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2013/02/19

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力

     四 智力

 

 餌を食ふため敵に食はれぬために、動物が行ふことの中には、人間が知力を用ゐてなすことと程度は違ふが、性質は同じである如くに思はれるものが頗る多い。例へば、猿が番人の隙を覗つて桃林から桃を盜んで行くのも、猫が鼠の出て來るのを待つて根氣よく孔の傍に身構へて居るのも、人間の擧動に比べて殆ど何の相違もない。昔、人間と他の動物との間の距離をなるべく大にしたいと思つた頃には、猿が桃を盜むのと、人が桃を盜むのと、また猫が鼠の穴を覗ふのと、人が鐡砲を持つて兎の穴を覗ふのとを嚴重に區別し、一方は本能の働き、一方は智力の働きと見做したであらうが、虛心平氣に兩方の擧動を比べて見ると、その間に根本的の相違があるものとは決して考へられぬ。今假に自分が猫になつたと想像したならば、鼠を捕へるに當つては、やはり實際猫のする通りのことをするであらう。また假に自分が猿になつたと想像したならば、桃を盜むに當つては、やはり實際猿のする通りのことをするに違ひない。されば、一方のみを智力の働きと見做し、他方は智力の働きでないなどと論ずべ根據は少しもない。かやうに考へると、智力を有するものは決して人間のみに限るわけではなく、動物界には廣くこれを具へたものがある。但し、その發達の程度には種々の階段があつて、或る所まで降ると最早本能と區別することが全く出來なくなつてしまふ。

 猿が桃を盜み、猫が鼠を捕へるのを智力の働きとすれば他の動物のこれに類する擧動も同じく智力の働きと考へねばならず、順次に比べて進むと、終には珊瑚蟲が「みぢんこ」類を捕へて食ふのまでも、智力が與つて居ると論ぜねばならぬことになる。更に一歩進めば、「蠅取り草」が蠅を捕へるのも智力の働きの範圍内に入れねばならぬとの結論に達するが、かくては餘り廣くなつて際限がない。著者自身の考によれば、智力といひ本能といふも、いづれも外界の變化に應じて適宜に身を處する神經系の働きの中で特殊に發達した部分を指す名稱で、その著しい例を互に比較すれば相異なる點が明であるが、程度の低いものの間には決して境界はない。他物に譬へていへば、智力と本能とは恰も相隣れる二つの山の頂のやうなもので、そこに絶頂が二つあることは誰の目にも明に見えて居るが、少しく下へ降りると、山と山とは相連絡してその間になんの境もなくなる。生物はすべて食つて産んで死ぬものであるが、食つて産んで死に得るには、常二外界に對して適宜に應接して、目的にかなうた行動を取らなければならぬ。そして神經系の有る動物では主として神經系がその衝に當るが、動物の種類によつて生活の狀態も大に違ふから、或る種類の動物では神經系の働きは一方に發達して、終に智力と名づくべき程度に進み、他の種類の動物では他の方面に發達して、明に本能と名づくべきものとなつたのであらう。また簡單な反射作用は恰も山の麓に比較すべきもので、本能とも智力とも名づけることは出來ぬが、さればとてまた本能からも智力からも明かな境界線を引いて區劃することは出來ぬ。今日、智力・本能などに關しては學者間に際限なく議論が鬪わされて居るが、著者の見る所によるとその大部分は、本來境界線のなかなかるべき所に強いて境界線を定めようと試み、その境界線をどこの邊に定めようかと、議論しているに過ぎぬやうである。

 なほ一つ例を擧げて見るに、子供の金魚鉢に飼つてある「べんけいがに」と「石龜」とを捕へようとすると、「かに」の方は鋏を上げて、觸れゝば挾むぞと嚇しながら逃げて行き、龜の方は頭も足も引き込めて動かずに居るが、これらの擧動を、人間が淋しい道で人相の惡い男に出遇つた際に、ピストルに手を掛けて相手の顏を睨(にら)みながら摺れ違つて行く擧動、若しくは泥棒が雨戸を抉(こ)じ開けんとする音を聞いて、中から戸を抑へて防いで居る擧動に比べると、その間に性質上の相違があらうとは思はれぬ。隨つて、一方を智力の働きと見做す以上は、他を智力の働きでないといふべき論據はない。かやうに比べて見ると、終には「いそぎんちやく」が體を縮め、「おじぎ草」が葉を下げるのまで順々に引き續いて、どこにも判然たる境界を設けることは出來ぬ。

