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2012/12/16

北條九代記 問注所を移し立てらる

      〇問注所を移し立てらる

四月二十七日改元あり正治と號す。故賴朝卿の御時には問注所を營中に定めて、自(みづから)立出給ひ、訴論を聞きて、是非を決せらる。諸人群集鼓騷(ぐんじゆこさう)して、無禮を致す者ありといへども、只(ただ)寛温大度(くわんをんたいど)にして、是を咎めず。又御寢所には諸國御家人の名字を書付けて壁に掛け、毎朝(まいてう)是を一覽し、會所には在(ざい)鎌倉の大名、小名の名字を書きて掛(かけ)られ、毎日是を一覽し、十日に及びて、登城(とうじやう)なき人をば或は使を遣(つかは)し、或はその親(したしき)に向ひて無事を問ひまします故に、諸侍是に勵まされて、毎日の出仕を闕(か)く事なし。而(しかう)して親み深く、交(まじはり)を厚(あつく)し、或時は酒宴、或時は歌の會、又は弓馬の遊(あそび)、笠掛(かさかけ)、犬追物(いぬおふもの)、その外數ヶ度の狩(かり)を催さる。總てその身の樂(らく)とし給はず。天下の侍(さぶらひ)に親まんが爲なり。さればにや諸將諸侍(し)皆昵(むつま)じく思ひ奉り、忠を致さんとのみ存じけり。しかのみならず無禮なるには法令を教へ、侮慢(ぶまん)なるをば警誡(けいかい)し給ひ、罰すべきをば法に委せ、忠ある者は賞し給ふ。この故にその政德に懷(なつ)く事嬰兒の父母を思ふが如くなり。然るを賴家の御代になりて萬事只略義を存ぜられ、外祖北條時政に打任せ、御身は奥深(ふか)く籠りて、遊興を以て事とし給ふ。是に依(よつ)て政理(せいり)の御勤もむつかしく思召(おぼしめ)され、それとはなしに内々の評定(ひやうぢやう)には、論人(ろんにん)若(もし)狼籍を仕(し)出さば不覺(ふかく)たるべし。徃初(そのかみ)熊谷(くまがへ)と久下(くげ)と境目(さかひめ)の相論(さうろん)あり。対決の日直實(なほざね)道理に負けて、西侍(にしさふらひ)にして荒涼の詞(ことば)を吐散(はきちら)し、髻(もとゞり)を切て退出しけるは、頗る非禮の所行にあらずや。今より問注所を郭外に立てられ、その御沙汰を致されて然るべしとて、大夫屬(さくわん)善信(ぜんしん)を執事として、向後大小訴論の事北條父子、兵庫頭廣元、三浦義澄、八田(やたの)知家、和田義盛、比企能員、藤九郎入道蓮西(れんさい)、足立遠元、梶原景時等(ら)談合を加へ、成敗(せいばい)を計(はから)ひておこなふべしとぞ仰出(おほせいだ)されける。是より訴訟、公事(くじ)決斷の事、假初(かりそめ)にも日を重ね、月をわたりて、難義に及ぶ者鎌倉中に營々(えいえい)として、人皆(みな)昔を慕ひけり。掃部頭藤原親能をば京都の奉行として、六波羅に置れたり。賴家近習(きんじう)の者とては小笠原彌太郎長經、比企三郎、和田三郎朝盛(とももり)、中野五郎能成(よしなり)、細野(ほそのゝ)四郎、只五人を友として晝夜御前を立離(たちはな)れず、その外の輩は一人も參るべからず。この五人に於ては假令(たとひ)鎌倉中にして狼籍の事ありとも、甲乙人(かふおつにん)敢(あへ)て敵對致すべからずと村里までも觸(ふ)れられたり。是を聞く人老たるも若(わかき)も舌を鳴して誚(そし)り合ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九五)年四月一日・十二日・二十日などに基づくが、寧ろ、記述内容自体には巻十二の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条が、合議制の合理的必然性の核心部分として用られており、説得力を強化していると言える。要は頼家の武家頭領としての失格性を強調する段である。

「笠掛」は「笠懸」とも書き、疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る騎射。遠笠掛は最も一般的な笠懸で、的は直径一尺八寸(約五十五センチメートル)の円形で鞣なめし革で造られている。これを疏(さぐり:馬の走路。)から五杖から十杖(約一一・三五メートルから二二・七メートル。「杖」は弦を掛けない弓の長さで、競射の際の距離単位で七尺八寸≒二・三六メートル)離れたところに立てた木枠に紐で三点留めし、張り吊るす。的は一つ(流鏑馬では三つ)。矢は大蟇目ひきめと呼ばれる大きめの蟇目鏑(鏑に穴をあけたもの)を付けた矢を用い、馬を疾走させながら射当てる。遠くの的を射る所から「遠笠懸」ともいう。

