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2013/02/28

西東三鬼 拾遺(抄)Ⅲ

   拾遺(やぶちゃん抄)Ⅲ

[やぶちゃん注:これは朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を底本とし、そこで鈴木六林男編「『西東三鬼全句集』拾遺」(中央書院昭和四九(一九七四)年一月刊『季刊俳句』第二号所収)に載るところの拾遺句の抄出句を「拾遺三」として掲げたもの全九十二句の中から、私の琴線に触れる四十九句を抄出したが、本コンセプトに随い、恣意的に正字化した。]

鳩胸の誇冬霧わけ來たる

家々をつなぐ聖樂冬田晴れ

星さわぐ國の不安の除夜過ぎぬ

飛行音枯木にものる星さわぐ

耶蘇名ルカ霰はじきて友歸る

寒七日七夜の修道ルカの妻

[やぶちゃん注:「ルカ」は平畑静塔のクリスチャン・ネーム。彼は昭和二六(一九五一)年にカトリックの洗礼を受けているので、この二句は同年中の作と考えられる。関係ないが、私の勝手な洗礼名もルカである。]

狂女の手赤きもの乾す寒の窓

寒入日背につまらなく訓戒す

寒月の炎ゆるを窓に狂女眠る

寒曉や體温包み一農婦

半ば魔を恃む深雪に兩足消し

深雪踏む白き看護婦呼べばふり向く

寒の軍鷄猛るみどり子死にし家に

寒水の魚を見てゐて返事せず

雪しづか赤光(シヤクコウ)の鐡打ちに打つ

降る雪にサイレンの尾の細り消ゆ

いつまで平和春の卵に日を記す

病者等が指さし春の川光る

犬となり春の裸の月に吠ゆ

透明な氷の不安金魚浮く

不安の春花粉まみれの蜂しざり

戀猫のびしよ濡れの闇野につづく

つぶてめり込む雪達磨溶けはじむ

春土に糞まる猫の今安けし

菜の花遠し貧者に拔きし齒を返す

どの底の患者の血もてわが手染まる

土筆食ふ摘みたる人に見られつつ

看護婦の水蟲かなし春の雲

血に染む手硝子の外の朝櫻

一語のみ春の夜明けの人の聲

土堤に乾しボートの腹を赤く塗る

若者が遠野に笑ふ春の闇

泥炭の激しき流れ遠き雷

坑夫眞黑雨の地上に躍り出る

鴉騷ぎ翔ちてしづもる大新樹

毛蟲身を反らすよあけの半太陽

五月よあけの河の引き潮女眠れ

言葉なき夜汽車夏みかん晝の色

濁流の逆波燕自由なり

月光のレールが二本スト前夜

大旱の岩にかさりと蜻蛉交む

大旱の硝子戸ありて蠅唸る

働きし汗の胸板雷にさらす

曼珠沙華咲きけるわが家に旅終る

曼珠沙華最も赤し陸の果

海鳥の影過ぎしあと曼珠沙華

曼珠沙華海は怒濤となりて寄る

曼珠沙華のこして陸が海に入る

曼珠沙華より沖までの浪激し

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 山之内圓覺寺

   山之内圓覺寺

 

瑞鹿山門覺寺(ずいろくさんゑんがくじ)は山之内にあり。鎌倉五山の二番目なり。本尊は寶冠(ほうくわん)の釋迦佛。諸堂の額は、皆、眞筆(しんひつ)なり。北條時宗の建立にて、開山は、宋國の佛光(ぶつくわう)禪師なり。境内に宿龍池(しゆくりやうち)、座禪窟、鹿巖(しゝがん)、虎頭岩(ことうがん)などいふ名跡あり。佛殿の南の方(かた)に、高さ八尺の大鐘(がね)あり。在(ところ)の人は、龍宮(りうぐう)よりあがりし鐘也といひつたへたり。

〽狂 みほとけのちかひを

   むすぶゑんがくじ

 かゝるりやくに

    おほがねのおと

參詣

「なんと、よいお寺。かうかうとしたものだ。昔、鎌倉の繁盛の時は、さだめて、今、江戸の淺草の奧山のやうに、豆藏(まめぞう)や見世物(みせもの)などが、この境内にもあつたらうから、さぞかし、その時分には、にぎやかなことであつたらう。」

「左樣(さやう)、左樣。今の奧山の『濱藏(はまぞう)』の先祖は、昔、この鎌倉にて、『由比(ゆひ)の濱藏』といつて、由比の濱に小屋をかけてゐたといふことでござりますが、いつでも、いざといふと、濱藏が出かけて一番に手柄をしたといふことでござります。」

「イヤお前、とんだことをいふ。何、戰(いく)さの時に豆藏が何の役にたつものでございます。」

「イヤイヤ、違(ちが)ひのないこと。和田合戰(わだがつせん)の時、敵は目にあまるほどの大軍、一度気(いちどき)におしよせきた處(ところ)に、北條方(がた)は、無勢(ぶせい)にて、

『これは、どうしてこの大敵(たいてき)をふせがふ』

と、うろたへまはる處へ、濱藏の先祖がきて、

『大敵、私(わたし)がしりぞけてお目にかけませう』

といつて、笊(ざる)をもつてとんで出たら、

『そりやこそ、ざるがまはる』

と、その大敵が皆、にげてしまつたといふことでござります。」

[やぶちゃん注:「眞筆」新編鎌倉志三」の「圓覺寺」の条に、総門及び仏殿の額は後光厳帝の、山門の額は花園帝の宸筆とある。なお、ここに載る円覚寺内の名所等については「新編鎌倉志卷之三」及び鎌倉四」の本文及び私の注を参照されたい。

「江戸の淺草の奥山」江戸中期ころから浅草寺境内の西側奥(裏手の後に五区と呼ばれた旧地)の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが盛んに行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。天保一三(一八四二)年から翌年にかけて江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町。現在の台東区浅草六丁目)に移転して来ると、そうした傾向は更に強まった(以上は主にウィキ浅草寺に拠る)。

「豆藏」手品・曲芸や滑稽な物真似などをして銭を乞うた大道芸人。

「今の奥山の濱藏」「由比の濱藏」何れも不詳。「濱藏」の漢字は推測で当てた。識者の御教授を乞う。

「笊がまはる」この「笊」は大道芸人が芸の後に投げ銭を貰うために客に持って回った笊のことであろう。]

祈禱 萩原朔太郎 (「竹」詩想篇)

 祈禱

ぴんと光つた靑竹、
そこらいちめん、
ずばずば生えた竹籔の中へ、
おれはすつぱだかでとびこんで、
死にものぐるひの祈禱をした、
まつかの地面の上で、
ぎりぎり狂氣の齒がみをした。

みれば笹の葉の隙間から、まつぴるまの天が光つてゐる。
おれは指をとんがらして、
まつかうからすつぱりと。

[やぶちゃん注:底本の第三巻の「未發表詩篇」(二七三~二七四頁)に載るもの。私の感じる〈「竹」詩想〉の一篇である。]

西東三鬼 拾遺(抄)Ⅱ (色紙・短冊・その他より)

   拾遺(やぶちゃん抄)Ⅱ

[やぶちゃん注:これは朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)を底本とし、そこで都市出版社昭和四六(一九七一)年刊の大高弘達・鈴木六林男・三橋敏雄編「西東三鬼全句集」に載るところの色紙・短冊・その他からの抄出句を「拾遺二」として掲げたもの全十九句の中から、私の琴線に触れるものを抄出したが、本コンセプトに随い、恣意的に正字化した。]

昭和二十二(一九四七)年

葱坊主みな默り立つ朝の雨

昭和二十三(一九四八)年

蝶在れといへば蝶在る杖の先

炊煙に涙し逃れ夕櫻

昭和二十六(一九五一)年

虹消えし方へのそのそ歩き出す

[やぶちゃん注:「のそのそ」の後半は底本では踊り字「〱」。]

昭和三十(一九五五)年

ひらひらと春の夜氣入る首飾

[やぶちゃん注:「ひらひら」の後半は底本では踊り字「〱」。]

春の星恍惚の手を別ちけり

昭和三十六(一九六一)年

くちつけてくずれて死なむ天の川

昭和三十七(一九六二)年

元日の鳩桃色の脚いそがし

北條九代記 伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入る

      ○伊東崎大洞  仁田四郎富士入穴に入る

同六月一日、將軍賴家卿、伊豆の奥の狩倉(かりくら)に赴き給ふ。伊東崎と云ふ所の山中に大なる洞(ほら)あり。賴家卿、此内を不審(いぶかし)く思(おぼし)召し、和田平太胤長(たねなが)に仰せて、洞の内を見しめらる。胤長、松明(たいまつ)をともして、洞の内に入りたりしが、巳刻計(みのこくばかり)より、酉刻に及びて、洞より歸り出でつゝ申すやう、「この洞の内、數十里を打過る。暗き事云ふ計なし。松明を振(ふり)立てて奥深く行き至れば、所々に小川流れ、兩方の岩角疊竝(いはかどたたみなら)び濕うるほひ)滴りて滑(なめらか)なり。猶深く進(すすみ)行く。奥に一つの大虵ありて、蟠(わだかま)り臥したり、其長(そのたけ)十丈計もやあるべき、両眼輝(かゝや)きて凄(すさま)じく鱗(うろこ)重なりて苔生ひたり。胤長を見て口を開き、呑まんとする勢(いきおひ)あり。胤長、即ち太刀を拔きて、大虵の口を竪樣(たてざま)に切割(きりさ)くに、地を響(ひゞか)して倒(たふれ)死す。是より奧は虵に塞(ふさが)りて通り得ず、罷出でて歸りし」と申す。「猶奧見極めざらんは、洞に入りたる甲斐なし」と將軍、御不興(ごふきやう)し給へば、和田平太も心の外に思ひながら、御前をぞ立ちにける。同じき三日、將軍家、駿河國富士の狩倉に赴き給ふ。山の麓に又大なる穴あり。世の人、是を富士の人穴とぞ名付けける。この穴の奧を見極めさせられんが爲にとて、仁田四郎忠常を召して、剣を賜り、「汝この穴の中に入りて奥を極めて來るべし」との上意なり。忠常、畏(かしこま)りて、御劍を賜り、御前を罷立ちて、主從六人、穴の内にぞ入りにける。次の日、四日の已刻に、四郎忠常、人穴より出でて歸り來る。往還、既に一日一夜を經たり。將軍家、御前に召して聞(きこし)召す。忠常、申しけるやう、「この洞は甚(はなはだ)狹くして、踵を廻らす事叶(かない)難し。僅(わづか)に一人通るべくして心の如くに進(すすみ)行かれず。又暗き事云ふ計なし。主從手毎(てごと)に松明をともし、互に聲を合せて行く程に、路(みち)の間(あひだ)は水流れて、足を浸す。蝙蝠(かうもり)、幾等(いくら)と云ふ限(かぎり)なく、火の光に驚きて飛翔(とびかけ)り、その行先に満塞(みちふさが)れり、色黑き物は世の常にあり。白き蝙蝠も亦、少(すくなか)らず。水の流(ながれ)に隨ひて小き虵(へび)の足に當り纏(まとひ)付く事隙(ひま)なし、刀を拔きて切流(きりなが)し切流し進(すすみ)行くに、或は腥き匂(にほひ)、鼻を衝きて嘔噦(おゑつ)せしむる時もあり。或は芳(かうば)しき薫(かをり)來りて、心を涼(すゞやか)に成す事もあり、奥は漸々(ぜんぜん)廣くして、上の方には何やらん、色透(すき)通りて靑き氷柱の如くなる物、ひしと見えたり。郎從の中に物に心得たるが申しけるは、是は鐘乳とて石藥(せきやく)なり。仙人、是を敢て不老長生の藥を煉ると傳聞(つたへきゝ)しと語り候。又、歩(あゆみ)行く足の下、俄に雷(いかづち)のはためく音して、千人計一同に鬨(ときのこゑ)を作ると聞しは、是は定(さだめ)て修羅窟(しゆらくつ)の音なるべし。凄じき事に存じて候。猶、行先、愈(いよいよ)暗く、松明をともし續け、些(すこ)し廣き所に出たり。四方は黑暗幽々(こくあんいういう)として、遠近(をちこち)には時々、人の聲、聞(きこ)ゆ。心細き事、宛然(さながら)、迷土(めいど)の旅路(たびぢ)に向ひたどり行く心地ぞする。かゝる所に一(ひとつ)の大河に行(ゆき)懸る。事問ふべき都鳥も見えず、漲(みなぎ)り落(おつ)る水音は其深さ淵瀨(ふちせ)も定(さだか)ならず。逆捲く水に足を浸し入れたりければ、水の早き事、矢の如く、冷(ひやゝか)なる事、極寒の水に勝れり。紅蓮(ぐれん)、大紅蓮の地獄の氷は是なるべし。川向ひ其遠さ、七八十間もあるべし。其中に松明の如くなる物、向ひに見えて、光、宛然(さながら)、火の色にもあらず。光の内を見れば、奇異の御姿、邊(あたり)を拂(はらつ)て立ち給ふ。郎從四人は、その儘、倒れて死す。忠常、かの御靈(ごりやう)を禮拜するに、御聲(みこゑ)、幽(かすか)に教へさせ給ふ御事有て、則ち下し給はりし御劍(けん)を其(その)川に投(なげ)入れけるに、御姿は隱れ給ひ、忠常は、命助(たすか)りて歸り出で候なり」と申す。賴家卿、聞召し、「猶その奥は、定めて天地の外の世界なるべし。重ねて渡し舟(ぶね)を造らせ、人數多く遣はして見届くべし」とぞ仰せられける。古老の人々は、是を聞きて、「この穴は淺間(せんげん)大菩薩の住所なりと申し傳へ、昔より遂に其内を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣(かやう)に事を破り給ふには、將軍家の御身に取りて御愼(つゝしみ)無きにあらず。恐(おそろ)し恐し」とぞ私語(さゝやき)ける。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年六月一日・三日・四日に基づく。頼家の畸人性が強調され、頼家のカタストロフが近いことが禁忌への抵触によって暗示される。以下、この連続した三日分(二日は記載がない)を纏めて以下で見よう。

〇原文

一日丁酉。晴。將軍家着御伊豆奥狩倉。而號伊東崎之山中有大洞。不知其源遠。將軍恠之。巳尅。遣和田平太胤長被見之處。胤長擧火入彼穴。酉刻歸參。申云。此穴行程數十里。暗兮不見日光。有一大蛇。擬呑胤長之間。抜釼斬殺訖云々。

三日己亥。晴。將軍家渡御于駿河國富士狩倉。彼山麓又有大谷〔號之人穴〕爲令究見其所。被入新田四郎忠常主從六人。忠常賜御釼〔重寳〕入人穴。今日不歸出暮畢。

四日庚子。陰。巳尅。新田四郎忠常出人穴歸參。往還經一日一夜也。此洞狹兮不能廻踵。不意進行。又暗兮令痛心神。主從各取松明。路次始中終。水流浸足。蝙蝠遮飛于顏。不知幾千万。其先途大河也。逆浪漲流。失據于欲渡。只迷惑之外無他。爰當火光。河向見奇特之間。郎從四人忽死亡。而忠常依彼靈之訓。投入恩賜御釼於件河。全命歸參云々。古老云。是淺間大菩薩之御在所。往昔以降。敢不得見其所云々。今次第尤可恐乎云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

一日丁酉。晴る。將軍家、伊豆の奥の狩倉(かりくら)へ着御す。而るに伊東崎と號する山中に大洞(おほおら)有り。其の源(みなもと)の遠さを知らず。將軍、之を恠(あや)しみ、巳の尅、和田平太胤長を遣はして見せらるるの處、胤長、火を擧げて彼の穴に入る。酉の刻、歸參し、申して云はく、

「此の穴の行程數十里、暗くして日の光を見ず。一(いつ)の大蛇有り。胤長を呑まんと擬(ぎ)するの間、釼(つるぎ)を抜き斬り殺し訖んぬ。」

と云々。

三日己亥。晴る。將軍家、駿河國富士の狩倉に渡御す。彼の山麓に又、大谷(おほたに)〔之れを人穴と號す。〕有り。其の所を究められんが爲に、新田四郎忠常主從六人を入れらる。忠常、御釼(ぎよけん)〔重寳(ちやうはう)。〕を賜はり、人穴に入る。今日、歸り出でず、暮れ畢んぬ。

四日庚子。陰る。巳の尅。 新田四郎忠常、人穴を出で歸參す。往還に一日一夜を經るなり。

「此の洞、狹くして踵(くびす)を廻らす能はず。意(こころ)ならず進み行くに、又、暗くして心神を痛ましむ。主從各々松明(たいまつ)を取る。路次(ろし)の始中終(しちゅうじう)、水流、足を浸し、蝙蝠、顏に遮(さいぎ)り飛ぶこと、幾千万といふことを知らず。其の先途(せんど)は大河なり。逆浪(げきらう)、漲(みなぎ)り流れ、渡らんと欲するに據(よんどころ)を失ふ。只だ迷惑の外(ほか)、他(ほか)無し。爰に火の光に當り、河向ふに奇特(きどく)を見るの間、郎從四人、忽ち死亡す。而るに、忠常、彼の靈の訓(をし)へに依つて、恩賜の御釼を件(くだん)の河へ投げ入れ、命を全うし歸參す。」

と云々。

古老云はく、

「是れ、淺間(せんげん)大菩薩の御在所なり。往昔(わうじやく)より以降(このかた)、敢へて其の所を見ることを得ず。」

と云々。

「今の次第、尤も恐るべきか。」

と云々。

 

「伊東崎と云ふ所の山中に大なる洞あり」これについては一説に、「伊東崎」は静岡県伊東市南部にある美しい単成火山の大室山で、洞窟は、その北西側裾野にある熔岩洞穴とも伝えられている。

「和田平太胤長」(寿永二(一一八三)年~建暦五(一二一三)年)和田義盛の甥。弓の名手として知られたが、この後、建暦三年に同心した泉親衡の乱(信濃源氏の親衡が亡き頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとした事件であるが、多分に謀略臭い)発覚、陸奥岩瀬郡(現在の福島県)に流された。これを機に義盛が挙兵して和田義盛の乱となったが、執権義時方に敗れ、胤長も同年五月、配流の先で殺された。本話当時は満二十歳。

「巳の刻」午前十時頃。

「酉の刻」午後六時頃。

「數十里」は大袈裟。八時間で往復で、しかも足場の悪い洞窟内では、「十数里」でも覚束ない。冒頭から胤長の嘘が読める。大方、入口から程遠からぬところで、静かに隠れていたものであろう。

「十丈」約三〇メートル。

「富士の人穴」現在の静岡県富士宮市にある古代の富士山噴火によって形成された溶岩洞穴。ウィキ人穴」によれば、主洞は高さ一・五メートル、幅三メートル、奥行き約九〇メートル。最奥部から更に細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もある。江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講の開祖である角行(かくぎょう 天文一〇(一五四一)年~正保三(一六四六)年:江戸時代に富士講を結成した人々が信仰上の開祖として崇拝した人物。)は、永禄元(一五五八)年に人穴にやってきて修行をした。また富士講信者は富士参詣をすませると聖地人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされる。現在も洞内にはその時代に作られたとされる石仏が安置されている。「人穴」という名前の由来は、源頼朝が家臣をこの穴に潜らせたことから、人穴と呼ばれるようになったといわれる、とある。

「仁田士朗忠常」(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年)は伊豆国仁田郷(現在の静岡県田方郡函南町)の住人で、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵に十三歳で加わった。頼朝の信任厚く、文治三(一一八七)年正月、忠常が病いのために危篤状態に陥った際には頼朝自らが見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦、文治五(一一八九)年の奥州合戦においても戦功を挙げた。建久四(一一九三)年の曾我兄弟の仇討ちの際には兄の曾我祐成を討ち取っている。頼朝死後は第二代将軍頼家に仕え、頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父(めのと)となったが、建仁三(一二〇三)年九月二日に頼家が危篤状態に陥り、比企能員の変が起こると、忠常は掌を返して北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚比企能員を謀殺している。ところが三日後の五日に回復した頼家からは、逆に時政討伐の命令を受けてしまう。翌晩、忠常は能員追討の賞を受けるべく時政邸へ向かったが、彼の帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由として謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中、加藤景廉に殺害されている(以上はウィキ「仁田忠常に拠った)。彼も結局は「昔より遂に其内を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣に事を破」った実行既遂犯であった以上――ここでの教唆犯頼家の受けることになる「神罰」という名の「謀略」から、やはり遂に免れ得なかったのだ、ということであろう。本話当時は満三十六歳であった。

「已刻」午前十時頃。

「一日一夜」一昼夜であるから正味二十四時間。こちらは家来五人の内、四人が死亡していると報告しているから、かなり真面目に奥の奥まで探索したものと考えてよかろうか。――そうでないとすれば――四人の家来だけを奥の穴に無理矢理行かせ、戻って来ずなったによって帰ってきて大嘘をついた――という、胤長なんぞより遙かにトンデモ冷血漢ということにもなろうか。――仁田の実際の事蹟(前注参照)や、波瀾万丈の美事なる地底廻りの話っぷり、最後の神霊の出現の辺りの如何にもな感じからは――寧ろ、その残忍で打算的な男の可能性の方が、残念ながら私は高いようにも読めるのである。

「嘔噦(おゑつ)」は正しくは「おうゑつ」で(底本では「お」の下に空白があるので「う」は植字の脱落かも知れない)、しゃっくりやゲップ、吐きそうでいながら、物が出ないことをいう。

「修羅窟」六道の修羅道。

「事問ふべき都鳥」「伊勢物語」第九段の「東下り」の知られた和歌「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」を踏まえるが、この如何にもな落ち着いた引用装飾も、実にこの仁田の話柄全体の嘘臭さを高めていると言える。

「紅蓮、大紅蓮の地獄」地獄の中で、通常知られた地獄の業火ではなく、極度の寒冷に責め苦しめられる八種の地獄の内の二つ。「紅蓮地獄」はその第七とされ、正しくは鉢特摩(はどま)地獄で鉢特摩とは「蓮華」を意味するサンスクリット語の音写。ここに落ちた者は酷い寒さにより皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。次の「大紅蓮地獄」はその第八の地獄で、正しくは摩訶鉢特摩(まかはどま)地獄。摩訶は「大」を意味するサンスクリット語の音写。ここに落ちた者は紅蓮地獄を超える寒さにより体が折れ裂けて流血し、紅色の蓮の花に似るという。八寒地獄で最も広大とされる(以上はウィキ地獄」の記載を参照した)。

「七八十間」約一二七~一四六メートル。

「淺間大菩薩」木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)とされる富士の守り神である浅間大神を祀った浅間神社が神仏習合によってかく呼ばれた。]

耳嚢 巻之六 人魂の事

 人魂の事

 

 或人葛西(かさい)とやらんへ釣(つり)に出しに、釣竿其外へ夥敷(おびただしく)蚋(あぶ)といへる蟲のたち集りしを、かたへにありし老叟(らうさう)のいへるは、此邊に人魂の落(おち)しならん、夫(それ)故に此蟲の多く集(あつま)りぬるといひしを、予がしれるもの、是も又拂曉(ふつぎやう)に出て釣をせしが、人魂の飛(とび)來りてあたりなる草むらの内へ落ぬ。いかなるものや落しと、其所(そこ)へ至り草などかき分け見しに、泡だちたるものありて臭氣もありしが、間もなく蚋となりて飛散りしよし。老叟のいひしも僞ならずと、かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:死後も執心の守銭老人から、死後の人魂で軽く連関するように感じられる。

・「蚋(あぶ)」は底本のルビ。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「アブ」とカタカナでルビする。アブは狭義には昆虫綱双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ科 Tabanidae に属する主に吸血性の種を指す。但し、人や地方によっては、双翅目や短角亜目に属するより広い範囲の種をアブと呼称するし、和名の中に「アブ」と名打つ種は直縫短角群(ちょくほうたんかくぐん Orthorrhaphous 双翅目短角亜目に属する昆虫の中で単系統群である環縫短角群のハエを除外したものの総体(側系統群)、所謂、生物学的な広義のアブ)とは完全には一致しない(以上は主にウィキアブ」及び直縫短角群に拠った)。

・「老叟」は年とった男性、老翁であるが、何故か岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「老婆」となっている。船釣りに出たのであれば老婆は不自然であるが、「かたへにありし」という表現は、遇然に傍にいた、ともとれることから、これは河口付近で岡釣りに出たのだともとれ、それならば、この老婆の急の登場、これ、逆にホラー効果を高めるとも言える。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 人魂の事

 

 ある人が――葛西辺りで御座ったか――釣りに出たところ、釣竿や魚籠(びく)その外に「虻」と申す虫が夥しく集(たか)って御座った。

 すると、それを見たる老爺が、ぽつりと、

「……これは……この辺りへ……人魂の落ちたに、違いない。……さればこうして、この虫がよう、集まって来るのじゃて。……」

と呟いたと申す。……

 

 今一つの話。

 私の知れる者が――この話でもまた、やはり夜明け方に出て釣りへ行った――ところが、人魂が飛び来たって、かの者の釣り致いて御座った近くの叢(くさむら)うちに落ちた。

「……さても……如何なるものの……落ちたものか?」

と、その落ちた辺りへ向かって、草なんどを掻き分け、掻き分けして見たところが……

……何やらん……

……じゅくじゅくと……

……白う泡立った……

……奇体な塊のあって……

……何とも言えぬ……

……生臭い……

……嫌(いやー)な臭気も……

……これ……漂って御座った。――

……ところが……この泡の塊のようなるもの……間もなく……

……無数の……

……これ……虻となって……

……何処(いずこ)へか……飛び散ってしもうた。――と申す。……

 

「……なるほど。……されば先の話で老爺の申したことも、これ、偽りにては御座らぬかのう……」

と、私と後の話をした御仁と、語り合(お)うたことで御座った。

鳥の毛の鞭 大手拓次

 鳥の毛の鞭

尼僧のおとづれてくるやうに思はれて、なんとも言ひやうのない寂しさ いらだたしさに張りもなくだらける。
嫉妬よ、嫉妬よ、
やはらかい濡葉(ぬれば)のしたをこごみがちに迷つて、
鳥の毛の古甕色(こがめいろ)の悲しい鞭にうたれる。
お前はやさしい惱みを生む花嫁、
わたしはお前のつつましやかな姿にほれる。
花嫁よ、けむりのやうにふくらむ花嫁よ、
わたしはお前の手にもたれてゆかう。

一言芳談 九十九

   九十九

 明遍云、出家遁世の本意(ほんい)は、道のほとり、野べの間にて死せむことを期(ご)したりしぞかしと、如此(かくんごとく)おもひつれば、いかに心ぼそき事にあふとも、一念も人をうらむべからず。それにつけても佛力(ぶつりき)をあふぐべきなり。

〇佛力を、法然上人のをしへにも、臨終の知識はなくとも佛をたのみて往生すべしと侍り。

[やぶちゃん注:Ⅱの大橋氏の注に「一遍上人語録」の巻下から以下のように引用する(恣意的に正字化した)。
わが門弟におきては、葬禮の儀式をとゝのふべからず。野に捨て獸にほどこすべし
「人をうらむべからず」この「べし」は確述若しくは当然の意で、「人を恨むことはないはずである」の謂い。]

2013/02/27

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 一 群集

      一 群集

 

 ある種類の動物が、一箇處に澤山集まつて居ることのあるは、誰にも氣のつく著しい事實である。例ヘば春から夏にかけて、暖な時節になると、毛蟲が澤山に出て來るが、中には樹の膚が見えぬ程に幹にも枝も一杯に居ることがある。また「ばら」・菊・「はぎ」その他の草花類の新しい芽の處に、「ありまき」が壓し合ふ程に一面に集まつて居ることがある。田畝の流れに「めだか」が游いで居るのを見ても、禁獵地の池に鴨の浮んで居るのを見ても、皆必ず群をなして居て、單獨に離れて居るものは殆どない。かく多數に集まる原因は場合によつて必ずしも一樣ではないが、相集まつて居る以上は、とにかく群集に基づく利益を得て居ることは慥である。

 生物の中には風に吹かれ浪に流されて、同じ處に無數に集まるものがある。「夜光蟲」などはその一例で、海岸へ吹き寄せられた處を見ると水が一面に桃色になる程で、幾億疋居るか幾兆疋居るかその數は到底想像も出來ぬ。「數の子」の一粒にも及ばぬ小さな蟲が、殆ど水を交へぬ程に密集して、數十粁に亙る沿岸の波打ち際に打ち寄せられて居ることが屢々あるが、僅二三十疋づつ硝子瓶に入れて、五十錢にも賣つて居る標本商の定價表に從つたならば、世界中の富を悉く集めてもその一小部より外は買へぬであらう。但しこれは潮流の關係で芥が寄るのと同じく單に機械的に集まるのであるから、自身から求めてわざわざ集まる他の生物の群集とは素より趣が違ふ。ときどき海水を腐らせて水産業者に大害を與へる赤潮の微生物も、略々これと同じやうな具合で、突然無數に寄つて來ることがあるかと思ふと、その翌日はまるで一疋も見えぬこともある。尤も絶えず蕃殖するから、その增加するのは單に他から集まるのみではない。同じ方角の風が吹き續くと、沖の方から「かつをのゑぼし」が無數に濱へ寄つて來て、幾萬となく打ち上げられたものが腐敗して臭氣を放つので、その邊の者が大に迷惑するやうなこともときどきある。

Kagerou

[「かげらふ」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 動物にはそれぞれ生活に必要な條件があるが、かやうな條件の具はつてある處には、これに適する動物が集まつて來る。日光を好むものは日向に集まり、日光を嫌ふものは日陰に集まる。掃溜を掘つて「やすで」の塊を見出すのはそれ故である。食物が多量にある處へは無論これを食ふものが集まつて來る。毛蟲や芋蟲が大群をなして居る場合は即ちかゝる原因による。また「ありまき」の如きものは、運動の遲いために遠くへは行かず皆生まれた處の近邊に留まるので、大群を生ずることがある。「かげろふ」といふ「とんぼ」に似た蟲の幼蟲は長い間水中に生活して居るが、それが孵化するときは幾萬となく、同時に水から飛び出すから、暫時大群が生じ通行人の顏や手に留まつて、うるさくて堪へられぬ。「いなご」が非常な大群をなして移動し、到る處で綠色の植物を殘らず食ひ盡すことは昔から有名な事實であるが、これも恐らく同じ時に卵が揃つ孵化した結果であらう。

[やぶちゃん注:「かげろふ」昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫の総称。昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。幼虫はすべて水生。不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態を行い、成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。参照したウィキカゲロウ」によれば(この記載は優れて博物学的である)、目の学名はギリシャ語でカゲロウを指す“ephemera”と、翅を指す“pteron”からなるが、この“ephemera”の原義は “epi”(on)+“hemera”(day:その日一日)で、カゲロウの寿命の短さに由来する(ギリシャ語で“ephemera”(エフェメラ)は、チラシやパンフレットのような一時的な筆記物及び印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す語としても用いられるが、これも、やはりその日だけの一時的なものであることによる)。和名の「カゲロウ」については、『空気が揺らめいてぼんやりと見える「陽炎(かぎろひ)」に由来するとも言われ、この昆虫の飛ぶ様子からとも、成虫の命のはかなさからとも言われるが、真の理由は定かでない。なお江戸時代以前の日本における「蜉蝣」は、現代ではトンボ類を指す「蜻蛉」と同義に使われたり、混同されたりしているため、古文献におけるカゲロウ、蜉蝣、蜻蛉などが実際に何を指しているのかは必ずしも明確でない場合も多い』。『例えば新井白石による物名語源事典『東雅』(二十・蟲豸)には、「蜻蛉 カゲロウ。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」とあり、カゲロウをトンボの異称としている風である。一方、平安時代に書かれた藤原道綱母の『蜻蛉日記』の題名は、「なほものはかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし」という中の一文より採られているが、この場合の「蜻蛉」ははかなさの象徴であることから、カゲロウ目の昆虫を指しているように考えられる』。『クサカゲロウやウスバカゲロウも、羽根が薄くて広く、弱々しく見えるところからカゲロウの名がつけられているが、これらは完全変態をする昆虫で、カゲロウ目とは縁遠いアミメカゲロウ目に属する』とある。最後の部分は補注すると、クサカゲロウは、

有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae

に属し、ウスバカゲロウも、

脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae

に属する。形状は似ているものの、全く異なった種である。]

Inago

[「いなご」の大群]


[黑雲の如くに日光を遮る。我が國の内地へはかやうの大群の渡り來ることがないけれどもアジヤ、ヨーロッパ等の大陸地方では往々これに襲はれ瞬く間に作物を悉く食ひ盡されることがある。]

[やぶちゃん注:本図は底本では省略されているため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 

 右の如きものの外に、動物には自ら同種相求めてわざわざ群集を造つて生活するものが少くない。淺い處に住む海産魚類の中に、形が「なまづ」に似て、口の周圍に幾本かの鬚を有する「ごんずゐ」と名づける魚があるが、これなどは特に群集を好むもので、水族館に飼つてあるものを見ても、常に多數相集まつて、殆ど球形の密集團を造つて居る。二―三糎にも足らぬ幼魚でも明にこの性質を現し、球形の塊りになつて游ぎ廻るから、漁夫の子供らはこれを「ごんずゐ玉」と呼んで居る。試に竹竿を以てかやうな「ごんずゐ玉」を縱横にかき亂すと、一時は多少散亂するが、竹竿を退けるや否や、直に舊の通りの球形に復する。「ごんずゐ」は小さな球形の群集を造るから、特に眼に立つが、見渡し切れぬ程の大群集を造る魚類も少くない。「いはし」「にしん」などはその例で、大きな地曳き網を引き上げる所を見物すると、實に無盡藏の如くに思はれるが、その盛に密集して居る處では、魚が互に押し合ふために、海の表面から上へ現れ出る位であるといふ。その他、鰹でも「さば」でも「たら」でも一定の處に非常に澤山に寄つて來るので、漁獲の量も頗る多く、隨つて水産物中の重要なものと見做されるのである。

Gonzui

[ごんずゐ]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】]

 

[やぶちゃん注:「ごんずゐ」硬骨魚綱ナマズ目ゴンズイ科ゴンズイ Plotosus japonicus。和名は権瑞と書く。ウィキのゴンズイによれば、体長一〇~二〇センチメートルに達するナマズ目の海水魚で、『茶褐色の体に頭部から尾部にかけて二本の黄色い線がある。集団で行動する習性があり、特に幼魚の時代に著しい。幼魚の群れは巨大な団子状になるため、「ごんずい玉」とも呼ばれる。この行動は集合行動を引き起こすフェロモンによって制御されていることが知られている』。『背びれと胸びれの第一棘条には毒があり、これに刺されると激痛に襲われる。なお、この毒は死んでも失われず、死んだゴンズイを知らずに踏んで激痛を招いてしまうことが多いため、十分な注意が必要である』とあり、また、『地方によっては味噌汁や天ぷらなどで食されることがあ』るとあるが、残念なことに私はまだ食したことがない。因みに和名の由来は牛頭人身の地獄の鬼卒の牛頭に頭部が似ていることから牛頭魚(ゴズイオ)と呼ばれたものが訛ったという説がある。確かにゴンズイの頭部は牛に似ていないとは言えず、鰭の毒腺によっても悪しき印象なればこそ、しっくりくる説明ではある。他にも中部地方で雑魚のことを「ゴズ」または「ゴンズリ」と称することからから、それが訛ったという説もある。なお、植物でバラ亜綱ムクロジ目ミツバウツギ科に、同様の和名を持つゴンズイ属 Euscaphis があるが、これは薪以外に使い道がなく役に立たないところから、同様に役に立たない魚である「ゴンズイ」に擬えた命名と言われる(植物の方のゴンズイは漢字表記では「権萃」)。

――なお、ここでどうしても述べておきたいのだが、私はこうした危険動植物の例記載に際しては、生物学者なればこそ、それがたとえ本論と大きく外れる場合であっても、必ずその危険注記を附すべきである、と私は考えている。例えば、ここで丘先生は漁夫の小どもの遊びの例(遊びとはおっしゃっていないが遊びとしか読めない)を示しておられるが、都会の子がこの叙述だけを読んで、誤って「ごんずい玉」に手足を差し入れた時のことを、私は科学者たる生物学者だからこそ、注意書きしなてはならない、と思うのである。これは丘先生一人への批難ではない。私は幼少の頃から、各種の生物図鑑で、本来、その扱いに注意が必要な危険生物について、しばしばそうした不記載があることに強い不満を感じ続けてきたからである。

――私は「科学的」であるということは、何よりも興味深く面白いことを喚起しながら、同時に時として個人の身体や生命、いや、人類の生存さえ危険が及ぶこともあることを必ず謂い添えて学ばせることが「科学的」であることの本質と理解しているのである。科学は原子力の似非安全性や非科学的な経済効果に奉仕するためにあってはならないのである。池内了氏が主張なさっているように(私が教師時代後期に新聞記事で教授したように)、今も昔も、真の――科学者たるものは社会のカナリアにならねばならぬ――と切に思うからでもある。]

Ahoudori

[「あはうどり」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 鳥類や獸類にも群居するものは甚だ多い。その中でも特に著しいのは海鳥や海獸の類で、遠洋の無人島に於ける海鳥群集の有樣は、實地を見たことのない人には到底想像も出來ぬ。南鳥島とか東鳥島とかいふ名も、島中が鳥で一杯になつて居る所から附けたのであらう。海鳥は魚類を常食とするから糞の中に多量の燐が含まれてある。それ故海鳥の糞は肥料としては甚だ有功なもので、價も相應に高い。海鳥の群集して居る島にはこの貴重な糞が何百年分も堆積しているから、これを掘り取ると一角の富源なる。無人島に居る海鳥の中で主なるものは「あはうどり」で、翼を擴げると一米半もある大鳥であるが、人が來ても逃げることを知らず、ただ魚の消化した臭い汁を吐き掛けるだけで、棒で打ち殺すことは何でもない。南極近くに居る「ペンギン鳥」も、殆ど無數に群がつて居る處があるが、これらの鳥はたゞ集まつて居るといふだけで、互に相助けるといふ如きことは決してせず、恰も電車の乘合客のやうに、相罵りながら押し合つて居る。「ペリカン」なども、動物園や見世物で一、二疋を見ると頗る珍しい鳥の如くに思はれるが、その集まつて居る處には殆ど無限に居る。

[やぶちゃん注:「南鳥島」一つは本州から一八〇〇 キロメートル離れた日本最東端として知られる小笠原諸島の南鳥島がある(東京都小笠原村に属すが、海上自衛隊硫黄島航空基地隊の南鳥島航空派遣隊や気象庁南鳥島気象観測所、関東地方整備局南鳥島港湾保全管理所の職員が交代で常駐するのみ)。他にも小笠原諸島の母島(ははじま)列島内にも無人島の小島で南鳥島という同名の島がある。

「東鳥島」という島名は不詳。識者の御教授を乞う。

「あはうどり」ミズナギドリ目アホウドリ科キタアホウドリ属アホウドリPhoebastria albatrus。漢字表記は「阿呆鳥」「阿房鳥」「信天翁」で最後は「しんてんおう」とも読む。和名は人間が接近しても地表上では動きが緩慢で本文にある通り、捕殺が容易だったことに由来する。北太平洋に分布し、夏季はベーリング海やアラスカ湾・アリューシャン列島周辺に渡り、冬季になると繁殖のために日本近海へ南下する。現在、本文中に示された鳥島や尖閣諸島北小島及び南小島でのみ繁殖が確認されている。かつての羽毛目的の乱獲により生息数は激減した。一九三九年には残存していた繁殖地である鳥島が噴火し、一九四九年の調査でも発見されなかったため、鳥島では絶滅したと考えられていたが、一九五一年で繁殖している個体が再発見され、保護活動が行われている。特別天然記念物。二〇一〇年に於ける調査では鳥島のアホウドリ集団の総個体数は二五七〇羽と推定されている(以上はウィキの「アホウドリ」に拠った)。]

Ottosei

[「をつとせい」の群集]

[やぶちゃん注:本図は底本の刷りが非常に薄いため、国立国会図書館蔵の大正一五(一九二六)年版の図を同ホームページより挿絵のみトリミングして転載した。【2014年1月4日上図正式追補・国立国会図書館使用許諾済(許諾通知番号国図電1301044-1-5703号)】] 

 「あざらし」・「をつとせい」の如き海獸は皆大群をなして生活する。「いるか」なども、何十疋か揃つて汽船と競爭して泳いで行くのを見掛けることがある。陸上の動物でも羊・山羊・鹿・「かもしか」などを始め兎・鼠に至るまで、植物を食ふ獸類には群棲するものが甚だ多い。これらは皆單獨の生活を恐れ、なるべく群集から離れぬやうに注意し、萬一少しく離れることがあつても、直に群集の方へ歸つて來る。しかし群集の中では互に相助けることはなく、食物を奪ひ合つて喧嘩をするものも絶えぬ。或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつたが、普通の動物の群集も多くはこれに似たものであらう。但し一疋が危險を見附けて逃げ出せば、他はこれに雷同して全部殘らず逃げ去るといふ便宜はある。

[やぶちゃん注:『或る書物に、人間の社會を冬期に於ける「はりねずみ」の群集に譬へて、全く相離れては寒くて堪らず、また密接し過ぎては痛くて困る。その中間に當る適度の距離が、所謂禮儀・遠慮であると書いてあつた』とあるのは哲学者ショーペンハウアーの随筆集「余禄と補遺」(パレルガ・ウント・パラリポメナ)第二巻に載る寓話を指す。但し、正確にはこれを精神分析学者フロイトが「ヤマアラシのジレンマ」と呼んだことで、広く知られるようになったもので、「ハリネズミ」は誤りである(ヤマアラシとハリネズミの違いについては後述する)。以下、その訳をヤフー知恵袋の「ショーペンハウアーのヤマアラシのジレンマはどの本に載っていますか?」の答えにある秋山英夫氏訳になる「ショーペンハウアー 随想録」(白水社一九九八年復刊とある)から孫引きさせて頂く(カンマを読点に変更した)。

   《引用開始》

 やまあらしの一群が、冷たい冬のある日、おたがいの体温で凍えることをふせぐために、ぴったりくっつきあった。

 だが、まもなくおたがいに刺の痛いのが感じられて、また分かれた。

 温まる必要からまた寄りそうと、第二の禍がくりかえされるのだった。

 こうして彼らは二つの難儀のあいだに、あちらへ投げられこちらへ投げられしているうちに、ついにほどほどの感覚を置くことを工夫したのであって、これでいちばんうまくやっていけるようになったのである。

 ――こうして、自分自身の内面の空虚と単調から発した社交の要求は、人びとをたがいに近づけるが、そのいやらしい多くの特性と耐えがたい欠陥は、彼らをふたたび突きはなすのである。彼らがついにあみだした中ぐらいの距離、そして共同生活がそれで成り立ちうるほどのへだたりというのが、礼節であり、上品な風習というわけだ。(中略)

 しかし心のなかにたくさんの量の温か味をもっている人は、めんどうをかけたりかけられたりしたくないために、むしろ社交界から遠ざかっているのである。

   《引用終了》

即ち、「ヤマアラシのジレンマ」とは、人間社会に於ける自己自立の欲求と、他者との一体感希求という相反する二つの欲求のアンビバレンツによるジレンマのことを指す。但し、ウィキの「ヤマアラシ」の解説にもあるように、心理学的には以上のような二律背反的な否定的意味以外に、『「紆余曲折の末、両者にとってちょうど良い距離に気付く」という肯定的な意味として使われることもあり、両義的な用例が許されている点』で注意が必要である。

 さて、同ウィキのよればヤマアラシは、

哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科のヤマアラシ科 Hystricidae 及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae

に属する草食性齧歯類の総称で、体の背面と側面の一部に鋭い針毛を持ち、『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇する。そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進する。針毛は硬く、ゴム製の長靴程度のものなら貫く強度がある』と記す。なお、ヤマアラシの棘は長く、外に向かって開くようにして逆立ち、対象に刺さると自切して抜ける点が特徴的である。

対する「ハリネズミ」はヤマアラシとは全く異なる生物種で、

哺乳綱ハリネズミ目ハリネズミ科ハリネズミ亜科 Erinaceinae

に属する、ミミズなどを採餌する雑食性の哺乳動物である。針状の棘は体毛の一本一本が纏まって硬化したもので、ヤマアラシのそれとは異なり、対象に刺さっても棘は抜けず、逆立てる場合も、内向きに重なり合うようする(以上は主にウィキの「ハリネズミ」などを参考にした)。同ウィキにも『ハリネズミはハリモグラやヤマアラシと混同されやすいが、ハリモグラは単孔目(カモノハシ目)、ヤマアラシは齧歯目(ネズミ目)であり、いずれも系統分類的にはハリネズミとは無関係である』とある。なお、ウィキの「ヤマアラシ」によれば、『実際のヤマアラシは針のない頭部を寄せ合って体温を保ったり、睡眠をとったりしている』とあって、しっかり身を寄せ合うことが出来ることも言い添えておきたい。]

 

 野牛の群れが虎などに襲はれた場合には、強い牡牛は前面に竝んで敵に向ひ、弱い牝や子供はなるべく奧へ入れて保護するが、かやうな團體は「あはうどり」や「ペンギン鳥」の群集とは幾分か違ひ、若干の個體が共同の目的のために協力して働くのであるから、多少社會を形造る方向に進んだものと見做せる。また狼なども多數相集まつて、牛の如き大きな獸を攻めることがあるが、これもそのときだけは一つの社會を組み立てて居るといへる。但し元來互に相助ける性質のないものが、たゞ餌を食ひたいばかりに合同して居るのであるから、敵を倒してしまへば、利益分配に就いて説が一致せず、忽ち互に相戰はざるを得ぬやうになる。これらの例を見てもわかる通り、簡單な群集から複雜な社會までの間には種々異なつた階段があつて、臨時の社會、不完全な社會などを順々に竝べて見ると、その間に判然たる境界のないことが明に知れる。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松个岡 甘露井

   松个岡 甘露井

 

東慶寺(とうけいじ)は、松が岡といふ。圓覺寺(ゑんがくじ)の南にあり。禪宗にて尼寺なり。開基は北條時宗(ときむね)の妻、秋田城介(あきたじやうのすけ)の娘にして、潮音院覺山志道禪尼(てうおんいんがくさんしだうぜんに)といふ。第二十世の住職は、豐臣秀賴公の息女なり。佛殿の後ろにその石塔婆(せきとうば)あり。甘露の井も、この邊(へん)なり。鎌倉十井の内の、その一つなり。

〽狂 常盤(ときは)なる松が

   おかとてあぢ

        はへば

 ちとせを

   のぶる甘露井(かんろい)も

        あり

旅人

「これはうつくしいお比丘尼(びくに)だ。坊さまにしておくはおしいものだ。」

「この前、儂(わし)が奧州へいつたとき、ある旅籠屋(はたごや)で、

『飯盛(めしもり)をかをふ』

といつたら、

『こゝには飯盛はござりませぬ、比丘尼があります、よんで御らうじませぬか』

といふから、

『こいつはめづらしい。話の種だ、かつて見やう』

と呼びにやつて、見たところが、くろい頭巾(づきん)をかぶつて、つまらない顏附きの比丘尼、

『お勤めは幾らだ』

ときいたら、

『お布施は三百だ』

といふ。

『木綿の洗濯物をきてゐるものを、三百とは、あたじけない』

と思ひながら、ねて見たところが、どうも坊主くさくていやだから、すぐにねたふりをしてゐると、その比丘尼が、そつと儂が鼻へ手をあてゝ寢息をかんがへるから、

『こいつ、氣味のわるいおかしなことをする』

と思ひながら、いよいよねたふりをしてゐたら、やがて、その比丘尼がそつとおきて、後先(あとさき)を見まはし、頭巾をとつて、兩手で頭をごしごしとかいたが、その頭が毬栗頭(いがぐりあたま)で、

