇僧都御房、明遍なり。

〇たゞたのめ、是は新古今戀の部にあり。慈圓僧正の歌なり。戀の歌に人といふはこがるゝ人なり。その人我を思ふといはゞ悦ぶべし。思ひすごしてうたがふなといふ心なり。是を本願の方へあはせて心得べし。

 

[やぶちゃん注:「敬佛房」Ⅱの大橋注に、『伝不詳。法然・明遍の両人の弟子』とする。因みに、「沙石集」巻十(九とする版もあり)の「妄執ニヨリテ魔道ニ落タル事」の一つに、以下のような話があり、彼が登場する(引用は岩波古典大系版のカタカナ部分を平仮名化して示し、踊り字「〱」は正字に直し、一部ルビを省略した)。本条の彼の歌と響き合う話である。

常州に眞壁(まかべ)の敬佛房とて明遍僧都の弟子にて、道心者と聞(きこへ)し高野上人ひじりは、人の「臨終をよし」と云(いふ)をも、「わろし」と云をも、「いさ心の中をしらぬぞ」と云はれける。實にて覺ゆ。高野にありける古き上人、「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」とぞ云ける。子息・弟子・父母(ぶも)・師長の臨終のわろきを、ありのまゝに云(いふ)もかはゆくして、多(おほく)はよきやうに云なすこそ、由しなき事也。あしくはありの儘云て、我もねむごろに菩提を訪ひ、よそまでも哀み訪(とぶらは)ん事こそ、亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ。末代には多(おほく)は往生とのみ云(いひ)あへり。惡人も往生す。惡業(あくごふ)をそるべからずと云。これによりて、末代には魔往生あるべしと云へり。惡人なれども心を改(あらため)て十念をも唱へ、宿善開發(かいほつ)して、實の住生もあるべし。宿善もなく、正念にも住せず、實なきものゝことことしき往生は、あやしむべし。心をひるがへして往生せむは、教門のゆるす所なり。惡人と云ふべからず。善人も妄念あて、臨終あしき事あるべし。是れ又善野よしなきに非ず。妄心のつよきなり。此(この)理を信じて、因果の不可亂(みだるべからず)。

・「眞壁」旧茨城県真壁郡真壁町。現在の桜川市内の地名として残る。

・「弟子あれば、往生はせうずらん。後世こそをそろしけれ」これはなかなか捻った謂いで、『我らは相応の弟子がいるから――彼らは私の臨終について、「師は美事なる往生にて御座いました」なんどと吹聴するであろうからして、よそ目には――一応の往生はするであろうが……いや、後世こそ、これ、恐ろしいものじゃ……』という意味である(底本の渡邊綱也氏の頭注を一部参考にした。以下、同じ)。

・「かはゆくして」「かはゆし」の本来の原形は「かははゆし」で、恥ずかしいので、の意。

・「亡魂のたすかる因縁ともなるべけれ」極楽往生出来なかった彷徨える魂が救われる因縁ともなるであろう。

・「をそる」「おそる」(恐る)。

・「魔往生」底本渡邊氏の注には、『極楽往生の対。魔性をもって生まれかわること。』とある。

・「宿善開發」前世の善根功徳の種子が現世で開き顕われること。

・「ことごとしき」大袈裟な、仰々しい。

・「妄念あて」「妄念ありて」の促音便無表記。

 

「たゞたのめたとへば人の僞をかさねてこそは又もうらみめ」「新古今和歌集」の「卷十三戀歌」にあるの和歌(新編国歌大観番号一二二三)である(隠岐での除棄歌)。岩波版新古典大系版のものを前書とともに正字化して示す。

   攝政太政大臣家百首歌合に、契戀の心を    前大僧正慈圓

 たゞたのめたとへば人のいつはりを重ねてこそは又も恨(うら)みめ

・「攝政太政大臣」藤原良経。本来の歌は、不実を疑って恨んだ女に対して、それを払拭するための祈誓の歌である。底本の田中裕の訳を参考に以下に私の訳を示す。

――一途に信頼なされよ!……何?……それでも、これ、分かりませぬか? では、こう申せばよいかの?――かく私が申しておきながらも、しかも私があなたを裏切って、まごうかたなき偽りをまたしても重ねたとあなたが感じたその時にこそは――改めて確かに私をお恨みになられるがよい! と――

これは相手の既成の猜疑を踏まえた複雑な謂いであることに注意したい。即ち、「重ねて」である。相手(女)は既に彼を不実と疑っているのであって、その彼女に対して初句「たゞたのめ」と約束すること自体が、既にして疑っている彼女の心情に即すなら「いつはり」なのである。その誓いを万が一私が破ったとすればそれは「重ねて」「いつはり」を述べたことになる――しかし、私がかくも言う以上、私の「たゞたのめ」は絶対の真実である、というのである。]

2012/12/18

耳嚢 巻之五 狐を助け鯉を得し事

 狐を助け鯉を得し事

 

 大久保淸左衞門といへる御番衆、豐嶋川附神谷といへる所の漁師を雇ひて網を打せけるが、甚(はなはだ)不獵にて晝過(すぎ)になれど魚を不得(えず)、酒抔呑(のみ)て居たりしに、野狐(やこ)一疋犬に追れけるや、一さんに駈來(かけきた)りて船の内へ飛入(とびいり)つくばひ居(をり)ける故、淸左衞門を始(はじめ)不獵にはあり、此狐を縛りて家土産(いへづと)に連(つれ)歸らんとひしめきしを、船頭漁師深く止めて、狐は稻を守る神のつかわしめ、何も科なきものを折檻なし給ふは無益也(なり)、迯(にが)し給へとて達(たつ)て乞ひける故、則(すなはち)其邊へ船を寄せ、放し遣しければ悦びて立去りしが、獵師さらば日も暮なんとす、一網打(うち)てみんと網を入れしに、三年ものとも云べき大きなる鯉を打得し由。是は彼狐の謝禮成(なる)べし、今一網打んと望ければ、彼(かの)獵師答へて、かゝる奇獵を得し時は再遍(さいへん)はせざるもの也、免(ゆる)し給へ迚(とて)其後は網をうたざりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ隔てて稲荷譚の打ち止め。

