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2013/03/31

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 12

 あくれば三日、鎌倉へおもむくに、一坂をすぐれば里あり。こゝなむむつらの浦かととへば、それとこたふ。海士の子どもの遊をみて、

  四五むつらの浦のあまの子の あそふはしほのとをひかたかな

あまのすみかのあはれをみて、

  波あらすむつらの浦のあまの小屋 かこふとするもまはらなりけり

[やぶちゃん注:「四五」は「よついつつ」と訓じているか。
「一坂」この部分について、少年の日、この辺りに住んだことのある私の教え子から以下の消息を貰った。場所の同定とともに、とても私の琴線に触れるものであったが故に、ここに引用させて戴く。

   《引用開始》
彼が越えた『一坂』は、今の国道十六号線、瀬戸神社と六浦橋の間にあるほんの少し隆起した部分。まさに泥牛庵がある辺りが最も高いところでしょう。六浦小学校二年生の冬、初めてたった一人で、横浜駅東口の水泳教室への往復を成し遂げた時のことを思い出します。もう夜八時を回っていたはずです。勤め人たちの腰の間に挟まれながら、帰宅ラッシュの京急電車に揺られ、八景の駅から六浦橋の自宅までの道を辿る僕。遂に大人の仲間入りをしたような何かとても誇らしげな気分を、忘れることが出来ません。母に早く褒めてもらいたいと、背泳ぎの練習で疲れた足に勤め人の煙草臭い、くすんだ疲労を想像したりなどしながら、あの『一坂』を越えていったのでした……。
   《引用終了》
「むつらの浦」は六浦。
 ……さてもこの二首、しみじみとした、それでいてランドスケープを広角で切り捕った素晴らしい嘱目吟であるように思われる。「かこふ」は「圍(囲)ふ」で、海士(あま)の苫屋の侘び住まい……小屋を囲んではいるものの、それが榾や粗朶垣の、「まはら」(疎ら)なもので、寂しいその裏(うち)が寒々と覗いていることよ、と詠んでいるのであろうが、家として囲もうとするその土地自身が、既にして荒涼とした浜伝いの「まはら」(眞原)真菅原であるよ、という謂いも効かせるているものか。いづれの歌も沢庵の墨染の衣の後ろ姿が――見える――]

耳嚢 巻之六 鍛冶屋淸八が事 

 鍛冶屋淸八が事

 

 泉州堺のものにて、紀州家より何の譯にや二人扶持(ににんぶち)給りし由。其謂れを聞くに、何も御用も不勤(つとめざれ)ど、古今珍敷速足(めづらしきはやあし)にて、堺より江戸へ三日に來る(きた)由。近江の彦根へ三十六里の處、一晝夜に往返(わうへん)せしとかや。或時彦根の城下より木綿買出しに來りし者、堺にて急病にて果けるを、はやくしらせんと評議せる處、彼(かの)淸八今夜中にしらせんと請合(うけあひ)し故、飛脚賃として五兩渡しけるを受取(うけとり)、暮前(くれまへ)なりしが、夜食など給(たべ)て緩々(ゆるゆる)支度せるを、少しも早く出立(しゆつたつ)せよと側のもの催促しければ、明日は歸りて左右(さう)なすべし、何の急ぎ候事かあらんといひて、やがて出しが、彦根へ其明(そのあけ)の日つきて、暮時前、堺へ立(たち)歸りし由。文化元子年、五拾二歳にて今以(いまもつて)存在の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。驚異の駿足の、ちょいと鯔背な実在した男の話(以下注を参照)である。

・「鍛冶屋淸八」最後に「文化元子年、五拾二歳にて」とあることから、彼の生年は宝暦三(一七五三)年であることが分かる。眠いさんの個人ブログ「眠い人の植民地日記」の「ある韋駄天走りの肖像」に本話を紹介されながら、出典は未詳ながら、清八のかなりの詳細を記されおられる。それによれば、彼の『本業は鍛冶屋だか足袋屋だか定かではない』とあり、何より重要なのが『後に江戸へ出て来て、高尾山信仰の信者となり、清八講の先達として、後に高尾山に宝篋印塔を建立し』ている点である。眠いさんによれば、この高尾山の宝篋印塔は、元々は後北条氏の第三代氏康が元亀元・永禄一三(一五七〇)年に奉納したものであったが、享保二(一七一七)年の大嵐で崩壊し、放置されていたものを、清八が寛政八(一七九六)年より浄財を募り、文化八(一八一一)年、先代のものより若干小振りながら、青銅製の立派な五重塔を再建したという。また、以下のような事実も記されている。『清八は長屋住まいだった』『が、まじないも良くし、これが大変流行って、高貴な方面からも信頼が篤かったと言い』、『謂わば、現代で言うスピリチュアルカウンセラー』みたような人物で、『まじないを頼む人で長屋はごった返し』たものの、『暮らし向きは至って質素で、衣服も身分相応のものを着てい』たとある。また彼は、『高尾山の秘仏開帳』『に奔走する傍ら、紀州徳川家へも足繁く通って』いたと、本話の事蹟ともクロスし、高尾山と密接な関係を持っていたらしい(詳細は眠いさんのブログをお読み頂きたい)紀州家にとって各種の『連絡役として』駿足の先達清八は『うってつけだったのかも知れ』ないと推測され、さらに、『宝篋印塔を建立する際の浄財を紀州家を通じて各大名家から募った可能性もあり』、『その宝篋印塔を復活させた際には、更に浄財を募って旧甲州街道沿いに新宿から高尾山までの間に』、三本の道標をも設置、現在もこの道標は八王子市に現存している、とある。眠いさんは最後に、『この八面六臂の活躍を見ていると、清八をネタに時代小説が一本書けそう』とおっしゃっている。まっこと、その通りの魅力的な人物である。――まだ、話は終わらない――私がこの眠いさんのブログを知ったのは、私が鎌倉地誌の電子テクスト化の中で、非常にお世話になったウェブサイト s_minaga 氏の「がらくた置場」(がらくたどころか至宝の山)の中にある、「成形層塔」(鋳造で制作された層塔)の頁のリンクであったのだが、そこには何と! 清八の、今はなき(戦時中の金属供出によって消失)その武蔵高尾山銅製五重塔の写真があるのである! それによれば、先にあったように八王子宿追分には清八の道標が残っているが、そこに平成十五年五月のクレジットを持つ八王子市教育委員会の説明番があって、そこには(改行を省略した)、この道標は文化八年に『江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。その後、昭和二十年八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです』とあるそうである。s_minaga 氏は、この塔について、先にリンクしたのとは別な写真の傍らに写っている大人の人物から推して、塔の高さは十五~六尺(四・五~四・八メートル)、台座は七~八尺(二・一~二・四メートルの見当であろうか、と推定なさっておられる(こういう邂逅こそがネット世界の醍醐味である!)。清八さんは勿論、s_minagaさんも眠いさんも、みんな、ナイス・ガイだわ!

・「二人扶持」「扶持」は戦国時代からの名残で、主君から比較的下級の家士に対して支給された俸禄(手当)の単位。一人一日玄米五合を標準(一人扶持)とする。一年三六〇日で一石八斗、約五俵(単純な現在換算だと三〇〇キログラム)になる。月割りで毎月支給された。・「三十六里」約一四〇キロメートル強。地図上の直線距離でも彦根―堺間は一一〇キロメートルを超える。知らせることが目的であるから、彦根行を最スピードで踏破したと考えてよいから、「今夜中」という言葉、出立の雰囲気から考えても、だいたい6~9時間程度とすると、時速二三~一五キロメートルになる。自転車並みの速さである。

・「左右」あれこれの知らせ。手紙。便り。

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鍛冶屋清八の事

 

