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2013/01/16

一言芳談 六十五

  六十五

 

 顕性房云、むかしは後世をおもふ者は、上﨟(じやうらう)は下﨟(げらう)になり、智者は愚者になり、徳人(とくにん)は貧人(ひんにん)に成(なり)、能あるものは無能にこそ成しが、今の人はこれにみなたがへり。我は高野にはじめも中比(なかごろ)もひさしくありしかども、梵字一もならはず。名利を捨るならひには、ある能をだにもこそ捨つれ、ならふ事はうたてしきことなり。我は三十餘年、さ樣のこと知らじとならひしなり。よく捨つれば、すてぬものゝ樣にてあるなり。名利を捨(すつる)といへばとて、同行(どうぎやう)をはぢず、紙衣(かみぎぬ)ひとつもとめて、きるほどの事を、いふにはあらず。これ程の名利は後世をたすくるなり。

 

〇上﨟は下﨟になり、出家の後、年をへて、位たかきを上﨟といひ、下座の僧を下﨟といふなり。

〇德人、財(たから)多き人なり。

〇名利を捨つるといへばとて、徒然草(つれづれぐさ)に云、そのうつはものむかしの人に及ばず、山林に入りても、餓(うゑ)をたすけ、嵐(あらし)をふせぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世をむさぼるに似たる事も、たよりにふればなどかなからん。

 法然云、自身安穩(あんのん)にして、念佛往生をとげんがためには、なに事もみな念佛の助業(じよごふ)なり。

 要集云、凡夫行人、要須衣食。此雖少緣、能辨大事。裸餧不安、道法焉在。

 

[やぶちゃん注:本条は「徒然草」第九十八段の「一言芳談」の五つの引用の四番目に、

 一、 上﨟は下﨟になり、智者は愚者になり、德人(とくにん)は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。

と引用されている。

「さ樣の事知らじとならひしなり」そのようなことは決して知ろうとはすまい、と心に念じて修行して来たのである、の意。

「よく捨つれば、すてぬものゝ樣にてあるなり」非常に核心を衝く言葉である。

――『よく捨てる』ということが出来れば、『何も大事なものは捨てていない』ということと同じことになるのである――

そして……遂に顕性房は波状的に迫ってきた核心を、「論理的に」、そして

――決してそれはストイックで狂信的なものではないよ――

と優しく述べるのである。即ち「名利を捨といへばとて、同行をはぢず、紙衣ひとつもとめて、きるほどの事を、いふにはあらず。」……このパラドックスは凄い! この「あらず」は「同行をはぢず、紙衣ひとつもとめて、きるほどの事」を条件として捨象するのである!

――『名誉や利益を捨てる』と言っても――よいか? それはともに歩んでいる修行者に対して恥ずかしくない振舞いをすることに拘ったり、殊更に紙衣一枚だけを求めてそれしか纏わぬといった極限の生活をすることなどを、『云うのではない』――

と言うのだ! さらに、彼は我々に「これ程の名利は後世をたすくるなり」と言い添えて、我々自身に「選択」(これは「せんじゃく」ではない。現在的な意味での「せんたく」である!)

――こういった程度の「名利」であるなら――逆に寧ろ、「あなた」が極楽浄土へ赴く階梯を心安らかに進むことの、これ、助けとさえなるものである。――

即ち、ここで彼は実に、

――ともに歩んでいる修行者に対して恥ずかしくない振舞いをすることに拘ったりするな!――自分の思うように、己れにあった、己れのための、己れだけの「遁世」を選ぶことが肝要じゃ!

――殊更に紙衣一枚だけを求めてそれしか纏わぬといった「ステロタイプの極限の生活」をすることなどを考えるな!――己れにあった、己れのための、己れだけの「極限のライフ・スタイル」を選ぶが一番じゃ!

と言っているのである、と私は思うのである。但し、ここには前提がある。それが「六十」から「六十四」までのエピグラムの縛りである。

――「南無阿弥陀仏」の声への没入

――阿弥陀仏の大慈悲への完全なる投企

――阿弥陀仏への唯一無二の救済欣求の思い

――ありのままの素直な念仏への専心

――不断の死を急ぐ心構え

である。これらを摑んだ果てにある「遁世」は、自ずと各個人の自由自在なものとなる――と顕性房は断じている――と私は読む。

 これは恐らく大方の浄土教学の識者から批判を受けるものであろうことは覚悟している。しかし、彼の文脈は確かにそうだ、と私は殆んど信仰に近い確信を持っている。それは、次の「六十六」で明らかになるであろう。――だからこそ実は湛澄のこれらを完膚なきまでにばらばらに切り離してばら播いてしまった「標注一言芳談抄」は、「用心」の冒頭に置かれたこの条だけを際立たせる危険性を孕み、それはあたかも「末法燈明記」が、その具体でセンセーショナルな部分にのみスポットが当てられて邪教の書として大方の批判を浴びたのと同じような、「一言芳談」は仏教の否定に繋がる(ネット上の自称宗教家と思しい方々の幾つかの感想をご覧になれば分かる)というような「危険がアブナイ」認識を産み出すことともなったように私には思われる。