『さては今まで頭のかゆいのをこらへてゐたのか』

とおかしく、それなりでねてしまつたが、翌朝、そこをたつて、先の立場(たてば)の茶屋できいたら、あの宿(しゆく)の比丘尼は、麥一升づゝでうりますといつたものを、三百とられて、とんだ目にあつたことがあつたから、儂は、比丘尼には、こりはてたものさ。」

[やぶちゃん注:標題「松个岡」は「まつがおか」、「甘露井」は「かんろゐ」と読みを振っている。

「秋田城介」(あきたじょうのすけ)は名前ではなく、出羽国の秋田城を専管した国司の称号で、ここでは安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)を指す。彼は安達景盛の嫡男で北条時宗の父時頼の得宗専制体制に尽力した人物である。

「潮音院覺山志道禪尼」(建長四(一二五二)年~徳治元(一三〇六)年)は、現在の読みでは「かくさんに」と濁らない。彼女は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で滅ぼされた義景の三男泰盛の妹に当たる。覚山尼は時宗の臨終に際して弘安七年に落飾しているから、その翌年に実家安達家の滅亡の遭遇している。

「豐臣秀賴公の息女」天秀法泰尼。寛永年間から二十世として活躍、将軍家との特別な俗縁によって、江戸期を通じて守られた駆入寺法(縁切り寺法)の守護者と伝えられる尼である。

「甘露の井も、この邊なり」は頗る興味深い謂いである。詳細はかつて鎌倉攬勝考卷之一の「五名水」で考証したので詳細はそちらに譲るが、「鎌倉五名水」というのが別にあって、ある説にその一つを「甘露水」といい、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは実際に現在、訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、「新編鎌倉志」で初めて示されたところの名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

という記述を見出す。ここではっきりするのは、どうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、そうして、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったかが同定できなくなっていたことが分かるのである。さればこそ、私には一九の「この邊なり」という不定の謂いが、実に正確であると思うのである。

「飯盛」飯盛女。旅籠屋での接客をする女性のことを言うが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道で早くに見られ、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)であった。飯盛女を抱える旅籠屋を飯盛旅籠屋といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき二人までを許可している。なお、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、しだいに宿内や近在、とくに助郷村(すけごうむら:街道宿駅の常備人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたすために補助的に人馬を提供した宿駅近傍の郷村のこと)の農民を対象とするようになり、しばしば宿と助郷間の紛争の種となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。先の佐助稻荷 岩屋堂の私の注も参照のこと。

「比丘尼」これは元は歌比丘尼。熊野比丘尼、絵解比丘尼と称して、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人を起源とするが、江戸期には尼の姿で売春を行った低級私娼を指すようになった。

「あたじけない」通常は、吝嗇だ、しみったれだ、の謂いで用いるが、ここは原義の「欲が深い」の意である。

「洗濯物」汚れた衣服のこと。

「毬栗頭」髪を短く丸刈りにした頭。比丘尼私娼であるから、外見上、坊主であるかのように見えるように髪を短く刈り込んでいるのを黒頭巾で覆って隠していたのだが、恐らくは房事の最中も頭巾を附けたままであったがために、汗で蒸れて痒くなったのであろう。さすれば彼女は、心機一転売りを狙って俄か比丘尼私娼をコスプレした、飯盛女ででもあったのかも知れない。男の眼を気にして、そこはかとなく、哀れな気もしてくるではないか。]

病氣した(海底/魚介) 萩原朔太郎

     海底

 病氣した

     魚介

 

うにのぐにやぐにやにただれたうにの肉とくさつた海綿のはらはたから

なまこの赤い花がさき

ひもくらげのうすらあかりで

病氣のたこが手をくひ

いそぎんちやくが手がしなりしなり

また遠い海岸の岬では

いそぎんちやくの纎手が

くらげひとでのまるい口

魚の耳

ひとでの口

いそぎんちやくの纎毛

さゞえの耳

いそぎんちやくの手

足をたべる病氣のたこのたぐひが足をたべる光景

また水のしたにはわがふむ水の底には

靑貝をたべる光景

またこゝの淺洲には

わがくされたるものつた肉をくふ

わがしんけいの根をくふつめた貝

 

[やぶちゃん注:底本の第三巻『草稿詩篇「未發表詩篇」』(四八〇頁)に載るもの。題名は底本では「海底」「魚介」が「病氣した」の下に併記されてある。取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。因みに、底本では「ひもくらげのうすらあかりで」から「いそぎんちやくの手」までの十一行を、推敲過程で抹消されずに残った併記語句と捉えており、更にその前半の「ひもくらげのうすらあかりで」から「いそぎんちやくの纎手が」までの五行と、「くらげのひとでのまるい口」から「いそぎんちやくの手」までの六行がその中で対応する推敲詩句であると捉えている。また、総草稿原稿標題と一行目の前には底本で無題を示す編者による「〇」が打たれているが省略した。 削除部分を除去すると、

     海底
 病氣した
     魚介


ぐにやぐにやにただれたうにの肉とくさつた海綿のはらはたから
なまこの赤い花がさき
ひもくらげのうすらあかりで
遠い岬では
いそぎんちやくの纎手が
魚の耳
ひとでの口
さゞえの耳
いそぎんちやくの手
病氣のたこ足をたべる光景
靑貝をたべる光景
またこゝの淺洲には
わがしんけいの根をくふつめた貝


となる。

……さても……如何にも僕好みの……饐えた、畸形の、海の標本箱だ……

耳嚢 巻之六 吝嗇翁迷心の事 その二

 又

 或在方に、かるき百姓の、農事商ひ等に精入れ稼ぎけるが、僅(わづか)に金子五兩を貯へしが、其邊常に立(たち)入る富家(ふうか)のあるじに向ひ、寔(まこと)に精心を表して死金(しにがね)を貯へ候が、貧家に置(おき)て盜難もおそろしければ、預り給はるべしと願ひしに、彼(かの)富翁(ふをう)も、渠(かれ)が精心を憐みて、そのこひにまかせ預りしが、四五日過(すぎ)て又來り、此間(このあひだ)の金を見せ給わるべしと乞ひし故、差出遣(さしだしつかは)し候處改(あらため)候て、又々預り呉(くれ)候樣(やう)にと、いふにまかせ預りしに、又四五日過て同(おなじ)やうに來りて、金を乞ひ改め、預けぬ。かゝる事四五度に及(および)しかば、富翁大(おほい)に憤りて、我(われ)なんぞ汝が金を預るにおろそかなるべしや、聊(いささか)の金子に度々來りて煩(わづらひ)をかくる事、何とも迷惑なれば、最早預りがたしと差戻しければ、ほうぼうと持(もち)歸りけるが、四五日も見へざる故尋(たづね)しに、彼もの右の五兩の金を握りて死し居(ゐ)けると也。人々哀(あはれ)と思ひて、彼金にて葬式等をなし、ねんごろに吊(とむらは)んとて、握りし金をとらんとせしが何分放さゞれば、せん方なく是も其儘に葬りしと也。

□やぶちゃん注
○前項連関;守銭院吝嗇翁居士「死ンデモ金ヲ放シマセンデシタ」二連発。
・「ほうぼうと」副詞「這ふ這ふ」の「はふはふ(ほうほう)」か。ならば、「あわてて」の意。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は「しをしをと」で、これなら副詞「萎萎」「悄悄」の「しおしお」で、気落ちして元気がないさま。悄然と。しょんぼりと、となる。後者を訳では用いた。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭院吝嗇翁居士の死しても金への迷妄の消えざりし事 その二

 ある田舎にてのこと。
 賤しき百姓男が、野良仕事の他に、ちょっとした行商なんどに精を出し、小金を稼いで御座ったと申す。
 僅かに金子五両ばかりが貯まったところで、男の在所の近くにて、日頃から出入りして御座った裕福なる農家へと赴き、その主(あるじ)に向(むこ)うて、
「……まことに一途に、稼いで稼いで、ここにこうして、己(おの)が死金(しにがね)として貯へて参りましたが……我らが貧家に置きおいては、これ、盜まるること、恐ろしゅう感じますればこそ……どうか一つ、こちらさまにて、お預り下すっては頂けませぬかのぅ?」
と願(ねご)うたによって、かの富農の老主人も、男の一念の志しを憐れんで、その乞いに任せて預ったと申す。
 ところが、四、五日ほど過ぎて、かの男、また来たっては、
「……このあいだの金……お見せ下さいませぬか?……」
と乞うたによって、厳重に仕舞い置いたる納戸より、かの五両を取り出だいて、差し出し見せてやったところ、男は――しけじけ――一枚一枚を――舐め齧って――改めた上、またしても、
「……確かに。……さても続いて預り下さいまするように。……」
と申す。その改めように、何やらん、厭(いやー)な気がしないではなかったが、また、言うに任せて預って御座ったと申す。
 ところが、またまた、四、五日過ぎて、男、同じ如、参っては、金を乞うて出ださせ――またしても――しけじけ――舐め齧っては改め――再び預けて御座ったと申す。
 かかることが、これ、四、五度にも及んだによって、鷹揚なる老主人も流石に大いに憤り、
「我れ、なんぞ! そなたが金を預るに、いい加減に――その辺に転がしておき、誰かに盗まれたり、贋金にすり替えられたりするような――そんな疎(おろそ)かなこと、これ、しようものカイ! たかが五両ばかりの金子がために、度々来たっては、しけじけ舐め齧って改め、時と手間の煩いを我らにかくること、これ、迷惑千万! 最早、預り難い!」
と啖呵を切って突っ返したところ、男は如何にもしょんぼりとして、持ち帰って御座ったと申す。
 それから四、五日経っても、男の姿を見る者がなかったゆえ、少々、きつく言い過ぎたかと思うた老主人が散歩のついでに男の家を訪ねてみたところが……
……かの者……
……あの五両の金を……
……握りしめたままに……
……薄汚れた囲炉裏端にて……
……坐ったまま……
……とうに……
……冷とうなって御座った。――
 在所の者どもも皆、哀れに思うて、
「……死金として大事大事に致いたものなれば、かの五両の金をもって葬式なんどをなし、懇ろに弔(とむろ)うてやるがよろしかろう……」
ということになり、握って御座った金子を取ろうとしたところが……
……これ……
……いっかな……
……放さぬ――
……なれば、仕方なく――これも前話と同様――その金子を握ったままに、葬ったとのことで御座る。

一言芳談 九十八

   九十八

 

宝幢院本願(ほうだうゐんのほんぐわん)云、むかしの上人は、一期(いちご)道心の有無を沙汰しき。次世(つぎのよ)の上人は法文を相談す。當世の上人は合戰物語(かせんものがたり)云々。

 

〇宝幢院本願、宝幢院は高野山にあり。本願上人は寛泉房(くわんせんばう)の事か。叡山の西塔をも宝幢院といふ。

〇沙汰、すなをあらひいだすがごとく、たがひにいふて、よく義理をつくるを、さたといふなり。

 

[やぶちゃん注:前段を補強するための同内容の再話。最後の「合戰物語云々」がスパイスとして利いている。

「宝幢院本願」Ⅱの大橋氏注に、諸資料の証左を掲げられた上で、『高野山宝幢院(現在は廃寺)を指すらしい』と推定され、『「本願」は中世の高野山では念仏行者を総称した語。高野山宝幢院の本願上人ということになるが、誰を指すか未詳』とされている。「標注」の「寛泉房」なり人物は、調べてみたところ、「法然上人行状絵図」の第四十八巻に、まさに高野山宝幢院の上人として登場することから、以上の大橋氏の推定の強力な証左の一つになる(大橋氏は同書の第九巻を揚げておられるが、こちらは示されておられない)。以下、ウィキ空阿弥陀仏」の注5に載せる該当部分の説話を恣意的に正字化して孫引きしておく(但し、ここでは本願上人は話柄の主体者ではない)。

高野山寶幢院に、寛泉房といへるたとき上人ありき。彼舍弟、天王寺に住しけるが、あるとき天狗になやまさるゝ事ありけり。かの天狗は、天王寺第一の唱導、念佛勸進のひじり、東門の阿闍梨なりける。託していはく、われはこれ東門の阿闍梨なり。邪見をおこすゆへに、この異道に墮せり。われ在生の時おもひき。我はこれ智者なり。空阿彌陀佛は愚人なり。我手の小指をもて、なお彼人に比すべからずと。しかるに彼空阿彌陀佛は、如説に修行して、すでに輪廻をまぬかれて、はやく往生を得たり。我はこの邪見によりて、惡道に墮し、なを生死にとゞまる。後悔千萬、うらやましきことかぎりなしとてさめざめとぞなきける。

なお、ここに登場する「空阿彌陀仏」(くうあみだぶつ 久寿二(一一五五)年~安貞二(一二二八)年)は、引用元に『かつて延暦寺の僧であったが、比叡山を下りた後は京都に向かい、そこで法然上人に弟子入りして専修念仏に励むようになったとされる。修行生活に関しては清貧な態度を貫き、経典も読まずにひたすら称名念仏するのみであった。また、極楽の「七重宝樹の風の響き」や「八功徳池の波の音」を想像させるとして風鈴の音を愛していたことも有名で、あちこちの道場で人々から尊敬され』、『法然上人の死後も活動を積極的に行ったが、比叡山延暦寺が専修念仏停止の強訴を朝廷に起こしたことをきっかけに、』嘉禄三(一二二七)年七月に、隆寛・幸西の二人の僧とともに『流罪に処されることとなった(嘉禄の法難)』但し、『彼は、流罪先の薩摩へ赴く前に入滅したとされている』とある。『法性寺の空阿弥陀仏は法然上人から「源空は智徳をもて人を化するなを不足なり。法性寺の空阿彌陀佛は愚痴』『なれども、念佛の大先達としてあまねく化導ひろし。我もし人身うけば大愚痴の身となり、念佛勤行の人たらん」と常に評されていたとされる。法性寺の空阿弥陀仏の方も法然上人を仏として崇敬し、画家藤原信実に法然上人像を描かせ、その上人像を本尊として飾り、念仏を行っていた』ともある。なお、本「一言芳談」で多出する明遍は、同じく「空阿彌陀仏」の号を持つが別人で、両者を区別するに当たって、この空阿弥陀仏を指すに際し、「法性寺の空阿彌陀仏」と呼ぶ例が見られる、ともある。

「合戰物語(かせんものがたり)」ルビはⅢに拠った。Ⅰ・Ⅱにルビはなく、Ⅲでは御覧の通り促音「つ」が表記されていない。]

枯木の馬 大手拓次

 枯木の馬

神よ、大洋をとびきる鳥よ、
神よ、凡ての實在を正しくおくものよ、
ああ、わたしの盲(めくら)の肉體よ滅亡せよ、
さうでなければ、神と共に燃えよ、燃えよ、王城の炬火(たいまつ)のやうに燃えよ、
ああ、わたしの取るに足りない性の遺骸を棄てて、
暴風のうすみどりの槌のしたに。
香枕(かうまくら)のそばに投げだされたあをい手を見よ、
もはや、深淵をかけめぐる枯木(かれき)の馬にのつて、
わたしは懷疑者の冷(つめ)たい着物をきてゐる。
けれど神樣よ、わたしの遺骸には永遠に芳烈な花を飾つてください。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十六(一九六一)年

昭和三十六(一九六一)年

網干して砂が疊の冬の濱

寒雷が滝のごとくに裸身打つ

睡蓮にひそみし緋鯉戀いわたる

[やぶちゃん注:「戀い」はママ。]
[やぶちゃん後注:底本の昭和三十七(一九六二)年分は、その総てが先にテクスト化した角川書店より昭和五五(一九八〇)年四月に刊行された「西東三鬼読本」収載分である「『變身』以後」に収録されており、その他の句は所載しない。但し――実は二千七百三十五句を載せる底本の平成四(一九九二)年沖積舎刊の「西東三鬼全句集」とは――三鬼の現存する全句を網羅したもの――ではない――のである。確かに三橋敏雄氏の凡例には『句帳・ノート・日記・色紙・短冊ほかに記されたいわゆる未発表作品は、収載を見合わせた。』とある。ここで申し添えておきたいのであるが――かくも本電子化に際し、お世話になった書物乍ら、しかし、敢えて言わせて戴くならば――例えば、本書以前に出た句と随筆の抄録集である同じ三橋敏雄氏の編になる朝日文庫「現代俳句の世界9 西東三鬼集」(昭和五九(一九八四)年刊)には、この「全句集」に所収しない拾遺が「拾遺二」と「拾遺三」だけでも百十一句載せられているのである(以下の「拾遺(やぶちゃん抄)Ⅱ」及び同「Ⅲ」を参照。なお、同朝日文庫版の都市出版社昭和四六(一九七一)年刊の大高弘達・鈴木六林男・三橋敏雄編「西東三鬼全句集」からの抄録である「拾遺一」所収の句は、その総てが沖積舎版に載っている)。こういう三鬼の句集類のこれまでの出版史の中で、果たして沖積舎版が『全句集』を名打つのは、果たして正しいと言えるであろうか? 私自身、沖積舎版を三鬼の「全句集」だと信じて買ったし、正直言えば、凡例部をちゃんと読んだつい先日前までの、実に本書を購入してから二十年余りずっと、私は書名から「全句集」と信じ続けてきたのである(――凡例を読まないお前が馬鹿である、他の購読者は皆、凡例を読んでから全句集かどうかを調べてちゃんと買うのだ――と言われるのであれば、そう言うあなたは、如何なる人をも言葉をも信じない真正懐疑主義者であるわけだから、『他の購読者がそう考える』と言うあなたの謂い自体が偽(ぎ)であるので、私はあなたとは金輪際、議論をしようとは思わないと言い添えておこう)。せめて、近い将来、真に西東三鬼全句集と言えるものが出されるべきであるとだけは言っておこう。]

2013/02/26

賛同と批判

僕への――如何にも慇懃無礼で冷静な賛同は――如何にも傲岸不遜で実直な批判に――若かない――

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 長壽寺・明月院

   長壽寺・明月院

 

 長壽寺(てうじゆじ)、龜(かめ)が谷(やつ)にあり。寶龜山(ほうきざん)といふ。源基氏(みなもとのもとうじ)公の建立。昔は伽藍、大寺(でら)なり。淨智寺(じやうちじ)は鎌倉五山の四番目なり。開山(かいさん)は宋の佛源(ぶつげん)禪師、本願は平師時(たいらのもろとき)なり。この向ひに明月院(めいげついん)といふあり。上杉憲方(うへすぎのりかた)の建立。この上の山を六國(こく)見といふ。これより見わたせば、安房、上總、武藏、下總、相模、伊豆の六國、一目(ひとめ)に見ゆるといへり。

〽狂 けいだいのきれいさ

   はうきざんなれば

 ばくばかりなる

  堂(どう)のほりもの

旅人

「上方(かみがた)の旅籠屋(はたごや)には、五右衞門風呂(ゑもんぶろ)といふがあつて、わるくすると、底板(そこいた)がういてあるから、それをとりのけてはいつて、直(じき)に釜で火傷(やけど)をするが、昨夜(ゆふべ)の宿(やど)も、その水風呂(すいふろ)でこまりはてた。」

「儂(わし)はまた田舍へいつたとき、水風呂へいつたところが、あんまりぬるいから、

『これこれ、ちつと、湯の下をたいてくだされ』

といふと、宿の男(おとこ)が、

『かしこまりました』

といつて、藁(わら)であみたてた御鉢(おはち)の蓋(ふた)のやうな大きな物をもつてきて、儂のはいつている頭の上からかぶせるから、

『これは、どうするのだ』

といふと、

『水風呂に蓋をしてたきます』

といふから、

『まつてください、その蓋を頭からきせられて、火をたかれたら、ゆでころされるであらう』

といふと、その男が、

『いやいや、この蓋の穴から首をだしておいでなされ』

といふから、よくよく見れば、その蓋の眞ん中に、首をだすほどの穴があいているゆへ、體は水風呂にいりてゐながら、蓋をして、蓋の穴から首ばかりだしてゐる、その可笑しさ。

『獄門のやうだ』

と大笑ひしたが、あるくと、いろいろな事があるものでござります。」

「獅子舞いがきた。しゝの十二文でまつてください。」

「江戸へいつたら、京橋(ばし)の南傳馬(みなみてんま)丁の仙(せん)女香(かう)をかつてきてくれと、隣りの娘にたのまれたから、かつてきてやらずばなるまい。」

[やぶちゃん注:「源基氏公の建立」長寿寺の開基については、基氏が父足利尊氏の菩提を弔うために建立したとするこの説の他に、実は足利尊氏自身を開基とする説もあり。詳しい寺の歴史は不明である。

「佛源禪師」大休正念の諡号。浄智寺は開山の経緯が特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも、任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。

「本願」開基。

「平師時」北条師時(建治(一二七五)年~応長元(一三一一)年)。第十代執権。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。

「上杉憲方」(建武二(一三三五)年~応永元(一三九四)年)は関東管領。法号・戒名を明月院天樹道合と言い、墓所は明月院に現存する。

「六國見」「りつこくみ」又は「りつこくけん」(現在の通称は後者が優勢で「ろっこくけん」とも呼ばれている)と読む。「新編鎌倉志卷之三」では「見」には「ミ」とルビを振る。

「ばくばかりなる」「ばく」は悪しき夢を食うという想像上の神獣「獏」。私は遠い昔、特別公開の折りに少しだけ拝観したきりで、長寿寺の荘厳具の中に獏が多数登場しているのかどうかについては知見を持たない。識者の御教授を乞うものであるが、もし、現在、それがないとすれば、この江戸末期の長寿寺の面影を知る上で非常に貴重な狂歌ということになる(獏が実際に長寿寺に彫られていなければ、この狂歌は狂歌としておかしから、恐らくあったと考えねばならぬ)。

「水風呂」茶の湯の道具である水風炉(すいふろ)に構造が似るところから、桶の下にかまどを取りつけて浴槽の水を沸かして入る形態の風呂を言う。まさにここで問題になっている五右衛門風呂は水風呂の一種である。通常は、海水を沸かした塩風呂やサウナのような形態の異なる蒸し風呂などに対して用いる語である。「すえふろ」とも読む。

「五右衞門風呂」竈の上に鉄釜を据え附けて下から火を焚いて直接に沸かす風呂。全体を鋳鉄で造ったタイプと湯桶の下部分に鉄釜を取り附けたタイプのものとがあり、入浴する際には浮いている底板を踏み沈めて入る。釜風呂。名称は石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたという俗説による。なお、ウィキの「石川五右衛門」によれば、彼は秀吉の甥豊臣秀次の家臣木村常陸介から秀吉暗殺を依頼されるも、秀吉の寝室に忍び込んだ際に香炉が鳴って捕えられ、三条河原で煎り殺されたとされるが、この「煎り殺す」というのは「油で揚げる」の意であると主張する学者もいるとある。また、『母親は熱湯で煮殺されたという。熱湯の熱さに泣き叫びながら死んでいったという記録も実際に残っている』とあり、他にも、子供と一緒に処刑されることになっていたが、『高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、苦しませないようにと一思いに子供を釜に沈めた説がある。またそれ以外にも、あまりの熱さに子供を下敷きにしたとも言われている』。いや、『釜茹でではなく釜で焼かれた』という説も記されてある。

「御鉢」炊き上げた飯を入れておく木製の容器。飯櫃(めしびつ)。御櫃(おひつ)。

「獄門」獄門首、晒し首のこと。

「しゝの十二文」九九の四四十六を十二と誤る、絵の中の今、走り来たった感じの鈍愚な子守の小僧の台詞であろうか。右手中央の茶屋の床几の旅人は、その誤りを聴きつけて笑ってでもいるかのようにも見える。

「京橋の南傳馬丁の仙女香」は「美艶仙女香」という白粉(おしろい)。京橋南伝馬町の稲荷新道にあった坂本氏が販売していた。「歴史人公式ホームページ 歴史人 歴史人ブログ」の村田孝子氏の「大江戸娘のお洒落帖」の「第2回 美艶仙女香―嶄新な宣伝手法」に、以下の記載がある(アラビア数字を漢数字に代え、改行部を総て繫げ、記号の一部を変更させて戴いた)。

   《引用開始》

美艶仙女香が描かれた浮世絵は、今、確認しただけでも四〇点以上あり、歌川広重なども宿場のなにげない風景のなかに仙女香の宣伝をしているものもあります。また、浮世絵だけでなく、為永春水が天保三~四年(一八三二~三三)に書いた人情本「春色梅児誉美」にも、この美艶仙女香がいい薬が入った白粉として宣伝しています。当時の浮世絵、人情本などをたくみに使って広告をしたのでしょう。ただ、「春色梅児誉美」の書かれた頃は、まだ美艶仙女香も江戸の女性たちが大いに使用していたのでしょうが、天保十一年(一八四〇)に天保の改革が行われ、奢侈禁止令などが度々発令されたことによって、化粧もあまりおこなわれなくなりました。これだけいろいろなものに登場して、一世を風靡した「美艶仙女香」でしたが、まだ本物に巡り合っていません。どこかに眠っているのでしょうか。一度見てみたい気がします。

   《引用終了》

それにしても、なるほど。御当地タイアップではなく、こうした挿入広告という手法もあった訳だ。目から鱗。特に、これを呟いているのは、私には左側の中央で大きな俵を担いでいる人夫風の、如何にも実直そうな中年男のように思われ、同じような、しがない中年で、長屋の隣りの娘にそれとなく惚れている町人なんどが、ここを読めば、「儂も隣の娘に、一つ、美艶仙女香、買(こ)うたろ!」という気になったりしたのかも、知れないなあ……。]

くさつた蛤 萩原朔太郎

 くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれてゐて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟體動物のあたまの上には、
砂利や潮(しほ)みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、
ながれてゐる、
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて居るらしい、
それゆゑ哀しげな晩かたになると、
靑ざめた海岸に坐つてゐて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の中の「くさつた蛤」副題「なやましき春夜の感覺とその疾患」の章の十一篇目で、これが同時に初出である。
 朔太郎は貝類や蛸など軟体動物を好んで登場させるが、私はこの年になって、自分が何故、萩原朔太郎が好きなのかに思い至った。私も朔太郎と同じく寄生蟹やくらげや貝や蛸やおしなべて海産無脊椎動物が好きだからだ。朔太郎は異端精神世界の博物学者なのだ。彼の、魂の畸形種ばかりをコレクションした標本箱が――丁度、私という貧しい弱虫の少年の心の中にある、原っぱの叢の秘密基地の、汚い段ボールの筐底にあるそれと――全く同じであることに、中学時代の私は……気づいていたのであった。……]

耳嚢 巻之六 吝嗇翁迷心の事

 吝嗇翁迷心の事

 文化の元年四月の頃、赤城下(あかぎした)に翁ありしが、子もなく獨住(ひとりずまひ)にて、聊(いささか)の商ひをなして、聊の利を以てたつきを送りしが、あくまで嗇心(しよくしん)にて、朝夕の食事をも思ふ儘にせず、明暮(あけくれ)稼(かせぎ)て商ひせしが、聊風の心ちとて商ひにも不出(いでず)、あたりのもの尋問(たづねと)へば、心あしきと而已(のみ)こたへしに、或日朝近所の者尋しに、竈(かまど)の前に臥して死したりしを見出し、店内(たなうち)のもの呼(よび)集めて立入(たちいり)見しに、誠に天命を終りしや、疵(きず)痛(いたみ)とふもあらず、病死しけるに相違なきが、兩手にてひとつの財布を握り居(ゐる)を見れば、金銀を入置(いれおき)しと見えたり。兼(かね)てしわきものなれば、死に金(がね)とて貯へけるやと、是をとり改めんとするに、中々放れざれば、あたりの寺僧をまねきて、これを放さんと經など讀(よん)でとらんとすれども放さず。所役人(ところやくにん)も、彼(かれ)が精心の凝り候所(ところ)、聊の金に心殘りしならん、怖(おそろ)しとて、其儘に葬(はうむり)けると也。金(きん)ならば、拾兩にも不及(およばざる)程のやうに見へしと、其あたりの人かたりぬ。

□やぶちゃん注
○前項連関:自らの財産を惜しげもなく民草に分け与えた鈴木石橋に対し、真逆の守銭奴老人の「死ンデモ財布ヲ放シマセンデシタ」譚で連関。
・「文化の元年四月」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、三か月前の極めてホットなニュースである。
・「吝嗇翁」「りんしよくをう(りんしょくおう)」と読んで居よう。
・「赤城下」東京都新宿区赤城下町として名が残り、新宿区の北東部に位置する。
・「とふもみえず」「とふ」は「等」であろう。正しい表記は「とう」である。
・「死に金」は自分が死んだときの費用として蓄えておく金の謂いであるが、結局、本話の最後では、死体がその全額を握ったまま手放さないから、握らせたままに葬っってしまう訳であるから、死に金の本来の謂いである、蓄えるばかりで活用されない金の意も響かせてくる。

■やぶちゃん現代語訳

 守銭奴院吝嗇翁の死しても金への迷妄の消えざりし事

 文化の元年は四月の頃のことである。
 内藤新宿の先、赤城下町(あかぎしたまち)に一人の老人があった。
 子もおらず、独り暮らしにて、聊かの行商をなしては、聊かの利を得て生計(たつき)と致いて御座ったが、この老人、あくまで吝嗇(りんしょく)にて、朝夕の食事をもろくに致さず、日がな一日、商いに歩いては稼ぐことのみを、これ、生き甲斐に致いておるようで御座った。
 ところが、先だっての四月の、とある日のこと、
「……聊か……風邪の気味でのぅ……」
とて、商いにも出でずなったと申す。
 老人にしては珍しきことなれば、よほど調子の悪いことならんと、辺りの者二、三人も、尋ね問うてはみたものの、
「……気持ちが……悪い……」
とのみ答えるばかりにて御座ったと申す。
 さても数日後の朝方、やはり近所の者が覗いてみたところが、入口の脇の竈(かまど)の前に、突っ伏して死んで御座るのを見出だしによって、長屋うちの者を呼び集めて、中へと入って見たところ――これ、正真正銘、天寿を全うしたものか――取り立てて不審な外傷や圧迫痕なども、これ、なく――病死致いたに相違なく見えたと申す。
 ところが、その遺体、両手で一つの財布をしっかりと握り絞めておった。
 その握っておるものをようく、見てみると、金銀を入れ置いたものと見えた。
 かねてより、非常な吝(けち)と知られた老人で御座ったれば、その場にあった一人が、
「……己れの葬儀の死金(しにがね)としてでも、貯えて御座ったものかのう?……」
と、それを取って改めんとした。
――ところが……
……老人……
……遺体となっておりながら……
……これ……
……なかなか……
……財布を……
……放さぬ――
 さればこそ、と、何とのう、気味悪うなった長屋の衆が、近所の寺の僧を呼んで参り、これを放させようと、経なんどを誦してもろうたりしたものの……
……いっかな……
……放さぬ――
 さればとよ、と、不審なる死体の仕儀にて御座ったればこそ、かくかくの不思議これあり、とかの地の係りのお役人へも申し上げたところが、お役人も、
「……かの守銭奴の老人の……その執心の霊魂の……これ……凝り固まって御座ったところの成す技にてもあろう……聊かの金にさえ……心残りが生じたものか……実(げ)に怖ろしき……執念じゃのぅ!……」
とのことなればこそ、もう、金銀を握らせたそのままに、葬ったと申す。……

「……金(きん)ならば、そうさ、十両にも遙かに及ばざるほどの額のようにしか見へませなんだ。……」
とは、その辺りに住んで御座った御仁が、語った話で御座る。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十五(一九六〇)年

昭和三十五(一九六〇)年

 

甘藷刺すごとく少年、党首刺せり

 

星赤し暗殺國の野分浪

 

[やぶちゃん注:二句ともに同年の『断崖』十月号所収。無論これは同年十月十二日に日比谷公会堂に於いて演説中の日本社会党委員長浅沼稲次郎が、十七歳の右翼少年山口二矢(おとや)に刺殺されたテロ事件詠。山口は翌十一月二日、東京少年鑑別所内で、支給された歯磨き粉で壁に指で「七生報国 天皇陛下万才」と記し、シーツを裂いて繩状にしたものを用いて天井の裸電球を包む金網に掛けて縊死した(自死時も満十七歳)。右翼団体は盛大な葬儀を行い、山口を英雄視したが、沢木耕太郎の「テロルの決算」によれば、山口はテロの標的として浅沼委員長のほか河野一郎や野坂参三などの政治家もリストに加えており、「大東亜戦争」批判を行ったことを理由に三笠宮崇仁親王まで狙っていたともいう(以上の山口二矢の記載はウィキの「山口二矢」に拠った)。]

 

うちそとに蟲の音滿ちて家消えぬ

 

いわし雲折られきらら波女一人

 

美(よ)き踵に水來てわかれ秋の渚

象よ歩め 大手拓次

 象よ歩め

赤い表紙の本から出て、
皺だみた象よ、口(くち)のない大きな象よ、のろのろあゆめ、
ふたりが死んだ床(とこ)の上に。
疲勞ををどらせる麻醉(ますゐ)の風車、
お前が黄色い人間の皮をはいで
深い眞言(しんごん)の奧へ、のろのろと秋を背に負うて象よあゆめ
おなじ眠りへ生の嘴(くちばし)は動いて、
ふとつた老樹(おいき)をつきくづす。
鷲のやうにひろがる象の世界をもりそだてて、
夜(よる)の噴煙のなかへすすめ、
人生は垂れた通草(あけび)の頸(くび)のやうにゆれる。

一言芳談 九十七

   九十七

 或人物語云、諸宗の學生(がくしやう)、公請(くじやう)に随つて、御(おん)佛事いまだ始まらざるほど、自他要事を相談す。一条院の御時などまでは、一向(いつかう)、後世門(ごせもん)の事なり。顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か。白河院の御時よりは、法文の沙汰なり。鳥羽院の御時にいたるまでは、ひとへに世間の沙汰なり。則ち我等出仕の時なり。然うして其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世(たうせい)は其程(それほど)の事もなきか。

〇公請に、禁裏公家方へ召されて參る事なり。
〇御佛事、内裏にて御祈禱御國忌(こくき)などある事なり。
〇いまだはじまらざるほど、ほどは時なり。
〇一条院、人王六十六代。
〇一向、ひたすらなり。
〇顕密、天台、眞言等なり。
〇白河院、七十一代の帝。
〇沙汰は、砂を洗ひ出すごとく、互に言うて、よく義理をつくるを沙汰といふなり。(句解)
〇鳥羽院、七十四代。
〇世間の沙汰なり。竹窓随筆云、古之學者賓主相見、纔入門、便以一大事因緣選相研究。今群居雜談、率多世諦。漫遊千里、靡渉參詢。遐哉。古風不可復矣。嗟夫。
〇論義日記、其日々々の論義を記すなり。

[やぶちゃん注:「公請」僧が朝廷から、法会や講義に召し出されること、また、その僧をも言う語。読みは辞書類及びⅠ・Ⅱに随った。Ⅲでは「こうしやう」と振っているが採らない。
「一条院の御時」一条天皇(天元三(九八〇)年~寛弘八(一〇一一)年)の在位は寛和二(986)年~寛弘八(一〇一一)年。
「一向」一途に。全く以って。
「後世門の事」浄土という存在及び浄土へ至るための要諦。
「顕密の法文、しかしながら、出離のために之を學ぶが故か」天台真言の僧であっても、仏門にある以上は、かの「後世門の事」を学ぶ必要があったからでしょうか。「出離」は元来は、現世という穢土の迷いを離れて、解脱の境地に達することを言うが、ここでは単に仏門に入ることを言っていると思われる
「白河院の御時」白河天皇(天喜元(一〇五三)年~大治四(一一二九)年)の在位は延久四(一〇七三)年~応徳三(一〇八七)年)
「法文の沙汰」読み上げる経文類についての議論。
「鳥羽院の御時」鳥羽天皇(康和五(一一〇三)年~保元元(一一五六)年)の在位は嘉承二(一一〇七)年~保安四(一一二三)年。彼の天皇即位は一条天皇の退位から九十六年後、以上は凡そたった百年余りで、公請の前の高僧による講筵が、敬虔な浄土及びそこに至るための厳かな階梯の諭しから、愚かな人智による語義論へと変わり、後にはその議論さえさえも定式化されて内容がなくなり、遂には、その儀式化された経論の内容を記すだけになり(後注参照)、果ては現在のように、この穢土のただの世間話をするまでに致命的に変質してしまったことを述べる。
「我等出仕の時」私が公請によって召され、宮中にて仏事を修していた頃。されば、本条の話者は匿名化されているものの、平安末期の法主クラスの高僧の高弟であった可能性が高いと考えてよいであろう。
「其時までは論義、日記ばかりをばせしなり。當世は其程の事もなきか。」Ⅱの大橋氏注の「論義」の注に『論義は仏教教義を問答議論することで、のちには法会の一つの型として伝えられた』とあるから、ここは、
尤も、その我らが出仕致いて御座った頃までは、型通りばかりに法論が演じられ、その内容を儀式上、公請に於ける前段論議の日録としてばかり記していたに過ぎぬ。されど今は、その程度のことさえも、これ、しておらぬのではあるまいか。
と完膚なきまでの堕落を述べて終わるのである。]

2013/02/25

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 淨光明寺 荒居焰魔

   淨光明寺 荒居焰魔

 

淨光明寺(じやうくはうめうじ)の境内、慈恩院(ぢおんいん)に矢拾(やひろい)地藏あり。網引(あみひき)地藏は、この山中(さんちう)にあり。藤原の爲相(ためすけ)の塔、その後ろなり。景淸(かげきよ)土(つち)の牢(らう)は、化粧坂(けわいざか)の山際にあり。

〽狂 あみ引のぢぞうのまへの

   ちや屋にきてあとひき

 ぢざけのむぞたのしき

「なんでも、旅では、途方もなく錢(ぜに)をとられることがあるから、うつかりとは、のめぬ。それとも貴公方(きかうがた)のお振舞(ふるま)ひなら、うつかりとのんでもよい。」

「なに、旅へ出て、お振舞ひといふことがあるものか。なんでも、割合(わりあい)。先(さつき)に貴公がのんだ甘酒(あまざけ)の八文は、俺(おれ)がだしておいたから、よこしなさい。」

「貴公、きたないことをいふ。そういふと、昨日(きのふ)、渡錢(わたしせん)の二文、よこさつし、よこさつし。」

「イヤイヤ、あれは雪の下の團子(だんご)の錢四文さしひくと、そつちから二文釣りをとらねばならぬ。たつた今、勘定、さつし。それそれ、女がきた。エヘン、エヘン。」

「もふ一合(いちごう)やりたいが、いつそのこと一銚子(ひとてうし)、一銚子。」

それより姫(ひめ)が谷(やつ)、荒居(あらゐ)の焰魔(ゑんま)。口に幼な子の附紐(つけひも)をくわへゐるは、謂われあることなるべし。海藏寺(かいぞうじ)、本尊泣藥師(なきやくし)といふ。昔、この山中にて、毎夜、子どものなく聲あり。その地をほりて、この藥師をえたり。この門前に、底脱(そこぬけ)の井といふあり。

〽狂 たうとさはたぐひあらゐの

 ゑんまどうまいらぬ人も

      なきやくしなり

「もしもし、上(かみ)さん、荒居の焰魔さまは、これかの。焰魔さまは、お宿(やど)にござりますかへ。」                      

「今、奧に轉寢(うたゝね)をしてござりました。あそこへいつて、鰐口(わにぐち)をおたゝきなさると、じきにお目をおさましなさります。焰魔さまは、とかく鰐口がおすきで、妾(わたし)の鰐口をたゝいて見たいと、いつそ、妾をおはなしなさいませぬから、

『お前さまは、葬頭(そうづ)川の婆(ばば)さまといふお妾(めかけ)さまがあるから、その鰐口をおたゝきなされ』

といいましたら、

『いや、もふ、あの婆々のは鰐口ではない、木魚(もくぎよ)のやうに、ぼくぼくしていかぬ』

とおつしやりました。」

[やぶちゃん注:本章は以下の注で示した以外にも、海蔵寺の泣き薬師の由来譚など、珍しく踏み込んだ記載が散見される。一九が実際に踏査し、オリジナルに興味を持った一帯であったように見受けられる。

「慈恩院に矢拾地藏あり。」旧淨光明寺の塔頭。「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」に、

慈恩院 本堂の西の方にあり。地藏の立像を安ず。《矢拾地藏》是を矢拾(やひろひ)地藏と云ふ。相ひ傳ふ、源の直義の守り本尊なり。直義一戰の時分、矢種盡きけるに、小僧一人走り來つて、發ち捨てたる矢どもを拾ひ、直義に捧げける。怪しく思ひ、守りの地藏を見ければ、矢一筋錫杖に持モち添へけるとなり。今も錫杖は簳(やがら)なり。又直義の位牌あり。表に、當院の本願、贈正二位大休寺殿古山源公(こさんげんこう)大禪定門の、神儀。裏に、觀應元年二月廿六日とあり。又大塔宮(をほたふのみや)の牌も有しが、此牌は理智光寺にあるべき物也とて、院主是を送り遣し、今彼寺にあり。

とある。「直義一戰の時分」は、伝承では故北条高時の遺児時行の起こした建武二(一三三五)年七月の中先代の乱の時の話とする。さて、この「新編鎌倉志」には、この慈恩院の他に玉泉院・華蔵院の、都合三院の塔頭が現存するとあるが、「鎌倉市史 社寺編」には、「相模国風土記稿」にはないことから、『貞享以後天保までの間に三院とも廃絶したのである』とあり、この一九の叙述はもしかすると、その正式な塔頭としての慈恩院最後の記述であった可能性がある。

「振舞ひ」饗応。ともに旅人であるのに、「おもてなし」とは合点がいかぬ、と言っているのである。

「割合」割り勘。

「銚子」徳利。ここは二合徳利以上の大徳利のこと。

「姫が谷」不詳。浄光明寺から「これより」とあって「荒居の焰魔」(現在の円応寺)というルートから推すと、現在の泉ヶ谷を北へ登った二つの谷の何れかを指すように思われる。現在、この谷戸名は残っていないものと思われるが、如何にも響きのよい名ではある。

「口に幼な子の附紐をくわへゐるは、謂われあることなるべし」円応寺の閻魔は「子育て閻魔」の異称を持つ。円応寺のパンフレット(HATADA氏の「天空仙人ワールド」の「円応寺」よりの孫引き)によれば、『昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけようとした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れ、お堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまり、お堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ばした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事、小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった』とある(一部の表記を訂し、読点を追加した)。――但し、私の訪れた際の遠い記憶では、現在の閻魔像の口からは「幼な子の附紐」はぶら下がってはいないように思う。――ぶら下げておけばよいのに――とも思う。

「鰐口」仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種。神社の社殿に使われることもあり、金口・金鼓とも呼ばれる。元来は金属製の梵音具の一種で、鋳銅や鋳鉄製のものが多い。鐘鼓を二つ合わせた形状で、鈴(すず)を平たく潰したような形状である。上部に上から吊るすための耳状の取手が二つあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。金(かね)の緒と呼ばれる布を編んだ綱が付属し、これで鼓面を打って誓願成就を祈念する(以上は、主にウィキの「鰐口」を参照した)。勿論、ここでの堂守のシャンな年増女(絵図左手に描かれた粋な女性を見る限り)のこの謂いは、鰐口を女性の会陰のシンボルに掛けている。女性が言っていると思うと、不思議に忌わしい猥雑感が薄まるから不思議である。

「葬頭(そうづ)川の婆さま」「葬頭川」の「そうづ」は「さんず」の訛ったもの、三途の川のこと。この「婆」とは三途の川で渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取るとされる鬼女、奪衣婆(だつえば)のこと。ウィキの「奪衣婆」によれば、『俗説ではあるが、奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあ』り、『江戸時代末期には民間信仰の対象とされ、奪衣婆を祭ったお堂などが建立された。民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれた』とある。円応寺には閻魔王を始めとする十王像の他、この奪衣婆の像もある(先のHATADA氏のページで写真が見られる)。

「あの婆々のは鰐口ではない、木魚のやうに、ぼくぼくしていかぬ」打てば美事に嬌声を響かせる「鰐口」とずぼんずぼんと虚ろなる古びた「木魚」を年増と婆の下の塩梅に譬えたものである。相変わらずの下ネタながら、謂いは洒落ていると思う(ほどに猥雑至極の一九に私もかなり免疫になったことを自白する)。]

蛇苺 萩原朔太郎

 蛇苺

實は成りぬ、
草葉かげ、
小(ささ)やかに、
赤うして、
名も知らぬ、
實は成りぬ、

大空みれば、
日は遠しや、
輝輝たる夏の午(ひる)さがり、
野路に隱(かく)れて、
唱ふもの、

魔よ
名を蛇と呼ばれて
拗者(すねもの)の
呪(のろ)ひ歌(うた)
節なれぬ

野に生ひて
光りなき身の
運命(さだめ)悲しや
世(よ)を逆(さかしま)に

のろはれし
夏の日を
妖艶の
蠱物と
口吻(くちづけ)交(かは)す蛇苺

[やぶちゃん注:『坂東太郎』第四十二号(明治三八(一九〇五)年七月発行)に「みづの人」のペン・ネーム、「蛇いちご」の標題で初出したものの、『文庫』明治三八年九月下旬号に「美棹」のペン・ネームで再録されたものを底本とした昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集第三巻の「拾遺詩篇」(一五~一七頁)の校訂本文に拠ったが、全集編者によってなされた改変を元の状態の復元して示し(一連及び二連の読点)、さらに初出にあった「蠱物(まじもの)」の読みを附し、最終行の「交す」に初出で平仮名表記になっている「かはす」の読みを附した。]

耳嚢 巻之六 威德繼嗣を設る事

 威德繼嗣を設る事

 

 野州鹿沼在石橋村(かぬまざいいしばしむら)に、富農四郎兵衞といふものありて、質朴なるもの故、奇特の取計ひもありて、領主戸田家より名字(みやうじ)ゆるして鈴木四郎兵衞と名乘(なのり)、耕作の外、商ひなどして豐饒(ふねう)にくらしけるが、中年までも子といふものなく、妾(めかけ)を需(もとめ)て千計なせど其望を得ざれば、四郎兵衞つくづく思ふに、かく富(とみ)、また心に懸(かか)る事なけれど、百年の後、他人に金銀財寶讓らんも心ゆかざる事なり、とても他人え讓る事ならば、一人へ讓らんよりは多人數(たにんず)へわけ讓らんこそ、天道(てんだう)にもかなひなんと思ひたちて、野州の賤民よろしからぬ風俗ありて、妻懷胎なせば、出産の子惣領は育て、其餘は間引(まびく)とか、またもどすなど唱(となへ)、産家(うぶや)にて殺す事をなしぬ。これを救ひて生育なさんと、寛政の子年(ねどし)までに、四百人程を尋(たづね)搜して救ひしと也。其頃子なければ、少しのゆかりより養子なして、右養子は醫師を業(なりはひ)とせしが、不計(はからざる)に四郎兵衞も實子出産して、文化元年に十一歳になりける。彼(か)子を生育せざるの賤民を救ふ事は、懷胎を聞(きか)ば手當なし、出生すれば又手當なすといふ事、その雜費も夥しきを不厭(いとはず)して、思ひ立(たつ)どをりなしけるが、耕作に利を得、商賣に德ありて彌々富饒に暮し、當時其養子の住居とも三ケ所にて、何れも榮へける由。生(しやう)を好むの天意にもかなひけるや、書物抔を好み、聖堂へも出(いで)、林(はやし)祭主もしれるものゝ由。予が許へ來る元卓(げんたく)生(せい)のかたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:清心の感応譚から誠心の人徳譚で連関。

