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2012/12/03

北條九代記 範賴勘氣を蒙る 付 家人當麻太郎


      ○範賴勘氣を蒙る 
家人當麻太郎

參河守範賴は賴朝卿の御舍弟として蒲御曹司(かばのおんざうし)と申しけるが、平家追討の時は大手の大將として、武威を輝かし給ひしに、源氏一統の世となり、四海靜謐に歸せしかば、狡兎(かうと)盡(つ)きて、良犬煮られ、橫流乾きて、防堤(ぼうてい)壞(こぼ)たるゝとかや、賴朝卿の御氣色何時しか疎く見ゆるに付きて、荊棘の蒼蠅(さうやう)營々として左右の遮り、範賴叛逆(ほんぎやく)企(くはだて)ある由讒(さかしら)申す者あり。賴朝卿大に怒り給ひ「其義に於ては人數を遣し、打ちほすべし」とありければ、範賴大に驚き給ひて、一紙(し)の起請文を書いて因幡前司廣元に付きて、進覽せしめらるる所に、賴朝卿更に御(ご)許容なし。殊に咎め仰せられけるは、「源範賴と書きけるは、當家一族の義を存するか。頗る過分なり。是先(まづ)起請の失(しつ)なり」とて範賴の使者大夫屬(さくわん)重能を御前に召出し、此旨を仰含(おほせふく)めらる。重能陳(ちん)じて申しけるは、「三河守殿は故左馬頭殿の賢息なり。御舍弟の義を存ぜらるゝ條、勿論の事にて候。去ぬる元曆元年の秋、平家討伐の御使として上洛せらるゝの時には、舍弟範賴を西海追討使に遣すの由御書に乘せて奏聞の間其趣を官符に載らるゝ所なり。全く自由の義にて候はず」と申しければ、賴朝重(かさね)て仰(おほせ)の旨もなし。重能歸りて、範賴に語る。「定(さだめ)て是は讒人(ざんにん)の所爲なるべし。口惜き事かな」と齒を切齒(くひしば)りて憤り給ふ。この折節範賴の家人當麻(たいまの)太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て息を潜めて臥居(ふしゐ)たり。夜更(ふけ)て賴朝卿御寢所に入り給ひて人氣(ひとげ)ある事を知り給ひ、潛(ひそか)に近習(きんじう)の侍結城七郎朝光、宇佐美三郎祐茂(すけもち)、梶原源太景季を召して搜させらるゝに、當麻太郎を捕へたり。搦取(からめとり)て推問せられしに、當麻申けるは、「三河守殿御不審を蒙り、起請文を遣されし所に、重て仰の旨なくして、是非に迷ひ候。されば内證御氣色(ないしようごきしよく)の事を承り安否を思ひ定むべきの由愁歎せられ候。若(もし)自然(しぜん)の次(ついで)を以てこの事を仰出さるゝやと、その形勢(ありさま)を伺ひまゐらせん爲に、參向(さんかう)仕たる計(ばかり)にて全く陰謀の企(くはだて)にはあらず候」とぞ申しける。使をもつて三河守殿に尋ね仰せらるゝに、「少(すこし)も存知仕らず」と有しかば、當麻が陣謝その故あるに似たれども、所行既に常篇に超(こえ)たり。日比の疑(うたがひ)愈(いよいよ)符合す。彼の當麻太郎は三河守殊に祕藏の勇士にて、弓劒(きうけん)の藝その名を得たる者なり。心中旁(かたがた)御不審あり、寛宥(くわんいう)の汰沙に及ばず。同意結構の黨類あるべしとて、數箇(すか)の糺問(きうもん)ありといへども、當麻更に一言(ごん)の義なし。範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂(かののすけむねもち)、宇佐美(うさみの)三郎祐茂(すけもち)に預けられ、偏(ひとへ)に流人の如くなり。當麻は薩摩國に流遣(ながしつかは)すべきに定められしを姫君の御不例(ごふれい)に依(よつ)て赦放(ゆるしはな)たれけるとかや。


[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十三の建久四年(一一九三)年八月二日の条。頼朝がいちゃもんをつける起請文が載る(範頼の起請文は原文では全体が一字下げ)。

〇原文

二日丙申。參河守範賴書起請文。被献將軍。是企叛逆之由。依聞食及。御尋之故也。其狀云。

 敬立申

   起請文事

右。爲御代官。度々向戰塲畢。平朝敵盡愚忠以降全無貳。雖爲御子孫將來。又以可存貞節者也。且又無御疑叶御意之條。具見先々嚴札。秘而蓄箱底。而今更不誤而預此御疑。不便次第也。所詮云當時云後代。不可挿不忠。早以此趣。可誡置子孫者也。萬之一〔仁毛〕令違犯此文者。

