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2013/01/14

北條九代記 念佛禁斷 付 伊勢稱念房奇特

      ○念佛禁斷  伊勢稱念房奇特

將軍賴家公天下の政事正(ただし)からず、萬の仰(おほせ)拙(つたな)くおはしましければ、上下疎み參らせ、恨(うらみ)を含む者甚(はなはだ)多し。其中に如何なる天魔の依托(えたく)したりけん、道者、僧侶の念佛するを嫌(きらひ)出で給ふ。同じき年五月に至(いたつ)て、念佛禁斷の由仰出され、誰には依(よら)ず、念佛する僧法師をば是非なく捕へて、袈裟を剥(はぎ)取り、火に燒きて、捨つべしとなり、比企彌四郎承りて、政所の橋の邊(あたり)に行(ゆき)向ひ、往来念佛の僧を捕へて、袈裟を剥取り、巷にして之を燒く事日毎にその限(かぎり)なし。是を見る者市の如し。皆口々に謗(そし)り參せ、弾指(つまはじき)して唇(くちびる)を飜す。又此人を搦(からめ)取りて、牢舍に籠(こめら)るゝ者數を知らず。民の憂(うれへ)世の煩(わづらひ)是只事とも思はれず。佛神三寳の冥慮(みやうりよ)、諸天龍神(りうしん)の照見(せうけん)旁(かたがた)以て測(はかり)難し。此所(ここ)に伊勢國の修行者、稱念坊と聞えしは道心堅固の念佛者なり。比企彌四郎之を捕へて、袈裟を剥取りつゝ、火に入て燒(やき)棄てんとす。稱念申しけるやうは「白俗(はくぞく)の束帶と緇徒(しと)の袈裟と其理(ことわり)同じうして、天竺震旦(てんじくしんたん)、日域まで上古今來(こんらい)もちひ傳へたり、何ぞ新(あらた)に之を禁斷し給ふや。凡(およそ)當時の御政務の有樣、佛法世法(せはふ)共に以て非道を行ひ給ふこと、甚(はなはだ)重疊(ぢうでう)し給へり。頗(すこぶる)長久の謀(はかりごと)にあらず、殆(ほとんど)滅亡の基(もとゐ)たり。抑(そもそも)この念佛は三世諸佛の大陀羅尼(だいだらに)十方薩埵(さつた)の勝解脱門(しようげだつもん)なり、出離生死(しゆつりしやうじ)の神方(しんはう)往生極樂の靈藥なり。釋尊一代の要法(えうぼふ)にして諸經所讃(しよさん)の佛號なり。普賢、文殊を初(はじめ)て大乘、實智(じつち)を根元として、三朝世々の祖師何(いづれ)か是を捨て給へる。諸天擁護(おうご)の眸(まなじり)を開き、善神守衛の手を施し給ふ。又この袈裟は是(これ)解脱幢(げだつどう)の標識(へうし)なり。上福田(ふくでん)の妙相なり、諸佛影向(やうがう)の道場梵釋歸敬(ぼんしやくききやう)の衣服とす。四王八龍(りう)、この德を仰ぎて、桑門僧侶彼(か)の功を貴む。今之を剥(はぎ)むくり、火にくべ燒捨てられんは、恐(おそら)くは悪逆の結構何事是に優(まさ)らん。印度の弗沙蜜多(ふしやみつた)、日域の守屋大連(もりやおほむらじ)、或は震旦三武(ぶ)の時も更に替るべからかずや。殊に稱念が袈裟衣(けさころも)は大道大信を以て顯せし所なれば、燒くとも、よも燒けじ。南無阿彌陀佛」と云ひければ、彌四郎、嘲笑(あざわら)ひ、「其法師に物な云はせそ。早く燒捨てて追遣れ」とぞ下知しける。下部共集りて、袈裟を取て火に打(うち)入れたりけるに、その火自(おのづから)濕(しめり)消えて、片端(かたはし)だにも燒かざりしかば、皆、奇特の思(おもひ)をなす。稱念、打笑ひ「それ見給へ、人々」とて本の如く著服(ちやくぶく)し、行方(ゆくがた)知らず失せにけり。是に依(よつ)て、かの禁斷不日(ふじつ)に破れて世の笑草(わらひぐさ)とぞ成りにける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十六の正治二(一二〇〇)年五月十二日の条。筆者の頼家指弾の筆鋒は一向に緩まない。

〇原文

正治二年五月大十二日丙寅。羽林令禁斷念佛名僧等給。是令惡黑衣給之故云々。仍今日召聚件僧等十四人。應恩喚云々。然間。比企弥四郎奉仰相具之。行向政所橋邊。剥取袈裟被燒之。見者如堵。皆莫不彈指。僧之中有伊勢稱念者。進于御使之前。申云。俗之束帶。僧之黒衣。各爲同色。所用來也。何可令禁之給哉。凡當時案御釐務之體。佛法世法。共以可謂滅亡之期。於稱念衣者。更不可燒云々。而至彼分衣。其火自消不燒。則取之如元著。逐電云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日丙寅。羽林、念佛名僧等、禁斷せしめ給ふ。是れ、黑衣を惡(にく)ましめ給ふが故と云々。

