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2013/02/27

金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 松个岡 甘露井

   松个岡 甘露井

 

東慶寺(とうけいじ)は、松が岡といふ。圓覺寺(ゑんがくじ)の南にあり。禪宗にて尼寺なり。開基は北條時宗(ときむね)の妻、秋田城介(あきたじやうのすけ)の娘にして、潮音院覺山志道禪尼(てうおんいんがくさんしだうぜんに)といふ。第二十世の住職は、豐臣秀賴公の息女なり。佛殿の後ろにその石塔婆(せきとうば)あり。甘露の井も、この邊(へん)なり。鎌倉十井の内の、その一つなり。

〽狂 常盤(ときは)なる松が

   おかとてあぢ

        はへば

 ちとせを

   のぶる甘露井(かんろい)も

        あり

旅人

「これはうつくしいお比丘尼(びくに)だ。坊さまにしておくはおしいものだ。」

「この前、儂(わし)が奧州へいつたとき、ある旅籠屋(はたごや)で、

『飯盛(めしもり)をかをふ』

といつたら、

『こゝには飯盛はござりませぬ、比丘尼があります、よんで御らうじませぬか』

といふから、

『こいつはめづらしい。話の種だ、かつて見やう』

と呼びにやつて、見たところが、くろい頭巾(づきん)をかぶつて、つまらない顏附きの比丘尼、

『お勤めは幾らだ』

ときいたら、

『お布施は三百だ』

といふ。

『木綿の洗濯物をきてゐるものを、三百とは、あたじけない』

と思ひながら、ねて見たところが、どうも坊主くさくていやだから、すぐにねたふりをしてゐると、その比丘尼が、そつと儂が鼻へ手をあてゝ寢息をかんがへるから、

『こいつ、氣味のわるいおかしなことをする』

と思ひながら、いよいよねたふりをしてゐたら、やがて、その比丘尼がそつとおきて、後先(あとさき)を見まはし、頭巾をとつて、兩手で頭をごしごしとかいたが、その頭が毬栗頭(いがぐりあたま)で、

『さては今まで頭のかゆいのをこらへてゐたのか』

とおかしく、それなりでねてしまつたが、翌朝、そこをたつて、先の立場(たてば)の茶屋できいたら、あの宿(しゆく)の比丘尼は、麥一升づゝでうりますといつたものを、三百とられて、とんだ目にあつたことがあつたから、儂は、比丘尼には、こりはてたものさ。」

[やぶちゃん注:標題「松个岡」は「まつがおか」、「甘露井」は「かんろゐ」と読みを振っている。

「秋田城介」(あきたじょうのすけ)は名前ではなく、出羽国の秋田城を専管した国司の称号で、ここでは安達義景(承元四(一二一〇)年~建長五(一二五三)年)を指す。彼は安達景盛の嫡男で北条時宗の父時頼の得宗専制体制に尽力した人物である。

「潮音院覺山志道禪尼」(建長四(一二五二)年~徳治元(一三〇六)年)は、現在の読みでは「かくさんに」と濁らない。彼女は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で滅ぼされた義景の三男泰盛の妹に当たる。覚山尼は時宗の臨終に際して弘安七年に落飾しているから、その翌年に実家安達家の滅亡の遭遇している。

「豐臣秀賴公の息女」天秀法泰尼。寛永年間から二十世として活躍、将軍家との特別な俗縁によって、江戸期を通じて守られた駆入寺法(縁切り寺法)の守護者と伝えられる尼である。

「甘露の井も、この邊なり」は頗る興味深い謂いである。詳細はかつて鎌倉攬勝考卷之一の「五名水」で考証したので詳細はそちらに譲るが、「鎌倉五名水」というのが別にあって、ある説にその一つを「甘露水」といい、浄智寺総門手前の池の石橋左手奥の池辺にあったという泉を指すという(現在、湧水は停止)。しかし、ここは実際に現在、訪れると「鎌倉十井の一 甘露の井」のやや古い石柱標を伴っており、「新編鎌倉志」で初めて示されたところの名数「鎌倉十井」の一つに数えられていることが分かる。そこで「新編鎌倉志第之三」の「浄智寺」の項を見ると、

甘露井 開山塔の後に有る淸泉を云なり。門外左の道端に、淸水沸き出づ。或は是をも甘露井と云なり。鎌倉十井の一つなり。

という記述を見出す。ここではっきりするのは、どうも現在知られる「甘露の井」は、浄智寺内に二箇所あったこと(現在の浄智寺の方丈後ろなどには複数の井戸があるから二箇所以上あった可能性もある。なお、これらの中には現在も飲用可能な井戸がある)、そうして、江戸時代の段階でそのいずれが原「甘露水」「甘露の井」であったかが同定できなくなっていたことが分かるのである。さればこそ、私には一九の「この邊なり」という不定の謂いが、実に正確であると思うのである。

「飯盛」飯盛女。旅籠屋での接客をする女性のことを言うが、多くは宿泊客相手に売色を行った。彼女たちの多くは貧困な家の妻か娘で、年季奉公の形式で働かされた。江戸幕府が宿場に遊女を置くことを禁じたために出現したもので、東海道で早くに見られ、中山道は遅れて元禄年間(一六八八年~一七〇四年)であった。飯盛女を抱える旅籠屋を飯盛旅籠屋といい、幕府は享保三(一七一八)年に一軒につき二人までを許可している。なお、幕府の公式文書では殆んど「飯売女」と表現されている。飯盛女の存在が旅行者をひきつけることから、宿駅助成策として飯盛旅籠屋の設置が認められることがあった。しかし、しだいに宿内や近在、とくに助郷村(すけごうむら:街道宿駅の常備人馬だけでは継ぎ送りに支障をきたすために補助的に人馬を提供した宿駅近傍の郷村のこと)の農民を対象とするようになり、しばしば宿と助郷間の紛争の種となった(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。先の佐助稻荷 岩屋堂の私の注も参照のこと。

「比丘尼」これは元は歌比丘尼。熊野比丘尼、絵解比丘尼と称して、尼の姿をして諸国を巡り歩いた芸人を起源とするが、江戸期には尼の姿で売春を行った低級私娼を指すようになった。

「あたじけない」通常は、吝嗇だ、しみったれだ、の謂いで用いるが、ここは原義の「欲が深い」の意である。

「洗濯物」汚れた衣服のこと。

「毬栗頭」髪を短く丸刈りにした頭。比丘尼私娼であるから、外見上、坊主であるかのように見えるように髪を短く刈り込んでいるのを黒頭巾で覆って隠していたのだが、恐らくは房事の最中も頭巾を附けたままであったがために、汗で蒸れて痒くなったのであろう。さすれば彼女は、心機一転売りを狙って俄か比丘尼私娼をコスプレした、飯盛女ででもあったのかも知れない。男の眼を気にして、そこはかとなく、哀れな気もしてくるではないか。]

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