 和泉国堺の者で、紀州家よりどういう訳からか、二人扶持の俸禄を給わっておる鍛冶屋清八と申す者がおる由。

 どうしてまた、鍛冶屋なんどが……と、知れる者に、その謂われを訊ねたところ……

「……いやぁ、その……正式な職分としては、これ、何の御用も勤めては御座らぬ。……されど、この男……古今にも珍しき駿足の持主で御座っての。……

……堺を出でてより――江戸へ――何と――僅か三日にて参る――と、申す。……

……堺から近江の彦根へ三十六里の行程……これを、この男……何と正味一昼夜で往復したとか……

……ある時、彦根の御城下より木綿買い出しに来て御座った男が、これ、堺にて急な病いのため、亡くなって御座った。……

……亡くなった者を知れる者ども、評議致いて、

「ともかくも……早(はよ)う在方へ知らせずんばなるまい……」

と評議一決致し、かの駿足の噂の高い清八を呼んで頼んでみたところ、

「――合点承知。――今夜中には先方へ知らせまひょ。」

と請け合って御座ったゆえ、飛脚賃として五両、これ、渡いた。……

……ところが、清八――「今夜中」と申したにも拘わらず――もう、その時には、かれこれ、日の暮れかかろうという時分で御座ったが、

「――一つ、腹ごしらえに、軽き夜食なんど、戴けまっか。」

などと申し、ゆっくらとそれを食べては、これまた、のんびりと支度致いておるによって、

「……さっさと……少しでも早(はよ)う、出なはれや!……」

と、流石に傍の者も焦れてしもうて、催促致いたところ、

「――明日、帰って首尾を述(のぶ)ればよろしかろ? 何の。急ぐことが、これある、かい。――」

と呟いて、

「――されば急かされたによって――」

と、申して、やっと出でた、と申す。……

――ところが……

――やがて彦根へは日の変わった未明に着き……

――その日の日暮れ前には……これ……平気な顔して堺へ帰って参った、と申す。……

……清八儀、文化元年子年、当年とって五十二歳……今以て、健在の由にて御座る。……」

藪野直史野人化一周年記念第二弾 北條九代記 HP版 起動

藪野直史野人化記念第二弾として、「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に「北條九代記」HP版を起動、まずは「序」及び「卷第一」を公開した。

藪野直史野人化一周年記念 丘淺次郎 生物學講話 HP版起動

野人化一周年記念として丘淺次郎「生物學講話」HP版を起動。まずは、「はしがき」及び「第一章 生物の生涯」を公開した。

文學の技巧 萩原朔太郎

       文學の技巧

 

 愛に於ける技巧とは、異性の趣味、氣質、性慾、氣まぐれ等をよく理解し、これに滿足を與へて悦ばすところの、聰明な知性を言ふのである。詩や文學に於ける技巧も、本質に於てこれと同じく、讀者を悦ばすところの「智慧」にすぎない。技巧のない愛はエゴイズムであり、無知の横暴なる壓制である。同時にまた、技巧のない文學も「惡」であり、讀者を惱ますところのエゴイズムである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十六番目、先に示した「詩壇の不在證明表」の直後に配されたものである。……では朔太郎よ……「智慧」は忌わしきエゴイズムで――ない――か?]

木立の相 大手拓次

   木立の相

 

物語のおくに

ちひさな春の悔恨をうめたてて、

あをいあをい小蜂(こばち)の羽なりの狼煙(らうえん)をみまもり、

ふりしきる木立(こだち)の怪相ををがむ。

ふるひをののく心の肌にすひついて

その銀の牙(きば)をならし、

天地しんごんとしてとけるとき、

幻化の頌(じゆ)を誦す。

木立は紫金(しこん)の蛇をうみ、

おしせまる海浪まんまんとして胎盤のうへに芽(め)ぐむとき、

惡の寶冠はゆめをけちらして神を抱く。

ことばなく、こゑなく、陸(おか)に、海に、

ながれる存在の腹部は紅爛(こうらん)のよろこびをそだてて屈伸する。

 

[やぶちゃん注:現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」では、「幻化の頌(じゆ)を誦す。」の「誦す」には「誦(しよう)す」とルビを振る。]

鬼城句集 春之部 蜷

蜷    砂川の蜷にしずかな日ざしかな
     [やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を
      崩した草書体表記である。]

一言芳談 一二九

   一二九

 

 同(おなじく)上人云、聖光上人は、談義の最中にも、日中(につちゆう)の時きたれる時は、一文一句をも誦(じゆ)しさして、やがて阿彌陀經をはじめ、禮讃(らいさん)念佛を行じましましき。同聞(どうもん)の聽衆も、心ならず、格別に禮讃をしき云々。

 

〇談義の最中にも、是を以て知るべし。學問は末(すゑ)にして行法は本(もと)なる事を。誠に後學の模範とするに足れり。學問を好みて、寢食をわするゝ人はあれども、行法を詮として、學問をさしおく人はなし。

 

[やぶちゃん注:本話は人によっては前話との論理矛盾を云々されるかも知れない。例えば、

――然阿良忠は「一二八」で「六時禮讃の次の念佛」をこそ誠心としたのではないか? それなのにここでは、公的行事としての教学法筵の真っ最中であっても、六時礼讃に決められらた時刻が来ると、聖光上人弁長は、突然それを中断なさって、「阿彌陀經を」誦経し「はじめ」、それが終わると心をこめて「念佛を行じましまし」て御座った――と良忠が六時礼讃に厳格に従った弁長を、如何にも心打たれる懐古しているがいるのは矛盾しているのではないか?――

といった批判である。しかし、そもそもが「六時礼讃」の「日中の時」とは「一二八」に示した通り、午~から未の刻(現在の午前十一時から午後三時頃)という幅の広い時間帯を示す。さすれば弁長は時間を厳格に守ったのではあるまい。それが自分に課したところの絶対的な「日中時の礼讃時間」であったとすれば、厳格を旨とする人間は、そこに他事を決して予定として入れないからである。寧ろ、この講義中断による、突然の高らかな「阿彌陀經」の誦経とそれに続く称名念仏は、弁長自身の内的欲求によって発露された、偶々に「日中時」の「談議の最中」の念仏である、と解する方が遙かに自然である。標註はこれを、既に語り尽くした感のある学問と行法の関係にスライドさせているが、少なくとも私はそのような比喩としてこの条を読まない。誠心の人の法悦(エクスタシー)は、そのまま直にその声を聴く人々の法悦になるというイコン画として読む方が遙かに本条の価値を高めるようにおもうのであるが、如何であろう?

「談義」仏法の因果の道理を説く法談、講筵。

「同聞の聽衆」法筵の場に教えを乞いに参っていた聴衆。

「心ならず」この場合は、不本意の意を含まない、意識しない、我知らず、の謂い。

「格別に禮讃をしき」格別なるまことの念仏を致いたの(と同じこと)である。]

2013/03/30

耳嚢 巻之六 吐藥奇法の事

 吐藥奇法の事

 

 醫書にもあるや、藥店(やくてん)にも有之(これある)由。越前眞桑瓜(まくはうり)の蔕(へた)を飮(のま)すれば、早速吐(と)をなす事妙の由。是又一時人を救ふの助けと、聞(きき)しまゝ爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法及び植物の蔕の薬方、直連関。症状としてのしゃっくりと嘔吐も現象的には連関して見える。

・「越前眞桑瓜」スミレ目ウリ科キュウリ属メロンの変種マクワウリ Cucumis melo var. makuwa の、白色系品種の石川県原産のナシウリ(梨瓜:「中奥梨瓜」「加賀梨瓜」とも呼ばれ、果皮・果肉ともに白色のもの。)か。

・「早速吐をなす」催吐剤である。実際の漢方薬として現在も存在する。株式会社JAM のウェブサイト wellba の東洋医学・内科・理学診療科の松柏堂医院院長中村篤彦の筆になる「医食同源ア・ラ・カルト」内にある催吐作用と瀉下作用(「瀉下」は「しゃげ」と読む。下剤のように医学的に下痢を起こさせるものの効能を言う)に、『マクワウリの未熟果は苦く、その苦み成分:メロトキシンがとくに多いヘタは先述のように催吐作用や瀉下作用があります。単独で一物瓜蒂湯、納豆や小豆と合わせた瓜蒂散などがあります。乾燥した納豆と小豆の粉末、それにこの瓜蔕、なんだか想像しただけで吐きそうなクスリです』とある。「一物瓜蒂湯」は「いちもつかていとう」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 吐薬(とやく)の奇法の事

 

 医書にも記されておるものか、薬屋にも普通に置かれておる由。

 越前国特産の真桑瓜の蔕(へた)を服用させると、即座に嘔吐が起こること、これ、絶妙の由。

 これもまた、危急の際に人を救う一助ともなろう存じ、聴いたままに、ここに記しおくことと致す。

一言芳談 一二八

   一二八

 

 然阿上人云、別時(べつじ)まではなくとも、六時禮讃(ろくじらいさん)の次(ついで)の念佛、心すまさむ時なんどは、別に用心して見佛の思ひに住すべし云々。

 

〇別時まではなくとも、念佛者に三種の行儀といふことあり。其内の別事といふは潔齋して念佛申す事なり。

〇見佛の思ひ、阿彌陀佛を見たてまつらんとおもふなり。

 

