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2012/12/25

北條九代記 諸將連署して梶原長時を訴ふ

      ○諸將連署して梶原長時を訴ふ

同十月下旬の比、結城(ゆふきの)七郎朝光(ともみつ)御殿の侍所に伺公(しこう)の折から、傍輩(ぼうはい)の輩(ともがら)に語りけるは、「古(いにしへ)より書(かき)傳へたる言葉にも忠臣は二君(じぐん)に仕へずと云へり。普く人口に膾炙して稚子嬰兒(ちしえうに)までも知りたる事ぞかし。我殊更に故賴朝卿の厚恩を蒙り、誠に有難き御憐愍(ごれんみん)の程身に餘りて忘るべからず。その上御近侍として、晝夜、朝暮(てうぼ)御前に伺公し、種々の御歎訓種々(しゆじゆ)の御教訓樣々の仰事(おほせごと)今に耳の底に殘り候なり。故殿御薨去の時節に御遺言おはしましけるあひだ、出家遁世せしめずして、後悔その限(かぎり)なし。この比の世間の有樣高きも卑(ひく)きも只薄氷を踐(ふ)むがごとし、危きかな」とて、懷舊の至(いたり)涙を流しければ、當座の諸侍(しよさふらひ)皆共に、「さもこそ」と計りにて打止(や)みぬ。梶原景時是(これ)を立聞(たちき)きて、賴家卿の御前に參り、讒訴しけるやう、「結城七郎朝光こそ、先代を慕(した)うて當時を誹(そし)り、忠臣は二君に仕へずとやらん申して、傍輩の人々にも、その心根を勸(すすめ)語る、是我が君の御爲内より亂す賊敵なり。かゝる者を宥置(なだめおか)れんは狼を養(やしな)うて愁(うれへ)を待つと申すべき歟。傍(かたはら)の輩(ともがら)を懲(こら)しの爲(ため)早く罪科を斷り給ふべし」とぞ勸めける。賴家卿聞給ひて「惡(にく)き朝光が詞(ことば)かな。己(おのれ)出家遁世したればとて、國家に於て何の爲にか事を闕(かく)べき。身の程を自讃して當代を誹る不覺人(ふかくにん)は、なかなかに是(これ)柱(はしら)を食(は)む蠹蟲(とちう)、稻を枯(から)す蟊賊(ほうぞく)なり。石の壺に召(めし)寄せ討て棄つべし」とぞ仰(おふせ)付けられける。近習(きんじゆ)の輩(ともがら)その用意に及ぶ所に、阿波局(あはのつぼね)とて女房のありけるが、結城には遁れざる一族なり、この事を聞(きき)付けて、潜(ひそか)に朝光に知(しら)せたり。朝光熟(つらつら)是を思案しけれども、如何にとも爲方(せんかた)なし。前(さきの)右兵衞尉義村は朝光と斷金(だんきん)の友なりければ、行(ゆき)向ふて案内す。義村出合ひて、「さて何事か候」と云ふ。朝光「さればこそ火急の事候。我(われ)亡父政光法師が遺跡(ゆいせき)は傳領(でんりやう)せずといへども、將軍家の恩賜として數(す)ヶ所の領主となる。その厚恩を思ふに山よりも高く海よりも深し。この故に徃事(わうじ)を慕ひて、一言を傍輩の中にして嘆傷(たんしやう)せしに、梶原景時讒訴の便(たより)を得て御前へ申し沈めしかば、忽(たちまち)に逆心(ぎやくしん)に處せられ、誅戮(ちうりく)を蒙らんとす。只今この事を知らせ候。如何(いかゞ)思慮をも廻(めぐら)して給(た)べ」と云ふ。義村聞きて、「縡(こと)既に重く甚(はなはだ)危急に迫れり。殊(こと)なる計略にあらずは、禍(わざわひ)誠に攘難(はらひがた)からん歟。凡そ文治より以來(このかた)、景時が讒(ざん)に依て命を殞(おと)し、門(かど)を滅せし人勝(あげ)て計(かぞ)ふべからず。その中に又今に見存(ながらへ)てある輩も祖父親父(しんぷ)、子孫に及びて愁(うれへ)を抱き、憤を含む事甚(はなはだ)多し。景盛も去ぬる比彼(かれ)が讒を以(もつ)て既に誅せらるべきを不思議に遁れて候。その積惡必ず賴家卿に歸(き)し奉らん事疑(うたがひ)なし。世の爲(ため)君の爲彼を對治(たいじ)せずはあるべからず。但し弓箭(きうせん)の勝負を決せば、邦國(ほうこく)の騷亂を招くに似たり。宿老等(とう)に談合すべし」とて、和田左衞門尉、足立藤九郎入道を呼びてこの事を語る。兩人聞も敢(あへ)ず、早く同心連署(れんじよ)の狀を以て將軍家に訴へ、若(もし)彼(かの)讒者を賞して御裁許なくば、直に死生(ししやう)を爭ふべきなりとて、前右京(の)進仲業(なかなり)は文筆の譽(ほまれ)ありとて呼(よび)寄せて語る。