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2012/12/22

芥川龍之介漢詩全集 二十七

   二十七

 

 題倪先生隻鷄之圖

 

明燭似風消慘悽

淸香如水滌塵迷

展將一幅澄心紙

寫得中秋白羽鷄

 

〇やぶちゃん訓読

 

  倪先生隻鷄の圖に題す

 

 明燭 風に似て 慘悽(さんせい)を消し

 淸香 水のごとく 塵迷(じんめい)を滌(すす)ぐ

 展(の)べ將(ささ)ぐ 一幅の澄心紙(ちようしんし)

 寫し得たり 中秋白羽(はくう)の鷄(けい)

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この前後は新年号の執筆に多忙の日々を送っていたが、私は、本詩の香りともどこか通じる雰囲気の「秋山図」の原稿の改稿の一部を、正に同日附で、掲載予定の『改造』の当時の文芸欄担当記者であった瀧井孝作に送っている(岩波版旧全集書簡番号八一四)のが大いに気になっている(リンク先は青空文庫)。実は以下、私が注する画人が多く、「秋山図」には登場するからである。なお、他に大正一〇年新年号の発表作中「秋山図」以外で着目されるのは、「山鴫」(『中央公論』)と「アグニの神」(『赤い鳥』)の二作品である。

 本詩は、

大正九(一九二〇)年十二月六日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号八一六)

に所載する。小穴隆一(おあなりゅういち 明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに父と思えと言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓をもらっている。

 詩の後に、

 臘初六日

のクレジットと、その下部に、

     雲 田 生 拜

次行に、

雲 林 庵 主 侍史

その後に、

二伸 この詩一時ばかりにて成るうまいかまづいかよくわからず 但し小島政二郎の句ようりはうまい自信があります

と記す。以上から分かるように、龍之介は自身を「雲田」、小穴を「雲林庵主」と呼称している。実はこの書簡の前にある小澤忠兵衞(碧童)宛書簡(岩波版旧全集書簡番号八一五)の中で前日(十二月五日)に瀧井孝作と改造社社長山本実彦が来て、六日中の「秋山図」脱稿を促されて『ずつとペンを握りつづけです』と書いてそれに続けて、『その後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか』と記している(「その後」は前とは繋がっていない謂いで、この前に碧童に逢って以降、の謂いと思われる)。更にそれに先立つ同年十月三十日の小穴宛書簡(岩波版旧全集書簡番号七九五)の本文宛名には『倪小隆先生』とあり、同人宛十二月三日の書簡(岩波版旧全集書簡番号八一三)には『この頃四王呉惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます』と記して、ここでの宛名は『倪隆一先生』である。この『四王呉惲』は清初の正統派文人画家を代表する王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)の「四王」に、呉歴と惲寿平(うんじゅへい)を加えた清初六大家のことで、この最後の惲寿平が龍之介が称揚する惲南田(一六三三年~一六九〇年)で、また、雅号の中に現われる「倪」や「雲林」は、それより三百年ほど遡る元代の画家で元末四大家の一人、倪雲林(倪瓚げいさん 一三〇一年~一三七四年)の名前に因んだものである。以上から本詩も含めて、これらの雅号は謂わば、「勝手に雅号」、龍之介が小穴に勝手に附けたもの、真正の小穴の雅号ではないということが判明する。更に、この倪雲林について、中国旅行で現物を見た龍之介は、大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」で以下のように記している(底本は岩波版旧全集を用いたが、一部に私の読みを歴史的仮名遣で附した)。

 

     松樹圖

 

 雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀と云ふ畫帖の中にあつた。畫帖の中の畫は大部分、董其昌(とうきしやう)の舊藏に係るものらしい。

 雲林筆と稱へる物は、文華殿にも三四幅あつた。しかしその畫帖の中の、雄剄(ゆうけい)な松の圖に比べれば、遙かに畫品の低いものである。

 わたしは梅道人(ばいだうじん)の墨竹を見、黄大癡(くわうたいち)の山水を見、王叔明の瀑布を見た。(文華殿の瀑布圖ではない。陳寶琛(ちんはうちん)氏藏の瀑布圖である)が、氣稟(きひん)の然らしむる所か頭の下つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。