・「威德繼嗣を設る事」は「いとくけいしをまうくること」と読む。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「陰德繼嗣」となっており、こちらの方が主人公の施した慈善事業の内容を考える時には、より自然ではある。

・「野州鹿沼在石橋村」現在の栃木県鹿沼市石橋町。日光例幣使(れいへいし)街道(家康没後に東照宮に幣帛を奉献するための勅使である日光例幣使が通った道)沿いの村。

・「領主戸田家」宇都宮藩城主戸田家。安永三(一七七四)年からの初代藩主戸田忠寛(ただとお)に始まる。前半部の記載はこの忠寛の代のことと考えられ、「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、本話執筆当時(本文後半部の時)は忠寛の長男で文化六(一八〇九)年から就任した第二代藩主戸田忠翰(ただなか)の代であったと思われる。但し、主人公が亡くなった文化十二(一八一五)年(次注参照)当時は忠翰次男の第三代藩主忠延の時であった。

・「鈴木四郎兵衞」儒者鈴木石橋(せっきょう 宝暦四(一七五四)年~文化十二(一八一五)年)として知られた人物。下野国鹿沼の人で昌平黌に学び、帰郷して私塾麗沢之舎(れいたくのや)を開き、後、宇都宮藩儒生となった(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。岩波版長谷川氏注に『鹿沼宿本陣の家に生まれ』とあり、また底本の鈴木氏注に三村竹清氏の以下の注を引く(恣意的に正字化し、幾つかの語に読みを振った上、句読点も追加変更、後に簡単な注を附した)。『名は之德、字は澤民、号は石橋、老(おい)て閑翁といふ。天明の凶歉(きようけん)に方(あた)り、大(おほい)に救濟に盡(つく)す。最も三禮に精通し、深夜圖説の著あり、晩年、心を易理に潛め、周易象儀(しやうぎ)二十卷を著す。藩主、禮を厚うして城中に延(まね)き、講筵(かうえん)を開く。文化十二年二月六十二歳を以て沒す。蒲生君平(がまふくんぺい)は實に其門より出たり。』

●「凶歉」凶作。「歉」は穀物が実らない意。

●「三禮」天神・地祇・人鬼を祭る三つの儀式。

●「深夜圖説」不詳。

●「周易象儀」講談社「日本人名大辞典」には「周易象義」と表記。

●「蒲生君平」(明和五(一七六八)年~文化一〇(一八一三)年は、同時代の仙台藩の林子平・上野国の郷士高山彦九郎とともに「寛政の三奇人」の一人に数えられる儒学者・尊王論者・海防論者。下野国宇都宮新石町(現在の栃木県宇都宮市小幡)生。父は町人で油屋と農業を営んでいた。参照したウィキの「蒲生君平」には、昌平黌で学んだ鹿沼の儒学者鈴木石橋(二十九歳)の麗澤舎に入塾(十五歳)、『毎日鹿沼まで三里の道を往復する。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上に乗せて褌ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩いて狂人と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師・石橋は君平の人柄をこよなく愛した』と、本話の主人公石橋の愛弟子であったことが窺える。

・「産家」産屋であろう。出産の穢れを避けるために特別に設えた出産用の小屋や装置。先の遁世の夫婦笑談の事の「産籠」の私の注を参照されたい。

・「寛政の子年」寛政四(一七九二)年壬子(みずのえね)。

・「林祭主」林大学頭。「祭主」は学制の長官のこと。「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年の頃は林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

・「元卓」与住元卓。「卷之一 人の精力しるしある事」に初出する人物。根岸家の親類筋で出入りの町医師。根岸一番のニュース・ソースの一人である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 厳かなる人徳のあったによって嗣子(しし)を設けた事

 

 上野国鹿沼在石橋村に、富農の四郎兵衛と申す者があったが、性(せい)、至って質朴なる者であったゆえ、実にありがたきお取り計ひも御座って、領主戸田様より特に名字を許され、鈴木四郎兵衛と名乗って、田畑耕作の外、商いなんども致いて、豊かに暮して御座った。

 が、四郎兵衛、中年になっても子(こお)というものが、これ、ない。妾(めかけ)を求むるなど、いろいろと試みてはみたものの、遂に、これまで、望みを遂ぐることが出来ず御座った。

 されば、四郎兵衛、つくづく思うたには、

「……かくも富み、また、これと申し、心に掛かる心配事なんども、これ、なけれど、このままにては百年の後まで、血の繋がらぬ赤の他人の誰かに、これらの金銀財宝、皆、譲ってしまうという結果ともなると申すも……これ、何とのう、得心出来ぬことじゃ。……いや……所詮、誰ぞ一人の赤の他人へ譲ることとなるのであれば……ただ一人へ譲る結果とならんよりは、これ、多くの人々へ分け与えて譲るこそ、これ、天道(てんどう)にも適うことにて御座ろうぞ!」

と思い立ったと申す。

 さて、上野国の賤民の間には――これ、その困窮ゆえとは申せ――実によろしからざる忌わしき風俗が御座った。――例えば――妻が懐妊致いた折りには、出産した子(こお)の惣領は、これ、育てるものの――その余は――「間引き」とか――また――「もどす」――なんど唱え――その産家(うぶや)の内にて――こっそりと殺して――御座った。

 四郎兵衛。俄然、

「何としてもこれらの子(こお)を救うて生育なさん!」

と、寛政の子年(ねどし)までに――周辺の民草の生計(たつき)は勿論のこと――妊娠出産の噂や何やかやを――予め十二分に収集致し、また探索方も出だし探らして――実に四百人ほどの子(こお)をも――これ、尋ね捜し出だいては、救って御座ったと申す。

 なお、先にも述べた通り、四郎兵衛にはその頃、子がおらざれば、別に多少の由縁(ゆかり)の者より養子を成して御座った。その養子は医師を生業(なりわい)と致いて御座った由。

 ところが、何と――今まで如何にしても出来なんだ四郎兵衛に――如何なることか――実子が産まれて御座った[根岸注:因みに本記載時の文化元年にあっては、この子は当年とって十一歳になるという。後出元卓談。]。

 附言致しておくならば――かの養育致さざる賤民の子(こお)を救う際には、懐妊の噂を聴くや、走って行って懇ろに世話致し、出生すればまた、手厚く手当致すという仕儀にて、これ、その雑費も夥しくかかるをも厭わず、思う存分、湯水の如く用いては手厚く施して御座ったと申す。

 されども、自分持ちの耕作にても潤沢な利を得、また、別に営んで御座った商売にても、これまた順調な利益のあったによって、いよいよ富饒(ふにょう)に暮し、当時、自宅やその養子の住居など合わせて、三箇所も邸宅を所持致いて、そのどの屋敷も如何にも裕福なる様子にて御座った由。

 

「……生命(いのち)を好むところの天意にも適(かの)うておったからででも御座いましょうか。……この鈴木四郎兵衛なる御仁、書物を好み、何でも……かの湯島の聖堂へも出入り致いて……あの、林大学頭様御自身もご存知の方と承って御座る。……」

とは、私の元へ参る、例の医師元卓の語った話で御座る。

槍の野邊 大手拓次

 槍の野邊

うす紅い晝の衣裳をきて、お前といふ異國の夢がしとやかにわたしの胸をめぐる。
執拗な陰氣な顏をしてる愚(おろ)かな乳母(うば)は
うつとりと見惚れて、くやしいけれど言葉も出ない。
古い香木のもえる煙のやうにたちのぼる
この紛亂(ふんらん)した人間の隱遁性と何物をも恐れない暴逆な復讎心とが、
温和な春の日の箱車(はこぐるま)のなかに狎(な)れ親しんで
ちやうど麝香猫と褐色の栗鼠(りす)とのやうにいがみあふ。
をりをりは麗しくきらめく白い齒の爭鬪に倦怠の世は旋風の壁模樣(かべもやう)に眺め入る。

一言芳談 九十六

  九十六

同上人云、今度(こんど)、法印御房を見たてまつるに、日來(ひごろ)の所存をかへたるなり。させる事もなかりける事を、樣(やう)がましく思ひけるなり。誠にほれぼれと念佛するには不如(しかず)と云々。

〇法印御房、明禪法印なるべし。
〇日來(ひごろ)の所存をかへたるなり、日比かの法印の行はさぞめづらしき事ならんとおもひつるに、つきそひてみれば、たゞうちかたぶきて念佛せらるゝばかりなり。さらに奥ふかき樣子もなし。かねての推量にはたがひてあるなり。

[やぶちゃん注:老婆心乍ら、これは、ここまでの「一言芳談」を読まずに読むと、誤釈される方もあろうかと思われるので、私なりに「標注」を援用しながら現代語訳したい。
――敬仏上人が言われた。
「拙僧は今度(こんど)、初めて明禅法印を見奉ったが、その法印の念仏の有り様(よう)を拝見致いたによって、拙僧、日頃よりの『念仏するということ』に就き、心に思うて御座ったことを、これ、全く変えるに至ったのである。
 拙僧は、実は日頃より、
『かの明禅法印の念仏の行は、これ、さぞかし凡百の僧のそれとはうって変わって、珍しくも貴きものにてあるに違いない。』
と思うて御座った。ところが、いざ、法印に付き添うて、ともに念仏を致いてみたところが――
――法印は、ただ――普通に――自然に――俯いて――静かに――優しく――念仏なさるばかりで御座った……。
 その瞬間、拙僧は悟った。
……今までは、これといって声を大にして言うべきことにてもあらぬような、ごくごく当たり前のこと――しかし、しかもそれが〈誠〉である――を、如何にも取り立てて特別に奥深きことででもあるかのように――しかし、そう感ずることによってその〈誠〉からは遠く遠く離れてある――思い込んでいたのであった――ということを。……
……そうして、まっこと、己れ自身、弥陀の慈悲に心からうたれて、うっとりとしながら、念仏を致すに、これ、若はない――ということを、な。……」
と。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十四(一九五九)年

昭和三十四(一九五九)年

鷹を賣り獅子賣る都會火星燃ゆ

2013/02/24

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 扇个谷 源氏山

   扇个谷 源氏山

 

東光山英勝寺(とうくはうざんゑいしやうじ)は、扇(あふぎ)が谷(やつ)にあり。この地は、太田道灌(おほたどうくわん)の舊跡なり。この邊隨一の大寺(てら)にて、諸堂の莊嚴(そうごん)、結構なり。本尊阿彌陀佛、運慶の作。山門、總門の額、眞筆(しんひつ)なり。境内に澤庵(たくあん)の石盤(せきばん)あり。この西の山を源氏山といふ。阿佛尼(あぶつに)の塔、この境内の北にあり。

〽狂 げん

 じ山

ひかる日の

    出は

すへひろの

あふぎが

  やつの

かすむ

 あけぼの

旅人

「あの飴(あめ)をかつてゐる年增(としま)は、なかなか、まんざらでない器量(きりやう)だ。尻目(しりめ)で、儂の顏をみるは、儂(わし)に氣があるとみへる。ちよいときいて見やう。もしもし。お上(かみ)さま、ちと、物がおたづね申たい。お前、私(わたし)に氣がありますか、ほれなさつたか、どふでござります。」

「ナニ、妾(わたし)がほれたか、氣があるかとは、この野郎奴(やらうめ)は、とんだ事をいふ。うぬのやうな不景氣な野郎に、誰(たれ)がほれるものか。戲言(たはこと)をぬかすと横面(よこつつら)をはりとばすぞ。」

「今日は大ぶん、參詣のある日だわへ。晩には賽錢箱(さいせんばこ)の勘定(かんぢやう)をいたそふ。」

「これ、したり、小錢(こぜに)がない。四文錢(もんせん)を賽錢になげるも費(ついへ)だ。借(か)りにして、たゞ、おがんでおこう。貴公(きこう)も、そうなさい。」

[やぶちゃん注:「扇个谷」は「あふぎがやつ」とルビする。

「莊嚴(そうごん)」この場合の「莊嚴」は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)等で厳かに飾ること及びそのように飾り付け、建造したその物のことを指しす仏教用語であるから、厳密には「そうごん」ではなく、「しやうごん(しょうごん)」と読むのが正しい。

「山門、總門の額、眞筆なり。」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」に、総門の額は「東光山」で曼殊院良恕法親王の筆(裏書に寛永二十年四月二日のクレジット)、山門の額は「英勝寺」で後水尾帝の宸筆(裏書に寛永二十一年甲申(きのえさる)の年八月日のクレジット)とある。細かいことだが、順序が逆で、寺のより外にある総門から、次にその内側の山門を記載するのが普通である。

「澤庵の石盤」「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の「石盤」の項を参照。卦を示す四種の文様の図及び碑文も読める。

「年增」娘盛りを過ぎた女性の謂いで、現在用いられる場合、流行語の略語「アラフォー」、アラウンド・フォーティー(Around Forty:四十歳前後。)と同義的で三十五歳から四十五歳辺りまでの女性層を指すが、江戸期のそれはもっと若く二十歳前後を年増、二十歳を過ぎてから二十八、九歳程までを中年増、それより上を大年増と言った。彼女は今なら相応に若いのである。それにしてもこの気風(きっぷ)の良さはどうか。

「だわへ」の「へ」は「え」で軽い感動を添える間投助詞。英勝寺は尼寺(現在も鎌倉で唯一の尼寺である)であるから、尼の台詞と見れば「え」もしっくりくる。ただ、賽銭勘定をする尼僧を想起させる一九は、これ、やはり意地が悪いともいえるが、前の語気苛烈なる姐御に守銭奴の尼を配せば、どっこい、当時の女傑もなかなかのもの、今までのエロティクで愚鈍な旦那連中より、ずっと気持ちがよい。

「尻目」流し目。]

耳嚢 巻之六 精心感通の事

 精心感通の事

 

 藤堂和泉守家士何某(なにがし)といへるもの、享和の末に、在所より大阪藏屋敷へ勤向(つとめむき)にて在勤せしが、彼(かの)地の女子(をんなご)に泥(なづ)み、限りの月になりぬれど、彼ものゝ愛情にて歸府を延(のば)し、留守なる妻子の事も思はで滯留なしけるが、其妻深く歎き、男子なれば思ひ染(そめ)し女に愛情もさる事ならんが、我身のみか一子の事も思ひ給わざるはうたてき事と、度々文(ふみ)して諫めぬれど取用(とりもちゐ)ざるやうにて過(すぎ)しが、或夜彼男の夢に、留守なる妻來りて、家の事、子の事を思ひたまはざるや、彼女子をもともないて歸り給へと異見なせしを、腹たつまゝ枕にて額(ひたひ)を打(うち)て疵付けしと見て、驚ろき覺めけるが、心にもとめで、彼圍(かこ)ひ置(おけ)る女子の元へ或夜まかりしに、彼圍女(かこひをんな)いへるは、我身願ひあり、永(なが)の暇(いとま)給はるべしといひしに、いかなる事やと尋問(たづねとひ)しに、別の事にもあらず、過(すぎ)にし夜、夢に奧方來り給ひ、御身の事、永く此地に止(とどま)り給ひては、おん爲(ため)もあしきと段々理を盡して異見し給ひしが、逸々尤(いちいちもつとも)の事に赤面に及ぶと見てさめぬ、何分永く此地に居給はゞ御ためにもあしく、御暇給わるべしとせちに願ひければ、彼男も其理にや伏(ふく)しけん、願ひに任せ暇を出し、其身も其筋へ歸りの事を告(つげ)て在所へ立(たち)歸り、妻子にも久々にて對面なせしが、其妻の額に疵の跡ありし故、いかなる疵やと尋問しが、初めはいなみ答へざりしが、夜に入(いり)て、此疵に付(つき)不思議の事侍りし、御身難波(なには)にて愛(めで)給ふ女になづみ歸る期(ご)を延(のば)し給ふと聞(きき)て、御爲にもよろしからず、妻子の事も思ひ給はざるやと、旅宿に至り異見なせしを、御身憤りて枕をもて打給ふと夢みしが、さめて後、かくのごとく疵付(つき)しとかたりけるに、男も大に驚きて、精心は其切なるに隨ひては萬里(ばんり)相通(とほ)るものと感じ、恐れけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、まさについ先日の生霊譚、謂う所のテレパシー“mental telepathy”精神遠隔感応譚である。単身赴任男の難波妻というメロ・ドラマとしても面白い。

「藤堂和泉守」伊勢国津藩城主。「享和の末」を文化元年に改元される享和四(一八〇四)年とすれば、当時の藩主は第十代藤堂高兌(とうどうたかさわ 天明元(一七八一)年~文政七(一八二五)年)である。参照したウィキの「藤堂高兌」によれば、高兌は江戸後期の名君の一人に数えられ、財政再建や行政機構改善、藩校有造館の創設といった善政を施して領民からも深く慕われた。そうした語られぬ徳政の藩主の、その家士の火遊び、という背景をも読解の射程に入れると、本話のドラマ性がより高まるように思われる。

・「大阪藏屋敷」各藩が年貢米や領内の特産物を売り捌くために設けた倉庫兼邸宅のこと。大坂にあったものが最も多く著名であるが、江戸・敦賀・大津・堺・長崎などの交通の要衝の商業都市に設置されたケースもある。また、大名だけでなく有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた(以上はウィキの「蔵屋敷」を参照した)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 精心が遠き地の夫に感通した事

 

 藤堂和泉守高兌(たかさわ)殿の家士某(ぼう)に纏わる話。

 この男、享和の末に、在所より大阪蔵屋敷へ出向(しゅっこう)となり、在勤致いて御座ったが、かの難波の地の女子(おなご)と深い仲と相い成って、出向も終わりの月となったにも拘わらず、その女子(おなご)への深き愛着ゆえに帰府を延ばし、留守を守って御座った妻子の事をも思いかけることものう、だらだらと滞留致いて御座ったと申す。

 されば男の妻、深く歎き、

『……男子なればこそ思い染めた女に愛情の執着をかけらるるは、これ、あろうことにては御座いましょう……なれど……我れらが身のみか、一子の事もお思いかけなさらざるは……これ、あまりに、情けなき御事(おんこと)……』

と、たびたび文(ふみ)を遣わしては諌めて御座ったが、男は難波の女子(おなご)にすっかり目が眩んで、妻の思いの一つだに、これ、気にかけることものう、うっちゃって御座ったと申す。

 ところが、ある夜、この男の夢に、

……留守を守る妻が来たって、

「……家のこと……子のことを……お思いにはなられませぬのか?……その女子(おなご)をも伴のうて……どうか……お帰り下されませ!……」

とまで異見をなしたによって、男は腹の立つまま、己(おの)が枕をむんずと摑むと、それを以って――妻の額(ひたい)を――強(したた)かに――打った――妻の額は――ぱっくりと裂け――その傷より――血の流れ出でた……

……と見て、驚ろいて目を醒ましたと申す。

 されど、たかが夢と、これまた、心にかくることもなく、その数日後のある夜、囲い置いてあった女子の元へと通った、すると、かの囲い女、

「……妾(わて)、お願ひが御座います。……どうか、永(なが)のお暇(いとま)を、いただきとう存じますのや……」

と寝耳に水の懇願を致いたによって、

「一体、如何なる謂いか!?」

ときつく訊き質いたところが、

「……へえ……何か、これといったことがあった訳にては御座いませぬ。……ただ、先だっての夜のことでおます。妾(わて)の夢に、奧方さまが参られて、

……『……我らが夫……そなたの思い人は……このまま永く、この地にお止まりになっておられては……藩士としての御身分にも……これ……甚だ悪しきことの及びまする……』

と、だんだんに理を尽くされて、異見なさっしゃいました。……が、これ、いちいち、どれもこれも、ほんにもっともなることなれば……妾(わて)はもう、黙っておるばかり……もう、妾(わて)、顔がすっかり赤(あこ)うなって……

と見て、目が醒めまして御座いました。何分、永(なご)う、この難波の地にあらっしゃっては、夢内とはいいながら、確かに、奥方さまのおっしゃった通り、おん為(ため)にも悪(あ)しゅう御座います。どうか、曲げて、お暇(いとま)を下さいますように!……」

と切に願うたによって――かの男も、流石にその理に屈したものか――女子の願いに任せ、暇(いと)まを与え、自身も、その筋へ、

「――遅まきながら、公私諸般の事情により――遅延致いて御座ったが、これより、帰藩致しまする。――」

旨を告げて、在所へと立ち帰ったと申す。

 さても、久方振りの妻子対面と相い成る。

……と……

……何事もなかったように、しとやかに挨拶致すその妻の手

……額に……

……これ……

……大きな傷が……

……ある――

「……そ、その大きなる……ひ、額の傷は……一体、如何なる傷か?」

と訊き質いたが、子も横におればこそ、そこでは、

「……いえ、これは申し上げるような大層なことにては御座いませぬ……」

と口を濁して御座った。

 さても夜に入っての妻の寝物語によれば、

「……この傷につきましては、不思議なことが、これ、御座いました。……お前さまが難波(なにわ)にて愛(め)でなさった女と深い仲と相い成られ、御帰藩の期日をさえ、お延ばしなさっておらるる由、風の便りに聴きましたが、……ある夜のことで御座います。

……『……これはおん為(ため)にも宜しからず……妻子の事をも思いかけなさること……これ、微塵もあられませぬか?!』

と、難波の旅宿へと至って、妾(わらわ)が異見致しました。……ところが、お前さまは、大いにお憤りになられ、枕をお摑みになって、妾の額を打ちなさる……

……と夢見たところで、目を覚ましましたが、醒めて後……このように額に傷が一つ……ついて御座いました。……」

と語ったによって、男も大いに驚き、

「……まっこと、精心は、これ、その切なるに随う折りには――万里(ばんり)をも一瞬に走るもの――なのじゃのう!……」

と感じ入って、畏れ入ったと申す。

近日所感 萩原朔太郎

 近日所感

朝鮮人あまた殺され
その血百里の闇に連なれり
われ怒りて視る、何の慘虐ぞ

[やぶちゃん注:『現代』第五巻第二号 大正一三(一九二四)年二月号掲載。底本全集の「拾遺詩篇」に所収する。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十三(一九五八)年

昭和三十三(一九五八)年

大魚跳ね彼方初富士ひゞきけり

紅梅や鋸ためす一指彈

春晝の生ける剝製となりて鰐

亡靈の外燈ともり朝ざくら

子が泣けば干潟いよいよ露はるる

斷層の目盛りがありて麥伸びる

黄金の闇 大手拓次

 黄金の闇

南がふいて
鳩の胸が光りにふるへ、
わたしの頭は釀された酒のやうに黴の花をはねのける。
赤い護謨(ごむ)のやうにおびえる唇が
力(ちから)なげに、けれど親しげに内輪な歩みぶりをほのめかす。
わたしは今、反省と悔悟の闇に
あまくこぼれおちる情趣を抱きしめる。
白い羽根蒲團の上に、
産み月の黄金(わうごん)の闇は
惱みをふくんでゐる。

2013/02/23

Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰る手を留めたでせう

僕には、ことあるごとに思い出す、「こゝろ」の先生の述懐がある。何故、ここなのか、実は僕自身よく分からない――先生が「其意味は私には解りません」と呟くように……



 最初の夏休みにKは國へ歸りませんでした。駒込のある寺の一間を借りて勉強するのだと云つてゐました。私が歸つて來たのは九月上旬でしたが、彼は果して大觀音(おほかんのん)の傍(そば)の汚ない寺の中に閉ぢ籠つてゐました。彼の座敷は本堂(ほんたう)のすぐ傍の狹い室でしたが、彼は其處で自分の思ふ通りに勉強が出來たのを喜こんでゐるらしく見えました。私は其時彼の生活の段々坊さんらしくなつて行くのを認めたやうに思ひます。彼は手頸に珠數を懸けてゐました。私がそれは何のためだと尋ねたら、彼は親指で一つ二つと勘定する眞似をして見せました。彼は斯うして日に何遍も珠數(じゆず)の輪を勘定するらしかつたのです。たゞし其意味は私には解りません。圓い輪になつてゐるものを一粒づゝ數へて行けば、何處迄數へて行つても終局はありません。Kはどんな所で何んな心持がして、爪繰(つまぐ)る手を留(と)めたでせう。詰らない事ですが、私はよくそれを思ふのです。

(引用は僕の電子テクストより)

相棒シーズン二第四話消エル銃弾ハ怪奇大作戦ノ優レタル末裔ナル語

最近、僕はテレビでは「相棒」しか見ていない。
これは妻が好きで録画しているものを、夕食の際に、昨今の愚劣なテレビ番組には見たいものもこれと言ってないために見ているに過ぎないのであるが、それでも「相棒」も総じて偶然性が高過ぎて、プロットは殆んど噴飯物ではある。
しかし、特に最初期の寺脇康文演ずる亀山薫君が好きで、ついつい見てしまうのである。
今日は、Season2の第4話(2003年11月5日放映)「消える銃弾」を見た。

砂本量(すなもとはかる 昭和33(1958)~平成17(2005)年:惜しくも大腿骨悪性骨腫瘍のため47歳で亡くなっている。)氏の脚本になるこの作品(監督は昭和24(1949)年生の大井利夫氏)、これ、真正の、優れた現代版「怪奇大作戦」と見た。
未見の方のために筋の詳細は語らぬが――相変わらず銃器の盗難と弾丸の製造の必然性にはトンデモ偶然が絡んでいただけぬ部分が見られるのではあるが――
私の推測では――
――これは「怪奇大作戦」の例の欠番となっている第24話「狂鬼人間」(脚本・山浦弘靖 監督・満田※〈「※」=「禾」(のぎへん)」+「斉」〉「かずほ」と読む 昭和(一九六九)年2月23日放映) のインスパイア――
と映った。
特にラスト・シーン、留置所の鉄格子の戸外からのショットで唄われる吉田拓郎の「夏休み」は、「狂鬼人間」の同じラスト・シーンの「七つの子」に美事にオーバー・ラップした。
氏家恵さんが頗るいい演技をしている。
必見である。

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 序

    第八章 團體生活

 同種類の生物個體が多數相集まつて居ることは、餌を捕へるに當つても敵を防ぐに當つても頗る都合のよいことが多い。一疋づつでは到底かなはぬ相手に對しても、多數集まれば容易に勝つことが出來る。また非常に強い敵に攻められて惨々な目に遇うたとしても、多數に集まつて居ればその中の幾分かは必ず難を免れて生存し、後繼者を遺すことが出來る。特に生殖の目的に對しては、同種族のものが同處に多數集まつて居ることは極めて有利であつて、一疋づつが遠く相離れて居るのとは違ひ、すべてのものが殘らず手近い處に配偶者を見出して、盛に子を産むことが出來る。されば事情の許す限り、同種類の生物は同じ處に集まつて生活して居る方が、食ふにも産むにも遙に好都合であるに違ない。
 抑々生物は親なしには決して生まれぬもの故、一生涯絶對に單獨といふものは一種たりともあるべからざる理窟で、少くとも親から生まれたときと、子を産んだときとは、同種類の生物が何疋か同じ處に接近して居るに違ない。特に多數の生物では、同時に生まれる子の數が相應に多いから、これらがそのまゝ留まつて生活すれば、已に一つの群集がそこに生ずる。そして相集まつて生活して居れば、上に述べた如き利益がある。かやうな次第で、同種類の生物が一處に集まつて生存することは自然の結果であるやうに思はれる。しかるに單獨の生活を送る生物も決して少くないのはなぜかといふと、これは生活難のために一家離散したのであつて、生存の必要上群集生活を思ひ切るやうに餘儀なくせられたものに限る。例へば陸上の食肉獸類には群棲するものは殆どない。これは獅子〔ライオン〕・虎などの如きものが一箇處に多數集まつて生活し、多數の牛や鹿を殺して食つたならば忽ち食物の缺乏を生じ、皆揃つて餓死せねばならぬからである。これに反し、草食獸類の方は餌が澤山にあるから、大群をなして生活して居ても、急に食物が皆無になる心配はない。昆蟲類などでも木の葉を食ふ毛蟲は枝一面に群集して居ることがあるが、蟲を捕へて食とする「かまきり」や「くも」類などは、一疋づつ離れて餌を求めて居る。尤も肉食するものでも、餌となる動物が多量に存する場合には、群棲しても差支はない。「をつとせい」・「あざらし」の類は肉食獸であるが、その餌となる魚類は極めて多量に産し、恰も陸上の牧草の如くであるから、數千も數萬も同一箇處を根據地に定めて生活して居る。詰まる所、生物が群棲するか單獨に暮らすかは、食物供給の量と關聯したことで、群棲しては到底食物を得られぬ種類の動物だけが、親子兄弟離れ離れになつて世を渡つて居るのである。
 同じ種類の生物個體が、たゞ相集まつて居るだけでも生活に種々都合のよいことがあるが、もしも多數のものが同一の目的を達するために力を協せて相助けたならば、その效力は實に偉大なもので、大概の敵は恐れるに足らぬやうになる。各個體が食ふにも産むにも死ぬにも、すべて自己の屬する團體の維持生存を目的としたならば、その集まつた團體は、生存競爭に當つて、個體よりも一段上の單位となるから、攻めるにも防ぐにも勝つ見込みが頗る多い。かやうな團體を社會と名づける。實際動物界を見渡すと昆蟲類の中でも、蜂や蟻などの如き社會を造つて生活する種類は到る處に跋扈(ばつこ)し、場合によつては獅子〔ライオン〕や虎のやうな大獸をさへも苦めることがある。個體のたゞ集まつた群集と、全部一致して活動する社會との間には、順々の移り行きがあるが、同じく社會と名づけるものの中にも種々の階段があつて、その最も進んだものになると、個體間の關係が、猫や犬で普通に見る所とは全く違つて、殆ど一個體の體内に於ける器官と器官の關係の如くになつて居る。次に若干の例によつて、これらの關係を一通り述べて見よう。

北條九代記 判官知康落馬 付 鶴ヶ岡塔婆造立地曳

      〇判官知康落馬  鶴ヶ岡塔婆造立地曳

賴家卿は官加階(くわんかかい)滯りなく、次第昇進し給ふ。八月二日、京都の使節參著す。去ぬる月二十二日、左近衞中將より轉任あり、從二位に叙せられ、征東大將軍に補せられ給ふ由を申す。

即ち鶴ヶ岡に於いて宮前拜賀の式をぞ行はれける。愈(いよいよ)日毎の御鞠(おんまり)は天下の政道に替へ給ひて、世の誹(そしり)、人の嘲(あざけり)を知(しろし)召さず。同じき十一月二十一日、將軍家、若者善哉公(ぜんやぎみ)、年(とし)三歳始て鶴ヶ岡に神拜(じんはい)あり。神馬(じんめ)二疋を奉らる。同十二月十九日、將軍家、御鷹場(たかば)を御覧ぜんとて山内莊(やまのうちのしやう)に出で給ふ。夜に入て還御ありける所に、判官知康、御供に候ず。龜谷(かめがやつ)の邊にて乘(のり)たる馬、物影に驚き、頻(しきり)に棹立(さをだ)ちて、知康、鞍壺に堪(たま)らず、舊井(ふるゐ)の中に落入りたり。されども別義(べちぎ)なく、額(ひたひ)の邊(あたり)を打(うち)損じ、濕々(ぬれぬれ)として匐上(はひあが)り、やうやうに家に歸りければ、將軍家、御小袖二十領を知康に下されたり。是を聞ける人々、「京家の古狐(ふるぎつね)、善く將軍を妖入(ばかしい)れたり」と唇(くちびる)を返して私語(さゝやき)けり。かゝりけれども、近習(きんじゆ)の輩を初(はじめ)て諷諫(ふうかん)を奉る人、更になし。建仁三年正月二日、將軍家の若君一幡公(まんぎみ)、鶴ヶ岡に御社參あり。同二月四日、將軍家の御舍弟千幡公、鶴ヶ岡に參り給ふ。絵馬四郎殿、御車副(くるまぞひ)として、神馬二疋を奉り給ひけり。同十一日、八幡宮の塔婆(たふば)再興の爲、地曳(ぢびき)を始めらる。去ぬる建久三年に炎上ありける後、遂にその沙汰もなかりしに、今日、彼(か)の舊基(きうき)を興(おこ)さしめ、將軍家、監臨(かんりん)し給ふ。大夫屬(さくわん)入道善信、是を奉行す。

[やぶちゃん注:頼家の補任及び頼家子息善哉(頼家の次男。後の公暁。母は源為朝の孫娘に当たる足助重長(あすけしげなが)の娘)・一幡(頼家嫡男。母は比企能員の娘若狭局。比企能員の変の際、享年六歳で焼死した)・弟千幡(後の実朝)の鶴ヶ岡参詣の部分は「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年八月二日及び十一月二十一日と建仁三年正月二日及び二月四日の条を、メインの判官知康の落馬事件は、同巻の建仁二年十二月十九日の条を、最後の鶴岡の塔婆地曳の記事は、同じく同巻の建仁三年二月十一日の条に基づくが、例に如くオリジナルに、「愈日毎の御鞠は天下の政道に替へ給ひて、世の誹、人の嘲を知召さず」と辛口に論評したり、元後白河法皇の腰巾着で今や頼家のそれである鼓判官平知康に対し、鎌倉の市井の人々が「京家の古狐、善く將軍を妖入れたり」と陰口を囁いたと附記して、陰に陽に頼家を批判することを忘れていない。

「官加階」官職と位階。

「絵馬四郎」北条義時。

「八幡宮の塔婆」鶴岡八幡宮寺にあった宝塔又は三重塔という。

「地曳」「地引き」とも書く。家屋などを建築するに当たって地均(なら)しや地突きの際に行う宗教性を帯びつつも、プラグマティクでもある儀式のこと。地曳き祭り。後世の宗教性の高い土公祭(どこうまつり)や現在の地鎮祭とは異なる。

「建久三年」この塔婆炎上は建久二(一一九一)年の誤り。「吾妻鏡」の同年三月四日の条に「餘炎如飛而移于鶴岡馬塲本之塔婆」(餘炎飛ぶがごとくして、鶴岡の馬場本(ばばもと)の塔婆に移る)とあるのが、それ。

「大夫屬入道善信」三善善信。]

 

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 佐竹天王・本覺寺

  佐竹天王・本覺寺

 

 由井の濱、鳥居の内(うち)にいりて、閻魔川(ゑんまがは)をわたり、身替(みがはり)地藏、辻(つじ)の藥師、逆(さか)川の橋をうちわたり、大町佐竹天王(さたけてんわう)の宮(みや)にいたる。それより大巧寺(きやうじ)、本覺寺(ほんかくじ)にゆきて、中の鳥居前、琵琶橋(びわばし)にいづるなり。

〽狂 旅(たび)はうき身

    がはり地藏(ぢぞう)

 ふしおがむこれも

   他生(たせう)のゑんま

            川かな

「そなたを駕寵(かご)にのせずにあるかするも、我(われ)ら了見(りやうけん)あつてのことだから、大儀であらうけれど、精だしてあるいてください。晩の泊(とま)りに鹽梅(あんばい)のよい處(ところ)を賞翫(せうぐはん)いたすのが、我ら、何より、それが樂しみだ。」

「さやうなら、妾(わたし)は精だしてあるきませうが、貴方(あなた)はお駕籠にめしませ。あまりおくたびれなされたら、晩のお役(やく)にたちますまい。」

「氣遣(づか)いしやるな。こんなことでくたびれることではない。儂(わし)のあるくのは、兩足を擂粉木(すりこぎ)にいたそうと思つての事だ。そうなると、一本の擂粉木が三本になるから、そなたは、さぞ、うれしからう。どうだ、どうだ。」

「旦那さまの擂粉木は、當(あ)てがあるから、よろしふござりますが、つまらぬは、妾(わたくし)の擂粉木でござります。まづ、腰にさした二本の擂粉木と兩足から、都合(つがう)、五本の擂粉木に、お駕籠の衆(しゆう)の擂粉木が二人で六本、それに、兩掛持(りやうがけも)ちの可内(べくない)が擂粉木三本、都合(つがう)、しめて十四本。皆、不用(ふよう)の擂粉木。この致し方(かた)がござりませぬ。なんと、旦那さま、これは、いかゞいたしませう。」

「それは、こうするがよい。來春、大和廻(やまとめぐ)りにゆくから、それまで、まつがよい。その時、その擂粉木は皆(みな)、高野(かうや)へでもおさめてしまうが、よからう、よかろう。」

「これから金澤へいつて網をひかせて、おもいれ、魚(さかな)をとつて、皆の者にも、うまい酒を一杯づゝのませよう。なんと、うれしいか、うれしいか。そのかはり、二杯とは、ならぬぞ。」

[やぶちゃん注:「佐竹天王」は現在の大町にある「お天王さん」の愛称で親しまれている鎮守、八雲神社のこと。後三年の役の際、新羅三郎義光が兄八幡太郎義家の助勢のために奥州に赴く途中で鎌倉に立ち寄ったが、疫病が流行っていたため、京の祇園八坂社の祭神を勧請したのが始まりと伝えられる。室町期には前出の名越にあったとされる佐竹屋敷の祠が合祀されて「佐竹天王」とも称され、江戸期には将軍より朱印が下賜されて、鎌倉祇園社となり、「祇園さま」として尊崇された。明治維新を迎えて八雲神社と改称、明治四四(一九一一)年に大町の村内にある上諏訪・下諏訪・神明・古八幡の四社をも合祀している。神輿四基があり、その内の一つを佐竹天王と称しており、七月の神幸祭の神輿渡御では担ぎながら天王歌を唄うと、白井永二編「鎌倉事典」にある。

「閻魔川」滑川の河口付近での呼称。閻魔堂川とも。現在の円応寺の前身である荒井閻魔堂がかつて川の近くに在ったことによる。現在の山ノ内小袋坂上に移転したのは元禄一六(一七〇三)年の震災による大破後であるから、本書の頃には既に荒井閻魔堂はなかった。

「身替地藏」延命寺の曰くつきの裸地蔵。「新編鎌倉志卷之七」に、

延命寺 延命寺は、米町(こめまち)の西にあり、淨土宗。安養院の末寺なり。堂に立像の地藏を安ず。俗に裸地藏と云ふ。又前出(まへだし)地藏とも云ふ。裸形(らぎやう)にて雙六局(すごろくばん)を蹈せ、厨子に入、衣(きぬ)を著せてあり。參詣の人に裸にして見するなり。常(つね)の地藏にて、女根(によこん)を作り付たり。昔し平の時賴、其の婦人との雙六(すごろく)を爭ひ、互ひに裸にならんことを賭(かけもの)にしけり。婦人負けて、地藏を念じけるに、忽ち女體に變じ局(ばん)の上に立つと云傳ふ。是れ不禮不義の甚しき也。總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起こさしめん爲(ため)の佛を、何ぞ猥褻の體(てい)に作るべけんや。

とあり、編者は光圀の意を汲んで、聖なる地蔵を女体に刻んで、あろうことか会陰まで施すなんどということは破廉恥極まりないと激しい不快感を示して吠えている。面白い。白井永二編「鎌倉事典」によれば、この本尊は江戸への出開帳も行ったとあり、恐らく、この秘所を参拝者に見せることが、割に日常的に行われていたと思われる。現在、okado氏のブログ「北条時頼夫人の身代わりとなったお地蔵さま~延命寺~」でかなり古い法衣着帯の写真を見ることが出来る。但し、「總じて佛菩薩の像を裸形に作る事は、佛制に於て絶へてなき事也とぞ」とあるが、これは感情的な謂いで、正しくない。鎌倉期には仏像のリアルな写実性が追及され、また生き仏のニュアンスを与えるために裸形の仏像に実際の衣を着せることが一部で流行した。奈良小川町にある伝香寺の裸地蔵、同じく奈良高御門町の西光院の裸大師、西紀寺(にしきでら)町の璉城寺(れんじょう)の光明皇后をモデルとしたとされる裸形阿弥陀如来像、奈良国立博物館所蔵裸形阿弥陀如来立像等がそれで、実際に私は以前にある仏像展の図録で、そうした一体の裸形地蔵写真を見たことがあるが、その股間には同心円状の何重もの渦が彫り込まれていた。聖なる仏にあっては生殖器は正に異次元へと陥入して無限遠に開放されているといった感じを受けた。但し実はそれは私には、デュシャンの眩暈の「回転硝子盤(正確さの視覚)」を見るようで、デシャン的な意味に於いて、逆にエロティクに見えたことを付け加えておく。それにしてもこれは、一九にとっては絶好の好色ネタにぴったりなのに、全く言及していないのは解せない。後段の艶笑話にも全く影も形ない。一九はこの絶妙の「下ネタ地蔵」を実見しておらず、もしかすると、そのきわどい話も実はよく知らなかったのかも知れない(狂歌で本地蔵を読み込んではいるが、これは一般的な意味での身代わり地蔵の意でしか「身替り」の意を採っていないことは明白)。知っていれば、一九先生、絶好の御当地エロ話として餌食にしなかったはずがないのである。

「逆川」鎌倉一」に、

逆川 名越切通邊より流出て、西の方へ流るゝゆへ逆川と唱ふ。大町の境へ出て、閻魔堂川に合して南流す。

とある。現在の大町四ツ角から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に逆川橋が架橋されているが、この逆川(さかがわ/さかさがわ:現在は後者の呼称が一般的)という名は、この滑川の支流が、地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向(現在は距離にして五〇メートル弱。「鎌倉攬勝考卷之一」の「西の方」というのはこの川の流れる方向としては正しいが、それが「逆川」の由来というのは実は不審である。あえて言うならこの逆橋からは寧ろ北北東に流れが急変すると言える)に流れているために付けられたものである。

「兩掛」は旅行用の行李(こうり)の一種で、挟箱(はさみばこ)又は小形の葛籠(つづら)に衣服や調度品を入れて、棒の両端にかけ、天秤棒で担いだり、二つの荷物を紐で結んで胸と背に振り分けて持った体裁のものを言う。

「可内」武家の下男の通称。「可(べく)」の字は、元来、文中で漢文表現して「可申候(まうすべくさふらふ)」等と必ず上に置く返読文字であったが、それを「無(な)い」で否定して、上に就かない、必ず下に付くの意としたものを「甚内」などの人名に擬えて「内」の字を当てたものである。

「「おもいれ」副詞「思入れ」で、思いっきりの意。]

蒼天 萩原朔太郎

 蒼天

いつしんなれば、
あふむけに屍體ともなる、
つめたく合掌し、
いんよくいちねん、
きりぎりす靑らみ、もはら、
雀みそらに殺さる。

[やぶちゃん注:『風景』第一巻第六号 大正三(一九一四)年三月号。底本全集の「拾遺詩篇」に所収する。]

しなびた船 大手拓次

 しなびた船

海がある、
お前の手のひらの海がある。
苺(いちご)の實の汁を吸ひながら、
わたしはよろける。
わたしはお前の手のなかへ捲きこまれる。
逼塞(ひつそく)した息はお腹(なか)の上へ墓標(はかじるし)をたてようとする。
灰色の謀叛よ、お前の魂を火皿(ほざら)の心(しん)にささげて、
淸淨に、安らかに傳道のために死なうではないか。

耳嚢 巻之六 其才に誇るを誡の歌の事

 其才に誇るを誡の歌の事

 

 才力ある人は、人も尊崇し、公私の用にもたちてよろしけれど、自分(おのづと)其の才器に任せる故(ゆゑ)人も慴み、またさまでなきは、智才ある人、却(かへつ)て人の用ひもをとる事あり、世にあらん人は心得あるべき事と、或る老人に咄し合(あひ)けるに、彼(かの)老人の云へるは、さればとよ、それにつき思ひ出る事あり、後水尾院樣の御誡歌(ごかいか)の由、人の語りしとて噺しぬ、

  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝

げにも尊き御教(おんおしへ)の御歌(ぎよか)と、爰に記し置(おき)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の艶笑狂歌から、また、堂上狂歌へ連関。この後水尾院、本巻で先行する御製發句の事では発句さえものしており、なかなかの通人であらっしゃたようどすなあ……但し、恐残念ながら、この歌も先の発句同様、彼の御製ではない可能性が高い。

・「其才に誇るを誡の歌の事」「誡」は「いましむる」と訓じているか。岩波版では「いましむ」とルビを振る。

・「慴み」「慴」は「おそれる」「おびやかす」としか訓ずることが出来ず、意味もおかしい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「憎み」とあり、こちらならすんなり通ずる。現代語訳では「憎み」を採った。

・「後水尾院」御製發句の事に既注。

・「たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝」底本の鈴木氏注に以下の三村竹清氏の以下の注を引く。『この歌徹書記かと被存、右集外へかし置、穿鑿に間合兼申候、才智は人の仇なりといふ事を、『見よや人(おもへ人)をのがえならぬ花の香に折やつさるゝ野路梅が枝』このやうにそら覺申候、初五文字別して覚束なく、作者は猶さらにて候』とあるとするが、岩波版長谷川氏注には『正徹諸集に見えず』ともある。正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)は室町中期の臨済僧で歌人。

――誰も誰も、よう、見とうみ……己れの枝にはない……香しい野辺の梅が枝(え)の花は……これ……必ず折り採られて……絶やさるるもので……おます――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 己れの才に誇るを誡む歌の事

 

……才智ある人は、他人からも尊崇され、公私の用にも、何かと役立つゆえ、一見、如何にもよろしゅうに見ゆるけれども――これ、自ずと勢い、その己れの才器に誇りがちとなるゆえに――結局は他人も内心にては憎み、また――憎まるるとまでは至らずとも――才智ある人という者、その、人より優れた才智のゆえにこそ――かえって人も物怖じ致いて、逆に採用致すに二の足を踏む――ということも御座る。こうした事実を世を渡らんとする才智ある御仁は、よう、心得ておかねばならぬ。……

といったことを、とある老人と談話致いて御座った折り、その老人の言うに、

「……そう言えば……それに就いて思い当ることが御座る。後水尾院さまの御誡(おんいまし)めの歌の由、人の語って御座った、ありがたき御製にて……」

とて、示された御詠歌、

  たれも見よをのがえならぬ花の香におりたやさるゝ野路の梅が枝

「……実に尊き御教(おんおし)えの御歌(ぎょか)で御座ろう。」

と申して御座ったによって、ここに記し置くことと致す。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十二(一九五七)年

昭和三十二(一九五七)年

木枯の一夜明けたる道白し

冬耕の馬より低く入日炎ゆ

  高岡城跡

大寒の小石かゞやき城古りぬ

枯蓮の夕べ秒針すこやかに

紅顏や石崖の根に雪のこり

松さかしま寒城の水鋼(はがね)なす

[やぶちゃん注:『週刊読売』同年二月十七日号。私は若き日に高岡に住んだことがあり、これらの句は何故か不思議に極めてリアルな印象を受ける。因みに――私はこの年の二月十五日に生れた。]

華やかな木枯夜富士吹きとがる

道ありて歸る冬滿月正面に

ひとの子の紙鳶をさゝげて初濱に

正月の岸壁蔦の朱一枚

寒林を透りて誰を呼ぶ聲ぞ

海女の火の煙一炷蠅つるむ

[やぶちゃん注:『春光』六月号より。「一炷」音ならば「いつしゆ(いっしゅ)」、訓ならば「ひとたき」であるが、後者で読みたい。]

夏山へ古城へ双の鳶別れ

[やぶちゃん注:『週刊読売』(底本に月号表示なし)掲載の「淀城」の中の一句。淀城は現在の京都府京都市伏見区淀本町にある城跡のこと。本丸の石垣と堀の一部が残る。]