是も景時に宿意ありければ、手を撲(うつ)て喜び、軈(やが)て訴狀を書認(かきしたゝめ)しに、千葉常胤、三浦羲澄、同義村、畠山重忠、小山朝政、同朝光、足立遠元、和田義盛、同常盛、比企能員、所(ところ)右衞門尉朝光、民部丞行光、葛西淸重、小田知重、波多野忠綱、大井實久、澁谷高重、山内經俊、宇都宮賴綱、榛谷(はんがへの)重朝、安達盛長入道、佐々木盛綱人道、稻毛重成入道、藤九郊景盛、若狹兵衞尉忠季、岡崎義實入道、土屋義淸、東(とうの)平太重胤、千葉胤正、土肥先(のせん)次郎惟光、河野通信、曾我祐綱、二(の)宮四郎、長江四郎、諸(もろの)次郎、天野遠景入道、工藤行光、右京進仲業以下の御家人六十六人、鶴ヶ岡の廻廊に集會して、一味同意の連判をぞ致しける。その訴狀の中に「鷄(にはとり)を養(か)ふ者は狸(たぬ)を畜(か)はず、獸(けもの)を牧(か)ふ者は犲(やまいぬ)を育(やしな)はず」と書きたり。義村この句を感ずとかや。小山五郎宗政は姓名(しやうみやう)を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮(おもんぱか)る所なり。和田左衞門尉義盛、三浦兵衞尉義村之を持參して、因幡前司廣元に付けたり。廣元連署の訴狀を請取り、暫く思案しけるは、「景時佞奸(ねいかん)の讒に於ては右右陳謝するに所なし。さりながら故將軍賴朝卿に眤近(じつきん)の奉公を勤む。今忽に罪科せられんは如何あらん。潜(ひそか)に和平の義を廻さん」と猶豫(いうよ)未だ決せずして披露するに及ばず、和田左衞門尉御所に參會して廣元に近(ちか)付きて申しけるは、「彼の狀定(さだめ)て披露候か。御氣色如何候」と。廣元「いまだ申さず」と答ふ。義盛居直り、目を瞋(いから)して「貴殿は關東御政道の爪牙股肱(さうげここう)、耳目(じぼく)の職に居(ゐ)て、多年を經給へり。景時一人の權威に恐れて、諸將多輩(たはい)の鬱胸(うつきよう)を閣(さしお)かるゝ條、寧(むしろ)憲法(けんはう)の掟(おきて)に契(かな)はんや」といひければ、廣元打(うち)笑ひて、「全く怖るゝ所なし。只彼(かの)滅亡を痛(いたは)り、同くは和平の義を調へんと思ふ故にて候」と申されしかば、義盛愈(いよいよ)怒(いかり)をなし、傍(そば)近く居寄(ゐよつ)て、「怖(おそれ)なくば、何ぞ數日を過し給ふぞ。披露せらるべきか否や、只今承り切るべし」と云ふ。廣元「この上は申し上くべし」とて座を立ちつゝ賴家卿に見せ奉れば、即ち景時に下されたり。景時更に陳謝すべき道なくして、子息親類を相倶し、相州一宮に下向す。然れども三郎景茂は暫く鎌倉に留めらる。その比(ころ)賴家卿は比企六衞門尉能員が宅(いへ)に渡御あり。南庭に於て御鞠(おんまり)を遊(あそば)しける。北條五即時連(ときつら)、比企彌四郎、富部(とべの)五郎、細野四郎、大輔房源性(げんしやう)、御詰(おんつめ)に參らる。その後御酒宴(ごしゆえん)に及びて、梶原三郎兵衞尉景茂御前に候(こう)ず。右京進仲業銚子(てうし)を取りて座にあり。賴家卿即ち景茂を召して、「近日、景時、權威を振ふの餘(あまり)、傍若無人の有樣なりとて、諸人一同に連判の訴狀を上げたり。仲業その訴狀の執筆を致しけるぞ」と宣ふ。景茂申しけるは「景時は故殿の寵臣として今はその芳躅(はうしよく)なき上は何(いづれ)の次(ついで)に非義を行ふべき。仲業が翰墨(かんぼく)は只諸人の誡(いましめ)を記せるなるべし」と事もなげに申しければ、聞人皆御返事の神妙(しんべう)なる事を感じける。賴家卿斯程(かほど)まで慮(おもんぱかり)の拙(つたな)くおはします故に、國主の器量は葉(は)よりも薄く、政道の智惠は闕果(かけは)て給ひ、只常々は遊興を事とし、鞠(まり)の友十餘人歌の友十餘人この外には近仕(きんじ)する人是(これ)なし。諸將、諸侍、次第に疎くなり、言語(げんぎよ)、行跡(かうせき)非道なるを見聞き奉りて、上を輕しむる故によりて、かゝる珍事は起出(おこりい)でたる。猶是より行末は又いかゞあるべきと賴なくこそ覺えける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の建久十(一一九九)年十月二十五日・二十七日・二十八日、十一月十日・十二日・十三日などの記事に基づく。前話に続いて源頼家の暗愚を徹底的に剔抉する。順に「吾妻鏡」を見よう(今回は「北條九代記」の筆者の効果的なシナリオ化を学んで会話文を改行し、直接話法の末の訓読を恣意的に変更してある)。

