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2012/12/26

芥川龍之介漢詩全集 三十二

   三十二

 

買酒窮途哭

誰吟歸去來

故園今泯泯

廢巷暗蛩催

 

〇やぶちゃん訓読

 

 酒を買ひ 窮途(きゆうと)に哭す

 誰(たれ)か吟ぜん 歸去來(かへりなんいざ)

 故園 今 泯泯(びんびん)たり

 廢巷(はいかう) 暗蛩(あんきよう) 催(もよほ)す

 

[やぶちゃん注:龍之介満三十一歳。恐らくは関東大震災直後の嘱目絶唱である。

本詩は、大正一二(一九二三)年(年次推定)九月二十一日附高橋竹迷宛絵葉書(岩波版旧全集書簡番号一一四一)

に所収する。但し、本絵葉書は、

未投函

のものである。従ってこれは死後の全集の「書簡」で初めて日の目を見たものである(旧全集後記には本書簡に関する注記は一切ない)。以下にその書簡(絵葉書の絵は不明)を示す。

 

   買酒窮途哭誰吟歸去來故園今泯泯廢巷暗蛩催

乞玉斧

 

                   芥川龍之介

ワタシノウチハブジデスガ親戚皆燒カレマシタ

 

高橋竹迷(明治一六(一八八三)年~昭和二六(一九五一)年)は曹洞僧で文人。山梨県北巨摩郡秋田村(現在の北杜市長坂町大八田)の清光寺住持。本名矢島定坦、幼名喜一。岐阜生。美濃市の永昌院高橋慧定の養子となり、得度して定坦を名乗る。盤えんは書画に親しみ、多くの文人と親交があった。芥川と知り合ったのは、この前月の大正一二年八月二日に北巨摩郡教育委員会が主催した夏期大学講座の講師として招かれた(五日まで滞在し、毎日二時間の文学論を講義)際で、短い期間であったが、龍之介とは肝胆相照らす仲となった。到着したその日八月二日附の小穴隆一宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三四)には、『この山中の淸光寺にあり日々文學論なるものを講じ居り候淸光寺の方丈さんは高橋竹迷氏と申し曹洞宗中の文人なり 方丈さん畫を書き僕句を題す この間多少魔風流ありと思召され度候』とあり、また三日後の五日の、知り合いで南画家の岸浪靜山に宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三六)では竹迷と寄せ書きまで成し、『夏期大學の先生に來たところ思ひかけず庵主は竹迷上人なり、爲に教育會のお客だか竹迷上人のお客だかわからぬやうに相成候』ともあって、龍之介が竹迷の名僧文人としての評判(もしかするとおの岸浪を介してかも知れない)逢う前から既に聴いていたことが窺われる(以上は主に新全集人名解説索引及び鷺年譜に拠った)。

 邱氏は本詩についてかなりの分量の記載をなさっており、本詩を龍之介の漢詩中でも、エポック・メーキングな眼目の詩と捉えておられるのがよく分かる。従って、ここでは例外的に邱氏の評を多く引用、提示したい。

 邱氏は、当該詩の「解説」で、『この詩はやはり中国旅行後の心情と深く関連するものと思われる。他の漢詩と違い、行分けせずに一行になっている異例な詩形にしてあるのは、自身の真の気持ちを隠したかったからか。「未投函」であることもその点を暗示している』とされ、『自身の真の気持ちが素直に表れたこの漢詩』を『告白を恥じる芥川は中国文化について深い造詣を持つ「曹洞宗中の文人」高橋に送る勇気を持たなかったのである』と記されておられる。これは非常に優れた洞察と私は読んだ。

「窮途哭」邱氏は『恵まれない酷い境遇にあることを指す』とされ、南北朝の宋の劉義慶の編になる小説集「世説新語」の、竹林の七賢の指導的人物であった阮籍(二一〇年~二六三年)の故事を部分的に引用されておられるが、ここで私は当該項である「棲逸第十八」の冒頭の、私の大好きな阮步(阮籍)の逸話に附された冒頭註である「魏志春秋」からの引用を以下に全文提示することとする(原文は明治書院の「新釈漢文大系 七十八 世説新語 下」を用いたが、訓読は私の勝手なものである)。

 

