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2013/02/01

★③★北條九代記 巻第三【第3巻】 改元 付 城四郎長茂狼藉 付 城資盛滅亡 竝 坂額女房武勇

鎌倉 北條九代記  卷第三

 

      ○改元  城四郎長茂狼藉  城資盛滅亡

  坂額女房武勇

正治三年正月二十二日改元の詔書を關東にくださる。建仁元年と號す。去ぬる三日、京都には朝覲(てうきん)の行幸あり、その行粧(かうさう)きらびやかにして人の目を驚(おどろか)す。春宮(とうぐう)、一の宮も同じく臨幸ましましけり。掃部(かもんの)入道、佐々木定綱、小山朝政(ともまさ)は大番の勤仕(きんじ)として在京致しければ、警蹕(けいひつ)の爲に召供(めしぐ)せらる。各(おのおの)小具足(こぐそく)に小手差(こてさし)して兵伏(ひやうじやう)を帶(たい)す。家子郎從、思ひ思ひに出立(いでた)ち、行列亂らず、鳳輦(ほうれん)の前後に歩(あゆ)ませければ、禁中より仙洞まで道の南方には、見物の諸人、堵(かき)の如し。若(もし)狼藉の者ありて非常の事も出來すべきかとて、辻堅(つじがため)嚴しく置きて、誠に物靜(ものしづか)なる粧(よそほひ)なり。斯る所に、越後國の住人、城(じようの)四郎資國が四男四郎平長茂(たいらのながもち)、俄に軍兵を率して、小山左衞門尉朝政が三條東〔の〕洞院の家を取圍(とりかこ)む。小山は行幸の供奉致しければ、留主(るす)の程(ほど)なり。僅に殘る郎等共、かひがひしく防戰(ふせぎたゝか)ひしに、長茂、引退き、直(すぐ)に仙洞に參りて、四門を閉固(とぢかた)め、關東追伐の宣旨を申し賜るべき由、奏聞(そうもん)すといへども、敢て勅許なかりしかば、長茂、力なく、在番の武士、馳向(はせむか)はん事を恐れて逐電す。佐々木、小山、向ふといへども、早(はや)、其跡を暗(くらま)しめり。關東へ飛脚立てられしかば、すはや、京都に大事起れりとて、鎌倉中の武士等(ら)、上へ下に返したり。制止を加へられしを以て、夜(よ)に入りて靜りぬ。「禁裏、仙洞には偶(たまさか)の行幸、歌詠の御遊(ぎよいう)を妨げ奉るの條、長茂が在所を尋求(たづねもと)めよ」とて、京都畿内の御家人等(ら)に相觸れらる。同三月に、京都の飛脚、鎌倉に参著して申しけるは、「去月二十二日、城四郎長茂竝に一族餘黨、新津(にひつの)四郎以下、吉野の奥にして大衆の爲に討(うた)れて、長茂竝に郎従四人が首級を京都に送りて、大路を渡され、獄門に梟(か)けられし」となり。その場を遁(のが)れし長茂が餘類、城小次郎資家入道、同じき三郎資正、本吉冠者隆衡(もとよしのくわんじやたかひら)も所々にして討れたり。これそこそ珍事なれと思ふ所に、越後國より飛脚到來して、關東に申入れけるは、「城小太郎資盛は城太郎資永が嫡男なり。長茂には甥なりけるが、當國に城を構へ、北陸道の軍兵を招き、叛逆(ほんぎやく)の猛威を振ふ。土佐越後の軍兵等(ら)、是を襲討(おそひう)つといへども、物ともせず、早く討手を下されずは、頗る大事に及び候べき歟」とぞ告げたりける。北條遠江守を初めて、廣元、善信等(ら)評定して、「佐々木三郎兵衞尉盛綱法師西念は古老軍道(こらういぐんだう)の勇士なり。是を大將として、越後國の御家人等(ら)を催し、資盛を誅伐あるべし」とて、上野磯部郷(いそべのがう)に御教書(みけうしよ)を遣(つかは)さる。折節、西念は館(たち)の門外に有て、是を拜見し、内への入(い)らず、馬に鞍置(おか)せて、輕々と打乘り、越後を指して、馳向(はせむか)ふ。郎等、家子(いへのこ)追々に馳(はせ)付きて、楚忽(そこつ)の由を申しければ、西念、打笑ひて、「昔、天慶(てんぎやう)年中に相馬將門(さうまのまさかど)、叛逆(ほんぎやく)の時、宇治の民部卿藤原忠文(たゞぶん)に追討使の宣を賜る。