[やぶちゃん注:これは閾下ぎりぎりの「念仏」の非常に微妙な意識を述べているように思われる。私なりに訳す。

 

 然阿良忠上人曰く、「……ことさらに別時念仏なんどまで修しようとは、これ、せんでよろしい。……型の如くに決められ、義務とさるるところの、かの六時の礼讃(らいさん)の念仏なんどではない……ちょっとした瞬間に――ふっと阿彌陀仏を心に念ずるのが――これ、よろしい。……心を清らかにしたいと思う時なんどには、特に別して心をこめ、阿彌陀仏を観想する思いの中に住んでおれば、これ、よろしいのじゃ。……」。

 

「別時」別時念仏。別時念仏会。註にあるように、日常的な勤行(ごんぎょう)に対して、日時を定め、身体や心を精進潔斎して念仏行に励む意識を高めて、集中的に念仏を称え続けること。

「六時禮讃」「八十五」で既に注したが再注しておく。浄土教における念仏三昧行の一つ。善導の「往生礼讃偈」に基づいて一日を六つの時に分け、誦経・念仏・礼拝を行う。参照したウィキの「六時礼讃」によれば、六時とは(最後は凡その現在時刻)、

 1 日没(にちもつ) 申~酉の刻(午後 三時~午後 七時)

 2 初夜(しょや)  戌~亥の刻(午後 七時~午後十一時)

 3 中夜(ちゅうや)又は半夜(はんや)

            子~丑の刻(午後十一時~午前 三時)

 4 後夜(ごや)   寅~卯の刻(午前 三時~午前 五時)

 5 晨朝(じんじょう/しんちょう)

            辰~巳の刻(午前 五時~午前十一時)

 6 日中(にっちゅう)午~未の刻(午前十一時~午後 三時)

を指す。『天台声明を基にした美しい旋律が特徴で、後半になるにしたがい高音の節が荘厳さを増す。現代では浄土宗、時宗、浄土真宗が法要に盛んに用いる。親鸞の正信念仏偈は六時礼讃にヒントを得て作製されたといわれる』。浄土宗では建久三(一一九二)年に『法然上人が、大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河院の追善菩提のために、八坂の引導寺において別時念仏を修したが、これを浄土宗六時礼讃の始まりと』し、「徒然草」第二二七段や「愚管抄」の記述に『よれば、浄土宗の開祖法然の門弟である安楽坊遵西が礼讃に節を付けたと言われているが、当時は定まった節とか拍子がなかったらしい』。但し、この『遵西が指導する礼讃が大衆の支持を多く得たことから、既存仏教教団の反発を招き』、建永二(一二〇七)年、『後鳥羽上皇の女房たちが遵西達に感化されて出奔同然に出家した件等の罪で、遵西は斬首され、同年の法然らに対する承元の法難(建永の法難)を招く原因ともなった』とする。なお、故事成句の『「四六時中」の語源の一説に、「四時(早晨・午時・晡時・黄昏)と六時をあわせたもの」がある』とある「晡時(ほじ)」とは日暮れ時・申の刻(現在の午後四時頃)の意。なお、前に注した「八十五」は、この節を附けた美しい旋律を忌避すべきことを述べた内容である。再読あられたい。

「念佛者に三種の行儀」尋常行儀(日常の念仏。時や場所を定めずにありのままに念仏する行)と別時行儀(別時念仏)の他に、臨終行儀(臨終に際しての念仏行)を特に分けて三種とする。]

詩壇の不在證明表 萩原朔太郎

       詩壇の不在證明表

 不斷に詩を作り、絶えず作品を發表してゐることによつてのみ、詩人としての存在を保護されてゐるやうな詩人――それの休止と共に、すぐに名を忘られてしまふやうな詩人。――は、他の詩人たちに對しても、同じやうな勤勉力行を要求し、それによつて詩壇の不在證明表(アリバイ)を作る。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十五番目、先に示した「詩人の稱呼」の直後に配されたものである。――私は、今現在、生きているところの、こういう自称詩人を知っている/しか知らない――。]

香爐の秋 大手拓次

 香爐の秋

むらがる鳥よ、
むらがる木(こ)の葉(は)よ、
ふかく、こんとんと冥護(めいご)の谷底(たにそこ)へおちる。
あたまをあげよ、
さやさやとかける秋は いましも伸(の)びてきて、
おとろへた人人(ひとびと)のために
音(ね)をうつやうな香爐をたく。
ああ 凋滅(てうめつ)のまへにさきだつこゑは
無窮の美をおびて境界をこえ、
白い木馬にまたがつてこともなくゆきすぎる。

鬼城句集 春之部 帰雁

歸雁   日落ちて海山遠し歸る雁

     雁金の歸り盡して闇夜かな

2013/03/29

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 五 制裁と良心

本文を以って全二十章の内の第八章まで全テクスト化注釈作業が終了した。



     五 制裁と良心

Karasunosu


[「からす」の巣]

 束縛のないところでは束縛を破るものもなく、隨つて制裁を加へる必要も起こらぬが、鳥類・獸類の如き、各自勝手の慾情を具へたものが群集を造つて共同の生活をして居る處で、もし一匹のものが、自分一個の慾情のために全團體に不利益な行爲をした場合には、これに制裁を加へねばならぬ。團體生活をなす動物が全團體の利害を標準として自分一個の自由の一部を犧牲とするのはその個體の義務であるが、團體の一員として、團體生活より生ずる利益に與り得ることは、これに對する權利である。されば義務を盡さぬ者には制裁として、その權利を剝奪すれば宜しいのであるが、團體をなす動物では、自己の屬する團體以外のものは皆敵であるから、團體の一員たる權利を奪はれたものは、殘餘のものから敵として取扱はれ、衆寡敵せずして到底殺され終るを免れぬ。但し二個以上の團體が相對立して競爭している場合には、各團體ともにその内の員數の減ることは、戰鬪力を減少し大に忌むべきことであるから、單に折檻を加へて將來を誡めるだけで殺さずに置くことも常である。猿類には團體生活を營む種類が澤山あるが、各團體には力の強い經驗に富んだ雄が大將となつて全體を指揮し、常に一致の行動を取るやうになつて居る。大將の命に背いた者は嚴しく罰せられ、暫時はこれに懲りて全く温良な臣民となる。但し日數を經る間には、また前の刑罰を忘れて、大將の命に從はぬやうなことも生ずる。「からす」なども近處に巣を造るものの中に、隣から巣の材料を盜み來つたもののあることが知れると、多數集まつてその一疋の「からす」を責め、交る交る啄いて終に殺してしまふ。これはたゞ一例に過ぎぬが、共同の目的のために協力して働く動物の群集には、必ず何かこれに類することがある。鳥類・獸類ともにかゝる習性を有するものは頗る多いが、多數の個體が集まつて組合を造る場合には、その秩序安寧を保つためには何かの規約が行はれなければならず、隨つてこれを破るものは組合から制裁を受けねばならぬ。そして制裁の程度には輕重があり、殺されてしまふものもあれば、半殺し位で赦されるものもある。
 以上述べた所から考へて見るに、大部の道德書や複雜な法典を所持して居るものは、人間以外の動物には無論一種もないが、義務・權利・規約・制裁などの芽生えの如きものは種々の動物の郡集で既に見る所である。また善とか惡とか良心とか同情とかいふ言葉も、かやうな程度の社會には多少當て嵌らぬこともない。これらの關係は人間の如き大きな複雜な團體では種々の事情のために判然せぬやうになつて居るが、比較的小さな團體が幾つも相對して劇しく競爭している場合を想像すると最も明瞭に知れる。團體の一員である以上は、各團體は或は戰線に立つか或は後方勤務に從事するかいづれかに於て奮鬪し、團體の不利益になることは決してせぬやうに愼まねばならぬが、人間の社會で善と名づけることは、これを小さな團體で實行すれば皆戰鬪力を增すことのみである。また惡と名づけていることは皆戰鬪力を滅ずることばかりである。例へば同僚を殺すことは惡といふが、これは戰鬪力を減ずる。同僚の危險を救ふことは善というが、これは戰鬪力を增す。虛言は惡といふが、これは同僚を誤らせて戰鬪力を減ずる。正直は善といふがこれは同僚互に信じて戰鬪力を增す。一個體が命を捨てたために全團體が助ればこれは最上の善であり、一個體が誤つたために全團體が亡びればこれは極度の惡である。大きな團體では、自殺は各個體の勝手のやうに思はれるが、百疋からなる小團體では一疋が自殺すれば戰鬪力が明に百分の一だけ減ずるから、惡と名づけねばならぬであらう。小さな團體では各個體の行爲が全團體のために有利であつたか、有害であつたかが直に明に見えるから、善の賞められ惡の罰せられる理由も極めて明瞭に知られ、善の賞められずして隱れ、惡の罰せられずして免れる如きことは決してない。そして惡の必ず罰せられることを日頃知つて居れば、自分が偶々惡を犯したときには、罰の免るべからざることを恐れてなかなか平氣では居られぬ。これが即ち良心ともいふべきものであらう。小團體同志の間に生育競爭が劇しく行はれ、善を行ふ個體から成る團體は常に生存し、惡を行ふ個體から成る團體は亡び失せれば、終には各個體が生まれながらに善のみを行ふ團體が生じ、今日の蟻・蜜蜂の如くに善もなく惡もなく良心もなく制裁もなしに、すべての個體がたゞ自分の屬する團體のためのみに働くものとなるであらう。これに反して各團體が益々大きくなり、團體間の競爭よりも團體内の個體間の競爭のほうが劇しくなれば、善は必ずしも賞せられず、惡も必ずしも罰せられず、規約は破られ良心は萎靡して、單獨生活を營む動物の狀態に幾分か近づく免れぬであらう。
[やぶちゃん注:「萎靡」は「ゐび(いび)」と読み、なえてしおれること。衰えて活力を失い、衰退することを言う。]