・「大久保淸左衞門」大久保淸右衞門忠寄(享保一五(一七三〇)年~?)の誤り。底本鈴木氏注に寛保二(一七四二)年に十三歳で相続、岩波長谷川氏注に『宝暦五年(一七五五)大番』とあるから、そう新しい話ではない。

・「豐嶋川附神谷」旧東京都北豊島郡に神谷(かにわ)村があった。現在の北区神谷町、王子神谷辺り。落語「王子の狐」で知られるように、直近の南方にある王子稲荷(北区岸町)の狐は昔から人を化かすことで有名であった。「附」は「つき」と読むか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狐を助けて鯉を得た事

 

 大久保清左衛門と申される御番衆(ごばんしゅう)、豊島川附神谷(としまがわつきかにわ)と申すところで川漁師を雇って、早朝より網を打たせて御座った。

 ところが、これ、全くの不漁にて、昼過ぎになっても一匹も釣果、これ、御座ない。

 自棄(やけ)になって酒なんどを煽(あお)っておったところが、野狐(のぎつね)が犬にでも追われたものか、一散に走り込んで来たかと思うと、彼らの舟の内に飛び込んで、船底に這い蹲っては、震えて御座った。

 これを見た清左衛門殿を始めとする御家来衆一同、不漁にてもあればこそ、

「――丁度よいわ。この狐を縛って家苞(いえづと)に連れ帰り、狐鍋にでも、致そうぞ。」

と盛んに囃して御座った。

 ところが、船頭と漁師は、神妙なる顔つきとなってそれを押し留め、

「……狐は稲を守る神の使いと申しまする。……何の罪もなきものを折檻なし給うは、これ、あまりに無益なること。……どうか一つ、我らに免じて、逃がしてやって下さりませ。……」

と口を揃えてのたっての望みなれば、そのまま近くの岸辺へ舟を寄せ、うち放してやると、かの狐は、ひどく嬉しげに走り去って御座ったと申す。

 さても、漁師、

「……されば、もう日も暮れましょうほどに、最後に一網打ってみましょうぞ。」

と網を入れたところが――

――これ、三年ものとも申すべき大きなる鯉――釣り上げて御座ったと申す。

「……これはこれは! さては、かの狐の謝礼ならん!……今一網、打ってみよ!」

と大久保殿が命じたところ、かの漁師、

「……かかる奇瑞(きずい)の漁を得た折りは……これ、二度とは、網打ち致さぬものにて御座れば……どうか、ここは、ご勘弁のほどを……」

と切に乞うた故、その後(のち)は、網を打たずに帰った、とのことで御座る。

芥川龍之介漢詩全集 二十四

   二十四

 

窮巷賣文偏寂寞

寒厨缺酒自淸修

拈毫窓外西風晩

欲寫胸中落木秋

 

〇やぶちゃん訓読

 

 窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)

 寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)

 毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩

 寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。

大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)

に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、

この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます

と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、

一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。

とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、

「缺」は「欠」

で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、

       庚申晩秋

         我鬼山人墨戲

と記す。

 書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。

「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。

「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。

「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。

「毫を拈る」筆を執る。]

一言芳談 三十五

   三十五

 

 淨土谷の法蓮上人は、資緣省略(しえんせいりやく)のうへ、形のごとくの朝喰(あさげ)し、往生極樂のつとめに、わすられて、世のつねならず。これがために、これをいとなむ、念佛、心に入(いる)ときは、飯(いひ)にもあらず、粥(かゆ)にもあらぬ體(てい)なり。年にしたがひ、日をゝひて、容顏(ようがん)おとろへ、身力(しんりき)つきぬ。良友たづねきたりて、訪(とふらひ)て返事(へんじに)云、

〽西へゆくすぢ一だにたがはずば骨とかはとに身はならばなれ

 

〇淨土谷、洛東淨土寺山の北の谷なり。されば白川の法蓮房といへり。

〇資緣省略、衣食道具かろくつゞまやかにし給へるなり。

〇西へゆくすぢ一だに、すぢとは心の事なり。下の句に身とあるにて知るべし。善導の御釋に極樂をねがふ心を白き道筋にたとへられたる事あり。又道理の事をも筋といふ。

 

[やぶちゃん注:「法蓮上人」法蓮房信空(久安二(一一四六)年~安貞二(一二二八)年)藤原行隆の子。称弁とも。法蓮房という。十二歳で法然の師比叡山黒谷の叡空の室にて得度出家(法然の出家は天養二(一一四五)年十三歳とされる。従って当初、法然は十三歳違いの兄弟子であった)。叡空の滅後に法然に師事、以後、門下の長老として実に五十五年もの間常随し、その臨終にも近侍した。天台僧の念仏弾圧に対して元久元(一二〇四)年に法然が比叡山に送った「七箇条起請文」では執筆役を務め、法然に次いで、門下として筆頭署名をしている。法然流罪後は事実上の後継者として残された教団を統卒、浄土宗の基礎を固めた。「没後制誡」によれば彼の祖父藤原顕時が叡空に寄進した中山(黒谷光明寺の地)の別邸は法然に譲られ、後に法然によって信空に譲られている。これを寝殿造の白川禅房(二階房)と称し、この内松林房において九月九日に八十三歳で示寂した(以上は「浄土宗」公式HP以下記載を参照した)。

