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« 生物學講話 丘淺次郎 第七章 本能と智力 四 智力 | トップページ | 金銀花 火野葦平 »

2013/02/19

北條九代記 白拍子微妙尼に成る 付 古郡保忠租逹房を打擲す

      ○白拍子微妙尼に成る  古郡保忠租逹房を打擲す

同三月上旬、暮行く春の名殘とて、長閑に照す日の光、空のけはひものびらかに、野邊の若草長く生(おひ)立ち、山路の木芽も枝茂く、人の心もいとゞ浮(うき)立ちて、見過し難き花の邊(あたり)、賑々(にぎにぎ)しかるべき折柄、なれども、打續(うちつゞき)たる風雨の災變に、東耕西收(とうかうさいしう)の營(いとなみ)宜(よろし)からず、農民も地下人(ぢげにん)も飢餓を憂ふる色深くして、何となく物さびたり。賴家卿は國家の哀愁(すゐしう)する事をば露程とも知召(しろしめ)さず、朝夕(てうせき)遊興の席を列ねて、此外には又、他事なし。比企判官能員が家に植たりける庭の櫻、今を盛(さかり)に、花咲(さき)出でたり。「是を御覽ぜざらんには花の爲(ため)いと口惜(くちをし)かるべし」と申入(まうしいれ)たりければ、「さらば入御(じゆぎよ)あるべし」とて、北條五郎以下、紀内所行景を召(めし)倶せられ、彼(か)の亭に渡らせ給ひけり。饗應様々にて、盃酒とりどりにかざり、もてなす。此比(このごろ)京都より下向せし白拍子微妙(みめう)と云へる者、年廿計(ばかり)にして容顔美しきが、御前に召されて立出でたり。歌の聲、梁塵を飛(とば)し、舞の袖、白雪を廻(めぐら)す。賴家卿、頻に感じ給ひて、數々めぐる盃(さかづき)の重なる夜半(よは)も時更けたり。判官能員、申されけるは、「此白拍子は、愁訴の事候ひて、遙(はるか)の山河を凌ぎて、是まで下りて候。是は微妙が讀みたる歌なるを自筆に書かせて候」とて奉りけり。賴家卿、取て御覽ずるに、

  片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず

手さへ美(うつくし)かりけり。座中、取(とり)渡して是を見るに、その心を知る人なし。觀淸(かんせい)法眼、申されけるは「この歌の心を案じ候らへば、親なくして、行方(ゆくへ)を尋ぬるかと覺えて候。昔、聖徳太子、片岡の飢人(きじん)を御覽じて、

  科照(しなてる)や片岡山に飯(いひ)に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし

と詠み給ひけん歌の言葉を取て、今かく詠じ候やらん」とぞ申されける。賴家卿、「さらば子細を語るべし」とあり。微妙、さめざめと打泣きて左右(さう)なく出さざりしを、度々強(しひ)て問はせ給へば、微妙、申しけるやう、「去ぬる建久年中に父右兵衞尉爲成、思(おもひ)懸けざる讒訴に依て、宮人の爲に禁獄せられたり。月を越えて後に、西の獄舍の囚人等(めしうどら)を奥州の夷(えびす)に給はりて被官となし給ふ。父爲成も其員(かず)にて放遣(はなちつかは)され、將軍家の雜色(ざつしき)追立てて下向せしかば、母は愁歎の思(おもひ)に堪へずして、幾程なく病(やみ)出して、空しくなる。自(みづから)其時未だ七歳なり。兄弟親族もなく、孤子(みなしご)となりて、人の御許(もと)に勞(いたは)り置かせ給ひ、年既に重りて、父の行方戀しき事露忘られず、音に聞ける陸奥(みちのく)のそなたを尋ねて相坂(あふさか)や關の東に赴きて、便(たより)に付きて逢見ばやと思ひながらも女の身なれば、程遠き東路の旅の空輒(たやす)く下り候らはん事、世に叶(かなひ)難く候へば、心にもあらぬ白拍子となり、人の御情(なさけ)に依りてこそ是までやうやう下り候へ」と申しければ、人々、聞き給ひ、「哀なる志かな」と皆、感涙をぞ流されける。いかさま、御使を奥州に遣して尋ね仰せらるべき由、その御沙汰ましまして[やぶちゃん注:底本「汰沙」。訂した。]、其より還御なり給ふ。其後、尼御墓所は御所に参り給ひ、白拍子微妙を召し、舞舞(まひま)はせて御覽あり。聞しに勝りて上手なり。父を戀る志を、殊に感じ覺(おぼし)召すなり。「急ぎ奥州に飛脚を立て、行末を尋ねて取らすべし。其程は此方へ参りて待つべきなり」とて尼御臺所、召連れて歸らせ給ふ。八月五日、奥州飛脚の雜色の男歸り參りて、「微妙が父爲成は既に死去せし」と申す。微妙、聞きて望(のぞみ)を失ひ絶入々々(たえいりたえいり)、泣悲(なきかなし)みけるが、同十五日の夜、壽福寺に行きて、榮西(やうさい)律師の弟子祖達房を師として出家し、持蓮尼(ぢれんに)と號して、父の菩提をぞ弔ひける。尼御臺所、哀がり給ふ餘(あまり)に、深澤の里の邊(ほとり)に庵(いほり)を造りて住ましめられ、「御持佛堂の砌(みぎり)に、折々は參るべし」とぞ仰せ含め給ひける。此白拍子は、日比(ひごろ)、忍びて古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠(やすたゞ)に契(ちぎり)て比翼の語(かたら)ひ水漏さじと、思染(おもひし)みて侍りし所に、保忠、甲斐國に下向しけるが、歸るを待たずして尼になる。さこそは悲しさの餘に男女(なんによ)の道を忘れけん。保忠鎌倉に歸りて微妙が事を尋ぬるに、榮西の門弟祖達総を師として尼に成(なり)たりと語るを聞きて、彼(かの)庵室(あんしつ)に行向ふ。祖達房を捕へて散々に打擲す。近隣、出合ひて取りさへける。尼御臺所より朝光を遣して保忠を宥(なだ)められ、翌日、保忠、御氣色を蒙る。昨日(きのふ)、理不盡の所行を誡(いまし)めらるゝ所なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁二(一二〇二)年三月八日・十五日、八月五日・十五日・二十四日・二十七日の条に基づくが、特に前半は浄瑠璃の義太夫節の如く劇的で臨場感に富む。白拍子微妙の事蹟は前段の私の注を参照されたい。以下、「吾妻鏡」と比較して読み進めてみよう。まずは建仁二年三月八日の条。