魏志春秋曰、阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反。嘗遊蘇門山、有隱者莫知姓名、有竹實數斛杵臼而已。籍聞而從之、談太古無爲之道、論五帝三王之義、蘇門先生翛然曾不眄之。籍乃嘐然長嘯、韻響寥亮。蘇門先生乃逌爾而笑。籍既降、先生喟然高嘯、有如鳳音。籍素知音、乃假蘇門先生之論、以寄所懷。其歌曰、日沒不周西、月出丹淵中、陽精晦不見、陰光代爲雄、亭亭在須臾、厭厭將復隆、富貴俛仰閒、貧賤何必終。

〇やぶちゃんの書き下し文

魏志春秋に曰く、「阮籍、常に意に率して獨り駕し、徑路に由らず、車跡、窮むる所、輒(すなは)ち慟哭して反(かへ)る。嘗て蘇門山に遊ぶに、姓名の知る莫き隱者有り、竹の實數斛と杵と臼と有るのみ。籍、聞きて之に從ひ、太古無爲の道を談じ、五帝三王の義を論じるも、蘇門先生、翛然(いうぜん)として曾て之を眄(かへりみ)ず。籍、乃ち嘐然(こうぜん)として長嘯、韻響、寥亮(れうりやう)たり。蘇門先生、乃ち逌爾(いうじ)して笑ふ。籍、既に降り、先生、喟然(きぜん)として高嘯、鳳の音(ね)のごとく有り。籍、素より知音(ちいん)なれば、乃ち蘇門先生の論を假りて、以て所懷を寄す。其の歌に曰く、

 日は沒す 不周の西

 月は出づ 丹淵の中(うち)

 陽精 晦く 見えざれば

 陰光 代りて 雄と爲す

 亭亭として在るは須臾(しゆゆ)

 厭厭として將に復隆せんとす

 富貴 俯仰(ふぎやう)の閒

 貧賤 何ぞ必ずしも終はらんや

と。

以下、底本の語注や訳を参考に語注を附しておく。

・「阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反」龍之介がこの「窮途哭」の典拠とした部分である。私なりに訳すなら、

阮籍は、常に気が向く儘に馬車を走らせて――その時には既にある道に依らず、未だ誰も(たれ)一人通ったことのない道を切り開いては行き――遂に馬車の行かれぬ場所に行き当たってしまうと、大声を挙げて泣きながら帰った。

である。真理を求めた佯狂の隠逸人阮籍の面目躍如たるポーズではないか。

・「蘇門山」河南省輝県西北にある山。

・「五帝三王」神話伝説時代の帝王。三皇五帝。異説が多いが、例えば伏羲・神農・黄帝を三帝、五帝は嚳(こく)・堯・舜・禹・湯などとする。

・「翛然」ものに捉われないさま。

・「寥亮」高らかに。

・「逌爾」表情を和らげて笑うさま。

・「知音」ここは文字通り、音・音楽を解する能力を持っているの謂い。阮籍が鳳凰の鳴き声のような仙人の長嘯に込められた神韻を瞬時に悟ったことをいうのであろう。

・「不周」不周山。崑崙山の西北にあるとされた伝説の山。

・「丹淵」阮籍の「詠懐詩」の「其二十三」にも出る。月の出る伝説上の淵か。明治書院版注には「山海経」の「大荒南経」に載る『甘淵の誤りか。甘淵は日輪の御者である羲和の女(むすめ)が浴する所』とある。

・「陽精」太陽。

・「陰光」月。

・「亭亭」高いさま。

・「須臾」ほんの一時。

・「厭厭」幽かで昏いさま。

・「將に復隆せんとす」(陽光が射しても直に)また昏い闇がまた降りて来て深くなる、という、夜の更けることの繰り返しの方で示したものか。私は訓読を誤っているかも知れない。