 生物の生涯は食つて産んで死ぬのであるが、食つて産んで死なうとすれば絶えず敵と戰はねばならぬ。そして團體を形造ることは敵と戰ふに當つて、攻めるにも防ぐにも頗る有功な方法である。身體の互に連絡して居る群體では、全部が恰も單獨生活を營む一個體の如くに働くが、若干の離れた個體が一處に集まつて幾分か力を協せ不完全な社會を造り、共同の敵と戰ひながら食つて産んで死なうとすれば、そこに義務と權利とが生じ、是非と善惡との區別が出來、同情も良心も初めて現はれる。小團體の間に劇しい競爭の行はれることが長く續けば、各團體は益々團體生活に適する方向に進歩し、その内の各個體の神經系も次第に變化して、生れながらに義務と善と同情とを行はずには居られぬものとなるであらうが、人間などの如くに團體が大きくなつて、その間の勝負が急に片附かなくなると、この方向の進歩は無論止まつてしまひ、一旦發達し掛つた同情愛他の心は、再び個體各自の生存に必要な自己中心の慾情のために壓倒せられるやうにならざるを得ない。しかも意識に現はれる所は神經系の働の一小部分であつて、その根抵はすべて無意識の範圍内に隱れて居るから、今日の人間の所業には善もあれば惡もあり、同情もすれば殘酷なこともして、自分にも不思議に思はれる程に相矛盾したことが含まれるであらう。人類に於ける道德觀念は如何にして起り、如何なる經路を經て今日の狀態までに達したかは、素より大問題であつて、そのためには隨分大部な書物も出來て居る位であるから、無論本書の中に傍ら説き盡せるわけのものではない。それ故こゝには生物全體に就いて以上簡單に述べただけに止めて置く。

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

五月二日の申刻計(さるのこくばかり)に、和田左衞門尉義盛大將として、嫡子新左衞門尉常盛、同じき子息新兵衞尉朝盛入道實阿、三男朝夷(あさひな)三郎義秀、四男四郎左衞門尉義直、五男五郎兵衞尉義重、六男六郎兵衞義信、七男七郎秀盛、この外には土屋大學助(つちやのだいがくのすけ)義淸、古郡(ふるごほりの)左衞門尉保忠、澁谷次郎高重、中山四郎重政、同太郎行重、土肥(とひの)先次郎左衞門尉惟平、岡崎左衞門尉實忠〔眞田與一言芳談が子なり〕、梶原六郎朝景、同次景衡、同三郎影盛、同七郎景氏、大庭次郎景兼(かげかね)、深澤(ふかざはの)三郎景家、大方(おほかたの)五郎政直、同太郎遠政、鹽屋(しほやの)三郎惟守以下親類朋友百五十騎、郎從都合三百餘人、三手に分ちて押寄せたり。一手は雑草家の南門に至り、二手は相州義時の小町の西、北の両門を圍みたり。義時は豫てより、將軍の御陣、法華堂に伺候せらる。留主の侍(さぶらひ)五十餘人、出合ひて戰ひ、殘りなく討れたり。御家人等(ら)、御所の南に出でて戰ふに、兩方、矢を發(はな)つ事、雨の如く、鋒(きつさき)より火を出し、鐔元(つばもと)に血を滴(した)で、追(おう)つ捲(まく)りつ、半時計り攻(せめ)戦ふ。波多野(はだのゝ)中務丞忠綱、三浦左衞門尉義村、馳(はせ)加はりけれども、御家人等、叶はずして、散々に追靡(おひなび)けらる。御所の四面を取圍みて内に攻入らんとす。修理亮泰時、同次郎朝時、上總三郎義氏等、力を盡してふせぎけるを、朝夷三郎義秀、惣門を押破り、軍兵(ぐんぴやう)、込入(こみいり)て、火を掛けしかば、御所の棟々(むねむね)、一宇ものこらず燒失す。

 

[やぶちゃん注:〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年五月二日の条に基づく。建暦三年(一二一三)五月二日の条の前半を以下に示す。なお、しばしばお世話になっている、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の訳の脇に、非常に分かり易い合戦関連地図が掲げられている。是非、ご覧になられたい。

〇原文

二日壬寅。陰。筑後左衞門尉朝重。在義盛之近隣。而義盛館軍兵競集。見其粧。聞其音。備戎服。發使者。告事之由於前大膳大夫。于時件朝臣。賓客在座。杯酒方酣。亭主聞之。獨起座奔參御所。次三浦平六左衞門尉義村。同弟九郎右衞門尉胤義等。始者與義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改變之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎爲繼。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩祿也。今就内親之勸。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則參入相州御亭。申義盛已出軍之由。于時相州有圍碁會。雖聞此事。敢以無驚動之氣。心靜加目算之後。起座改折烏帽子於立烏帽子。裝束水干。參幕府給。而義盛與時兼。雖有謀合之疑。非今朝之事歟由。猶豫之間。於御所。敢無警衞之備。然而依兩客之告。尼御臺所幷御臺所等去營中出北御門。渡御鶴岳別當坊云々。申刻。和田左衞門尉義盛率伴黨。忽襲將軍幕下。謂件與力衆者。嫡男和田新左衞門尉常盛。同子息新兵衞尉朝盛入道。三男朝夷名三郎義秀。四男和田四郎左衞門尉義直。五男同五郎兵衞尉義重。六男同六郎兵衞尉義信。七男同七郎秀盛。此外。土屋大學助義淸。古郡左衞門尉保忠。澁谷次郎高重。〔横山權守時重聟。〕中山四郎重政。同太郎行重。土肥先次郎左衞門尉惟平。岡崎左衞門尉實忠。〔眞田與一義忠子。〕梶原六郎朝景。同次郎景衡。同三郎景盛。同七郎景氏。大庭小次郎景兼。深澤三郎景家。大方五郎政直。同太郎遠政。塩屋三郎惟守以下。或爲親戚。或爲朋友。去春以來結黨成群之輩也。皆起於東西。相分百五十軍勢於三手。先圍幕府南門幷相州御第〔小町上。〕西北兩門。相州雖被候幕府。留守壯士等有義勢各切夾板。以其隙爲矢石之路攻戰。義兵多以傷死。次廣元朝臣亭。酒客在座。未去砌。義盛大軍競到進門前。雖不知其名字。已發矢攻戰。其後凶徒到横大路。〔御所南西道也。〕於御所西南政所前。御家人等支之。合戰及數反也。波多野中務丞忠綱進先登。又三浦左衞門尉義村馳加之。酉剋。賊徒遂圍幕府四面。靡旗飛箭。相摸修理亮泰時。同次郎朝時。上総三郎義氏等防戰盡兵略。而朝夷名三郎義秀敗惣門。亂入南庭。攻撃所籠之御家人等。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡。(以下は次のパートに譲る)