《発端》

〇原文

廿五日甲申。晴。結城七郎朝光於御所侍。稱有夢想告。奉爲幕下將軍。勸人別一萬反彌陀名號於傍輩等。各擧而奉唱之。此間。朝光談于列座之衆云。吾聞。忠臣不事二君云々。殊蒙幕下厚恩也。遷化之刻。有遺言之間。不令出家遁世之條。後悔非一。且今見世上。如踏薄氷云々。朝光。右大將軍御時無双近仕也。懷舊之至。遮而在人々推察。聞者拭悲涙云々。〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日甲申。晴る。結城七郎朝光、御所の侍(さむらひ)に於いて、夢想の告有りと稱し、幕下將軍の奉爲(おんため)に、人別一萬反(にんべついちまんべん)の彌陀の名號を傍輩等に勸む。各々擧(こぞ)つて之を唱へ奉る。此の間、朝光、列座の衆に談じて云はく、

「吾、聞く、忠臣は二君に事(つか)へず。と云々。殊に幕下の厚恩を蒙るなり。遷化の刻(きざみ)、遺言有るの間、出家遁世せめしざるの條、後悔、一(いつ)に非ず。且つは今、世上を見るに、薄氷を踏むがごとし。」

と云々。

 朝光、右大將軍の御時、無双の近仕(きんじ)なり。懷舊の至り、遮(さいぎ)つて人々の推察に在り、聞く者、悲涙を拭(のご)ふと云々。

・「結城七郎朝光」「賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉」に既注済。当時は満三十一歳で、先に記したように、彼は建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定に参加して以後は梶原景時(本事件当時は五十前後)と並ぶ故頼朝の側近中の側近として自他ともに認めた栄誉を担う人物であった。

・「人別一萬反」各人一人ひとりが一万遍、南無阿弥陀仏と念仏を唱えること。

 

