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2012/12/24

芥川龍之介漢詩全集 三十

   三十 甲

 

銅駝名惟在

春風吹棘榛

陌頭何所見

三五踏靑人

 

〇やぶちゃん訓読

 

 銅駝(どうだ) 名 惟だ在り

 春風 棘榛(きよくはん)を吹く

 陌頭(はくたう) 何の見る所ぞ

 三五 踏靑(たうせい)の人

 

 

     三十 乙

 

  銅駝名惟在

  春風吹棘榛

  陌頭何所見

  三五射鴉人

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   銅駝 名 惟だ在り

   春風 棘榛を吹く

   陌頭 何の見る所ぞ

   三五 射鴉(しやあ)の人

 

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。

本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「三十九」と連続して書き込まれているものである。「底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。

ここで「乙」としたものについて述べておきたい。実は邱氏は「甲」しか挙げておられない。では私の「乙」は何かというと、実は「手帳(五)」のこの詩の次の行には二字下げのポイント落ちの「射鴉」の字があり、次行からは俳句群が始まっているのである。そこを再現してみると(ポイントは同じにした)、

 

〇銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見

 三五踏靑人
   射鴉

〇更鉢の赤畫も古し今年竹

 金網の中に鷺ゐる寒さかな

 白鷺は後姿も寒さかな

 茶のけむりなびきゆくへや東山

 霧雨や鬼灯殘る草の中

 冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき[やぶちゃん注:以下、略。]

 

となる。邱氏はこの「射鴉」を後の俳句の前書と採られたのであろうと思われる。これは批判めいた謂いではない。何を隠そう、実は私も「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部分でそのように処理しているのである。しかし、今回、これを素直に眺めてみると、どうも前書としては「射鴉」は如何にも前書らしからぬ気がしてきた。句の皿の赤絵には鴉を射る絵が描かれていたということになるのであろうが、こんな前書による句のイメージの拡大は甚だ邪道で、龍之介らしからぬ。また、わざわざここでそれを前書とするなら、続く数句が「射鴉」の句であるべきであろう。しかし次は「鷺」である。網囲いの鷺を鴉から守るために射ている人が描かれた赤絵というのも苦し過ぎる。鷺の句は実景だ。そもそも実はこの「皿鉢の」以下続く二十七句には一箇所も前書きはない。さすれば――この

×「射鴉」は句の前書きではなく

この前の、五絶の結句、

〇「三五踏靑人」の「踏靑」の部分の推敲形

と読むのが正しいのではあるまいか?

そこで平仄を調べると「踏靑」「射鴉」は全く同じで変化は生じないから、代字としても平仄上は全く問題がない。

更に、実は筑摩書房の全集類聚版(これは私が岩波旧全集と読んでいるものの、その前の版(通称、小型版全集)を元としていると思われる)の当該部(第八巻一四九頁)を見ると、驚くべきことに(そのままの新字で示す。底本では「射鴉」はポイント落ち)、

 

〇銅駝名惟在

 春風吹棘榛

 陌頭何所見
   射鴉

 三五踏青人

〇更鉢の赤画も古し今年竹[やぶちゃん注:以下、略。]

 

となっているのである。

以上から私は、「射鴉」は特異な語であるものの、「甲」の推敲形「乙」として挙げることとした。大方の識者の御意見を乞うものである。

 

「銅駝」「晋書」の「索靖傳」に載る故事に基づく。西晋の五行学者索靖(さくせい 二三九年~三〇三年)の故事(原文は邱氏の引用されたものを正字化した。書き下しは私の勝手な読み)。

靖有先知遠量、知天下將亂、指洛陽宮門銅駝嘆曰、「會見汝在棘榛中耳」。

靖、先知遠量有り、天下の将乱を知りて、洛陽宮門の銅駝を指して嘆きて曰はく、「汝と會ひ見えんは、棘榛の中に在るのみ。」と。

この銅駝とは当時の晋都洛陽の宮城門外にあった青銅製の駱駝の対像。索靖は五行に基づく予知能力によって天下の混乱を予見、その銅駝を指さし、「あなたとは荊(いばら)の茂る廃墟の中で再会することとなろう。」と慨嘆した。後、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)の侵攻があって洛陽は半ばが灰燼に帰した。

「棘榛」荊棘。バラ・カラタチなどの棘(とげ)のある低木類の総称。

「陌頭」道のほとり。街頭。

「踏靑」中国で仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩。文字通り、青き草を踏む意で、初春の野に春をさぐる「探春」に次ぐ遊びであり、唐代以後に盛んになった。地方によっては一定の日に行う行事であったが、一般には清明節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李の咲く中で酒宴を開いて、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する(以上は平凡社「世界大百科事典」の植木久行氏の記載に基づく)。

「射鴉」見かけない熟語ではある。「踏靑」の情景には子女の彩りのある姿が垣間見えるが、「射鴉」では如何にも男子、如何にも黒い印象が強くなる。また、これはもしかすると、中国の三本脚の烏の神話との関連があるか? 以下にウィキ三足烏から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『東アジアでは三足烏の足が三本なのは、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とするが、三は奇数であり太陽と同じ陽となるからだといわれている』。『鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられていることが多』く、中国では『三足烏(さんそくう・さんぞくう 拼音: sānzúwū サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ(ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。日烏(にちう 拼音: rìwū リーウー)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比される。しばしば三本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれる。また、金色という説もあり、金烏(きんう 拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の一七一二年(正徳年)刊の「和漢三才図絵」の天の部の「日」の項にも認められる』。『太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある(中国では漢代までには黒点が発見されていた)。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。また別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある』。また別の伝承として『このような物語もある。大昔には十の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、十の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、九つの太陽に住む九羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように一つになった(「楚辞」天問王逸注など)』という伝説である。さて、これが代字であるとした場合、この謎の「射鴉」、識者の御教授を切に乞うものである。

 因みに、邱氏は以上の三首を中国旅行(実質の滞中は大正一〇(一九二一)年三月三十日から同年七月中旬)よりも前の作と推定した上で、それ以前の「十八」から「二十七」の漢詩を含め(この全十三首を邱氏は芥川龍之介漢詩の第三期と位置付けている)、『芸術の新天地を模索する中国旅行前の一九二〇年に、芥川が多大な情熱を持って漢詩製作に没頭し、多くの自信作を残した』と述べ、本詩は、その一つとして『超現実的な神話世界を構築する重要な舞台としての「中国」を見る熱い思いが伝わってくる』と結んでおられる。]

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