忠文、折節、膳を羞(すゝ)めしが、この宣旨を聞きて箸を抛ち、座を立ちて、参内し、節刀(せつたう)を賜つて、家にも歸らず、直(すぐ)に東國に赴きたりと云ふ。勇士の心ざす所は、是こそ忠勤の道なれや。急げ急げ」とて、駒に鞭を揚げて、三日の間(あひだ)に、越後國小太郎が城廓を構へし鳥坂口(とりさかぐち)に押付(おしつ)け、使を以て、資盛に御(み)教書の趣を觸聞(ふれき)かしむ。資盛は、豫(かねて)より思設(おもひまう)けし事なれば、「是へ御向ひ候へ、一戰を遂げて雌雄を決し候はん」とぞ申し返しける。越後、佐渡、信濃三ヶ國の御家人等(ら)一族郎從、雲霞の如く馳集(はせあつま)る。寄手の大將西念が子息佐々木小三郎、兵衞尉盛季(もりすゑ)[やぶちゃん注:ここ底本では「もりひで」とルビを振るが、後文で「もりすゑ」と正しく振っているので誤りとして訂した。]、先蒐(さきがけ)せんと進む所に、信濃國の住人海野小太郎幸氏、只一騎、盛季が右の脇をかい潜りて馳出(はせい)でたり。盛季が郎等、源五と云ふ者、幸氏が馬の轡(くつばみ)をむずと捕へたり。この間に盛季、先登(せんとう)に進みて、一の箭(や)を射初めける。幸氏、二の矢を放つ程こそありけれ、城の内より、究竟(くつきやう)の兵十七騎、木戸を開きて、打て出でつゝ、散々に相戰(あひたゝか)ふ。寄手、おり重(かさな)りて攻めければ、城兵は手負ひ疵を蒙りて、木戸より内に引入れたり。越後勢、押掛(おしか)けて攻入(せめい)らんとせし所を、城中より雨の如くに射出(いいだ)す矢に、寄手二十六騎、射落(いおと)されて引退く。佐々木盛季、疵を蒙り、そのほか家子郎等共(ども)、痛手薄手(うすで)負はぬものは更になし。然る所に、郷資盛が姨母(をば)坂額御前(はんがくごぜん)とて、女性(によしやう)ながらも、力量、世に勝れ、心、剛(がう)にして、而(しか)も弓は又、百發百中の手利(てきゝ)なり。その出立(いでたち)、童形(どうぎやう)の如くに髪を上げさせ、腹卷を著して、矢倉(やぐら)に上(あが)り、大の矢を打番(うちつが)うて、指詰(さしつめ)々々射出しけるに、この矢先に懸る者、或は胸板を射貫かれ、或は鉢付(はちつけ)の板を裏へ通され、馬を射させ、楯を碎かれ、寄手(よせて)、立足(たつあし)なく、攻口(せめぐち)を引退(ひきしりぞ)く。寄手の中に信濃國の住人藤澤四郎淸親とて大力の強弓(つよゆみ)、精兵(せいひやう)の矢繼早(やつぎばや)あり。この有樣を見て云ふやう、「是程、大勢の軍兵等(ら)、あの女性一人に射立てられ、しどろに亂るゝ事やある。口惜しき事かな。軍(いくさ)散じて後までも、女性の矢前(やさき)に引退きたりと云はれんは、生(いき)ての笑ひ種(ぐさ)、死しての面目(めんぼく)、後代(こうだい)までも失はん、いでいで、味方の軍(いくさ)を進めて參(まゐら)せん」とて、城の後(うしろ)に廻りて、小山の上に驅上(かけあが)り、城中をよくよ見果(みおほ)せ、鋭矢(とがりや)を拔出(ぬきいだ)し、弓に矢番(つが)うて、忘るゝ計(ばかり)、引絞(ひきしぼ)り、拳(こぶし)を固めて、ひようと發(はな)つ。其(その)矢、過(あやま)たず、板額御前の左右の股(もゝ)を貫きて射倒しけり。淸親が郎從十餘人、城塀(へい)を越えて、込入(こみい)りつゝ、姨母(をば)を生虜(いけど)り、閧(とき)の聲を揚げければ、城中には力を落して、寄手は是に色を直(なほ)し、どつと押詰(おしつ)め攻入(せめい)りければ、小太郎資盛、叶はずして、城に火を懸け、腹掻(はらかき)切て死にければ、殘る兵共(つはものども)、思ひ思ひ、落つるもあり、自害するものもあり、軍(いくさ)は既に果てにけり。

