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2012/12/02

北條九代記 富士野の御狩 付 曾我兄弟夜討 パート2〈曾我兄弟仇討ち〉 了

その夜の子剋(ねのこく)計(ばかり)に伊東次郎祐親法師が孫曾我十郎祐成、同五郎時致(ときむね)忍入(しのびい)りて、工藤左衞門尉祐經を討ちたり。備前國吉備津宮の王藤内(わうとうない)は平家の家人瀨尾(せのをの)太郎兼保に與(くみ)して、囚人(めしうど)となり、祐經に屬して、本領を許し給はり歸國すべきを、今夜名殘の盃酒(はいしゆ)を勸め、同じ所に臥して討たれたり。祐成兄弟の敵を討ちたる由宿直(とのゐ)の輩聞付(きゝつけ)て走り出でつゝ疵を蒙る者多し。十郎祐成は仁田(につたの)四郎忠常に討(うた)れ、五郎時数は御前を指して亂入(みだれい)りしを小舍人(こどねり)五郎丸搦取(からめと)りたり。御前に引出し、直(ぢき)に子細を聞かしめ給ふ。この兄弟は伊東祐親が嫡子、河津(かはづの)三郎祐泰が子なり。去ぬる安元二年十月に伊豆國奧の狩場に祐經に射られて死す。この時祐成五歳、時致三歳なり。親の敵なれば宿意を遂げんと晝夜に狙ひしが、祐成二十三歳、時致二十(はたち)に成て、今夜本望を遂げはべり。祖父(おほぢ)伊藤祐親御勘當(ごかんだう)を蒙り、父祐泰も相果てたり。その孫なれば召出(めしいだ)さるる事もなく、この恨(うらみ)を報ぜん爲(ため)御前を指して亂入せしと申す。賴朝助けたく思召(おぼしめ)しけれども、祐經が嫡子犬坊丸(いぬぼうまる)が申すに依(よつ)て五郎は斬られにけり。六月七日賴朝卿鎌倉に歸り給ふ。

[やぶちゃん注:〈曾我兄弟の仇討〉

建久四 (一一九三) 年五月二十八日の記事から見よう。

〇原文

廿八日癸巳。小雨降。日中以後霽。子剋。故伊藤次郎祐親法師孫子。曾我十郎祐成。同五郎時致。致推參于富士野神野御旅舘。殺戮工藤左衛門尉祐經。又有備後國住人吉備津宮王藤内者。依與于平家家人瀨尾太郎兼保。爲囚人被召置之處。属祐經謝申無誤之由之間。去廿日返給本領歸國。而猶爲報祐經之志。自途中更還來。勸盃酒於祐經。合宿談話之處。同被誅也。爰祐經。王藤内等所令交會之遊女。手越少將。黄瀨川之龜鶴等叫喚。此上。祐成兄弟討父敵之由發高聲。依之諸人騷動。雖不知子細。宿侍之輩者皆悉走出。雷雨撃鼓。暗夜失燈殆迷東西之間。爲祐成等多以被疵。所謂平子野平右馬允。愛甲三郎。吉香小次郎。加藤太。海野小太郎。岡邊彌三郎。原三郎。堀藤太。臼杵八郎。被殺戮宇田五郎已下也。十郎祐成者。合新田四郎忠常被討畢。五郎者。差御前奔參。將軍取御劔。欲令向之給。而左近將監能直奉抑留之。此間小舎人童五郎丸搦得曾我五郎。仍被召預大見小平次。其後靜謐。義盛。景時承仰。見知祐經死骸云々。

 左衞門尉藤原朝臣祐經

  工藤瀧口祐繼男

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日癸巳。小雨降る。日中以後、霽(は)る。子の剋、故伊藤次郎祐親法師が孫子(まご)、曾我十郎祐成、同五郎時致(ときむね)、富士野の神野(かみの)の御旅舘に推參致し、工藤左衛門尉祐經を殺戮す。又、備後國住人吉備津宮の王藤内(わうとうない)といふ者有り、平家の家人瀨尾太郎兼保に與(くみ)するに依つて、囚人として召し置かるるの處、祐經に属し、誤り無きの由を謝し申すの間、去ぬる廿日、本領を返給され歸國す。而るに猶ほ、祐經の志に報ぜんが爲、途中より更に還り來たり、盃酒を祐經に勸め、合宿談話するの處、同じく誅せらるるなり。爰に祐經、王藤内等、交會せしむる所の遊女、手越(てごし)少將・黄瀨川の龜鶴等、叫喚す。此の上、祐成兄弟、父の敵(かたき)を討つの由、高聲を發す。之に依つて諸人、騷動す。子細を知らずと雖も、宿侍(しゆくじ)の輩は皆、悉く走り出づ。雷雨、鼓(つづみ)を撃ち、暗夜に燈を失ひて、殆んど東西に迷ふの間、祐成等が爲に多く以て疵を被る。所謂、平子野平(たいらこのへい)右馬允・愛甲三郎・吉香(きつかは)小次郎・加藤太・海野小太郎・岡邊彌三郎・原三郎・堀藤太・臼杵(うすき)八郎、殺戮せらるるは宇田五郎已下なり。十郎祐成は、新田四郎忠常に合い討たれ畢んぬ。五郎は、御前を差して奔參す。將軍、御劔を取り、之に向はしめ給はむと欲す。而るに左近將監能直、之を抑へ留め奉る。此の間に小舎人童(こどねりわらは)五郎丸、曾我五郎を搦め得たり。仍つて大見小平次に召し預けらる。其の後、靜謐(せいひつ)す。義盛・景時、仰せを承りて、祐經の死骸を見知(けんち)すと云々。