「これがために、これをいとなむ」念仏をせんがために、食事を摂った。

「わすられて」「忘られて」であるが、この「忘る」はラ行四段活用(通常のラ行下二段ではない)で、「る」は尊敬ではなく自発である。

「善導の御釋」Ⅱの大橋氏注に「觀経疏散善義(かんきょうそさんぜんぎ)」を指し、『白き道筋は著名な二河白道の比喩をいう』とある。「二河白道」は「にがびゃくどう」と読み、善導が喩えた、極楽浄土に往生したいと願う者の、入信から往生に至る道筋。「二河」は南の火の川と北の水の川を指し、火の川は憎しみの燃え上がる謂いから怒りや憎しみを、水の川は欲に流される謂いから貪る心や執着心を表象する。その間に、一筋の白い道が通っているが両側から水・火が迫って、しかも後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心にその白い道を進んだところ、遂に浄土に辿り着いたという寓話である。煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。主に掛け軸に描かれた絵を用いて説法を行った。絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩と勢至菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれ、白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれ、下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれる。下段の岸が現世、上段の岸が浄土を示し、東岸からは釈迦の「逝(ゆ)け!」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ!」という声がするという。この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすという説法である(以上の絵解き部分はウィキ二河白道を参考にした)。]

2012/12/17

生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 一 色の僞り~(4)

 魚類にも、往々無色透明なものがある。「うなぎ」「あなご」などの幼魚は多くは海の底に近く住んで居るが、網に掛つたものを見ると、極めて透明で水の中では到底見えぬ。魚類でも鳥類・獸類で血は赤いものと定まつて居るが、「うなぎ」類の幼蟲では血も水の如くに無色である。それ故、人の眼に見える部分はたゞ頭にある一對の小さな眼玉だけに過ぎぬ。漁夫は昔からこの魚を見ては居るが、「うなぎ」類の幼魚とは知らず、別種の魚と見做して「ビイドロ魚」と名づけて居る。

[やぶちゃん注:「うなぎ」「あなご」ウナギは、

条鰭綱新鰭亜綱カライワシ上目ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属 Anguilla

に含まれる種の総称、アナゴは、

ウナギ目アナゴ亜目アナゴ科 Congridae

の属する種の総称で、体型はいずれも細長い円筒形だが、アナゴには鱗がない点で異なる(しばしば誤解されるがウナギの体表は粘膜に覆われてぬるぬるしているものの、皮下に非常に小さな鱗をちゃんと持っている。因みに、ユダヤ教では鱗のない魚を食べてはならないという戒律があり、私はかつてイスラエル人の友人に「だったらウナギはゼッタイ食べていいんだよ!」と力説してみたが、笑って相手にして呉れなかった。今でも彼はウナギは鱗がないと思い込み、蒲焼の匂いに垂涎しながらも食わずにいる(彼が鮨屋でアナゴを食って「旨い!」と言った時には私は黙っていたのだが)。――ユダヤ教徒よ! ウナギをお食べなさい! ヤハウェは必ずや、お許しになられるから――。ウナギの属名“Anguilla”(アングィルラ)はラテン語でウナギの謂いであるが、その語源は“anguis”(蛇)である。また鮨屋でお馴染みのマアナゴ Conger myriaster の属名やアナゴ科の科名にある“Conger”はギリシア語でアナゴのこと。このように魚の分類の曖昧な西洋で、古来からウナギとの差別化がなされいていたのは、アナゴは海産、ウナギは淡水産として厳然と区別して認識されていたからであろうか。因みに、東宝怪獣のアンギラス(英語綴り“Anguirus”)は作中(初登場は監督小田基義・特技監督円谷英二「ゴジラの逆襲」昭和三〇(一九五五)年。因みにこの映画は我らが円谷英二が初めて特技監督という肩書で記名された記念すべき作品であった)では、中生代白亜紀後期(約七四〇〇万~六七〇〇万年前)の現北アメリカ大陸に生息した植物食恐竜の一種である爬虫綱双弓亜綱主竜形下綱恐竜上目鳥盤目装盾亜目曲竜下目アンキロサウルス科アンキロサウルス属 Ankylosaurus の一種が水爆実験の影響で目覚めたものとされるが、これ、どう見てもウナギの属名“Anguilla”由来であろう(但し、ウィキアンギラス」には、『名前は東宝内部で社員公募された。この映画にも出演している俳優の土屋嘉男は「ギョットス」という名前を考えて公募したことを、佐原健二、高島忠夫との対談で明らかにした』とあって、この文脈からは実は「アンギラス」は「あんぐりとす」辺りが語源であったという都市伝説が生まれそうな気配がある。面白い!)実際、私の好きなスペイン料理、ウナギの稚魚のニンニク・オリーブオイル煮のシラスウナギのことをズバリ、“Angulas”(アンギラス)と言うのである。残念ながら最近の稚魚漁獲の激減によって、これ、なかなか食べることが難しくなっている。

『「うなぎ」類の幼蟲では血も水の如くに無色』ウナギやアナゴの稚魚の血液が無色透明なのは何故かは調べ得なかったが、これは稚魚の時期の血液にはヘモグロビンが殆んど含有せず、鮮緑色を呈するという血漿成分が勝っているからででもあろうか? 識者の御教授を乞うものである。なお、昔から知られているようにウナギ・アナゴ類のこの血漿中にはタンパク質の毒素イクチオトキシン(ichthyotoxin)とが含まれている。多量に飲用すると下痢や吐き気などの中毒症状を、目に入った場合は激しい結膜炎を引き起こし(これは江戸の時代小説などでウナギ屋の職人が裂いている最中に誤って……というシーンに使われる)、外傷部に入ったりしてもひどく炎症を起こす(私はさるウナギ屋の職人の方から、ちょっとした切り傷から入ってとんでもないことになったという話を聴いたことがある)。但しタンパク質であるため、六〇・五℃程度の加熱によって無毒化する。

「ビイドロ魚」これは流石に最早、死語のようで、ネット検索でも引っ掛からない。しかし、風流な名だ。残したい。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 袖浦

   袖  浦

 靈山崎西ノ出崎、七里濱ノ入口、左ノ方稻村崎ノ海瑞ヲ云ナリ。地形袖ノ如シ。西行ノ歌トテ里民ノ語シハ

  シキ浪ニヒトリヤネナン袖浦 サハク湊ニヨル舟モナシ

[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、

  重波(しきなみ)に獨やねなむ袖の浦騷ぐ湊(みなと)に寄る舟もなし

「しきなみ」は「頻波」とも書き、次から次にしきりに寄せてくる波のこと。但し、今回調べてみて分かったのだが、これは西行の歌ではなく、公卿で歌人の藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)の作であることが分かった。阿部和雄氏のHP研究」西行の京師」(MM二十一号)に、