[やぶちゃん注:所謂、建仁元・正治三(一二〇一)年正月二十三日から五月にかけて、城長茂ら城氏一族が倒幕を目的として起こした建仁の乱の話柄である。前巻で見たように前年の正治二(一二〇〇)年正月に梶原景時が滅ぼされると、景時の庇護を受けていた城長茂は上洛、京において幕府打倒の兵を挙げ、同時期に本領越後国でも甥の城資盛及び、長茂の妹である坂額御前ら城一族が反乱を起こした、この一連の事件を建仁の乱(若しくは城長茂の乱)と称する。朝覲の行幸及び平長茂が小山朝政の宿舎を襲うシーンは「吾妻鏡」巻十七の建仁元年二月三日・五日。二十二日、三月四日・十二日を、続いて起こった城資盛の反乱と坂額女房の次第は、同巻の建仁元・年四月二日・三日・六日、五月十四日・十七日の記事などに拠るが、作者の創作部分が、

「坂額女房武勇」「坂額」は「はんがく」、「武勇」「ぶよう」とルビを振る。

 まず、幾つかの誤りを「吾妻鏡」建仁元・正治三(一二〇一)年正月二十三日から引用して指摘する。

〇原文

三日甲申。未尅。掃部入道。佐々木左衞門尉定綱。小山左衞門尉朝政。〔爲大番勤仕在京。〕等飛脚參著。申云。去月廿三日。天皇朝覲行幸仙洞。〔二條殿。〕春宮。七條院。一宮同臨幸。爰越後國住人城四郎平長茂〔城四郎助國四男。〕引率軍兵。圍朝政三條東洞院宿廬。朝政供奉行幸留守程也。所殘留之郎從等禦戰之間。長茂引退。即行幸還御以前推參仙洞。閇四門。申可追討關東之宣旨。然而依無勅許。長茂逐電。有淸水坂之由。風聞之間。朝政等雖馳向。不知行方云々。彼使者先到著大官令亭。次參御所。此間。諸人群參。鎌倉中騒動。依被加制止。入夜靜謐云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日甲申。未の尅、掃部入道・佐々木左衞門尉定綱・小山左衛門尉朝政〔大番勤仕の爲、在京す。〕等が飛脚參著し、申して云はく、「去ぬる月廿三日、天皇、仙洞〔二條殿。〕へ朝覲(てうきん)行幸す。春宮・七條院・一宮、同じく臨幸す。爰に越後國住人の城四郎平長茂〔城四郎助國が四男。〕、軍兵を引率し、朝政の三條東洞院の宿盧(しゆくろ)を圍む。朝政、行幸に供奉し留守の程なり。殘留する所の郎從等禦ぎ戰ふの間、長茂、引き退く。即ち行幸還御以前に仙洞へ推參して、四門を閇ぢて、關東を追討すべきの宣旨を申す。然れども、勅許に無き依つて、長茂、逐電し、淸水坂に有るの由、風聞するの間、朝政等、馳せ向ふと雖も行方知れずと云々。