〇やぶちゃんの書き下し文

二日壬寅。陰る。筑後左衞門尉朝重、義盛の近隣に在り。而るに義盛の館(たち)に軍兵競ひ集まる。其の粧ひを見、其の音を聞くに、戎服(じゆうふく)を備ふ。使者を發して、事の由を前大膳大夫に告ぐ。時に件の朝臣の賓客、座に在り。杯酒、方(まさ)に酣(たけな)はなり。亭の主、之を聞きて、獨り座を起ち、御所へ奔(はし)り參る。次いで、三浦平六左衞門尉義村・同九郎右衞門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固すべきの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改變せしめ、 兄弟各々相議して云はく、

「曩祖(なうそ)三浦平太郎爲繼、八幡殿に属し奉り、奥州の武衡・家衡を征しより以降(このかた)、飽くまで其の恩祿を啄(ついば)む所なり。今、内親(ないしん)の勸めに就きて、忽ちに累代の主君を射奉らば、定めし天譴(てんけん)を遁(のが)るべからざる者か。早く先非を飜へし、彼の内儀の趣きを告げ申すべし。」

と、後悔に及ぶ。則ち、相州の御亭に參り入り、義盛、已に出軍の由を申す。時に相州、圍碁の會有り。此の事を聞くと雖も、敢へて以つて驚動の氣無し。心靜かに目算(もくさん)を加へるの後、座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を裝束(さうぞ)して、幕府に參り給ふ。而るに義盛と時兼と、謀合の疑ひ有りと雖も、今朝(こんちやう)の事に非ざらんかの由、猶豫(いうよ)するの間、御所に於いて、敢へて警衞の備へ無し。然れども、兩客の告げに依つて、尼御臺所幷びに御臺所等、營中を去り、北御門を出でて、鶴岳別當坊へ渡御すと云々。

申の刻、和田左衞門尉義盛、伴黨(ばんたう)を率いて、忽ちに將軍幕下を襲ふ。件(くだん)の與力衆と謂ふは、嫡男和田新左衞門尉常盛・同子息新兵衞尉朝盛入道・三男朝夷名三郎義秀・四男和田四郎左衞門尉義直・五男同五郎兵衞尉義重・六男同六郎兵衞尉義信、・七男同七郎秀盛、此の外、土屋大學助義淸・古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠・澁谷次郎高重〔横山權守時重が聟。〕・中山四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衞門尉惟平・岡崎左衞門尉實忠 〔真田與一義忠が子。〕・梶原六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛・同七郎景氏・大庭小次郎景兼・深澤三郎景家・大方(おほかた)五郎政直・同太郎遠政・塩屋三郎惟守以下、或ひは親戚として、或ひは朋友として、去ぬる春以來(このかた)、黨を結び群を成すの輩なり。皆、東西に於いて起ち、百五十の軍勢を三手に相ひ分ち、先づ幕府南門幷びに相州が御第(ごてい)〔小町の上(かみ)。〕西・北の兩門を圍む。相州、幕府に候ぜらると雖も、留守の壯士等、義勢(ぎせい)有り。各々夾板(はあみいた)を切り、其の隙を以つて矢石(しせき)の路(みち)と爲して攻め戰ひ、義兵、多く以つて傷死(しやうし)す。次いで廣元朝臣が亭、酒客、座に在り。未だ去ざる砌り、義盛が大軍、競ひ到りて門前に進む。其の名字を知らずと雖も、已に矢を發(はな)ちて攻め戰ふ。其の後、凶徒、横大路(よこおほぢ)〔御所の南西の道なり。〕に到る。御所の西南、政所前に於いて、御家人等、之を支へ、合戰、數反(すへん)に及ぶなり。波多野中務丞忠綱、先登に進む。又、三浦左衞門尉義村、之に馳せ加はる。酉の剋、賊徒、遂に幕府の四面を圍み、旗を靡(なび)かせ、箭(や)を飛ばす。相摸修理亮泰時・同次郎朝時・上総三郎義氏等、防ぎ戰ひ、兵略を盡す。而るに、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に亂れ入つて、籠る所の御家人等を攻撃す。 剩(あまつさ)へ、火を御所に縱(はな)ちて、郭内の室屋(しつをく)、一宇殘さず燒亡す。(以下は次のパートに譲る)

・「戎服」軍服。鎧。

・「前大膳大夫」大江広元。

・「八幡殿」源義家。

・「武衡・家衡」清原武衡と甥の家衡。後三年の役で義家に滅ぼされた。

・「内親」父方の親類。内戚。

・「天譴」天帝のとがめ。天罰。

・「内儀」内議。

・「目算」囲碁で対局中に相手と自分の地を計算すること。

・「時兼」横山党の横山時兼。武蔵七党の一つで、和田氏の与党。

・「夾板」門の袖に取り付けた板。

・「矢石の路」「矢石」は矢と弩(いしゆみ)の石で、矢狭間のこと。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 11

池のほとりに一木のかえであり。いにしへ爲相卿、

  いかにして此ひともとに時雨けん 山にさきたつ庭のもみち葉

とよみ給ひしより此木、時雨にもそめぬとて靑葉の紅葉と申ならはすよしかたりぬ。むかしのぬしに手向とて、

  世々にふるそのことのはのしくれより そめぬそ色はふかきもみち葉

 二日にも爰をさりがたくて、かなたこなた見めぐりて迫門の明神へ詣けるに、千歳の古木雲をしのぎ、囘岩宮をつゝみたる山のいきほひ、實に巨靈神の手を延ていづくよりか此山をうつしけむとあやしきばかり也。いかなる御神ぞと尋ければ、是は三島の大明神、本地大通智勝佛、伊豆と和一體也と神職こたへられける。

  まうてつるむかしをいまにおもひいつの みしまも同し神垣のうち

 法身妙應本無方  三島不阻一封疆

 山色涵波顯垂跡  朝陽出海是和光

[やぶちゃん注:書き下す。

 

 法身の妙應 本(もと) 無方

 三島 一封疆(きやう)を阻てず

 山色 波を涵(い)れ 垂跡(すいじやく)を顯はす

 朝陽 海を出づ 是れ 和光

 

「一封疆」は境界の謂い。]

 社の前へは島をつき出して辨才天を勸請し、島へは第一第二の橋あり。島のめぐり古木浦風になびき、よる波しづえをあらふ。一根淸淨なる時、六根ともにきよし。我人のかうべに神やどらざらめや。たのもしうぞおぼゆる。

  なみ風も心もなきぬ大海を さなから神のひろまへに見て

宿のあるじ船もよひしてみづから櫓をおして汀を出るに、秋も過行、野島こゝなれば、

  身の秋をおもひ合てあはれなり 野島の草の冬かれの色

夏鳥は名のみなり、時は冬のなかば、

  三冬にもふるしら雪のたまらぬは こや夏島の名にしきゆらむ

笠島にきて、

  笠島やきてとふ里のゆふしくれ ぬれぬ宿かす人しありやと

烏帽子島といへるは、とはでもそれとしるし。

  あさゆふに波よせきぬるゑほし島 奧よりあらきかさおりやこれ

箱崎といふあり、

  神のまもる西とひかしはかはれとも こゝもしるしの箱崎の松

[やぶちゃん注:この条、新編鎌倉志八」及び鎌倉卷之十一附録の六浦や金澤の各名所の項などを参照のこと。

「ひろまへ」広前。神前を敬っていう語。神の御前(具体に神社の前庭をも指す場合もある)。

「もよひ」舫ひ。船を杭などに繫ぎ止める動詞「舫(もや)ふ」の名詞形。

「三冬」は「さんとう」で、初冬・仲冬・晩冬の冬季三ヶ月。陰暦の十・十一・十二月を言う。この時、寛永一〇(一六三三)年十一月であった。

「名にし」の「し」は文節強調の副助詞。名なればこそ。]

耳嚢 巻之六 しやくり奇藥の事

 しやくり奇藥の事

 