〇原文

八日癸丑。御所御鞠。人數如例。此御會連日儀也。其後入御于比企判官能員之宅。庭樹花盛之間。兼啓案内之故也。爰有自京都下向舞女。〔號微妙〕盃酌之際被召出之。歌舞盡曲。金吾頻感給之。廷尉申云。此舞女依有愁訴之旨。凌山河參向。早直可被尋聞食者。金吾令尋其旨給之處。彼女落涙數行。無左右不出詞。恩問及度々之間。申云。去建久年中。父右兵衛尉爲成。依不讒爲官人被禁獄[やぶちゃん注:「不」はママであるが、訓読では意味が通じないので排した。]。而以西獄囚人等。爲給奥州夷。被放遣之。將軍家雜色請取下向畢。爲成在其中。母不堪愁歎卒去。其時我七歳也。無兄弟親眤。多年沈孤獨之恨。漸長大之今。戀慕切之故。爲知彼存亡。始慣當道。而赴東路云々。聞之輩悉催悲涙。速遣御使於奥州。可被尋仰之由。有其沙汰。盃酒及終夜。鷄鳴以後令還給。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日癸丑。御所の御鞠。人數(にんず)、例のごとし。此の御會、連日の儀なり。其の後、比企判官能員の宅に入御す。庭の樹花盛りの間、兼ねて案内を啓(まう)すが故なり。爰に、京都より下向の舞女〔微妙と號す。〕有り。盃酌の際(あひだ)、之を召し出だされ、歌舞、曲を盡す。金吾、頻りに之を感じ給ふ。廷尉、申して云はく、

「此の舞女、愁訴の旨有るに依つて、山河を凌ぎ參向す。早く直(ぢき)に尋ね聞こし食(め)さるべし。」

てへれば、金吾、其の旨を尋ねしめ給ふの處、彼の女、落涙數行(すうかう)、左右(さう)無く詞(ことば)を出さず。恩問、度々に及ぶの間、申して云はく、

「去ぬる建久年中、父右兵衛尉爲成、讒に依つて官人の爲に禁獄せらる。而るに西獄(さいごく)の囚人等を以つて、奥州の夷(えびす)に給はんが爲に、之を放ち遣はさる。將軍家の雜色(ざふしき)、請け取り下向し畢んぬ。爲成、其の中に在り。母は愁歎に堪へず、卒去す。其の時、我れ七歳なり。兄弟親眤(しんぢつ)無く、多年孤獨の恨みに沈む。漸くに長大するの今、戀慕、切なるが故に、彼(か)の存亡を知らんが爲に、始めて當道を慣(なら)ひて東路(あづまぢ)に赴く。」