仍りて今日、件の僧等十四人を召し聚むるに、恩喚に應ずと云々。

然る間、比企弥四郎、仰せを奉(うけたま)はりて之を相ひ具し、政所の橋の邊へ行き向ひ、袈裟を剥ぎ取りて、之を燒かる。見る者、堵(と)のごとし。皆、彈指(だんし)せずといふこと莫し。僧の中に伊勢稱念といふ者有り。御使の前に進み、申して云はく、

「俗の束帶・僧の黒衣各々同色として用ゐ來る所なり。何ぞ之を禁じしめ給ふべきや。凡そ當時の御釐務(りむ)の體(てい)を案ずるに、佛法・世法(せはう)共に以つて滅亡の期(ご)と謂ひつべし。稱念が衣に於いては、更に燒くべからず。」

と云々。

而して彼(か)の分の衣に至り、其の火、自(おのづ)から消えて燒けず。則ち、之を取りて元のごとく著し、逐電すと云々。

・「黑衣を惡ましめ給ふ」「黑衣」は緇衣(しえ)。「こくえ」とも読む。頼家は当時十八歳で正治二年一月五日に従四位上に昇叙、左近衛中将如元(「羽林」はその唐名)となって禁色が許されていた。黒は古くは武官のみに着用が許されたが、出家した僧には慣習によって黒衣の着用が普通に許されていた。手の施しようがない頼家の愚昧さが「吾妻鏡」でも、庶民の指弾(無論、これは焼こうとする下役たちに向けられた批難である)で分かる。

・「比企弥四郎」比企時員。頼家近習。建仁三(一二〇三)年九月の父の比企能員の変で討死。

・「政所の橋」筋替橋。

・「堵」垣。垣根。

・「釐務」官職に伴う事務を治めること。「理務」「釐事」。ここは幕府の征夷大将軍としての実質上の国の政(まつりごと)の意。

・「解脱幢」解脱幢相。解脱を求める印。袈裟のことを言う。

・「上福田」先の「三寶」(仏法僧)供養することによって得られるところの、田が実りを生じるような福徳を生じるもとになるもの、という仏教の常套的な譬え。

・「諸佛影向」あらゆる神仏が仮の姿を以って現れること。

・「梵釋歸敬」「梵釋」は梵王と帝釈天で教徒や修行者を守護する諸天善神の神々。「歸敬」は帰依敬礼(きょうらい)で、仏を心から信じて尊敬すること。

・「四王八龍」「四王」は四人の守護神たる四天王(東方の持国天・南方の増長天・西方の広目天・北方の多聞天)のこと。「八龍」八大竜王。天竜八部衆に所属する竜族の八王。法華経の序品に登場し、仏法を守護する。難陀(なんだ)・跋難陀(ばつなんだ)・娑伽羅(しゃから)・和修吉(わしゅきつ)・徳叉迦(とくしゃか)・阿那婆達多(あなばだった)・摩那斯(まなし)・優鉢羅(うはつら)。

「印度の弗沙蜜多」世に仏教を弘めたアショーカ王の孫に当たる人物という。彼は自らの名を後世に残すには如何にすれば良いかを群臣に問い、群臣の一人の、善悪両極端の二つの道があると言い、一つは先王(アショーカ)の如く、仏教を擁護して八万四千の塔を造立するか、仏教を弾圧して堂塔を破壊し、僧尼を殺戮することであると進言、彼は、自分には先王ほどの器量はなく、善なる術をとることは出来ないとして仏教の弾圧を開始、堂塔を破壊、僧尼を殺戮したとされる(以上は真言宗泉涌寺派大本山法楽寺公式HPの部派仏教について -大衆部所伝の僧伽分派説-に拠った)。

「日域」本邦。

「守屋大連」物部守屋(?~用明天皇二(五八七)年)。敏達天皇の代に大連の職位にあって当時蔓延した疫病の原因を大臣蘇我馬子の仏教崇拝にあるとして塔・仏殿・仏像などを破却した。後、丁未(ていび)の乱で馬子によって一族郎党、滅ぼされた。

「震旦三武」三武一宗の法難のこと。中国で仏教を弾圧した事件の中で、規模も大きく、また後世への影響力も大きかった四度の廃仏事件を、四人の皇帝の廟号や諡号をとって、こう呼ぶ。「三武一宗の廃仏」とも。北魏の太武帝(在位は四二三年~四五二年)・北周の武帝(在位は五六〇年~五七八年)・唐の武宗(在位は八四〇年~八四六年)で、これを「三武」とする。因みに「一宗」は後周の世宗(在位は九五四年~九五九年)を指す(以上はウィキ三武一宗の法難から引いた)。]

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