東海道名所図会も記述ミスが多くて、完全には信用できない書物です。同じに[やぶちゃん字注:ママ。]相模の国の項で、

  しきなみにひとりやねなん袖の浦さわぐ湊による船もなし

という、藤原家隆の歌を西行歌として記述するというミスもあります。

とある。……もしかするとこれ……この黄門様のミスがルーツか? 但し、この「袖の浦」は「能因歌枕」に出羽国とする歌枕を用いたもので、ここの袖の浦とは無縁である。尤も歌枕であるから、出羽のそれの実景とも無縁で、ただ涙に濡れた「袖」を歌枕の「袖の浦」の名に託し、更に「浦」に「裡(うら)」の意を掛けているのは、以下の和歌群も同じである。以下、和歌注の後に空行を設けた。]

 

 定家ノ歌トテ

  袖浦ニタマラヌ玉ノクタケツヽ ヨセテモ遠クカヘル浪カナ

[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、

  袖の浦にたまらぬ玉の碎けつゝ寄せても遠くかへる波かな

で定家の「内裏百首」の「恋廿首」(一二六五番歌)に、「袖浦」と前書して、

  そてのうらたまらぬたまのくたけつゝよせてもとをくかへる浪哉

 (袖の浦たまらぬ玉のくだけつつよせても遠くかへる浪かな)

と載るものである。]

 

                    順德院

  袖浦ノ花ノ波ニモシラサリキ イカナル秋ノ色ニ戀ツヽ

[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、

  袖の浦の花の波にも知ざりき如何なる秋の色に戀ひつつ

となる。「建保名所百首」所収。]

 

 海道記ニ長明此所ニ來テ

  浮身ヲハウラミテ袖ヲヌラストモ サシモヤ浪ニ心クタカン

[やぶちゃん注:分かり易く書き直すと、

  うき身をば恨みて袖を濡らすともさしもや浪に心碎けん

となるが、新編鎌倉志巻之六の「袖浦」では、

  浮身をば恨て袖を濡らすとも。さしもや浪に心碎(くだけ)ん

とある。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 御霊宮/星月夜井/虚空蔵堂/極楽寺/月影谷/霊山崎/針磨る橋/音無瀧/日蓮袈裟掛松/稲村崎

   御 靈 宮

 長谷ヲ出テ南行シ、少シ西ノ方ノ民村ヲ過テ、星月夜ノ井ノ北ナル山ノ下ニアリ。權五郎景政ヲ祭ト也。

 

   星月夜井

 極樂寺ノ切通へ上ル坂口ニアル小キ井ナリ。昔ハ晝モ星ノ影、井ノ中ニ見へケル故ニ、星月夜ト云ト也。一女此井ノ中へ莱刀ヲ取落シタリ。是ヨリシテ星ノ影見ユズトナン云傳フ。一説ニ此井ニテハナシ。昔ノ道ハ山ノ上ニアリ。井モ其邊エアリトナン。

   後堀河百首          常陸

  我ヒトリ鎌倉山ヲ越ユケハ 星月夜コソウレシカリケレ

[やぶちゃん注:和歌を読み易く書き直すと、

  我ひとり鎌倉山を越へ行けば星月夜(ほしづきよ)こそ嬉しかりけれ

である。]

 

   虛空藏堂

 星月夜井ノ西ニアリ。道心者守之(之を守る)。此堂ノ中ニ石アリ。常ニ濕ヒアリト云。黑ク滑ナル石ナリ。

 

   極 樂 寺

 靈山山ト號ス。入口ニ辨慶ガ腰カケ松アリ。是義經腰越ヨリ押歸サレシ時、此松ニ腰ヲカケ、鎌倉ノ方ヲ望ミ、怒レル色アリテ歸タリト云傳フ。律宗西大寺ノ末也。本尊釋迦、西大寺ノ開山興正ガ作ナリ。嵯峨ノ釋迦ノ寫ニテ、西大寺・小大寺ト共ニ一作也。十大弟子ノ木像アリ。作者シレズ。陸奧守平重時建立、左ニ興正ガ木像アリ。道明寺ニモ同作ノ木像アリ。少シモ違ハズ。興正ガ自作トゾ。至極能作クル故ニ、儼然トシテ生ルガ如シ。右ニ忍性ガ木像アリ。良觀ト號ス。興正ガ第一ノ弟子也。大佛ノ別當也。八十三ケ寺建立スルト也。相武ノ間ニモ多シト云。今詳ニ知レガタシ。二王門ノ礎石アリ。昔ハ四十九院有シガ、今ハ只一院アリ。吉祥院ト云。今寺領九貫五百文ノ御朱印アリ。

