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2013/02/09

北條九代記 紀伊所行景關東下向 付 北條泰時傷歎

      ○紀伊所行景關東下向  北條泰時傷歎
同八月十一日、早朝より、四方、雲閉ぢて暗き事、夜陰の如く、大雨降(ふり)出でて、潟(そゝぐ)かと覺ゆ。谷々(やつやつ)より落(おつ)る水に、大河小河一(ひとつ)になりて、淵瀨も見えず。午尅(うまのこく)に及びて大風吹き起り、大木を堀(ねこじ)にし、頑石(ぐわんせき)を轉(まろば)し、郷里(がうさと)の家々は悉く潰したり。浦濱の船共は、或は覆り、或は破損(われそん)ず。鶴ヶ岡の宮寺廻廊八足(やつあし)の門以下、その外所々の佛閣塔廟、凡(およそ)萬にして一宇も全き所は更になし。下總國葛西郡(かさいのこほり)の海邊(かいへん)は、潮(うしほ)漲(みなぎ)り、波高く揚り、農民漁者の家共を引(ひき)漂はし、一千餘人は潮(うしほ)に溺れて失せにけり。同じき二十三日に又、大雨大風、去ぬる十一日の如し。兩度雨風の災に依(よつ)て、五穀、損亡して、庫倉(こさう)、破壊(はゑ)す。民家困窮し、飢餓の者、巷(ちまた)に充つ。強盗起りて物騷しく、然るべき人の家に思(おもひ)も寄らず込入て、財寶を奪ひ、米穀を偸(ぬす)む。昨日までは富(とみ)榮えたる輩、或は洪水に家を流して住所(すみどころ)を求め、或は寶を失うて食物なし。號哭(がうこく)の聲、日夜を云はず、洋々として耳に充(み)てり。哀(あはれ)なりける世の中なり。賴家卿は是をも知り給はず、鞠(まり)の曲(きよく)を好み出でて、日毎の翫(もてあそび)とし給ふ。猶(なほ)其(その)奥旨を知らんが爲に、仙洞へ申さしめ、この藝堪能の者、北面の中に一人下さるべしとなり。豫(かね)て調練の功を累(かさ)ねんとて北條五郎時連(ときつら)、少將法眼觀淸(のほふげんくわんせい)、富部(とべの)五郎、大輔房源性、比企彌四郎、肥多(ひたの)八郎を詰衆(つめしゆ)と定めて、百日の鞠を初めらる。同九月七日、仙洞の勅許に依て、鞠足(きくそく)の達者紀内所(きないどころ)行景を鎌倉に指(あし)下さして、鞠(まり)の師となし給ふ。賴家卿は大に悦び給ひて石壺(いしのつぼ)にして對面あり、御盃を行景に下され、「前庭(ぜんてい)の籬(まがき)の菊、玉杯に浮ぶ。永く萬年を契るべし」との上意ありて、自(みづから)銀劍を取て行景に下されけり。是より日毎に御鞠遊しけるに、その員(かず)日に添へて增(まさ)り給ふ。萬事を忘れて現(うつゝ)御心なく、只此藝の長じさせ給ふをのみ能(よき)事に思(おぼし)召す計なり。江馬(えまの)太郎泰時、竊(ひそか)に中野五郎能成(よしなり)に語られけるは、「蹴鞠は是(これ)幽玄の藝なり。君、賞翫し給ふ事誠に餘義なし。然るに去ぬる八月、兩度の風雨に神社、佛閣、民屋に至るまで大方(おほかた)、破壊(はゑ)顚倒し、五穀豐(ゆたか)ならずして、國郡(こくぐん)飢饉す。人民愁へて、手足を措(おき)難し。かゝる折柄は少(すこし)は御愼(おんつゝしみ)もおはしまし、國政をも聞召され、理世安民(りせいあんみん)の御惠(めぐみ)を御心に懸けさせ給はば、尤も有難き御事なるに、左樣の御志(こゝろざし)は露(つゆ)計もましまさで、剩(あまつさへ)京都より放遊(はういう)の輩(ともがら)を召下し、世の費(ついえ)、人の歎(なげき)を顧(かへりみ)給はず、恣(ほしいまゝ)の御振舞こそ宜からね。貴殿は近習の人をなれば、御機嫌を伺ひて、諷諫(ふうかん)せらるべし」とぞ仰せける。能成、甘心(かんしん)して、「畏(かしこま)りて候」とて退出せられけり。
[やぶちゃん注:「紀伊所行景」は「きないどころゆきかげ」と読む。この人物について私は、ここに記された以外の情報を持たない。本話は、「吾妻鏡」巻十七の建仁元(一二〇一)年七月六日、八月十一日、九月七日・九日・二十二日などに加え、湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」によれば、浅井了意作「将軍記」の巻二の「建仁元年七月」「九月七日」などに基づいており、『本話の前後にも、国土の飢饉と災害の中で頼家が蹴鞠に耽る様が繰り返し批判的に描かれる。これは『吾妻鏡』にも、頼家の政治について「近日事において陵廃し、先蹤を忘るるがごとし。古老の愁ふるところなり」(建仁元年九月十五日、鶴岡放生会の項)、また「政務を抛ち、連日にこの芸(注:蹴鞠)を専らにせられ、人皆当道に赴く」(同年月二十日)等の批判的言説があり、また『将軍記』にも、泰時の言葉として「只此鞠をもてあそびて諸人のうれへをしろしめさず、右将軍の御世とは万事略義に衰ゆく也」』とあり、一貫している「北条九代記」に於ける愚君としての頼家についての批判的描写は、両書の言説を踏まえているとあって、特に「吾妻鏡」にあっても最早、頼家への批難が顕在化していることが明確に示されてある。
「凡萬にして一宇も全き所は更になし」「一千餘人」は、何れも「吾妻鏡」建仁元年八月十一日の条の「凡万家一宇無全所」「下総國葛西郡海邊潮牽人屋。千餘人漂没」の記載に基づく誇張表現。
「葛西郡」旧葛飾郡の西部。中世、武蔵国と下総国に跨る形になった葛飾郡域は非常に広大であったため、太日川(後の江戸川)を境界として東側を葛東郡(あるいは葛東)、西側を葛西郡(あるいは葛西)と称するようになった(但し、通称で正式な郡名ではない)。
「豫て調練の功を累ねん」京から名人が来る前に、事前に練習を積んで、教授を受けるに恥ずかしくない程度までは実力をつけておかねばなるまい、という頼家の提案である。
「詰衆」本来は室町時代に将軍の傍に就いて夜伽した者を言うが、ここは蹴鞠連としてこの六名を選抜、百日の間、ぶっ通しで常時、自分の傍に居させて、蹴鞠の特訓を各人に命じ、監視したことを言うのであろう。増淵氏は『鞠を詰め寄せる役』という注を附しておられるが、詰衆にはそのような蹴鞠用語としての特別な意味があるのであろうか? 識者の御教授を乞うものである。]

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