《景時の讒訴》

〇原文

廿七日丙戌。晴。女房阿波局告結城七郎朝光云。依景時讒訴。汝已擬蒙誅戮。其故者。忠臣不事二君之由令述懷。謗申當時。是何非讐敵哉。爲懲肅傍輩。早可被断罪之由。具所申也。於今者。不可遁虎口之難歟者。朝光倩案之。周章斷膓。爰前右兵衞尉義村。与朝光者断金朋友也。則向于義村亭。有火急事之由示之。義村相逢。朝光云。予雖不傳領亡父政光法師遺跡。仕幕下之後。始爲數ケ所領主。思其恩。高於須彌頂上。慕其往事之餘。於傍輩之中。申忠臣不事二君由之處。景時得讒訴之便。已申沈之間。忽以被處逆惡。而欲蒙誅旨。只今有其告。謂二君者。不依必父子兄弟歟。 後朱雀院御惱危急之間。奉讓御位於東宮〔後冷泉〕御。以後三條院被奉立坊。于時召宇治殿。被仰置兩所御事。於今上御事者。承之由申給。至東宮御事者。不被申御返事云々。先規如此。今以一身之述懷。強難被處重科歟云々。義村云。縡已及重事也。無殊計略者。曾難攘其災歟。凡文治以降。依景時之讒。殞命失職之輩不可勝計。或于今見存。或累葉含愁憤多之。即景盛去比欲被誅。併起自彼讒。其積悪定可奉皈羽林。爲世爲君不可有不對治。然而决弓箭勝負者。又似招邦國之亂。須談合于宿老等者。詞訖。遣專使之處。和田左衞門尉。足立藤九郎入道等入來。義村對之。述此事之始中終。件兩人云。早勒同心連署狀。可訴申之。可被賞彼讒者一人歟。可被召仕諸御家人歟。先伺御氣色。無裁許者。直可諍死生。件狀可爲誰人筆削哉。義村云。仲業有文筆譽之上。於景時插宿意歟。仍招仲業。仲業奔來。聞此趣。抵掌云。仲業宿意欲達。雖不堪。盍勵筆作哉云々。群議事訖。義村勸盃酌。入夜。各退散云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日丙戌。晴。 女房阿波局(あはのつぼね)、結城七郎朝光に告げて云はく、

「景時の讒訴に依つて、汝、已に誅戮を蒙らんと擬す。其の故は、

『忠臣二君に事へざるの由述懷せしめ、當時を謗(そし)り申す。是れ、何ぞ讐敵(しうてき)に非ざらんや。傍輩を懲肅(ちようしゆく)せんが爲に、早く断罪にせらるべし。』

との由、具さに申す所なり。今に於ては、虎口の難を遁るべからざるか。」

てへれば、朝光、倩(つらつら)之を案じ、周章、膓(はらわた)を断つ。爰に前右兵衞尉義村、朝光とは斷金の朋友なり。則ち、義村が亭に向ひ、火急の事有るの由、之を示す。義村に相ひ逢ひ、朝光云はく、

「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る。其の恩を思へば、須彌(しゆみ)の頂上よりも高し。其の往事を慕ふの餘り、傍輩の中に於いて、忠臣二君に事へざるの由を申すの處、景時、讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間、忽ち以つて逆惡に處せられて、誅を蒙らんと欲すの旨、只今、其の告げ有り。二君と謂ふは、必ずしも父子兄弟に依らざるか。後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御(たま)ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々。先規、此くの如し。今一身の述懷を以つて、強(あなが)ちに重科に處せられ難からんか。」

と云々。

 義村云はく、

「縡(こと)已に重事に及ぶなり。殊なる計略無くんば、曾て其の災を攘(はら)ひ難からんか。凡そ文治以降、景時の讒に依つて、命を殞(おと)し職を失ふの輩、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。或ひは今に見存(げんぞん)し、或ひは累葉(るいえふ)、愁憤を含むは、之れ多し。即ち、景盛、去ねる比、誅せられんと欲す。併(あは)せて彼(か)の讒より起る。其の積悪、定めて羽林に皈(き)し奉るべし。世の爲、君の爲に對治せずんば有るべからず。然れども、弓箭(きうせん)の勝負を决せば、又邦國の亂を招くに似たり。須らく宿老等に談合すべし。」