 美濃の枝柿(えだがき)の蔕(へた)を水一盃(いつぱい)にて煎じ用ゆれば、即座にとまる事妙なり。予が許へ來る牧野雲玄病家(びやうか)に、老人にて久々煩ひ候(さふらふ)て、しやくり出、殊外(ことのほか)こまり候故、加減の藥を用ひ一旦止りけれど、兎角時々其(その)憂ひありしに、或日岩本家へ至り右の咄しをなしけるに、岩本の老人、氣逆(きぎやく)には、みの柿の蔕を洗(あらひ)し湯を用ひて度々奇功ある事を咄し、到來獻殘(けんざん)の蔕を貯置(たくはへおき)し由にて與へける故、早速煎じ用ひしに、立所(たちどころ)に止りぬとかたりし故、予も右柿蔕貯(たくはへ)の儀申付(まうしつけ)ぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。本巻に特に多い民間医薬シリーズの一。「川口漢方薬局」の第44話 しゃっくりと柿の蔕、漢方の話に(改行を省略した)、『病院の紹介で、しゃっくりに柿の蔕が効くから漢方薬屋さんで買ってきてのみなさいと言われたという方が時々いらっしゃいます。通常のしゃっくりは、放置しておいても自然に治りますが、繰り返したりひどいしゃっくりが長時間続く場合は、日常の生活にも困りますのできちんと治療した方が良いです。西洋医学的には、脳、心臓、気管、食道、胃などの様々な病気が原因でしゃっくりが出るとされていて、制吐剤や抗けいれん剤などが効果があります。しかし、慢性疾患で他の薬物を使用していたりする場合、安全性の面からも良い方法ではない場合が多いのです。ですから、お医者さんも柿の蔕を勧めることが多いのです。柿の蔕だけを使用しても一定の効果がありますが、体質や症状を考慮しているわけではありませんから、根治は無理なことが多いですし、しゃっくり以外の症状が軽減されることも期待できません』とあって、何と現在でも正規の医師が公に勧めている事実が分かる。以下を読んでゆくと。調剤名は「柿蒂湯(していとう)」「丁香柿蒂湯(ちょうこうしていとう)」などと呼称していることが分かる。柿の蔕に丁香(クローブ)や生姜を配合するようである。

・「枝柿」吊るし柿。戦国の昔から美濃地方の名産品である。

・「牧野雲玄」不詳。ここまでの「耳嚢」には登場していない。名前とシチュエーションから医師に間違いないが、どうも、内科漢方系には弱そうだ。専門は外科医かも知れぬ。

・「岩本家」不詳。ここまでの「耳嚢」には岩本姓は登場していない。それにしてもかくも読者が知れることのように姓のみ出すというのは、当時のお武家としては、かなり有名な人物(「獻殘」という語を用いる以上は大名か旗本か)でなくてはなるまい。識者の御教授を乞うものである。

・「氣逆」しゃっくり。吃逆(きつぎゃく)。

・「獻殘」底本の鈴木氏注に、『武士または町人などが大名に献上した品物を、特定の商人(献残屋という)に払下げ、商人はまた献上用の品として売る、その品物を』いう、とある。謂わば、大名が受けた贈答品の内、不用のものや使いきれないで多量に残ったものをリサイクルするシステムである。但し、鈴木氏は続けて、『鰹節のように保存のきく品物が多い。なおこの文章は柿を献残といっているが単に到来品の意味であろう』と記しておられる。確かに、蔕をとってしまっては献残品には使い回せない。痒いところに手の届く納得の注である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 しゃくりの奇薬の事

 

 執拗(しゅうね)きしゃっくりの場合、美濃名産の吊るし柿の蔕(へた)一枚に対し、水一杯を加え、これを煎じ用いれば、即座に止まること絶妙で御座る。

 私の元へ参る牧野雲玄と申す医師、ある主治として御座ったさる病人――老人にて永患い致いて御座った者なるが――ある折りより、しゃっくりが出始め、これ、止まらずなったによって、殊の外、困って御座ったゆえ、一般に用いるところの薬を適宜、調剤致いては処方致いたところが、これ、一旦は止ったものの、その後も、しばしばぶり返して、これ、衰えた病人には辛き煩いの種で御座った。

 ところが、ある日、牧野殿、かの岩本家を訪ねた際、このしゃっくりの難儀の話しを致いたところ、岩本の御老人曰く、

「……御医者なる貴殿に申すもなんでは御座るが……気逆(きぎゃく)には、これ、美濃の吊るし柿の蔕を洗った湯(ゆう)を用いて、これ、度々、奇効の御座ったぞ。……」

と話した上、

「……そのため、他よりもろうた到来品の柿の蔕、これ、貯え置いて御座れば、少しお分け致そう。……」

とて、雲玄、頂戴致いて、早速に煎じて、かの老病人へ用いたところ……

 

「――いや! これ、たちどころに、執拗(しゅうね)きしゃっくり――これ、止まって御座った!。」

と雲玄殿が語って御座った。

 なれば、私もかの柿の蔕、これ、貯えおくの儀、家の者に申し付けておるので御座る。

一言芳談 一二七

   一二七

 

 法然上人御往生の後、三井寺の住心房に夢の中に、とはれても、阿彌陀佛はまたく風情(ふぜい)もなし。ただ申すなりと、上人こたへ給ひけり。

 

〇三井寺の住心房、寺法師にて往生の心ざしふかかりしゆゑ、夢の中に、法然上人にあひ奉りて、念佛の申し樣を問はれし時の御返事なり。

 

[やぶちゃん注:特異な夢記述のエピグラムである。所謂、聖書の預言者たちのような黙示録的夢幻の一句である。

「住心房」Ⅱの大橋氏注に、『天台の阿闍梨覚顕。右内弁葉室行隆の息にして信空の兄ともいう』とされ、「一枚起請文梗概聞書」下にも「三井寺の住心房と申す學生ひじり」と見える、とある。しかし、調べてみると、平安時代後期の公卿であった藤原季仲の子に園城寺阿闍梨覚顕の名を記す資料、また、現在の京都市上京区にある廬山寺(現在は天台宗系の圓浄宗単立寺院)を、寛元三(一二四五)年に現在の船岡山の麓で復興した人物として、法然上人に帰依した住心房覚瑜(かくゆ)なる僧名を見出せる。これらの一体誰がここで法然と夢に逢った人物なのであろう? 識者の御教授を乞うものである。

「とはれても」住心房が夢の中で極楽浄土に在る故法然上人に、「阿彌陀様のご様子はどのような感じで御座るか?」と問われても、の謂いである。

「風情」これは広義の気配、様子の謂いで、「風情もなし」で、これといって変わった特別なご様子も見受けられませぬ、の謂い。]

假面の上の草 大手拓次

 假面の上の草

そこをどいてゆけ。
あかい肉色の假面のうへに生えた雜草は
びよびよとしてあちらのはうへなびいてゐる。
毒鳥の嘴(くちばし)にほじられ、
髮をながくのばした怪異の托僧は こつねんとして姿をあらはした。
ぐるぐると身をうねらせる忍辱は
黑いながい舌をだして身ぶるひをする。
季節よ、人閒よ、
おまへたちは横にたふれろ、
あやしい火はばうばうともえて、わたしの進路にたちふさがる。
そこをどいてゆけ、
わたしは神のしろい手をもとめるのだ。

詩人の稱呼 萩原朔太郎

       詩人の稱呼

 

 詩人の稱呼は決定的である。なぜなら眞の天質的の詩人は、韻文以外の何を書いても、その文學の一切が皆必然的の詩になつてゐるから。反對に似而非の詩人は、韻文を書いてさへも、形體(フオルム)以外の意味に於ては、眞の詩になつてゐないから。――詩人と韻文作家との區別は、素因的に決定されてるものである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十四番目、先に示した「詩人と詩作家」の直後に配されたものである。ここまで読んできてくれた私の稀有の親しい読者の数人は、私がこれらの引用で主に何を意識しているか、既にお分かりであろう。――芥川龍之介――である。朔太郎は畏友芥川龍之介のことを「詩を熱情してゐる小説家である。」「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」と公言して憚らなかった。その前後の頗る忘れ難い印象的な複数のシークエンスを我々は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の中に見出す。特にその「11」から「13」である(私は「13」の朔太郎と龍之介の最後のショットを確かに実見したという不思議な錯誤記憶さえあるのである)。リンク先は私の電子テクストである。]

鬼城句集 春之部 鶸

 

鶸    水あみてひらひら揚る川原鶸

 

     [やぶちゃん注:底本では「ひらひら」の後

      半は踊り字「〱」。]

2013/03/28

「エビングハウスの夢」と書く夢

四、五日前の夢。
夢の中にノートがある。
そこに僕は
「エビングハウスの夢」
と鉛筆で書く――

という、それだけの夢だったのだが、目覚めた直後、僕はこれは僕の好きな「性的倒錯」で知られた心理学者クラフト・エビングのアナグラムだろうと思い、放っておいたのである。
ところが、ふと、何か違和感があって、先程、調べてみたところが、エビングハウスなる心理学者が実在した。ドイツの心理学者で、子音・母音・子音から成る無意味な音節を記憶し、その再生率を調べ、「忘却曲線」という中・長期記憶に関わる忘却を表す曲線の提唱者であることを知った。
私の書斎には短期記憶や長期記憶に関わるジリアン・コーエンの著作や(巻頭にエビングハウスの英語名が記されていた)、二十代の頃に蒐集した記憶関連の論文類が幾つかあるから、その中で読んで知っていたのかも知れない――が、今やそれこそ完全に「忘却」している――名前だったのである。