彼の使者、先づ大官令の亭に到著し、次(つい)で御所に參る。此の間、諸人群參し、鎌倉中、騒動す。制止を加へらるに依つて、夜に入りて静謐すと云々。

・「掃部入道」中原親能。

・「大番」京都大番役。鎌倉幕府御家人役の一つで、幕府が守護・有力御家人を通じて召集、主として六波羅探題が統轄して内裏諸門の警備などに当たった。

・「天皇」土御門天皇。未だ満五歳である。

・「仙洞〔二條殿。〕」後鳥羽上皇。

・「春宮」東宮守成親王(後の順徳天皇)。

・「七條院」高倉天皇の妃で鳥羽天皇の生母藤原殖子(しょくし/たねこ)。

・「一宮」「北條九代記」にも出るが不詳。「春宮一宮」で一語と思われない。私の持つ「吾妻鏡」関連書やネット情報でも「一宮」と独立させるも記載がない。増淵氏の訳でも補注がない。建久六(一一九五)年生まれで当時六歳の後鳥羽天皇第一皇女昇子内親王(後に東宮守成親王(後の順徳天皇)の准母となって皇后宮、女院。院号春華門院。中宮九条任子(宜秋門院。九条兼実の娘)所生の唯一の子女)か? 識者の御教授を乞う。

・「大官令」大江広元。

以上から分かるように、本文の次の二箇所は誤りである。

 

「正治三年正月二十二日改元の詔書」の「正月」は「二月」の誤り。

「去ぬる三日、京都には朝覲の行幸あり」自動的に「去ぬる」月も誤りとなり、さらに、この「三日」というのも誤り。前注の補正後の正しい「二月」の前月、正月の二十三日が正しい。「朝覲」は朝覲行幸で、天皇が年の初めに太上天皇・皇太后の宮に行幸して正月の挨拶をすることで、実は多くの場合、本文のように、正月二日又は三、四日に行われた行事ではあったが、吉日を選ぶこともあって一定していなかった。

 

「警蹕」御先払(みさきばらい)。天皇や貴人の通行の際に声を立てて人々を畏まらせ、先払いをすること。また、その「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言った発声の声をも指す。

「小具足」小具足出装(こぐそくいでたち)。鎧下の装束に籠手(こて)・臑当(すねあて)・脇楯(わいだて)のみを着用して、鎧をつけない軽装備の軍装。

「小手差」鎧の付属具の内、肩先から左右の肩先から腕を覆うもの。袋状の布地に鉄金具や鎖を綴じつけてある。前の「小具足」姿に含まれる装備であるが、もしかすると、筆者の江戸前期にあっては、「小具足」と言った場合は、籠手は附けないか、もっと軽装の籠手、例えば手甲(てっこう:紺の布や革で作った手の甲や手首を蔽い保護するもの)であったのかも知れない。ともかくも、この行列の描写は作者のオリジナル部分である。何となく、私には「源氏物語」の一節のような印象を匂わせる。

「兵伏(ひやうじやう)」ママ。恐らくは底本の誤植か、原本の誤字で、「兵仗」、歴史的仮名遣も「ひやうぢやう(ひょうじょう)」で誤りとなる。刀剣弓槍など実戦用の武器や儀仗のこと。

「鳳輦」屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿(こし)。天皇の晴れの儀式の行幸用の乗物。鳳輿・鸞輿とも呼ぶ。

「城四郎資國が四男四郎平長茂」城長茂(仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)。桓武平氏維茂流城氏の系流。元の名は助職・資職(すけもと)とも。以下、ウィキの「城長茂」などによれば、治承五年(一一八一)年二月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽、家督を継いで、同年六月には兄に代わり、信濃に出兵、資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、長茂は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、一万の大軍を率いていながら、三〇〇〇ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後に奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされた(「玉葉」寿永元年七月一日条)。同年八月十五日、義仲への牽制として、平宗盛によって越後守に任じられたが、九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官や藤原秀衡の陸奥守任官を『天下の恥』『人以つて嗟歎す』と非難している(この頃に助職から長茂と改名)。しかし、翌寿永二(一一八三)年七月の平家都落ちと同時に罷免、結局、越後守としての実体は実現しなかった。その後の経歴は殆んどが不明で、元暦二(一一八五)年の平家滅亡・頼朝の覇権奪取後の、文治四(一一八八年)年前後に囚人として捕えられ、梶原景時に身柄を預けられた。文治五(一一八九)年の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた(この辺りは本作既出の「賴朝卿奥入 付 泰衡滅亡」に詳しい)。ところが頼朝死後の、本作でも詳しく語られた梶原景時の変によって庇護者景時が滅ぼされると、一年後に長茂は軍勢を率いて上洛、ここに見るように京において幕府打倒の兵を挙げ、軍を率いて景時糾弾の首謀者の一人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すよう要求したが、宣旨は得られず、襲った朝政ら幕府軍の追討を受けて、大和吉野にて討死した。享年五十。身長七尺の大男であったとする。

