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2013/02/15

耳嚢 巻之六 肥後國蟒の事

 肥後國蟒の事

 

 享和元酉年初夏九日の事なりし。肥後國天草郡井手村に熊藏といへる百姓、廿四歳になりけるが、其身大兵(たいひやう)にて小ぢからもあり、近郷にて角力(すまふ)取けるが、俗説ににが身(み)とかいふものならん、蛇などをとらへ慰し事もありける由。卯月九日、井手村と鬼の池境(さかひ)、谷間の田地へ肥(こや)し入(いれ)んとしける折節、山間より凡(およそ)三四間(げん)もあるべき蟒(うはばみ)出(いで)て熊藏を呑(のま)ん氣色なれど、深田なれば急に迯(にげ)ん事もかなわず。詮方なく擔(にな)ひし桶の棒にて五六度力を入れたゝきけるに、鐡か石をうつ如く音して、かの棒をも取(とり)落しけるに、彼(かの)蟒熊藏が肩へ來懸り候を、だかへけるが、凡三四拾貫めもあるべき盤石(ばんじやく)の如くなるを、角力をとりし覺へあれば、其度々に三四度も請(うけ)てはゝづし、請ては突(つき)落しければ、渠も少し猶豫(いうよ)しけるゆゑ、蟒にむかひ、我等親兄弟もあれば、村方へ歸り暇(いとま)乞ひなして勝負せん間、必(かならず)此所(ここ)に待(まち)居べしと、高聲(こわだか)にのゝしりければ、蟒も心得し體(てい)故、急ぎ宿へ歸り、しかじかと咄し脇差を帶し、右場所へ行けば、村方のものも銘々鎌棒やうのものを持(もち)、五六十人も追々罷(まかり)越し、山影に隱れ、蟒出(いで)ば打殺さんとひしめきける故、熊藏も聲をあげ、約束の如く勝負に來りしと、罵り呼ばりけれど、熊藏が、親兄弟に對面して來らんと云ひし孝義(かうぎ)に伏しけるか、又は同志をかり催し來(きたら)んとの事を察し恐れて出ざるや、かいくれ行方(ゆくへ)しれず。彼が最初に出しあたりは草木も押たをし、土石も崩れ損じける由。天草郡富岡町の旅宿荒木市郎左衞門といへるもの、御普請役松本左七え語りしとて、其有さまを繪に書(かき)て、御勘定所にて取ざたせしを見しまゝに、記し置ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:可愛い鶉から悍(おぞ)ましき蟒ではあるが、動物奇譚で連関する。

・「享和元酉年初夏九日」享和元・寛政十三年辛酉(かのととり)の年の四月九日。新暦に直すと西暦一八〇一年五月二十一日。この年は、二月五日に改元している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月であるから凡そ三年前の比較的ホットな怪異譚である。

・「肥後國天草郡井手村」現在の熊本県天草郡五和町(いつわまち)大字井手。天草下島の北部の山村。

・「にが身」これは、ある対象や生物が「苦手」とする、常人とは異なった優位な不思議な力を持つ人の意。小学館の「日本国語大辞典」には、「苦手」の項に、『その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕えられるなどという』力であることを例示し、「苦身(にがみ)」の項には、以上の苦手の能力を持っている人として、この「耳嚢」の本文を例示してある。

・「鬼の池」現在の天草郡五和町鬼池。井手の東北で、下島の北端部早崎瀬戸に面した近海地帯である。

・「三四間」約五・四五~七・二七メートル。

・「深田」水気の多い低級な沼の如き泥田・汁田の類い。

・「三四十貫目」約一一二・五~一五〇キログラム。

・「富岡町」現在の天草郡苓北町(れいほくまち)富岡。井手の西方、下島北西端の天草灘に面する苓北町は数百年にわたって天草の中心地であった。天草全土が「苓州」と呼ばれていたことから、苓北と名付けられた。「苓」は「あまくさ(甘草)」を意味し、苓州の北部にある町ということからその名がついた。鎌倉時代初期の元久二(一二〇五)年に志岐光弘氏が志岐六ヶ浦の地頭となり、坂瀬川・志岐・都呂々(とろろ)・富岡を含む天草下島の北部一帯を約四百年の間、統治し続けた。戦国末期には全盛期を迎え、キリシタン大名志岐麟泉がイエズス会の宣教師を招いて布教を許し、キリシタンを受け入れた(これを通じて麟泉は南蛮貿易を行おうとしたが実現はしていない)。江戸期にはこの富岡に代官所が置かれて、約二七〇年間、天草全土の郡政を治め、天草の政治・経済・文化の中心地として繁栄した(以上はウィキの「苓北町」に拠った)。

