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2013/01/25

北條九代記 柏原彌三郎逐電 付 田文の評定  / 【第二巻~了】

      ○柏原彌三郎逐電  田文の評定

近江國の住人柏原(かしはばらの)彌三郎は故右大將家の御時に西海に赴き、拔群の働(はたらき)あるを以て、平氏滅亡の後、勳功の賞として、江州柏原の莊を賜り、京都警衞の人數に加へられ、仙洞に候(こう)して、奉公を勤めけるところに、恣(ほしいまゝ)に振舞(ふるまひ)て、法令を破り、神社の木を伐り、佛寺の料を奪ひ、公卿殿上人に無禮緩怠(くわんたい)を致し、屢々帝命を背く事、重々の罪科あり。加之(しかのみならず)、己が領地に引込て、鹿狩川狩を事とし、百姓を凌礫する由、院宮、甚(はなはだ)惡(にく)み給ひ、頭辨(とうのべん)公定(きんさだ)朝臣、奉行として彌三郎追罸(ついばつ)の宣下あり。佐々木左衞門尉定綱、飛脚をもつて鎌倉に告げ申す。同十一月四日、將軍家より畏(かしこま)り申され、澁谷(しぶやの)次郎高重、土肥先(せん)次郎惟光を使節として手の郎等を引率して上洛す。斯る所に、關東の左右をも待たず、京都伺公(しこう)の官軍四百餘騎、江州に押よせ、柏原の莊に至り、彼(か)の館(たち)に向ひしに、三尾谷(みをのやの)十郎、夜に迷(まぎ)れて、先登(さきがけ)し、館の後(うしろ)の山間(やまあひ)より閧(とき)の聲を發せしかば、彌三郎恐(おそれ)惑ひ、妻子郎從諸共に館を逃(にげ)て逐電す。其行方(ゆくかた)を尋ぬれども更に聞えず、關東の兩使はその詮なく、押返して下向あり。官も亦、寄(よせ)かけたる甲斐なし。三尾谷が所行、更に軍事の法に非ず、柏原を取逃したり。さだめて關東の御気色、仙院の叡慮よろしかるべかと思はぬ人はなかりけり。されども別に仰せ出さるゝ旨もなければ、何となく靜まりぬ。將軍家には諸國の田文(たぶみ)を召出(めしいだ)され、源性に仰せて勘定せしめ、治承養和より以來(このかた)、新恩の領地毎人五百町に限り、其餘田を召放ちて無足(むそく)の近習に下さるべき由御沙汰あり、廣元朝臣、之を聞て、殆(ほとんど)珍事の御評定、世のそしり、人の憂(うれへ)何事か是に優らんと、宿老達は皆共に汗を握りて周章せり。大夫屬(さくわん)入道善信、しきりに諷諫(ふうかん)を奉る。賴家卿、理服(りふく)し給ひ、先(まづ)閣(さしお)かれける事は、せめて天下靜謐(せいひつ)の運命盡きざるところなり。これを聞(きゝ)ける大名小名、愈(いよいよ)賴家卿を疎(うとみ)參らせ、色には出さずといへども、心の底には怨(うらみ)をぞ含みける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年十一月一日・四日、十二月二十七日・二十八日などに基づく。第二巻の掉尾に至って遂に、暗君(と筆者が断ずる)頼家が、まさに「裸の大様」化してゆく様子が見てとれる部分である。

「柏原彌三郎」柏原為永。村上源氏の末裔で、源頼光の弟頼平の系統を引く。近江国柏原庄(現在の滋賀県米原市)を領し、清滝(現在の米原市清滝)に居館を構えていた。

「仙洞に候して」の部分の彼が従ったのは後白河法皇。但し、「彌三郎追罸の宣下」を下したのは後鳥羽上皇。

「緩怠」いい加減に考えて、怠けること。他に、無礼無作法なことをも指す。

「凌礫」「陵轢」とも書き、車輪がものを轢き潰すことから、侮って踏みにじることをいう。

「頭辨公定」三条公定(きんさだ 長寛元(一一六三)年~?)は公卿。西園寺実宗長男。但し、当時は従四位上修理左宮城使で、彼が右大弁で蔵人頭を兼ねたのは、この翌年の正治三年(一二〇一)に正四位下になってからであり、引用元の「吾妻鏡」の記述のタイム・ラグによる誤りが露呈している。

「三尾谷十郎」三尾谷広徳(みおやひろなり 生没年不詳)。源頼朝の直臣。三保谷郷(現在の埼玉県比企郡川島町)出身。「吾妻鏡」の正治二年十二月二十七日の条では、三尾谷十郎何某が『襲件居所後面山之間。賊徒逐電畢。今兩使雖伺其行方。依無所據。歸參云々』(三(件の居所の後面の山を襲ふの間、賊徒、逐電し畢んぬ。今、兩使、其の行方を伺ふと雖も、據所(よんどころ)無き依つて、歸參すと云々)とだけあって、殊更に三尾谷広徳の早掛けを非難する表現はない。

「田文」一国の荘園・公領における田畑の面積や領有関係などを詳しく記した田籍簿。

「五百町」約五ヘクタール。

「無足の近習」地頭職に任ぜられていない頼家直属の寵愛の何でもアリの近習連。以上の部分は「吾妻鏡」でもはっきりと頼家批判は顕在化している部分なので、以下に示す。

〇原文

廿八日庚戌。金吾仰政所。被召出諸國田文等。令源性算勘之。治承養和以後新恩之地。毎人。於過五百町者。召放其餘剩。可賜無足近仕等之由。日來内々及御沙汰。昨日可令施行之旨被仰下廣元朝臣。已珍事也。人之愁。世之謗。何事如之哉之趣。彼朝臣以下宿老殊周章。今日如善信頻盡諷詞之間。憖以被閣之。明春可有御沙汰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日庚戌。金吾、政所に仰せて、諸國の田文等を召出され、源性をして之を算勘せしむ。治承・養和以後の新恩の地、人毎(ごと)に、五百町を過ぐるに於いては、其の餘剩を召し放ち、無足の近仕等に賜ふべきの由、日來内々に御沙汰に及び、昨日、施行せしむべきの旨、廣元朝臣に仰せ下さる。已に珍事なり。人の愁ひ、世の謗(そし)り、何事か之にしかんやの趣き、彼(か)の朝臣以下の宿老、殊に周章す。今日、善信のごときが、頻に諷詞(ふうし)を盡すの間、憖(なまじ)ひに以つて之を閣(さしお)かれ、明春、御沙汰有るべしと云々。

最後の部分は、善信以下の宿老から、陰に陽に示された諫言に、仕方なく取り敢えずは、その施行の留保をなさったが、それでも来年の春には執行命令を必ず出すであろう、と仰せられた、という謂いである。]

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