フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 耳嚢 巻之六 奇石鳴動の事 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(3) »

2013/01/03

一言芳談 五十

   五十

 

 敬佛房云、後世の事は、たゞしづかに案ずるにあるなり。

 むかしの坂東(ばんどう)の人、京に長居しつれば、臆病になる也。これ後世者の才覺也。身しづかに心すむなどいふ事は、いさゝかなれども、名利をはなれてのうへの事也。然(しかる)を幽玄(いうげん)なる棲(すみか)にうそぶきたるばかりをもて、心のすむと執(しふ)するが故に、獨住(どくぢゆう)の人おほくは、僻事(ひがごと)にしなす也。

 

〇臆病になるなり、關東の者は大膽にて、命をかろく持つなり。京はしづかなるところにて、常住の思(おもひ)になりて、命が惜しくなるなり。その如く初心の人、庵室(あんじつ)にこもりては心のすむやうなれども、常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。

〇幽玄、しづかなる境。(句解)

 

[やぶちゃん注:これを一段落目を「用心」、二段落目を「三資 居服食」に分解しているⅠ、この湛澄の仕儀は、はっきり言ってとんでもなく無理な編集と言わざるを得ない。

「坂東」足柄峠と碓氷峠の坂から東の意。関東の古称。ここには台頭してきた武士階級、特に坂東の荒くれ武者のポジティヴなイメージが強く働いているように感じられる。

「棲」Ⅱ・Ⅲは「樓(ろう)」とするが、採らない。

「うそぶきたる」この場合、私は本来の「嘯(うそぶ)く」の意である詩歌を小声で吟じるの意で採り、幽邃(ゆうすい)な地に隠棲をやらかし、風流を気取って詩歌を嘯いているだけの体たらくの中で、の謂いと採る。大橋氏は恐らく「うそぶく」を、偉そうに大きなことを言う、豪語するの意で採られたものか、この前後を『それなのに幽玄な住居に住み、修行めいたおおげさなまねをするだけで、こころがおちつくと思い込んでいるために』と訳しておられるが、私にはこの訳は支持出来ない。

「僻事にしなす也」「僻事」は古くは「ひがこと」とも呼んだ。道理や事実に合わないこと、まちがっていることであるから、誤った理解をしているのだ、心得違いをしているのである、の意。

「常住の念もわすれぬ内は、心のすむといふものにはあらず。」言わずもがなであるが、この標註の中の「常住」は所謂、永遠不変なこと、変化しないで常に存在することという常住涅槃の謂いではない。文脈は――「常住の思」いに執着するようになって知らず知らずのうちに「命が惜しくなる」のである――その「念」を忘れないうちは「心」が真に澄むということはないのである――と言うのだから、この「常住」は逆に、文字通りの「いつもそこに住んでいること」「普段」「日常」の謂いである。]

« 耳嚢 巻之六 奇石鳴動の事 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 二 形の僞り~(3) »