一言芳談 九十四

   九十四

 敬佛房云、婬事對治(いんじたいぢ)、不淨無常(ふじやうむじや)は猶、次(つぎ)なり。只以貧爲最(ただひんをもつてさいとなす)。依之(これによつて)、故上人は、あながちにうれへず。貧賤をさきとする故なり。今の後世者は其身、富有(ふいう)なるがゆゑに、此事難禁(いましめがたし)と云々。同(おなじき)上人、あからさまにても、男女(なんによ)の間の事、物語にし給はず。

〇婬事對治、婬欲を對治せんには、人身の不淨を觀じ、自他の無常を觀ずる、つねの事なれども、それよりも貧乏が第一の對治にてあるとなり。婬事も衣食住のゆたかなるうへの事なり。はだへさむく、食事ともしくば、色欲もおのづからおこるまじとなり。
〇あからさまにても、かりそめにもなり。

[やぶちゃん注:「婬事對治」「對治」は退治と同義。性的な欲に関わる一切を退治すること。「不淨無常」との並列ではなく、「禁欲するためには~」で以下に続く。
「不淨無常」「不淨」とは五種不浄を謂い、種子不浄(父母の淫欲の業火、その種子の結果として生じる身体とその内にある種子すべてが不浄であること)・住処不浄(生まれる際の十月十日の間の母胎の内は臭穢に満ちており不浄であること)・自性不浄(脚部から頭部まで全身に不浄が充満しており、如何なる着衣・清拭・飲食を以てしても浄めることは出来ないということ)・自相不浄(この身は常に九孔より不浄物を流出していること)・究意不浄(死後に遺体が腐敗・膨満・崩壊して白骨となることを謂い、一切の死屍の中でも人身が最も不浄であることを指す)を指す。つまり、生命の発生から死後の白骨化に至るまでの一生のことごとくが不浄に埋め尽くされていることを説く言葉であり、それは謂わば、諸行無常という認識の自己による体現である、ということを述べているのであろう。
「只以貧爲最」「依之」「此事難禁」の部分が漢文脈で記されていることから、これは伝不詳の敬仏房なる人物の書き記した何物かからの引用であることが分かる。
「故上人」「同上人」法然。
「物語にし給はず」大橋氏の訳では、『何も、こうせよといったことは話をしていらっしゃいません』とある。]

2013/02/22

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 五 意識

     五 意識

 人が目を醒まして居るときは意識があるといひ、熟睡して居るときは意識がないといふ。
しからば意識とは何かと尋ねると、これは容易に答へられぬ。なぜかといふに、意識のある狀態とない狀態との間には自然の移り行きがあつて、判然たる境界線を定めることが出來ぬからである。誰も自身に經驗のある通り、夜寢床に入つて目を閉ぢて居ると、いつとはなしに意識が朦朧となつて、暫時うとうとした後に終に眞に眠入つてしまふ。また急に起されたときには、直に意識が明瞭にならず、方角も分らず、物の識別も出來ぬやうな所謂寢ぼけた有樣を通過して漸く精神が判然する。赤子の生まれたばかりのときには取り立てて意識と名づくべき程のものもないやうであるが、日數が重なる間に次第に人間らしく、笑つたり怒つたりするやうになり、長い時日の後に至つて普通一人前の意識が完全になり終る。また病人が死ぬときにもまづ意識が混濁して昏睡の狀態に陷り、一歩一歩眞の無意識の境遇に近づいて行く。かくの如く人間だけに就いていうても、明瞭な意識のある狀態から、全く意識のない狀態までの間に無數の階段があるが、他の生物は如何と見ると、こゝにも意識には種々の程度の違つたものがある如くに思はれる。昔の或る有名な學者は意識を有するものは人間ばかりで、他の生物には意識はない。かれらは單に自動器械の如きもので、恰も時計や、ぜんまい仕掛けの玩具などの如くに器械的に動いて居るに過ぎぬと説いたが、これなどは人間と他の生物とを絶對に區別したいと思うた舊い頃の考で、今日虛心平氣に判斷すると、全く何の根據もない説である。生物の中には、眼付や擧動から鑑定すると人間に劣らぬ明瞭な意識を具へたものもあれば、人間の寢ぼけたとき位の程度以上に意識の進まぬものもあり、また一生涯を昏睡の狀態で過すものもある。野蠻人が、鳥獸は素より草木金石に至るまで、自分と同じ程度の意識がある如くに考へるのも誤であるが、昔の西洋の學者が、その正反對に人間以外の生物には意識はないと論じたのも同じく誤といはねばならぬ。
[やぶちゃん注:「昔の或る有名な學者」とは恐らくデカルトを指している。デカルトは「意識」という概念を、現在で謂うところの「思考」や「精神」に極めて近似したものとして定義しており、仮に動物に「意識」的に見える行動があったとしても、それは「考える」という能動的行動とは異なると考えていた。]

 著者が實物を見て考へる所によれば、多くの生物には慥に人間のと同じやうな意識がある。但しその程度は決して同じでない。本能や智力も各種の生物によつて發達の程度が違ひ、各々その生活に必要な程度にまでより進んで居ないが、意識なるものも各種の生物が食つて産んで死ぬのに必要なだけの程度より以上には昇らぬ。即ち一生涯昏睡の狀態にあつても、食うて産んで死ぬのに差支のない生物には、昏睡の狀態以上の意識は現れず、寢ぼけ程度の意識さへあれば食つて産んで死ねる生物には、寢ぼけ程度より以上の意識は生ぜぬ。隙を覗うて電光の如くに肴を盜み去る猫の意識と、靜に草を食つて居る芋蟲の意識と、追はれても逃げず突かれても平氣で居る「くらげ」の意識との間には、勿論甚しい相違はあるが、人間が生まれてから死ぬまでの間、または起きてから寢るまでの間には、これらと同等の階段を順次に經過するから、その間に境界を定めることは出來ぬ。無意識の狀態から有意識の狀態に進む有樣は、恰も夜が明けて朝となり、また晝となる如く、いつとはなしに變化して行くから、兩端を比べるとその間の相違は著しいが、こゝまでは意識がなく、そこから先は意識があるといふ如き境界はどこにもない。かやうな所に強いて境界を定めようとすれば、恰も汽車や電車の賃金十二歳以下は半額とか、五歳以下は無賃とか定める如くに、相談によつて便宜勝手な所に境を造るより外に致し方はないであらう。
 意識の程度が、各種の生物の生活に必要な所までより進まぬ如く、意識の範圍も、各種の生物の生活に必要なだけより以上には及ばぬやうである。元來意識は神經系の働の全部に亙るわけではなく、僅にその一部を含むだけで、恰も闇の夜に懷中電燈で照らした處だけが明く見えるのと同じく、殘餘の部分は全く意識の外にある。一例を擧げて見るに、我々が或る物體を觀るときには、その物體の像が眼球の奥の網膜の上に倒さに小さく映ずるが、このことは少しも意識せられぬ。また種々の實驗でわかる通り、網膜の上に映じた像をそのまゝに感ずるわけではなく、これを材料として一種の判斷力を働かせ、その結果を感ずるのであるが、この判斷の働も意識の範圍以外にある。そして、たゞその結論だけを直感的に知ることが出來る。網膜にどんな像が映じようとも、また先祖以來の感覺の記憶や、その連絡の記憶がどんなであらうとも、そのやうなことは知つても生活上何の役にも立たぬから、意識の中に現れぬが、自身の前面に當たる外界の一部に、自分より約何米距る處に何程の大さの如何なる形の物が有るかを知るのは生活上最も肝要なことであるから、たゞこれだけが意識せられるのである。されば意識の範圍内に現れるのは、神經系の働の中で生活上明瞭に意識する必要のある部分だけであつて、その他の働は、たとひこれと密接な關係のあるものでも、みな意識以外に隱れて居る。これに類似したことは我々の日常の生活中にも幾らもある。例へば時計を用ゐるには時刻の讀みやうと、鍵の卷きやうと、針の動かしやうとを知つて居れば十分であつて、内部の細かい機械の仕掛けなどは知らずとも差支はない。また電話を掛けるには、呼出しやうと切りやうとを知つて居ればよいので、別に電話機械の構造や理窟を知つて居る必要はない。生物の有する意識なるものもこれと同樣で、神經系の働きを全部知つて居る必要はないから、他の部分はすべて無意識の繩張り内に殘して置いて、たゞ直接に知る必要のある部分だけを引き受けて居るのである。意識に現れることは、皆無意識の範圍内に於ける神經系の働を基礎とし、且これと密接な關係のあることはいふまでもない。
 本章に於ては主として智力のことを述べて、情の働、意の働のことは全く省いたが、著者の考へによればこれもやはり前と同樣の關係で、各種の生物が食うて産んで死ぬのに必要な程度までには發達して居るが、決してそれ以上には進んで居ない。しかもそれが意識に現れるのは當事者が自覺する必要のある部分だけに限る。情の力、意の力が無意識の範圍内で働き、その結末だけが意識せられる場合には、なぜにこのやうなことがしたいか、なぜこのやうなことをせずに居られぬかは、無論自身にもわからず、たゞ本能的にそのことをなし終るであらうが、かくすれば、それが必ず種族の生存のために役に立つ。即ち當事者が自身の行爲の理由を知つて居ても知らずに居ても、それは種族の生存のためにはいづれでも差支はない。たゞ必要なだけのことが行はれさへすれば宜しいのである。身體に水分が不足すれば渇を感じて水が飮みたくなり、水を飮めば水の不足は忽ち補はれる如く、意識して感ずるのはたゞ直接に必要なことだけで宜しい。それより奧のことは必ずしも感ずるに及ばぬ。かやうに考へて見ると、意の力、情の力を具へて、生物が敵を防ぎ、子を育てなどして居る有樣は、恰も電車の運轉手がハンドルの廻しやうと、齒止めの掛けやうとだけを知つて、日々車臺を運轉せしめて居る如くで、抑々如何なる理由で車の輪が廻轉するかといふ問題などは捨てて置いても少しも差支はない。たゞ綠の旗が出れば進み、赤い旗が見えれば止まりさへすればよいのである。そして實際如何なる生物でも意識内に現れる神經系の働きは、必ずかやうな性質の部分のみに限られて居るやうに見受ける。
 なほ各種の生物が食つて産んで死に得るために有する種々の構造や習性を通覧して、心附かずに居られぬ點が一つある。それは外でもない。いづれの構造でも習性でも種族全體としての生存に有利であれば宜しいので、例外の場合に少數の個體が犧牲となることは全く度外視せられて居る。言を換へていへば、自然なる者は種族の生存を圖るに當つて、いつも全局を通じての利益を標準とし、多少の無駄は始から覺悟して居るのである。本章に述べた本能でも智力でも反射作用でも、皆各種の生物の種族全體に取つては必要なものであるが、特殊の場合に若干の個體が、そのため生活の目的にかなはぬ所業(しわざ)をなすことを避けられぬ。「走りぐも」が紙屑の丸めた球を卵塊と誤つて大切に保護するのは、本能のために無益な勞力を費して居るのであるが、蛾の類が燈火を見て飛び込んで來る如き場合には、本能のために命を捨ててしまふ。しかしながら、「走りぐも」が紙屑を卵と間違へるのは、人がわざわざ試驗して見る極めて稀な場合に限ることで、これは全く勘定には入らず、また人が燈火を點し始めたのは、地球の長い歴史中の最後の頁で、しかも燈火の光の達する區域は、表面の廣さから見れば殆どいふに足らぬから、もし蛾をして燈火に向はしめる神經系の構造が、蛾の生活上他の方面に有功な働をなして居るものとすれば、差引き勘定無論遙に得になつて居る。半紙を漉くに當つて、始から毫も無駄の出ぬやうに出來上りだけの寸法に造らうとすれば、これは頗る困難なことで、如何に手數を掛けてもなかなか行はれ難い。これに反して、始から若干の無駄を見越し、出來上りの寸法よりも稍々大きく漉いて、後に周邊の餘分の處を裁ち切ることにすれば、頗る容易に目的を達することが出來る。生物界に於ける本能・智力乃至情の力、意の力なども、これと同じ理窟で、無駄な部分を裁ち切つて餘つた處が生活上の役に立てば、それで已に目的にはかなうて居る。特殊の場合に出遇つた本能の働や、生活に必要なより以外の方面に向けた智力の働などは、時としては若干の個體の生存のために無益または有害なこともあるが、これは恰も半紙の裁ち屑のやうなもので、各種族の全體の經濟からいへば、捨てても決して損にならぬ位のものであらう。

内部に居る人が畸形な病人に見える理由 萩原朔太郎

 内部に居る人が畸形な病人に見える理由

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、

それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。

わたしは手に遠めがねをもつて居ります、

それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、

につける製の犬だの羊だの、

あたまのはげた子供たちの歩いてゐる林をみて居ります、

それらがわたくしの瞳(め)を、いくらかかすんでみせる理由です。

わたくしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、

そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、

それがわたくしの顏をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。

じつさいのところを言へば、

わたくしは健康すぎるぐらゐなものです、

それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめてゐる。

なんだつてそんなに薄氣味わるく笑つてゐる。

おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、

そのへんがはつきりしないといふのならば、

いくらか馬鹿げた疑問であるが、

もちろん、つまり、この靑白い窓の壁にそうて、

家の内部に立つてゐるわけです。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の中の「くさつた蛤」副題「なやましき春夜の感覺とその疾患」の章の巻頭の一篇。下線部は、底本では総て傍点「ヽ」。初出同様、初出の最終行のルビから推して、題名を含め、総ての「理由」は「わけ」と訓ずるべきであろう。]

内部に居る人が病氣に見える理由 萩原朔太郎 (「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」初出形)

 
 

 内部に居る人が病氣に見える理由

わたくしは窓かけのれいすの影に居ります。
それがわたくしの顏をうすぼんやりと見せる理由です。
わたくしは手に遠めがねをもつて居ります、
それでわたくしはずつと遠いところを見て居ります。
につける製の犬だの羊だの、
あたまのはげた子供の居る林をみて居ります、
それらがわたくしの眼をいくらかかすんでみせる理由です。
わたくしはけさ貝類を喰べすぎました、
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、
それがわたくしの顏をこんなに歪んで見せる理由です。
じつさいのところをいへば、
わたくしはまつたく健康すぎるぐらひです。
それだのに、なにを君たちは笑つてゐる!
ああわたくしの腰から下ならば、
それをそんなに怪異(ふしぎ)がるならば、
おそらく馬鹿氣きつた説明をやりますが、
もちろん、この高い窓の内側にある理由(わけ)です。
                ――四月作――

[やぶちゃん注:『ARS』第一巻第三号 大正四(一九一五)年六月号所収。二年後に出版される詩集「月に吠える」に所収された「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」の初出形。太字「れいす」は底本では傍点「ヽ」。「わたくしはまつたく健康すぎるぐらひです。」の「ぐらひ」はママ。最終行のルビから推して、題名を含め、総ての「理由」は「わけ」と訓ずるべきであろう。]

耳嚢 巻之六 孝傑女の事

  孝傑女の事

 

 享和三年の頃、御代官なる鹽谷何某(しほのやなにがし)の手代に、苗字は聞洩(ききもら)しぬ、林左衞門といえるありて、年頃廉直に勤めて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらん、勢ひよく勤めしに、一人の娘ありしを、同じ手代仲ケ間の世話にて、是も同じ手代類役(るいやく)の内へ媒(なかだち)せしが、いまだ事極りしにもあらず、況(いはんや)たのみなどとりいれしにもあらず。しかるに熊ケ谷邊の知音、かの林左衞門と懇意なりしが、右の媒にかゝりし手代を以て、彼(かの)娘を越後の國の豪家の百姓へ世話いたし度(たし)と、頻りにいひこしける故、彼越後成(な)る百姓は音に聞へし富家(ふけ)なれば、手代のかたへ嫁(か)せんよりは、遙(はるか)にまさるべしと、林左衞門夫婦へも咄しければ、夫婦も大きに悦び早速承知の趣にて、娘へもかたりければ、彼娘、何分越後へ嫁せん事はゆるし給へとて、斷(ことわり)に及びし故、父母は勿論、かの媒せし男も、いろいろうちよりいさめけれど、父母の命に背くは恐れあれど、幾重にも免し給へと斷るゆへ、媒もあぐみて考へぬれど、かの媒せんと始めかたりし手代は、年も四十にて年頃も相應にも無之(これなく)、容貌は大疱瘡(だいばうさう)にて醜といふの類ひ、いまだよき手代といふ程の人物にもあらざれば、戀慕執着のたぐひにもあらず。富貴(ふうき)を好むは人情の事故、ひそかにかの娘が内心を尋ねしに、素より右の手代の方へ嫁せんと好むにもあらず、しかれども、最初に物語り媒ありしは右の手代にて、追(おつ)て越後の豪家の農家より需(もと)むるとて媒あれば、全く富貴に目のくれて子を賣る罪、父母に蒙るべし、父は醇直(じゆんちよく)を以て今元締(もとじめ)等も致し、人も稱するに、此事にて慾にふけるの名をなさん、これ子の身としてしのびざるの事なりとて、何分合點せざるゆゑ、始は吉(きち)にして終り不宜(よろしからざる)もあり、縁談の値遇は人の憶智(おくち)にも及ばざればと、兼て心安(やすく)せし、相學に名ある栗原某を呼びて、いづれか吉ならんと相を賴みけるに、其の血色いかにも徹女(てつぢよ)にて、容色美わしきといふにはあらねど、十人には增るべき人相なり。しかれど、農家に嫁し或は田舍の事とり扱ふの手代などに嫁しては、いづれも不宜(よろしからず)、武家などへ嫁して可然(しかるべし)と判斷して歸りしと、右の栗原語り稱しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。深慮ある孝行者の麗しき娘の物語り。あとのことしりたや……

・「享和三年」西暦一八〇三年。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるからホットな出来事。

・「鹽谷何某」塩谷惟寅(しおのやこれのぶ 明和六(一七六九) ~天保七(一八三六)年。大四郎。江戸後期土木事業などに大きな業績を残した西国筋郡代。名は正義。幕臣粟津家に生まれ、のち塩谷家に入る。寛政一二(一八〇〇)年に勘定吟味改役から代官に昇進、文化一三(一八一六)年には九州の幕領十万石支配の代官に任命され、翌年、豊後国日田陣屋(大分県日田市)へ着任した。その後支配地は十六万石余にまで増え、文政四(一八二一)年には西国筋郡代に昇任。日田在任中は小ケ瀬井路の開削・筑後川舟運の整備・救済施設陰徳倉の設置・道路の改修などを行った。また、豊前宇佐郡や豊後国東郡などの海岸干拓新田を築造している。但し、こうした積極的行政政策は町村の豪農商の出金によって賄われたため、その負担が有意に増し、「塩鯛(塩谷大四郎)は元のブエン(無塩)に立返れ塩が辛うて舌(下)がたまらん」との狂歌も残されている。天保六(一八三五)年まで同職にあった(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。底本の鈴木氏注には『享和三年の武鑑に、塩谷大四郎は単語但馬美作の代官』とある。

・「手代」郡代・代官・奉行等に属して雑務を扱った下級役人のことを指すが、狭義にはその内で非武士階級の者を指す。底本の鈴木氏の「手代」の注に、『町人百姓から適任の者を採用するのを手代という。手代は役にある間は侍待遇で両刀羽織袴であるが、退職すれば士分の待遇を失う』とある。次の「手附」の注も参照のこと。

・「手附」辞書には「手代」と同じ記載があるが、底本の鈴木氏の「手代」の注には、『小普請の御家人から採用する』事務担当者を特に『手附とい』うとある。また、岩波版長谷川氏の注には、『幕臣で譜代の者と一代のみ抱えの者あり。小普請組より採用の者と手代より抜擢の者がある』ともある。但し、本文ではこれ以降の「手代」を、この「手附」と厳密に区別して用いているようには思われない。

・「たのみ」「頼み」「恃み」などと書き、契約(結)を受けて(納)下さいの意で、婚儀の結納を指す。

・「況(いはんや)」は底本のルビ。

・「栗原某」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行ありく栗原幸十郎と言る浪人』とある栗原幸十郎と同一人物であろう。根岸のネットワークの中でもアクテイヴな情報屋で、既に何度も登場している。

・「徹女」一徹の女子の意であろう。思い込んだことは一筋に押し通すと見える筋の通った女丈夫ということ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  孝行の女傑の事

 

 享和三年の頃、御代官として知らるる塩谷何某(しおのやなにがし)殿の手代にて――苗字は聞き洩らしてしもうたが――林左衛門(りんざえもん)と申す者が御座って、年頃、実直にお勤め致いて、御勘定奉行の手附(てつき)とやらを、精心に勤め上げて御座った。

 さて、林左衛門には一人の娘があったが、同じ手代仲間の世話によって、これも同じ手代の役務を致いておる者の家へと、媒酌致いて御座った。

 ところが、未だ、その手代方との正式なる受諾や婚儀手筈なんども決まっておらず、況んや、結納(ゆいのう)の儀なんどは、これ、まだ取り交わしてもおらなんだ。

 ところが、そんな折りも折り、武蔵国は熊谷辺りの、林左衛門とは懇意なる知人が、かの、先の媒酌に関わった同じ手代――彼もこの知人と知り合いで御座った――を通して、

「――かの娘子の婚儀のことじゃが、実は、かの貴殿もご存知の、かの熊谷の御仁より、いい話しが別に降って湧いて御座った。場所は越後の国、相手は土地の豪農じゃ! そちらの家へ、是非とも世話致したく存ずるのじゃ!……」

と、頻りに慫慂(しょうよう)に参っては、

「――その越後の百姓と申すは、これ、我らも存ずるほどの、かの地でも音に聞えた富家(ふけ)なればこそ、先だっての、あの、手代の方へ嫁(よめ)せんよりは――遙かに娘子へも良きことで御座るて!」

と、林左衛門夫婦へも熱心に勧める。

 夫婦も、これを聴き、大いに悦び、早速に承知した旨、その媒酌の男に新たな取り持ちの許諾を与え、娘を呼んでは、そのことを語った。

 ところが、娘は、

「……何分……その越後へ嫁(よめ)入り致すということ……これ……お免(ゆる)し下さいませ!……」

と、堅く断りを入るる。

 されば、父母は勿論、かの媒酌致いた男も、意外な娘の言葉に慌て、一緒になって、いろいろと宥(なだ)めたり賺(すか)したり、何とか説得致さんと、したが、これ、全く聞き入るること、御座ない。

 娘はただ、

「……父上さま母上さまの御命(おんめい)に背くことは、これ、畏れ多いことと存じます……が……それでも……幾重にも……はい……お免し下さいませ!……」

と頑なに拒む。

 されば、媒酌人も考えあぐみ、

「……かの、初めに媒(なかだち)致さんとした手代は――これ、年も既に四十にて、年頃も娘子に相応の者にては、これ、ない!――失礼ながらかの手代が容貌も、これまた、ひどい疱瘡の痘痕面(あばたづら)にして、まんず、言うたら、「醜」の部類!――また、未だ手代としても、これといった業績を積んでおるというほどの人物にも、これ、御座ない!……されば、娘子が、かの手代へのせつない恋慕執着の類いによるものにても、これ、御座ないこと、明白じゃ!……それに富貴(ふうき)を好むは、これも人情のことなればこそ……さても!?……」

と合点の行かぬゆえ、媒酌人、こっそりと、かの娘一人と逢(お)うて、その忌憚なきところの内心を糺いたところ、

「……はい……もとより……かの初めの手代の御方へ、嫁入り致すことを心より望んでおるわけにては、これ、御座いませぬ。……されど……最初に、お話があり、媒(なかだち)の御座いましたは……かの手代の御方……後(あと)より追って、越後の豪家の農家より、嫁を求めておらるるとのお話、これ、貴方さまより媒(なかだち)御座いました。……が……これ、お受け致さば――『全く富貴に目の眩んで子を売った』――と申す謂われなき咎(とが)を、これ、父母の蒙りますこと、明白……父は、これまで淳直を以って、今は手附役の元締めなども致いて、人も讃える一廉(ひとかど)の人物……されど……この我らが婚儀の経緯によって――『欲に耽るがりがり亡者』――と申す忌わしき風聞を成さんは……これ、子の身として、忍び難きことにて御座いますれば、かく、お畏れながら、お断り申すので……御座いまする!……」

とて、如何に懐柔致さんとしても、これ、いっかな、合点せぬ。

 されば――始めは吉(きち)に見えても、終わりには、これ、よろしからざる結末の出来(しゅったい)致すこともあり――また、縁談に限っては、殊にその男女の出逢いと申す――これ、憶測や人智の及ばぬ摩訶不思議なるものの力とも言わるるものなれば……かねて心安うして御座った相学に名のある栗原某を呼びて、

「……さても、この二つの縁談……何れが吉で……御座ろう?……」

と人相見を依頼致いたそうな。

 さても――この栗原某――そう、最早、読者諸君もご存知の、かの栗原幸十郎で御座った。……

 

「……そうさ、その娘は、血色、これ、如何にも一徹の女傑にて……まあ、容貌麗しい、と明言するほどにては、これ、御座らなんだが……それでも、十人並、と申してよい美顔、、基! 人相で御座った。……然れども……

――農家に嫁(か)し、また或いは田舍の些事雑事を取り扱(あつこ)うが如き手代なんどへ嫁しては、これ、何れもよろしからず――しっかりと致いた武家などが方へ嫁してこそ然るべし――

と断じて、帰りまして御座る。……」

とは、かの栗原殿の開陳致いてくれた話にて御座る。

陶器の鴉 大手拓次

 陶器の鴉

陶器製のあをい鴉(からす)、
なめらかな母韻をつつんでおそひくるあをがらす、
うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。
嘴(くちばし)の大きい、眼のおほきい、わるだくみのありさうな靑鴉(あをがらす)、
この日和のしづかさを食べろ。

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十一(一九五六)年

昭和三十一(一九五六)年

種牛や腹に五月の土蹴上げ

月光を入れてピアノの第一音

肥後乙女まなこ黑々マスク白し

一言芳談 九十三

   九十三

 

 或云、乞食修行の次(ついで)に、我執名聞(がしうみやうもん)を遁れて、心靜かに後世のつとめをもし、終(おはり)をも取りつべき依所(えしよ)、便宜(びんぎ)の得失などを、かねてよくよく思慮し、見さだめて置くべきなり。後世のこゝろなきものは、この案がなきなり。

 

〇乞食修行、乞食と佛と説(とき)玉ふ。沙門は頭陀行(ずだぎやう)をするが第一也。我執おのづからやむべき也。(句解)

 

[やぶちゃん注:Ⅰでは「便宜」に「べんぎ」と振るが、Ⅲを採った。Ⅱ・Ⅲは「依所(ところによつて)」と訓じているが、文脈から自然なⅠを採った。また、Ⅰは「思慮」を「思量」とするが、Ⅱは明らかに「慮」でルビも「しりよ」とあり、Ⅱ・Ⅲを採った。

「乞食修行」托鉢のこと。頭陀行・行乞(ぎょうこつ)とも呼ぶ。僧尼が修行のために経を唱えながら各戸の前に立って食物や金銭を鉢に受けて回ることで、本来は、生活のためのプラグマティクなものではなく、結果としては修行生活に必要最低限度の(即ち、生命維持のためのみという厳密な条件下で)食糧などを乞い受けることになるものの、あくまで信者に功徳を積ませることを主体とした修行者の修行の一形態であった。元はサンスクリット語のピンダパータで、インドの正当にして崇高な修行者が托鉢によって食物を得たことに由来する(「托鉢」という語は中国で宋代から用いられるようになった)。現代の日本では主に禅宗や普化(ふけ)宗などで修行の一つとして実施されているが、一部参考にしたウィキ托鉢」には、明治五(一八七二)年十一月に托鉢の禁令(教部省第二十五号達)が出され、明治一四(一八八一)年八月には解禁(内務省布達甲第八号)されたものの、『管長の免許証の携帯が義務付けられた。この托鉢免許証の携帯義務の規定は『日本国憲法施行で信教の自由と政教分離が定められたため廃された。しかし、現在においてもほとんどの宗派が、托鉢の鑑札(許可証)、または、問い合わせの際に回答できるよう僧籍番号と届出の一覧制度を持っており、疑義ある場合は問い合わせが可能である』とあり、『現在の托鉢には、集団で自派の檀家の家々(近隣に限らない)を訪問する形態(門付け。かどづけ、と読む。)と、個人で寺院の門前や往来の激しい交差点など公道で直立して移動せずに喜捨を乞う形態(辻立ち。つじだち、と読む。)がある』。『このように日本の仏教における托鉢が本来の目的から外れるようになったのは、日本を含む東アジアに広まった大乗仏教では上座部仏教とは異なり物品の所有を禁止しておらず、その結果として寺院が寄進された荘園等を運営し、その小作料等で寺院を維持する事が可能となったため、維持を目的とした托鉢を行う必要がなくなったからである』と実にプラグマティクに解説してくれている。

「終をも取りつべき依所」臨終即ち極楽往生を遂げるに最も相応しい場所。

「便宜の得失」その時と場所が極楽往生を遂げるに最も相応しい好機であるかどうかという見定め。得失とは損得の意ではなく、成功と失敗の意、極楽往生を速やかに心静かに行えるか行えないかという意であろう。

「この案」前文総てを指す。こうした単純唯一の、欣求浄土する者の基本的な考え方。]

2013/02/21

藍色の蟇 大手拓次

[やぶちゃん注:以下、本文標題紙。「詩集」は横組。]

   詩集 藍色の蟇

   陶器の鴉

 藍色の蟇

森の寶庫の寢閒(ねま)に
藍色の蟇は黄色い息をはいて
陰濕の暗い暖爐のなかにひとつの繪模樣をかく。
太陽の隱(かく)し子のやうにひよわの少年は
美しい葡萄のやうな眼をもつて、
行くよ、行くよ、いさましげに、
空想の獵人(かりうど)はやはらかいカンガルウの編靴(あみぐつ)に。

大手拓次 宿命の雪 自序に代へて

 宿命の雪
   自序に代へて

ほのほはそのかげをおかしてたたずみ、
みどりの犬をはなち、
合掌し 合掌し みづにおぼれる。

              大正十五年九月   拓次

[やぶちゃん注:次の次の頁に拓次の死の翌日の死顔の逸見享によるデッサン画。左下に「昭和九年 四月十九日 享」とある。これは画家逸見享(へんみたかし)氏(明治二八(一八九五)年~昭和一九(一九四四)年)で、和歌山県出身。中央大学卒業後、ライオン歯磨意匠部に勤務する傍ら、木版画を始め、大正八(一九一九)年の第一回日本創作版画協会展に入選、日本版画協会でも活躍した。「新東京百景」を分担制作、友人であった大手拓次の詩集の装丁・編集も彼が手がけた(講談社「日本人名大辞典」の解説に拠る)。本詩集の編集・装幀も彼の手になる。]

大手拓次詩集 藍色の蟇 序 北原白秋

ブログ・カテゴリ「大手拓次詩集 藍色の蟇」を始動する。ネット上にない、初版の可能な限りの正確な電子テクスト化を目指す。

北原白秋の異様に長い序とその、長さに劣らぬ異様な讃嘆――僕はそこに「犯罪者」白秋の臭いを嗅ぎ取るのであるが……それはまた、いつかのお楽しみに……



藍色の蟇   大手拓次

[やぶちゃん注:底本は昭和五八(一九八三)年ほるぷ刊行の「名著復刻詩歌文学館 紫陽花セット」の「藍色の蟇」に拠り、原本の順に従ってなるべく忠実に再現したが、細部の字配や詩題等のポイントの違い(有意に大きい)は原則、無視した。疑義のある箇所は昭和二六(一九四一)年創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」、昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」及び平成三(一九九一)年岩波書店刊岩波文庫原子朗編「大手拓次詩集」を適宜参考にした(なお、大手拓次の第一人者である岩波版編者の原氏は、本詩集「藍色の蟇」について、編集過程で製作順列が変更された上に、晩年の作品も恣意的に加えられており、大手拓次の『四半世紀にもわたる詩業を整理もせず一冊に盛りつけている』『内容自体に問題がある』詩集として強く批判され、岩波版編集の際もその『作品選択は、既刊本『藍色の蟇』の内容に左右されていない』とわざわざ解説で述べられているほどに評価されておられぬことを附け加えておく)。]

[やぶちゃん注:以下、標題紙前にある献辞。]

   わたしのひかりである
    北原白秋氏に獻ぐ

[やぶちゃん注:以下、標題紙。]

  藍色の蟇   大手拓次詩集

[やぶちゃん注:間に著者遺影。次に本文前目次。]

   『藍色の蟇』の詩人に(序)・北原白秋
   大手拓次君の詩と人格(跋)・萩原朔太郎

[やぶちゃん注:上記の裏頁。]

   装幀 逸見 享

[やぶちゃん注:次頁。]

   序

[やぶちゃん注:改頁二回。]

   『藍色の蟇』の詩人に

                北原白秋

         1

 大手君。
 君の在天の靈に獻ぐる此の私の言葉は、既に遲きに過ぎた。しかしながら到るべき時が滿ちなければどうにも輝かぬ機會がある。かうした自然の推移を推移として、今日の光榮があらためて君の上に俟たれたのである。とは云つてもこの事は決して私の爲に自身の懈怠をうち消す理由にはならぬ。深くお詑びをする。
 かう言へば、君は却つて虔しく微笑されるであらう。君は私を識り、私もよく君を知つてゐる。幽明所を異にしようと私たちには必ず靈犀相通ずるものがあると思へる。時は到り道は愈々に開けて來た。大手拓次詩集『藍色の蟇』が燦然として今こそ梓に上るのである。

 大手君。
 君の詩を私が識つてから幾年になるであらう。『朱欒(ザムボア)』の昔、明治大正の初頭に吉川惣一郎の筆名を以て突如として現れた新人の君は、室生犀星、萩原朔太郎の兩君と共に、一に金線につながる連星として光つて來た。以來、君の純情と節義とは私をして常に敬愛せしめた。私の行くところ常に歩みを同うして君は君の香韻を鳴り響かした。時として私が歩を停むれば君も亦幽かに、潔くして隱れた。『地上巡禮』“ARS”『詩と音樂』『日光』『近代風景』、さうした私の詩歌史に於ける諸誌を通じて、主として君の詩業は公にされ、ただ一道に眞實を傾け盡したのであつた。なみなみならぬ結緣といふ外はない。世に稀な忝さとはかうした魂の共鳴りであらうか。

 大手君。
 君の詩集『藍色の蟇』は、室生君の『愛の詩集』萩原君の『月に吠える』と雁行して、少くとも大正の中葉には輝かしく出世すべきであつた。謙讓であり、非社交的であり、私行の上に極めて扣へ目がちであつた君は幾度かその機を逸した。此の事は詩友としての私にも責任が無いとは言へない。君の詩は君獨自の香氣と語感と韻律とを以て、知るかぎりの人には驚目されてゐた。いみじき寶玉の凾はいつよりか獵奇の手に開かれてあり、決して巖窟の闇に埋もれてあつたといふ譯でもなかつた。運不運といふ事があるとしたら、君は不運の星から永らく見守られてゐたと云へる。この頃の新詩人の間には、吉川惣一郎と云ひ大手拓次とは云つても、或は見知らぬ世界の「球形の鬼」のやうにも見定め難いであらう。しかしながら大正より昭和にかけて君が成就された個の詩風は蕩然として實在し、此の『藍色の蟇』一卷の重量と柔かみとは、その掌に戴く人々をして、稀有の新詩集として讚歎せしむるであらう。年代を追ひ、その生長の跡を辿り、今更に、私は外ならぬ君の息吹を感じ、その詩句のひとつひとつに寧ろ自身の手澤をさへ嗅いで、この兩者の愛と深い魂の交流を聽きつつある。何よりも遺憾に思ふことは、今は遂に君の最後だといふことである。
 君の親友逸見享君は、進んで裝幀した此の金を鏤むる『藍色の蟇』を獻げて、何は措いても君の墓前に額づかれるであらう。それにしても、澄明な冬の大氣に、此の濃い藍色の詩集が燻らす香煙の匂やかさを偲ぶ時、私はつくづくと熱い我が眼がしらのふるへを痛感する。

         2

 大手君。
 君はその初期の詩「藍色の蟇」「陶器の鴉」等によつて早くも一家の淸新體を風騷した。想念に於ても感覺に於ても、または語音の舌觸、韻律の蕩搖に於ても、殆ど前人の影響を受けず、日本詩歌の傳統以外に、個の吉川惣一郎の詩を創成した。異數の事であり、まことに佛蘭西風の開花でもあつた。その獨自の香氣と粘りある柔軟性とは、怪奇な雜多の主題と共に、その觀る人々に一種のえならぬ甘い戰慄をさへも與へた。
 稟質の特異性といふ點に於ては、神經の詩人『月に吠える』の著者と時代を同じくして、或は好き一對を成すものであらうか。しかしながら、此の『藍色の蟇』の世界はまた別種の惱氣ある幻夢を吐いて、寧ろ放埓なまでに黄色い空想の噴霧を羽ばたかした。空想の獵人と云ひ、麻醉の風車と云ひ、鳥の毛の鞭と云ひ、茴香色の性慾と云ひ、紅い羊皮を着た召使と云ひ、草色の瘤の生えた幽靈の足と云ふごとき、ただに五六の詩句を拾つたのみで、暗鬱の胸板をかき撫でられるむづ痒ゆさや柔かい怪しい七色の祕密の呪文をその「香料の顏寄せ」の中に感じられるであらう。もやもやした、のろのろした、ねばねばした、ふはふはした、よろよろした、ゆらゆらした、めらめらした、によろによろした、うとうと、うねうね、うつうつとした、或はぴらぴらした、ちろちろした、べろべろした、ほやほやとした、何といふ不思議なこぐらかつた肉的觸感であらう。聲、色、香、味、觸、之等の中で、君は最も觸の一面を高い藝術にまで、視覺や嗅覺と織り交ぜたのではなかつたか。
 時としては蒼白の面に、而も一脈の妖美をひそめた尼僧のやうに羞かみ、或は緬羊の衣を著て、春の夕映の下によろばふ托鉢僧のやうに吐息した君は又、白い狼をその背に吼えさしたり、ぽうぽうと手にも足にも草を生やしたりしてつぶやいた。さうして君は獨身で生涯を畢つた。言葉をかへて云へば、君の詩は獨身の肉體に咲いた幻想の華であつた。
 何故かなら、君の藍色の蟇は夜と毒氣を雜草の奧に吐き出だすそれではなかつた。森の寶庫の寢間にうづくまつて、あの陰濕な暗い暖爐の中にさへも、或る朱の更紗の繪模樣を描いた。
 君にボオドレエルの影響が無いとは言へないであらう。しかしながら君の詩はかの惡の華とも色合を異にしてゐた。孤燭で内氣な肉體の華、陰鬱と情念のラムプの舌、とりとめない幻感と連禱、乳黄と綠の羽ばたき、さうしたもだもだとした雜光の霞に陶醉した君は何といふ不思議な存在であつたらう。

 君は詩の使徒にはちがひなかつたが、より苦行する以上により哀樂した。寧ろ淫するほどに溺沒した畸體の詩魔であつた。さうして君の言葉に從へば、その一篇の詩を得る時には、病床に餅菓子の粘りを舌なめづる餓鬼の嗜慾をも感傷した。
 君は十年一日のごとく、夜は近代映畫館の電飾と騷音とを眼前にして、陰濕な暗いその空を閉して、その己れの肺臟を刻々と蝕ませて行つた。

         3

 大手君。
 君の書かれた詩を見ること二十數年に及ぶ間に、君の書體はいつも變らなかつた。君は一頁十行の原稿紙に、その一頁と次の頁の二三行とを、君獨自の圓みと粘りとを持つた細い曲線で書いて收めた。さしてそれ以上に詩は長くもなく、又、以内に短くもなかつた。
 君は迫らなかつた。その爲に行の運びによる詩の韻律は常に緩調(アンダンテ)の樂曲であつた。ただ解體する縞蛇の群の四方への匍匐のやうに、行と行とがその想念情癡の綰ねから放れ、ぬらぬらと、而も未だ夢見る色と香ひとのとろみを、かの妖しい季節の首玉に一條一條とうねらすかのごとくであつた。さうして遂に雅味多き平假名の美しい連鏁となつた。是の平假名をかくばかり生きた波狀のやうにぬめりにぬめらした君の詩の姿は、日本の詩により新らしい匂と煙とを縺れさせ、さうして日本のものといふよりは寧ろ十九世紀あたりの舶來の氣色をも想見せしめた。君が日本文學の何ものの傳統にも殆ど囚へられなかつたのは、君にとつては知らぬが幸であつたとも云へよう。それだけにほしいままにも樂しめた自由さであつたか。私のごときは古典と先人の重壓の下に、苦しみに苦しみとほして來た。結縛と不自由との中にあらためて己れを鍛錬し、己れを解放することに惱みぬいて來た。何れが幸であり禍であるかといふことはその人の分にある。私は私でよく、君は君でよろしかつた。それにしても、君は藍色の捲毛に眼は碧い洋種の詩人として、この祖國の民俗とは甚しくかけはなれた海の外から、提琴を爪ぐつて來たかのごとくにその詩句を操つた。近代日本の口語體に移したよき飜譯調のやうでもあり、血脈の相違をも疑はせた。君は易々として樂しかつたであらう。その爲にまた、日本の言葉に新味の感情を附與し、香色の排列を光闡した。

 君の詩が如何に幻想に豐かであつたかといふことは、日常に君を夢遊せしめた詩魂の音樂に就いて聽けばよき理解が匂ふであらう。ただ君の韻律の流動にはさして多種多樣の變化は看られなかつた。概して相似の音波の連續であり、音の強弱が度に於てほぼ同じく絶えず遠心的に蒼茫とした空氣を顫はして行つた。内に寵る極度の緊縮や、詩型の整齊や、時にとつての動顚や、野性の咆吼、人間群落の亂聲といふ風のものは、その詩興の五線譜には綴られなかつた。少年の羞耻にも近い潔癖や、厭人的孤高性や、また穩かな女人の白い手の香炎にも似た性情が、さう常にあらしめたであらう。
 君はまことに詩に隱れて、ただ獨の幻感と連想とに昏醉した人ではあつた。此の『藍色の蟇』の詩は、君が作るところの一部の選抄にしか過ぎない。その類型の爲に、現像の稀薄、或は喪れた想像の翼の爲に、或は餅菓子を食べ過ぎたが爲に、そのまま筐底に葬られたものは實に顆しい蝶の數に堆積した。君は君の藍色の夜を、ただに黄いろいラムプの中にあつめて、詩を吐き、炎を瞬かしてゐればよかつたのだ。
 或は、そのせいでもあつたか、晩年にはいくらか根が疲れ、聲色の衰へと香の火の白いくづれとが見えないではなかつた。何にしろ初期の詩がすぐれて妖しく炎を點してゐる。

 大手君。
 君の情感は翼の生えたわかわかしい黄ろい薔薇の花のやうであつた。色も香ひも、その繞りの空氣もすべてがゆらゆらと新らしく、そこには古めかしい何の文獻の關りもなかつた。再び云ふが、君の言葉は君によつて選まれたところの此の近代の日本の言葉のみであり、その口語脈の詩句のひびきは君自身に内より外へ釀し出された薰りの音波であつた。これほど物の見事に我が古典を雲霧の彼方に忘却し得た今日の詩人は他にはあるまいと思はれる。強ひても赤外線によつてでも、原始日本を身の眞近に映寫しようとする私ごときにとつては、全く不審にすら思はれる。
 詩人の一生にも風雪と境涯の推移によつて、幾許かの轉身はある。この私の詩風にも、君が觀られたとほり幾度かの變貌がひとりでに來た。然るに君はその背中の美しい翅ばたきを休止するまで、失張り同じ語韻の同じ姿體の持主であつた。而もその精神に於ては永遠の浪曼人(ロウマンチスト)であつた。
 君がありのままの自然の觀照家でもなく、活きた人生の現實主義者でも末世の思想家でもないといふことは、君の詩人としでの價値を上下する理由にはならぬ。君は君としての個の匂のふかい世界を夢から夢へと織り續けて行つたのだから、それでよいではないか。
 思ふに君の詩は君の謂ふ黄ろい馬の耳元や、柔かいカンガルウの編靴の傍、或は陶器製の靑い鴉のまへ、あかい假面の上の雜草の中、或は月を眺むる靑狐の足のうしろ、白い髯を生やした蟹のかたへ、さうした位置に、君と同じに心を据ゑて、それらの一句一句を味わふべきものかと思はれる。君の怪奇な曼陀羅圖は濛々とし惱氣と、さだかならぬ啾々たる鬼哭とを以て私たちを吸ひ寄せる。一氣に、或は東洋風の簡約に、頸根つこや生膽をがしと摑むそれらでもなく、徹りきつた直觀で錐揉みに揉むそれらでもないやうである。ともすれば放恣に空想の蛾が鱗粉を散らし、金の吹雪が卵をたぎらせる。どうともせよと焦燥したくなつても中々に見えて來ぬ幽靈の手ぶりもあれば、さだかにはわきがたい銀の捕繩の響もする。君は獨だけで考へ、獨だけでつぶやきつづけた。
 しかもまた、解體しつつある縞蛇の塊りとも、私は君の鬱憂の匍匐狀態を云つたが、角の神經を持つた雲丹型の紅い球形の鬼が君の腦髓には棲んでゐたらしい。君の蛇はぬらぬらとしても温かく、君の鬼は陰鬱でも明るくしやくつてゐた。南方の詩であり、北方のそれではなかつた。全く、あの色も響も無くしんしんと押し迫る寒波の凄まじさは、たとひ妖氣の獵奇者の君にも堪へられなかつた筈だ。眞空鐘の中では音韻が微動だにせぬがごとく、光と薰と空氣無しには、君は一瞬も生きられさうになかつた。
 それであるから君は決して惡の詩人ではなかつたのである。

      4

 大手君。
 君の風貌に就いては、君の詩を識つて以來、十數年の後に至るまで、私は全く知るところがなかつた。それは此の集の君のおぼえがき「孤獨の箱のなかから」に君が書かれたとほりであつた。君はその永い歳月の間にただの一度も私を訪れては見えなかつた。
 ただ、私は、君より入手するや詩と書體をとほして、私の恣な想像を樂しむのみであつた。初めて君の魔女作「藍色の蟇」を發見した當時の私の悦びは、今にしても光りかがやく私の頰を感ずる。室生、萩原兩君の出現に私の眉もうちあがつたあの『朱欒』の開花時が思ひ出される。
 吉川惣一郎、その人の名を以て、私に寄せられた折々の書簡は、大手拓次となつても、まだ秋の香爐の煙のやうに匂はしく、何か内氣な女手のやうな色めきや優しみが殘つてゐた。その細みの圓い曲線に縺れた涙ぐましい風のそよめきが時として些か私を戚傷の囹とした。謂ふところの未知の戀人のやうに私を遠くより觀る瞳の若さが偲ばれた。

 大手君。
 さうであつた。たまたま詩誌『近代風景』の創刊に際して、谷中天王寺の私の假寓に、君と初めて會見したのはまさしく大正十五年の冬であつた。
 私は驚いて目を瞠つた。
 蓬々として捲いてちぢれた肩をうつ長髮、鼻も高く、鬱屈した逞しい顏、筋骨の嚴つい中年の偉丈夫が、何と私の前に端坐してゐたのではないか。豫想とは全くちがつた、諧謔して云へば歷山大王のやうな風姿の君ではあつた。
 それにも關らず。君はまた寡默の、極めて羞かみ屋の、切長の眼の潤んだ、事ごとに頰を赤める少年の純情を以て、おどおどとした、その詩や書體に見るやうな人でもあつた。
 私たちは何を語つたであらう。おほかたはあの墓地の落葉のやうに記憶も飛び散つて了つたが、雲は細く、玉蘭の高い枝には朱の寂びた奇異な瘤形の果の幾つかが、くくれて、共に歩いて見上げた、私の眼底に灼きついてゐる。