 上梵天帝釋。下界伊勢。春日。賀茂。別氏神正八幡大菩薩等之神罰〔於〕。可蒙源範賴身也。仍謹愼以起請文如件。

   建久四年八月 日   參河守源範賴

此狀。付因幡守廣元。進覽之處。殊被咎仰曰。載源字。若存一族之儀歟。頗過分也。是先起請失也。可召仰使者云々。廣元召參州使大夫屬重能。仰含此旨。重能陳云。參州者。故左馬頭殿賢息也。被存御舍弟之儀之條勿論也。隨而去元曆元年秋之比。爲平氏征伐御使被上洛之時。以舎弟範賴遣西海追討使之由。載御文。御奏聞之間。所被載其趣於官苻也。全非自由之儀云々。其後無被仰出旨。重能退下。告事由於參州。參州周章云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日丙申。參河守範賴起請文を書き、將軍に献ぜらる。是れ、叛逆を企てるの由、聞こし食(め)し及ぶに依りて、御尋ねの故なり。其の狀に云はく、

 敬とみ立て申す

  起請文の事

右、御代官として、度々戰塲へ向ひ畢んぬ。朝敵を平らげ、愚忠を盡してより以降(このかた)、全く貳(ふたごころ)無し。御子孫の將來たりと雖も、又、以て貞節を存ずべき者なり。且つは又、御疑ひ無く御意に叶ふの條、具さに先々の嚴札に見えたり。秘して箱底に蓄ふ。而るに今更、誤たずして、此の御疑ひに預かる。不便なる次第なり。所詮、當時と云ひ後代と云ひ、不忠を插(さしはさ)むべからず。早々に此の趣を以つて、子孫に誡(いまし)め置くべき者なり。萬が一〔にも〕此の文を違犯せしめば、上は梵天帝釋、下界は伊勢・春日・賀茂、別して氏神正八幡大菩薩等の神罰〔を〕源範賴の身に蒙るべきなり。

仍つて謹愼して起請文を以て件のごとし。

  建久四年八月 日   參河守源範賴


 此の狀、因幡守廣元に付し、進覽の處、殊に咎め仰せられて曰はく、「源の字を載するは、若し一族の儀を存ずるか。頗る過分なり。是れ、先づ起請の失なり。使者に召し仰すべし。」と云々。

 廣元、參州の使、大夫屬(さくわん)重能を召し、此の旨を仰せ含めらる。重能、陳(ちん)じて云はく、「參州は、故左馬頭殿が賢息なり。御舍弟の儀を存ぜらるるの條、勿論なり。隨つて、去ぬる元曆元年秋の比、平氏征伐の御使として上洛せらるるの時、舍弟範賴を以て西海追討使に遣はすの由、御文に載せて御奏聞の間、其の趣きを官苻に載せらるる所なり。全き自由の儀に非ず。」と云々。

其の後、仰せ出ださるる旨、無し。重能、退下し、事の由を參州に告ぐ。參州、周章すと云々。


・「先々の嚴札に見えたり」「嚴札」は、厳かな手紙、大事な一筆の意で、相手の書状を尊敬して言う語。(そうした私の思いや仕儀が御意に叶っているとの頼朝様御自身の御判断は)前々に頂戴した書状に、はっきりと表れておりまする、という意味である。

「この折節範賴の家人當麻太郎と云ふ者殿中の御寢所の下に忍び入て……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十日の条を見る。

〇原文

十日甲辰。寅剋。鎌倉中騷動。壯士等着甲冑馳參幕府。然而無程令靜謐畢。是參州家人當麻太郎臥御寢所之下。將軍未令寢給。知食其氣。潛召結城七郎朝光。宇佐美三郎祐茂。梶原源太左衞門尉景季等。尋出當麻。依被召禁也。曙後被推問之處。申云。參州被進起請文之後。一切無重仰旨。迷是非畢。存知内々御氣色。可思定安否之由。頻依被愁歎。若以自然之次。被仰出此事否。爲伺形勢所參候也。全非陰謀之企云々。則被尋仰參州。被申不覺悟之由。當麻陳謝雖盡詞。所行企絕常篇之間。苻合日來御疑胎。其上當麻者。參州殊被相憑之勇士。弓劔武藝已得其名之者也。心中旁有不審之由。被經沙汰。無寬宥之儀。剩有同意結搆之類否。雖及數ケ糺問。當麻屈氣。更不發一言云々。