「本吉冠者隆衡」藤原高衡。かの藤原秀衡の四男。兄泰衡は奥州合戦で誅殺されるも、高衡は下河辺行平を通じて降伏、捕虜となった後、鎌倉に護送されて相模国に配流されたが、後に赦免、暫くは鎌倉幕府の客将のような存在であったと言われる(ウィキの「藤原高衡」に拠った)。

「土佐」佐渡の誤り。

「佐々木三郎兵衞尉盛綱法師西念」佐々木盛綱(仁平元(一一五一)年~?)。本文では既出であるが、ここで注する。頼朝直参。近江国佐々木庄を地盤とした宇多源氏佐々木氏棟梁佐々木秀義三男。平治元(一一五九)年の平治の乱で父が従った源義朝の敗北により、一門と共に関東へと落ち延び、渋谷重国の庇護を受けた(当時満八歳)。仁安元(一一六六)年に元服して名を盛綱に改め、十五歳で伊豆に流された義朝遺児頼朝の身辺に仕え、特に「平家物語」にも描かれた、元暦元(一一八四)年十二月、備前国児島で平行盛率いる五百余騎が籠もった城を攻落した藤戸の戦い及びそれを謡曲にした「藤戸」で知られる名将である。開幕後も常に頼朝に近侍し、頼朝死後、建久一〇(一一九九)年に出家して西念と称していた。本件、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられた際には上野国磯部郷にあって満四十八歳であった(以上はウィキの「佐々木盛綱」に拠った)。

「城小太郎資盛」(生没年未詳)は城長茂の兄資永の嫡男。長茂が源頼朝に降伏した後は、資盛は再起を期して越後周辺に潜伏していたと見られる、とウィキの「城資盛」にはある。

「上野國磯部郷」現在の群馬県碓氷郡磯部町。

「御教書」三位以上の公卿又は将軍の命を奉じて、その部下が出した命令書。幕府将軍の場合は関東御教書という。

「楚忽の由」者どもの用意も整わぬ先のあまりに急のお立ちは、失礼乍ら、拙速にては御座いませぬか? の意。

「天慶年中……」新皇を名乗った「相馬將門」=平将門の乱では天慶三(九四〇)年一月十九日に参議藤原忠文が右衛門督・征東大将軍に任じられ、追討軍が京を出立している。但し、藤原忠文(「ただぶみ」とも読む)を晴の出陣の引き合いに出すのは、私にはやや戴けない気がする。何故なら、忠文の事蹟から見ると不吉だからである。実際の忠文は六十八歳の老齢を押して、将門鎮圧のために東国へ向かったが、東国到着前に平貞盛や藤原秀郷らによって既に将門は討伐されてしまい、大納言藤原実頼が彼への嘉賞に反対、忠文は恩賞を得られなかった。忠文はこれを不満として辞任を申し出たが許されず、その後、天暦元(九四七)年六月に享年七十五で忠文が没すると、同年十月に実頼娘述子(じゅつし:村上天皇女御。)が、翌十一月には実頼長男敦敏(あつとし)が相次いで死去したため、忠文の怨霊が実頼の子孫に祟ったと噂されたという。このことから忠文は悪霊民部卿とも呼ばれ、その霊を慰めるため宇治に末多武利神社が創建されてさえいる御霊でもある。少なくとも、出陣の際の故事としては、やはり戴けないのである。但し、この話柄は「吾妻鏡」の建仁元(一二〇一)年四月六日の条に基づく。以下に示しておく。

〇原文

六日乙酉。晴。入夜。義盛飛脚自上野國歸參。申云。持向御教書於西念之宅折節。西念有門外。乍立拜見之。不能入門内。取所立于門傍之鞍馬乘之。即揚鞭馳向越州云々。郎從等追至于路次。愁楚忽之由。西念云。吾聞。天慶年中。平將門於東國企叛逆之時。以宇治民部卿〔忠文。〕爲追討使。而羞膳之間。聞可有此宣下之旨。戸部抛箸起座。則參内。給節刀之後。不能歸宅。直赴洛外云々。勇士之所志。以之爲善也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日乙酉。晴る。夜に入りて、義盛が飛脚、上野國より歸參す。申して云はく、