 松は尖つた岩の中から、眞直に空へ生え拔いてゐる。その梢には石英のやうに、角張(かどばつ)つた雲煙(うんえん)が横はつてゐる。畫中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林の外に行つたものはない。黄大癡の如き巨匠さへも此處へは足を踏み入れずにしまつた。況や明淸の畫人をやである。

 南畫は胸中の逸氣(いつき)を寫せば、他は措いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴と生きてゐはしないか? 油畫は眞を寫すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出來ない。モネの薔薇を眞と云ふか、雲林の松を假(か)と云ふか、所詮は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの圖を眺めながら、そんな事も考へた覺えがある。

 

・「宣統帝」清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(一九〇六年~一九六七年)。

・「董其昌」(一五五五年~一六三六年)明末の文人で特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことで有名で、その影響から清朝においては彼の書が正統とされた。また独自の画論は文人画(南宗画)の根拠を示し、その隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれ、本邦の書画にも多大な影響を与えている(ウィキの「董其昌」に拠る)。

・「文華殿」明代は皇太子の住居で国政の最高機関である内閣が置かれた。清代には紫禁城東南部に配され、乾隆帝が編纂した四庫全書が収納されて儒教の講義が行われた。中華民国に至り、開放されて旧帝室御物の書画陳列室となっていた。

・「梅道人」(一二八〇年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。名は呉鎮。墨竹を能くし、元の山水画様式を確立した。明代以降の画に大きな影響を与えている。

・「黄大癡」(一二六九年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。本姓は陸、黄公望とも呼ばれた。山水画の正統的巨匠。諸学諸芸に通じ、詞曲や鉄笛も得意とした。道教の新興宗派であった全真教に入信している。

・「陳寶琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣となり、一九一一年には溥儀の帝師(侍講)となったが、翌年に溥儀は退位、そのまま溥儀に従って紫禁城にとどまり、「徳宗実録」の編纂に当たった。張勲復辟(ちょうくんふくへき:一九一七年七月一日からの十二日間だけ安徽省督軍であった張勲が溥儀を復位させた事件。)の際には議政大臣に推薦されている。一九二五年以降は溥儀に従って天津で暮らすしたが、一九三二年の満州国成立には加わらず、天津で死去した。蔵書家として知られ、十万冊を有していたという(以上は主にウィキ陳寶チンに拠る)。

・「逸氣」昂ぶった気持ち。

 

以上からも、龍之介の南画家倪雲林及び惲南田への並々ならぬ傾倒振りが看て取れる。

 

「慘悽」凄惨な風景。ここはそうした妄想やイメージの謂いか。

「澄心紙」清澄な心を、清くまっさらな画紙にダブらせている。

 なお、本詩に関わって邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第一章 神話構築としての中国」の「創作の背景」で、まず龍之介の「或阿呆の一生」の、

 

      二十二 或 畫 家

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

 

の前半部を掲げ、小穴と「秋山図」の誕生の深い関連性を考察された上で、この書簡や詩によって、『画家小穴隆一に自分の魂を発見したという芥川は、小穴隆一の面前、素直に中国南画に対する熱愛ぶり披露している。ということは、雄鶏の墨絵を描く小穴に巡り合うことがなかったら、王力谷・呉鎮。王時敏・王鑑・惲南田を登場させる「秋山図」を、芥川は創作しなかったかもしれないということである』と述べておられる。

 ――さすれば正に――この『一羽の雄鷄の墨畫』――こそが本詩の画題にほかならなかったと考えてよかろう。――そして――「秋山図」――芸術美の本質は、クリエーターによる絶対美の創造などにあるではなく、寧ろオーディエンスの、その瞬間の現存在こそが、美的感動の本質と大きな関わりを持っている、という立場を表明する、私の好きな「秋山図」という作品を視野に置いて本詩を読む時――実は結句にある「中秋白羽鷄」は――純白の「澄心紙」の、文字通り――心象の風景――「心景という白一色の画面」の中にこそ「描かれている」――と言えるのではあるまいか?]

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