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2013/02/22

生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 五 意識

     五 意識

 人が目を醒まして居るときは意識があるといひ、熟睡して居るときは意識がないといふ。
しからば意識とは何かと尋ねると、これは容易に答へられぬ。なぜかといふに、意識のある狀態とない狀態との間には自然の移り行きがあつて、判然たる境界線を定めることが出來ぬからである。誰も自身に經驗のある通り、夜寢床に入つて目を閉ぢて居ると、いつとはなしに意識が朦朧となつて、暫時うとうとした後に終に眞に眠入つてしまふ。また急に起されたときには、直に意識が明瞭にならず、方角も分らず、物の識別も出來ぬやうな所謂寢ぼけた有樣を通過して漸く精神が判然する。赤子の生まれたばかりのときには取り立てて意識と名づくべき程のものもないやうであるが、日數が重なる間に次第に人間らしく、笑つたり怒つたりするやうになり、長い時日の後に至つて普通一人前の意識が完全になり終る。また病人が死ぬときにもまづ意識が混濁して昏睡の狀態に陷り、一歩一歩眞の無意識の境遇に近づいて行く。かくの如く人間だけに就いていうても、明瞭な意識のある狀態から、全く意識のない狀態までの間に無數の階段があるが、他の生物は如何と見ると、こゝにも意識には種々の程度の違つたものがある如くに思はれる。昔の或る有名な學者は意識を有するものは人間ばかりで、他の生物には意識はない。かれらは單に自動器械の如きもので、恰も時計や、ぜんまい仕掛けの玩具などの如くに器械的に動いて居るに過ぎぬと説いたが、これなどは人間と他の生物とを絶對に區別したいと思うた舊い頃の考で、今日虛心平氣に判斷すると、全く何の根據もない説である。生物の中には、眼付や擧動から鑑定すると人間に劣らぬ明瞭な意識を具へたものもあれば、人間の寢ぼけたとき位の程度以上に意識の進まぬものもあり、また一生涯を昏睡の狀態で過すものもある。野蠻人が、鳥獸は素より草木金石に至るまで、自分と同じ程度の意識がある如くに考へるのも誤であるが、昔の西洋の學者が、その正反對に人間以外の生物には意識はないと論じたのも同じく誤といはねばならぬ。
[やぶちゃん注:「昔の或る有名な學者」とは恐らくデカルトを指している。デカルトは「意識」という概念を、現在で謂うところの「思考」や「精神」に極めて近似したものとして定義しており、仮に動物に「意識」的に見える行動があったとしても、それは「考える」という能動的行動とは異なると考えていた。]