 君の詩に就き、性情に就き、私生活に就き、樣々に思ひ惑つた私は、君の死後に、それとなく聽きもし、日記類なとも散見もして、漸くに氷釋した數々があつた。
 書いてもいいかと思ふが、君の詩はまさしく、君の鬱悶が、神經が、生活が書かせたものにちがひなかつた。異常の君にしてよくもライオン齒磨の廣告部に二十年近くも日々勤務しおほせたと思へるが、それ故にまた、牛込袋町の下宿の一室に机の向も變へずに、夜々を坐りとほした忍苦と奇怪な不精とを肯き得るのである。
 限りのない戀慕と詩と空想と美の耽溺は、君の命を糸で編んだラムプの蕊のやうにぢりぢりと縮めては行つたらうが、君自身には、それが炎の祭でもあり、好もしく吸ひあぐる紫の燈油のにじみでもあり、如何ともするすべはなかつたであらう。
 書いてはわるいかとも思ふが、君の詩の世界の相手は、多くは君ほどの優れた詩人の戀する相手としてはあまりに價値の無い市井の少年少女であつたらしい。君の書き贈る切々とした戀の詩の美しさや消息の細々しさに對して、手まはり香料や化粧液を嗅ぎ分けるほどの敏感さを果して彼等は所有してゐたであらうか。君の心の鳴咽はかの母韻のごとくに、常に子韻のかげに隱れて五色の光線を顫はしたが、彼等は遂に知るところも啄むところも無かつたらしい。綿々たる情熱を祕めた幽婉な愛の言葉の末には、必ず「朝な朝な、その淨き齒を磨きたまへかし。」と書き添へることを忘れなかつた君の純情はさることながら、如何ほどに彼等の口中は牝牛の舌や腐れた赤茄子からの唾液を厭はしく淸掃したであらうか。
 いつもいつも恐ろしい幻滅が、君を蝕ませたといふそのことそれ自らが、非現實な幻想家の收穫すべき冬の日の柿の蔕ではなかつたか。
 永い間の君の獨身が、夢にのみ華やかなその木の根の石の上には、いつもいつも怯儒な蒼い影ばかりをこびらつかせたのだ。

 大手君。
 許してもらへるならば、私は、君の詩生活の豐潤と、虛妄とも見えて君には眞實であつた香炎の羽ばたきとを、更に裏書すべき詩文集の一卷を編纂さしてほしいと思ふ。詩の殘闕と、日記、書簡、その他の類聚である。此の一卷こそ、君の裸形の背後から射透す紫外線の火花でなくして何であらう。
 私は密かに見た。君が戀する女の足に就いてあの幻感と連禱とを恣にした日記の詩文を、さうして、その二つの白い素足をそれぞれの中心として縱横十方に放射する理性と神經と情念との道路圖を。
 私は知つてゐる。私の義弟山本鼎の近親であつて、同じく畫家であり、未完成ながら天才の俤を多分に示した村山槐多の遺稿集『槐多の歌へる』のあの暴露の凄まじさを。おそらく君のこれとは、色こそちがへ、同じ光度に於て世を驚倒せしめるであらう。

      5

 大手君。
 私は君に就いて些か鵞鳥の筆を以てして書き過ぎたかもしれぬ。切口が今でもきちきちするこの羽根で。
 しかし、君はきつと私が君の詩をかう觀て讚歎もし微笑もしてゐたことを知つてゐられたにちがひない。それほどの知己の間の私たちであつたから。君の死後に私が處置すべきことの何であるかも私は知つてゐる。

 昭和九年四月十八日、茅ケ崎の南湖院からの急電を受けて、私たち夫妻が駈けつけた時は、すでに君の命脈は止つてゐた。その一二年がほどは、君からの消息も無く、病患に就いても、再度の轉地療養のことも、少しも知らなかつた私たちであつた。
 春と言つても、雲と波の音は薄ら寒く、風は砂をけぶらして、したたか群生の小松に吹きあげてゐた。
 しみじみと合掌しながら、私は君の死顏の高貴さに撲れた。透きとほり、淨く緊り、蒼白く光をさめ、日の長い薄明の中に、君は幽かに仰向いてゐられた。
 愈々起たずと知つて、白秋この私には必ずその臨終後の通知を打電(う)つやうにと、そのただ一人の附添ひの看護婦に密かに云ひ含めてあつたと聽いた。
 さうであつたか。
 私は君が、大福餅のみを、その少しく前よ朝夕に一つづつ幼童のごとく嗜好されたといふことも聽いた。
 電燈が黄ろく點つた。コードの紐の影がいくらか搖れたやうであつたが、君の閉した眶には何の微動も無かつた。

 二十日、故郷の上州磯部へ君の遺骨が還られる日、私は、室生犀星、萩原朔太郎、大木惇夫諸君その他私の周圍の新人達と上野驛に謹んで參集した。詩の交友も殆どそれだけに限られた君であつた。發車の汽笛が鳴り、私たちは聲を呑んで禮拜した。私の腸はちぎれさうになつた。

 大手君。
 君は生前に、此の新詩集『藍色の蟇』を自身の手で明るく上梓するよい機會とよい條件に惠まれなかつた。大正の十五年に一旦編纂して、卷末のおぼえ書を書き添へまでした君ではあつたが、委托された私ではあつたが、二人の前にはただに大きな障碍のみが暗い翼を張つた。今漸くにして、ここに、その後の詩品を逸見君と更に收錄し補綴して、この出版の日の目を見ることとなつた。しかし、君の圓寂後、その多年の事務的勤勞の餘情として得られたものから、乃ち死後の君自身によつて刊行されるのである。謝するに言葉の無い私たちを君はまことに、虔ましく、弱々と微笑されてゐるであらう。
 それでよいのであらうか。否々、君にはもつともつと世の耀かしい酬が莊巖されねばならぬ。
 君はまことに、明治大正昭三代に亘つての數少い優れた詩人の中の一人であつた。   昭和十一年十二月十五日拂曉

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 由比濱

   由比濱

この邊り、すべて由井(ゆゐ)の濱(はま)といふ。こゝに八幡宮の大鳥居あり。御本社まで、この所より十八丁あり。昔、新田義貞(につたよしさだ)、相模入道をほろぼしける時、稻村が崎の海をわたりたりといふ。七里の濱とこの由井の濱の間(あいだ)なり。つねに漁師(れうし)、この所にて網をひき、漁(りやう)をなすところにて、皆、漁師のみ軒をならべて、生業(すぎわい)をなす濱なり。
〽狂 そりたての
あをさか
   やきと
 見ゆるかな
 なみたいらけき
    かみゆいの
        はま
「なんと、この海といふものは、たいそうなものさ。世界中でとる魚(さかな)も大きなことだが、つきるといふことは、ない。海も大きいが、魚にも大そうなものがある。儂(わし)が金毘羅(こんぴら)へいつた時、肥前の船が、
『先へはゆかれぬ。これは、とんだ所へきあはせた』
と船頭がいふから、
『なぜだ』
ときいたら、
『あの向かふを見なさい、海が一面に眞つ黑になつたは、今度、肥前五島浦(ひぜんごとうのうら)の鯨(くじら)の所から、熊野浦(きまのうら)の鯨の所へ嫁入りがゆく、その行列で、長さが三十間も五十間もある鯨が、幾らも、幾らも、つゞいてとほることだから、この間(あいだ)から、毎日、船の往來がとまつたといふことだ』
といふ。わしも船端(ふなばた)へ出て見たら、むかふの海の中がまつ黑になつて、大きな鯨が、ぞろぞろとならんでとほつたが、先(さき)へいつた鯨が、
『どうだ、後(あと)の鯨が埒(らち)があかぬ。はやく、こぬか。なにをしているのだ』
と、その鯨が、後(あと)へふりかへつて見たばつかりで、其処(そこ)にいた小船(こぶね)が三艘(ぞう)ばかり、どこへか、はねとばされて、なくなつたから、儂の船もそろそろ、脇へにげましたが、あんなめづらしい事は滅多に、ござるまい。」
「なにさ。鯨がそんなにめづらしいものか。儂が此間(あいだ)、江戸の麹町(かうじまち)で大きな鯨を見ました。手足(てあし)をしばつて大道(だいどう)へほふり出してあつたが、たいそうな物ものであつた。」
「なにをいふ。鯨に手足があるものか。」
「あるとも、あるとも。貴樣のいふは海の鯨、儂のいふのは、山鯨(やまくじら)でござる。」
[やぶちゃん注:「十八丁」約一九〇〇メートル。現在の直線距離実測で約一六〇〇メートルでやや短いが、この場合の「この所」とは当時はこの大鳥居(三の鳥居。現在の一の鳥居)の直近に広がっていた由比ヶ浜からを広義に起点としていると考えれば、逆に正しい。]
「そりたての あをさかやきと 見ゆるかな なみたいらけき かみゆいのはま」鶴岡氏は、
 そりたての あをさかゆきと 見ゆるかな なみたいらけき なみゆいのはま
と判読しておられるが、これでは意味が採れないように私には思われる。この狂歌の眼目は浜の名称である「由比(ゆひ)」を「髪結(かみゆ)ひ」に掛けて、その内海の穏やかな紺碧の風情を、剃りたての月代(さかやき)の青さに譬えたところにあると私は読む。
「山鯨」猪のこと。肉の食感が鯨肉に似ていることに由来するが、「薬食い」と同様、獣肉食の禁忌を犯すために(この時代に鯨は哺乳類として認識されていないので問題がない)、世間を憚って隠語でかく呼んだ。……私には不思議な記憶がある……恐らく三才位の記憶だ……私は左肩関節の結核性カリエスを患っていた。母と一緒に新宿の東京女子医大に通っていた。駅から病院へは飲屋街の路地を抜けて行くのであったが、そんなある日、朝のそこを通ると、飲み屋の前に、大きな死んだ、手足を縛られた猪がまるまる一匹、横たえられていた。――私は実は豚や猪が、今も大好きだ。動物としても、また無論、食材としてもであるが――私は近づいてゆく……そうして……その冷たくなった猪の腹のお尻の辺りを……指で突いている……その俯瞰のショットと同時に……その「近づいてくる三才の少年の私」と……その「背後に微笑んで立っている二十九の若い美しい母」とを……道路からアオった映像も同時に蘇るのだ――この話は亡き母が、よく私との思い出として語っていたものだったから――私の記憶が操作されてそうした映像演出がなされているのであろうか……でも……もしかすると……「手足をしばつて大道へほふり出してあつた」、あの哀れな猪は――実は私だった――のかも知れない……ねえ、母さん?――]

地面の底の病氣の顏 萩原朔太郎

 地面の底の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ、
さみしい病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の莖が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し、
冬至のころの、
さびしい病氣の地面から、
ほそい靑竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顏があらはれ。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の底本の校訂本文。実際の「月に吠える」初版では、二箇所の「萌」は「萠」、「ふるへ」は「ふるえ」である。また、「月に吠える」再版(大正一一(一九二二)年三月アルス刊)・「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月第一書房刊)・「現代詩人全集」(昭和四(一九二九)年十月新潮社刊)・「萩原朔太郎集」(昭和一一(一九三六)年四月刊新潮社新潮文庫版)では、

 地面の底の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ
さみしい病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみに
うらうら草の莖が萌えそめ
鼠の巣が萌えそめ
巣にこんがらかつてゐる
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し
冬至のころの
さびしい病氣の地面から
ほそい靑竹の根が生えそめ
生えそめ
それがじつにあはれふかくみえ
けぶれるごとくに視え
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに
さみしい病人の顏があらはれ。

と、多くの読点が除去されている。私はこの読点除去を採らない。朔太郎は仮名遣や語彙に拘った(但し、誤字や誤用も多い)以上に、私は彼の句読点が、彼の詩想の内在律を表現するための、極めて重要な「装置」として用いられていると考えているからである。]

白い朔太郎の病氣の顏 萩原朔太郎 (「地面の底の病氣の顏」初出形)

 白い朔太郎の病氣の顏

地面の底に顏があらはれ、
白い病人の顏があらはれ。

地面の底のくらやみで、
うらうら草の莖が萠えそめ。
鼠の巢が萠えそめ、
巢にこんがらかつて居る、
かずしれぬ髮の毛がふるへ出し、
冬至のころの、
さびしい病氣の地面から、
ほそい靑竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかく見え、
けぶれるごとくに見え、
じつにじつにあはれふかげに見え。

地面の底のくらやみに、
白い朔太郎の顏があらはれ
さびしい病氣の顏があらはれ。

[やぶちゃん注:『地上巡禮』第二巻第二号 大正四(一九一五)年三月号所収。後に「月に吠える」の巻頭を飾ることになるこの原形が「朔太郎」という詩人の名をそのままに詠んでいたことを知る者は、恐らく朔太郎のファンであっても思わず、たじろぐものと思う。朔太郎はやはり、只者ではないのである。――実は前の「竹」の注で述べた、『真に詩的な世界に遊び得る感性を持ち、青春そのものが、否、人間存在そのものが、実は反社会的非社会的性質を帯びていることを敏感に嗅ぎ分けることの出来た少数の生徒の誰彼』が、まさに私の朔太郎の「竹」の、初出版及び決定稿版のブログでの公開を見、本詩をリクエストして来た。これはもう、即座にせずんばならず――]

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 竹

光る地面に竹が生え、
靑竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纖毛が生え、
かすかにけぶる纖毛が生え、
かすかにふるへ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
靑空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。「月に吠える」冒頭の「竹とその哀傷」の四番目に位置する、恐らく、最も人口に膾炙する萩原朔太郎の「竹」の詩である。「竹とその哀傷」には、この一つ前、三番目にやはり、「竹」という同題の詩が配されているが、かつて高校の国語教科書などに採録されたのは、圧倒的にこちらである。私も何度か教授したが、私は好きな詩であるだけに、授業するのが嫌だった。美事に病的なイメージは、健全なる高校生の多くには――圧倒的に――変態的な詩人としての朔太郎像を植え付けるのに役立っただけだからである。――真に詩的な世界に遊び得る感性を持ち、青春そのものが、否、人間存在そのものが、実は反社会的非社会的性質を帯びていることを敏感に嗅ぎ分けることの出来た少数の生徒の誰彼だけが――この詩を愛した――]

竹 萩原朔太郎 (初出形)

 竹

新光あらはれ、
新光ひろごり。

光る地面に竹が生え、
靑竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より纎毛が生え、
かすかにけぶる纎毛が生え、
かすかにふるゑ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、
靑空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

祈らば祈らば空に生え、
罪びとの肩に竹が生え。
          ――大正四年元旦――

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号 大正四(一九一五)年二月号所収。「纎」及び「ふるゑ」はママ。人口に膾炙した次に示す「月に吠える」版とは大きく構成が異なることに着目したい。詩全体が教会の額縁の中にある。それは、丁度、あのタルコフスキイの「ノスタルジア」のエンディングのようである。イタリアはトスカーナ、シエナのサンガルガノ礼拝堂跡の中に、ロシアの田舎屋が出現し、そこに、温泉を蠟燭を灯して渡りきることで地球を救って斃れた「狂人」ゴルチャコフが、同じ志半ばに焼身自殺した「狂人」ドメニコの身代わりの犬ゾイとともに地に「根を張って」居る――。初出形はその額縁のカトリック的響きによって、聖壇画の趣を持っていて、知られた「竹」の先鋭化した「病性」とは全く異なった「相」を呈していることに着目されたい。私はこれはこれで、非常に好きである。]

耳嚢 巻之六 寄雷狂歌の事

 寄雷狂歌の事

 いろいろ狂歌を興じ詠(よみ)しに、寄雷戀といえる題にて或人詠ぜしが、秀逸なりと、人の語りぬ。
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌から俳諧、また狂歌で連関。掛詞と縁語を駆使した超絶技巧的艶笑歌である。
・「寄雷狂歌」は「雷に寄する狂歌」と読む。
・「寄雷戀」は「雷に寄する戀(こい)」と訓じているか。それとも「キライレン」と音で読んでいるか。前者で採った。
・「日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま」分かり易く、仮名遣いを正して書き直す。
 日頃(ひごろ)からねんごろねんごろと鳴りかけて落ちさうにして落ちぬ神樣
「ねんごろねんごろ」は「懇ろ懇ろ」と雷鳴の「ごろごろ」を掛けて、前の「日頃」の「頃(ごろ)」を引きつつ擬音を響かせている。更に「ねんごろと鳴り」は「懇ろと成る」(親しい関係になる)の意を掛ける。「頃(ごろ)」「(ねん)ごろ(ねん)ごろ」「鳴る」「落ちる」「落ちぬ」「神」(雷神)は縁語。最後の「かみさま」は実は雷「神樣」と人妻の意の「おかみさん」(この語は自分以外の妻をも言う)の意の「上樣」を掛けてあり、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版の長谷川氏の注には、『意に従いそうに見えて従わない人妻の意』とする。即ち、「落ちる」も雷が「落ちる」に、所謂、「貞淑な彼女も手練手管に遂に落ちた」の「落ちる」、強く迫られて遂に相手の思い通りの状態になる、説得などに負けて相手に従う、の「落ちる」が掛けられている。
――日ごろから……ねんねんごろごろ……と、雷さまの鳴るように、如何にもねんねんごろ、懇ろになり掛けておりながら……これ、落ちそで、落ちぬが……雷(かみ)さまと……恋しい、人の、おかみさん――

■やぶちゃん現代語訳

 雷に寄する狂歌の事

 いろいろな狂歌が興じて詠まれているようであるが、その中でも「雷に寄する恋」と申す題にてある人詠じたものが、これ、甚だ秀逸であると、さる御仁の語って御座った。その歌、
  日頃からねんころねんころと鳴かけて落そうにして落ぬかみさま

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和三十(一九五五)年

昭和三十(一九五五)年

秋山の石曳く蟻に聲あらば

みどり子を深き落葉の眠らしめ

鷄頭の十字架の數(かず)月照らす

光るもの遠く小さし稻を刈る

雲に毒刈田に燃えて火が怒る

[やぶちゃん注:「雲に毒」とは多量の放射性物質、所謂、死の灰を含んだ雲の謂いであろう。第五福龍丸事件で知られるビキニ環礁での米軍の水爆実験は前年の一九五四年三月一日に行われた。以下の「雨に毒」の句ではっきりする。]

廻る寒し子の作品の地球儀は

[やぶちゃん注:「廻る」は手製の地球儀であるから「まわる」と読みたい気がする。韻律がぎくしゃくしているが、私は一読、忘れ難い。私には三鬼のかの名句「算術の少年しのび泣けり夏」が自動作用としてオーバー・ラップするからである。]

雨に毒拔け毛を木の葉髮などと

針金となり炎天のみゝず死す

炎天の暗き小家に琴の唄

向日葵の金の傲岸ちよんぎり插す

老斑の手を差し入れて泉犯す

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十九(一九五四)年

昭和二十九(一九五四)年

枝々に燃ゆる寒星子守唄

雀の子裸で梅雨の溝流る

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十八(一九五三)年

昭和二十八(一九五三)年

梅雨晴れ間をんな傾きくしけづる

鯉うねり池の夏雲成りがたし

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十七(一九五二)年

昭和二十七(一九五二)年

春の嵐枝折れ飛んで墓を打つ

柿を食ふ眞顏見てゐし夜の鏡

一言芳談 九十二

   九十二

 敬佛房(きやうぶつばう)云、遁世といふは、稠林(てうりん)に竹を引くがごとく、物にかかへられぬなり。
 同人上洛の時、覺明房(かくめいばう)、證蓮房に語り申して云、むかしの後世者(ごせしや)の振舞(ふるまひ)と、今の後世者の風情(ふぜい)とはかはりて候ふなり。昔の聖どもの沙汰しあひて候ひしは、其人は後世を思ふ心のあるかなきかの體(てい)にてこそ候ひしが、今は學問し候ふべき器量などのあるを、後世者のさねと申しあひて候ふなり、云々。敬佛房の云、後世者のふりは、大にあらたまりにけるにこそ。

〇稠林に、行事鈔云、但以其心邪曲難可拔濟。如稠林曳曲木。故不得入佛法中。
  資持記云、稠林曲木喩其難拔、稠即密也。
〇物に、物とは世上の是非得失の事なり。(句解)
〇上洛の時、高野山より京へのぼられしなり。
〇むかしの後世者(ごせしや)の振舞、むかしは道心の有無を沙汰し、今は學問の利鈍のみを論ずるなり。これ、本を忘れて末をきそふ。佛の御心にたがへる事なり。
〇後世者のさね、天性(てんせい)のその骨(こつ)を得たる人といふ義なり。當世(たうせい)の僧を見るに、師匠も親も道心をおこせとをしへず、同學の僧も名利(みやうり)をのぞむものばかりなれば、後世門の事はつやつやしらず。

[やぶちゃん注:Ⅰでは、二段が分離されて、順序を逆にし、「用心」の中に、十四条を挟んで入れられてある。
「稠林」稠林は樹がよく繁茂している林のことであるが、仏教では、世俗の煩わしい営みが林が茂るように多く盛んなさま、単に在家の生活のことを指す場合が多い。しばしば「塵労稠林」として、衆生や行者の正しい生活や修行を妨げる煩悩が多くあることを密林に喩えていう。この一文はそうした譬えを踏まえて、
――遁世とは、邪見煩悩に満ち満ちた毒虫と饐えた臭気とが入り混じる密林の中に、忽然と、香しい清風が吹き、月影彩香な閑かな竹林を現出させることだ、如何なる周囲のおぞましい対象に抱き抱えられてはいけない――俗臭紛々の俗世の中に清浄隠棲の結界を出現させてこそ、まことの遁世である――
と言っているのと私は読む。因みに、Ⅱの大橋氏の訳は『遁世とは、ちょうど繁茂している林の中で竹を引っぱり歩くようなもので、物に拘束されないことです。』であるが、浅学凡愚の私には、この訳、全く腑に落ちない。
「覺明房」覚明房長西(ちょうさい 元暦元(一一八四)年~文永三(一二六六)年)は法然晩年の直弟で、浄土宗九品寺流の祖。法然が廃捨した諸行についても本願の行に再採用した。伊予守藤原国明の子。建仁二(一二〇二)年に出家して法然の弟子となる。元久元(一二〇四)年の二十一歳の時、法然の「七箇条起請文」に署名している。建永2(一二〇七)年には流罪となった法然に従って讃岐へ赴き、建暦元(一二一一)年、法然とともに帰洛した(法然は翌年入寂)。その後、道元に会って長く禅を学ぶなど諸方に遊学、その教学の裾野は広かった。後も講経と著述に専心、宝治二(一二〇八)年に六十五歳で「総別二願抄」を撰し、弘長元(一二六一)年、七十八歳の折りには住していた洛北の九品寺に住して「観経疏」を講義している(以上は「浄土宗宗務庁」のHP内の「浄土宗大辞典」よりの引用からの孫引き。リンク連絡の要請明記があるのでリンクしない)。
「證蓮房」不詳。「一言法談」の伝本によっては「昇蓮房」ともする。Ⅱで大橋氏は、『伝不詳であるが、仁和寺に住した人で、のち明遍と乗願房の弟子になっているから、当時の一般的風潮からおして、真言から念仏門に転向した人と考えられる』と注されておられる。
「さね」「さね」は「實(実)」で、ある対象が発生する原初の場所、根本の意。
「行事鈔云……」以下を、Ⅰにある訓点を参考に書き下す。
 「行事鈔」に云はく、「但し、以(おもんみ)るに其の心、邪曲にして拔濟(ばつさい)すべきこと難し。稠林に曲木を曳くがごとし。故に佛法中の入ることを得ず。」と。
 「資持記」に云はく、「稠林曲木とは、其の拔き難きに喩(たと)ふ、稠は、即ち密なり。」と。
「行事鈔」唐代の南山律宗の祖である道宣(どうせん 五九六年~六六七年)の著わした「四分律刪繁補欠行事鈔」であろう。
「資持記」宋代の律僧元照(がんじょう 一〇四八年~一一一六年:南山律の允堪(いんたん)の起した会正(えしょう)派に対して資持派を立てた。)の著わした「四分律行事鈔資持記」であろう。]

2013/02/20

教え子からプレゼント!!!

芸術作品の修復士を目指している教え子が、今、フランスからプレゼントして呉れた僕のいっとう好きなシュールレアリスト、イヴ・タンギーの一枚だああっつ!

quatre heures d'été, l'espoir, 1929

夏の4時頃、希望、1929


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異端信條 萩原朔太郎 (未発表詩篇)

 異端信條

おれは現時の思想界で最も禁物現されて居るセンチメンタリズムの信徒だ

技巧に眼をくれるな、生命を見ろ、生命とは眞實の有無だ

夢を見ない少年は不具者だ、少年の生命は戀とロマンチツクだ

自我の眞實のために時代思想に反抗するものは眞の勇者だ

視えないものを見ようとするのは好い、視えないものを見えるふりをするのは惡い

心はいつも貴族であれ、餓ゑても賤民の眞似をするな、乞食をしても土耳古帽子を被れ

詩と音樂とは貴族(心靈上の)の戲である、斷じて農民の汗くさい手に觸れさせてはいけない

所謂、生活とは遊戲だ、所謂、遊戲とは生活だ

地上に於て最も神聖なるものは遊戲である、所謂生活ではない、生活とは賤民の職業だ

藝術のための藝術であれ
眞實のための藝術であれ

おれは異端だ
汝の眞實のためにも、異端であれ

[やぶちゃん注:底本は昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集第三巻の「未發表詩篇」(四一二~四一三頁)に拠った。当該本文には、下に全集編者が校訂を施す前の当該作品の原稿が活字化されているが、特に着目すべきは第一連に続いて(若しくは二連目として書いたのかも知れない。但し、底本では行空けはない)にある以下の抹消である(誤字と思われるものを補正したものを示す)。

天才の病氣は自惚れだ、自惚れのない人間に天才はない

なお、本詩篇は、推定編年編集になる底本の、総計一五九篇ある未発表詩篇の内、冒頭から四篇目に当たっているので、「月に吠える」時代の創作と推定出来る。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十六(一九五一)年

昭和二十六(一九五一)年

滿月の荒野ますぐに犬の戀

大旱のきりぎし海へ砂こぼす

産みが打揚げしもの焚く熱砂の上

旱り坂牛の圖體登り切る

月も旱り鎖の端の犬放つ

瀆れし夜明けゆく岬松の芯

麥秋や帽燈弱く集ひ來る

疲労困憊トラウマ増大

9時から1時間待半待ちで税務相談を受けたが、3分の解説でかえって頭がまっ白になり、最後の還付金計算が、ヘンな数字にしかならず、情けなくもまた、並んで待つこと1時間。やっと提出出来た時は既に12時を回っていた。精紳疲労メーター一気に加えて、こういう「社会的人間」であることへの忌わしい憎悪にも等しいトラウマが増大した。
……しかしこれでとりあえず、カタは就いた。……
……「野人」の残すところの飛び越えねばならぬトライアルの直近の障害物は、一つのみとなった。――着実に悪化しつつある糖尿病の数値とどう対峙するか――だけである。

税務署へ突撃

もう面倒だ。厭なことは逸早く終わらするに限る。これより、鎌倉税務署に突撃する。

耳嚢 巻之六 名句の事

 名句の事

 いつの頃にやありけむ、八月の良夜、諒闇にて洛中いと淋しかりしに、攝家宮方の内と聞(きこえ)しが、御名はもらしぬ、
  普天の下そつと月見るこよひかな

□やぶちゃん注
○前項連関:地下の狂歌から堂上の俳諧で連関。
・「諒闇」天皇・太皇太后・皇太后の崩御に当たって喪に服する期間。「諒」は「まこと」、「闇」は謹慎の意、「闇」は「陰」と同意で「もだす」と訓じ、沈黙を守るの意。
・「しもらぬ」底本「しもらぬ」。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「普天の下そつと月見るこよひかな」書き直すと、
 普天(ふてん)の下(もと)そつと月見る今宵かな
「普天」は天下。「そつと」は副詞の「そっと」に全国土を意味する「率土の浜(そっとのひん)」(元来は陸地と海との接する果てで、「詩経」の「小雅 北山」に基づく語)を掛けた崩御の追悼吟。
――天子さまのものであらっしゃいます……この大八洲(おおやしま)にある民草は……これ、皆、今宵、黙したままに……そっと……天子さまの率土(そっと)の浜(はま)から……淋しく中秋の名月を見上げるばかり――

■やぶちゃん現代語訳

 名句の事

 いつの頃のことで御座ったものか……八月の中秋の名月の宵のこと、丁度、諒闇にて、洛中、大層淋しく御座った折りのこと、摂関家か宮方の邸(やしき)での吟詠とも聞き及んで御座るが、御名(おんな)は聴き漏らして御座るが、その御詠の発句とのこと、
  普天の下そつと月見るこよひかな

一言芳談 九十一

   九十一

 願生房(ぐはんしやうばう)云、其昔、明遍上人にあひたてまつりて、十八道傳受の次(ついで)に、字輪觀可奉受(じりんくはんうけたてまつるべき)よし所望の處に、上人、示(しめして)云、學生(がくしやう)智者、なこのみ給ひそ。釋迦佛(ほとけ)の因位(いんゐ)にも、學生智者にてはましまさず。爲半偈投身(はんげのためにみをなげ)、爲虎捨命(とらのためにいのちをすつる)道心者にてこそ、ましまししか。然れば、深法(じんぽふ)は無用の事なり。道心こそ大切なれ、云々。是を承つて後、輪觀雖被許之(りんくわんこれをゆるさるるといへども)、不可奉習(ならひたてまつるべからざる)志相催したりき、云々。

〇十八道、眞言初入(しよにふ)の行法なり。印明(いんみやう)の數にて名(なづ)く。
〇字輪觀、阿字觀(あじくわん)のごとく、圓相(ゑんさう)の内に梵字を觀ずる事なり。
〇爲半偈投身、雪山童子(せつせんどうじ)の、生滅々已(しやうめつめつい)の半偈(はんげ)をきゝて、身を羅刹(らせつ)の口に投げ給ひし事、涅槃經(ねはんぎやう)にあり。
〇爲虎捨命、薩埵王子(さつたわうじ)の、餓ゑたる虎をあはれみて、身をほどこして食う(じき)となり給ひしこと、金光明經(こんくわうみやうきやう)に見ゆ。

[やぶちゃん注:「願生房」伝不詳。房名としてはありがちである。
「十八道」十八道法、十八道次第。真言密教では四度加行(しどけぎょう:十八道の行法・金剛界・胎蔵界・護摩法。)を修して伝法灌頂を受けるが、その最初期段階の行法を言う。名称は十八種類の印相(いんぞう)からなる十八契印を用いて修することに由来する。荘厳行者法・結界法・道場荘厳(しょうごん)法・召請法・結護法・供養法の六法からなり、自己の心身の護身浄化が行われ、来臨した諸仏とその行者とが一如に交われるようになるとされる。その後、我入観などを以つて心体は一つとなり、正念誦の法を以つて如来の言葉が語れるようになるなどという。
「字輪觀」真言の観法の一つ。心に月輪(がちりん:全き月。)を見、心を月の如くに清浄にして完全であると観ずるもので、地水火風空の五大梵字や仏菩薩を意味する梵字を一文字一文字、月輪の中に瞑想する。その時、行者の身・口・意は如来の身・口・意と不二一体になるという。
「釋迦佛の因位」釈迦や仏たちが悟りを開く以前の階梯、修行時代。
「半偈」偈文の半分。特に、諸行無常偈の後半の「生滅滅已、寂滅爲樂」を指す。雪山(せっせん)で修業中の釈迦が身を羅刹(らせつ)に与えることを約して聞くことが出来たという。
「爲虎捨命」捨身飼虎。釈迦の前生であった薩捶王子が、飢えた親子の虎に我が身を与えるために崖上から虚空に身を翻らせて墜死し、餓虎の餌食となった話。しばしば仏画に描かれる。
「深法」通常は、「甚深の仏法の奥義、深遠にして無辺な仏の教え」の意であるが、それに「などと呼ばれるもの」と附した方がここは断然、理解し易い。
「金光明経」四世紀頃に成立したと見られる大乗経典で、本邦では法華経・仁王経とともに護国三部経の一つとされる。
「不可奉習志相催したりき」もう、字輪観を習受させて戴こうなんどという気は、これ、全くなくなっておる己れを見出しておりました。]

2013/02/19

安部の発言の正しい謂い

安倍《東京電力福島第一原子力発電所事故について》「前の政権がそう判断したが、とても収束と言える状況ではない。何故なら、収束出来得るような原子力発電所に関わる安全性についての認識は、それ以前の私のかつての政権に於いてすら、全くなかったからである。従って、これほど明白に批判出来ることはないのである。」

ホワイト・デー

僕は今年、誰からもバレンタイン・デーのチョコレートを貰わなかったのだが、思い出して見ると、最初に1970年に貰ってから、僕はずっとチョコレートを貰い続けてきたのだった。――教員時代は仕事柄、生徒からよく貰った。20代の頃は風呂敷包みで2山という時もあった。――亡き母は必ず呉れた。――しかし今年は妻からもなかった。――これは「欲しかった」という謂いではない。――そもそも私はチョコレートが好きではない。貰うと所詮「義理」のそれらを、しかし「義理」で一つは必ず齧っては妻(妻は自分の贈ったそれさえ)や母に体よく消費して貰っていたのであった。――しかし――今年はわくわくしているのだ。――何に?――ホワイト・デーにあげたい人が何人もいるから。――夫を亡くした幼馴染みの「やっちゃん」……母の死後、何かと父の面倒を見てくれている近所のおばさん等々……心から贈れると思うと、これ、何だか、わくわくするんである――ヘンなおじさんだなあ……僕も――

43年の僕の素直な初めての恩返しである――

金銀花 火野葦平

実は昨日来、僕は確定申告のための書類作りという、実に忌わしい作業に時間を潰してきた。あと数欄を埋めるというところの、最後のツメで遂に、数字も金も大嫌いな僕はお手上げとなった。――もう流石に、いい加減――厭――になった。後は、もう、どうなっても構わないという気になった。――実にアホらしい――これで持っていってどうとでもしろ!――と、叫ぶつもりである(私はもともと税務署とは相性がとりわけ悪いのである)――僕のようなたいした金も持たないド素人が、一から最後まで出来ないようなシステム自体が、そもそもおかしい――という気になってくる。

それで投げ出して終わり。

今日は未明から8種の進行形電子化テクストを総て作業した。――いやもう、実に爽快にして痛快――やっぱ、さ――野人に金の計算は――似合わねえよ――

 

   金銀花

 

 こけつまろびつ駈けこんできた者が、日ごろから周章者(あわてもの)の筆頭と目されてゐる河童だつたので、なみゐる仲間たちは、その重大な顏つきにもかかはらず、まづ笑つたのであつた。しかし、笑ひの波が全部に浸透しないうちに、直感と思慮とにするどい者が、たしかに、使者の用向が、その騷擾(さうぜう)に倍する重要な、そして、自分たちにすこぶる關係ぶかい内容を持つてゐるにちがひないことを看破した。

「笑つてはならぬ」

 その重々しく、豫言者のやうにきこえたので、笑ひのどよめきはすぐに止(や)まつた。

 使者の河童は笑はれた口惜しさなどは感ずることのできぬ鈍感者であつたので、この沈默に滿足した。そして、甲羅と膝の蝶番(てふつがひ)とをひきしめ、ぼとついた黄色い嘴を、高角砲のやうに天にむけて、

「新しい金銀花(すいかづら)の畑を見つけたぞ」と、叫んだのである。

 たしかにそれは颯爽としてゐて、勝利の豫感をつたへてゐた。仲間たちの間にはじけるやうな喊聲(かんせい)があがつた。立ちあがり、拍手し、肩をたたき、手を握り、抱きあふ者もあつた。椅子や瀨戸物のかけらを入れた塵箱をかきまはすやうな音がしばらくつづいて、また、沈默がきた。よろこぶには早かつたのである。かれらの思考は飛躍し勝ちで、しばしば順序を忘却する。河童の腦髓の組織は、あらゆる地上の生物のうちで、もつとも非科學的、非體系的であるといはれる。このための失敗は多くの歴史上の事實が證明してきた。千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間、等等、枚擧すれば遑(いとま)がないほどである。しかし、そのかずかずの失敗と教訓も、河童の生來の樂天性を頑強に變更するにいたらない。だからして、どの文獻にも、暗愚なるものは河童である、などと書かれるのである。

 しかし、いまは、金銀花(すいかづら)の畑の存在と、自分たちの幸福とがただちにつながるものでないことを、珍しくも短い時

短い時間に氣づいて、はたと鳴りを靜めたのであつた。

「それは、どこにあるのだ?」

 と、皆を代表して、先刻の分別ある長老が聞いた。

「そ、そ、そ、そ、そ、それは」と、まだ使者の興奮はさめてゐなかつた。「こ、こ、この向かふの、あ、あ、足無山(あしなしやま)の崖のかげに、……」

「距離はいかほど?」

「や、や、約、三千メートル」

「畑のひろさは、われわれの清掃作業に耐へ得る程度かね?」

「耐へても耐へなくても、われわれの死活の問題、一致團結してやらねばならんです」

「それはわかつて居るが、あまりに厖大(ぼうだい)であれば、われわれの能力には限界がある。もとは千を數へてゐた仲間が、金銀花の被害で、いまはもう五分の一しかゐないんだ。しかも、疲弊し、病人もあれば、怪我人もある。われわれにはもう餘力がなくなりつつあるんだ」

「そ、そんな自信のないことをいつてはいけません。放(ほ)つておいたならば、全滅のほかないです。金銀花はわれわれ河童にとつては、人間界の原子爆彈より恐いものだ。人間奴、ひどいことを考へつきやがつた。どこから、この祕密が洩れたのか、裏切者がゐやがるんだ」

「今ごろ、そんなことをいつてみたところで始まらぬ。よろしい、ただちに出動、その金銀花を殘らず刈りとらう。原形のままであれば、まつたく被害はない。災は未然に防がねばならぬ」

 異存のある者はなかつた。

 注進者が道案内に立ち、仲間はこれにしたがつた。行軍の陳列は勇壯とは義理にもいへない。二百匹ほどがたそがれの林間の小徑(こみち)をすぎて行つたが、それは、冬ちかくなつて、羽は破れ、足の蝶番はゆるみ、觸角すら折れた蟋蟀(こほろぎ)の一隊が、どこぞまだ生きのびる餘地はないかと、はかない摸索をつづける姿に似てゐた。隊列はみだれ、肩を借りてゐる者もあれば、這ふやうに足を引きずる者もあつた。多くは無言であつたが、なかには突調子もない陽氣な節で、河童音頭を歌つてゐる者もある。しかし、その聲がはちきれさうな元氣からおのづから溢れてきたものではなく、やけつ鉢からの怒鳴り聲であることは、誰にもすぐわかつた。泣き聲が高調すれば、笑ひ聲にきこえるものである。攻撃に出かけるにもかかはらず、退却する敗殘の列のやうに見えた。

 陽(ひ)が落らて、森は暗くなる。夜目の利(き)く河童は、その點はすこしも困らない。金銀花の被害で、鳥目になつた數匹が、友人の肩に手をかけて、とき折つまづく程度である。河童の一隊のすぎたあとには、蛞蝓(なめくぢ)の這つたあとのやうに、粘液(ねねき)の足跡が、銀の八つ手の葉を散らした亂雜さで、にぶく殘照を反射してゐる。

 まがふかたなき金銀花(きんせんか)のにほひが、風に乘つてきた。鼻孔をひろげられるだけひろげて吸ひこみたいやうな芳香である。凄艷な女性たちへ、愛とささやきとの夢をたぐりよせる茉莉(まつり)花や、玉蘭に類するこのうつとりする香氣、それがいかにして河童たちへの毒となり、生命をおびやかす武器となるのであらうか。傳説の掟のきびしさを知ることは毎々のことながら、河童たちはその攝理を輕々には納得できず、無念さはやる瀨がないのである。人間たちがその方法を發見して以來、河童の世界は大恐慌(きやうくわう)をきたし、實際にその威力に屈伏して、つぎつぎに仲間が減つたのであつた。

 身内のとろけるやうな芳香と、乳白色の細かい花とに、昔は河童たちとて美を感じないでもなかつたのに、それが自分たらを滅ぼす武器となつてからは、もはやただ見るも聞くも胸糞が惡いばかりであつた。なにがきつかけで、さうなつたか。その動機はたれも知らない。ただ、人間どもが金銀花の花瓣を煎じつめた液汁をばらまくことによつて、河童の害を封じ得るといふことを知り、實際にそれをおこなつてきた事實だけが、嚴然としてある。そして、それだけで十分だ。その液汁が體にふれたならば、そこのところから腐りはじめて。まるで、雪だるまが陽にとけるやうに、いかなる措置(そち)も效を奏せず、河童は消滅してしまふのである。河童は死ねば靑みどろいろのどろどろした液體になつてしまふので、河童たちの屍骸は、面積をひろげて、地上にはびこる。すると、そのために、農作物は枯れ、これを啄む犬や猫や鳥は死に、鷄は發狂する。さうして、人間どもはさらに怒りを發して、河童の剿滅(さうめつ)を期し、因果關係ははてしもなかつた。

 ところが、河童たちには、實は、わけがわからないのである。この恐るべき復讐が、なんのために、自分たちに加へられるのか。加へられなければならないのか。河童たらはこの膽無山(きもなしやま)に群棲はしてゐたが、自分たちだけの世界のなかで生活をし、いささかも人間たちと交渉を持つたおぼえはなかつた。他の地方の仲間たちのやうに、人間の尻子玉を狙つたり、角力を挑んだり、馬を水中に引きいれたり、野菜畑を荒したりしたことは、一度もなかつた。そんな必要はさらになかつた。ここにある沼や水流には、食餌が豐饒(ほうぜう)である。遊戲にしたところで、仲間うちだけで結構たのしく遊ぶことができた。地方地方によつて河童の性情も異る。膽無山の種族は、人間たちにすこしも興味を持たなかつたし、したがつて、これと交渉をもちたいと考へたことは、一度もなかつた。その人間から、仇敵として攻撃を加へられ、つぎつぎに仲間が死んでゆく羽目になつたことが、かれらにはどうしても納得がゆかないのである。

 不可解な攻撃に狼狽して、額をあつめて、研究してみたこともあるが、滿足の解答は得られなかつた。理由が一つとして浮かんでこない。

「人間どもから恨みを買ふことは、天地神明に誓つて、みぢんもない」

 結論はいつもそこへきて、それからの論議の展開しやうがない。河童は當惑するばかりである。

「これは、なにかの誤解にもとづいてゐる」

「たれか人間と接觸した者はあるまいな? 山の法則を破つた者はあるまいな?」

「そんな者はない」

「人間どもに使ひを立てて、この理不盡な攻撃の理由を聞きに行つてはどうだらう?」

「人間と口をきくことは、嚴に禁じられてゐる。絶對に祖先の遺訓を破つてはならぬ」

かういふ調子で、何十囘會議をひらいても、議論は堂々めぐり、小田原評定、吐息で終るのが落ちだつた。この間にも實際問題として、金銀花の液汁撒布による仲間の犧牲は相ついで、不安と絶望の空氣は、河童たちのうへを掩ひつくした。そして、かれらの考へ得、なし得る最大のことは、恐るべき武器たる金銀花の絶滅をはかるといふ消極的防禦法にすぎなかつた。ともかくも、地上から金銀花の姿を沒し去る、それのみが救ひだと信じた。早速、この淸掃事業は實施された。着々とすすみ、成功もした。人間どもはその畑の所在を隱さうとはしなかつたので、はじめは、河童たちの方で、人間どものお人よし、馬鹿さ加減を笑つたほどである。ところが、その勝利感が虛妄(きよまう)であつたことの悟りは、意外に早くきた。それはただちに絶望感とつながつて、河童たちを憂鬱にしたのである。金銀花を地上から絶滅することは不可能事に屬する――その認知の打撃は小さくなかつた。人間を嘲笑してゐた河童たちは、逆に、人間どもは魔法使ひではあるまいかと、恐怖するやうになつた。金銀花の淸掃の間斷なさにかかはらず、また地上に金銀花の間斷のない開花があつた。河童の信念がぐらつき、不安と恐怖はいやがうへに增大して、戰慄と變るのである。

 河童たちは巨大な努力を費しながら、その作業は根本のものを忘れてゐた。金銀花の花をちぎり、枝を折り、莖をたふしたけれども、根を掘ることはしなかつた。かれらは誕生の原理については、なんら知るところがないのである。鳥や蛇が卵から生まれ、自分たちが胎内からいでて繁殖することは知つてゐたが、大地に根ざしたものの生長の原理は知らなかつた。したがつて、金銀花は花瓣や枝や莖はとりさられたが、根はつねに殘されたので、ふたたび、そこから莖を出し、枝をひろげ、花をつけた。さうして、人間によつて、呪禁(まじなひ)の液汁がこしらへられ、河童たちのうへにばら撒(ま)かれた。

 人間たちの持つてゐる武器には、河童たちは辟易せざるを得ない。脱れやうがないのである。ポンプの先から霧となつた毒液が、森林のなかに充滿してきて、たちま苦痛が身體を襲ふ。身體が腐りはじめ、溶けはじめる。川にも流れにも、毒液をながすので、もうそこにも棲むことができない。食餌(しよくじ)を奪はれて、飢餓らおとづれる。仲間は減り、のこつた者も、疲弊で病人同樣なり、金銀花除去作業の際に傷つく怪我人もふえる。

 暗愚なるものは河童である。何度それをくりかへしてもあきたらぬほどだ。封建的といつてもよいかも知れない。

 かれらは恐怖にさらきれながらも、頑強に傳説の掟を守り、人間へ復讐しようとしない。防禦に專念してゐるばかりで、攻撃に轉じようとしない。勇氣がないのであらうか。ないやうに見える。しかし、かれらを怯懦(きようだ)といふことはできないのである。あからさまに死にさらされてゐながらも、なほかつ傳説の掟を守らうとする精神こそは、勇氣の最大なものとはいへまいか。たしかにさうにちがびない。さうすれば、河童を勇氣なきものといふことはできない。しかしながら、暗愚なるものといふことはできるのである。

 河童たちは疲れた。そして、人間たらも疲れた。戰ふものが疲れるのは當然である。どちらもがおたがひの執念深きを呪ひあつた。

「金銀花の液汁が河童の害に神效があるなんて、噓ぢやないのか」

 と、今度は、人間の方で合議がはじまつた。

「どうもをかしいな」

「さうだよ。これだけ撒いても、害が減るどころか、ふえる一方ぢやないか」

「河童が怒つたのかも知れんぞ。あの、どろどろの靑苔のやうな汁を、耕作物のうへに撒き散らすのには、往生するなう。折角の作物が全部だめになるわい」

「近來、ことにあれがひどいぢやないか。それに臭うて、傍にも寄りつけん」

「なにか、もつとはげしく利く藥はなからうかなあ? 金銀花ぐらゐぢや、たちのわるい河童どもにや、こたへんのかも知れんぞ。なにしろ、河童といや性惡のどうじれもんぢやからなう」