何だか、それも不思議、また夢もただシンプルで不思議、であった。

僕の脳が僕の忘却――脳萎縮によるそれを――押し留めようとでも、したのであろうか?……

北條九代記 北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

和田左衞門尉義盛は、上總國伊北莊(いぎたのしやう)にありけるが、この事を聞きて急ぎ走參(はせさん)じ、御所に伺候して對面を遂げ奉る。今度、二人の子息等召誡(めしいまし)めらるゝ事を大に歎き申しければ、數年勲功の忠節に優(いう)じて、子息四郎義直、五郎義重が罪名(ざいみやう)を除きて、許し下されたり。羲盛、老後の眉目(びもく)、之に如(しか)ずと喜び奉りて、退出す。翌日、又、義盛、その一族九十八人を引卒して、御所の南庭に列坐し、迚(さても)の御恩に、囚人の内和田平太胤長を許し給はるべしと申す。平太は謀叛人の張本なれば、叶ふべからずとて、高手小手に縛搦(しばりから)め、一族共の坐したる前を引渡し、判官行村に仰せて、陸奥國岩瀨の郡(こほり)に流罪せらる。平太が家は荏柄(えがら)の天神の前にあり。御所の東の隣(となり)たるに依て、近習の侍、望み申す人多し。義盛、即ち五條局(でうのつぼね)とて、近く召使はるゝ女房に屬(しよく)して、言上しけるやう、「故右大將家の御時より、義盛が一族の所領の地としては、他人、更に住居すべからず。只今、闕所(けつしよ)に及ぶ條、是非なし。せめて彼が屋形(やかた)をば申(まうし)受け奉らん」と望み申す。實朝卿、御許容ありけるが、忽に變改(へんがい)して、相撲守義時に賜る。和田が代官久野谷(ひさのやの)彌次郎を追出し、行親、忠家、分(わけ)取りて移(うつり)住みけり。義盛、大に怒(いかつ)て曰く、「この屋形を申受けて少(すこし)の怨(うらみ)をも散ぜんと思ひし所に、忽に變改して義時に賜る事、重々以て口惜(くちをし)き事なり。此上は生きて世にありて何を面目とすべき。皆、北條が所屬なれば、思ひ知らせばべらんものを」とて、頓(やが)て叛逆を企てけり。和田新兵衞尉朝盛(とももり)は義盛が孫なり。將軍家の近習(きんじゆ)として等倫(とうりん)の寵恩、之に越(こゆ)る人なし。近比(このころ)、父祖一黨して怨(うらみ)を含み、出仕を留めて、叛逆を企てはべる。是に與すれば、君を射奉るの科(とが)あり。與せざれば、父祖の孝道に叛く事を思ひて、淨遍僧都に謁して、發心出家の身となり、實阿彌陀佛と名を付きて、京都に上りける所に、義盛、聞付けて、四郎左衞門尉義直を追手に遣はす[やぶちゃん注:「尉」は底本になく、不自然な一字空けになっている。脱字と判断して訂した。]。駿河國手越(てごし)にて追付き、引返しはべり。この事、隱(かくれ)なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)を遣(つかは)し、樣々宥(なだ)め仰せらるれども、用ひず。

 

[やぶちゃん注:〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年三月八日・九日・十七日・二十五日及び四月二日・十五日・十六日・十七日・十八日・二十七日等の条に基づくが、乱の勃発直前の、実朝幕府側と義盛との緊迫したやり取りのシークエンスは、何故か端折られている。個人的には、カタストロフへ向けての漸層的な昂まりの場面を筆者が省略したのは解せない。かなり面白いからである。特にその後半辺りは以下の「吾妻鏡」の引用で味わって戴きたい。まずは三月八日の条。

〇原文

八日己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衞門尉義盛日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次。且考累日勞功。且愁子息義直。義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功。被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目。退出云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞するの間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万といふことを知らず。和田左衞門尉義盛、日來(ひごろ)、上総國伊北庄(いきたのしやう)に在り。此の事に依つて馳せ參じ、今日御所へ參上し、御對面有り。其の次でを以つて、且つは累日(るいじつ)の勞功を考へ、且つは子息義直・義重等、勘發(かんぽつ)の事を愁ふ。仍つて、今、更に御感有りて、沙汰を經らるに及ばず、父が數度の勳功に募(つの)り、彼の兩息の罪名を除かる。義盛、老後の眉目(びもく)を施して、退出すと云々。

・「伊北庄」上総国夷隅郡内に中世に作られた荘園伊隅荘(いすみのしょう)の一部。鎌倉時代には全体としての伊隅荘という総称は残ったものの、実際には分割支配されて伊北荘・伊南荘と称された。現在の研究では伊北荘の範囲は現在の夷隅郡西部の大多喜町及び旧夷隅町の一部に勝浦市北部を含んだ地域とされる。参照したウィキに「伊隅荘」によれば、初期の『荘園領主は鳥羽上皇により創建された金剛心院』で、『当荘の成立経緯は不明だが、旧夷隅郡がほとんどそのまま伊隅荘として立荘されたものと考えられる。治承年間には上総氏の支配下にあった。そして上総氏が滅亡した後は和田義盛が伊北荘を支配したが、和田合戦で北条方に敗れた後は三浦胤義がこの地を支配した。しかし、当荘が南北両荘に分割して支配されたことは南北朝時代に至っても変わらなかったことが覚園寺文書からわかっている』とある。なお、「いきた」という読みは、本来の荘園総称の「いすみ」という読み及び「北條九代記」の読みに合わせた私の判断であって、資料によっては「いほく」と読んでいる。

・「勘發」読みは「かんほつ」「かんぼつ」でもよい。過失を責めること。譴責。

・「眉目」面目。名誉。

 

 翌九日の条。

〇原文

九日庚戌。晴。義盛〔著木蘭地水干葛袴。〕今日又參御所。引率一族九十八人。列座南庭。是可被厚免囚人胤長之由。依申請也。廣元朝臣爲申次。而彼胤長爲今度張本。殊廻計畧之旨。聞食之間。不能御許容。即自行親。忠家等之手。被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由。相州被傳御旨。此間。面縛胤長身。渡一族座前。行村令請取之。義盛之逆心職而由之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日庚戌。晴る。義盛〔木蘭地(もくらんぢ)の水干、葛袴(くずばかま)を著す。〕、今日、又、御所に參ず。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。是れ、囚人胤長を厚免せらるべきの由、申し請(う)くるに依つてなり。廣元朝臣、申し次ぎたり。而るに、彼の胤長、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞こし食(め)すの間、御許容に能はず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村の方へ召し渡され、重ねて禁遏(きんあつ)を加ふべしの由、相州、御旨を傳へらる。此の間、胤長の身を面縛(めんばく)し、一族の座の前を渡し、行村、之を請け取らしむ。義盛の逆心、職(しよく)として之れに由(よ)ると云々。

・「木蘭地」梅谷渋(うめやしぶ:染料の名。紅梅の根や樹皮を煎じた液。)に明礬(みょうばん)を媒染剤として混ぜて染めた狩衣・直垂(ひたたれ)などの地の染め色のこと。赤味のある黄色を帯びた茶色。「もくれんじ」「むくらんじ」とも読む。

・「葛袴」葛布(くずふ:クズの繊維を紡いだ糸で織った布。)で作った袴。狩袴をやや裾短かに仕立てて、括(くく)り緒(お)を附けたもの。

・「禁遏」本来は禁じてやめさせることであるが、ここは監禁することを言っている。

・「面縛」罪人を捕縛する際の捕縛方法に附けられた名称。両手を後ろ手に縛り上げて、顔面を前方に差し出させる縛り方をいう。

・「職として」「職」は「専ら」の意、連語で、「主として」「専ら」の意味で、「吾妻鏡」では、ある事件を引き起こすことになる原因の説明に多く用いられている。「もととして」と訓ずる説もある。

 