 寺寶

 九條袈裟            一ツ

  〔乾陀穀子袈裟、東寺第三傳ト書付アリ。乾陀國ノ布ト云。八祖相承トテ弘法マデ傳ハル。又東寺ノ第三ノ祖へ傳ハル上ト云。〕

 中將姫心經ヲ繡クル打敷     一ツ〔大サ一尺二寸四方〕

 八幡廿五條ノ袈裟        一ツ〔地ハ紗ナリ。〕

 天神瑜迦論           三卷

  〔長サ二寸五分、一行ニ廿五字ヅヽアリ。極テ細字ナリ。住僧云、鶴岡及稱名寺ノ天神細字ノ經ハ、皆此寺ヨリ分散シタルトナリ。〕

 嘉暦二年綸旨          一通

 右馬允政季〔建武二年證文、其中ニ武藏國足立郡箕田郷云々。〕

 尊氏自筆證文、又自筆ノ狀アリ。

 氏滿自筆證文          一通

 義滿文狀            一通

 舊記ニ藕絲ノ九條ノ袈裟アリ。釋迦ノ袈裟トハ大ナル誤ナリ。又千服ノ茶磨、千服ノ茶碗トテ路邊三石アリ。此寺ノ繁昌ヲ知セン爲ト也。

[やぶちゃん注:「嘉暦二年綸旨」は後醍醐天皇によるもの。

「右馬允政季」末尾に「證文」が抜けている。足利直義の直近の家臣と思われる。本證文は新編鎌倉志巻之六の「極樂寺」の当該項の私の注に提示してある。

「足立郡箕田郷」現在の埼玉県鴻巣市。

「天神瑜迦論」は「瑜伽論」とするのが正しい。正確には「瑜伽師地(ゆがしじ)論」という。新編鎌倉志巻之六の「極樂寺」の当該項の私の注を参照されたい。

「藕絲」は音「グウシ」、「はすのねのいと」(蓮の根の糸)の意。ここは何らかの旧記に、極楽寺寺宝に『藕絲の九條の袈裟あり』とあって、それを『釋迦の袈裟』とするが、それは大きな誤りである、の意であろう。]

 

   月 影 谷

 極樂寺ノ後ロ也。昔ハ暦ノ出ル所ト云リ。此所ニ阿佛屋敷ト云アリ。十六夜記ニ、東ニテ住ム所ハ月影谷トゾ云ナルトアリ。

[やぶちゃん注:「暦ノ出ル所」新編鎌倉志巻之六の「月影谷」には『昔は暦を作る者居住せしとなり』とある。]

 

   靈 山 崎

 切通ヨリ海中へ出崎ヲ云。此所日蓮雨ヲ乞フ所ナリ。

 

   針 磨 橋

 極樂寺ノ南、七里濱へ出ル路ノ小橋ナリ。

 

   音 無 瀧

 針磨橋ノ南、七里濱へ出ル口也。沙山ノ松蔭ヲ廻リ傳ヒテ落ル水也。常ハ水モナシ。沙山ナル故ニ、瀧落ルト云トモ音ナシ。因テ音無瀧ト云也。

 

   日蓮袈裟掛松

 音無ノ少シ南ノ海道ノ西ニアル一本松也。

[やぶちゃん注:「音無」前掲の音無瀧の脱字であろう。]

 

   稻 村 崎

 靈山崎ノ西ノ出崎ニ、稻ヲ積タル如クノ山アリ。是ヲ稻村ト云。其南ノ海上ヲ稻村崎ト云フ。コノ海邊ヲ横手原ト云トゾ。新田義貞鎌倉ヲ攻ル時、此海廿四町干潟ト成、平沙渺々トシテ横矢ノ舟、澳ニ漂フトナリ。因之(之に因りて)名タルトナリ。

[やぶちゃん注:「澳」「おき」と読む。沖。

「名タルトナリ」「名附タルトナリ」の脱字であろう。]

アリスの散歩で

アリスの散歩の、行きつけの本在寺公園山頂で、とても魅力的な方と出逢った。周辺の遺跡などの話を交わすうちに、趣味で庚申塔を調べておられるという。七十六歳になられる鷹取氏という方。帰宅後、早速に氏のHPを拝読、これ、実に素晴らしい!――僕の「学びの場」がまた一つ、増えた。

アリスの散歩も――これ、悪くないわい♡♡♡

氏のHP「日本の名城100選」をご覧あれ!

耳嚢 巻之五 蘇生の人の事

 蘇生の人の事

 

 寛政六年の頃、芝邊のかるき日雇取(ひやとひどり)などしてくらしける男、風與(ふと)煩ひて頓死同樣にてありしを、念佛講中間(なかま)抔寄合(よりあひ)て寺へ遣し葬(はふむり)けるが、一兩日立て場の内にてうなる聲しけるが次第に高く也し故、寺僧も驚(おどろき)て掘(ほり)うがち見んとて、施主へ申達(まうしたつ)し掘らせけるが、活(いき)てあるに違ひなければ寺社奉行へも寺より訴へ、其節の町奉行小田切土佐守方へ町方より右蘇生人引取(ひきとり)候由相屆け、段々療養の上(うえ)力附(つき)て則(すなはち)番所へも出(いで)し故、其始末を尋(たづね)しに、我等は死し候とは曾て不存(ぞんぜず)、何か京都へ登り祇園邊を歩行(あるき)、大阪道頓堀邊をもあるき東海道を歸りしに、大井川にて路銀無之(これなき)處、川越の者憐みて渡し呉(くれ)、夫より宿へ歸りしに、まつくらにて何かわからざる故聲を立(たて)候と覺へたり。全く夢を見し心也と語りし由、土州(どしふ)の物語り也。右夢の内に冥官にも獄卒にも不逢(あはず)といふ所、正直成(なる)者と感笑しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚から蘇生譚の怪異連関。幽体離脱した生霊譚としては、それが「大井川にて路銀無之處、川越の者憐みて渡し呉」と、明確な実態を持っている点が面白い。主人公の病気は細部が分からないが、循環器や脳に何らかの障害があったものとするなら、意識喪失と不整脈などで、死の判定を下され、葬られ、土中で覚醒するまでその間、夢を見ていたことになるが、それにしても京は祇園に大阪道頓堀の漫遊とは、如何にも「感笑」、いやいや、私なんぞも――芸者遊びのオプションも附けて貰い――あやかりたい夢では、これ、御座る。

・「中間(なかま)」『なか』は底本のルビであるが、これは原本のものらしく、丸括弧がない。

・「念佛講」念仏を行なう講(本来は社寺の参詣・寄進などをする信者の団体(伊勢講・富士講等)を指したが、以下に示すように、後にはそうしたものが実利的相互扶助組織となって貯蓄や金の融通を行う団体となっていった)。元は念仏を信ずる者たちが当番となった者の家に集って念仏を行なっていたが、後にはその構成員が毎月掛金を出して、それを講中の死亡者に贈る弔慰金・講中の会食・親睦等の費用に当てるといった、頼母子講(たのもしこう:一定の期日に構成員が掛け金を出し合ったものをプールし、講中で定期的に行う籤等に当った者に一定の金額を給付、これがほぼ全構成員に行き渡ったところで解散するという民間金融互助組織。古くは鎌倉時代に始まり、江戸時代に爆発的に流行した)的なものに変化していった。