と云々。

之を聞く輩(ともがら)、悉く悲涙を催す。

「速かに御使を奥州へ遣はし、尋ね仰せらるべし。」

の由、其の沙汰有り。

盃酒、終夜に及び、鷄鳴以後、還らしめ給ふ。

「廷尉」は比企能員。「官人」は検非違使。続いて、同月十五日の条。

〇原文

十五日庚申。今日御鞠。及終日。員百廿三。百廿。百廿。二百四十。二百五十也。其後尼御臺所入御左金吾御所。召舞女微妙。覽其藝。是依令感戀父之志給也。藝能頗拔群之間。爲尋彼父存亡。被遣使者於奥州云々。飛脚歸參程者。可候尼御臺所御亭之由被仰。仍還御之時爲御共。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日庚申。今日、御鞠、終日に及ぶ。員(かず)百廿三、百廿、百廿、二百四十、二百五十なり。其の後、尼御臺所、左金吾の御所へ入御す。舞女微妙を召し、其の藝を覽る。是れ、戀父の志を感ぜしめ給ふに依つてなり。藝能、頗る拔群の間、彼の父の存亡を尋ねんが爲に、使者を奥州へ遣はさると云々。

「飛脚が歸參するの程は、尼御臺所の御亭に候ずべし。」

の由仰せらる。仍つて還御の時、御共たり。

「員百廿三……」以下の数字は蹴鞠の仕儀で蹴り続けられた回数。「使者を奥州へ遣はさる」とあることから、一週間前の頼家の下知が実行されていなかったことが分かる。これは最後の場面で政子が自邸に微妙を引き取ったのが、前段注で示した通り、女好きの頼家から守るためと思われることからも、頼家は父探索をペンディングしておいて、微妙に迫っていたのではなかったかと勘繰らせる場面ではある。

 以下、「北條九代記」本文に戻る。

 なお、原典の「吾妻鏡」との大きな違いは、微妙の和歌の披露及びそれを解釈する観清法眼(頼家の側近であるが、北条義時とも関係が深かった人物らしい。詳細不詳)という微妙の数奇な半生を引き出す前段部が配されていることである。但し、この微妙作とする和歌の出典は定かではない。識者の御教授を乞うものである。

 

「梁塵を飛し」梁塵を動かすの意で、歌声が優れていることの譬え。「十八史略」に魯の虞公という歌の名人が歌うと、梁の上の塵までが動いたという故事による。

「片岡に伏せる旅人あはれ今尋ぬる里に宿もさだめず」

――辺土の荒涼とした岡辺に行き倒れとなって横たわる旅人、それは何と、哀れなことか……その旅人は今の私(わたくし)……親を尋ねてやってきたこの里で……無宿人のままに……野垂れ死にする私……

「科照や片岡山に飯に飢ゑて伏せる旅人あはれ親なし」「日本書紀」や「万葉集」などに載る、聖徳太子が行き倒れの旅人を見て悲しんだという歌の冒頭部。以下は「日本書紀」推古紀に載るもの。

 しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て

 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ

 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の

 君はや無き 飯に餓て 臥せる その旅人あはれ

通釈すると、

――片岡山辺(べ)に糧(かて)に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ……なんと、哀れな! そなたも、親なしに生まれようはずもない……そなたにも恋する親があるであろう! そなたを守ってくれるはずの主人はいないのか?……糧に餓えて斃れ伏しておらるる、その瀕死の旅人よ、なんと、あわれなことか!……

・「しなてる」「級照る」などと表記。「片」の枕詞。「しな」は階段、坂の意味かとも言われる。

・「片岡山」現在の奈良県北葛城郡王寺町から香芝市にかけての丘陵地帯。片岡山。歌枕。

・「臥せる」「こやす」は上代語で、「す」は上代の尊敬の助動詞で「臥(こ)ゆ」の尊敬語。

・「さす竹の」「君」の枕詞。竹が勢いよく茂ることから繁栄を言祝いで「君」「大宮人」「皇子(みこ)」などにかかる。

御用達の水垣久氏の「やまとうた」の「千人万首 聖徳太子」の「補記」に、

   《引用開始》

【補記】日本書紀巻二十二。推古天皇二十一年の十二月、皇太子厩戸皇子が片岡に行った時、道のほとりに痩せ衰えた男が倒れていた。姓名を問うても、答えない。皇子は男に食べ物を与え、上衣を脱いでかぶせてやり、「安らかに寝ておれ」と言った。そこで上の歌をよんだという。翌日、皇子は使者をやって男の様子を見に行かせた。使者が戻って来て言うことには、「すでに死んでおりました」。皇子は大いに悲しみ、男をその場に埋葬するよう命じた。墓を封じて数日後、皇子は近習の者を召して、「先日道に倒れていた者は、ただ者ではあるまい。きっと聖(ひじり)に違いない」と言って、使者をやって見させた。使者は戻って来て、「墓に着いて見ましたところ、埋め固めた場所はそのままでした。ところが棺を開けてみましたところ、しかばねは無くなっておりました。ただ御衣(みけし)ばかりが畳んで棺の上に置いてありました」と告げた。皇子は再び使者をやって、その上衣を持って来させると、何もなかったようにまた身につけたのである。世間の人々はこれをたいへん神妙に感じ、「ひじりはひじりを知るというが、本当だったのか」と言って、ますます皇子を畏敬したという。