「御教書を西念が宅に持ち向ふ。折節、西念門外に有り、立ち乍ら之を拜見、門内に入ること能はず、門の傍らに立つる所の鞍馬(あんめ)を取つて、之に乘り、即ち、鞭を揚げ越州に馳せ向ふ。」と云々。

郎從等、追ひて路次(ろし)に至り、楚忽の由を愁(うれ)ふ。西念云はく、

「吾れ聞く、『天慶(てんぎやう)年中、平將門、東國に於いて叛逆を企つるの時、宇治民部卿〔忠文。〕を以つて追討使と爲す。而るに、膳を羞(すす)むるの間、此の宣下有るきの旨を聞き、戸部(とべ)、箸を抛ちて座を起ち、則ち、參内す。節刀を給はるの後、歸宅に能はず、直(すぐ)に洛外へ赴く。』と云々。勇士の志す所、之を以つて善と爲すなり。」と云々。

・「戸部」は民部卿の唐名。

・「節刀」天皇から出征の将軍や遣唐使に下賜された、任命の印たる太刀。「せちとう」とも呼ぶ。

 

『駒に鞭を揚げて、三日の間に、越後國小太郎が城廓を構へし鳥坂口に押付け、使を以て、資盛に御教書の趣を觸聞かしむ。資盛は、豫より思設けし事なれば、「是へ御向ひ候へ、一戰を遂げて雌雄を決し候はん」とぞ申し返しける。……』以下、ほぼ最後まで「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年五月十四日の条に基づく。

〇原文

十四日癸亥。晴。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道使者參着。捧一封狀。義盛持參御所。善信。行光於御前讀申之。其狀云。日來。城小太郎資盛欲奉謀朝憲。構城郭於越後國鳥坂。近國之際。存忠直之輩。憖雖來襲。還悉以敗北。爰西念可發向之由奉嚴命。件御教書。去月五日到著于西念之住所上野國礒部郷。仍不廻時尅揚鞭。三ケ日之中。馳下鳥坂口。則遣使者於資盛。相觸御教書之趣間。答早可來城邊之由。因茲發勇士等。于時越後。佐渡。信濃三ケ國輩爭鋒競集。西念息子小三郎兵衛尉盛季欲先登之處。信濃國住人海野小太郎幸氏拔於盛季之右方。欲進出。爰盛季郎從取幸氏騎轡。此間。盛季如思進先登射一箭。其後幸氏又進寄。相戰之間被疵。資盛已下賊徒飛矢石不異雨脚。合戰之間。彼及兩時。盛季被疵。郎從等數輩。或殞命。或被疵。又有資盛之姨母之。號之坂額御前。雖爲女性之身。百發百中之藝殆越父兄也。人擧謂奇特。此合戰之日。殊施兵略。如童形令上髮。着腹卷。居矢倉之上射襲致之輩。中之者莫不死。西念郎從又多以爲之被誅。于時信濃國住人藤澤四郎淸親廻城後山。自高所能窺見之發矢。其矢射通件女左右股。即倒之處。淸親郎等生虜。疵及平喩者。可召進之。姨母被疵之後。資盛敗北。出羽城介繁成〔資盛曩祖。〕自野干于之手所相傳之刀。今度合戰之刻紛失云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日癸亥。晴る。佐々木三郎兵衞尉盛綱入道が使者參著し、一報の狀を捧ぐ。義盛、御所に持參、善信・行光、御前に於いて之を讀み申す。其の状に云はく、

