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2013/01/19

北條九代記 芝田次郎自害 付 工藤行光郎等兄弟働

      ○芝田次郎自害  工藤行光郎等兄弟働

奥州の住人芝田次郎は聞ゆる武勇の兵なり。今度梶原景時が叛逆に與(くみ)して、要害を堅くし、壘を深くして、軍兵を招く由聞えければ、子細を尋問はれんが爲に、使節度々に及ぶといへども、病(かまひ)と稱して、召(めし)に應ぜす。是に依て宮城四郎を討手(うつて)の御使として、奥州に差遣(さしつかは)さる。八月二十一日、甘繩の宅(いへ)の首途(かどで)して御所に參(まゐり)しかば、鞍置馬(くらおきうま)を給はる。中野五郎能成、是を庭上に引きたてたり。兵庫頭廣元、上意の趣(おもむき)申し渡さる。宮城即ち謹(つつしん)で承はり、家子三人郎等十餘人を相倶して、御所より直(すぐ)に奥州にそむかひける。九月十四日、彼(かの)地に下著(げちやく)し、近邊の武士三十餘人を召集(めしある)め、先(まづ)使を以て云はせけるは、「將軍家内々御不審に思召(ぼしめ)すことあり、使節を以て度々召さるれども、所勞と稱して、召に慮ぜす。愈(いよいよ)子細あるべきやうに思召さるゝ故に、宮城に仰せて、具(つぶさ)に子細を尋ね問ひ申すべし、との上意に依て罷向(まかりむか)ひはべり。急ぎ是(これ)へ參られ、事の旨を宮城に申開かるべし。猶も擬議(ぎぎ)せらるゝに於ては、それへ向うて承らん」とぞ云遣(いひつかは)しける。芝田、使に對面して、返答致しけるやうは、「某(それがし)故殿の御時より一所懸命の地を賜り、今に領知致す所なり。何を恨み奉りてか當家に別義を存すべき。只讒人(ざんにん)の所爲として、芝田に野心ある由を聞召(きこしめ)され、度々使節を下さるゝと云へども、且(かつう)は所勞を以て參覲(さんきん)に能はず。強(しひ)て鎌倉に上りて、若(もし)は理非なく手ごめに亡(ほろぼ)し給はんには、白龍(はくりう)栖(すみか)を離れて、漁父(ぎよほ)の網に罹り、洪魚(こうぎよ)水を失(しつ)て、螻蟻(ろうぎ)の口に吸はるゝと申すものにて候。是へ引受け奉る事は子細なき旨言上し、その上にも御疑(うたがひ)是あらば、力及ばす館(たち)に火を懸け、自害仕らんと存する計(ばかり)にて候」とそ申返しける。宮城聞きて、「いやいや梶原景時が叛逆に同意して野心を起さるゝ條隱れなし。早く降人(かうにん)に成て出給へ。御前の事は如何にも申預(まうしあづか)り奉らん。然らずは只今向うて踏破(ふみやぶ)り候べし」と重ねて申遣しければ、「此上は力及ばず。これへ御向ひ候へ、一戦を遂げて腹切申すべし。侍程の者が命惜(をし)ければとて降人には出づまじく候」と誘ければ、宮城「さらば」とて、三十餘騎を先登(せんとう)とし、我が身は家子郎等を前後左右に進めて午尅(うまのこく)計(ばかり)に芝田が館に押掛けたり。芝田も兼て思設(おもひまうけ)しことなれば、一族郎從四十餘人門の扉を差固(さしかた)め、二階の窻(まど)を押開き、矢種(やたね)を惜まず散々に射る。寄手こめ矢前(やさき)に懸りて射伏せらるゝ者十七人、其外疵を蒙りて、村々(むらむら)に成て引退(ひきしりぞ)く。此所(ここ)に工藤小次郎行光が郎等に藤五、藤三郎、美源二(みげんじ)とて兄弟三人打連れて奥州の所領より鎌倉に登る所に、白川の關の邊(ほとり)にて、芝田追討の御使馳向ふと聞きて、直に加勢と成り、宮城が陣に来りつゝ、芝田が館の後(うしろ)に廻り、高き岡に上(あが)つて館の内を見透(みすか)し指詰引詰(さしつめひきつめ)思ふ儘に射たりければ、是に當りて城中に手負死人多く出來たり。