[やぶちゃん注:「べんけいがに」短尾(カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Sesarmops intermedium。海岸の塩性湿地や海岸付近の河原・土手・石垣・森林・叢などに棲息し、本邦では男鹿半島と房総半島以南で普通に見られる。]

Tuarihu

[馬に文字を教へる]

 

[獨逸のクラルといふ人その飼馬ツアリフに文字を教へ各文字に對して左右の前足を以て一定の度數だけ板をたたかしめる 例へばAには左一囘右一囘とかBには左一囘右二囘とかいふやうである 馬は字を指し示されればこれに應じ豫て覺えたる通りの度數だけ板を敲き物を尋ねられれば字を綴り敲いて答へる また數を加へ減じ掛け割るなどの問題に對しても正しい答をする]

 

 さて智力の最も發達した動物はいふまでもなく人間であるが、これは今の譬へでいふと、一方の山の頂に當る。しからば人間に次いで智力の發達した動物は何かといふに、これは腦髓の構造が人間に最もよく似た獸類であつて、その中でも特に大腦の表面に凸凹の多い猿・犬・馬などは智力も相應に進んで居る。今から二十四五年も前の事であるが、ドイツの或る人の飼つて居た悧巧な、ハンスといふ馬が、字讀めば數も算へられるというて大評判であつた。例へば五と七とを加へると幾つかと尋ねると、馬は前足で床板を十二敲いて答へたのであるが、その當時これを調べた心學理者の鑑定よると、馬が足で床板を敲いて丁度答の當る、數まで達すると、尋ねた人が知らずに頭を一ミリメートルの何分の一とかを動かすので、馬は鋭くもこれを識別して敲くことを止めるから、恰も算術が出來たかの如くに見えるのである。實は決して算へる力などがあるわけではないとのことであつた。しかし、この説明には滿足せぬ人があつて、その後更に別の馬を飼つて種々試驗を續けた所が、馬に文字を覺えさせ、これを自分で綴つて人の問に答へさせることも容易に出來るやうになつた。この種類の試驗に就いては、今日では數多く報告があつて、已に馬の外に犬や象に就いて同樣の結果を得て居る。著者は自身にかやうな試驗を行うたことはないが、犬や馬に就いて日常見て居ることから推して、以上の如きことは當然行はれ得べきことと考へて居たから別に不思議にも思はぬが、人間の智力と他の動物の腦の働きとの間に根本的の相違があるやうに論じたい人等は、種々の論法を用ゐて、右樣の働きが智力の結果でないことを證明しようと骨折つて居る。

[やぶちゃん注:この本文にあるハンスの馬(同様の「賢馬」である挿絵にあるクラルのツアリフという馬の話は不詳。識者の御教授を乞う)は丘先生のおっしゃるように、ハンスは真に計算が出来た「賢馬」であったのではなく、『回りの雰囲気を敏感に察知することに長けた』「賢馬」であったことが、ウィキの「賢馬ハンス」に記されてある。そこには『今日ではこのような現象を「クレバー・ハンス効果」と呼び、観察者期待効果』として、後の動物認知学に大きく貢献した「賢馬」であったとある。しかし、それ以下で、丘先生がそうした数を数えることの出来る動物の可能性を極めて計画に肯定してのを奇異に思われる保守的な(人間中心主義的な)読者もいるやも知れぬ。しかし、例えば「日経サイエンス」の「数を数える動物たち〜日経サイエンス2009年11月号より」を参照されたい。そこには近年の研究で、野生のニュージーランドコマヒタキという鳥が、餌を捕獲する際の行動から三とか四といった小さな数を区別出来る能力を生得的に持っており、その後の学習の試行錯誤によって最終的には十二くらいまでの数を識別できるようになるという事実、ヒヨコが算数能力を保持している事実、アカゲザルの計算能力が大学生に匹敵し、しかも反応の素早さでは人間よりも早いという事実、そのアカゲザルはゼロの概念を把握しているわけではないが、それ(ゼロ)という状態が一や二よりも少ないことは理解しているという事実、三十年に亙ってオウムの研究を行ってきたマサチューセッツ工科大学のペパーバーグ氏によれば、『小さな量ならハチでさえ学習によって区別可能にな』り得るると言い、『ある程度の数感覚は無脊椎動物でも学習できるようで,こうした学習を支える何らかの神経構造があるのだろう』と述べておられる。神が人にのみ智を与え給うたと振り上げる御仁は、早々にその拳を納めて、私のブログからご退場なさった方が精神衛生上、よかろうと存ずる。……しかし私は……このハンス……君が……何とも可哀そうで仕方がない……。]