 著者が實物を見て考へる所によれば、多くの生物には慥に人間のと同じやうな意識がある。但しその程度は決して同じでない。本能や智力も各種の生物によつて發達の程度が違ひ、各々その生活に必要な程度にまでより進んで居ないが、意識なるものも各種の生物が食つて産んで死ぬのに必要なだけの程度より以上には昇らぬ。即ち一生涯昏睡の狀態にあつても、食うて産んで死ぬのに差支のない生物には、昏睡の狀態以上の意識は現れず、寢ぼけ程度の意識さへあれば食つて産んで死ねる生物には、寢ぼけ程度より以上の意識は生ぜぬ。隙を覗うて電光の如くに肴を盜み去る猫の意識と、靜に草を食つて居る芋蟲の意識と、追はれても逃げず突かれても平氣で居る「くらげ」の意識との間には、勿論甚しい相違はあるが、人間が生まれてから死ぬまでの間、または起きてから寢るまでの間には、これらと同等の階段を順次に經過するから、その間に境界を定めることは出來ぬ。無意識の狀態から有意識の狀態に進む有樣は、恰も夜が明けて朝となり、また晝となる如く、いつとはなしに變化して行くから、兩端を比べるとその間の相違は著しいが、こゝまでは意識がなく、そこから先は意識があるといふ如き境界はどこにもない。かやうな所に強いて境界を定めようとすれば、恰も汽車や電車の賃金十二歳以下は半額とか、五歳以下は無賃とか定める如くに、相談によつて便宜勝手な所に境を造るより外に致し方はないであらう。
 意識の程度が、各種の生物の生活に必要な所までより進まぬ如く、意識の範圍も、各種の生物の生活に必要なだけより以上には及ばぬやうである。元來意識は神經系の働の全部に亙るわけではなく、僅にその一部を含むだけで、恰も闇の夜に懷中電燈で照らした處だけが明く見えるのと同じく、殘餘の部分は全く意識の外にある。一例を擧げて見るに、我々が或る物體を觀るときには、その物體の像が眼球の奥の網膜の上に倒さに小さく映ずるが、このことは少しも意識せられぬ。また種々の實驗でわかる通り、網膜の上に映じた像をそのまゝに感ずるわけではなく、これを材料として一種の判斷力を働かせ、その結果を感ずるのであるが、この判斷の働も意識の範圍以外にある。そして、たゞその結論だけを直感的に知ることが出來る。網膜にどんな像が映じようとも、また先祖以來の感覺の記憶や、その連絡の記憶がどんなであらうとも、そのやうなことは知つても生活上何の役にも立たぬから、意識の中に現れぬが、自身の前面に當たる外界の一部に、自分より約何米距る處に何程の大さの如何なる形の物が有るかを知るのは生活上最も肝要なことであるから、たゞこれだけが意識せられるのである。されば意識の範圍内に現れるのは、神經系の働の中で生活上明瞭に意識する必要のある部分だけであつて、その他の働は、たとひこれと密接な關係のあるものでも、みな意識以外に隱れて居る。これに類似したことは我々の日常の生活中にも幾らもある。例へば時計を用ゐるには時刻の讀みやうと、鍵の卷きやうと、針の動かしやうとを知つて居れば十分であつて、内部の細かい機械の仕掛けなどは知らずとも差支はない。また電話を掛けるには、呼出しやうと切りやうとを知つて居ればよいので、別に電話機械の構造や理窟を知つて居る必要はない。生物の有する意識なるものもこれと同樣で、神經系の働きを全部知つて居る必要はないから、他の部分はすべて無意識の繩張り内に殘して置いて、たゞ直接に知る必要のある部分だけを引き受けて居るのである。意識に現れることは、皆無意識の範圍内に於ける神經系の働を基礎とし、且これと密接な關係のあることはいふまでもない。
 本章に於ては主として智力のことを述べて、情の働、意の働のことは全く省いたが、著者の考へによればこれもやはり前と同樣の關係で、各種の生物が食うて産んで死ぬのに必要な程度までには發達して居るが、決してそれ以上には進んで居ない。しかもそれが意識に現れるのは當事者が自覺する必要のある部分だけに限る。情の力、意の力が無意識の範圍内で働き、その結末だけが意識せられる場合には、なぜにこのやうなことがしたいか、なぜこのやうなことをせずに居られぬかは、無論自身にもわからず、たゞ本能的にそのことをなし終るであらうが、かくすれば、それが必ず種族の生存のために役に立つ。即ち當事者が自身の行爲の理由を知つて居ても知らずに居ても、それは種族の生存のためにはいづれでも差支はない。たゞ必要なだけのことが行はれさへすれば宜しいのである。身體に水分が不足すれば渇を感じて水が飮みたくなり、水を飮めば水の不足は忽ち補はれる如く、意識して感ずるのはたゞ直接に必要なことだけで宜しい。それより奧のことは必ずしも感ずるに及ばぬ。かやうに考へて見ると、意の力、情の力を具へて、生物が敵を防ぎ、子を育てなどして居る有樣は、恰も電車の運轉手がハンドルの廻しやうと、齒止めの掛けやうとだけを知つて、日々車臺を運轉せしめて居る如くで、抑々如何なる理由で車の輪が廻轉するかといふ問題などは捨てて置いても少しも差支はない。たゞ綠の旗が出れば進み、赤い旗が見えれば止まりさへすればよいのである。そして實際如何なる生物でも意識内に現れる神經系の働きは、必ずかやうな性質の部分のみに限られて居るやうに見受ける。
 なほ各種の生物が食つて産んで死に得るために有する種々の構造や習性を通覧して、心附かずに居られぬ點が一つある。それは外でもない。いづれの構造でも習性でも種族全體としての生存に有利であれば宜しいので、例外の場合に少數の個體が犧牲となることは全く度外視せられて居る。言を換へていへば、自然なる者は種族の生存を圖るに當つて、いつも全局を通じての利益を標準とし、多少の無駄は始から覺悟して居るのである。本章に述べた本能でも智力でも反射作用でも、皆各種の生物の種族全體に取つては必要なものであるが、特殊の場合に若干の個體が、そのため生活の目的にかなはぬ所業(しわざ)をなすことを避けられぬ。「走りぐも」が紙屑の丸めた球を卵塊と誤つて大切に保護するのは、本能のために無益な勞力を費して居るのであるが、蛾の類が燈火を見て飛び込んで來る如き場合には、本能のために命を捨ててしまふ。しかしながら、「走りぐも」が紙屑を卵と間違へるのは、人がわざわざ試驗して見る極めて稀な場合に限ることで、これは全く勘定には入らず、また人が燈火を點し始めたのは、地球の長い歴史中の最後の頁で、しかも燈火の光の達する區域は、表面の廣さから見れば殆どいふに足らぬから、もし蛾をして燈火に向はしめる神經系の構造が、蛾の生活上他の方面に有功な働をなして居るものとすれば、差引き勘定無論遙に得になつて居る。半紙を漉くに當つて、始から毫も無駄の出ぬやうに出來上りだけの寸法に造らうとすれば、これは頗る困難なことで、如何に手數を掛けてもなかなか行はれ難い。これに反して、始から若干の無駄を見越し、出來上りの寸法よりも稍々大きく漉いて、後に周邊の餘分の處を裁ち切ることにすれば、頗る容易に目的を達することが出來る。生物界に於ける本能・智力乃至情の力、意の力なども、これと同じ理窟で、無駄な部分を裁ち切つて餘つた處が生活上の役に立てば、それで已に目的にはかなうて居る。特殊の場合に出遇つた本能の働や、生活に必要なより以外の方面に向けた智力の働などは、時としては若干の個體の生存のために無益または有害なこともあるが、これは恰も半紙の裁ち屑のやうなもので、各種族の全體の經濟からいへば、捨てても決して損にならぬ位のものであらう。

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