てへれば、詞、訖りて、專使を遣はすの處、和田左衞門尉、足立藤九郎入道等、入り來る。義村、之に對し、此の事の始中終(しちゆうじゆう)を述ぶ。件の兩人云はく、

「早く同心の連署狀を勒(ろく)し、之を訴へ申すべし。彼の讒者一人を賞せらるべきか。諸御家人を召仕はらるべきか。先づ御氣色を伺ひて、裁許無くんば、直(すぐ)に死生(ししやう)を諍(あらそ)ふべし。件の狀、誰人(たれひと)の筆削(ひつさく)たるべきや。」

と。義村云はく、

「仲業(なかなり)、文筆の譽れ有るの上、景時に於いて宿意を插(さしはさ)むか。」

と。仍つて仲業を招く。仲業、奔り來つて、此の趣きを聞き、掌を抵(う)つて云はく、

「仲業が宿意を達せんと欲す。不堪(ふかん)と雖も、盍(なん)ぞ筆作を勵まざらんや。」

と云々。

 群議、事訖りて、義村、盃酌を勸め、夜に入り、 各々退散すと云々。

・「阿波局」北条政子の妹で源実朝の乳母、頼朝の異母弟阿野全成(後、頼家と対立した北条方に組みしたため、建仁三(一二〇三)年五月、頼家の命によって謀反人として捕縛殺害された)の妻。

・「懲肅」こらしめいましめること。

・「斷金の朋友」金をも断ち切るほど硬い友情。「易経」の「繋辞 上」の「二人心を同じうすれば、其の利(と)きこと、金を断つ」に基づく。

・「予は亡父政光法師の遺跡を傳領せずと雖も、幕下に仕ふるの後、始めて數ケ所の領主と爲る」彼の父太田(小山)政光は下野国国府周辺の小山荘に住し、小山氏の祖となって広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていたが、その遺跡は兄朝政が継いでいる。朝光は既に見てきたように阿津賀志山の戦いで敵将金剛別当を討ち取るなどの活躍を見せ、その功によって奥州白河三郡が与えられている。因みに彼の後妻で三男であるこの朝光の母寒河尼は頼朝の乳母で、朝光は実は頼朝の落胤という俗説さえもある。

・「讒訴の便りを得、已に申し沈むるの間」景時は讒訴するに絶好の機会と心得、そのまま直ちに粛清するよう、頼家様に申し上げたがために。

・「後朱雀院の御惱危急の間、御位を東宮〔後冷泉。〕に讓り奉り御ひ、後三條院を以つて立坊し奉らる。時に宇治殿を召され、兩所の御事を仰せ置かる。今上の御事に於いては、承るの由、申し給ふ。東宮の御事に至りては、御返事申されず、と云々」「宇治殿」は藤原頼通(道長長男)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇の二代に亙って関白を勤めたが(構造上は後朱雀の生前の「命」があったから子後冷泉には連続した「一君の命」としての忠誠で仕えたが、三代目の予定の立太子である「二君」までは感知しなかったということで、「二君に仕えず」ということか)、晩年は失意のうちに失脚、彼とは対抗勢力にあった後三条天皇(後冷泉天皇異母弟)が即位し、宇多天皇以来一七〇年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇となって藤原摂関家は衰退へと向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移っていった(以上は主にウィキの「藤原頼通」に拠った)。

・「強ちに重科に處せられ難からんか」無理矢理、重い罰に処せられるというのは、これ、どうみても理不尽で、出来ない相談、有り得ぬ話ではないか。

・「累葉」子孫。

・「勒し」書き記す。

・「仲業」中原仲業(生没年不詳)。幕府吏僚。鎌倉幕府に参じた京下り官人。建久二(一一九一)年の前右大将家政所開設記事の公事奉行人の項に名が見える。中原親能の家人であり、前年の源頼朝上洛をきっかけに下向したのであろう。主に文筆をもって仕え、政所職員として政所発給文書の執筆や地方巡検の使節などを務めた。頼朝以降も政所に伺候し、頼家の政所始には吉書を清書、実朝の代には問注所寄人も兼ねた(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。彼が景時に遺恨を抱いていたとあるが、その具体な理由は不明。

