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2012/12/23

芥川龍之介漢詩全集 二十八

   二十八

 

不負十年未醒名

也對秋風催酒情

拈筆含杯閑半日

寫成荒竹數竿聲

 

〇やぶちゃん訓読

 

 負はず 十年 未醒(みせい)の名

 也(また) 秋風に對して 酒情を催す

 筆を拈(ねん)じ 杯を含みて 半日(はんにち) 閑たり

 寫し成す 荒竹 數竿の聲

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。また、以下に示すように芥川龍之介の真作かどうかも疑おうと思えば疑われる。しかし、私は最終的に芥川龍之介の真筆と判断する。以下を是非、お読み戴きたい。

本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十九」「四十」と連続して書き込まれているものである。

この「手帳(五)」は、

新全集後記では、大正一二(一九二三)年から晩年にかけて記されたもの

と推測している(但し、だからといって本詩の創作年代を遡ることが出来ないという理由にはならない)。邱氏のこれに大きく反するところの、

大正九(一九二〇)年前後説

というのは、後に示すように、

本詩がこの時期の複数の先行作品と類似していること

及び、

「手帳(五)」には書かれていない中国旅行中の記載が「手帳(六)」「手帳(七)」には現われていること

を証左となさっている(これはこれで説得力がある)。

但し、この「手帳(五)」に書かれたメモと関わる作品は新全集後記によれば、

「三つの宝」(一九二二年)・「貝殻」(一九二七年)・「侏儒の言葉」(一九二三年~二五年)・「玄鶴山房」(一九二七年)・「河童」(一九二七年)など、圧倒的に

大正一一(一九二二)年以降の作品群のヒントが多い

ことも事実ではある。

なお、この「手帳(五)」は現在では所在不明である。

 

「不負」とは負った期待に応えていないことを言う。

「未醒名」「未だ名を醒(さ)まさず」と訓ずることも出来るが(その場合は世間的な名声を得ない、若しくは、真の自身の存り方を悟っていない、といった謂いになろう)、ここは「未醒」を文字通り主人公の「名」と採りたい。そして「未醒」という雅号の持主は、芥川龍之介ではない。これは、芥川龍之介の友人であった洋画家小杉放庵(明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)の初期の画号である小杉未醒に他ならない。大正九(一九二〇)年当時、未醒は満三十九歳であったが前年に考え方の相違から二科会を、同年には日本美術院も脱退し、後の大正一一年には春陽会創立に参加している。また号も大正一三(一九二四)年に放庵と改めてもいる(すると、副次的にそこからも本詩が大正一三年よりも前の作であると断ずることも出来よう)。初期の画は東洋的ロマン主義の傾向を示し、また、未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えた。フランス帰国後(大正二(一九一三)年渡仏、翌年帰国)から東洋趣味に傾き、油絵をやめて墨画が多くなった。大正一四(一九二五)年に手がけた東京大学安田講堂の壁画はフランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させて日本的な志向も示しているとされる。歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作もある(以上の事蹟などはウィキの「小杉放庵」に拠る)。龍之介とは家が近くでもあり、また龍之介のパトロン的存在で、龍之介の加わっていた、田端の文芸サロンの中心的人物実業家鹿島龍蔵が作った道閑会のメンバーでもあったから、親しく交際していた。

 さて、この経歴から見た時、本詩が芥川龍之介の作品ではなく、小杉のものである可能性がここに浮上してくるとは言えるのである。即ち、龍之介が手帳に備忘として小杉未醒の詩をメモした可能性である。

 更に、芥川龍之介には大正一〇(一九二一)年三月の「小杉未醒氏」(『中央芸術』発表、発表時は大見出しが「小杉未醒論」で題は「外貌と肚の底」)があるが、そこにもそのような疑惑を起こさせる箇所があるのである。以下に全文を示す。

 

   小杉未醒氏

 一昨年の冬、香取秀眞氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其處に居合せた天岡均一氏が、初對面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の畫は君に比べると、如何にも優しすぎるぢやないか」と、いきなり一拶を與へた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれてゐるなと云ふ氣がした。

 成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶樂部らしい、勇壯な面目を具えてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも、寧ろ未醒蠻民と號しさうな邊方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云ふ程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も變るかも知れない。が、差當り僕の見た小杉未醒氏は、氣の弱い、思ひやりに富んだ、時には毛嫌ひも強さうな、我々と存外緣の近い感情家肌の人物である。

 だから僕に云はせると、氏の人物と氏の畫とは、天岡の翁の考えへるやうに、ちぐはぐな所がある譯ではない。氏の畫はやはり竹のやうに、本來の氏の面目から、まつすぐに育って來たものである。

 小杉氏の畫は洋畫も南畫も、同じように物柔かである。が、決して輕快ではない。何時も妙に寂しさうな、薄ら寒い影が纏はつてゐる。僕は其處に僕等同樣、近代の風に神經を吹かれた小杉氏の姿を見るやうな氣がする。氣取つた形容を用ひれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は氣樂さうに、林處士の詩なぞは謠つていない。しみじみと獨り爐に向つて、Rêvons……le feu s'allume とか何とか考へてゐさうに見えるのである。

 序ながら書き加へるが、小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。

 

・「香取秀眞」(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は著名な鋳金工芸師。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。