「徒然草に云、そのうつはものむかしの人に及ばず……」「徒然草」第五十八段。まず、以下に全文を引く。

 「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧みる營みのいさましからん。心は緣にひかれて移るものなれば、閑(しづ)かならでは、道は行じ難し。

 その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓(うゑ)を助け、嵐を防ぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たることも、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背(そむ)けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下(むげ)のことなり。さすがに、一度、道に入りて世を厭(いと)はん人、たとひ望(のぞみ)ありとも、勢(いきほひ)ある人の貪欲(どんよく)多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣(ころも)、一鉢(いつぱつ)のまうけ、藜(あかざ)の羹(あつもの)、いくばくか人の費(ついえ)をなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、惡には疎く、善には近づくことのみぞ多き。

 人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提におもむかざらんは、萬(よろづ)の畜類に變るところあるまじくや。

・「げには」本当のところ、厳密な謂いをするならば。

・「何の興ありてか」なにが面白くて。「か」は反語であるから、「いさましからん」の結びは「~に精出すなどとことがやっていられようか、いや、やってらんねえ!」というのである。

・「たよりにふれば、などかなからん」場合によっては「世を貪るに似」て見える、というようなことも、どうして「ない」と言えよう、確かにそのようなことも「ある」であろう、の謂い。ここはそうした「見た目」は許容している。それはある意味で顕性房の、ここでの『数条の一連の謂い』を確かにつらまえたものであると私は思う。

・「さすがに」何と言っても。真の遁世の心構えの前提があれば、という限定である。

・「藜の羹」「藜」ナデシコ目ヒユ科Chenopodioideae亜科Chenopodieae 連アカザ属シロザの変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum 。一年草。空き地や路傍に生え、高さ約一・五メートル。茎は堅く、葉は菱形に近い卵形、縁は波状で若葉は紅色を呈し、食用。アカザ科の双子葉植物は草原・荒地・塩分の多い土地などに生育し、ホウレンソウなども本科に含まれる。「羹」は吸い物・汁で、「藜の羹」で粗末な食事の意。

・「いくばくか人の費をなさん」いったい、他人にどれほど、迷惑をかけると言うのか、いや、それは全く以って大したものではない、の意。顕性房の『数条の一連の限定』の範囲内では有意な問題性を生じない、さすれば「求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし」ということになるのである。

・「かたちに恥づる所もあれば、さはいへど」「さ」は遁世の戒を守っている状況の中から生ずる最低限の欲求を言う。――僧形を成しておれば、相応の慎みもあればこそ、何かこうしたいという思いがあっても、の意。

「要集云、凡夫行人、要須衣食。此雖少緣、能辨大事。裸餧不安、道法焉在。」以下にⅠの訓点を参考に書き下したものを示す。

 要集に云はく、「凡夫の行人、須らく衣食を要す。此れ少緣と雖も、能く大事を辨ず。裸餧(らね)にして安からずんば、道法焉(いづ)くにか在らん。」と。

これは源信の「往生要集」「第九」の冒頭の問答の「問」である。以下に問答部分の原文・書き下し文・現代語訳を示す(原文・書き下し文・現代語訳ともに一九七二年徳間書店刊花山勝友訳「源信 往生要集」を参考にしたが、正字正仮名に代えてある)。

第九助道資緣者

問。凡夫行人 要須衣食 此雖小緣 能辨大事 裸餧不安 道法焉在。

答。行者有二 謂在家出家 其在家人 家業自由 餐飯衣服 何妨念佛 如木 經瑠璃王行 其出家人亦有三類 若上根者 草座鹿皮 一菜一菓 如雪山大士是也 若中根者 常乞食糞掃衣 若下根者 檀越信施 但少有所得 即便知足 具如止觀第四 況復若佛弟子 專修正道 無所貪求者 自然具資緣 如大論云 譬如比丘貪求者 不得供養 無所貪求 則無所乏短 心亦如是 若分別取相 則不得實法 又大集月藏分中 欲界六天 日月星宿 天龍八部 各於佛前 發誓願言 若佛聲聞弟子 住法順法 三業相應 而修行者 我等皆共 護持養育 供給所須 令無所乏 若復世尊聲聞弟子 無所積聚 護持養育 又言 若復世尊聲聞弟子 住於積聚 乃至三業與法 不相應者 亦當棄捨 不復養育。