 

「蠹蟲(とちう)」木食い虫。鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属するキクイムシ類などの、木材穿孔性の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。

「蟊賊(ほうぞく)」根切り虫。鱗翅(チョウ)目ヤガ(野蛾)科 Noctuidae に属するカブラヤガやタマナヤガなどの幼虫の総称としてあるが、ここでは広く、そうした農作物の根や茎の食害虫類(成虫や幼虫)を指す通称。

「石の壺」御所内の北にあった部屋の名。

「結城には遁れざる一族なり」結城朝光とは深い縁のある一族である、の謂いだが、具体的にどのような縁戚関係にあったのか、調べてみたものの私にはよく分からない。識者の御教授を乞うものであるが、寧ろ、これは梶原氏の勢力の排除を目論んでいたと思しい北条時政已下の幕府内の対抗勢力による、芝居仕立ての筋書きの臭いが、いや濃厚である。

 

《景時弾劾状六十六人連判》

〇原文

廿八日丁亥。晴。巳剋。千葉介常胤。三浦介義澄。千葉太郎胤正。三浦兵衞尉義村。畠山次郎重忠。小山左衞門尉朝政。同七郎朝光。足立左衞門尉遠元。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。比企右衞門尉能員。所右衞門尉朝光。民部丞行光。葛西兵衞尉淸重。八田左衞門尉知重。波多野小次郎忠綱。大井次郎實久。若狹兵衞尉忠季。澁谷次郎高重。山内刑部丞經俊。宇都宮彌三郎賴綱。榛谷四郎重朝。安達藤九郎盛長入道。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道。稻毛三郎重成入道。藤九郎景盛。岡崎四郎義實入道。土屋次郎義淸。東平太重胤。土肥先次郎惟光。河野四郎通信。曾我小太郎祐綱。二宮四郎。長江四郎明義。諸二郎季綱。天野民部丞遠景入道。工藤小次郎行光。右京進仲業已下御家人。群集于鶴岡廻廊。是向背于景時事一味條。不可改變之旨。敬白之故也。頃之。仲業持來訴状。於衆中。讀上之。養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。義村殊感此句云々。各加署判。其衆六十六人也。爰朝光兄小山五郎宗政雖載姓名。不加判形。是爲扶弟危。傍輩皆忘身。企此事之處。爲兄有異心之條如何。其後。付件狀於廣元朝臣。和田左衞門尉義盛。三浦兵衞尉義村等持向之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丁亥。晴る。巳の剋。千葉介常胤・三浦介義澄・千葉太郎胤正・三浦兵衞尉義村・畠山次郎重忠・小山左衞門尉朝政・同七郎朝光・足立左衞門尉遠元・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・比企右衞門尉能員・所右衞門尉朝光・民部丞行光・葛西兵衞尉淸重・八田左衞門尉知重・波多野小次郎忠綱・大井次郎實久・若狹兵衞尉忠季・澁谷次郎高重・山内刑部丞經俊・宇都宮彌三郎賴綱・榛谷四郎重朝・安達藤九郎盛長入道・佐々木三郎兵衞尉盛綱入道・稻毛三郎重成入道・藤九郎景盛・岡崎四郎義實入道・土屋次郎義淸・東平太重胤・土肥先次郎惟光・河野四郎通信・曾我小太郎祐綱・二宮四郎・長江四郎明義・諸二郎季綱・天野民部丞遠景入道・工藤小次郎行光・右京進仲業已下の御家人、鶴岡の廻廊に群集(ぐんじゆ)す。是れ、景時に向背(きやうはい)する事一味するの條、改變すべからずの旨、啓白(けいびやく)するが故なり。頃之(しばらくあ)つて、仲業、訴狀を持ち來り、衆の中に於いて、之を讀み上ぐる。

