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2013/02/08

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 雪の下 段蔓

    雪の下 段蔓

 鎌倉、柑州鎌倉郡(こほり)にあり。鎌倉の里ともいふ。八幡宮の前の町を雪の下といふ。茶屋、旅籠屋(はたごや)おほし。鎌倉一見(いちけん)の人は、こゝにて案内(あんない)をとりてよし。段蔓(だんかつら)といふに一の鳥居あり。これより濱邊まで二の鳥居、三の鳥居あり。琵琶橋(びわはし)あり。この邊、尊氏の屋敷跡、本覺寺(ほんかくじ)、妙隆寺(みやうりうじ)、親王(しんわう)屋敷跡あり。
〽狂 出來(でき)秋のいねをかるてふ
               かまくらや
  これほうねんの
         ゆきの下町(したまち)
「さてさて、これはこまつたことをした。儂(わし)はあとの立場(たてば)へ肝心の水筒(すひづゝ)をわすれてきた。とりにもどるには、これから、また一里ばかりも後(あと)へかへらねばならず、人をたのんでとりにやれば、錢(ぜに)がいる。はて、こまつたものだ。おもひきつて、人をたのんでやらうか、たゞしは、俺がとつてこやうか、これは、どうしたものであらう。」
「もしもし、お前のわすれたといひなさるは、この水筒の事かへ。これは妾(わたし)の水筒だから、今、妾が後(あと)へもどつて、とつてまいりました。」
「さては、お前の水筒であったか。それで私はおちついた。それが、ひよつと私の水筒かと思つて、先(さつ)きにから大きに氣をもんだが、お前のでよかつた。」
「これは、おかしや、お前のでよかつた、も。おのづからお前は、下戸(げこ)で酒は嫌ひでゐながら、どうしてこの水筒を、もちなさるものか。」
「それそれ、よくかんがへて見れば、儂は酒は嫌ひであつたに、そこにはさつぱり氣がつきませなんだ。昨夜(ゆうべ)の宿(やど)でも、褌(ふんどし)をほしたなりで、今朝(けさ)、わすれて出やうとして、立(た)ちしなに氣がついて、すぐにとつて、袂(たもと)へいれて出かけて見ると、褌は一つ、しめてゐるものを、これは、したり、これは他人(ひと)のであつた。沮喪(そゝう)な事をしたと思ふところへ、後(あと)から追手(おつて)の者がきて、『曲者(くせもの)、まて、御家(おいへ)の重寶(てうほう)源氏(げんじ)の白旗(しらはた)をうばひとりたる曲者、そうそうこつちへわたせ』といひ
[やぶちゃん注:この本文、最後の『いひ』の後に『▲』の接続記号があるが、続く文が見当たらない。
「一の鳥居」当時は、現在の鶴岡八幡宮の鳥居の名数の順列とは逆で、この一の鳥居は現在の三の鳥居(太鼓橋の手前の鳥居)である。また、浜直近にあった三の鳥居は当時、別名「大鳥居」とも呼ばれた。
「琵琶橋」鎌倉十橋の一。一の鳥居と二の鳥居の間にある。現在の下馬四ツ角のガソリン・スタンドの南で、現在は暗渠となっている。
「尊氏の屋敷跡」巽荒神の東南(当時、既に畑地となっていた)。「新編鎌倉志卷之五」の「尊氏屋敷」で考証したが、現在の鎌倉駅ホーム北鎌倉側(北部)駅外軌道附近に相当する。なお、鎌倉には他に足利尊氏の屋敷跡と称するものが浄妙寺の東方(公方屋敷)及び長寿寺の南にもある。
「親王屋敷跡」現在の小町にある宇津宮(うつのみや)稲荷の境内。宇津宮辻子(ずし)幕府跡に比定されている。宇津宮辻子とは若宮大路の二の鳥居直近の南側(現在の鎌倉市小町二丁目付近)にあった辻子(京都の「逗子」と同じく、通り抜けの出来る小道)で、若宮大路とその東側の小町大路(現在の通称「小町通り」とは若宮大路を隔てて反対の位置であるので注意)の間を東西に結んでいた。名称は鎌倉幕府の有力御家人であった宇都宮朝綱ら宇都宮氏の鎌倉での居館がこの界隈にあったことに由来する。鎌倉幕府の御所は第三代執権北条泰時によって、それまでの大倉から、この宇都宮辻子に南面する北側の地に移転されて、宇都宮辻子幕府と呼ばれた。ここが拡張されながら幕府滅亡までの政庁(若宮大路幕府)があったとも言われる(なお、移転の一因は嘉禄元(一二二五)年の夏に幕府の中核を成していた第一世代の北条政子や大江広元が相次いで死去、その流れからの心機一転を図ったものとも言われる)。移転は同年十二月で九条頼経はここで元服を迎え、翌年嘉禄二(一二二六)年に第四代将軍に就任した。ここにはその後、第六代将軍宗尊親王以下、第七代惟康親王、第七代久明親王、第八代守邦親王までの四代の親王将軍が居したことから、古く鎌倉では親王屋敷跡と呼ばれたもののようである(但し、「新編鎌倉志」「鎌倉攬勝考」には、この呼称を載せない)。
「これは、おかしや、お前のでよかつた、も。おのづからお前は、下戸で酒は嫌ひでゐながら、どうしてこの水筒を、もちなさるものか。」この台詞部分は、鶴岡節雄氏の「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」では、完全に脱落している。判読には困難を極めた。特に『も。おのづから』の部分は自信がない。識者の御教授を乞うものである。]

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