人間たちの會話は、河童たちにとつて、不可解きはまるものといつてよかつた。一個所として理解することができないのである。なにか、どこかに、まちがつてゐるところがある。そして、その根本のものの食ひちがひが、次々に新たな誤解を生んで、收拾(しうしふ)することができなくなつたのである。

「たれか、人間に害をあたへた者があるか」

と、今度は、河童の方の會議になる。しかし、この研究はすでに何十囘となくくりかへされたことで、小田原評定の結論は、たれひとりとして人間に害を及ぼした者はない、害どころか、交渉ら持つた者はないといふ一點に、つねに落ちつく。噓をついてゐる者はゐないのである。河童は暗愚ではあるけれども、噓はつかない。暗愚とは正直といふことである。

「たれか、人間をおどろかした者はないか」

或るとき、ふと出たさういふ質問に、二三、首をひねつた者があることはあつた。そのうちの一匹が語つたところによると、――或る月のあかるい夜、芒(すすき)と角力(すまふ)をとつてゐた。芒はゆらゆらと月光に銀の頭をふりながら、自分の相手になつてゐた。自分がいくら捻(ね)ぢたふしても、張りとばしても、芒はもとの姿勢に立ちなほる。今度は拳鬪で、芒とたたかつた。自分もすこし醉つてゐたし、いくらやつつけてもふらふらとはねかへる芒が面白くて、いつまでもいつまでも芒と遊び戲れてゐた。そのとき、かたはらで、ばたばたと音がした。鳥の羽ばたきのやうにはじめは思つた。ふりかへると、それは人間で、自分を見ると、ぎやらつといふやうな聲を發して、一目散に逃げ去つた。ばたばたといふのは人間の冷飯草履(ひやめしざうり)の音なのだつた。夢中で芒と遊び呆けてゐて、いつか、消してゐた姿があらはれてゐたものとみえる。しかし、びつくりしたのはこつちの方で、人間と交渉を持つてはならぬといふ山の法則を思ひだすと、こららも一目散に、沼に逃げ歸つたのであつた。

 それから、また一匹の語るところによれば、――そろそろ、夜あけがたのかはたれのうす明りがほの見えるころ、自分はいつもの習慣で、流れの岩のうへに端坐して、詩を口吟(くちずさ)んでゐた。潺湲(せんかん)の音がこころよく耳に入る。流れに浸した足の水かきにやはらかく生ぬるい水が觸れてゆくのが、なんともいへず心地よい。東の空がしだいに明るんでくるのを眺めながら、詩を誦してゐると、恍惚と、一種の三昧境(さんまいきやう)に入つてくる。自分は眼をとぢ、詩を、(その詩は、自分たちの理解者であり、知己であるアシヘイさんの「皿のなかの天」といふ詩なのだが)しまひにはお經のやうに聲高に朗吟してゐると、耳にはげしい水音がきこえ、飛ばちりが自分の顏にかかつた。おどろいて目をあけると、對岸の土堤(どて)を、數人の子供たらが一散になにか喚(わめ)きながら、走り去つてゆく姿が見えた。土橋のうへを通りかかつた子供たちが、自分の姿を見た模樣だ。水音がしたのは、びつくりした拍子に、なにかを川のなかに落したものらしかつた。それはすぐに川底に沈んでしまつたので、なにを落したのか、自分は知らない。自分もいい氣になつてゐて、姿を見られた失敗に狼狽し、あわてて、水中にもぐつた。

 さういへば、自分も、と、人間に倉つた經驗を語りだす者があつたが、衆議は、さういふことは、人間に害をあたへたといふことにはならない、いづれも似たやうな他愛もない失敗談で、と一決した。さすれば、人間の考へかたはとんと腑(ふ)に落ちず、攻撃や復讐を受ける道理がのみこめないのである。

 新しい金銀花(すいかづら)畑の發見に、最後の努力をかたむけるやうに、敗殘の河童の隊が、もう暗くなつた林間の小徑を行つた。隊列はばらばらになり、落伍する者も出たが、ともかく、やがて目的の足無山の崖のかげにたどりついた。月はなかつたが、星あかりに、白い金銀花の花瓣が浮きあがり、芳香があたりいちめんにただよつてゐる。かすかな風があつて、香氣はさらに抑揚を增した。しかし、河童たちには、その花の香も色も胸糞のわるさを誘ふばかりで、たれが指圖するまでもなく、作業はすぐにはじめられた。

 花瓣はむざんに引きちぎられ、襤褸(ぼろ)のやうに、用意の藁苞(わらづと)のなかに投げこまれる。一枝でも殘すことはできないのである。枝と莖とは折られたまま、畑のなかに積みあげられた。疲れた河童たちにとつて、この仕事は樂ではなかつたが、自己の生命と生活とを護る熱意に燃えて、金銀花畑は蠶(かひこ)に食はれる葉のやうに、端からつぶされていつた。花瓣をちぎる音、枝や莖を折る音が、靜かな夜の空氣にこだました。

 これは、たしかに不思議な光景にちがひない。河童たちは注意ぶかく姿を消してゐる。そこで、たれもゐないのに、花が散り、杖が折られる。事情を知らぬ者は妖怪變化(えうくわいへんげ)のしわざと思ふだらう。ところが、河童たちは、またしても人間たちの陷穽(かんせい)に落らてゐたのであつた。

「やつぱり、きやがつた」

「一匹も逃がすな」

 その聲とともに、數人の屈強な若者が、崖の根の楠の巨木のかげからをどり出てきた。彼らの手にはそれぞれ喇叭(らつぱ)のやうな噴霧器がにぎられてゐる。人間の眼に河童の姿は見えないが、金銀花の花や枝や莖のうごきによつて、河童の所在はまがふかたもないのである。彼らは人間のうちでも、智慧と勇氣と義俠とに富む者たちにちがひない。これまで金銀花畑が荒されたことを知つて、かならずこの畑にもくることを豫期してゐたのだ。河童たちがこの崖下の忍冬(すいかづら)畑が囮(おとり)であつたと氣づいたときは、もう遲かつた。ぐるりと畑をとりまいた人間たちは、下等な掛聲を發しながら、荒くれたやりかたで、噴霧器から、毒汁を撒布しはじめた。

 驚愕した河童たちは、脱れるために散らうとしたが、疲弊のため動作が緩慢で、その大部分は毒液を浴びた。ばたばたと重なりあつてたふれた。辛うじて、その場所から脱出した者も、方々で、力つきて、たふれた。

 混亂におちいつた河童たちのなかに、傳説の掟を破らうと決心した者があつた。死と絶望とのあたへた勇氣である。遲い覺醒ではあつたが、眞理を熱望する願ひが、はじめて、すでに苦痛のはじまつた肉體のなかに燃えた。

 かれは、この山の河童の歴史のなかで、人間に口を利く最初の一人であり、そして、最後の一人であつた。かれは、頭の皿を一囘轉させて、人間たちのまへに姿をあらはした。そして、叫んだ。

「あなたがた人間は、いかなるわけで、われわれ河童をかかる無殘な目にあはせるのですか」

 返答は得られなかつた。薄闇のなかに、すつくと立つた異形のものに、びつくり仰天した人間たらは、ぎやらつといふ悲鳴とともに、先をあらそつて逃げだした。勇氣ある者とはいへ、さすがに眼前に、化生(けしやう)の者が立ちあらはれて、怒れるさまに呼號するのを見ては、膽を冷やしたものであらう。たちまち、人間たちの姿は夜の闇に吸ひこまれ、足音が消えた。

 河童は呆然となつた。しばらく、魂を拔かれたやうに立ちつくしてゐた。やがて、力が盡き、空氣を拔かれた風船のやうに、そこへしぼみたふれた。全滅した仲間の姿へ、うつろな眼をやつた。折角、戒律を破つたのに、人間の答はなく、解決は得られなかつた。しかし、かれはなにか滿足してゐた。解體してゆく肉體のなかで、なにかの新しい精神が生まれてゆくやうな、暖かいうごめきを感じた。過失ををかすのは人間の天性であつて、河童の存在がその證明となつたのだと、おぼろげに解することができた。が、存在そのものが罪惡であるといふのは、いかなることであらうか。が、もうそんなことは、河童はどうでもよかつた。頭の皿の水がすつかり流れ出、身體が足のさきから溶けてゆくのを感じながら、意識をしだいに喪失したが、同時に、妙にふわふわと身體が輕くなつて浮くのを感じた。きらめく星が銀河の壯大の流れをはさんで、朦朧となつた視野のなかにしだいに近づき、空氣がつめたくなり、耳元で鳥の羽ばたくのをききながら、あとはなにもわからなくなつた。

 朝になつて、人間たちのぼやきは大きくなるばかりである。勇敢な靑年たちの河童退治、金銀花畑の襲撃はすこぶる不評判である。一匹も退治ることができなかつたばかりではなく、たつた一匹に怒鳴りつけられて、腰を拔かして逃げた。怒つた河童は、あつちにも、こつちにも、これまでになかつたほど大量に、例のどろどろの靑汁を撒き散らした。そのため農作物の被害は甚大で、本年度の供出に支障をきたすことは明瞭だ。またしても罰則を受ける、といふのであつた。かくて、人間たちは金銀花がなんら河童征伐に卓功がないといふ教訓を得て、はじめて、ここに、その栽培を斷念したのである。さうして、新に、河童の害を防ぐ大がかりな對策委員會が設置せられた。

[やぶちゃん注:本作は昭和二四(一九四九)年の『九州文学』第一一四号五月号に所収されたものが初出であろうか(古書店目録に拠る推定)。

「金銀花」双子葉植物綱マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ Lonicera japonica。常緑の蔓性木本。作品の後半で出るように別名を「忍冬」、「ニンドウ」とも言う。花は五~七月に咲き、甘い香りを有する。参照したウィキの「スイカズラ」によれば『蕾は、金銀花(きんぎんか)という生薬、秋から冬の間の茎葉は、忍冬(にんどう)という生薬で、ともに抗菌作用や解熱作用があるとされる。漢方薬としても利用される。忍冬の名の由来は、常緑性で冬を通して葉を落とさないから付けられた』。また、『「スイカズラ」の名は「吸い葛」の意で、古くは花を口にくわえて甘い蜜を吸うことが行なわれたことに因』み、『砂糖の無い頃の日本では、砂糖の代わりとして用いられていた。スイカズラ類の英名(honeysuckle)もそれに因む名称で、洋の東西を問わずスイカズラやその近縁の植物の花を口にくわえて蜜を吸うことが行われていたようである』とする。因みに、 花言葉は本話には皮肉なことに――愛の絆――である。

「千軒岳の噴火山上に全滅した仲間、高塔山上で、山伏に淘汰(たうた)されて地中に封じこめられた仲間、小さな岩の出口しかない胡瓜倉に、とぢこめられてしまつた仲間、三角帽をかぶつた妖術者の甘言にまよはされ、生得の首をとりかへて、肉體と精神の錯亂におちいつた仲間」最初の三件は本底本の既出作品に描かれている。

「原子爆彈」この語によって、これまでの「河童曼荼羅」の中で、初めて戦後の作であることが明白な作であることが分かる一瞬であると同時に、本作の寓話の暗い闇の一つのキ・ワードでもある。いや――それは遙かに福島原発の致命的な惨事を遠く寓話化しているように私には読めるのである。……

「茉莉花」双子葉植物綱シソ目モクセイ科ソケイ属マツリカ Jasminum sambac。インド・スリランカ・イラン・東南アジアなどに自生し、ジャスミン・ティーやハーブ・オイル、香の原材料として知られる。

「玉蘭」白木蓮のことであろう。双子葉植物綱モクレン亜綱モクレン目モクレン科モクレン亜科モクレン属ハクモクレン Magnolia heptapeta(シノニム Magnolia denudata)モクレンの仲間で白色の花をつける。しばしば、モクレン Magnolia quinquepeta と混同される。モクレン属の中では大型の種類で樹高は一〇~一五メートルにまで成長する、春、葉に先立って大形で白色の花が開き、香りの高いことで知られる。

「どうじれもん」底本では「ヽ」の傍点。小学館「日本国語大辞典」に、方言の動詞「どうじれる」として、子どもなどがすねて悪意地を張ったりすることをいう、とあって、方言採取地として山口県豊浦郡、愛媛県大三島に続いて、福岡県小倉とある。最後のそれである。

「冷飯草履」緒も台も藁で作った粗末な藁草履。

「潺湲」さらさらと水の流れるさま。「せんえん」とも読む。

『アシヘイさんの「皿のなかの天」』火野葦平の河童の詩と思われるが不詳。少なくとも「河童曼荼羅」の中には所収しない模様である(未電子化部分は精査はしていない)。識者の御教授を乞う。

「退治る」は「たいじる」と読み、名詞「たいじ(退治)」の動詞化したザ行上一段活用の動詞。退治する、討ち滅ぼす、の意。]

北條九代記 白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す

      ○白拍子微妙尼に成る  古郡保忠租逹房を打擲す

同三月上旬、暮行く春の名殘とて、長閑に照す日の光、空のけはひものびらかに、野邊の若草長く生(おひ)立ち、山路の木芽も枝茂く、人の心もいとゞ浮(うき)立ちて、見過し難き花の邊(あたり)、賑々(にぎにぎ)しかるべき折柄、なれども、打續(うちつゞき)たる風雨の災變に、東耕西收(とうかうさいしう)の營(いとなみ)宜(よろし)からず、農民も地下人(ぢげにん)も飢餓を憂ふる色深くして、何となく物さびたり。賴家卿は國家の哀愁(すゐしう)する事をば露程とも知召(しろしめ)さず、朝夕(てうせき)遊興の席を列ねて、此外には又、他事なし。比企判官能員が家に植たりける庭の櫻、今を盛(さかり)に、花咲(さき)出でたり。「是を御覽ぜざらんには花の爲(ため)いと口惜(くちをし)かるべし」と申入(まうしいれ)たりければ、「さらば入御(じゆぎよ)あるべし」とて、北條五郎以下、紀内所行景を召(めし)倶せられ、彼(か)の亭に渡らせ給ひけり。饗應様々にて、盃酒とりどりにかざり、もてなす。此比(このごろ)京都より下向せし白拍子微妙(みめう)と云へる者、年廿計(ばかり)にして容顔美しきが、御前に召されて立出でたり。歌の聲、梁塵を飛(とば)し、舞の袖、白雪を廻(めぐら)す。賴家卿、頻に感じ給ひて、數々めぐる盃(さかづき)の重なる夜半(よは)も時更けたり。判官能員、申されけるは、「此白拍子は、愁訴の事候ひて、遙(はるか)の山河を凌ぎて、是まで下りて候。是は微妙が讀みたる歌なるを自筆に書かせて候」とて奉りけり。賴家卿、取て御覽ずるに、

  片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず

手さへ美(うつくし)かりけり。座中、取(とり)渡して是を見るに、その心を知る人なし。觀淸(かんせい)法眼、申されけるは「この歌の心を案じ候らへば、親なくして、行方(ゆくへ)を尋ぬるかと覺えて候。昔、聖徳太子、片岡の飢人(きじん)を御覽じて、

  科照(しなてる)や片岡山に飯(いひ)に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし

と詠み給ひけん歌の言葉を取て、今かく詠じ候やらん」とぞ申されける。賴家卿、「さらば子細を語るべし」とあり。微妙、さめざめと打泣きて左右(さう)なく出さざりしを、度々強(しひ)て問はせ給へば、微妙、申しけるやう、「去ぬる建久年中に父右兵衞尉爲成、思(おもひ)懸けざる讒訴に依て、宮人の爲に禁獄せられたり。月を越えて後に、西の獄舍の囚人等(めしうどら)を奥州の夷(えびす)に給はりて被官となし給ふ。父爲成も其員(かず)にて放遣(はなちつかは)され、將軍家の雜色(ざつしき)追立てて下向せしかば、母は愁歎の思(おもひ)に堪へずして、幾程なく病(やみ)出して、空しくなる。自(みづから)其時未だ七歳なり。兄弟親族もなく、孤子(みなしご)となりて、人の御許(もと)に勞(いたは)り置かせ給ひ、年既に重りて、父の行方戀しき事露忘られず、音に聞ける陸奥(みちのく)のそなたを尋ねて相坂(あふさか)や關の東に赴きて、便(たより)に付きて逢見ばやと思ひながらも女の身なれば、程遠き東路の旅の空輒(たやす)く下り候らはん事、世に叶(かなひ)難く候へば、心にもあらぬ白拍子となり、人の御情(なさけ)に依りてこそ是までやうやう下り候へ」と申しければ、人々、聞き給ひ、「哀なる志かな」と皆、感涙をぞ流されける。いかさま、御使を奥州に遣して尋ね仰せらるべき由、その御沙汰ましまして[やぶちゃん注:底本「汰沙」。訂した。]、其より還御なり給ふ。其後、尼御墓所は御所に参り給ひ、白拍子微妙を召し、舞舞(まひま)はせて御覽あり。聞しに勝りて上手なり。父を戀る志を、殊に感じ覺(おぼし)召すなり。「急ぎ奥州に飛脚を立て、行末を尋ねて取らすべし。其程は此方へ参りて待つべきなり」とて尼御臺所、召連れて歸らせ給ふ。八月五日、奥州飛脚の雜色の男歸り參りて、「微妙が父爲成は既に死去せし」と申す。微妙、聞きて望(のぞみ)を失ひ絶入々々(たえいりたえいり)、泣悲(なきかなし)みけるが、同十五日の夜、壽福寺に行きて、榮西(やうさい)律師の弟子祖達房を師として出家し、持蓮尼(ぢれんに)と號して、父の菩提をぞ弔ひける。尼御臺所、哀がり給ふ餘(あまり)に、深澤の里の邊(ほとり)に庵(いほり)を造りて住ましめられ、「御持佛堂の砌(みぎり)に、折々は參るべし」とぞ仰せ含め給ひける。此白拍子は、日比(ひごろ)、忍びて古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠(やすたゞ)に契(ちぎり)て比翼の語(かたら)ひ水漏さじと、思染(おもひし)みて侍りし所に、保忠、甲斐國に下向しけるが、歸るを待たずして尼になる。さこそは悲しさの餘に男女(なんによ)の道を忘れけん。保忠鎌倉に歸りて微妙が事を尋ぬるに、榮西の門弟祖達総を師として尼に成(なり)たりと語るを聞きて、彼(かの)庵室(あんしつ)に行向ふ。祖達房を捕へて散々に打擲す。近隣、出合ひて取りさへける。尼御臺所より朝光を遣して保忠を宥(なだ)められ、翌日、保忠、御氣色を蒙る。昨日(きのふ)、理不盡の所行を誡(いまし)めらるゝ所なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年三月八日・十五日、八月五日・十五日・二十四日・二十七日の条に基づくが、特に前半は浄瑠璃の義太夫節の如く劇的で臨場感に富む。白拍子微妙の事蹟は前段の私の注を参照されたい。以下、「吾妻鏡」と比較して読み進めてみよう。まずは建仁二年三月八日の条。

〇原文

八日癸丑。御所御鞠。人數如例。此御會連日儀也。其後入御于比企判官能員之宅。庭樹花盛之間。兼啓案内之故也。爰有自京都下向舞女。〔號微妙〕盃酌之際被召出之。歌舞盡曲。金吾頻感給之。廷尉申云。此舞女依有愁訴之旨。凌山河參向。早直可被尋聞食者。金吾令尋其旨給之處。彼女落涙數行。無左右不出詞。恩問及度々之間。申云。去建久年中。父右兵衛尉爲成。依不讒爲官人被禁獄[やぶちゃん注:「不」はママであるが、訓読では意味が通じないので排した。]。而以西獄囚人等。爲給奥州夷。被放遣之。將軍家雜色請取下向畢。爲成在其中。母不堪愁歎卒去。其時我七歳也。無兄弟親眤。多年沈孤獨之恨。漸長大之今。戀慕切之故。爲知彼存亡。始慣當道。而赴東路云々。聞之輩悉催悲涙。速遣御使於奥州。可被尋仰之由。有其沙汰。盃酒及終夜。鷄鳴以後令還給。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日癸丑。御所の御鞠。人數(にんず)、例のごとし。此の御會、連日の儀なり。其の後、比企判官能員の宅に入御す。庭の樹花盛りの間、兼ねて案内を啓(まう)すが故なり。爰に、京都より下向の舞女〔微妙と號す。〕有り。盃酌の際(あひだ)、之を召し出だされ、歌舞、曲を盡す。金吾、頻りに之を感じ給ふ。廷尉、申して云はく、

「此の舞女、愁訴の旨有るに依つて、山河を凌ぎ參向す。早く直(ぢき)に尋ね聞こし食(め)さるべし。」

てへれば、金吾、其の旨を尋ねしめ給ふの處、彼の女、落涙數行(すうかう)、左右(さう)無く詞(ことば)を出さず。恩問、度々に及ぶの間、申して云はく、

「去ぬる建久年中、父右兵衛尉爲成、讒に依つて官人の爲に禁獄せらる。而るに西獄(さいごく)の囚人等を以つて、奥州の夷(えびす)に給はんが爲に、之を放ち遣はさる。將軍家の雜色(ざふしき)、請け取り下向し畢んぬ。爲成、其の中に在り。母は愁歎に堪へず、卒去す。其の時、我れ七歳なり。兄弟親眤(しんぢつ)無く、多年孤獨の恨みに沈む。漸くに長大するの今、戀慕、切なるが故に、彼(か)の存亡を知らんが爲に、始めて當道を慣(なら)ひて東路(あづまぢ)に赴く。」

と云々。

之を聞く輩(ともがら)、悉く悲涙を催す。

「速かに御使を奥州へ遣はし、尋ね仰せらるべし。」

の由、其の沙汰有り。

盃酒、終夜に及び、鷄鳴以後、還らしめ給ふ。

「廷尉」は比企能員。「官人」は検非違使。続いて、同月十五日の条。

〇原文

十五日庚申。今日御鞠。及終日。員百廿三。百廿。百廿。二百四十。二百五十也。其後尼御臺所入御左金吾御所。召舞女微妙。覽其藝。是依令感戀父之志給也。藝能頗拔群之間。爲尋彼父存亡。被遣使者於奥州云々。飛脚歸參程者。可候尼御臺所御亭之由被仰。仍還御之時爲御共。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日庚申。今日、御鞠、終日に及ぶ。員(かず)百廿三、百廿、百廿、二百四十、二百五十なり。其の後、尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。舞女微妙を召し、其の藝を覽る。是れ、戀父の志を感ぜしめ給ふに依つてなり。藝能、頗る拔群の間、彼の父の存亡を尋ねんが爲に、使者を奥州へ遣はさると云々。

「飛脚が歸參するの程は、尼御臺所の御亭に候ずべし。」

の由仰せらる。仍つて還御の時、御共たり。

「員百廿三……」以下の数字は蹴鞠の仕儀で蹴り続けられた回数。「使者を奥州へ遣はさる」とあることから、一週間前の頼家の下知が実行されていなかったことが分かる。これは最後の場面で政子が自邸に微妙を引き取ったのが、前段注で示した通り、女好きの頼家から守るためと思われることからも、頼家は父探索をペンディングしておいて、微妙に迫っていたのではなかったかと勘繰らせる場面ではある。

 以下、「北條九代記」本文に戻る。

 なお、原典の「吾妻鏡」との大きな違いは、微妙の和歌の披露及びそれを解釈する観清法眼(頼家の側近であるが、北条義時とも関係が深かった人物らしい。詳細不詳)という微妙の数奇な半生を引き出す前段部が配されていることである。但し、この微妙作とする和歌の出典は定かではない。識者の御教授を乞うものである。

 

「梁塵を飛し」梁塵を動かすの意で、歌声が優れていることの譬え。「十八史略」に魯の虞公という歌の名人が歌うと、梁の上の塵までが動いたという故事による。

「片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず」

――辺土の荒涼とした岡辺に行き倒れとなって横たわる旅人、それは何と、哀れなことか……その旅人は今の私(わたくし)……親を尋ねてやってきたこの里で……無宿人のままに……野垂れ死にする私……

「科照や片岡山に飯に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし」「日本書紀」や「万葉集」などに載る、聖徳太子が行き倒れの旅人を見て悲しんだという歌の冒頭部。以下は「日本書紀」推古紀に載るもの。

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て

 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ

 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の

 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

通釈すると、

――片岡山辺(べ)に糧(かて)に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ……なんと、哀れな! そなたも、親なしに生まれようはずもない……そなたにも恋する親があるであろう! そなたを守ってくれるはずの主人はいないのか?……糧に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ、なんと、あわれなことか!……

・「しなてる」「級照る」などと表記。「片」の枕詞。「しな」は階段、坂の意味かとも言われる。

・「片岡山」現在の奈良県北葛城郡王寺町から香芝市にかけての丘陵地帯。片岡山。歌枕。

・「臥せる」「こやす」は上代語で、「す」は上代の尊敬の助動詞で「臥(こ)ゆ」の尊敬語。

・「さす竹の」「君」の枕詞。竹が勢いよく茂ることから繁栄を言祝いで「君」「大宮人」「皇子(みこ)」などにかかる。

御用達の水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首 聖徳太子」の「補記」に、

   《引用開始》

【補記】日本書紀巻二十二。推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子が片岡に行った時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を問うても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いでかぶせてやり、「安らかに寝ておれ」と言った。そこで上の歌をよんだという。翌日、皇子は使者をやって男の様子を見に行かせた。使者が戻って来て言うことには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。墓を封じて数日後、皇子は近習の者を召して、「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、使者をやって見させた。使者は戻って来て、「墓に着いて見ましたところ、埋め固めた場所はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、しかばねは無くなっておりました。ただ御衣(みけし)ばかりが畳んで棺の上に置いてありました」と告げた。皇子は再び使者をやって、その上衣を持って来させると、何もなかったようにまた身につけたのである。世間の人々はこれをたいへん神妙に感じ、「ひじりはひじりを知るというが、本当だったのか」と言って、ますます皇子を畏敬したという。

 のち、この餓え人は達磨の化身とされ、片岡の地に達磨寺が建立された。

 なお拾遺和歌集には、「飢ゑ人のかしらをもたげて御かへしを奉る」として次の歌を載せている。

  いかるがやとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ

   《引用終了》

とある。微妙の作とするものは、この太子の歌をベースとしながら、視点を反転させて、自らを瀕死の旅人に模している。

 

 次に「吾妻鏡」同年八月五日及び十五日・二十四日・二十五日の条を見る。

〇原文

五日丙子。所被遣奥州之雜色男歸參。舞女父爲成已亡云々。彼女涕泣悶絶躄地云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日丙子。奥州へ遣はさるる所の雜色男、歸參す。舞女が父爲成、已に亡(な)しと云々。

彼の女、涕泣、悶絶躃地(びやくぢ)すと云々。

「悶絶躃地」は苦しみ悶えて転げまわること。

〇原文

十五日丙戌。晴。鶴岳放生會如例。將軍家御參宮。

入夜。舞女微妙於榮西律師禪坊遂出家。〔號持蓮。〕爲訪父夢後云々。尼御臺所御哀憐之餘。賜居所於深澤里邊。常可參御持佛堂砌之由。被仰含云々。此女。日來古郡左衛門尉保忠密通。成比翼連理契之處。保忠下向甲斐國。不待歸來。有此儀。不堪悲歎之故也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。晴る。鶴岳の放生會、例の如し。將軍家 御參宮。

夜に入り、舞女微妙、榮西律師禪坊に於いて出家〔持蓮と號す。〕を遂ぐ。父の夢後(ぼうご)を訪(とぶら)はんが爲と云々。

尼御臺所、御哀憐の餘りに、居所を深澤の里の邊に賜ひ、常に御持佛堂の砌りに參るべしの由、仰せ含めらると云々。

此の女、日來(ひごろ)、古郡(ふるごほり)左衛門尉保忠と密通し、比翼連理の契りを成すの處、保忠甲斐國へ下向す。歸り來たるを待たず、此の儀有り。悲歎に堪へざるが故なり。

〇原文

廿四日乙未。入夜。龜谷邊騒動。是古都左衛門尉保忠爲訪舞女微妙出家事。自甲州到着。而彼女屬營西律師門弟祖達房。聞令落餝之由。先至件室。稱可尋問子細誓盟。祖達怖畏之餘。奔參御所門前。此間。保忠難休鬱憤兮。打擲從僧等。依之近隣輩雖競集。非異事之間。即分散。又尼御臺所遣朝光。宥保忠給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿四日乙未。夜に入り、 龜谷(かめがやつ)邊、騒動す。是れ、古都左衛門尉保忠、舞女微妙出家の事を訪はんが爲、甲州より到着す。而るに彼(か)の女、營西律師の門弟祖達房に屬(しよく)し、落餝(らくしよく)せしむの由を聞き、

「先づ件(くだん)の室に至りて、子細に誓盟を尋ね問ふべし。」

と稱す。祖達、怖畏の餘り、御所の門前に奔り參る。此の間、保忠、鬱憤を休し難くして、從僧等を打擲(ちやうちやく)す。之に依つて、近隣の輩、競ひ集まると雖も、異事に非ざるの間、即ち、分散す。又、尼御臺所、朝光を遣はして、保忠を宥(なだ)め給ふ。

〇原文

廿七日戊戌。今日保忠蒙御氣色。是去夜打擲祖達房從僧之間。依彼憤也。僧徒之法。以人々歸善爲本意之故。無左右令除髮授戒歟。而理不盡所行奇恠之由。尼御臺所以義盛。朝光等被仰之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊戌。今日、保忠、御氣色を蒙る。是れ、去ぬる夜、祖達房從僧を打擲するの間、彼(か)の憤りに依りてなり。

「僧徒の法、人々を以つて善に歸するを本意と爲すが故に、左右(さう)無く、除髮授戒せしむるか。而るに理不盡の所行、奇恠。」

の由、尼御臺所、義盛・朝光等を以つて之を仰せらると云々。]

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力

     四 智力

 

 餌を食ふため敵に食はれぬために、動物が行ふことの中には、人間が知力を用ゐてなすことと程度は違ふが、性質は同じである如くに思はれるものが頗る多い。例へば、猿が番人の隙を覗つて桃林から桃を盜んで行くのも、猫が鼠の出て來るのを待つて根氣よく孔の傍に身構へて居るのも、人間の擧動に比べて殆ど何の相違もない。昔、人間と他の動物との間の距離をなるべく大にしたいと思つた頃には、猿が桃を盜むのと、人が桃を盜むのと、また猫が鼠の穴を覗ふのと、人が鐡砲を持つて兎の穴を覗ふのとを嚴重に區別し、一方は本能の働き、一方は智力の働きと見做したであらうが、虛心平氣に兩方の擧動を比べて見ると、その間に根本的の相違があるものとは決して考へられぬ。今假に自分が猫になつたと想像したならば、鼠を捕へるに當つては、やはり實際猫のする通りのことをするであらう。また假に自分が猿になつたと想像したならば、桃を盜むに當つては、やはり實際猿のする通りのことをするに違ひない。されば、一方のみを智力の働きと見做し、他方は智力の働きでないなどと論ずべ根據は少しもない。かやうに考へると、智力を有するものは決して人間のみに限るわけではなく、動物界には廣くこれを具へたものがある。但し、その發達の程度には種々の階段があつて、或る所まで降ると最早本能と區別することが全く出來なくなつてしまふ。

 猿が桃を盜み、猫が鼠を捕へるのを智力の働きとすれば他の動物のこれに類する擧動も同じく智力の働きと考へねばならず、順次に比べて進むと、終には珊瑚蟲が「みぢんこ」類を捕へて食ふのまでも、智力が與つて居ると論ぜねばならぬことになる。更に一歩進めば、「蠅取り草」が蠅を捕へるのも智力の働きの範圍内に入れねばならぬとの結論に達するが、かくては餘り廣くなつて際限がない。著者自身の考によれば、智力といひ本能といふも、いづれも外界の變化に應じて適宜に身を處する神經系の働きの中で特殊に發達した部分を指す名稱で、その著しい例を互に比較すれば相異なる點が明であるが、程度の低いものの間には決して境界はない。他物に譬へていへば、智力と本能とは恰も相隣れる二つの山の頂のやうなもので、そこに絶頂が二つあることは誰の目にも明に見えて居るが、少しく下へ降りると、山と山とは相連絡してその間になんの境もなくなる。生物はすべて食つて産んで死ぬものであるが、食つて産んで死に得るには、常二外界に對して適宜に應接して、目的にかなうた行動を取らなければならぬ。そして神經系の有る動物では主として神經系がその衝に當るが、動物の種類によつて生活の狀態も大に違ふから、或る種類の動物では神經系の働きは一方に發達して、終に智力と名づくべき程度に進み、他の種類の動物では他の方面に發達して、明に本能と名づくべきものとなつたのであらう。また簡單な反射作用は恰も山の麓に比較すべきもので、本能とも智力とも名づけることは出來ぬが、さればとてまた本能からも智力からも明かな境界線を引いて區劃することは出來ぬ。今日、智力・本能などに關しては學者間に際限なく議論が鬪わされて居るが、著者の見る所によるとその大部分は、本來境界線のなかなかるべき所に強いて境界線を定めようと試み、その境界線をどこの邊に定めようかと、議論しているに過ぎぬやうである。

 なほ一つ例を擧げて見るに、子供の金魚鉢に飼つてある「べんけいがに」と「石龜」とを捕へようとすると、「かに」の方は鋏を上げて、觸れゝば挾むぞと嚇しながら逃げて行き、龜の方は頭も足も引き込めて動かずに居るが、これらの擧動を、人間が淋しい道で人相の惡い男に出遇つた際に、ピストルに手を掛けて相手の顏を睨(にら)みながら摺れ違つて行く擧動、若しくは泥棒が雨戸を抉(こ)じ開けんとする音を聞いて、中から戸を抑へて防いで居る擧動に比べると、その間に性質上の相違があらうとは思はれぬ。隨つて、一方を智力の働きと見做す以上は、他を智力の働きでないといふべき論據はない。かやうに比べて見ると、終には「いそぎんちやく」が體を縮め、「おじぎ草」が葉を下げるのまで順々に引き續いて、どこにも判然たる境界を設けることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「べんけいがに」短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Sesarmops intermedium。海岸の塩性湿地や海岸付近の河原・土手・石垣・森林・叢などに棲息し、本邦では男鹿半島と房総半島以南で普通に見られる。]

Tuarihu

[馬に文字を教へる]

 

[獨逸のクラルといふ人その飼馬ツアリフに文字を教へ各文字に對して左右の前足を以て一定の度數だけ板をたたかしめる 例へばAには左一囘右一囘とかBには左一囘右二囘とかいふやうである 馬は字を指し示されればこれに應じ豫て覺えたる通りの度數だけ板を敲き物を尋ねられれば字を綴り敲いて答へる また數を加へ減じ掛け割るなどの問題に對しても正しい答をする]

 

 さて智力の最も發達した動物はいふまでもなく人間であるが、これは今の譬へでいふと、一方の山の頂に當る。しからば人間に次いで智力の發達した動物は何かといふに、これは腦髓の構造が人間に最もよく似た獸類であつて、その中でも特に大腦の表面に凸凹の多い猿・犬・馬などは智力も相應に進んで居る。今から二十四五年も前の事であるが、ドイツの或る人の飼つて居た悧巧な、ハンスといふ馬が、字讀めば數も算へられるというて大評判であつた。例へば五と七とを加へると幾つかと尋ねると、馬は前足で床板を十二敲いて答へたのであるが、その當時これを調べた心學理者の鑑定よると、馬が足で床板を敲いて丁度答の當る、數まで達すると、尋ねた人が知らずに頭を一ミリメートルの何分の一とかを動かすので、馬は鋭くもこれを識別して敲くことを止めるから、恰も算術が出來たかの如くに見えるのである。實は決して算へる力などがあるわけではないとのことであつた。しかし、この説明には滿足せぬ人があつて、その後更に別の馬を飼つて種々試驗を續けた所が、馬に文字を覺えさせ、これを自分で綴つて人の問に答へさせることも容易に出來るやうになつた。この種類の試驗に就いては、今日では數多く報告があつて、已に馬の外に犬や象に就いて同樣の結果を得て居る。著者は自身にかやうな試驗を行うたことはないが、犬や馬に就いて日常見て居ることから推して、以上の如きことは當然行はれ得べきことと考へて居たから別に不思議にも思はぬが、人間の智力と他の動物の腦の働きとの間に根本的の相違があるやうに論じたい人等は、種々の論法を用ゐて、右樣の働きが智力の結果でないことを證明しようと骨折つて居る。

[やぶちゃん注:この本文にあるハンスの馬(同様の「賢馬」である挿絵にあるクラルのツアリフという馬の話は不詳。識者の御教授を乞う)は丘先生のおっしゃるように、ハンスは真に計算が出来た「賢馬」であったのではなく、『回りの雰囲気を敏感に察知することに長けた』「賢馬」であったことが、ウィキの「賢馬ハンス」に記されてある。そこには『今日ではこのような現象を「クレバー・ハンス効果」と呼び、観察者期待効果』として、後の動物認知学に大きく貢献した「賢馬」であったとある。しかし、それ以下で、丘先生がそうした数を数えることの出来る動物の可能性を極めて計画に肯定してのを奇異に思われる保守的な(人間中心主義的な)読者もいるやも知れぬ。しかし、例えば「日経サイエンス」の「数を数える動物たち〜日経サイエンス2009年11月号より」を参照されたい。そこには近年の研究で、野生のニュージーランドコマヒタキという鳥が、餌を捕獲する際の行動から三とか四といった小さな数を区別出来る能力を生得的に持っており、その後の学習の試行錯誤によって最終的には十二くらいまでの数を識別できるようになるという事実、ヒヨコが算数能力を保持している事実、アカゲザルの計算能力が大学生に匹敵し、しかも反応の素早さでは人間よりも早いという事実、そのアカゲザルはゼロの概念を把握しているわけではないが、それ(ゼロ)という状態が一や二よりも少ないことは理解しているという事実、三十年に亙ってオウムの研究を行ってきたマサチューセッツ工科大学のペパーバーグ氏によれば、『小さな量ならハチでさえ学習によって区別可能にな』り得るると言い、『ある程度の数感覚は無脊椎動物でも学習できるようで,こうした学習を支える何らかの神経構造があるのだろう』と述べておられる。神が人にのみ智を与え給うたと振り上げる御仁は、早々にその拳を納めて、私のブログからご退場なさった方が精神衛生上、よかろうと存ずる。……しかし私は……このハンス……君が……何とも可哀そうで仕方がない……。]

 

 こゝに一つ斷はつて置くべきは、本能でも智力でも、ときどき無駄な働きをすることである。「はまぐり」は介殼が如何に堅くても「つめた貝」には孔を穿たれ、蜂の針が如何に烈しく螫しても「はちくま」といふ鷹には平氣で食はれる如く、防禦の裝置にはそれぞれ標準とするところがあって、例外のものに對しては有功であり得ぬ通り、本能でも智力でもその動物の日常の生活を標準として發達し來つたものから、生活の條件を變へると、隨分目的にかなはぬ働きをする。例へば「走りぐも」は巣を造らず常に草の間を走り廻り、卵を産めば絲を以て繭の形にこれを包み、どこへ行くにも大事に持つて居るが、強ひてこれを奪ひ取つて、代りに紙屑を同じ位の大きさに如めたものを投げてやると、直にこれを抱へ、大切さうに保護して持ち歩く。これなどは、本能が盲目的に働いて無駄なことに骨を折つて居るのであるが、紙屑でも何でも構はず大切に保護するまでに發達した本能こそ、この「くも」の生活に取つては最も必要なものである。智力の方でもこれと同樣に、往々生活の目的のためには何の役にも立たぬ働きをすることがある。或る程度まで智力の發達することは、人間の生活に取つては必要な條件であるが、相應な智力を出し得るまでに腦の構造が進歩すると、これを生活上の必要以外の方面にも働かせる。しかしこの場合には智力が如何程まで有功に用ゐられて居るかは大に疑はしい。如何にしてこの魚を捕へようか、如何にしてかの獸を殺さうかと考へて、網の張りやうや落し穴の掘りやうを工夫し、如何にして甲の蕃社を攻めやうか如何にして乙の集落からの攻撃を防がうかと思案して、槍の穗先の形を改良し、味方同士の暗號を定めなどするのは、すべて智力の働きであるが、かやうなことが出來るまでに腦の構造が進歩すると、退屈のときにはこれを用ゐて種々のことを考へ始め、何でも物の起る原因を先の先まで知らうと務めれば、哲學が生じ、人間以外に何か目に見えぬ強い者がいると信ずれば、宗教が始まり、不完全な推理によつて勝手に物と物との間に因果の關係を附ければさまざまの迷信が現れる。これらはいづれも生存に必要な智力の發達したために生じた副産物であるから、いはば智力の脱線した結果と見なすことが出來よう。その後、物の理窟を考へる力が進めば、脱線の方面にも益々これを用ゐて、哲學も宗教も迷信も盛になり、そのため莫大な費用と勞力とを費して少しも惜しまぬやうになる。有名なエジプトの金字塔の如きも畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ。無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇を用ゐるに至つたまでに、人間の知力が常に生存のために有功であつたことはいふまでもないが、その間に宗教・迷信のために、人間がどの位無駄な仕事をしたかと考へると、これはまた實に驚くべきもので、今日と雖もなほ「走りぐも」が丸めた紙屑を大事に抱へて歩くのと同じやうなことをしながら怪まずにいるのである。

[やぶちゃん注:丘先生の近代の啓蒙家・科学者としての立ち位置と、本書の時代背景から仕方がないことではあるが、私は「哲學も宗教も」「エジプトの金字塔」(ピラミッド)も「畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ」と一蹴しておきながら、科学技術(言っておくがわたしはツールである「科学技術」を純然たる「科学」とは区別して用いている)『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』は『人間の知力が常に生存のために有功であ』ることの積極的な証しとされていることには、強い疑義を持つものである。先生は敗戦の前年に亡くなっておられるが、もし、戦後まで生きておられたなら、私はこの部分を丘先生なら、きっと書き改められた気がするのである。それは『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』の後に、原子爆弾や水素爆弾、そうして平和利用の名のもとに出現した恐るべき原子力発電といったモンストロムの類いを、生物学者である丘先生は、決して肯定なさらないと私は思うからである。

「つめた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

「はちくま」タカ目タカ科ハチクマ Pernis ptilorhyncus。ユーラシア大陸東部の温帯から亜寒帯にかけての地域に広く分布し、本邦には初夏に夏鳥として飛来して九州以北の各地で繁殖する。全長五七~六一センチメートルで♀の方がやや大きい。体色特に羽の色は変異の幅が大きい。通常は体の上面は暗褐色で、体の下面が淡色若しくは褐色である。♂は風切先端に黒い帯があり、尾羽にも二本の黒い帯がある。♀は尾羽の黒い帯が雄よりも細い。参照したウィキハチクマ」によれば、『食性は動物食で、夏と冬にはスズメバチ類やアシナガバチ類といった社会性の狩り蜂の巣に詰まった幼虫や蛹を主たる獲物とし、育雛に際してもばらばらの巣盤を巣に運んで雛に与える。コガタスズメバチのような樹上に営巣するハチのみならず、クロスズメバチやオオスズメバチなど、地中に巣を作るハチの巣であっても、ハチが出入りする場所などから見つけ出し、同じ大きさの猛禽類よりも大きい足で巣の真上から掘り起こし、捕食してしまう。ハチクマの攻撃を受けたスズメバチは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。毒針を問題にしないのは、ハチクマの羽毛が硬質で針が刺さらないためと考えられている。ハチ類の少なくなる秋から冬にかけては、他の昆虫類、小型のげっ歯類、爬虫類なども捕食する』とある。

「走りぐも」鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目キシダグモ科ハシリグモ属 Dolomedes のクモの仲間。網を張らない徘徊性の大型のクモである。参照したウィキハシリグモ」の「習性」の項に、『ハシリグモ類は、非常に活動的で、足が速い。体格が大きいこともあって、追いかけて捕まえるのは難しい。あちこちをうろつくよりも、草の葉の上で待ち伏せている様子をよく見かける。 また、水辺の種では、水面や水中に出ることがよくあり、魚やオタマジャクシを食うことがあることも知られている。“捕食”といっても消化液で獲物の体内を吸い取るだけの多くのクモと異なり、ハシリグモの仲間は物理的に噛み砕いて食べてしまう。このため彼らの食事の後には、獲物の干からびた死骸が残るのではなく、脚や羽根などの残骸が散らばっている状態になる。また、生き餌でなく、死後数日経った死骸であっても漁って食べることがある』。『配偶行動としては、雄が捕らえた獲物を雌に贈る「求愛給餌」が行われることが知られている。雄はまず獲物になる昆虫を捕り、これを糸で包んで雌に渡すことで交接を許される。獲物の大きさによって交接を許される時間が変わるとも言われている』。『雌は卵を糸で包んで卵嚢とし、これを口にくわえて持ち運ぶ。幼生が生まれる少し前になると、低木や草の葉の下に、籠網のような形に糸を組んで、その真ん中に卵嚢をぶら下げる。卵嚢から幼生が出てくると、幼生はしばらくの間、その卵嚢のそばでかたまりになって過ごす。これをまどいということもある。その後、草の葉の上に登り、糸を風に乗せて飛んでゆく(バルーニング)』とある。卵嚢を保守する画像は例えばこれがよい。]

 

 本能とか智力とか違つた名を附けては居るが、詰る所いづれ生存に間に合ふだけの神經系の働きであつて、これらの働きが敵に比して劣つて居ては生存が出來ぬから、代々少しづつ進歩し來つたのであらうが、その進歩の程度はいつも生存競爭に當つて敵に負けぬといふ所を標準とし、決してこれを超えて遙に先まで進むことはない。されば人間の智力の如きも、生存競爭に於ける武器としては漸く間に合つて行くが、素より絶對に完全なものではなく、特に生存競爭以外の暇仕事の方面に向けて働かせる場合には、その結果は頗る當てにならぬものと思はれる。本能によつて働く昆蟲や「くも」は、その境遇を變へて試して見ると盛に無駄な仕事をするが、智力の方もこれと同樣で、當然働かせるべき方面以外に向けて試して見ると、大間違ひの結論に達することがあるから、そのため今後も隨分無駄な骨折りをなし續けることであらう。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 若江嶋 若宮

   若江嶋 若宮

 それより光明寺、六角の井。飯島より小坪道(こつぼみち)あり。若江(わかえ)の嶋(しま)は波打際(なみうちぎは)に、いろいろの形したる岩ども、いくつとなく、ならびたちて景色よし。若宮は、昔、鶴が岡八幡宮、此ところにありしを、賴朝公、今の處(ところ)にうつし玉ふ。その跡を若宮といふ。いたつて絶景の所なり。
〽狂 こゝに
 きて
じゆめう
 のびたる
こゝちせり
 いつもわかえの
  しまの
     けしきに
旅人
「もしもし、物がとひたい。儂(わし)の癖で、うつくしい娘の給仕でなければ、飯がくへぬが、なんと、この辺りに、よい娘のある旅籠屋(はたごや)があらば、をしへてください。」
「うつくしい娘のある内(うち)なら、この先の大きな内へとまりなさい。あすこの娘に給仕をさせたら、さぞかし、飯がうまくくへませう。」
「それはうれしいが、その家は、旅籠屋でござるかの。」
「いやいや、宿屋(やどや)ではない。大盡(じん)の家だから、人はとめますまいが、しかし、『ゆきくれて難儀いたします、どうぞ、とめてください』とたのんだら、報謝(ほうしや)にとめるかもしれぬ。そのかはり、庭の隅に筵(むしろ)でもしいてねさせませうから、その娘に給仕をさせるかはり、娘のくひのこした物でももらつて、あがりなさい。そのかはり、旅籠はとらず、報謝に、たゞとめるでござらう。」
「そんなら、娘に給仕をさせるよりか、たゞとめてくれるなら、錢(ぜに)がいらぬでよいから、そんなら、それにいたそふ、それにいたそふ。」
[やぶちゃん注:絵の右手、闘犬まがいに子どもらが犬を仕掛けて遊んでいるさまが面白い。また、冒頭で当時の「若江嶋」(和賀江島)の様子が語られるが、恐らくは現在よりももっと突兀とした奇岩の奇景があったこと、また、現在よりも遙かに内陸へ湾曲していた由比ヶ浜の、由比の若宮からのその景観が「絶景」と称するほどのものであったことなど、古きよき時代の浜の景観が偲ばれる。後半の小話は、乞食として一夜の宿を乞うというオチで、表面上はたいして面白くもないが、もしかすると、ここには、今までのような何かセクシャルな隠語(符牒)が隠されているのかも知れない(と思うようなった私は一九の猥雑なる詩想にかぶれたのかも知れぬ)。識者の御教授を乞うものである。]