・「天岡均一」(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒で高村光雲らに学んだ。

・「天狗倶樂部」は文士を中心としたスポーツ社交クラブ。黎明期のアマチュアスポーツ、特に野球と相撲の振興に努め、後に野球殿堂入りする人物を五人輩出している他、日本初の学生相撲大会を開催するなどしていた。中心人物は家の押川春浪(以上はウィキの「天狗倶楽部」に拠った)。

・「突兀」「とつこつ(とっこつ)」と読む。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。

・「邊方瘴煙」「へんぱうしやうえん」と読む。辺りに立ち込めた瘴気(毒のある悪しき気)を含んだ煙。

・「梅花書屋の窓」窓辺に梅の花の咲く書斎という景。

・「唐人」画中の配された画家の分身たる中国人。

・「林處士」林逋(九六七~一〇二八)。林和靖。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第四代皇帝仁宗(一〇一〇~一〇六三:彼との縁は父第三代皇帝真宗の時から。)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと』二十年におよんだとし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた』。『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩「山園小梅」が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。こちらに三野豊氏の美事な当該詩の訳がある。

・「Rêvons……le feu s'allume」フランス象徴派の詩人アルベール・サマン(Albert Samain一八五八年~一九〇〇年)の詩“Octobre est doux”(十月は穏やかだ……)の一節。「夢見よう……灯がともっている」といった意味か。以下に原詩を示しおく(こちらの仏語サイトより。私の力では訳せないので悪しからず)。

 

Octobre est doux...

 

Octobre est doux. - L'hiver pèlerin s'achemine

Au ciel où la dernière hirondelle s'étonne.

Rêvons... le feu s'allume et la bise chantonne.

Rêvons... le feu s'endort sous sa cendre d'hermine.

 

L'abat-jour transparent de rose s'illumine.

La vitre est noire sous l'averse monotone.

Oh ! le doux "remember" en la chambre d'automne,

Où des trumeaux défunts l'âme se dissémine.

 

La ville est loin. Plus rien qu'un bruit sourd de voitures

Qui meurt, mélancolique, aux plis lourds des tentures...

Formons des rêves fins sur des miniatures.

 

Vers de mauves lointains d'une douceur fanée

Mon âme s'est perdue ; et l'Heure enrubannée

Sonne cent ans à la pendule surannée...

 

以上の疑惑は最後に解明したい。

「也」は発語の辞。「亦」よりも軽く、多く詩や俗語で用いる。

「催酒情」銷憂物たる酒をあおりたくなる。邱氏は、過去形で採り、『秋風に向かい、酒で憂さを紛らしたこともある』と訳しておられる。

 

 最後に私の疑惑についての見解を述べたい。ここで着目したいのは、「小杉未醒氏」の最後にある「小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。」という部分である。ここから小杉は漢詩の自作をしたこと、龍之介はそれを実見していること、但し、それらが十五首ほどの「五言絶句ばかり」であったことが分かる。

 さて、翻って見ると本詩の起句は「未醒」という雅号を持った本人の詩と読むのがまず自然である。しかし、この詩は七絶であるから、龍之介の、この謂いとは齟齬を生じることになる。

 これが未醒の詩でないとすれば――残るのは龍之介が小杉未醒に仮託して詩を創った――という仮定は可能である。……しかし果たして、その場合、若年の龍之介が起筆から「不負十年未醒名」とやらかすかどうか、という疑問は依然として残る。

 ただ、

――「未醒」という号の如く、十年一日、うつらうつらと夢幻の中を生きてきた「唐人」と思しい人物が、「秋風」に吹かれながら「酒」に憂いを散ずる景色や、酒を含んで筆を執りつつ、のんびりと半日かけて、風の中の、淋しい、竹の立てる声(ね)を描き出した――

というのは、未醒自身の自讃ととるより、龍之介の仮託による讃とする方が遙かに――詩的には――自然である、と私は思うのである。

 更に付け加えると、芥川龍之介の「手帳」群には、無論、古人の俳句や措辞の断片がメモされていることは、俳句全集を編集した際に、事実としてあることは私がよく知っている。しかし、この漢詩の載る「手帳(五)」には、これらの漢詩三首の後には直に続いて多量の龍之介の俳句草稿及び三首の自作短歌が載っており、この漢詩だけが(若しくは漢詩三首だけが)小杉未醒の詩のメモであるとうるには、如何にも不自然なのである。また、調べた訳ではないがこれらが小杉の詩であるという事実も現在のところは、ないようである。

 邱氏は、この詩について、

   《引用開始》

前半の二句「不負十年未醒名 也対秋風催酒情」は、二十六番詩として紹介された一九二〇年九月十六日小島政二郎宛書簡中の漢詩の前半部に類似している。後半の二句「拈筆含杯閑半日 写成荒竹数竿声」は、二十七番詩として紹介された一九二〇年十二月六日小穴隆一宛書簡中の漢詩の後半部に類似している。しかし、前出二作に比べ、読者に訴える力は弱い。

   《引用終了》

と、その「評価」の項に記しておられる。私は、これを全面的に支持すものである。それは――本詩が芥川龍之介自身の詩であり、且つ、彼が愛した画狂人小杉未醒への、既成の自信作を剽窃した(だから『前出二作に比べ、読者に訴える力は弱』くなってしまった、所詮、贈答詩にほかならない、という確信を持っているからである。従って以下の二つの詩についても私は芥川龍之介の詩と断じて疑わず、疑義論は論じない。]

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