・「御普請役」底本の鈴木氏注に、『普請奉行の下役にもあるが、ここは御勘定の下役であろう。支配勘定の次で、不審役元締が班長格』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 肥後国の蟒(うわばみ)の事

 

 享和元年酉年の初夏、四月九日のことであった。

 肥後国天草郡井手村に熊藏と申す百姓、当年とって二十四歳になる者、その身、大兵(たいひょう)肥満にて、人並み以上に腕力もあって、近郷にては相撲(すもう)なんども取っては右に出る者は、これ、ない、と申す力自慢で御座った。

 また――俗に申すところの――にが身(み)――とか言うところの、不可思議なる者ででもあったものか――邪悪なる蛇なんどでも、平気で素手にて捕えては猫でもあやすが如く玩ぶを常として御座ったと申す。

 さて、卯月九日のこと、井手村と鬼の池の境(さかい)にあった谷間の田地へ、熊蔵、肥やしを施さんとした折から、山間より凡そ三、四間(げん)もあろうかという蟒(うわばみ)が、これ、

――ズゥワワアアァーーーッツ!

と現われ出で、今にも熊蔵を一と呑みに致さんとする勢いであったと申す。

 その時、熊蔵の立っておったは、これ、深田の中であったがゆえ、咄嗟に逃れ出づることも叶わず、仕方のう、担って御座った肥え桶の天秤棒を摑んで、五、六度、力を込め、蟒の太い体を、これ、打ち叩いてみたが、

――カーン! カカーン!

と、これ、まるで鉄か石を打つが如き音のみ致いて、そのあまりに硬きによって、

――ビーーン! ビビィーーーン!

と手に響き伝わって参るその震えに、つい、かの天秤棒をも取り落してしもうたと申す。

 するとすかさず、かの蟒、熊蔵の肩の辺りへ、

――ズルル! ドッスン!

と、襲い掛かって御座ったによって、熊蔵、

――グワッ!

と抱き抱(かか)えたところが、これまた、凡そ三、四十貫目もあろかという盤石(ばんじゃく)の如き重さであったと申す。

 熊蔵、相撲の覚えもあったれば、その襲い掛かって来るたび毎に、これ、三度も四度も――斜(しや)に受け止めては脇へと外し、正面よりがっぷりと受けては前方へと突き落したによって――かの蟒も一時、身を引いて間合いを取って御座るように見えたがゆえ、熊蔵、蟒に向かって、

「――我ら、親兄弟もあれば、村方へとたち帰り、暇ま乞いをなした上にて、改めて勝負せんとぞ思う! 必ず、ここにて待ちおるがよい!」

と、声高(こわだか)に叫んだところ、蟒も心得た体(てい)に見えたがゆえ、急ぎ、村へとたち帰ると、しかじかのことありと話し、脇差を帯びて、かの元の深田へとたち戻ったと申す。

 ただ、この時、村方の者どもも、話を聴いて、めいめいに鎌や棒のようなる物を握って、五、六十人も熊蔵のあとから加勢として従い、深田近くの山陰に隠れては、蟒が出でたれば打ち殺さんものと、犇めいて待ち構えて御座った。

 熊蔵、声を上げ、

「――約束の如く勝負に来たったり!」

と、大声で呼ばわったれど、

……熊藏が、親兄弟に対面(たいめ)して立ち戻ると言うた、その孝行と礼儀に伏したものか……

……または、熊蔵が同志を駆り立てて立ち戻ったことを察し、うち負くるを恐れて出でずなったものか……

……ともかくも、蟒は、これより、とんと姿を消してしまい、遂にその後も現わるることなく、正体も行方(ゆくえ)も、これ、知れずなった、と申す。

 その蟒が最初に出た深田辺りは、これもう、一面に草木が押し倒され、棚田の周囲の土石も、これ、悉く崩れ壊(くわ)えて御座ったと申す。

   *

 以上は、天草郡富岡町にて旅宿を営むところの荒木市郎左衛門と申す者が、当時の御勘定下役の御普請役にあった松本左七へ語った記録ということで、その有り様を絵に描(えが)いたものも添えた文書が、江戸の御勘定所所内にても、所内の役方の者どもが取沙汰致いて御座ったを、私が披見したままに、ここに記し置いたものである。

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