日來(ひごろ)、城小太郎資盛、朝憲(てうけん)を謀り奉らんと欲し、城郭を越後國鳥坂に構へ、近國の際(あひだ)、忠直を存ずるの輩、憖(なまじ)ひに來襲すと雖も、還て悉く以て敗北す。爰に西念、發向すべしの由、嚴命を奉る。件の御教書、去る月五日、西念の住む所、上野國礒部郷に到著す。仍つて時尅を廻らざず、鞭を揚げ、參箇日の中に鳥坂口(とりさかぐち)へ馳せ下る。則ち、使者を資盛に遣はし、御教書の趣きに相ひ觸るるの間、早く、城邊に來るべしの由を答ふ。茲(これ)に因つて、勇士等を發す。時に越後・佐渡・信濃の參箇國の輩、鉾(ほこさき)を爭ひて競ひて集ふ。西念の息子小三郎兵衞尉盛季、先登(せんとう)を欲するの處、信濃國住人、海野小太郎幸氏、盛季が右方に拔きんでて、進み出でんと欲す。爰に盛季の郎從、幸氏の騎の轡(くつばみ)を取る。此の間、盛季思ひのごとく先登に進み、一の箭(や)を射る。其の後、幸氏も又、進み寄つて相ひ戰ふの間、疵を被る。資盛巳下の賊徒、矢石(しせき)を飛ばすこと雨脚(うきやく)に異らず。合戰の間、兩時に及び、盛季が郎從等數輩、或ひは命を殞(おと)し、或ひは疵を被る。又、資盛の姨母(をば)有り。之を坂額御前(はんがくごぜん)と號す。女姓の身たりと雖も、百發百中の藝、殆んど父兄に越ゆるなり。人、擧(こぞ)りて奇特(きどく)と謂ふ。此の合戰の日、殊に兵略を施し、童形(どうぎやう)のごとく、髪を上げしめ、腹卷を著し、矢倉(やぐら)の上に居て、襲ひ致るの輩(ともがら)を射る。これに中(あた)る者死せずといふこと莫し。西念が郎從、又、多く以つて之の爲に誅せらる。時に信濃國の住人藤澤四郎淸親、城の後山に廻り、高所より之を能く見て矢を發(はな)つ。其の矢、件の女の左右の股を射通す。即ち倒るるの處、淸親の郎等が生虜(いけど)る。疵、平愈に及ばば、之を召し進ずべし。姨母が疵を被るの後、資盛、敗北す。出羽城介繁成〔資盛が曩祖(なうそ)。〕、野干(やかん)の手より相傳する所の刀、今度、合戰の刻みに紛失すと云々。

・「鳥坂口」現在の新潟県胎内市羽黒の鳥坂(とっさか)につくられた山砦。

・「西念の息子小三郎兵衞尉盛季」佐々木盛綱の末の方の男子のようである。佐々木系図ではこの盛季以後は、代々野村姓を名乗っているとあり、それは盛季が近江国野村郷を領していたため、という記載が「武家家伝 立原氏にある。盛綱はこの公式戦況報告書で、かなりあからさまな親馬鹿を披露しているのだが、前の出兵の際のエピソードの記録と言い、ちょっと私はやり過ぎで嫌味な感じさえしてくるが、皆さんは如何?

・「海野小太郎幸氏」既出であるが、再注する。「海野小太郎幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。

・「坂額御前」(生没年未詳)資永・長茂らの妹。名は板額・飯角とも表記するが、どうもこの飯角が元の名で、その音「ハンガク」に板額が当てられたものらしい。別に額がのっぺりと広いという意味ではない。彼女については、この直後の「吾妻鏡」建仁元(一二〇一)年六月の二十八日と二十九日の条に意外な(いや、寧ろ成程と思わせるというべきか)展開の後日譚が載り、「北條九代記」もそのために次の一話「坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」を取っている。とってもいいシーンなので続いてお読みあれかし!

・「藤澤四郎淸親」海野幸氏同じく、義仲の嫡男義高(義重)が頼朝の人質となった際に一緒に鎌倉へ下った家臣であったが、義仲敗死後に御家人と認められ人物。幸氏同様、弓の名手として知られた。

・「出羽城介繁成〔資盛が曩祖。〕、野干の手より相傳する所の刀」資盛の先祖である出羽城介繁成が野狐からもらったという伝家の宝刀の意であるが、この話は、次の「坂額女房鎌倉に虜り來る 付 城資永野干の寶劍」で語られているので、次回のお楽しみ!

 

「先蒐」先駆けに同じい。「蒐」には「狩」の意があるから、おかしくはない。

「指詰々々」「指(さ)し詰め引(ひ)き詰め」。「さす」は矢を弦に番(つが)える意、「ひく」は弓を引き絞る意で、手早く矢を弦につがえて次々と、矢継ぎ早に射るさま。

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