芝田が家子桐山中太と云ふものは大力の剛(がう)の者にて、桶側胴(をけがはどう)の腹巻(はらまき)に冑(かぶと)の緒を締め、一丈計(ばかり)なる樫の木の棒に筋鐵(すぢかね)を入れ、所々に胞(いぼ)を植ゑさせ、只一騎打て出でつゝ寄手の村立(むらだち)たる所へ會釋もなく驅入て人馬(にんば)をいはず打伏(うちふ)せ薙伏(なぎふ)せける程に、寄手辟易して立足(たつあし)もなく見えける所に、宮城は強弓(つよゆみ)の精兵(せいしやう)なりければ、大の矢を番(つが)うて靜(しづか)に狙寄(ねらひよ)りてひようと發(はな)つ。勇誇(いさみほこ)りたる桐山が脇壺(わきつぼ)に羽(は)ぶくら責めて立ちければ、何かはたまるべき、あつと云ふ聲計して、乾(いぬゐ)にどうと倒れたり。寄手是に氣を直し、鬨聲(ときのこゑ)を揚(あげ)て、攻懸(せめかか)る。芝田は桐山を討(うた)せて力を落し、扉を閉ぢて引籠らんとする所を、藤五兄弟後(うしろ)より射ける矢に、城の大將芝田も手負ひしかば、殘る者共、今は是までなりとて、思ひ思ひに落ちて行く。芝田次郎は妻子を刺殺(さしころ)し、腹切(はらきつ)て伏したり。郎等小藤八館に火を懸け、雲煙(くもけぶり)と燒上(やきあ)げ、猛火(みやうくわ)の中に飛入りたり。午刻(うまのこく)に芝田滅びぬ。斯(かく)て近郷の仕置を執靜(とりしづ)め、十月十四日宮城四郎は鎌倉に歸參して、軍(いくさ)の樣躰(やうだい)言上せしめ、「此度殊に勳功の働(はたらき)は工藤小次郎行光が郎從藤五兄勢三人にあり」と申しければ「神妙(しんべう)なり」と感ぜしめ給ふ。同二十一日賴家卿濱の御所に出で給ひ、北條義時盃酒を獻ず。和田、小山以下の御家人多く以て伺候あり。工藤小次郎行光は陪膳にまゐりける。賴家卿仰せられけるは、「工藤が郎從去ぬる奥州芝田が軍に弓馬の働かひがひしく仕りけり」と言上するに就きてその名を尋ねらるゝ所に、日比武勇(ぶよう)の聞(きこえ)ありと人皆沙汰に及べり。「其者どもの面(おもて)を見給ふべし。急ぎ召出せ」との仰せなり。行光座を立て若宮大路の家に歸り、藤五、藤三朗美源二兄弟三人の郎等を喚びて紺の直垂(ひたゝれ)に烏帽子を著(ちやく)せしめ、一樣に出たゝせ、騎馬を刷(かいつくろ)うて倶して参る、路次(ろじ)聞觸(きゝふ)れて見る者堵(と)の如し。御所の庭上に敷皮を竝べて坐せしめたり。賴家卿御簾(みす)を卷上げさせて御覽ぜらる。色黑く頰骨あれ、眼(まなこ)逆(さかしら)にさけて筋ふとくたくましきは、三人ながら相劣らず、勇士の相を備へたり。この内一人召上げて御家人に爲さるべきよし仰出(おほせいだ)されけり。工藤行光申しけるは「平家追討の初より亡父景光戰場に赴き、萬死(ばんし)を出でて一生に逢ふ事總て十ヶ度、其間多くは彼等が爲に命を救はれて候。行光既に家業を繼ぎ候、御讎敵(しうてき)を對治せらるゝ折節も、將軍家に於ては天下の勇士(ようし)悉(ことごとく)是(これ)御家人たり。行光は僅(わづか)に賴む所この三人にて候」と申しければ、賴家卿仰せけるは、「行光が申す所理(ことわり)至極せり。言上の言葉辯舌あり」とて、直に御盃(ぎよはい)を下され、北條五郎、銚子をとる。行光、三盃を傾(かたぶ)けて、郎等を召倶して、御前を退出しける有樣、雄々(ゆゝ)しかりける事共なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年八月二十一日、十月十三日・二十一日の条に拠るが、原資料にはない戦闘シーンの描写が細かくリアルである。まず、八月二十一日の進発から見る。