〇やぶちゃんの書き下し文

 十日甲辰。寅の剋、鎌倉中、騷動す。壯士等甲冑を着け、幕府へ馳せ參ず。然しれども、程無く靜謐せしめ畢んぬ。是れ、參州が家人當麻太郎、御寢所の下に臥す。將軍、未だ寢ねしめ給はず、其の氣を知ろし食(め)し、潛かに結城七郎朝光・宇佐美三郎祐茂・梶原源太左衛門尉景季等を召す。當麻を尋ね出し、召し禁(いまし)めらるに依りてまなり。曙(あ)くる後、推問せらるの處、申して云はく、
「參州、起請文を進めらるの後、一切重ねて仰せの旨無く、是非を迷ひ畢んぬ。内々に御氣色を存知し、安否を思い定むべきの由、頻りに愁歎せらるるに依りて、若し自然の次でを以て、此の事を仰せ出ださるるや否や、形勢を伺はんが爲、參候する所なり。全く陰謀の企てに非ず。」
と云々。

 則ち、參州に尋ね仰せらるるに、覺悟せざるの由を申さる。當麻が陳謝、詞を盡すと雖も、所行の企て常篇(じやうへん)に絕えたるの間、日來(ひごろ)の御疑胎(ごぎたい)に苻合(ふがふ)す。其の上、當麻は、參州、殊に相ひ憑(たの)まるるの勇士、弓劔の武藝、已に其の名を得るの者なり。心中旁々(かたがた)不審有るの由、沙汰を經られ、寬宥(くわんいう)の儀、無し。剩へ、同意結搆の類、有るや否や、數ケの糺問(きうもん)に及ぶと雖も、當麻、氣を屈して、更に一言も發せずと云々。


・「當麻太郎」魅力的な人物であるが、不詳である。管見した限りでは、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『當麻太郎は、静岡県浜松市の蒲神明宮の隣に当麻町があったらしい。蒲神明宮は、熱田神宮の末社であり、熱田の宮司が頼朝の祖父に当たる藤原季範で、蒲神明宮の宮司に季成がおり(季の文字は通字か?)、その子が当麻五郎貞稔。その妻が源參河守範頼の乳母夫だと系図算用にあるので、当麻太郎の父らしい』という記載が唯一の詳細である。

・「常篇に絶えたる」尋常でない。

「範賴は伊豆國に於て狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂に預けられ……」「吾妻鏡」巻十三の建久四年八月十七日の条に拠る。

〇原文

十七日辛亥。參河守範賴朝臣被下向伊豆國。狩野介宗茂。宇佐美三郎祐茂等所預守護也。歸參不可有其期。偏如配流。當麻太郎被遣薩摩國。忽可被誅之處。折節依姫君御不例。被緩其刑云々。是陰謀之搆達上聞畢。雖被進起請文。當麻所行依難被宥之。及此儀云々。

 

 〇やぶちゃんの書き下し文

 十七日辛亥。參河守範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる。狩野介宗茂、宇佐美三郎祐茂等、預り守護する所なり。歸參其の期(ご)有るべからず。偏へに配流のごとし。當麻太郎は薩摩國へ遣はさる。忽ち誅せらるべきの處、折節、姫君の御不例に依りて、其の刑を緩めらると云々。

 是、陰謀の搆へ、上聞に達し畢んぬ。起請文を進めらると雖も、當麻が所行、之を宥(なだ)められ難きに依りて、此の儀に及ぶと云々。


・「範賴朝臣、伊豆國へ下向せらる」「吾妻鏡」ではその後の範頼について記されないが、「保暦間記」などによれば、誅殺されたとする。但し、参照したウィキ範頼」によれば、『範頼の死去には異説があり、範頼は修禅寺では死なず、越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や武蔵国横見郡吉見(現埼玉県比企郡吉見町)の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる』。また、『このほかに武蔵国足立郡石戸宿(現埼玉県北本市石戸宿)には範頼は殺されずに石戸に逃れたという伝説がある』と記す。

・「姫君の御不例」「姫君」は大姫(当時、満十五歳)。この「吾妻鏡」の五日前の十二日の条に「姫君有御不例之氣」(姫君、御不例の氣の有り)とある。……それにしても、寝所に忍び入った当麻太郎の処置は、主君範頼の処罰に比して余りにも寛大な印象を受ける。私は頼朝が、この当麻の忠勤の心根に、どこか感心したのではなかろうかと読みたくなるのである。]

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