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2012/12/29

一言芳談 四十六

   四十六

 

 敬佛房云、非人法師の身に學問無用といふことも分齊(ぶんざい)あるべき事也。器量あらむものは、如形(かたのごとく)往生要集の文字よみ風情の事をもて、生死無常のくはしきありさま、念佛往生のたのもしき樣など、時々はくり見るべき也。されば、僧都御房も念佛者の十樂おぼえざらんは、無下の事也など仰せられたる也。又學問すべしといへばとて、一部始終を心得わたし、文々句々分明(ぶんみやう)に、存知(ぞんじしら)せむなどいふ心ざしは、ゆめゆめあるべからず。たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體(てい)なり、大要(たいえう)貴(たつと)き所くりみるほどの事なり。此(この)故實を得つれば、相違なし。教(をしえ)の本意(ほんい)後世にすゝむ、大なる要(かなめ)となる也。又これ程の事なりとも、我執名聞(がしうみやうもん)もまさる樣におぼえば、一向に可停止之(これをちやうじすべし)。藥を毒となす事、返々(かへすがへす)をろかなる事也。一文一句なれども、心得によりて念佛もまめにおぼえ、後世の心もすゝみ、いそぐ樣なる心ばへいでくる體におぼえば、たうとき文どもをも、時々ははみるべき也。但(ただし)、天性(てんせい)器量おろかならんものは、これはどの學問もなくとも、一向稱念すべき也。行(ぎやう)を眞心(まごゝろ)にはげまば、教(おしへ)の本意(ほんい)にたがふべからず。信心道心(しんじんだうしん)も、行(ぎやう)ずればおのづからおこる事なり。

 

〇非人法師、和俗に、遁世の僧を非人といふなり。金剛寶戒(こんごうほうかい)章にもあり。

〇形の如く、おほかたにならふ事なり。

〇十樂、聖衆來迎(しやうじゆらいがう)、蓮華初開(れんげしよかい)、身相神通(しんさうじんづう)、五妙境界、(ごめうきやうがい)、快樂無退(けらくむたい)、引接結緣(いんぜふけちえん)、聖衆倶合(しやうじゆぐゑ)、見佛聞法(けんぶつもんぽふ)、隨心僕佛(ずゐしんぐぶつ)、増進佛道(ぞうしんぶつだう)。

〇我執、われありがほにおもふ心なり。

〇停止、やめやむるなり。

〇たふとき文、往生極樂をすゝむる經釋の事なり。

〇天性、うまれつきの事なり。

〇まごゝろ、まことの心なり、眞心。

〇行ずればおのづから、信心道心をこしらへて後に念佛せんと思ふは未練のゆゑなり。たゞまづ行ずべきなり。稱名こゑすみぬれば、いかにも信心うごかずといふ事なし。されば覺鑁(かくばん)上人も信は聲をいだすにおこるとのたまへり。

 

[やぶちゃん注:本条はその結論から言えば、学識の無効性を述べていると言って差し支えない。冒頭、才能や理解力のある人間はと限定して、その才覚を以って「往生要集」の素読をせよ、と言っているように思えるが、私はこれは大橋氏が訳されるような「素読ぐらいは」の謂いではないと考える。実際、次に敬仏房は「たゞ文字よみなどしたるに、やすらかに心得らるゝ體なり、大要貴き所くりみるほどの事なり。」(大橋氏訳『ただ、素読などしたときに、容易に理解できるぐらいのことでよく、大事なところ、貴いところは本をひらいて見るぐらいでよいのです。』)と述べており、これは実はアカデミックに解釈したり、湛澄や大橋氏や私が注を附したりするようなことは、敬仏房は否定しているのである。即ち、「素読」こそが「肝要」なのである。言わずもがな乍ら、往々にして知識欲の増大は奢りへと容易に変化する。だからこそ、やはり敬仏房は「又これ程の事なりとも、我執名聞もまさる樣におぼえば、一向に可停止之」と述べ、「藥」(学識)がかえって「毒」(往生の障り)となるようなことは致命的に「返々をろかなる事也」とまで言うのである。そもそも智に奢る者こそが、無辺の大慈悲心という仏法の真意から見れば、実は「天性器量おろかならんもの」であるのだから、即ち、我々「天性器量おろかならんもの」たる衆生は須らく「一向稱念」、只管、念仏を唱えるがよい、そのように「行を眞心にはげまば、教の本意にたがふべからず。信心道心も、行ずればおのづからおこる事なり」と述べている、最終章こそが敬仏房の真意であると読むべきである。

「分齊」Ⅰは「分際」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「文字よみ」素読して。

「生死無常のくはしきありさま」Ⅰは「生死無常のいとふべきことわり」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「僧都御房」Ⅰは「明遍僧都御房」とある。Ⅱ・Ⅲに拠った。

「十樂」念仏行者の十種の楽しみを言う法数。標註にあるが、それぞれを解説すると、「聖衆來迎」楽(仏様が迎えに来る楽しみ)、「蓮華初開」楽(己自身の仏性花である蓮華が花開く楽しみ)、「身相神通」楽(己自身に神通力が具わる楽しみ)、五妙境界、(眼耳鼻舌身の五感が清浄になる楽しみ)、「快樂無退」楽(以上の様態の変化によって極まりのない快楽を受ける楽しみ)、「引接結緣」楽(自由自在に人を救えるようになる楽しみ)、「聖衆倶合」楽(至善の仏と出逢う楽しみ)、見佛聞法(仏を正しく見、その正法を聞く楽しみ)、隨心僕佛(思うままに素直な供養が出来る楽しみ)、増進佛道(さらに仏法の世界が深まり広がってゆく楽しみ)。

「此故實を得つれば、相違なし。大なる要となる也。」Ⅰは「此故實を得つれば、教(けう)の本意(ほんい)に相違せずして、後世にすゝむ大要(だいえう)となるなり。」とある。意解に過ぎ、「大要」などの言辞も生硬で採らない。Ⅱ・Ⅲに拠った。この場合の「故実」とは、そうした(素読による直観的理解や要綱要所の披見という)習慣の謂いである。

「金剛寶戒章」法然の奥義書とされるが、偽書説も強い。

「覺鑁上人」(嘉保二(一〇九五)年~康治二(一一四四)年)は真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。諡は興教(こうぎょう)大師。平安時代後期の朝野に勃興していた念仏思潮を真言教学においていかに捉えるかを理論化、西方浄土教主阿弥陀如来とは真言教主大日如来という普門総徳の尊から派生した別徳の尊であると規定した。真言宗の教典中でも有名な「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)」、空思想を表した「月輪観(がちりんかん)」の編者としても知られ、本邦で五輪塔が普及する契機となった「五輪九字明秘密釈」の著者でもある(以上は、ウィキの「覺鑁」に拠った)。]

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