緑なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな 萩原朔太郎

綠なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九四四)年十一月十一日附上田静栄宛書簡(昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集書簡番号七四七)より。死の凡そ七ヶ月前の短歌である。但し、「緣なす」とあるのを「綠なす」に直し、最後の読点を除去した。以下に、書簡全文を示す(踊り字「〱」は正字化し、誤字は後に〔 〕で正字を示した)。

 

 度々御手紙や御詠歌をいたゞき、いつも感慨深く拜見して居ります。特に先日は、わざわざ好物の御見舞まで御持參下され、何とも御厚情御禮の申しやうもございません。

 小生の病氣も、風邪が原因でしたが、それから轉化して紳〔神〕經衰弱症になつてしまひました。今では生理的に大した異狀が無いのですが、紳經衰弱が烈しくなり、戸外に出る事が非常に恐ろしく、一歩も病室から出られません。人に逢ふことは絶對に厭やなので、家人でさへも、用事以外の場合はできるだけ避けるやうにして居る仕〔始〕末です。いつになつたらこの病氣が治るのか、自分ながら到底解りません。何かのチヤンスで、急に心氣一轉したら、明日にでも治るやうな氣がしますが、今の所我ながら心細い次第です。どうも自分の考では、この病氣の原因には、桶〔樋〕口一葉が崇〔祟〕つてゐる如く思はれます。あの退屈な歌を何百首となく、後から後からと持ちこまれたので、それが妙に氣になつて紳〔神〕經を病み出したのが、病氣の前兆のやうに思はれます。もつともその時既に紳〔神〕經衰弱にかかつて居たので、原因と結果が逆になつてたのかも知れません。

 

 御手紙の模樣では、貴女も思想的に大分惱まれて居る御樣子ですが、哲學書に親しまら[やぶちゃん注:「ら」は衍字。]れることは、さういふ際に大へん結構と存じます。僕も靑年時代には、いはゆる「人生の懷疑病」といふ奴にかかり、疑問を解決しようとしようとして、古今の哲學書を片つぱしから濫讀しました。お影で、プラトンを始め、ニイチエ、ベルグソン、シヨペンハウエル、カント、ゼームス等の哲學大要に通じましたが、結局何も得る所はなく、もとの默〔木〕阿彌に終りましたが、とにかく耽讀してゐる中だけは樂しみでした。つまりそれだけ得したわけでした。

 

 この頃よく夢を見ます。數日前には江の島へ遊んだ夢を見ました。小生はよく色彩のある夢を見ますが、江の島の風景が天然色映畫のやうに綺麗でした。

緣〔綠〕なす浪の江の島夢にして人と降りし岩屋道かな、

 

 こんな駄歌をさめて作りました。

 

 今日は少し氣分が好いので手紙をかきました。

                    萩原朔太郎

 上田靜榮樣、

 

上田静栄(旧姓友谷 一八九八年~一九九一年)は女流詩人。大阪生(底本全集の七四七書簡注では山口県生とする)。京城(現在のソウル)の女学校を卒業後、文学を志して上京。田村俊子の内弟子となった。大正一三(一九二四)年に林芙美子との二人誌『二人』を発行し、また、岡本潤や小野十三郎とも同棲するなど、ダダイズムやアナーキズムの詩人たちとの交流の中で詩を書き始める。しかし、その後、『薔薇・魔術・学説』『馥郁たる火夫よ』『詩と詩論』などで活躍していたシュールレアリスト上田保と結婚、モダニズム詩へ向かった。代表作は第一詩集「海に投げた花」(昭和一五(一九四〇)年)。以上は関富士子氏のHP「rain tree」の金属と鉱石の打軋る中へ上田静栄の記載を参照した。書簡中の「桶〔樋〕口一葉が崇〔祟〕つてゐる」というのは、新世社刊の「樋口一葉全集」第五巻(昭和一六年十月刊)の編集を指す旨の注記が底本とした筑摩版全集にある。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十五(一九五〇)年

昭和二十五(一九五〇)年

振り上ぐる鍬を北風來ては砥ぐ

夜の崖の大きさ暗さ蟲絶えて

しゆうしゆうと鉋屑大工透き通る

[やぶちゃん注:「しゆうしゆう」の後半は底本では踊り字「〱」。]

耳嚢 巻之六 桶屋の老父歌の事

 桶屋の老父歌の事

 ある桶や老父、その子に、世の中の人の交(まじは)りを教訓して詠(よめ)る由。
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも

□やぶちゃん注
○前項連関:狂歌シリーズ。標題は岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では「桶屋の老商歌の事」とある。
・「木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも」「木に竹の無理はいふ」は、性質・内容の異った対象を無理矢理繫ぎ合わせるの意の「木 に竹を接(つ)ぐ」の諺の、筋が通らないことを言う、の意であり、また木は桶の本体、竹は箍の素材であるから「桶」の縁語ともなる。「そこがおや」の「そこ」は桶の「底」に掛けてあり、「おや」は親とその職業の「桶屋(おけや)」の意味にも響き合う。「いはせて桶や」は「言はせて置けや」に、「たが笑ふとも」の「たが」は「誰(た)が」と桶の「箍(たが)」を掛け、また、「たが笑ふ」は「箍が笑ふ」で、桶が朽ちて箍が緩んで水漏れする(「箍が笑う」)の意を掛ける。因みに「箍が笑う」の先には、さらに腐食が進んで、箍を締め直したぐらいでは水漏れが止まらず、腐った一部を補修してもまた、別の箇所から水漏れすることを言うところの「桶が笑ふ」を響かせていよう。カラオケ風に訳そう。
――儂は桶屋なればこそ桶尽くしにて候――
♪木に竹を ♪接ぐよな無理を ♪言うとても ♪桶は大事な底(そこ)が親 ♪言わせて桶(おけ)や ♪箍笑(わろ)うても
市井の無名人の狂歌ながら、和歌嫌いの私でも、技巧も歌意も非常に優れた狂歌であると思う。

■やぶちゃん現代語訳

 桶屋の老父の狂歌の事

 ある桶屋の老父、その子に、世の中での人との交わりの教訓として詠んだ由。その歌、
  木に竹の無理はいふともそこがおやいはせて桶やたが笑ふとも

一言芳談 九十

   九十

 

 法然上人の云、道心をば、ぬすみて發(おこ)したるがよきなり。

 

〇道心をばぬすみて、元曉(ぐわんげう)法師の持犯要記(ぢぼんえうき)にも内淨外染(ないじやうげせん)をほめられたり。古人眞實に道心ありしは、狂せるがごとくして、名利(みやうり)をいとひ、内行(ないぎやう)まことありけり。

 

[やぶちゃん注:「元曉」(六一七年~六八六年)「げんげう(げんぎょう)」とも読み、新羅(しらぎ)の華厳僧で新羅浄土教の先駆者。俗姓は薛、名は誓幢・新幢、新羅の押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれ、興輪寺の法蔵に華厳を学び、六五〇年に渡唐を図るも、高句麗軍のために失敗、六六一年に再び試みたが、その途次、溜まり水を飲んだところがその溜まっていたものが人の頭蓋骨であったことを知った瞬間、「真理は遠くにあるものではない。枕元で甘く飲めた水が、起きた後に骸骨に溜まっていたことを知った時、気に障り吐きたくなった。だが、世の中への認識は心にこそある」と悟って帰った。その後は華厳学の研究に専念し、二四〇巻もの著作を成した。ある日、元曉が街で「誰許沒柯斧 我斫支天柱」という歌を歌った。誰も意味が分からなかったが、武烈王だけは意味が分かって未亡人だった瑤石宮の公主を嫁がせた。その後、元曉は「小姓居士」と名を変え、芸人が与えた瓠(ひさご)に華厳経の「一体無碍人」から採った「無碍」という名を付けて、それをぶら下げて行脚しては歌を作り、仏教を庶民に普及させた。弟子審祥が日本に華厳宗を伝えたため、東大寺を始めとする南都諸寺院で持て囃されるようになり、高山寺にある「華厳縁起」には元暁にまつわる様々な伝説が語られている、という(以上はウィキ元暁を参照したが、一部、表現を勝手に書き換えた箇所がある)。

「持犯要記」正しくは「菩薩戒本持犯要記」。

「内淨外染」本邦では激しい弾圧を受け続けた日蓮宗の不受不施派などに於いて、身心二元論的な信仰の在り方を述べるのに用いられているようである。即ち、非合法故に外見からの身体は他宗他派に染まっているので外染と言うも、内心は不受不施を堅く信じてやまない故に内浄という。管見した部分的な「菩薩戒本持犯要記」の記載の中には「内淨外染」なり文字列は見当たらなかったが、注の後半から見ても、ここは非常に広義な意で、他者や世間の外界と接する外見の身体は、現実に置かれているところの、よんどころない思想や教派や習俗に染まってしまって気違い染みているように振る舞いながら(まさに前段で私が言った「佯狂」である)、その実、内心は常に南無阿弥陀仏の教えを信じて透明に浄化して澄み渡っている、といった意味合いと思われる。

「内行」外に顕わさず、内に秘めて行ずること。]

2013/02/18

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松葉谷安國寺 普陀洛寺

   松葉谷安國寺 普陀洛寺

 

松葉谷安國寺(まつばがやつあんこくじ)は、日蓮上人、房州よりこゝにこもり、「安國論」をあらはし玉ふところなり。こゝに妙法櫻(めうふさくら)といふ名木(めいぼく)あり。佐竹屋敷、名越道(なごしみち)の方(かた)にあり。佐竹四郎秀義の舊跡なり。日蓮水(にちれんすい)、御猿畑(おさるばたけ)も皆(みな)、この名越坂(なごへさか)のほとりなり。

〽狂 ぢゝばゝのまいりおほきは

 たかさごのまつはかやつの

     そしどうにこそ

参詣(さんけい)

「日蓮さまが、此お寺で『安國論』といふ書物をおかきなさつたといふことだが、儂(わし)の頰(ほう)ぺたへできた、『たんこぶろん』は、いろいろにしても、なをらぬゆへ、「安國論」をおかきなされた祖師さまだから、『たんこぶろん』もご存知であらう。どうぞ、なをりますやうに、とおたのみ申したら、その晩に『たんこぶ』はなをつたが、また、金玉(きんたま)へ『たんこぶ』ができて、金玉がふへたから、金のふへるはめでたい。これも御利益であらうと、お禮參りにまいりました。」

長勝寺(てうせうじ)は名越坂(なごへざか)の西にあり。天照山(てんせうざん)の社(やしろ)、普陀洛寺(ふだらくじ)の觀音(くわんおん)。この先、三浦道寸(どうすん)の城跡(しろあと)あり。

〽狂 此けしきあかず三うらの

  しろあとやうてう

てんせうさんのながめに

「儂は貴樣の見るとほり、酒がすきだから、酒屋を見るたびに酒がのみたいけれど、俺(おれ)ばかりはのまれず、貴樣にものませるから、貴樣だけ、よけい錢がいるゆへ、儂もこらへて、のみたいの辛抱しているが、貴樣、かへるまでは酒をやめてくれぬか。どうだ、どうだ。」

「これは。旦那(だんな)には、おなさけないことを。私(わたくし)、酒は飯よりすきでござりますものを。命にかへてもやめられませぬ。その思(おぼ)し召しなら、いつそのこと、私(わたし)をころしてくださりませ。しかし、そのころす前に、一杯のましてころさるゝは本望(ほんまう)、しんでもいきかはり、しにかはり、幽靈になつて、後引(あとひき)にあらはれます。」

[やぶちゃん注:「妙法櫻」岡部事務所編集の「鎌倉手帳」の「鎌倉寺社巡り その4」にある「安国論寺の妙法桜」に、『安国論寺の御小庵の横に植えられている山桜は「妙法桜」と呼ばれて』おり、『日蓮が持っていた杖を突き刺すとそれが根付いたとされる桜』で、『正式の名称は「市原虎の尾」』と呼称される品種で、『さかさ木で直立には育たず横に広がるという性質を持っている。八重でめしべ一本が杖の形をして外へ飛び出している』『市の天然記念物に指定されている古木』とあって現存する。樹齢七六〇年『ともいわれる古木のため、枯死が心配されて』いたが、『住友林業の研究所によって後継樹の育成が行われて』、平成二三(二〇一一)年にはその苗木が公開されて、境内に植えられた。根付けば三年ほどで花を咲かせるという、とある。リンク先で花も見られる。

「佐竹屋敷」「新編鎌倉志卷之七」に、

〇佐竹屋敷 佐竹屋敷は、名越(なごや)道の北、妙本寺の東の山に、五本骨(ぼね)の扇(あふぎ)の如なる山の疇(うね)あり。其の下を佐竹秀義(さたけひでよし)が舊宅と云。【東鑑】に文治五年七月廿六日、賴朝、奧州退治の時、宇都宮を立ち給ふ時、佐竹の四郎秀義、常陸國より追つて參じ加はる。而して佐竹が所持(持つ所の)旗、無紋の白旗(しらはた)也。二品(にほん)〔賴朝。〕是を咎め給ひ、仍つて月を出だすの御扇(あふぎ)を佐竹に賜はり、旗の上に付くべきの由仰せらる。御旗と等しかるべからざるの故也。佐竹、御旨(むね)にしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹の家これを以て紋とす。此山の疇も、家の紋をかたどり作りたるならん。又【鎌倉大草子】に、應永二十九年十月三日。佐竹上總の入道、家督の事に付て、管領持氏の御不審を蒙り、比企谷に有けるが、上杉憲直(うへすぎのりなを)に仰せて、法華堂にて自害して失ぬ。又其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり。其の祠シ今はなし。此地佐竹代々の居宅とみへたり。法華堂は、比企が谷妙本寺の事なり。

とある。現在の大町にある大宝寺(文安元(一四四四)年創建)の境内が同定されており、その境内には、佐竹氏の守護神社であった多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。これは「其靈魂祟をなしける間、一社の神に祀りけるとあり」とは無関係なのであろうか?(私には「大多福稲荷大明神」という呼称自体がこの御霊の封じ込めであるように思われるのだが) 更に言えば何故、「新編鎌倉志卷之七」には当時あったはずの大宝寺の記載がない。識者の御教授を乞う。以下、私の「新編鎌倉志卷之七」でのここでの注を転載する。

「佐竹秀義」(仁平元(一一五一)年~嘉禄元(一二二六)年)。佐竹家第三代当主。頼朝挙兵時は平家方につくが、後に許されて家臣となり、文治五(一一八九)年の奥州合戦で勲功を挙げて御家人となった。建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に随行、承久三(一二二一)年の承久の乱では老齢のために自身は参戦しなかったものの、部下や子息を参戦させて幕府に忠義を尽くした。彼はこの名越の館で七十五歳で天寿を全うしている(以上はウィキの「佐竹秀を参照した)。「文治五年」は西暦一一八九年。「應永二十九年」西暦一四二二年。「佐竹上總の入道」佐竹与義(ともよし ?~応永二十九(一四二二)年)佐竹氏第十六代当主佐竹義篤の弟師義の子で、佐竹山入やまいり家第三代当主。常陸国久米城(現在の茨城県久慈郡)城主。鎌倉府と結託していた佐竹宗家との抗争の果て、応永二十三(一四一六)年の上杉禅秀の乱で禅秀方に参加、持氏方の佐竹義人らを攻撃して乱後も執拗に抵抗を続けたが、鎌倉公方足利持氏の討伐によって、比企谷法華堂で一族諸共に自害した。家督は嫡男義郷、次いで彼の弟祐義が継いだが、宗家との抗争は山入一揆として継続し、与義の死後八十数年後の永正元(一五〇四)年、与義玄孫氏義が滅ぼされるまで続くことになる。本文中に持氏の佐竹討伐の理由を「家督の事に付て」と述べているのは、この宗家との骨肉の抗争を指すようである(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」の市村高男氏の記載に拠った)。私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の項に、「佐竹上総介入道山入与義主従十三人の塔の図」がある。参照されたい。「上杉憲直」宅間ヶ谷上杉氏。持氏の側近中の側近であったが、後に幕府軍に敗北した持氏に裏切られて敗死した。

「まつはかやつの」この狂歌のここは、爺婆の「待つ墓」の意を掛けるか。

「儂の頰ぺたへできた、『たんこぶろん』」「たんこぶろん」は「立正安国論」の「あんこくろん」の音に掛けたわけだが、私はこの男の「たんこぶ」が気になるのである。治癒のすぐ後に睾丸に新たな腫瘤が出来たというところからは私は高い確率で、この人物は性病に罹患している可能性が高いように思うのである。軟性下疳菌や梅毒トレポネマの同時若しくは一方の罹患による大豆大のしこりが発生する硬性下疳(げかん)等である。男性の場合は陰茎部などに多く発生するが、口唇部での出現もしばしば見られる。当時の性感染症としては頗る普通に蔓延していた。

「天照山の社」次の項に出る天照山光明寺境内にある稲荷社であろうか。近世の建立。

「三浦道寸の城跡」住吉城址。私はこの今や忘却の彼方に消えつつある、城址を欠かさずに書いて呉れた一九が、何となく好きである。

「後引」飽きることなく現われては、次々に物を欲しがることを言うが、多くは酒についていうから本場面にはぴったりで、またこの語には、酒などを注(つ)いだ際に酒が銚子の口を伝って滴ること、また、その滴りの意もあることから、実に美味い、基い、上手い謂いと言える。]

殺人事件 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。有意な漢字表記の平仮名化が奇妙な饐えた臭いをより醸し出すことに成功している。三つのシーンからなるシークエンスが、初出とこれでは句読点によって微妙にモンタージュが異なるように思われ、また初出の第一連のラスト・カット「九月上旬の殺人。」が第二連のファースト・カットとダブる編集は、如何にも古臭い弁士附きのサイレント映画であるのに対して、ここでは全体が正しくピストルの音のサウンド・エフェクトから始まり、エンディングのいっさんに辷ってゆく曲者の跫音(あしおと)を聴かせてくれる。]

殺人事件 萩原朔太郎 (初出形)

 殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裝をきて、
戀びとの窓からしのびこむ、
床(ゆか)は晶玉。
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれて居る、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いて居る
九月上旬(はじめ)の殺人。

九月上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裝をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた、
十字巷路(よつつぢ)に秋のふんすゐ、
はやひとり、探偵はうれひを感ず。

みよ、遠い寂しい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつて行く。
                ――一九一四、八、一二――

[やぶちゃん注:『地上巡禮』創刊号 大正三(一九一四)年九月号所収。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十四(一九四九)年

昭和二十四(一九四九)年

寢臺を鳴らし寢返り墓もなし

死者を夢み夜中の水に手をのばす

病廊を鼠逃るる老婆の死

嬰兒の死白衣を脱ぎて女醫歸る

降る雪を背に雪を這ふ龜なりき

颱風の街に血色の肉のみ賣る

耳嚢 巻之六 祝歌興の過たる趣向の事

 祝歌興の過たる趣向の事

 

 或人、狂歌なども一通りの趣向は面白からず、一ふしあるこそ嬉しけれと、祝歌(いはひうた)を望みしかば、去(さ)る滑稽の人詠(よみ)ておくりしと、

  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて

 

□やぶちゃん注

○前項連関:長寿の言祝ぎで連関。但し、この言祝がれる人物が実際に長寿であったかどうかは判然とせぬ。

・「土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて」正字表現で分かり易く書き直すと、

 土左衞門(どざゑもん)に君は成るべし千代(ちよ)よろづ萬代(ばんだい)過ぎて泥の海にて

「土左衞門」は無論、「泥の海」の溺死体であるが、「泥の海」の「泥」で「土」=泥まみれの遺体を掛ける。因みに、水に浮いた水死体を土左衛門と呼ぶのは江戸期からのことで、呼称の由来について、山東京伝の「近世奇跡考」巻一には「案ずるに江戸の方言に溺死の者を土左衞門と云ふは成瀨川肥大の者ゆゑに水死して渾身暴皮(こんしんぼうひ)ふとりたるを土左衞門の如しと戲れゐひしがつひに方言となりしと云」とある。水死の場合、死体は一旦は水底に沈むが、腐敗が始まると体内ガスが発生、更に組織が水を吸ってぶよぶよになり、体が膨満して真っ白になった様態で浮かび上がることがある。この様子が享保年間に色白で典型的なあんこ型体形(締まりのない肥満体)で有名だった大相撲力士成瀬川土左衛門に良く似ていたことからこの名がついたというものである。力士の四股名には伝統名として繰り返し襲名されるものが多いが、この土左衛門はこの成瀬川の後、一度も襲名されることがなかったという(以上の水死体の土左衛門についてはウィキ水死」の「土左衛門」の項に拠った)。

――泥まみれの土左衛門に――貴殿はきっとなるであろう――しかしそれは――千年万年もの――永い永い時が過ぎた――この豊葦原の国が――その上(かみ)の「くらげなすただよへる」泥の海へと戻る時――遠い遠い世になってからのこと……

というぶっとびの長寿の言祝ぎである。しかし、私はこの程度のものでは、凡そ「祝歌興の過たる趣向」とは思わぬ。だいたいが狂歌とはこういうものである。私なら喜んで押し頂き、成瀬川と河童が相撲を取る戯画を添えて床の間に飾るであろう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 祝い歌とは言えども興が過ぎたるおぞましき趣向の狂歌の事

 

 ある人、

「――狂歌などにても、そんじょそこらに御座る一通りの趣向にては――これ、最早、面白うない。――つ、巧みにヒネリの御座る一首こそ、嬉しいものじゃ。――どうか一つ、かような長寿の祝いの狂歌を――」

と望んだによって、さる滑稽の人、詠みて贈れる、その歌、

  土左衞門に君はなるべし千代よろず萬代すぎて泥の海にて

一言芳談 八十九

   八十九

 下津(しもつ)村、慈阿彌陀佛云く、竹原聖(たけはらひじり)がよき也。遠山(とほやま)の紅葉(もみぢ)、野辺(のべ)の一樹(いちじゆ)などの樣に、人目にたつはあしきなり。

〇竹原聖、竹の林は人目たつまじければ、たゞ人知れぬといふ心なり。(句解)
〇人目にたつ、人のうやまひをうけて、自然(じねん)に名聞(みやうもん)になるなり。異をあらはして、衆(しゆ)をまどはすをいましめ給へり。古德も、狂(きやう)をあげ、實をかくせと教へられたり。

[やぶちゃん注:「下津村」旧和歌山県海草郡下津町、現在の海南市下津町。熊野古道の往来地。Ⅱの大橋氏の注に、下津浦『のある紀伊国浜南荘は、藤原摂関領であったが、久安二年(一一四六)高野山の金剛心院に修理料として寄進された』とある。
「慈阿彌陀」不詳。
「竹原聖」とは、本言説のパラドックスとして如何にも風流な響きを残す名ではないか。……私の亡き母は婚姻して「藪野聖子」となったが、母はしばしば幼少期と同じく「藪野聖」と自分でも書き、人もかく「せいちゃん」と呼んだ。しかれば母はその名も正しく藪野の聖=竹原の聖であったのであった――母の生涯は――まさに――竹林の藪の――在野にあって名を隠した理想の――聖テレジア(母の若き日の洗礼名)であったのであった……
「古德」昔の、徳を積んだ人。いにしえの聖(ひじり)。
「たゞ人知れぬといふ心なり」Ⅱの大橋氏注の引用では『たゞ知れぬと云心也』とあって「人」がない。
「狂をあげ」狂人のふりをすること。佯狂(ようきょう)である。]

2013/02/17

雛祭 私のいっとう好きな大鼓と小鼓

これぞ――プエル・エテルヌス……

Goninbayasi3

雛祭 殿と姫

Sinnnou

雛祭 官女

Kanjyo1

雛祭 最上段御殿

Gotenbubunn

雛祭 笛と謡

Goninbayasi2

五人囃子 太鼓と大鼓

Goninnbayasi1

雛祭 五人囃子

Goninbayasi

雛祭 左大臣

Sadaijinn

雛祭 右大臣

Udaijinn

雛祭 仕丁

Sityo

雛人形 調度

この調度類だけは明治末期のもの――細工がとてもいい――
Tyodo

雛人形 全景

僕の妻のもの――僕と同い年の56歳になる人形たち――実に10畳の居間の1/4を占拠する過激派のような雛飾りなんである――


Zen2

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 三 本能 / 本日は雛飾りのためこれにて閉店致します 店主敬白

本日は、雛祭のための雛飾りに入るため、本テクストの公開を最後として閉店致します。悪しからず。

   心朽窩主人藪野直史敬白


    三 本能

 

 動物の中には、人間が智力によつてなすこととよく似たことを、生まれながら自然になし得るものがあるが、本能とは初めかやうな場合に當て嵌めて用ゐた言葉である。例へば、蜜蜂がその巣に規則正しい六角形の部屋を造ること、蠶が蛹になる前に丈夫な繭を造つてその内に隱れること、「くも」が巧に網を張つて昆蟲を捕へること、「ありぢごく」が摺鉢狀の穴を掘つて「あり」を陷れることなどは、いづれもその動物に取つて大切なことであるが、少しも他から習つて行ふのではなく、生まれたままで、何らの經驗もなく、何らの練習もせず直に着手してしかも間違ひなく成功する。これが如何にも不可思議に見えるので、人間の智力などと區別して、この働きを本能と名づけた。特に昔は何とかして人間と他の動物との相隔る距離をなるべく大きくしたいとの考から、人間には智力があるが動物には決して智力はない。動物は如何に巧に目的にかなうた擧動をしても、これは本能によるのであつて決して人間の如くに知惠を働かせた結果ではないと、説いた學者が多かつた。かやうな次第で昔は本能の範圍をきわめて廣くし、動物のなすことならば何でも本能によると見做したが、近來はまた本能の意味を非常に狹くして、その大部分を反射作用の中に入れる人もある。本能といふ言葉の定義に就いては今日なほ議論の最中であるが、こゝには面倒な論を省いて假に經驗にもよらず、智力をも用ゐずに、生活の目的にかなうた行爲を自發的になすことを本能と名づけ、その著しい例を幾つか掲げるだけとする。

[やぶちゃん注:以下に、ウィキの「本能」から、定義・概要・議論史・ヒトの本能・自然主義的誤謬の箇所を引用しておく(記号の一部を変更・省略、一部にリンクを施した)。

   《引用開始》

メリアム=ウェブスター辞書では本能を次のように定義している。「判断を伴わず、環境の刺激によって引き起こされる個体の複雑な反応で、遺伝的で変更がきかない」。しかし本能という用語は歴史的に非常に多くの意味で用いられてきた。現在でもしばしば全く異なる意味で用いられる。従って本能という語が使われた場合、それがどのような意味で用いられているのかを確認する必要がある。動物行動学者パトリック・ベイトソンは代表的な意味として次の九つをあげた。

1 生まれたとき、あるいは発達の特定の段階で存在する性質。

2 学習なしでも存在する性質。おそらくもっとも一般的な用法。

3 遺伝的である性質。高い確率で世代を超えてみられる性質。

4 進化の過程で形成された性質。

5 役に立つようになる前にすでに発達している性質。

6 種・性・年齢などを同じくするグループに共通する性質。

7 動物の行動の一部。例えば狩猟、体を綺麗にするなど。

8 専門化された神経構造を持つ性質。現代神経科学・認知科学ではこの意味で用いられる。例えば顔認識・感情・表情などを司るモジュール。

9 発生的に強靱で、経験からの影響を受けない性質。発生生物学で用いられる。

精神分析では本能を性や攻撃行動に関連する情動として説明する。エロスやデストルドー[やぶちゃん注:フロイトの提唱した死の本能。タナトス。]と呼ばれることもある。

概要

通俗的には母性本能、闘争本能などのように性質を現す語を伴い○○本能という形式で使うことも多い。

専門分野では通常は本能という語の使用は避けられる。動物行動学の他、心理学、神経行動学、神経生理学などの分野では特定の行動に対して本能行動という表現を用いるが、本能の概念とは異なる物である。このばあい対概念は学習行動である。

行動は「本能的なもの」と「非本能的なもの」というように二種類に分けて論じられることが多い。また経験は行動の獲得に、遺伝子は本能に影響を与えると言及される。しかしこのような単純な二分法には動物行動学者からも反対がある。例えばハキリアリは分業化が非常に進んでいるが、分業は与えられた食物によって決まる。同じ遺伝子型が全く異なる行動の表現型を生み出す。望むだけ食事をした母ラットの子は体が大きくなるが、少ない量の食事を与えられた母ラットの子は体が小さい。後者の子ラットは豊富な食事を与えられれば食べ続け肥満となるが、しかし前者の子はそうしない。子ラットの行動(本能)は母胎の状態の影響を受ける。カッコウのオスは幼鳥の時代に遠くで鳴く同種のオスの鳴き声を聞いて求愛のさえずりを学習する。しかし他種のオスのさえずりを学習することはない。このように行動は発達過程で遺伝子、母胎の状況、環境と経験など様々な要因の影響を受け形作られる。したがって、ベイトソンの視点では、行動を学習と本能という二つに分ける事は行動の理解の役に立たない。行動を学習か生まれつきかで二分しない立場は行動生態学などでは標準的である。

これは生物の性質のどのような側面に注目するかの違いでもある。神経行動学などではある神経の構造や働きが行動にどのように影響を与えるかに注目するため、学習の影響を受けない固定的な行動が研究の対象となりやすい。一方で学習そのものも遺伝的な基盤があり、進化によって形作られたいわば「本能」であり、行動生態学の視点ではどの程度学習や経験の影響を受けるかの程度の差でしかない。

議論史

動物行動学の創始者コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンは動物行動の生得性を強調した。これは当時の心理学や動物学の一部で力を持っていた行動主義に対する反発であった。例えばバラス・スキナーは動物の脳には「報酬と罰によって強化される単一の汎用学習プログラム」が作動しているだけだと仮定した。初期の動物行動学者は生得性を単なる現象としてではなく適応、すなわち進化的に形成され生存と繁殖成功に役立つ能力と考えた。適応の視点からは、動物が生まれつき行動に方向性を持っている事は合理的に説明できる。ローレンツの主張した本能は、しかし遺伝決定的な概念であった。アメリカの発達生物学者ダニエル・レーマンはローレンツが発達を無視していると指摘した。ある行動が種に普遍的に見られるからと言って全て先天的に形成されていると考える理由にはならない。例えばカモの刷り込みは本能的だとしても、「何を親と認識するか」は経験の産物である。後にティンバーゲンは生得性を強調しすぎたと述べ、レーマンの視点を支持した。

ヒトの本能

人間に本能があるかどうかはながらく議論の対象であった。しかし前述の通り人間に本能があるかどうかは「本能」の定義次第である。一般的に人間に本能行動はほとんど無いかわずかであると見なされている。また社会学、哲学、心理学の一部では本能を「ある種の全ての個体に見られる複雑な行動パターンで、生まれつき持っており、変更がきかない」と定義する。この定義の元では性欲や餓えも変更がきくために、本能とは言えないと主張される。極端な行動主義や環境決定論においてはあらゆる種類の「本能」が否定され、行動はすべて学習の結果として説明される。

一方で認知科学、人間生物学(特に社会生物学や人間行動生態学、行動遺伝学)などの分野では人間に本能を認める。ただし本能という語ではなく、生得的、遺伝的基盤がある、生物学的基盤がある、モジュールを持つ、と言うような表現を用いるのが通例である。これらの分野で用いられる「本能」は3・4・8の意味のいずれかである。この場合、本能的と見なされることが多い性質には次のような物がある。言語の獲得・利他主義や嫌悪などの感情・ウェスターマーク効果[やぶちゃん注:“Westermarck effect”とは幼少期から同一の生活環境で育った相手に対しては、生長してからは性的関心を持つことが少なくなるとする心理仮説。フィンランドの哲学者・社会学者エドワード・ウェスターマークが一八九一年の自著「人類婚姻史」で提唱したとされる(リンク先のウィキの「ウェスターマーク効果」に拠る)。]・学習バイアス(例えば甘い物はすみやかに好むようになるが、苦みや渋みは好みとなるのに時間がかかる)など。また類人猿と人間では公正さの感覚も本能的であると考えられている。

やや特殊ながら、ほとんど全人類に共通の好意的な挨拶を紹介しておく。まず目を見つめ、眉を少し上げ、数秒そのままで、それから頷くというものである。これは、大人が赤ん坊を見て、あやそうとするときには自然に現れる。ヒューマン・ユニバーサルズも参照のこと。

自然主義的誤謬

本能という語は「戦争がなくならないのは人間に闘争本能があるためだ」のように特定の『好ましくない』とある社会やある立場の人間がみなす行為(攻撃行動、人種差別、性差別など)を正当化する際にも用いられる。また逆に、そのような説明は好ましくない行為を正当化するために行われているという非難を伴うことがある。しかしある性質が本能的であることと、それが倫理的、道徳的に好ましいかどうかは別の問題である。「説明」(○○は本能的である)から「規範」(○○と振る舞うべきである)を引き出すことを自然主義的誤謬、逆に規範から説明を引き出す事を道徳主義的誤謬と呼ぶ。自然に訴える論証も参考のこと。

   《引用開始》

専門分野で「本能」の語使用が避けられるのは、今や寧ろ、その定義の内包や外延よりも、最後に記された自然主義的誤謬が頻繁に発生するからであるように私には見受けられる。]

Koujitusei

[植物の向日性]

 

 植物の種から芽の出るとき、莖になるべき方は必ず上に向つて延び、根になるべき方は必ず下へ向つて伸び、如何に位置を轉倒して置いても、その後に生長する部は必ずこの方角に向く。若し植物にこの性質がなかつたならば、種子から芽生えの生ずるとき、根が空中に向ひ、葉が地中に入り込んで、生活の出來ぬことも屢々あらうから、この性質は植物の生活に取つては極めて大切なものであるが、これなども、經驗にもよらず、智力をも用ゐずしてなすこと故、やはり一種の本能と見なして差支がなからう。また芽生えの植物に箱を被せて光を遮り、たゞ一方にのみ窓を開けて置くと、莖は光の來る方角に向ひ揃つて斜に延びる。これは植物の生活に缺くべからざる日光を出來るだけ十分に受けるに必要な本能であるが、日光といふ刺戟に遇うてこれに應ずる運動をするのであるから、一種の反射作用といふことが出來る。その他植物の葉がなるべく日に當るような位置に向くことも、根が濕氣の多い方へ伸びることも皆本能であつて且反射作用でもある。

Biba

[ビーバー]

 

 動物が餌を捕へ食ふためにさまざまの手段を用ゐることは、前に若干の例を擧げて述べたが、その中の多くは本能による働きである。「くも」が網を張るのも、「ありぢごく」が穴を造るのも、皆生まれながらにその能力を具へて居るので、どこに置いても獨力で巧に餌を取る裝置を造り上げる。これは人間に譬へていへば、恰も工業學校を卒業しただけの學力を、赤子が生まれながら持つて居るわけに當るから、人間からは如何にも不思議に思はれるが、廣く動物界を見渡すとかやうな例は幾らでもある。獸類の中でも北アメリカの河に住む「ビーバー」などは大規模の土木工事を起すので名高いが、これをなすには、まづ多數の「ビーバー」が立木の幹を前齒で囓つて倒し、長さ一米乃至二米位の手頃な材木を幾つとなく造る。次にこれを用ゐて森林の間を流れる河を堰き止めるのであるが、そのためにはこの材木を河底に縱に埋め込み、別に枝を以てその間を繫ぎ、葭の類で空隙を閉ぢ、泥を塗つて堤防を造り終る。出來上つた堤は長さが二〇〇米もあり、高さは二米、幅は四―五米もあるから、獸類の仕事としては隨分驚くべき大きなものである。この堤防のために、河の水は堰き止められ廣い湖水の如き處が出來るが、「ビーバー」の住處としてはこれが尤も都合が宜しい。「ビーバー」は足に蹼を具へた水獸で、敵に遇へば直に水中に逃げ込み、泥で巣を造るに當つても、一方は水中へ逃げ出せるやうに道が附いてあるから、淺い水が廣い面積の處に擴がつて居るのは生活に便利である。「ビーバー」が多數力を協せて堤防を造るのは、即ち自分等の生活に都合の宜しい場處を造るためであるが、これらは動物の本能の中でも隨分著しい方であらう。「ビーバー」は動物園に飼うてあるものでも、材木を與へるとこれを囓つて手頃の大さとし、堤防用として幾つも揃へる所を見ると、この動物の神經系は、現在の境遇の如何に拘らず、先祖代々の因襲に從つて、働くものと思はれる。

[やぶちゃん注:「ビーバー」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属Castor(一属のみ)の、北アメリカ大陸に生息するアメリカビーバー Castor canadensis。他にもう一種、ヨーロッパ北部・シベリア・中国北部に生息するヨーロッパビーバー Castor fiber がいる。和名は海狸(かいり/うみだぬき)。]

Sukasidawara

[すかし俵]

Turigamasu

[つりがます]

 

 蝶蛾類の蛹時代は、芋蟲・毛蟲などの幼蟲から、大きな翅を具へた成蟲に形の變る過渡時代で、外面からは實に不活潑に見えるが、内部は極めて忙しい。しかも運動の出來ぬ時期であつて、敵に襲はれた場合に逃げも隠れもせられぬから、多くの蝶蛾類では前以て繭を造つて、豫め自身を護る工夫をする。蠶の繭は單に俵の如き形であるが、他の種類の繭には隨分、形の變つた面白いものも少くない。栗蟲の幼蟲には白色の長い毛が一面に生えて居るので、一名を白髮太郎といふが、これが蛹になる時には、内部のよく見える網狀の繭を造る。俗に「すかし俵」と呼ぶのはこれであるが、空氣の流通を妨げずして、しかも大抵の敵を防ぎ得るやうに頗る巧に出來て居る。また山繭に似た一種の蛾は恰も袋を一端で吊した如き形の「つりがます」と名づける繭を造る。これらはいづれも隨分面白く出來て、考へて見れば實に不思議であるが、路傍の雜木林に普通にあるから、誰も見慣れて不思議とも思はぬ。更に巧妙な繭には次の如きものがある。即ち卵形の繭の一端は閉ぢ一端は開いてあつて、開いた端の孔の周圍からは、硬い絲が筆の穗の如き形に外へ向いて竝んで、孔の入口を閉ざして居る。その有樣は恰も一種の辨の如くで、繭の内から成蟲が出るときには、これを押し開いて何の妨げもなく出られるが、外からは何物も繭の内へ入り込むことが出來ぬ。そして、かやうに巧なものを造るのも本能の働きである。

[やぶちゃん注:「栗蟲」これは蛾の一種で、幼虫がクリの毬(いが)の上から果実に食い入る害虫として知られるところの鱗翅(チョウ)目ハマキガ科ヒメハマキガ亜科クリミガ(別名クリオオシンクイガ)Cydia kurokoiの通称であるが、この種には以下に見るような特異な変態は見られないので、これは丘先生の誤りと思われる。以下の注も参照されたい。

「白髮太郎」「すかし俵」普通、こう呼称するのは鱗翅目ヤママユガ科ヤママユガ亜科 Saturnia 属クスサン Saturnia japonica の幼虫と繭である。以下、ウィキの「クスサン」から引用すると(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、クスサン(楠蚕)『はチョウ目・ヤママユガ科のガの一種。身近に生息する大型の蛾であり、幼虫、蛹に別名がある』。『日本全土の他、中国、台湾にも分布』し、『成虫は開張一〇〇ミリメートル以上、褐色の大きな翅を』持つ。『幼虫はクリ・クヌギ・コナラ・サクラ・ウメ・イチョウ・クスノキなど様々な樹木の葉を食べる。年一回の発生。卵で越冬し、幼虫は四~七月に出現する。幼虫は体長八〇ミリメートルにも及ぶ青白色の大型のケムシで、白色の長毛を生やしているためにシラガタロウと呼ばれる』。『七月前半頃に楕円形の固い網目の繭を作って蛹になり、九月から十月にかけて羽化する。繭は糸を寄り合わせた楕円形のものだが、壁面は網目状に穴が開いているので、スカシダワラ(透かし俵)と呼ばれる』。因みに Saturnia japonica の繭「スカシダワラ」のグーグル画像検索結果はこち。同じく Saturnia japonica の幼虫・成虫の写真を含む(繭の画像は少ない)グーグル画像検索結果はこちらであるが、後者に限っては蛾が駄目な人はクリックすべからず。

「山繭に似た一種の蛾」『「つりがます」と名づける繭』「山繭」とは鱗翅目ヤママユガ科ヤママユガ亜科ヤママユ属ヤママユ Antheraea yamamai 及びその亜種を指し、この特殊な繭を形成する蛾はヤママユガ亜科 Rhodinia 属のウスタビガ(薄手火蛾/薄足袋蛾) Rhodinia fugax のことである。ウィキウスタビガによれば、この蛾の繭は『薄い黄緑色をしている下がふくらんだ逆三角形状で木の枝から自らの糸で作った柄を繭の上部に繋いでぶら下がる。また繭に水がたまらないよう繭の下部分には小さな穴が開いている』とあり、『ウスタビガの名前にある「手火」とは、提灯のことで、この木にぶら下がる薄緑色の繭の姿から名付けられた。(一部では、この名は「足袋」から取ったとも言われる。)』とある。なお、ウィキは本種の分類の属表示を『ヤママユ属 Rhodinia』とするが、これは誤りであろう。また Rhodinia fugax の、繭及び幼虫・成虫の写真を含むグーグル画像検索結果は。但し、蛾が駄目な人はクリックすべからず。

「更に巧妙な繭には次の如きものがある。即ち卵形の繭の一端は閉ぢ一端は開いてあつて、開いた端の孔の周圍からは、硬い絲が筆の穗の如き形に外へ向いて竝んで、孔の入口を閉ざして居る。その有樣は恰も一種の瓣の如くで、繭の内から成蟲が出るときには、これを押し開いて何の妨げもなく出られるが、外からは何物も繭の内へ入り込むことが出來ぬ」これはイラガ科イラガ亜科イラガ Monema flavescens の繭(ウズラの卵を四分の一程にしたような形状で、独特の茶色い線の入った非常に硬い殻を持つ。別名スズメノショウベンタゴと呼ばれる)のことを言っているものか。廣野郁夫氏のHPの樹の散歩道 枝先の超硬質オブジェ 空中デザインカプセルの中には何が?に非常に詳しい解説と写真がある。但し、丘先生の説明は、イラガのそれとはちょっと違うような気もする。昆虫は私の苦手とする分野なので、識者の御意見を乞うものである。]

 

 子を産み、育てる働きの方には、本能の最も驚くべき例が少くない。他は後の章に讓つて、こゝにはたゞ一つだけ例を擧げて見ると、琉球八重山産の有名な「木の葉蝶」は、産卵するに當つて、その幼蟲の食物とする「山藍」の生えて居る場處の丁度上に當る樹の枝に産み附けて置くといふことである。これは恐らく山藍といふ草は谷間に生える丈の低い草で、日當りが極めて惡いために昆蟲類の卵の發育するには頗る不利益な位置にあるからであらう。一體蝶類はいづれも、その幼蟲の食する植物に卵を産み附けるもので、紋白蝶ならば大根等に、「あげは」ならば「からだち〔カラタチ〕」などに、それぞれ定まつて居るが、「木の葉蝶」は山藍の葉には産み附けず、丁度その上に當る高い樹木の枝に卵を産み附けて置くと、それから孵つて出た小さな幼蟲は、口から絲を吐き絲にぶら下がつて枝から地上へ降り、丁度その下に生えて居る山藍の葉に達して、直にこれを食ふことが出來るのである。昔ならば慥に造化の妙とでもいうたに違ひない。

[やぶちゃん注:「木の葉蝶」アゲハチョウ上科タテハチョウ科タテハチョウ亜科コノハチョウ族コノハチョウ Kallima inachus。インド北部からヒマラヤ・インドシナ半島・中国・台湾・先島諸島から沖縄諸島・奄美群島の沖永良部島と徳之島にかけて分布する。成虫の前翅長は四五~五〇ミリメートルで翅の裏面は枯葉に非常によく似た模様を持つ。模様は個体変異が多く、一匹ずつ模様が異なると言ってもよい。さらに前翅の先端は広葉樹の葉先のように尖り、後翅の後端は葉柄のように細く突出する。一方、翅の表側は藍色で、前翅に太い橙色の帯が入り、裏側とは対照的な鮮やかな配色である。翅の裏側が枯葉に似るため、隠蔽擬態の代表種としてしばしば挙げられるが、疑問を呈する向きもある。例えば、もしも枯葉に似せた姿を擬態として用いるならば、枯葉を背景に羽根の裏を見せるか、枯れ枝に葉のような姿で止まるべきだと考えられるが、この蝶は葉の上で翅を広げるか、太い幹に頭を下に向けて止まるため、枯葉に似せる意味がない、と云う疑義である。現在、沖縄県指定天然記念物(以上はウィキコノハチョウに拠った)。なお、これが実は「隠蔽」擬態ではない、わざと目立つようにしている(最終的にはミューラー擬態)という非常に面白い見解が「神奈川県立生命の星 地球博物館」発行の自然科学のとびらの学芸員高桑正敏「コノハチョウは木の葉に擬態しているのか? ―タテハチョウ類の生存戦略を考える―」にある(リンク先は同誌の電子テクスト)。必読である。

「山藍」双子葉植物綱トウダイグサ目キントラノオ目トウダイグサ科ヤマアイ Mercurialis leiocarpa。但し、前注に示した高桑氏の記載に、『コノハチョウの幼虫の寄主植物として知られているのは、キツネノマゴ科のリュウキュウアイ、シンテンヤマアイ、セイタカスズムシソウ、オキナワスズムシソウなど広義のスズムシソウ属』とあり、この種限定の産卵ではない。なお、高桑氏はこれに続けて、『もし、これらの植物が毒やまずい味の元の成分をもっているとすれば、成虫の体内に捕食者の嫌う物質をもっていると考えてよいでしょう。「世界有用植物事典」をひもとくと、藍の原料として知られるリュウキュウアイについて、解熱、解毒、炎症、皮膚病、虫よけなどに用いる薬用植物であることが記されていました。つまり、幼虫時代にリュウキュウアイを食べたチョウは体内に捕食者の嫌う成分を蓄えている可能性が強いこと、もしそれが事実なら、捕食者にわざと目立つ色彩を見せることが生存上有利になるでしょう。自分がまずいということを、はっきりと知らしめることができるからです』と、ここで、所謂、ミューラー擬態の可能性を示唆されておられるのである。どうです? 面白いでしょう?!]