〇原文

廿一日甲辰。宮城四郎爲御使節。下向奥州。是芝田次郎依有可被尋問事。度々雖遣召。稱病痾不參。仍爲被追討之也。午剋。宮城首途。出甘繩宅。參御所。相具家子三人。郎等十余人。候侍西南角。頃之。廣元朝臣出廊根妻戸。招御使。召仰事之由。其後退出之刻。給御馬。〔置鞍。〕中野五郎能成引立庭上。宮城給之退出。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日甲辰。宮城四郎、御使節として奥州へ下向す。是れ、芝田次郎、尋問せらるべき事有るに依つて、度々遣はし召すと雖も、病痾(びやうあ)を稱し參らず。仍つて之を追討せられんが爲なり。午の剋、宮城首途(かどで)して、甘繩の宅を出で、御所に參ず。家子三人・郎等十余人を相ひ具し、侍の西南の角(すみ)に候ず。頃之(しばらくあつて)、廣元朝臣、廊根(らうね)の妻戸(つまど)に出でて、御使を招き、事の由を召し仰(おほ)す。其の後、退出の刻、御馬〔鞍を置く。〕を給はる。中野五郎能成、庭上に引き立つ。宮城、之を給はりて退出す。

・「宮城四郎」宮城家業(いえなり)。奥州総奉行井澤家景の弟で、陸奥国宮城郡宮城郷(現在の仙台市宮城野区苦竹と推定されている)の住人。

・「廊根」渡り廊下の下の際(きわ)。

続いて、総てが終わった後の十月の二日分を纏めて見る。

〇原文

十三日丙申。宮城四郎自奥州。歸參。去月十四日遂合戰。及晩。攻落芝田舘訖。爰有可被感事。工藤小次郎行光郎從藤五郎。藤三郎兄弟。自奥州所領參向鎌倉之處。於白河關邊。御使聞可被追討芝田之由。自其所馳歸。合戰之日。廻彼舘後面。射箭不知其員。中之死者十餘人。賊主退散。偏在件兩人忠節之由申之。

廿一日甲辰。霽。羽林入御濱御所。遠州獻盃酒。義盛。朝政。義村以下御家人多以候其座。工藤小次郎行光候陪膳。此間羽林被仰云。行光郎從等。去比於奥州。顯弓馬隱德。就之。尋其號。兼有勇敢之聞云々。未覽其面。早可召進云々。仍行光起座。歸若宮大路宅。召藤五郎。藤三郎。美源二。已上三人郎等。餝衣裝刷騎物。具參之間。此事路次成市。觀者如堵。漸入幕府門。跪庭上。各着紺直垂。相並候敷皮。羽林巻上御簾覽之。彼等皆備勇士之相。一人可被召加御家人之由被仰。行光申云。被追罸平家以降。亡父景光赴戰場。入萬死出一生十ケ度。其間多以。爲彼等被救命也。行光又繼家業也。而被對治御讎敵日。於上者我朝勇士。悉以爲御家人。行光者僅所恃此三輩也云々。羽林被仰云。行光所申。其理已至極也。匪達弓馬。言語又詳也。早可傾三坏者。即直被下御盃。北條五郎取銚子被勸。賜之具彼郎等退出。入夜羽林還御。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日丙申。宮城四郎、奥州より歸參す。去ぬる月十四日、合戰を遂げ、晩に及びて、芝田の舘(たち)を攻め落し訖んぬ。爰に感ぜらるべき事有り。工藤小次郎行光が郎從、藤五郎・藤三郎兄弟、奥州の所領より鎌倉へ參向するの處、白河の關邊に於いて、御使、芝田を追討せらるべきの由を聞き、其の所より馳せ歸りて、合戰の日、彼の舘の後面に廻りて、箭(や)を射ること、其の員(かず)を知らず。之に中(あた)りて死する者、十餘人、賊主の退散は、偏へに件の兩人の忠節に在るの由、之を申す。

廿一日甲辰。霽る。羽林、濱の御所に入御。遠州、盃酒を獻ず。義盛・朝政・義村以下の御家人、多く以つて其の座に候ず。工藤小次郎行光、陪膳に候ず。此の間、羽林、仰せられて云はく、「行光が郎從等、去ぬる比、奥州に於いて、弓馬の隱德を顯はす。之に就き、其の號(な)を尋ぬるに、兼て勇敢の聞え有り。」と云々。

「未だ其の面を覽ぜず。早く召し進ずべし。」と云々。

仍つて行光、座を起ち、若宮大路が宅へ歸り、藤五郎・藤三郎・美源二(みげんじ)、已上三人の郎等を召し、衣裝を餝(かざ)り、騎物(のりもの)を刷(かいつくろ)ひて、具し參るの間、此の事、路次に市を成し、觀る者、堵(と)のごとし。漸く幕府の門に入り、庭上に跪(ひざまづ)く。各々紺の直垂(ひたたれ)を着て、相ひ並び敷皮に候ず。羽林、御簾を巻上げ、之を覽(み)る。彼等、皆、勇士の相を備ふ。一人、御家人に召し加へらるべきの由仰せらる。行光申して云はく、「平家を追罸せられてより以降(このかた)、亡父景光、戰場へ赴き、萬死に入りて一生を出づること十ケ度、其の間、多く以つて彼等の爲に命を救はるるなり。行光、又、家業を繼ぐなり。而るに御讎敵を對治せらるる日、上に於いては我が朝の勇士、悉く以て御家人たり。行光は僅かに恃(たの)む所、此の三輩なり。」と云々。

羽林仰せられて云はく、「行光が申す所、其の理(ことわり)、已に至極なり。弓馬に達するのみに匪(あら)ず。言語も又、詳らかなり。早く三坏(ぱい)を傾くべし。」てへれば、即ち直(ぢき)に御盃を下さる。北條五郎、銚子を取りて勸めらる。之を賜はり、彼の郎等を具して退出す。夜に入りて羽林、還御す。

・「芝田の舘」現在の宮城県柴田郡柴田町船岡館山に船岡城址がある。

「白龍栖を離れて、漁父の網に罹り、洪魚水を失て、螻蟻の口に吸はるゝ」底本頭書に『貴人も微行すれば賤者の辱めを受くる意、説苑に見ゆ。洪漁云々は荘子に取る』とある。神力あらたかな白龍が身をやつして、棲家を離れたところが賤しい漁夫の網にかかったり、大魚が生きるべき水を失って、ちっぽけで下らない螻蛄や蟻の口に吸い尽くされてしまうような理不尽な災難に遭う、という意。直接的には宮城を「漁父」「螻蟻」に揶揄している。]

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