 のち、この餓え人は達磨の化身とされ、片岡の地に達磨寺が建立された。

 なお拾遺和歌集には、「飢ゑ人のかしらをもたげて御かへしを奉る」として次の歌を載せている。

  いかるがやとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ

   《引用終了》

とある。微妙の作とするものは、この太子の歌をベースとしながら、視点を反転させて、自らを瀕死の旅人に模している。

 

 次に「吾妻鏡」同年八月五日及び十五日・二十四日・二十五日の条を見る。

〇原文

五日丙子。所被遣奥州之雜色男歸參。舞女父爲成已亡云々。彼女涕泣悶絶躄地云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日丙子。奥州へ遣はさるる所の雜色男、歸參す。舞女が父爲成、已に亡(な)しと云々。

彼の女、涕泣、悶絶躃地(びやくぢ)すと云々。

「悶絶躃地」は苦しみ悶えて転げまわること。

〇原文

十五日丙戌。晴。鶴岳放生會如例。將軍家御參宮。

入夜。舞女微妙於榮西律師禪坊遂出家。〔號持蓮。〕爲訪父夢後云々。尼御臺所御哀憐之餘。賜居所於深澤里邊。常可參御持佛堂砌之由。被仰含云々。此女。日來古郡左衛門尉保忠密通。成比翼連理契之處。保忠下向甲斐國。不待歸來。有此儀。不堪悲歎之故也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。晴る。鶴岳の放生會、例の如し。將軍家 御參宮。

夜に入り、舞女微妙、榮西律師禪坊に於いて出家〔持蓮と號す。〕を遂ぐ。父の夢後(ぼうご)を訪(とぶら)はんが爲と云々。

尼御臺所、御哀憐の餘りに、居所を深澤の里の邊に賜ひ、常に御持佛堂の砌りに參るべしの由、仰せ含めらると云々。

此の女、日來(ひごろ)、古郡(ふるごほり)左衛門尉保忠と密通し、比翼連理の契りを成すの處、保忠甲斐國へ下向す。歸り來たるを待たず、此の儀有り。悲歎に堪へざるが故なり。

〇原文

廿四日乙未。入夜。龜谷邊騒動。是古都左衛門尉保忠爲訪舞女微妙出家事。自甲州到着。而彼女屬營西律師門弟祖達房。聞令落餝之由。先至件室。稱可尋問子細誓盟。祖達怖畏之餘。奔參御所門前。此間。保忠難休鬱憤兮。打擲從僧等。依之近隣輩雖競集。非異事之間。即分散。又尼御臺所遣朝光。宥保忠給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿四日乙未。夜に入り、 龜谷(かめがやつ)邊、騒動す。是れ、古都左衛門尉保忠、舞女微妙出家の事を訪はんが爲、甲州より到着す。而るに彼(か)の女、營西律師の門弟祖達房に屬(しよく)し、落餝(らくしよく)せしむの由を聞き、

「先づ件(くだん)の室に至りて、子細に誓盟を尋ね問ふべし。」

と稱す。祖達、怖畏の餘り、御所の門前に奔り參る。此の間、保忠、鬱憤を休し難くして、從僧等を打擲(ちやうちやく)す。之に依つて、近隣の輩、競ひ集まると雖も、異事に非ざるの間、即ち、分散す。又、尼御臺所、朝光を遣はして、保忠を宥(なだ)め給ふ。

〇原文

廿七日戊戌。今日保忠蒙御氣色。是去夜打擲祖達房從僧之間。依彼憤也。僧徒之法。以人々歸善爲本意之故。無左右令除髮授戒歟。而理不盡所行奇恠之由。尼御臺所以義盛。朝光等被仰之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊戌。今日、保忠、御氣色を蒙る。是れ、去ぬる夜、祖達房從僧を打擲するの間、彼(か)の憤りに依りてなり。

「僧徒の法、人々を以つて善に歸するを本意と爲すが故に、左右(さう)無く、除髮授戒せしむるか。而るに理不盡の所行、奇恠。」

の由、尼御臺所、義盛・朝光等を以つて之を仰せらると云々。]

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