 

 こゝに一つ斷はつて置くべきは、本能でも智力でも、ときどき無駄な働きをすることである。「はまぐり」は介殼が如何に堅くても「つめた貝」には孔を穿たれ、蜂の針が如何に烈しく螫しても「はちくま」といふ鷹には平氣で食はれる如く、防禦の裝置にはそれぞれ標準とするところがあって、例外のものに對しては有功であり得ぬ通り、本能でも智力でもその動物の日常の生活を標準として發達し來つたものから、生活の條件を變へると、隨分目的にかなはぬ働きをする。例へば「走りぐも」は巣を造らず常に草の間を走り廻り、卵を産めば絲を以て繭の形にこれを包み、どこへ行くにも大事に持つて居るが、強ひてこれを奪ひ取つて、代りに紙屑を同じ位の大きさに如めたものを投げてやると、直にこれを抱へ、大切さうに保護して持ち歩く。これなどは、本能が盲目的に働いて無駄なことに骨を折つて居るのであるが、紙屑でも何でも構はず大切に保護するまでに發達した本能こそ、この「くも」の生活に取つては最も必要なものである。智力の方でもこれと同樣に、往々生活の目的のためには何の役にも立たぬ働きをすることがある。或る程度まで智力の發達することは、人間の生活に取つては必要な條件であるが、相應な智力を出し得るまでに腦の構造が進歩すると、これを生活上の必要以外の方面にも働かせる。しかしこの場合には智力が如何程まで有功に用ゐられて居るかは大に疑はしい。如何にしてこの魚を捕へようか、如何にしてかの獸を殺さうかと考へて、網の張りやうや落し穴の掘りやうを工夫し、如何にして甲の蕃社を攻めやうか如何にして乙の集落からの攻撃を防がうかと思案して、槍の穗先の形を改良し、味方同士の暗號を定めなどするのは、すべて智力の働きであるが、かやうなことが出來るまでに腦の構造が進歩すると、退屈のときにはこれを用ゐて種々のことを考へ始め、何でも物の起る原因を先の先まで知らうと務めれば、哲學が生じ、人間以外に何か目に見えぬ強い者がいると信ずれば、宗教が始まり、不完全な推理によつて勝手に物と物との間に因果の關係を附ければさまざまの迷信が現れる。これらはいづれも生存に必要な智力の發達したために生じた副産物であるから、いはば智力の脱線した結果と見なすことが出來よう。その後、物の理窟を考へる力が進めば、脱線の方面にも益々これを用ゐて、哲學も宗教も迷信も盛になり、そのため莫大な費用と勞力とを費して少しも惜しまぬやうになる。有名なエジプトの金字塔の如きも畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ。無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇を用ゐるに至つたまでに、人間の知力が常に生存のために有功であつたことはいふまでもないが、その間に宗教・迷信のために、人間がどの位無駄な仕事をしたかと考へると、これはまた實に驚くべきもので、今日と雖もなほ「走りぐも」が丸めた紙屑を大事に抱へて歩くのと同じやうなことをしながら怪まずにいるのである。

[やぶちゃん注:丘先生の近代の啓蒙家・科学者としての立ち位置と、本書の時代背景から仕方がないことではあるが、私は「哲學も宗教も」「エジプトの金字塔」(ピラミッド)も「畢竟、智力が無駄な方向に働いたための産物に過ぎぬ」と一蹴しておきながら、科学技術(言っておくがわたしはツールである「科学技術」を純然たる「科学」とは区別して用いている)『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』は『人間の知力が常に生存のために有功であ』ることの積極的な証しとされていることには、強い疑義を持つものである。先生は敗戦の前年に亡くなっておられるが、もし、戦後まで生きておられたなら、私はこの部分を丘先生なら、きっと書き改められた気がするのである。それは『無線電信や「ラヂウム」や飛行機や潜航艇』の後に、原子爆弾や水素爆弾、そうして平和利用の名のもとに出現した恐るべき原子力発電といったモンストロムの類いを、生物学者である丘先生は、決して肯定なさらないと私は思うからである。

「つめた貝」腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科ツメタガイ Glossaulax didyma。夜行性で、砂中を活発に動き回る。通常は軟体部は殻から大きく露出しており、殻全体をほぼ完全に覆い尽くしている。肉食性で、アサリ・ハマグリなどの二枚貝を捕食する。二枚貝を捕捉すると、まず、獲物の殻の最も尖った殻頂部に対し、外套膜の一部から酸性の液を分泌して、殻の成分である炭酸カルシウムを柔らかくさせた上で、口器にあるヤスリ状の歯舌を用いて平滑に削り取ってゆき、二ミリメートル程の穴を空けて獲物の軟体部を吸引する。養殖二枚貝の天敵として知られるが、食しても上手い。但し、多量に食うと下痢をする。これは遠い昔の私自身の痛い実体験である。