 左衞門尉藤原朝臣祐經

  工藤瀧口祐繼が男

・「富士野の神野」現在の静岡県富士宮市狩宿。富士山西北西一〇キロメートルに位置する。この富士の巻狩りの際、頼朝が馬から降りた所として「狩宿の下馬桜」と呼ばれる国特別天然記念物の桜の銘木が残る。

・「平子野平右馬允」平子有長(たいらこありなが)。以下、人名は「曾我物語」その他をも参考にしたものもあり史実上、確定されたものではないが、試みに示しておく。「吉香小次郎」吉川友兼。「加藤太」加藤光員。「海野小太郎」海野幸氏。「岡邊弥三郎」岡辺忠光か。「原三郎」原清益。「堀藤太」木曾義高探索を命じられた既出の堀親家の兄かと思われる。「臼杵八郎」臼杵惟信。「宇田五郎」宇田信重。「左近將監能直」大友能直。

 

翌建久四 (一一九三) 年五月二十九日の条。

〇原文

廿九日甲午。辰剋。被召出曾我五郎於御前庭上。將軍家出御。揚幕二ケ間。可然人々十餘輩候其砌。所謂一方。北條殿。伊豆守。上総介。江間殿。豊後前司。里見冠者。三浦介。畠山二郎。佐原十郎左衞門尉。伊澤五郎。小笠原二郎。一方。小山左衛門尉。下河邊庄司。稻毛三郎。長沼五郎。榛谷四郎。千葉太郎。宇都宮弥三郎等也。結城七郎。大友左近將監。在御前左右。和田左衛門尉。梶原平三。狩野介。新開荒次郎等。候于兩座中央矣。此外御家人等群參不可勝計。爰以狩野新開等。被召尋夜討宿意。五郎忿怒云。祖父祐親法師被誅之後。子孫沈淪之間。雖不被聽昵近。申最後所存之條。必以汝等不可傳者。尤直欲言上。早可退云々。將軍家依有所思食。條々直聞食之。五郎申云。討祐經事。爲雪父尸骸之耻。遂露身鬱憤之志畢。自祐成九歳。時致七歳之年以降。頻插會稽之存念。片時無忘。而遂果之。次參御前之條者。又祐經匪爲御寵物。祖父入道蒙御氣色畢。云彼云此。非無其恨之間。遂拜謁。爲自殺也者。聞者莫不鳴舌。次新田四郎持參祐成頭。被見弟之處。敢無疑胎之由申之。五郎爲殊勇士之間。可被宥歟之旨。内々雖有御猶豫。祐經息童〔字犬房丸。〕依泣愁申。被亘五郎。〔年廿。〕以號鎭西中太之男。則令梟首云々。此兄弟者。河津三郎祐泰〔祐親法師嫡子。〕男也。祐泰去安元二年十月之比。於伊豆奥狩塲。不圖中矢墜命。是祐經所爲也。于時祐成五歳。時致三歳也。成人之後。祐經所爲之由聞之。遂宿意。凡此間毎狩倉。相交于御供之輩。伺祐經之隙。如影之随形云々。又被召出手越少將等。被尋問其夜子細。祐成兄弟之所爲也。所見聞悉申之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿九日甲午。辰剋。曾我五郎を御前の庭上に召し出ださる。將軍家出御、幕二ケ間(けん)を揚げられ、然るべき人々十餘輩、其の砌りに候ず。所謂一方は、北條殿・伊豆守・上総介・江間殿・豊後前司・里見冠者・三浦介・畠山二郎・佐原十郎左衞門尉・伊澤五郎・小笠原二郎。一方は、小山左衛門尉・下河邊庄司・稻毛三郎・長沼五郎・榛谷(はんがや)四郎・千葉太郎・宇都宮弥三郎等なり。結城七郎・大友左近將監、御前の左右に在り。和田左衛門尉・梶原平三・狩野介(かのうのすけ)・新開荒次郎等、兩座の中央に候ず。此の外の御家人等の群參勝(あ)げて計ふべからず。爰に狩野・新開等を以て、夜討の宿意を召し尋ねらる。五郎、忿怒して云はく、祖父の祐親法師誅せらるるの後、子孫沈淪(ちんりん)するの間、昵近(ぢつきん)を聽(ゆる)されずと雖も、最後の所存を申すの條、必ず汝等を以つて傳ふべからずてへれば、尤も直(ぢき)に言上せんと欲す。早く退くべし。」と云々。