〇やぶちゃんの書き下し文

第九に助道の資縁とは。

問ふ。

凡夫の行人は、要(かなら)ず衣食(えじき)を須(もち)ふ。此れ、小緣なりと雖も、能く大事を辨ず。裸餧(らね)にして安からずんば道法焉(いづくん)ぞ在らん。

答ふ。

行者に二つ有り。謂はく、在家と出家となり。其の在家の人は家業(かごふ)自由にして、飡飯(さんぱん)・衣服(えぶく)あり。何ぞ念佛を妨げん。「木槵經(もうがんきやう)」の瑠璃王(るりわう)の行(ぎやう)のごとし。其の出家の人に、亦、三類有り。若し、上根の者は、草座・鹿皮(ろくひ)・一菜・一菓なり。雪山(せつせん)の大士のごとき、是れなり。若し、中根の者は、常に乞食(こつじき)・糞掃衣(ふんざうえ)なり。若し、下根の者は、檀越(だんをつ)の信施(しんせ)なり。但し、少しく少しく得る所得有れば、即便(すなは)ち足るを知る。具さには「止觀」の第四のごとし。況んや復た若し佛弟子にして、專ら正道(しやうだう)を修(しゆ)して、貪求(とんぐ)する所无(な)き者は、自然に資緣を具す。「大論」に云ふがごとし。『譬へば比丘の貪求する者は供養を得ず、貪求する所无きは、則ち乏短(ぼふたん)する所无きがごとし。心も亦、是(か)くのごとし。若し分別して相を取らば、則ち實法を得ず。』と。又、「大集」の月藏分の中に、欲界の六天、日・月・星宿、天・龍八部、各々佛前に於いて誓願を發(おこ)して言はく、『若し佛(ほとけ)の聲聞(しやうもん)の弟子の、法に住し、法に順じ、三業(さんごふ)相應して而(しか)も修行せん者を、我等皆共に護持し、養育し、所須(しよしゆ)を供給して、乏(かく)る所无からしめん。若し復た、世尊の、聲聞の弟子の積聚(しやくじゆ)する所无きをば護持し養育せん。』と。又、言はく、『若し復た、世尊の聲聞の弟子の、積聚に住し、乃至(ないし)三業と法と相應せざらん者は、亦、當に棄捨すべく、復た養育もせず。』と。

〇やぶちゃんの現代語訳

 第九に助道の資縁とは。

 問う。

 凡夫の修行者は、必ず衣食を必要とする。これは、小さなものではあるけれども、よく大事に備えるものである。裸で餓え凍え、不安なままであれば、どうして悟りの道を開くこことなど出来ようものか。

 答えよう。

 行者にも二種あるのだ。すなわち、在家と出家とである。そのうちの在家の人は家業を自由に営むことが出来、食物も衣服もあるゆえ、そのことが念仏の妨げをすることは、これ、ない。「木槵経(もくがんきょう)」に記された瑠璃王の成した念仏の行のようなものである。次に、出家には、さらに三種がある。上の位の能力を持す者は、草を敷いて座と成し、鹿の皮を纏い、一菜の菜(な)と一顆の果実を食す。雪山大士(せっせんだいし)のような御方がこれに当たる。中の位の能力を持す者は、常に他者に食を乞い、襤褸を集めた糞掃衣(ふんぞうえ) を着る。下の位の能力を持す者は、信者の施しを受ける。――尤も、ほんのわずかなものを貰っただけで満足することを知っている。詳しくは「摩訶止観」の第四巻にある通りである。

 まして、もし仏弟子として、専ら正道を修め、貪り求むる心がないとなれば、自然、衣装などの生活ので本当に必要なものというものは揃うのである。「大智度論」に、以下のように謂われておる通りである。『例えば、出家で貪り求むる者は供養が受けられず、貪り求むることのない者は、何一つ欠けることがないように、心もまた同じすなわち、もし、対象を差別区別して執着すると、仏法の真実の姿は得られぬ』と。

また、「大集経」の「月蔵分」の中にも、欲界の第六天の王たちである、日月星宿や天竜八部の守護神などが、それぞれ仏の前で誓願を起こして、「もし、仏の声聞(しょうもん)の弟子で、教えの通りに実践し、身・口・意の三業の行為がこれに叶って修行しておる者であれば、我らは皆、ともにその者を護り育て、その者に必要な物を布施し、不足のないようにするであろう。また、もし、仏の声聞の弟子で、貪り蓄えることのない者は、必ず護り育てるであろう。」と述べたことが載っている。また、次のようにも説かれてある。「もし、また、仏の声聞の弟子で、貪り蓄え、そして三業が教えと一致しない者は、また、これを見捨てて、養育することもせぬ。」と。

・「木槵経」一巻。訳者不詳。 修め易い行法を求めた毘舎離(びしゃり)王のために、仏が木槵子 (むくろじ) の実で作った数珠を以って三宝の名字を唱念することを勧めたことを記す経。

・「雪山大士」「三宝絵詞」に『昔の雪山童子は、今の釋迦如來なり。「涅槃経」に見えたり』とある。]

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