「はちくま」タカ目タカ科ハチクマ Pernis ptilorhyncus。ユーラシア大陸東部の温帯から亜寒帯にかけての地域に広く分布し、本邦には初夏に夏鳥として飛来して九州以北の各地で繁殖する。全長五七~六一センチメートルで♀の方がやや大きい。体色特に羽の色は変異の幅が大きい。通常は体の上面は暗褐色で、体の下面が淡色若しくは褐色である。♂は風切先端に黒い帯があり、尾羽にも二本の黒い帯がある。♀は尾羽の黒い帯が雄よりも細い。参照したウィキハチクマ」によれば、『食性は動物食で、夏と冬にはスズメバチ類やアシナガバチ類といった社会性の狩り蜂の巣に詰まった幼虫や蛹を主たる獲物とし、育雛に際してもばらばらの巣盤を巣に運んで雛に与える。コガタスズメバチのような樹上に営巣するハチのみならず、クロスズメバチやオオスズメバチなど、地中に巣を作るハチの巣であっても、ハチが出入りする場所などから見つけ出し、同じ大きさの猛禽類よりも大きい足で巣の真上から掘り起こし、捕食してしまう。ハチクマの攻撃を受けたスズメバチは、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。毒針を問題にしないのは、ハチクマの羽毛が硬質で針が刺さらないためと考えられている。ハチ類の少なくなる秋から冬にかけては、他の昆虫類、小型のげっ歯類、爬虫類なども捕食する』とある。

「走りぐも」鋏角亜門クモ綱クモ目クモ亜目キシダグモ科ハシリグモ属 Dolomedes のクモの仲間。網を張らない徘徊性の大型のクモである。参照したウィキハシリグモ」の「習性」の項に、『ハシリグモ類は、非常に活動的で、足が速い。体格が大きいこともあって、追いかけて捕まえるのは難しい。あちこちをうろつくよりも、草の葉の上で待ち伏せている様子をよく見かける。 また、水辺の種では、水面や水中に出ることがよくあり、魚やオタマジャクシを食うことがあることも知られている。“捕食”といっても消化液で獲物の体内を吸い取るだけの多くのクモと異なり、ハシリグモの仲間は物理的に噛み砕いて食べてしまう。このため彼らの食事の後には、獲物の干からびた死骸が残るのではなく、脚や羽根などの残骸が散らばっている状態になる。また、生き餌でなく、死後数日経った死骸であっても漁って食べることがある』。『配偶行動としては、雄が捕らえた獲物を雌に贈る「求愛給餌」が行われることが知られている。雄はまず獲物になる昆虫を捕り、これを糸で包んで雌に渡すことで交接を許される。獲物の大きさによって交接を許される時間が変わるとも言われている』。『雌は卵を糸で包んで卵嚢とし、これを口にくわえて持ち運ぶ。幼生が生まれる少し前になると、低木や草の葉の下に、籠網のような形に糸を組んで、その真ん中に卵嚢をぶら下げる。卵嚢から幼生が出てくると、幼生はしばらくの間、その卵嚢のそばでかたまりになって過ごす。これをまどいということもある。その後、草の葉の上に登り、糸を風に乗せて飛んでゆく(バルーニング)』とある。卵嚢を保守する画像は例えばこれがよい。]

 

 本能とか智力とか違つた名を附けては居るが、詰る所いづれ生存に間に合ふだけの神經系の働きであつて、これらの働きが敵に比して劣つて居ては生存が出來ぬから、代々少しづつ進歩し來つたのであらうが、その進歩の程度はいつも生存競爭に當つて敵に負けぬといふ所を標準とし、決してこれを超えて遙に先まで進むことはない。されば人間の智力の如きも、生存競爭に於ける武器としては漸く間に合つて行くが、素より絶對に完全なものではなく、特に生存競爭以外の暇仕事の方面に向けて働かせる場合には、その結果は頗る當てにならぬものと思はれる。本能によつて働く昆蟲や「くも」は、その境遇を變へて試して見ると盛に無駄な仕事をするが、智力の方もこれと同樣で、當然働かせるべき方面以外に向けて試して見ると、大間違ひの結論に達することがあるから、そのため今後も隨分無駄な骨折りをなし續けることであらう。

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