・「小田切土佐守」小田切直年(寛保三(一七四三)年~文化八(一八一一)年)は旗本。小田切家は元は甲斐武田氏に仕え、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣となって近侍したという経歴を持つ家系である。明和二(一七六五)年に二十三歳で西ノ丸書院番となった後、御使番・小普請・駿府町奉行・大坂町奉行・遠国奉行を歴任、寛政四(一七九二)年に五十歳で江戸北町奉行に就任した。その後、文化八(一八一一)年に現職のまま六十九歳で没するまで実に十八年間も奉行職にあった(これは町奉行歴代四番目に長い永年勤続である)。これによって幕府が小田切に対して篤い信頼を寄せていたことが分かる。以下、参照したウィキの「小田切直年」には、町奉行時代のエピソードが豊富に載り、中には何と根岸(小田切より四歳年下であり、根岸の南町奉行就任は寛政一〇(一七九八)年で、本話執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春は未だ勘定奉行であった。以下の小田切との裁定対立も公事方勘定奉行時代のものである)との裁定の対立が語られて実に興味深いので、以下に引用しておく。『小田切自身、奉行として優れた裁きを下しており、後の模範となる多数の判例を残している。駿府町奉行在任中には男同士の心中事件を裁いている。盗賊として有名な鬼坊主清吉を裁いたのも小田切であった』。『小田切が奉行にあった時代は、犯罪の凶悪化に拍車がかかっており、件数自体も増加していた。そのため老中達は刑法である御定書を厳格化する制定を下したのだが、小田切は長谷川宣以などと共にこの政策に反対し、刑罰を杓子定規に適用することなく出来る限りの斟酌をして寛大な措置を施す道を模索していた。例えば、大阪町奉行に在任していた最中、ある女盗賊を捕らえた。この女盗賊は最終的には評定所の採決によって死罪に処されたのだが、小田切は彼女に対して遠島の処分を申し渡していた。当時は女性の法人人格が男性より格下とみなされており、それを考慮した採決であった』。また、十歳の商家の娘かよが十九歳の奉公人喜八に姦通を強要、『喜八がついに折れて渋々承諾し、行為中に突如かよが意識を失いそのまま死亡するという事件が起こり、小田切は根岸鎮衛と共にこれを裁断した。根岸と寺社奉行は引き回しの上獄門を、二人の勘定奉行は死罪を主張したが、小田切は前例や状況を入念に吟味し、無理心中であると主張、広義では死刑であるものの、死刑の中でも最も穏当な処分である「下手人」を主張した。最終的に喜八は死罪を賜ったが、この事例にも小田切の寛大かつ深慮に富んだ姿勢が伺える』。『しかし良いことばかりではなく、「街談文々集要」や「藤岡屋日記」によると、文化七年(一八一〇年)五月二二日、年貢の納入に関するトラブルで取り調べを受けていた農民が、与力の刀を奪って北町奉行所内で暴れ、役人二名、および敷地内の役宅にいた夫人二名を斬殺し、子供も含めた多数に負傷させるも、役人たちは逃げ回るばかりで、犯人は下男が取り押さえると言う大醜態をさらした。犯人は処刑され、出身の村にも連座が適用されたが、刀を奪われた与力が改易され、その他逃げ回っていた役人多数が処分を受けた。この不祥事に「百姓に与力同心小田切られ主も家来もまごついた土佐」という落首が出て皮肉られている』(最後の引用はアラビア数字を漢数字に代えた)。この最後の不祥事は、「耳嚢 卷之四」の「不時の異變心得あるべき事」を髣髴とさせる。根岸の時代劇調の格好いい出来事は寛政七(一七九五)年であるから、小田切の一件よりはずっと前であるが、この顛末を聴いた根岸は、自身のあの時の体験をダブらせて、感慨も一入であったことは想像に難くない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蘇生した人の事

 

 寛政六年の頃、芝辺りで賤しい日雇いなんどを生業(なりわい)と致いて暮らしておった男が、ふと患って、まあ、言うところ――頓死――といった風に、死んだ。

 念仏講仲間なんどが寄り集まって、寺へと送り、形ばかりでは御座ったが、葬儀も滞りなく済んで、葬って御座った由。

 ところが……

……一日二日して……塚の内にて……これ、呻(うな)る声の、する――!――

……それが――!――

……次第に高(たこ)うなる!――

 これ、流石に寺僧も驚き、

「……掘り返して見ずんばならず!」

と、施主へ異変を申し遣わし、掘らせてみたところが――

――これ、座棺の桶の中に――ぶるぶると震えて、

「……ウーン……ウーン! アハアアッ!……」

と呻いてあればこそ、

「……お、おいッ!……こ、これ、生きて、おるに違いないぞッ!……」

と、もう、上へ下への大騒ぎと相い成って御座った。

 寺より寺社奉行へ驚天動地の事実を訴え出で、その節の町奉行小田切土佐守直年殿方へも、町方の者より、蘇生人を引き取った旨、相い届けて御座った。……

 だんだんに療養の上、本人も徐々に起き上がるほどの力もついたによって、自身も番所へと出頭した故、その顛末につき、訊問致いたところが、

「……我らは……そのぅ……死んでしもうたとは……これ……いっかな……存じませなんだじゃ。……へぇ……そんでもって……何かその……旅を……へぇ……京都へ上って、祇園辺りをぶらついて……それから……大阪は、かの道頓堀辺も歩いて……そんでもって………東海道を帰(けえ)って……その途次にては……あの大井川にて、路銀がないようなっておりやしたによって……渡れずに困っておりやしたところが……川越えの人足が、これ、哀れんで……担いで渡して呉れやした。……そんでもって……宿へ帰(けえ)ったところが……何か、この……その……家中(いえじゅう)が……これ、真っ暗で……何(なん)か……その……訳がわからんことになって……ともかくも! っと……声を立てた……というところまでは……よう、覚えとりやす。……へぇ……もう、全く、永(なげ)え永え夢を……これ、見ておったとような心持ちで御座んした……へぇ……」