「犬追物」牛追物から派生したとされる弓術作法の一つで、流鏑馬・笠懸と合わせて騎射三物に数えられる。競技場としては四〇間(約七三メートル弱)四方の平坦な馬場を用意し、そこに十二騎一組の三編成三十六騎の騎手と、二騎の「検見」と称する検分者・二騎の喚次(よびつぎ:呼び出し役。)に、百五十匹の犬を投入、所定時間内に騎手が何匹の犬を射たかで争った。矢は「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鈍体の鏑矢を使用した。但し、単に犬に矢が当たればよい訳ではなく、その射方や命中した場所によって、幾つもの技が決められており、その判定のために検見や喚次が必要であった(以上はウィキの「犬追物」を参照した)。

「熊谷と久下と境目の相論あり」これはかなり知られた事件である。「吾妻鏡」の建久三(一一九二)年十一月二十五日の条を見よう。

〇原文

廿五日甲午。白雲飛散。午以後屬霽。早旦熊谷次郎直實與久下權守直光。於御前遂一决。是武藏國熊谷久下境相論事也。直實於武勇者。雖馳一人當千之名。至對决者。不足再往知十之才。頗依貽御不審。將軍家度々有令尋問給事。于時直實申云。此事。梶原平三景時引級直光之間。兼日申入道理之由歟。仍今直實頻預下問者也。御成敗之處。直光定可開眉。其上者。理運文書無要。稱不能左右。縡未終。卷調度文書等。投入御壺中起座。猶不堪忿怒。於西侍自取刀除髻。吐詞云。殿〔乃〕御侍〔倍〕。登〔利波天〕云々。則走出南門。不及歸私宅逐電。將軍家殊令驚給。或説。指西馳駕。若赴京都之方歟云々。則馳遣雜色等於相摸伊豆所々幷筥根走湯山等。遮直實前途。可止遁世之儀之由。被仰遣于御家人及衆徒等之中云々。直光者。直實姨母夫也。就其好。直實先年爲直光代官。令勤仕京都大番之時。武藏國傍輩等勤同役在洛。此間。各以人之代官。對直實現無礼。直實爲散其鬱憤。屬于新中納言。〔知盛卿。〕送多年畢。白地下向關東之折節。有石橋合戰。爲平家方人。雖射源家。其後又仕于源家。於度々戰塲抽勳功云々。而弃直光。列新黄門家人之條。爲宿意之基。日來及境違乱云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日甲午。白雲飛び散り、午以後、霽に屬(ぞく)す。早旦、熊谷次郎直實と久下權守直光、御前に於いて一决を遂ぐ。是れ、武藏國熊谷と久下との境相論の事なり。直實、武勇に於ては、一人當千の名を馳すと雖も、對决に至りては、再往知十の才に足らず、頗る御不審を貽(のこ)すに依つて、將軍家、度々尋ね問はしめ給ふ事有り。時に直實申して云はく、「此の事、梶原平三景時、直光を引級(いんきふ)するの間、兼日に道理の由を申し入るるか。仍つて今、直實、頻りに下問に預る者なり。御成敗の處、直光、定めて眉を開くべし。其の上は、理運の文書要無し。左右(さう)に能はず。」と稱し、縡(こと)未だ終らざるに、調度文書等を卷き、御壺の中に投げ入れ座を起つ。猶ほ忿怒に堪へず、西侍(にしざむらひ)に於いて、自(みづ)から刀を取り髻(もとどり)を除(はら)ひ、詞を吐きて云はく、「殿の御侍へ登りはて。」と云々。

則ち、南門を走り出で、私宅に歸るに及ず、逐電す。將軍家、殊に驚かしめ給ふ。或る説に、西を指して駕を馳す、若(も)しは京都の方へ赴くかと云々。

則ち、雜色等を相摸・伊豆の所々、幷びに筥根(はこね)・走湯山等へ馳せ遣はし、直實の前途を遮(さいぎ)つて、遁世の儀を止むべしの由、御家人及び衆徒等の中に仰せ遣はさると云々。

直光は、直實の姨母(をば)が夫なり。其の好(よし)みに就きて、直實、先年、直光の代官として、京都大番に勤仕せしむるの時、武藏國の傍輩等、同じ役を勤めて在洛す。此の間、各々人の代官を以つて、直實に對し無礼を現はす。直實、其の鬱憤を散らさんが爲に、新中納言〔知盛卿。〕に屬し、多年を送り畢んぬ。白地(あからさま)に關東へ下向せるの折節、石橋合戰有り。平家の方人(かたうど)と爲り、源家を射ると雖も、其の後、又、源家に仕へ、度々戰塲に於いて勳功を抽ん(ぬきん)づと云々。