「鷄(にはとり)を養(やしな)ふ者は狸(たぬき)を畜(か)はず。獸(けもの)を牧(か)ふ者は豺(やまいぬ)を育(やしな)はず。」

の由、之を載す。義村、殊に此の句に感ずと云々。

 各々署判を加ふ。其の衆六十六人なり。爰に朝光の兄小山五郎宗政、姓名を載すと雖も、判形(はんぎやう)を加へず。是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何(いかん)。其の後、件の狀を廣元朝臣に付す。和田左衞門尉義盛・三浦兵衞尉義村等、之を持ち向ふ。

[やぶちゃん注:六十六人としながら三十九名の名しか載らない。また、「北條九代記」では何故か千葉胤正の位置が、ずっと後の東平太重胤の後にある。人数も含めて、気になるといえば気になるのである。]

「小山五郎宗政は姓名を載せながら判形を加へず、舍弟朝光が事を慮る所なり」という叙述は、「吾妻鏡」とは正反対の叙述である。長沼宗政(姓は下野国長沼荘(現在の栃木県真岡市)を領したことに始まる)は結城朝光(姓は下総の結城したことに始まる)の実兄(ともに小山政光の子)であるが、「吾妻鏡」ではにも拘らず花押を押さなかったことを厳しく批判しているのに対し、ここではそれは逆に弟朝光のことを思いやってのこと、と述べているのである。しかし、何故、それが思いやりになるのか、やや分かり難い。親族だからこそ冷静な立場から、他の連中と違ってやや中立的立場を守って、いざ事態が逆転した際には小山の血脈を守ろうとしたといった謂いか? しかしだとすると、次の次の「勝木七郎生捕らる 付 畠山重忠廉讓」の最後で糞味噌に言われたままになっている(筆者もいいぱなしにしている)のはすこぶるおかしい気がするのである。私は筆者が「是れ、弟の危きを扶けんが爲に、傍輩、皆、身を忘れ、此の事を企てるの處、兄として異心有るの條はこれ、如何。」という批判を「弟」「兄」の叙述から誤読したのではあるまいかと秘かに疑っている。

 

《大江広元の連署状上達躊躇》

〇原文

十日戊戌。晴。兵庫頭廣元朝臣雖請取連署狀。〔訴申景時狀。〕心中獨周章。於景時讒侫者雖不能左右。右大將軍御時親致昵近奉公者也。忽以被罪科。尤以不便條。密可廻和平儀歟之由。猶豫之間。未披露之。而今日。和田左衛門尉與廣元朝臣。參會御所。義盛云。彼狀定披露歟。御氣色如何云々。答未申之由。義盛瞋眼云。貴客者爲關東之爪牙耳目。已歷多年也。怖景時一身之權威。閣諸人之鬱陶。寧叶憲法哉云々。廣元云。全非怖畏之儀。只痛彼損亡許也云々。義盛居寄件朝臣之座邊。不恐者爭可送數日乎。可被披露否。今可承切之云々。殆及呵責。廣元稱可申之由。起坐畢。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日戊戌。晴る。兵庫頭廣元朝臣、連署狀〔景時を訴へ申すの狀。〕を請け取ると雖も、心中、獨り周章す。

『景時の讒侫(ざんねい)に於いては左右(さう)に能はずと雖も、右大將軍の御時、親(まのあた)りに昵近(ぢつきん)の奉公致す者なり。忽ち以つて罪科にせられんこと、尤も以つて不便の條、密かに和平を廻らすべきか。』

の由、猶豫(いうよ)の間、未だ之を披露せず。而るに今日、和田左衛門尉と廣元朝臣と、御所に參會す。義盛云はく、

「彼の狀、定めて披露するか。御氣色は如何(いかん)。」

と云々。

 答へ未だ申さずの由、義盛、眼を瞋(いか)らして云はく、

「貴客は關東の爪牙耳目(さうがじもく)として、已に多年を歷(ふ)るなり。景時一身の權威を怖れ、諸人の鬱陶(うつたう)を閣(さしお)くは、寧(いずくん)ぞ憲法(けんぱふ)に叶はんや。」