と語った由。――

 以上は土佐守殿の話された実話にて、

「……それにしても……その夢の中(うち)にては、冥府の役人にも、獄卒にも、これ、逢わなんだと申すは……如何にも正直者、というべきで御座ろうか、の。」

と、二人して笑い合(お)うたもので御座った。

一言芳談 三十四

   三十四

 

 又云、日來(ひごろ)隨分に、後世(ごせ)をおもふ樣なるものゝ、行業(ぎやうごふ)など、退轉する事あらば、死期(しご)のちかづきたるとおもふべきなり。

 

〇死期のちかづきたる、久からずして死すべしとおもへば修行もすゝむなり。

 

[やぶちゃん注:「行業」仏道の修行。ここでは念仏。

「退轉」修行を怠り、一度得た悟りを失って前の迷いの世界に立ち戻ってしまうこと。

「あらば」「退轉」というゆゆしき事態を提示し、更にこれを仮定形で示す時、確かに標注の言うようなパラドックスこそが本条の謂いと言えよう。――「いつか永遠に生きるために、人はしばしば死に身をゆだねなければならない。」――のであった(ドイツ・ロマンの画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(Caspar David Friedrich 一七七四年~一八四〇年)の言葉。ペーター・ラウトマン著長谷川美子訳『フリードリヒ「氷海」――死を通過して新しい生命へ――』一一七頁より)。]

2012/12/16

これがこの世――

フリードリヒ 氷の海 1823‐24

Ji

では――さやうなら……

しかし――失われたプロトタイプの絵では、この右で難破している船の名は「希望」号という……

そして――フリードリヒは言う

「いつか永遠に生きるために、人はしばしば死に身をゆだねなければならない。」(ペーター・ラウトマン著長谷川美子訳『フリードリヒ「氷海」――死を通過して新しい生命へ――』117P)

北條九代記 問注所を移し立てらる

      〇問注所を移し立てらる

四月二十七日改元あり正治と號す。故賴朝卿の御時には問注所を營中に定めて、自(みづから)立出給ひ、訴論を聞きて、是非を決せらる。諸人群集鼓騷(ぐんじゆこさう)して、無禮を致す者ありといへども、只(ただ)寛温大度(くわんをんたいど)にして、是を咎めず。又御寢所には諸國御家人の名字を書付けて壁に掛け、毎朝(まいてう)是を一覽し、會所には在(ざい)鎌倉の大名、小名の名字を書きて掛(かけ)られ、毎日是を一覽し、十日に及びて、登城(とうじやう)なき人をば或は使を遣(つかは)し、或はその親(したしき)に向ひて無事を問ひまします故に、諸侍是に勵まされて、毎日の出仕を闕(か)く事なし。而(しかう)して親み深く、交(まじはり)を厚(あつく)し、或時は酒宴、或時は歌の會、又は弓馬の遊(あそび)、笠掛(かさかけ)、犬追物(いぬおふもの)、その外數ヶ度の狩(かり)を催さる。總てその身の樂(らく)とし給はず。天下の侍(さぶらひ)に親まんが爲なり。さればにや諸將諸侍(し)皆昵(むつま)じく思ひ奉り、忠を致さんとのみ存じけり。しかのみならず無禮なるには法令を教へ、侮慢(ぶまん)なるをば警誡(けいかい)し給ひ、罰すべきをば法に委せ、忠ある者は賞し給ふ。この故にその政德に懷(なつ)く事嬰兒の父母を思ふが如くなり。然るを賴家の御代になりて萬事只略義を存ぜられ、外祖北條時政に打任せ、御身は奥深(ふか)く籠りて、遊興を以て事とし給ふ。是に依(よつ)て政理(せいり)の御勤もむつかしく思召(おぼしめ)され、それとはなしに内々の評定(ひやうぢやう)には、論人(ろんにん)若(もし)狼籍を仕(し)出さば不覺(ふかく)たるべし。徃初(そのかみ)熊谷(くまがへ)と久下(くげ)と境目(さかひめ)の相論(さうろん)あり。対決の日直實(なほざね)道理に負けて、西侍(にしさふらひ)にして荒涼の詞(ことば)を吐散(はきちら)し、髻(もとゞり)を切て退出しけるは、頗る非禮の所行にあらずや。今より問注所を郭外に立てられ、その御沙汰を致されて然るべしとて、大夫屬(さくわん)善信(ぜんしん)を執事として、向後大小訴論の事北條父子、兵庫頭廣元、三浦義澄、八田(やたの)知家、和田義盛、比企能員、藤九郎入道蓮西(れんさい)、足立遠元、梶原景時等(ら)談合を加へ、成敗(せいばい)を計(はから)ひておこなふべしとぞ仰出(おほせいだ)されける。是より訴訟、公事(くじ)決斷の事、假初(かりそめ)にも日を重ね、月をわたりて、難義に及ぶ者鎌倉中に營々(えいえい)として、人皆(みな)昔を慕ひけり。掃部頭藤原親能をば京都の奉行として、六波羅に置れたり。賴家近習(きんじう)の者とては小笠原彌太郎長經、比企三郎、和田三郎朝盛(とももり)、中野五郎能成(よしなり)、細野(ほそのゝ)四郎、只五人を友として晝夜御前を立離(たちはな)れず、その外の輩は一人も參るべからず。この五人に於ては假令(たとひ)鎌倉中にして狼籍の事ありとも、甲乙人(かふおつにん)敢(あへ)て敵對致すべからずと村里までも觸(ふ)れられたり。是を聞く人老たるも若(わかき)も舌を鳴して誚(そし)り合ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年四月一日・十二日・二十日などに基づくが、寧ろ、記述内容自体には巻十二の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条が、合議制の合理的必然性の核心部分として用られており、説得力を強化していると言える。要は頼家の武家頭領としての失格性を強調する段である。