而うして直光を弃(す)て、新黄門の家人に列するの條、宿意の基として、日來(ひごろ)境の違乱に及ぶと云々。

・「熊谷次郎直實」(永治元(一一四一)年~承元二(一二〇八)年)は武蔵国大里郡熊谷郷(現在の熊谷市)領主直貞次男であったが二歳で父を失い、叔父の久下直光に養育された。本「吾妻鏡」の記載にもある通り、直光の代理で大番役に上洛した時、傍輩の侮辱を受けて憤慨、平知盛に仕えて都に留まることとなったが、その間に直光が直実の所領を押領したため、境相論が発生した。治承四(一一八〇)年四月の石橋山の戦では平家方として頼朝を攻めたが、間もなく頼朝配下となり、同年十一月の佐竹秀義攻撃で抜群の戦功を挙げて本領熊谷郷の地頭職に補任された。次いで、元暦元(一一八四)年の宇治川合戦、一の谷合戦などでも活躍、特に「平家物語」などで知られる一の谷での十六歳の平敦盛との一騎打ちが有名(これが後の出家する機縁となったとする伝承も知られたものである)。文治三(一一八七)年の鶴岡八幡宮の流鏑馬で的立役を拒否して頼朝の不興を買い、所領の一部を没収されている。更に、この叔父直光との境相論の席上、頼朝が直光を支持するような気配を見せたことに立腹して逐電、京に赴き、法然の弟子となって蓮生(れんじょう)と号した。その直情径行な性格に相応しく、一心に上品上生の往生を立願して死期を予言、その予言通り、承元二年九月十四日、端座合掌して高声念仏しながら往生したという(「吾妻鏡」)(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主に参照した)。

・「久下權守直光」(生没年不詳)は武蔵七党の一つにも数えられる私市(きさいち)党の一族。本件の所領論争を中止に据えたウィキの「久下直光」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『久下氏は武蔵国大里郡久下郷を領する武士で、熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、孤児となった直実を育てて隣の熊谷郷の地を与えた。後に直光の代官として京に上った直実は直光の家人扱いに耐えられず、平知盛に仕えてしまう。熊谷を奪われた形となった直光と直実は以後激しい所領争いをした。更に治承・寿永の乱(源平合戦)において直実が源頼朝の傘下に加わったことにより、寿永元年(一一八二年)五月に直光は頼朝から熊谷郷の押領停止を命じられ、熊谷直実が頼朝の御家人として熊谷郷を領することとなった。勿論、直光はこれで収まらず、合戦後の建久三年(一一九二年)に熊谷・久下両郷の境相論の形で両者の争いが再び発生した。同年十一月、直光と直実は頼朝の御前で直接対決することになるが、口下手な直実は上手く答弁することが出来ず、梶原景時が直光に加担していると憤慨して出家してしまった(『吾妻鏡』)。もっとも、知盛・頼朝に仕える以前の直実は直光の郎党扱いを受け、直実が自分の娘を義理の伯父である直光に側室として進上している(世代的には祖父と孫の世代差の夫婦になる)こと、熊谷郷も元は直光から預けられていた土地と考えられており、直光に比べて直実の立場は不利なものであったと考えられて』おり、『以後も久下氏と熊谷氏の境相論は長く続く事になる』と記す。

・「引級」特に訴訟の際、弁護や支援をすること。肩をもつ、依怙贔屓をするといったニュアンスを含み、ここでは、それ。

・「道理の由を申し入るるか」裁断を下す頼朝に対して、実は事前に、直光の方が道理に叶った訴えであるといった事が、申し入れられているのではないか? という疑義である。

・「眉を開く」「眉を顰む」の反対語で、歓喜する、ここでは勝訴することをいう。

・「壺」建物の内部にある坪庭のこと。吉川本などは「簾」とする。

・「西侍」侍所の西側の詰所の謂いか。

・「殿の御侍へ登りはて。」『佐殿(頼朝)の侍にまで出世したにぃッツ!』という痛烈な歯嚙みの捨て台詞である。

 

「藤九郎入道蓮西」安達盛長。

「安達遠元」(生没年未詳)は安達盛長甥であるが、安達の方が年下である。平治の乱で源義朝の陣に従い、源義平率いる十七騎の一人として戦い、頼朝挙兵の際には、彼が下総国から武蔵国に入った十月二日に参上、元暦元(一一八四)年には最初期の公文所知家事に補任されている。

「甲乙人」如何なる身分の人物(であっても)、の意。]

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