と云々。

 廣元云はく、

「全く怖畏(ふい)儀に非ず。只だ彼(か)の損亡を痛む許りなり。」

と云々。

義盛、件の朝臣の座邊に居寄(ゐよ)り、

「恐れずんば、爭(いかで)か數日(すじつ)を送るべきか。披露せらるべきや、否や、今、之を承り切るべし。」

と云々。

 殆んど呵責(かしやく)に及ぶ。廣元、申すべきの由を稱し、坐を起ち畢んぬ。

 

《連署状上達と景時への申し開きの下知》

〇原文

十二日庚子。晴。廣元朝臣持參件連署申狀。中將家覽之。即被下景時。可陳是非之由被仰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日庚子。晴る。廣元朝臣、件の連署申狀(まうしじやう)を持參す。中將家、之を覽(み)、即ち景時に下され、是非を陳ずべきの由、仰せらると云々。

・「爪牙耳目」爪や牙となり耳や目となって身を輔弼けるところの臣。

・「憲法」掟。ここは「道理」でよいであろう。

 

《景時黙秘し、所領一宮へ下向》

〇原文

十三日辛丑。陰。梶原平三景時雖下給彼状。〔訴状〕不能陳謝。相卒子息親類等。下向于相摸國一宮。但於三郎兵衞尉景茂。暫留鎌倉云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日辛丑。陰る。梶原平三景時、彼(か)の状〔訴状。〕を下し給はると雖も、陳謝に能はず、子息親類等を相ひ卒いて、相摸國一宮に下向す。但し、三郎兵衞尉景茂に於いては、暫く鎌倉に留まると云々。

 

《頼家の蹴鞠の宴での出来事》

〇原文

十八日丙午。晴。中將家渡御比企右衞門尉能員宅。於南庭有御鞠。北條五郎時連。比企彌四郎。富部五郎。細野四郎。大輔房源性等候之。其後御酒宴之間。梶原三郎兵衞尉景茂候御前。又右京進仲業取銚子同候。羽林召景茂。仰云。近日景時振權威之餘。有傍若無人之形勢。仍上諸人一同訴狀。仲業即爲訴狀執筆也云々。景茂申云。景時。先君之寵愛。殆雖越傍人。於今無其芳躅之上者。以何次可行非儀乎。而愼仲業之翰墨。軼怖諸人之弓箭云々。列坐傍輩。景茂御返事趣神妙之由。密談云々。羽林今夜御逗留也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十八日丙午。晴る。中將家、比企右衞門尉能員の宅へ渡御、南庭に於いて御鞠(おんまり)有り。北條五郎時連・比企彌四郎・富部五郎・細野四郎・大輔房源性等、之に候ず。其の後、御酒宴の間、梶原三郎兵衞尉景茂、御前に候ず。又、右京進仲業、銚子を取り同じく候ず。羽林、景茂を召し、仰せて云はく、

「近日、景時權威を振ふの餘り、傍若無人の形勢有り。仍て諸人一同、訴狀を上ぐ。仲業、即ち、訴狀の執筆(しゆひつ)たるなり。」

と云々。

 景茂、申して云はく、

「景時、先君の寵愛、殆んど傍人を越ゆと雖も、今に於いては其の芳躅(はうちよく)無きの上は、何の次(ついで)を以つて非儀を行ふべけんや。而るに仲業の翰墨(かんぼく)を愼(つつし)み、軼(たが)ひに諸人の弓箭(きうせん)を怖る。」

と云々。

 列坐の傍輩、景茂が御返事の趣き神妙の由、密談すと云々。

 羽林、今夜、御逗留なり

・「芳躅」先人の業績・行跡を讃えていう語。

・「非儀」非道な所行。

・「仲業の翰墨を愼み」連署状の仲業の文章は誠に謹み深く穏やかに書かれてあり、の謂いか。「養鷄者不畜狸。牧獸者不育豺之由載之。」をさえ、かく論ずれば、これはもう、私でさえその場にあれば「景茂が御返事の趣き神妙」と感嘆するであろう。]

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