「笠掛」は「笠懸」とも書き、疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る騎射。遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これを疏(さぐり:馬の走路。)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目ひきめと呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」ともいう。

「犬追物」牛追物から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次(よびつぎ:呼び出し役。)に、百五十匹の犬を投入、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。

「熊谷と久下と境目の相論あり」これはかなり知られた事件である。「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条を見よう。

〇原文

廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實與久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。卷調度文書等。投入御壺中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕。登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々幷筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無礼。直實爲散其鬱憤。屬于新中納言。〔知盛卿。〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰塲抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後、霽に屬(ぞく)す。早旦、熊谷次郎直實と久下權守直光、御前に於いて一决を遂ぐ。是れ、武藏國熊谷と久下との境相論の事なり。直實、武勇に於ては、一人當千の名を馳すと雖も、對决に至りては、再往知十の才に足らず、頗る御不審を貽(のこ)すに依つて、將軍家、度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直實申して云はく、「此の事、梶原平三景時、直光を引級(いんきふ)するの間、兼日に道理の由を申し入るるか。仍つて今、直實、頻りに下問に預る者なり。御成敗の處、直光、定めて眉を開くべし。其の上は、理運の文書要無し。左右(さう)に能はず。」と稱し、縡(こと)未だ終らざるに、調度文書等を卷き、御壺の中に投げ入れ座を起つ。猶ほ忿怒に堪へず、西侍(にしざむらひ)に於いて、自(みづ)から刀を取り髻(もとどり)を除(はら)ひ、詞を吐きて云はく、「殿の御侍へ登りはて。」と云々。

則ち、南門を走り出で、私宅に歸るに及ず、逐電す。將軍家、殊に驚かしめ給ふ。或る説に、西を指して駕を馳す、若(も)しは京都の方へ赴くかと云々。

則ち、雜色等を相摸・伊豆の所々、幷びに筥根(はこね)・走湯山等へ馳せ遣はし、直實の前途を遮(さいぎ)つて、遁世の儀を止むべしの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々。

直光は、直實の姨母(をば)が夫なり。其の好(よし)みに就きて、直實、先年、直光の代官として、京都大番に勤仕せしむるの時、武藏國の傍輩等、同じ役を勤めて在洛す。此の間、各々人の代官を以つて、直實に對し無礼を現はす。直實、其の鬱憤を散らさんが爲に、新中納言〔知盛卿。〕に屬し、多年を送り畢んぬ。白地(あからさま)に關東へ下向せるの折節、石橋合戰有り。平家の方人(かたうど)と爲り、源家を射ると雖も、其の後、又、源家に仕へ、度々戰塲に於いて勳功を抽ん(ぬきん)づと云々。

而うして直光を弃(す)て、新黄門の家人に列するの條、宿意の基として、日來(ひごろ)境の違乱に及ぶと云々。

・「熊谷次郎直實」(永治元(一一四一)年~承元二(一二〇八)年)は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)領主直貞次男であったが二歳で父を失い、叔父の久下直光に養育された。本「吾妻鏡」の記載にもある通り、直光の代理で大番役に上洛した時、傍輩の侮辱を受けて憤慨、平知盛に仕えて都に留まることとなったが、その間に直光が直実の所領を押領したため、境相論が発生した。治承四(一一八〇)年四月の石橋山の戦では平家方として頼朝を攻めたが、間もなく頼朝配下となり、同年十一月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功を挙げて本領熊谷郷の地頭職に補任された。次いで、元暦元(一一八四)年の宇治川合戦、一の谷合戦などでも活躍、特に「平家物語」などで知られる一の谷での十六歳の平敦盛との一騎打ちが有名(これが後の出家する機縁となったとする伝承も知られたものである)。文治三(一一八七)年の鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して頼朝の不興を買い、所領の一部を没収されている。更に、この叔父直光との境相論の席上、頼朝が直光を支持するような気配を見せたことに立腹して逐電、京に赴き、法然の弟子となって蓮生(れんじょう)と号した。その直情径行な性格に相応しく、一心に上品上生の往生を立願して死期を予言、その予言通り、承元二年九月十四日、端座合掌して高声念仏しながら往生したという(「吾妻鏡」)(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。

・「久下權守直光」(生没年不詳)は武蔵七党の一つにも数えられる私市(きさいち)党の一族。本件の所領論争を中止に据えたウィキの「久下直光」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(一一八二年)五月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(一一九二年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年十一月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられて』おり、『以後も久下氏と熊谷氏の境相論は長く続く事になる』と記す。

・「引級」特に訴訟の際、弁護や支援をすること。肩をもつ、依怙贔屓をするといったニュアンスを含み、ここでは、それ。

・「道理の由を申し入るるか」裁断を下す頼朝に対して、実は事前に、直光の方が道理に叶った訴えであるといった事が、申し入れられているのではないか? という疑義である。

・「眉を開く」「眉を顰む」の反対語で、歓喜する、ここでは勝訴することをいう。

・「壺」建物の内部にある坪庭のこと。吉川本などは「簾」とする。

・「西侍」侍所の西側の詰所の謂いか。

・「殿の御侍へ登りはて。」『佐殿(頼朝)の侍にまで出世したにぃッツ!』という痛烈な歯嚙みの捨て台詞である。

 

「藤九郎入道蓮西」安達盛長。

「安達遠元」(生没年未詳)は安達盛長甥であるが、安達の方が年下である。平治の乱で源義朝の陣に従い、源義平率いる十七騎の一人として戦い、頼朝挙兵の際には、彼が下総国から武蔵国に入った十月二日に参上、元暦元(一一八四)年には最初期の公文所知家事に補任されている。

「甲乙人」如何なる身分の人物(であっても)、の意。]