・「俯仰閒」うつむくことと仰ぎ見る間、見回している間であるが、ここは、一瞬の間の意。

・「何ぞ必ずしも終はらんや」(富貴もあっという間に凋落するように)貧賤と言ったって、そのままに終わるとは限らぬ、の謂い。

・「誰吟歸去來」「歸去來」は無論、陶淵明の「歸去來の辞」を指す。ここで、芥川龍之介は、深い愁いに、酒に酔うている――しかも愁いは、その酔いによって銷(け)されぬばかりか――より増幅され自覚され――遂に彼は「道」に「窮」し、慟「哭」している。その慟哭の底から――龍之介の――声が聴こえて来るのである……震災の累々たる死骸の山……荒蕪と化した帝都東京……(しかしそれは龍之介が震災以前から抱いてきた何もかも壊れてしまうがよいという現実世界への強烈な呪詛の体現だったのではなかったか? ひいては彼の自死へと繋がる近代軍事国家と変貌しつつあった日本という現存在への深い絶望感へと直結するものではなかったか? と私[やぶちゃん]は直感しているのだが。この私の感懐は勝手なものであろうか? 最後に示させて戴いた邱氏の評言をお読みあれ)……「今の世に一体、誰があの「歸去來の辞」を吟ずるであろうか!?」……『最早、今となっては誰一人として「歸去來の辞」を吟ずることは、もう、ない――ああっ! 「田園將蕪」(田園將に蕪(あ)れんとす)――いや――田園――故郷――この世界は既に消え去ってしまおうとしているではないか!』……という龍之介の声である。

 ここで私は叫びたくなる。……

 芥川龍之介にとって、かの関東大震災は、我々にとっての三・一一のカタストロフと同じなのだ! 事実、帰るべき故郷を消失した福島第一原発の周辺の民を見るがよい! 故郷は見えない悪魔によって永遠に容易に消失するではないかッ!――しかし、間違ってはいけない!――決して震災は物理的な「喪失」の原因なのではない! この震災後の「喪失感」自体が、ずっとそれ以前からの、そして、それずっとそれ以後の、現代人の宿命的「喪失感」そのものの、一つの象徴であると私は言いたいのだ!……

 再度、断言する。

 関東大震災は、芥川龍之介にとって、魂や精神としての「日本という原風景としての故郷」の、永遠の喪失の一つのシンボルであったのである。

「泯泯」滅びること、消え去ること。

「暗蛩催」「蛩」はコオロギであるから、闇の瓦礫山の間から聴こえて来る蟋蟀の音(ね)だけが、「催」、せきたてるように高く、真っ黒な画面に鳴り響いて、本詩は終わるのである。

 

 邱氏はその「評価」で、『多くの典故を用い、故郷に帰る望みのない悲しさを如実に反映した作品である。中国旅行後の心情の変化が表われ、芥川文学の神話構築と崩壊の実体が示唆される作品であろう』とまで述べられ、次に、後に既に自死を決しつつあった芥川龍之介が書いた「病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」(『文藝春秋』大正一五(一九二六)年二月。後に『侏儒の言葉』に所収。リンク先は私の電子テクスト)の中の「二」、

僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動寫眞を見る如く、黄色き光の斷片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に會ひて「死相がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顏をしてをりしなるべし。

の前半部を引用されて、起句の「買酒窮途哭」の評言は『この記述を思わせる』と述べておられる。一般的には龍之介の神経衰弱の原因の一つは、大正十(一九二一)年三月末から七月中旬迄の四ヶ月に亙る大阪毎日新聞社海外特派員としての中国旅行後の、過剰にして無理な創作活動に原因したとも言われている。邱氏は続けて言う。

   《引用開始》

……芥川にとって、阮籍、陶淵明らに代表される中国古典の世界がいかに重要であったかが想像されよう。人間の強欲により、中国と日本のとの間に悲惨な戦争が起り、芥川も永遠に自己の精紳の故郷を喪失した。「窮途」で慟哭した芥川はついに自殺を決するに至るのである。二十一世紀に入った今日でも、この詩を読むと芥川の純粋で一途な魂の同国がいまだに荒野に響いているように思われてならない。

   《引用終了》

 なお、震災からその直後の芥川龍之介の感懐については青空文庫所収の芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際してを参照されたい。但し、これは筑摩書房全集類聚版によるもので、恐らくは作品集「百艸」に載った震災関連作品を一つにし、上記のような題名を誰か(芥川龍之介ではない)が勝手に作成したものと考えられ(但し、閑連作品を総覧出来る便宜は頗るよい)、岩波版旧全集及び宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)にはこのような題名は所載していないことを付記しておく。]

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