將軍家、思し食(め)す所有るに依りて、條々、直(ぢき)に之を聞こし食(め)す。五郎申して云はく、「祐經を討つ事、父の尸骸の耻(はぢ)を雪(すす)がんが爲、遂に身の鬱憤の志を露(あら)はし畢んぬ。祐成九歳・時致七歳の年より以降(このかた)、頻りに會稽(くわいけい)の存念を插(さしはさ)み、片時(へんし)も忘るること無し。而うして遂に之を果す。次に御前に參るの條は、又、祐經、御寵物(ごちようもつ)たるのみに匪(あら)ず、祖父入道、御氣色を蒙り畢んぬ。彼(かれ)と云ひ、此(これ)と云ひ、其の恨み無きに非ざるの間、拜謁を遂げて、自殺せんが爲なり。」てへれば、聞く者、舌を鳴らさざるは莫し。次に新田四郎、祐成が頭(かふべ)を持參し、弟に見せらるるの處、敢へて疑胎(ぎたい)無きの由、之を申す。五郎、殊なる勇士たるの間、宥(なだ)めらるべきかの旨、内々に御猶豫(ごゆうよ)有ると雖も、祐經が息童〔字は犬房丸〕泣いて愁へ申すに依りて、五郎〔年廿。〕を亘(わた)さる。鎮西中太と號するの男を以つて、則ち梟首せしむと云々。

此の兄弟は、河津三郎祐泰 〔祐親法師が嫡子。〕が男なり。祐泰、去ぬる安元二年十月の比、伊豆奥の狩塲に於いて、圖らざるに矢に中(あた)り命を墜(おと)す。是れ、祐經が所爲なり。時に祐成五歳・時致三歳なり。成人の後、祐經が所爲の由、之を聞き、宿意を遂げんとす。凡そ此の間、狩倉毎に、御供の輩に相ひ交り、祐經の隙を伺ひ、影の形に随うごとくと云々。

又、手越少將等を召し出だされ、其の夜の子細を尋ね問はる。祐成兄弟の所爲なりと、見聞した所、悉く之を申すと云々。

・「北條殿」北条時政。以下、人名を列挙する。「伊豆守」山名義範。「上総介」足利義兼。「江間殿」北条義時。「豊後前司」毛呂季光。「里見冠者」里見義成。「三浦介」三浦義澄。「畠山二郎」畠山重忠。「佐原十郎左衞門尉」佐原義連。「伊澤五郎」井沢信光。「小笠原二郎」小笠原長清。「小山左衛門尉」小山朝政。「下河邊庄司」下川邊行平。「稻毛三郎」稻毛重成。「長沼五郎」長沼宗政。「榛谷四郎」榛谷重朝。「千葉太郎」千葉成胤。「宇都宮弥三郎」宇都宮頼綱。「結城七郎」結城朝光。「大友左近將監」大友能直。「和田左衛門尉」和田義盛。「梶原平三」梶原景時。「狩野介」狩野宗茂(かのうむねしげ)。「新開荒次郎」新開実重。

・「舌を鳴らさざるは莫し」とは、この場合は賛美のポーズである。

・「疑胎無し」間違いない。

・「犬房丸」工藤(後に伊藤姓を名乗る)祐時(文治元(一一八五)年~建長四年(一二五二)年)の幼名。

 

最後に。本注のために、「吾妻鏡」のこの前後を読んでいると、曾我兄弟に討ち取られた、この工藤祐経について、この直前の記載に如何にもな不吉な予兆が現れているのが分かる。例えば、同建久四 (一一九三) 年の一月五日の条では、

〇原文

五日癸酉。工藤左衞門尉祐經家。恠鳥飛入。不知其號。形如雉雄云々。卜筮之處。愼不輕。仍廻祈請云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日癸酉。工藤左衛門尉祐經が家に、恠鳥(けてう)飛び入る。其の號(な)を知らず。形、雉の雄のごとしと云々。

卜筮の處、愼み輕からず。仍りて祈請を廻らすと云々。

とあって、新年早々、忌まわしくも奇怪なる鳥が彼の屋敷に飛び入ってしまい、占ったところが重い凶兆と出、祈請が行われているのだ。また、死の前月四月十九日には、

〇原文

十九日乙夘。午剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡。不及他所。是去比新造移徙以後經三十八ケ日也云々。主者將軍家爲御供。下向下野國云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日乙夘。午の剋。工藤左衞門尉祐經宅燒亡す。他所に及ばず。是れ、去ぬる比、新造の移徙(わたまし)以後三十八ケ日を經るなりと云々。

主(ぬし)は將軍家御供として、下野國へ下向すと云々。

と、新築したばかりの彼の屋敷が焼亡しているのである。如何にも如何にも不吉ではないか。こういう事実、私には何とも言えず、面白いのである。]

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