2013/02/16

交はひの猫や尻尾の暖かし

交はひの猫や尻尾(しつぽ)の温かし

大渡橋 萩原朔太郎 (「純情小曲集」版)

 大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて齒を嚙めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頰(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。

[やぶちゃん注:「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)より。「郷土望景詩」の第七番目。初出の句読点の用法は朗読の目安として極めて示唆に富む。また、二連中央部の「しきりに欄干にすがりて齒を嚙めども」はオーバー・アクトで、初出の「しきりに欄干によりて齒嚙めども」に若かない、と私は感ずるものである。二十九年前、私は高校三年生の現代国語の教科書に載るこれを授業したのを忘れぬ。今思えば、二十七歳の私が、この詩を受験を控えた高三の生徒にわざわざ選んで教えたというシチュエーション自体が、今時の公教育の「道徳」観から言えば、如何にもアウトローであると言われよう。そこが、如何にも懐かしいのである。なお、初出同様、以下に同詩集末に附された「郷土望景詩の後に」を示す。]

 Ⅱ  大渡橋

 大渡橋(おほわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

大渡橋 萩原朔太郎 (初出形)

 大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社(さうしや)の村より、直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて、荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往(ゆ)くものは荷物を積み、車に馬を曳きたり。
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢えたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒を語らん。
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢えたり
しきりに欄干(らんかん)によりて齒嚙めども
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出て
頰につたひ流れてやまず。
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の平野の空は暮れんとす。

[やぶちゃん注:『日本詩人』第五巻第六号 大正一四(一九二五)年六月号に所収された「郷土望景詩」十篇の七番目。二連目二行目の「つくせり」は「くくせり」であるが、意味が通じず、「つくせり」の誤植と判断して「純情小曲集」版の「つくせり」に代え、また、同二連の終わりから三行目も「ああれはもと卑陋なり。」であるのを、脱字と判断して同じく「純情小曲集」版の「我」を補った。その他の歴史的仮名遣の誤り(「さうしや」は「そうしや」が、「飢え」は「飢ゑ」が正しい)は総てママ。底本は二連目の中間部の「せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出て」の「て」を「で」の誤植ととっているようだが、「出(いで)て」とも読めると私は判断する。なお、以下に同誌に附された「郷土望景詩の後に」を示す。ルビの「おお」はママ。]

   大渡橋

 ◎大渡橋(おおわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず、冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 比企谷妙本寺 田代觀音

   比企谷妙本寺 田代觀音

 

大御堂(みだう)は、賴朝公、はじめて建立し玉ふ勝長壽院(せうちやうじゆいん)の跡なり。釋迦堂が谷(やつ)は、大御堂の東(ひがし)、北條泰時建立せし釋迦堂の跡なり。文覺(もんがく)の屋敷跡は、この西の方(かた)にあり。この邊、屏風(びやうぶ)山、葛西(かさい)が谷、比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持(もち)なり。この南、坂東(ばんどう)の札所、田代觀音あり。

〽狂 かまくらひ

どれと見へ

    たる

酒のみの

    あと

ひきがやつ

 ちや屋にうかるゝ

「なんと、これから、いつそのこと、裏側(うらがは)から船にのつて、房州の方(ほう)へ、いかふではないか。」

「貴樣(きさま)は獨身(ひとりみ)だから、どこへいつてもよいが、俺(おいら)は妻子(さいし)のあるものだは。内の女房が、俺(おれ)がねれてかへるを、たのしんでまつているだらう。かへしかへし、ひもじい目(め)をせておくのがかわへそうだ。」

「これは、おかしい。なに、お前の嬶衆(かゝあしゆ)がひもじい目をしているものか。今頃は、お前よりわかい男をこしらへて、ちつともひもじい目をすることではないから、氣遣いしなさるな。」

「そんなら、これから、どこへいつてもよいが、儂(わし)が家(うち)をあんじるは、そこばつかり。どうしてまた、俺(おら)が女房のひもじいことのないことを、しつてゐるか合點(がてん)がゆかぬ。」

「それは此前(まへ)、お前が伊勢へいつた時、その留守中、上(かみ)さまが色男をこしらへて、ひもじい目はせぬことを、儂はよく見て、しつているから、それで今度も、そんなことでありませう。」

「そんなら、それでおちついた。さあさあ、これから房州へなりと、どこへなりと出かけるのだ。」

「旅はういもの、つらいものといふが、それは錢(ぜに)なしのことだ。こつちは錢ありだから、おもしろい、おもしろい。」

「なんと、おれが踊(をど)りは色氣があるだらう。それだから、今まで大勢、女の見物(けんぶつ)があつたものを、皆(みな)、どこへか踊りなくしてしまつた。」

[やぶちゃん注:「大御堂」大蔵幕府跡の南方、釈迦堂ヶ谷西の谷。文治元(一一八五)年に頼朝が鎌倉に来て初めて建立した父義朝の菩提を弔うための新寺院、阿弥陀山勝長寿院(大御堂は俗称)があったが、室町時代、鎌倉御所成氏が亡命して間もなく衰亡したものと思われる。

「屏風山」宝戒寺の背後の山。山容が屏風を立てたのに似ていることに由来するという。

「釋迦堂の跡」現在の浄明寺釈迦堂の字地名が残る。大御堂ヶ谷の東の小さな谷の更に次の谷間にあった。北条泰時が父義時追善のために建立、竣工は嘉禄元(一二二五)年。ここにあった本尊清凉寺式釈迦如来像は後に杉本寺に移され、現在は東京都目黒区行人坂にある大円寺にある(昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊の白井永二編「鎌倉事典」に拠る)。

「文覺の屋敷跡」文覚は義朝の首を探し出して鎌倉へ持ち帰り、それが勝長寿院へ葬られた。その所縁からか、大御堂ヶ谷入口付近に文覚の屋敷があったと伝えられ、滑川川辺には文覚の座禅窟なるものもあり、この辺りでは滑川は座禅川と呼ばれる。

「葛西が谷」宝戒寺の背後の東南方の地域で、幕府滅亡の東勝寺のあった場所である。

「かまくらひ」は「鎌倉」に、鯨飲馬食の「喰らひ」を掛けるか。

「裏側」は半島の裏側の浦賀に掛けたものであろう。

「比企が谷妙本寺。日蓮宗池上本門寺の持なり」妙本寺の池上本門寺住持兼帯については、新編鎌倉志巻之七の「妙本寺」の項及び私の注を参照されたい。

「田代觀音」これは、現在の大町にある坂東巡礼第三番札所安養院観音堂のことを指しているが、その歴史的事実はやや複雑である。それについては、やはり、新編鎌倉志巻之七の「妙本寺」の項及び私の注で考証しているので参照されたい。

「俺がねれてかへるを」底本の鶴岡氏の「ねれて」の注に『老練になる。女陰がやわらかになることも言う。この場合それをかけたしゃれ』とある。失礼乍ら、私が馬鹿なのか、分かったような分からないような注である。主語が「俺が」では、私にはよく分からぬのである。そうした識者の御教授を乞うものである。]

北條九代記 尼御臺政子御鞠を見給ふ 付 判官知康酔狂

       ○尼御臺政子御鞠を見給ふ  判官知康酔狂

同十月下旬、鶴ヶ岡八幡宮の廻廊八足(やつあし)の門、造立供養あり。賴家卿は只、鞠足(きくそく)の遊興に心を蕩(とろか)し身を窶(やつ)し、紀内所行景を世にもてはやし給ふ事又更に類(たぐひ)なし。新玉(あらたま)の春立つ空に返へりて、建仁二年正月より御所の御鞠(まり)は愈(いよいよ)興じて盛(さかり)なり。同夏のころ、尼御臺所は賴家卿の御所に入り給ひ、仰出されけるやう、「紀内所行景とやらん、鞠藝(きくげい)上足(そく)の曲(きよく)を御覽ずべし」とありければ、此會は適(たまたま)千載の一遇たりとて、上下、興に入り給ふ。賴家卿を初(はじめ)て行景以下、此所(こゝ)を晴(はれ)と出(いで)立ち給ひ、日比(ひごろ)に替りて、今日は殊更、御鞠の色定(さだか)に員(かず)も上(あが)らせ給ひけり。日、既に暮れて、燈火を取り、酒宴に及び、白拍子微妙(みめう)とて、舞の上手を召(めし)寄せ、判官知康、鼓を打て舞(まは)せければ、満座、興に催され、數巡(すじゆん)、酒、既に酣(たけなは)なり。知康、銚子を取て、御前に進み、北條五郎時連(ときつら)に酒を勸め、酒狂の餘(あまり)に申しけるやう、「如何に、北條五郎は容儀美(うるは)しく進退閑雅(しとやか)に、諸人に勝れて見えたるに、實名(じつみやう)の甚だ下劣に聞えたり、時連の連の字は錢(ぜに)を貫く貫(つら)の義歟(か)。貫之は歌仙なり。その面影を羨む歟。列々椿(つらつらつばき)の列(つら)ならば、竝木(なみき)の椿を好む義なり。是も萬葉の言の葉なり。旁々(かたがた)以て心得難し。この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟。甚だ奇怪の癡者(しれもの)なり。雜興(ざきよう)を申すも人にこそよるべけれ往昔(そのかみ)、木曾義仲が法佳寺殿を襲ひ奉りて、合戰を致しける時、月卿雲客(げつけいうんかく)、各々見苦しき恥に及びしも、その元は知康が所爲(しよゐ)なりてき。又、義經に一味して、關東を亡(ほろぼ)さんと謀(はかり)しを故賴朝卿深く憤り給ひて、解官追放せらるべき由奏聞を經られし者ぞかし。賴家卿、是等の非道あるを忘れて、親しく近づけらるゝ故に、かゝる事を云散(いひちら)しけり。偏(ひとへ)に右大將家亡後(ぼうご)の御本意(ほんい)に背(そむ)くにあらずや」と、御氣色、殊の外におはせしかば、知康深く恐れ奉り、暫く籠居して出でざりけり。昔、蜀の張奉(ちやうほう)と云ふ者、呉の國に使節として行(ゆき)到る。薛綜(せつそう)と云ふ者、出でてもてなすに、姓字(しやうじ)を以て嘲りて曰く、「犬あるときんば、獨(おほいぬ)たり、犬なきときんば、蜀(にはとり)なり。目を横にし、身を勾(かゞ)めて、蟲、其腹に入る」と云ひしに、張奉、更に對(こたふ)る事能はず、と云へり。蓋(けだし)、是、蜀の字を以て國主を嘲る心なり。呉蜀、爭ひ起りける事は、是等や基(もとゐ)となりにけん。戲謔の詞(ことば)は事に害ありと云へり。この故に、君子は假初(かりそめ)にも戲(たはぶれ)を以て人を嘲らず。知康が戲は誠に小人(せうじん)の行跡(かうせき)かなと心ある輩は彈指(つまはじき)して疎(うと)みけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年十月二十七日、同二(一二〇二)年正月十日・十二日、六月二十五日・二十六日などに基づく。

「今日は殊更、御鞠の色定に員も上らせ給ひけり」普段から顰蹙を買ってばかりおられる頼家卿は、実母であらせられる尼御台様の前にていいところを見せ申し上げなさろうと、この日は殊更、御鞠の色もくっきりと艶やかなものを選ばれ、場庭に出でた行景も、殊の外、美事なる蹴鞠を披露したによって、その得点も普段では見られぬ完璧なもので御座った。

「白拍子微妙」(生没年未詳)は右兵衛尉藤原為成の娘であったが、建久年間に父為成が讒言のために京から奥州へ追放され、母は嘆きのあまり死去、七歳で孤児となった。建仁二(一二〇二)年三月に頼家が比企能員の邸で花見を催した際に召されて、頼家の前で舞を舞ったが、その席で微妙は、父の行方を捜すため、舞の修行を積んで東国へ赴いた事を涙ながらに頼家に訴えた。それを聞いた者は皆、涙して、早速に奥州へ使者を派遣する事が決められた(「吾妻鏡」建仁二年三月八日の条)。その一週間後、政子が将軍御所を訪れ、微妙の舞を鑑賞、その後、微妙は政子の邸に引き取られている(同三月十五日の条)。これは、頼朝と同じく漁色家であった頼家が微妙に手を出すのを未然に防ぐためと考えられる。このシークエンスはこの間にあって、同年八月五日には奥州へ派遣していた探索の使者が帰参、微妙の父が既に死去していた事実を告げられる。世を儚んだ微妙はその十日後、父の菩提を弔うために栄西の禅坊で出家を遂げ、法名を持蓮とした。政子は微妙を哀れみ、深沢の里の辺りに居所を与えている。この前後に起こった彼女に纏わるゴシップについては次の「白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す」を参照のこと。

・「判官知康」平知康(生没年不詳)は貴族、壱岐守平知親の子。検非違使左衛門尉。鼓の名手であったことから鼓判官(つづみのほうがん)と呼ばれた。元は北面武士で後白河院の信任篤く、院の近臣となった。寿永二(一一八三)年七月に平家が都落ちをし、木曾義仲が入京すると、幾度か法皇方交渉役として義仲を訪れている。「平家物語」では、彼が義仲軍の軍兵の乱暴狼藉を鎮めるように義仲に要請したところ、義仲から「和殿(わどの)が鼓判官といふは萬(よろづ)の人に打たれたか張られたか」と尋ねられて面食らい、法皇に義仲討伐を進言したと記されている。知康は院御所の法住寺殿に兵を集め、公然と義仲に対決姿勢を示し、法皇方は義仲に洛外退去を要求、応じねば追討の宣旨を下すと通告した。怒った義仲は寿永二(一一八三)年十一月十九日、知康が防戦の指揮を執っていた法住寺殿を攻め、法皇方は完膚なきまでに敗れ、後白河院は義仲に捕らえられて幽閉、知康も解官された(法住寺合戦)。後、元暦二(一一八五)年に検非違使に復官し、在京中の源義経に接近するも、義経が頼朝と不和となって都落ちすると同時に、知康も再び解官されてしまう。翌元暦三(一一八六)年、その弁明のために鎌倉へ下向した際、第二代将軍頼家の蹴鞠相手として目を掛けられて留め置かれて側近となっていた。なお、その十七年後の建仁三(一二〇三)年に頼家が追放されて伊豆国修禅寺に幽閉されると、知康は帰洛した(以上はウィキの「平知康」を参照した)。履歴と言い、衒学的な発言や、そそこから彷彿としてくる厭らしい人品と言い、如何にも癖のある男である。生年は不詳ながら、この当時、有に四十代を遙かに越えていたと思われる。

・「北條五郎時連」北条時政三男で、北条政子や義時の異母弟であった鎌倉幕府初代連署として知られる北条時房(安元元(一一七五)年~延応二(一二四〇)年)の初名。名は既出であるが、注してこなかったので、ここで注す。文治五(一一八九)年、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。建久一〇(一一九九)年に源頼朝が死去し、頼家が将軍に就任するとその側近として随従し、頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、比企氏討伐の折には兄義時と共に迅速な討伐を積極的に主張したことから、実は彼は北条氏一門のためのスパイとしての役割を果たしていたと推定されている。建仁二(一二〇二)年に時房と改名しており、以下に示す通り、「吾妻鏡」では、この話の一件によって頼家から改名を提言され改名したと載る。建仁三(一二〇三)年に比企能員の変によって頼家は追放されるが、時房はこれに連座せず、北条氏の一門として次第に重きをなすようになってゆく。承元四(一二一〇)年、政所別当に就任、建保七(一二一九)年の実朝暗殺の直後には上洛して朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還、承久三(一二二一)年の承久の乱では泰時とともに東海道を進軍して上洛、泰時とともに京に留まって初代六波羅探題南方となっている。元仁元(一二二四)年に兄義時が死去すると、先に鎌倉へ帰還していた執権泰時の招聘を受けて帰鎌、泰時を補佐するために請われて同年に初代連署に就任している(以上はウィキの「北条時房」に拠った)。この当時は、満二十七歳であった。

「列々椿の列ならば」「並んで生い茂った椿の木」の「つら」という意味ならば。

「竝木の椿」如何にも平凡な何処にでもある、見どころのない椿の木。

 

「是も萬葉の言の葉なり」「万葉集」巻一の五四番歌、

   大宝元年辛丑(しんちう)秋九月、太上天皇(おほきすめらみこと)の紀伊國に幸(いでま)しし時の歌

  右の一首は坂門人足(さかとのひとたり)

巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに見つつ思(しの)はな巨勢の春野を

を指す。これは紀の牟婁(むろ)の湯(現在の白浜温泉)に持統天皇が御幸した際に、随行した坂門人足が詠んだもの。

●「大宝元年」は西暦七〇一年。

●「巨勢山」現在の奈良県西部御所(ごせ)市古瀬付近にある山。歌枕。

●「つらつら椿」白文の万葉仮名では「列〻椿 都良〻〻尒」とあり、講談社文庫版「万葉集」の中西進氏注によれば、『原文の字のごとく花の点々と葉間に咲く姿による名。本来「つば木」は「つら木」か。「つらつら」を「つばら」という。今のツバキとも山茶花ともいう。中国の椿は別物。』とあるが、ここでの知康は無論、今の椿の意で採っている。この「つら」の音の畳み掛けは、一種の言霊で、言祝ぎの謂いを持っているようである。

●「つらつらに」よく。つくづくと。

●「思はな」御幸は秋であるから巨勢山に連なり咲く椿のさまを想像して言祝いでいるのである。

 

「旁々以て心得難し」時連は美形であるのに、「連(つら)」という名は、あろうことか、銭を貫く「貫(つら)」の意……まあ、尤も、かの紀「貫」之は歌仙として有名なれば、貴族歌人のかの名声を羨んで、あやかろうとでも思うたものか……いやいや、それとも「つらつら椿」……かの「列(つら)」の意とならば……これまた、どうにも奇っ怪至極……平々凡々たる、見どころもなき椿を、敢えて好む……という意となる。……まあ、しかし、これもまた、「万葉集」の中にある和歌の言の葉では御座るが、の……さても武門の誉れの美青年が……やれ、銭緡(ぜにさし)だの……やれ、文弱歌仙貫之だの……やれ、凡なる椿が好きだの……やれ、「万葉集」だのと申すは……これ、どれもこれも心得難い、と言うのである。如何にも嫌味でペダンチックそのものである。

『……この名、然るべからず、將軍に申して改めらるべし」と笑ひけるを、尼御臺所聞給ひ、「知康、興じて申せし歟……』の部分、その宴席でのシークエンスとして臨場感のある描かれ方がなされているが、実際には、政子の台詞は、翌日に帰った政子の、自邸での場面になっている。筆者の、このカップリングは美事である。以下、「吾妻鏡」の建仁二(一二〇二)年六月二十五日と二十六日の二日間を続けて見よう。

〇原文

廿五日戊戌。陰。尼御臺所入御左金吾御所。是御鞠會雖爲連日事。依未覽行景已下上足也。此會適可爲千載一遇之間。上下入興。而夕立降。遺恨之處。即屬晴。然而樹下滂沱。尤爲其煩。爰壹岐判官知康解直垂帷等。取此水。時逸興也。人感之。申尅。被始御鞠。左金吾。伯耆少將。北條五郎。六位進。紀内。細野兵衛尉。稻木五郎。冨部五郎。比企彌四郎。大輔房源性。加賀房義印。各相替立。立員三百六十也。臨昏黒。事訖。於東北御所有勸盃。及數巡。召舞女微妙。有舞曲。知康候鼓役。酒客皆酣。知康進御前。取銚子勸酒於北條五郎時連。此間。酒狂之餘。知康云。北條五郎者。云容儀。云進退。可謂拔群處。實名太下劣也。時連之連字者。貫錢貨儀歟。貫之依爲哥仙。訪其芳躅歟。旁不可然。早可改名之由。將軍直可被仰之云々。全可改連字之旨。北條被諾申之。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日戊戌。陰(くも)る。尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。是れ、御鞠の會連日の事たりと雖も、未だ行景已下の上足(じやうそく)を覽ざるに依つてなり。此の會、適(たまたま)千載一遇たるべきの間、上下、興に入る。而るに夕立降り、遺恨の處、即ち、晴れに屬す。然れども、樹下の滂沱(ぼうだ)、尤も其の煩ひたり。爰に壹岐判官(いきのほうがん)知康、直垂(ひたたれ)・帷(かたびら)等を解き、此の水を取る。時の逸興なり。人、之を感ず。申の尅、御鞠を始めらる。左金吾・伯耆少將・北條五郎・六位進(ろくいのしん)・紀内・細野兵衛尉・稻木五郎・冨部五郎・比企彌四郎・大輔房源性(たいふばうげんしやう)・加賀房義印(ぎいん)、各(おのおの)相ひ替りて立つ。立員(たちかず)三百六十なり。昏黑(こんこく)に臨みて、事(こと)訖んぬ。東北の御所に於いて勸盃(けんぱい)有り。數巡に及ぶ。舞女微妙を召し、舞曲有り。知康、鼓の役に候ず。酒客、皆、酣(たけなは)なり。知康、御前に進み、銚子を取り、酒を北條五郎時連に勸む。此の間、酒狂の餘りに、知康、云はく、

「北條五郎は、容儀と云ひ、進退と云ひ、拔群と謂ひつべき處、實名、太(はなは)だ下劣なり。時連の連の字は、錢貨を貫く儀か。貫之哥仙たるに依つて、其の芳躅(はうちよく)を訪(とぶら)ふか。旁(かたがた)然るべからず。早く改名すべきの由、將軍、直(ぢき)に之を仰せらるべし。」

と云々。

全く、連の字を改むべきの旨、北條、之を諾し申さる。

 以下、語注を附す。

●「樹下の滂沱」蹴鞠をする場庭の木の下の水溜まり。諸本は「滂沱」を「滂池」とするが、誤字と採った。

●「爰に壹岐判官知康、直垂・帷等を解き、此の水を取る」知康は、着ていた直垂と帷子などを脱ぐと、それを水溜りに置き懸けて、その水を吸わせて取り除いたのである。

●「申の尅」午後四時頃。

●「伯耆少將」藤原清基。以下、幾人かを示す。「六位進」盛景。前皇后宮少進。詳細不詳。●「立員」蹴鞠の蹴り数であろうか。「たちかず」と訓示じたが、諸本は「立」を衍字と考えているらしい。

●「芳躅」の「躅」は足跡の意で、よい行跡のこと。古人の行跡や事跡を敬っていう語。

 

〇原文

廿六日己亥。陰。尼御臺所令還給。昨日儀。雖似有興。知康成獨歩之思。太奇恠也。伊豫守義仲襲法住寺殿。依致合戰。卿相雲客及恥辱。其根元。起於知康凶害也。又同意義經朝臣。欲亡關東之間。先人殊令憤給。可被解官追放之旨。被經奏聞訖。而今金吾忘彼先非。被免昵近。背亡者御本意之由。有御氣色云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日己亥。陰り。尼御臺所、還らしめ給ふ。

「昨日の儀、興有るに似たりと雖も、知康、獨歩の思を成し、太だ奇恠なり。伊豫守義仲、法住寺殿を襲ひ、合戰を致すに依つて、卿相雲客(けいしやううんかく)、恥辱に及ぶ。其の根元は、知康の凶害に於いて起こるなり。又、義經、朝臣に同意し、關東を亡ぼさんと欲するの間、先人、殊に憤らしめ給ひ、解官追放せらるべきの旨、奏聞を經(へ)られ訖んぬ。而るに今、金吾、彼(か)の先非を忘れ、昵近(ぢつきん)を免(ゆる)さる。亡者(まうじや)の御本意に背く。」

の由、御氣色有りと云々。

 

「昔、蜀の張奉と云ふ者、呉の國に使節として行到る。薛綜と云ふ者、出でてもてなすに……」以下の話は「三国志」の「呉志」の「第八 薛綜伝」に載る故事。但し、これには前段があり、その場で張奉が呉の尚書(皇帝への上奏を取り扱う役職)にあった人物の姓名を分解して意地悪い解釈をしてからかったのに反撃したのがこれで、「蜀」の字は「犬」(けものへん)が居ると「獨」――さるくいざる(猿食い猿:猿を食う猿の一種で常に独居し叫び声も一声という。他に「獨」には、子孫のない者などの意もあるから極めて不吉非礼である。)――であり、犬が居ないと「蜀」(とうまる:大型の鶏の一種。蜀鶏。また「蜀」の原義は毛虫や青虫でもある。)――である。「蜀」とは、「目」を邪まにも殊更に横にし、身を醜く「句(かが)」めて、その腹中には「虫」がさえ居ると答えた。答えに窮した張奉が「では呉とは何か」と問われると、「口」がなければ「天」になり、「口」があると「呉」で、万邦に君臨して天子の都である、と答えたという(以上は、個人サイト「極私的三國志」の三國志 余話〇四」揶揄や綿貫明恆氏の文人閑居文字 第六(1)等の記載を参考にさせて戴いた)。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十三(一九四八)年

昭和二十三(一九四八)年

 

拳(こぶし)もて胸打つ猿の寒の暮

 

冬濱に老婆夜明けの火を燃やす

 

冬濱に犬の頭骨いつまである

 

死が近し端より端へ枯野汽車

 

誕生日眠れぬ貝が音を立つ

 

蛙田に蛙の祭日蝕下

 

[やぶちゃん注:『天狼』六月号所収。昭和二三(一九四八)年五月九日に日本では部分蝕が観測された(礼文島では金環蝕)。]

 

蠅しかと交むを待ちて一撃す

耳嚢 巻之六 長壽の人格言の事

 長壽の人格言の事

 

 松平上野介の家士に山川文左衞門といへる男、百歳餘になりて近頃みまかりしが、老病の床中へ、予がしれる醫をまねきて、我も最早此度(このたび)限りなるべき、壽算殘る事なければ、藥も用ひべき心なけれど、孫など彼是(かれこれ)すゝめて事六ケ敷(むつかし)ければ、是も又尤なる故、なじみの甲斐に藥を調じ給はるべしといひしゆゑ、藥を與へけるに、彼(かの)老翁申けるは、さて人も長壽をねがひしは常なれど、長壽も程有(ある)べし、素より人の禍福にはよれど、我身は子をも先立(さきだ)て、今(いま)孫に養はれて不足もなけれども、いにしへの知音(ちいん)はみな泉下(せんか)の人となり、中年の知る人も殘るものなく、何をかたり何を咄さんとしても、我のみしりて人しらず、誠やしらぬ國にあぶれぬるも同じ事にて、心にも身にも樂しと思ふ事はなし、しかれば死したるも同じ事なりと語りしと、彼老醫の語りけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。九つ前の「長壽莊健奇談の事」の中川軍兵衛(享年一二一歳)からこの山川文左衛門(享年一〇〇余歳)へ長寿譚で連関するが、軍兵衛のそれが精力絶倫でポジティヴであったのに対し、この文左衛門の述懐は痛くネガティヴである。個人の持って生まれた性格の相違ででもあろうが、私は断然、文左衛門派である。

・「松平上野介」出雲国松江藩の支藩である広瀬藩。藩庁として、かつての出雲の中心地であった現在の安来市広瀬町に広瀬陣屋が置かれていた。寛文六(一六六六)年に松江藩初代藩主松平直政次男近栄(ちかよし)が三万石を分与され立藩した藩。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから、当時の藩主は第七代直義(ただよし 宝暦四(一七五四)年~享和三(一八〇三)年)か、第六代藩主近貞の長男で第八代藩主となった直寛(なおひろ 天明三(一七八三)年~嘉永三(一八五〇)年)の何れかである。

・「誠や」「誠」は感動詞、「や」は間投助詞。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿の人の格言の事

 

 松平上野介の家士に山川文左衛門と申す御仁、百歳余になって、近頃身罷って御座ったが、老衰の病いが進んだその床(とこ)の辺(べ)に、たまたま私の知っておる医師を招き、

「……我らも最早……この度(たび)は……遂に限りとなったと知れる……寿命……これ……残りなければこそ……薬なんど用いんと欲する気持ちは……これ……全く以って無い……じゃが……孫なんどの……かれこれと療治を勧むること……これ……如何にも難儀なことじゃ……じゃが……孫の身になって考えてみれば……これもまた……尤もなることゆえ……馴染みの甲斐に……一つ……お茶濁しにて……よう御座るによって……調じては下さる……まいか……」

と申すによって、当座の痛みや覚醒の対症なる薬を調じて与えたと申す。

 されば少し、落ち着いたによって、意識もやや聡明となった、かの老翁、

「……さて、人が長寿を願うは、これ、常のことなれど、長壽も『程』というものが、これ、あるべきことにて御座る。……

……もとより、各人の生涯に受くるところの、禍福の度合いにはよれど、……我が身は実子にも先き立たれて、今はその孫に養われて御座る。……そのことに不足なんどは、これ、あろうはずも御座ない。……

……じゃが、古えの知音(ちいん)は、これ、皆、泉下(せんか)の人となり、……中年の知れる人もこれ最早、没して残る者もおらずなって、……

……何を語り、何を話さんとしても、……

……これ、我らのみ知りて、他人には丸で一向に分からぬことばかり、……

……他人にとってはこれ、……遠い遠い、昔々の、……そのまた昔の話としか、映らぬ。……

……ほんに!……

……これ……我ら……見知らぬ異国に流浪して御座るも……同じ事にて……

……心にも身にも……楽しいと思ふことは……

……これ……全く……御座ない……

……しかれば……我らは……

……死したるも同じことにて……御座るのじゃて…………」

と語ったと、かの老医の語って御座った。

耳嚢 巻之六 いぼをとる呪の事

 いぼをとる呪の事

 

 いぼ多く出來て、愁ふる人あり。多少にかぎらず、雷の鳴る時、右光り音を相圖に、みご箒(はうき)にてはけば、必ずなをる事奇々妙々なりと、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。呪(まじな)いシリーズであるが、これ、実は十三話前の「いぼをとる呪の事」

 

 いぼをとる呪の事

 

 雷の鳴る時、みご箒(はうき)にて、いぼの上を二三遍はき候得(さふらえ)ば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ。

 

の話柄のほぼ同内容の重出である。……百話の致命的な残念な瑕疵で御座る、根岸先生……どうなさってしまわれた?……

・「いぼ多く出來て」これは、所謂、魚の眼とは異なり、一般的に手足や顔にできる疣で、削ったりしても増殖し、放置してもどんどん増えるタイプの疣を指している。これは尋常性疣贅(ゆうぜい)と呼ばれる、ヒトパピローマ・ウイルス二型・二十七型・五十七型の感染で生じるウィルス性皮膚疾患である。

・「みご箒」「みご」とは「稭」「稈心」などと表記し、「わらみご」、稲穂の芯のこと。藁の外側の葉や葉鞘をむき去った上部の茎。藁しべのことを言う。それを集めて作った箒のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣(いぼ)を取る呪いの事

 

 疣が多く出来て、非常に悩む人がままあるが――さても、その疣の発生の多少に限らぬのであるが――雷の鳴る時、その雷電がピカリ!――一閃し――ドッシャン! ガラガラッツ!――と音がしたのを合図に――すかさず!――稈心箒(みごほうき)を以って掃けば――必ず治ること、これ、奇々妙々で御座る――と、さる人の語って御座った。

2013/02/15

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 瑞泉寺 天台山

   瑞泉寺 天台山

 

大塔(とう)の宮の土(つち)の牢(らう)は、二階堂村の山際にあり。二階堂は永福寺(ゑいふくじ)の跡、礎(いしずへ)ばかり、のこれり。瑞泉寺(ずいせんじ)は、土の牢の東北(ひがしきた)にあり、錦屏山(きんびやうさん)といふ。本尊、釋尊。一覽亭の跡、この山上、座禪窟(ざぜんくつ)の上にあり。天台山(てんだいさん)は、一覽亭の北の山をいふ。高山(こうざん)なり。

〽狂 見と

 れつゝ

人はうご

   かぬ

ざぜんくつ

にほんいちらん

 ていのけしきに

旅人

「さては、こゝは昔、大塔の宮さまの土の牢か、こんな所にはいつてござつて、御窮窟であつたらう。儂(わし)がわかい時、ふとしたことから、おこつて、座敷牢へいれられたことがあつたが、それでも親といふものは、ありがたいもので、

『あれが獨りでさみしからう』と女(おんな)を一人くれたから、ほかに所在(しよざい)はなし、それから夜晝、子をこしらへることにばかりかゝつてゐて、毎年、うませたものだから、子がふへると、親父(おやぢ)がまた、

『あの子が不憫な。座敷牢がせまからう』

といつて、路地(ろじ)の隅に小屋をかけて、皆(みな)、そこへやられて、皆、そこで、その子どもをそだてるに、だんだん子どもが大きくなつて、後には路地へはひだして、そこらぢうへたれるものだから、長屋の奴等(やつら)が、小言(こゞと)をいふには、

『いまいましい。この頃は、溝板(どぶいた)の上が人間の糞(くそ)だらけで、ふんづけるにこまる。いつそのこと、あの子どもを炭俵(すみだわら)へでもいれて、すてゝしまへ』

と、ある晩に長屋の奴が二人、頰被(ほうかぶ)りして、子どもすてやうと、そこらをまごついたものだから、子どもが見つけて、強氣(がうぎ)にほへるから、

『だれかきたそうな。泥棒(どろぼう)ではないか』

と、儂が小屋から、ぬつと出たら、

『そりやこそ、親犬(おやいぬ)が提燈(てうちん)もつて出てきたは』

とにげたから、おかしかつた。」

[やぶちゃん注:「天台山」の「台」の表記は「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」に拠った。

「大塔の宮の土の牢」「大塔の宮」は後醍醐天皇の皇子護良(もりよし/もりなが)親王(延慶元(一三〇八)年~建武二(一三三五)年)のこと。天台座主であったが元弘の乱(元弘元(一三三一)年に後醍醐天皇が起こした二度目の鎌倉幕府討幕運動)が起きると還俗して参戦する。以後、令旨を発して反幕勢力を募り、赤松則祐・村上義光らとともに十津川・吉野・高野山などを転々としながら二年に亙って幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼしたりしたが、当初から足利尊氏と関係が悪く、討幕後の建武の新政で征夷大将軍・兵部卿に任ぜられたものの、尊氏は勿論、父後醍醐(この不和は討幕戦の際に討幕の綸旨を出した天皇を差し置いて令旨を発したことに始まるとされる)やその寵姫阿野廉子とも反目して、遂には尊氏暗殺のために兵を募り辻斬りを働いたりした。その結果、征夷大将軍を解任、更に建武元(一三三四)年冬には皇位簒奪を企てたとして父の意を受けた名和長年・結城親光らによって捕らえられ、鎌倉へ護送、鎌倉将軍府にあった足利尊氏の弟直義の監視下に置かれた(この皇位簒奪疑惑は現在では濡れ衣であったと考えられている)。翌年、北条時行による中先代の乱が起きた際、一時的に関東各地で足利軍が北条軍に敗れ、二階堂ヶ谷にあった東光寺に幽閉されていた護良親王が、万一、時行に奉じられた不都合を警戒した直義が家臣の淵辺義博に殺害させた(以上はウィキの「護良親王」に拠った)。「新編鎌倉志卷之二」に既に、

大塔宮土籠 大塔宮(おほたふのみや)の土籠(つちのろう)は、覺園寺の東南、二階堂村の山の麓に有り。二段の石窟なり。内は八疊敷ばかりもあり。

とあり、現在、鎌倉宮の中の「あったとされる場所」に、私の出た國學院大學の故樋口清之氏の「復元」によって、「リアルに再現」されてはいる。しかし、古記録では土牢は登場せず、あくまで屋敷内への軟禁であったと思われ、「鎌倉攬勝考卷之七」でも植田孟縉は、土牢説を『妄説』として退けており、この「復元」された土牢も、郷土史研究家の間では頗る付きで評判が悪い、ということだけは、付け加えておきたい。

「永福寺(ゑいふくじ)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「えうふくじ」とルビし、現在の廃寺の呼称でも「ようふくじ」である。

「錦屏山(きんびやうさん)」とあるが、「新編鎌倉志卷之二」では「きんへいざん」とルビし、現在の呼称でも「きんぺいざん」である。

「所在はなし」「所在無し」は、することがなくて退屈、手持ちぶさただ、の意。どうもしかし、この冗談は如何にも変なシチュエーションで、私は生理的に何だか不快で、笑えない、「おかし」くない、寧ろ、いやな話である。]

戰場での幻想 萩原朔太郎 (「宿命」版)

 戰場での幻想

 機關銃よりも悲しげに、繫留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、毒瓦斯よりも沈痛に、曳火彈よりも蒼白く、大砲よりもロマンチツクに、煙幕よりも寂しげに、銃火の白く閃めくやうな詩が書きたい!

[やぶちゃん注:「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)より。初出よりも、よりそのままの状態で比喩を投げ出したままにした結果、詩想の先鋭さはより噴出していると言える。但し、この決定稿が、初出で朔太郎の訴えたかったはずの――「敵意と感傷にみち」ている「詩」を書きたいのだ!――という死を賭した絶叫として「宿命」の読者に聴こえたかどうかは、これ、やや疑問である気がする。特に「大砲よりもロマンチツクに」という比喩は寧ろ、仮想の戦場の持っていたはずの血や肉の臭いを払拭してしまい、人によっては詩人の虫のいい身勝手な懇願のように思われてしまう、この現実の朔太郎の肉声が響いて終わるというのを、少なくとも私は好まない。そういう意味で初出のコーダ「見よ、鐡製の兜を被つて、兵士は銃の先に劍を突けてる。」の方が遙かに――詩となってる――と私は思うのである。]

戰場での幻想 萩原朔太郎 (初出形)

 戰場での幻想

 機關銃よりも悲しげに、曳火弾よりも靑白く、繫留氣球よりも憂鬱に、炸裂彈よりも殘忍に、そして毒瓦斯よりも沈痛に、敵意と感傷にみちた詩が書きたい!
 見よ、鐡製の兜を被つて、兵士は銃の先に劍を突けてる。

[やぶちゃん注:『セルパン』第十七号 昭和七(一九三二)年一月号所収。]

西東三鬼 拾遺(抄) 昭和二十二(一九四七)年

昭和二十二(一九四七)年

百姓のゆまりや寒の土ひびく

簑蟲や簑の中なる眞暗闇

簑蟲の簑の枯葉の枯れ極まる

簑蟲の簑を引きづる音の夜

[やぶちゃん注:「引きづる」はママ。]

簑蟲の眠りの長さ夜の長さ

寒淸き天より鳶の逆落す

  有名なる街

廣島に尽きも星もなし地の硬さ

廣島の夜陰死にたる松立てり

廣島や石橋白きのみの夜

廣島や物を食ふ時口開く

廣島や卵食ふ時口ひらく

廣島の遠き聲どつと笑ふ

廣島が口紅黑き者立たす

廣島に黑馬通り闇うごく

廣島に林檎見しより息安し

廣島や林檎見しより息安し

[やぶちゃん注:「廣島や卵食ふ時口ひらく」及び「廣島や林檎見しより息安し」の改稿は自註句集「三鬼百句」(昭和二三(一九四八)年現代俳句社刊)のもので、その他の八句は同年の『俳句人』五月号「有名なる街」句群の総てである。]

砂曇り沖に冬日の柱斜め

きりぎりす空腹感に點を打つ

炎天の女の墓石手に熱く

墓地を出で西日べたつく街に入る

書を賣るは指切るごとし晩夏の坂

耳嚢 巻之六 肥後國蟒の事

 肥後國蟒の事

 

 享和元酉年初夏九日の事なりし。肥後國天草郡井手村に熊藏といへる百姓、廿四歳になりけるが、其身大兵(たいひやう)にて小ぢからもあり、近郷にて角力(すまふ)取けるが、俗説ににが身(み)とかいふものならん、蛇などをとらへ慰し事もありける由。卯月九日、井手村と鬼の池境(さかひ)、谷間の田地へ肥(こや)し入(いれ)んとしける折節、山間より凡(およそ)三四間(げん)もあるべき蟒(うはばみ)出(いで)て熊藏を呑(のま)ん氣色なれど、深田なれば急に迯(にげ)ん事もかなわず。詮方なく擔(にな)ひし桶の棒にて五六度力を入れたゝきけるに、鐡か石をうつ如く音して、かの棒をも取(とり)落しけるに、彼(かの)蟒熊藏が肩へ來懸り候を、だかへけるが、凡三四拾貫めもあるべき盤石(ばんじやく)の如くなるを、角力をとりし覺へあれば、其度々に三四度も請(うけ)てはゝづし、請ては突(つき)落しければ、渠も少し猶豫(いうよ)しけるゆゑ、蟒にむかひ、我等親兄弟もあれば、村方へ歸り暇(いとま)乞ひなして勝負せん間、必(かならず)此所(ここ)に待(まち)居べしと、高聲(こわだか)にのゝしりければ、蟒も心得し體(てい)故、急ぎ宿へ歸り、しかじかと咄し脇差を帶し、右場所へ行けば、村方のものも銘々鎌棒やうのものを持(もち)、五六十人も追々罷(まかり)越し、山影に隱れ、蟒出(いで)ば打殺さんとひしめきける故、熊藏も聲をあげ、約束の如く勝負に來りしと、罵り呼ばりけれど、熊藏が、親兄弟に對面して來らんと云ひし孝義(かうぎ)に伏しけるか、又は同志をかり催し來(きたら)んとの事を察し恐れて出ざるや、かいくれ行方(ゆくへ)しれず。彼が最初に出しあたりは草木も押たをし、土石も崩れ損じける由。天草郡富岡町の旅宿荒木市郎左衞門といへるもの、御普請役松本左七え語りしとて、其有さまを繪に書(かき)て、御勘定所にて取ざたせしを見しまゝに、記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:可愛い鶉から悍(おぞ)ましき蟒ではあるが、動物奇譚で連関する。

・「享和元酉年初夏九日」享和元・寛政十三年辛酉(かのととり)の年の四月九日。新暦に直すと西暦一八〇一年五月二十一日。この年は、二月五日に改元している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから凡そ三年前の比較的ホットな怪異譚である。

・「肥後國天草郡井手村」現在の熊本県天草郡五和町(いつわまち)大字井手。天草下島の北部の山村。

・「にが身」これは、ある対象や生物が「苦手」とする、常人とは異なった優位な不思議な力を持つ人の意。小学館の「日本国語大辞典」には、「苦手」の項に、『その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕えられるなどという』力であることを例示し、「苦身(にがみ)」の項には、以上の苦手の能力を持っている人として、この「耳嚢」の本文を例示してある。

・「鬼の池」現在の天草郡五和町鬼池。井手の東北で、下島の北端部早崎瀬戸に面した近海地帯である。

・「三四間」約五・四五~七・二七メートル。

・「深田」水気の多い低級な沼の如き泥田・汁田の類い。

・「三四十貫目」約一一二・五~一五〇キログラム。

・「富岡町」現在の天草郡苓北町(れいほくまち)富岡。井手の西方、下島北西端の天草灘に面する苓北町は数百年にわたって天草の中心地であった。天草全土が「苓州」と呼ばれていたことから、苓北と名付けられた。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部にある町ということからその名がついた。鎌倉時代初期の元久二(一二〇五)年に志岐光弘氏が志岐六ヶ浦の地頭となり、坂瀬川・志岐・都呂々(とろろ)・富岡を含む天草下島の北部一帯を約四百年の間、統治し続けた。戦国末期には全盛期を迎え、キリシタン大名志岐麟泉がイエズス会の宣教師を招いて布教を許し、キリシタンを受け入れた(これを通じて麟泉は南蛮貿易を行おうとしたが実現はしていない)。江戸期にはこの富岡に代官所が置かれて、約二七〇年間、天草全土の郡政を治め、天草の政治・経済・文化の中心地として繁栄した(以上はウィキの「苓北町」に拠った)。

・「御普請役」底本の鈴木氏注に、『普請奉行の下役にもあるが、ここは御勘定の下役であろう。支配勘定の次で、不審役元締が班長格』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 肥後国の蟒(うわばみ)の事

 

 享和元年酉年の初夏、四月九日のことであった。

 肥後国天草郡井手村に熊藏と申す百姓、当年とって二十四歳になる者、その身、大兵(たいひょう)肥満にて、人並み以上に腕力もあって、近郷にては相撲(すもう)なんども取っては右に出る者は、これ、ない、と申す力自慢で御座った。

 また――俗に申すところの――にが身(み)――とか言うところの、不可思議なる者ででもあったものか――邪悪なる蛇なんどでも、平気で素手にて捕えては猫でもあやすが如く玩ぶを常として御座ったと申す。

 さて、卯月九日のこと、井手村と鬼の池の境(さかい)にあった谷間の田地へ、熊蔵、肥やしを施さんとした折から、山間より凡そ三、四間(げん)もあろうかという蟒(うわばみ)が、これ、

――ズゥワワアアァーーーッツ!

と現われ出で、今にも熊蔵を一と呑みに致さんとする勢いであったと申す。

 その時、熊蔵の立っておったは、これ、深田の中であったがゆえ、咄嗟に逃れ出づることも叶わず、仕方のう、担って御座った肥え桶の天秤棒を摑んで、五、六度、力を込め、蟒の太い体を、これ、打ち叩いてみたが、

――カーン! カカーン!

と、これ、まるで鉄か石を打つが如き音のみ致いて、そのあまりに硬きによって、

――ビーーン! ビビィーーーン!

と手に響き伝わって参るその震えに、つい、かの天秤棒をも取り落してしもうたと申す。

 するとすかさず、かの蟒、熊蔵の肩の辺りへ、

――ズルル! ドッスン!

と、襲い掛かって御座ったによって、熊蔵、

――グワッ!

と抱き抱(かか)えたところが、これまた、凡そ三、四十貫目もあろかという盤石(ばんじゃく)の如き重さであったと申す。

 熊蔵、相撲の覚えもあったれば、その襲い掛かって来るたび毎に、これ、三度も四度も――斜(しや)に受け止めては脇へと外し、正面よりがっぷりと受けては前方へと突き落したによって――かの蟒も一時、身を引いて間合いを取って御座るように見えたがゆえ、熊蔵、蟒に向かって、

「――我ら、親兄弟もあれば、村方へとたち帰り、暇ま乞いをなした上にて、改めて勝負せんとぞ思う! 必ず、ここにて待ちおるがよい!」

と、声高(こわだか)に叫んだところ、蟒も心得た体(てい)に見えたがゆえ、急ぎ、村へとたち帰ると、しかじかのことありと話し、脇差を帯びて、かの元の深田へとたち戻ったと申す。

 ただ、この時、村方の者どもも、話を聴いて、めいめいに鎌や棒のようなる物を握って、五、六十人も熊蔵のあとから加勢として従い、深田近くの山陰に隠れては、蟒が出でたれば打ち殺さんものと、犇めいて待ち構えて御座った。

 熊蔵、声を上げ、

「――約束の如く勝負に来たったり!」

と、大声で呼ばわったれど、

……熊藏が、親兄弟に対面(たいめ)して立ち戻ると言うた、その孝行と礼儀に伏したものか……

……または、熊蔵が同志を駆り立てて立ち戻ったことを察し、うち負くるを恐れて出でずなったものか……

……ともかくも、蟒は、これより、とんと姿を消してしまい、遂にその後も現わるることなく、正体も行方(ゆくえ)も、これ、知れずなった、と申す。

 その蟒が最初に出た深田辺りは、これもう、一面に草木が押し倒され、棚田の周囲の土石も、これ、悉く崩れ壊(くわ)えて御座ったと申す。

   *

 以上は、天草郡富岡町にて旅宿を営むところの荒木市郎左衛門と申す者が、当時の御勘定下役の御普請役にあった松本左七へ語った記録ということで、その有り様を絵に描(えが)いたものも添えた文書が、江戸の御勘定所所内にても、所内の役方の者どもが取沙汰致いて御座ったを、私が披見したままに、ここに