 結局、胤長は十七日の条で『和田平太胤長配流陸奥國岩瀨郡云々。』(和田平太胤長、陸奥國岩瀨郡へ配流すと云々。)とある。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注では、『陸奥國岩瀬郡は、現福島県須賀川市のあたり。直接に繋がる資料証拠はないが、戦国初期に二階堂氏が須賀川に、結城氏は白河に、三浦の田村氏は三春にいた。田村氏は二階堂氏や結城氏と何度も争っている。三月九日の記事と会わせて思料すると、二階堂行村の領地が須賀川市(旧岩瀬郡)にあったと推測される』と記しておられる。三月九日の記事で胤長が預け替えとなった相手の山城判官行村とは二階堂行村で、この配流地は後の戦国の領地抗争史から見て、鎌倉時代には二階堂氏の所領であった可能性が高いという推理である。以下、「吾妻鏡」では、この次にある十九日の条で早くも、甲冑に身を固めた不審な五十余人の輩が義盛邸の辺りを徘徊、和田氏に組する武蔵七党の一つ、横山党連中であることが判明して、不穏な事態であることから御所で行われていた徹夜の庚申会(こうしんえ)が途中で中止されたり、二十日には流された胤長の六歳の娘が父の遠流の悲哀のために病み臥して危篤状態となり、何とかしようと、『而新兵衞尉朝盛其聞甚相似胤長。仍稱父歸來之由。訪到。少生聊擡頭。一瞬見之。遂閉眼云々。同夜火葬。母則遂素懷〔年廿七。〕西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。』(而るに新兵衞尉朝盛、其の聞え、甚だ胤長に相ひ似る。仍つて父の歸り來るの由と稱し、訪(とぶら)ひ到る。少生、聊か擡頭して、一瞬、之を見て、遂に閉眼すと云々。同夜、火葬す。母、則ち素懷〔年廿七。〕を遂ぐ。西谷の和泉阿闍梨、戒師たりと云々。)といった、私なら何としても採り入れたいサイドの悲劇のシークエンスが描かれている。この和田朝盛(とももり:和田義盛の嫡孫)は実朝遺愛の側近で、「北條九代記」本文にも引かれている通り、この後の和田合戦直前の今一つのエピソードの主人公ともなる。

 

 次の同三月二十七日の条で荏柄天神前の旧胤長屋敷の問題がクロース・アップされる。

〇原文

廿五日丙寅。和田平太胤長屋地在荏柄前。依爲御所東隣。昵近之士面々頻望申之。而今日。左衞門尉義盛屬女房五條局。愁申云。自故將軍御時。一族領所收公之時。未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之。殊成喜悦之思云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日丙寅。和田平太胤長が屋地(やぢ)は、荏柄(えがら)の前に在り。依つて御所の東隣りたるに依つて、昵近(ぢつきん)の士、面々に頻りに之を望み申す。而るに今日、左衞門尉義盛、 女房五條局に屬して、愁ひ申して云はく、

「故將軍の御時より、一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず。彼の地は、適々(たまたま)宿直(とのゐ)の祗候(しこう)の便(びん)有り。之を拝領せしむべきか。」

と云々。

忽ち之を達せむ。殊に喜悦の思ひを成すと云々。

・「一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず」中世に於いては一族連座が適応されない個別な罪状による個人の所領没収については同族にそれを還付するのが原則であったから、ここで義盛の旧胤長邸懇請、即座に行われた実朝によるその引き渡しの許諾、義盛の喜悦という部分は当然のことで、一見、やや事態にも明るい兆しが見えたかのように感じられるのだが……その一週間後、事態は思わぬ展開を見せることとなるのである。

 

 翌月四月二日の条。

〇原文

二日癸酉。相州被拜領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衞門尉義盛代官久野谷彌次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心彌不止而起云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日癸酉。相州、胤長が荏柄の前の屋地(やぢ)を拜領せられ、則ち、行親・忠家に分ち給ふの間、前の給人(きふにん)、和田左衞門尉義盛が代官、久野谷彌次郎を追ひ出し、各々卜居(ぼくきよ)する所なり。義盛、欝陶(うつたう)を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠(こそ)のごとし。仍つて再び子細を申すに能はずと云々。

先日、一類を相ひ率いて、胤長が事を參訴の時、敢へて恩許の沙汰無し。剩(あまつさ)へ其の身を面縛(めんばく)し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列參の眉目を失ふと稱し、彼の日より悉く出仕を止め畢んぬ。其の後、義盛、件(くだん)の屋地を給はり、聊か怨念を慰めんと欲するの處、事問はず、替へらる。逆心、彌々(いよいよ)止まずして起こると云々。

・「虎鼠のごとし」(訴論をしても相手が義時では)虎に鼠が挑むような勝ち目のないものであることを言う。まさに義時は確信犯でこの旧胤長邸の占拠を実行している(恐らくは実朝にさえも強圧的に還付の破棄を迫ったものと思われる。いや、寧ろ、巧妙に還付をさせた上で、巧妙な手管によって合法的奪取を仕組み、義盛を絶望と憤怒の底に叩き落とし、謀叛決起を起こさせる作戦であったと読んでもよかろう)。まさしく文字通り――義時は虎狼の心あり――である。

 

 同四月十五日から「吾妻鏡」をそのまま十八日まで引く。父祖と実朝の板挟みとなった和田朝盛のエピソードである。

〇原文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛者。爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而近日父祖一黨含恨忘拜趨。朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙。逢淨遍僧都。學出離生死之要道。讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心。今夕已欲遂素懷。存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月。於南面有和歌御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。獻秀逸之間。御感及再往。又陳日來不事子細。公私互散蒙霧。快然之餘。縮載數ケ所地頭職於一紙。直給御下文。月及午。朝盛退出。不能歸宅。到淨蓮房草庵。忽除髪。號實阿彌陀佛。即差京都進發。郎等二人。小舎人童一人。共以出家云々。

十六日丁亥。朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書狀。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法體。可追返之由。示付四郎左衞門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。

十七日戊子。於御所被供養八万四千基塔婆。莊嚴房爲導師云々。〕朝盛遁世事。今日達上聞。御戀慕無他。令刑部丞忠季訪父祖別涙給云々。

十八日己丑。義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散鬱憤云々。又乍著黑衣。參幕府。依有恩喚也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛は、將軍家の御寵愛たり。等倫(とうりん)、敢へて之を諍(あらそ)はず。而るに近日、父祖一黨、恨を含みて拜趨(はいすう)を忘れ、朝盛、同じく夙夜(しゆくや)の長番(ちやうばん)を抛(なげう)ち、蟄居せしめ、其の暇まの隙(ひま)を以つて、淨遍僧都に逢ひ、出離生死(しゆつりしゃうじ)の要道を學びて、讀經念佛の勤修(ごんじゆ)、未だ怠り有らず。漸くに發心(ほつしん)を催し、今夕、已に素懷を遂げんと欲す。年來(としごろ)の餘波(なごり)を存じ、御所へ參る。時に將軍家、朗月(らうげつ)に對し、南面に於いて和歌の御會有り。女房數輩、其の砌りに候ず。朝盛、參進し、秀逸を獻ずるの間、御感、再往に及ぶ。又、日來(ひごろ)不事の子細を陳(の)べ、公私互ひに蒙霧(もうむ)を散じて、快然たるの餘りに、數ケ所の地頭職を一紙に縮載して、直(ぢき)に御下文を(くだしぶみ)を給ふ。月、午(ご)に及び、朝盛、退出す。歸宅に能はず、淨蓮房の草庵に到り、忽ち髪を除(はら)ひて、實阿弥陀佛と號し、即ち、京都を差して進發す。郎等二人、小舎人童(こどねりわらは)一人、共に以て出家すと云々。

十六日丁亥。朝盛が出家の事、郎從等、本所へ走り歸りて、父祖等に告ぐ。此の時、驚きながら、閨中(けいちゆう)より一通の書狀を求め出だし、披覽するの處、書き載せて云はく、

「叛逆の企て、今に於いては定めて默止(もくし)せられ難からんか。然りと雖も、一族に順ひて主君を射奉るべからず。又、御方(みかた)に候じて父祖に敵するべからず。如(し)かじ、無爲に入りて、自他の苦患(くげん)を免れんには。」

と云々。

義盛、此の事を聞き、太だ忿怒(ふんぬ)し、

「已に法體(ほつてい)たりと雖も、追つて返すべし。」

の由、四郎左衞門尉義直に示し付く。是れ、朝盛は殊なる精兵(せいびやう)なり。時の軍勢の棟梁たるに依つて、義盛、強(あなが)ちに之を惜むと云々。

仍つて義直、鞭を揚ぐと云々。

十七日戊子。御所に於いて八万四千基の塔婆を供養せらる。莊嚴房、導師たりと云々。

朝盛が遁世の事、今日、上聞(じやうぶん)に達す。御戀慕、他(ほか)無し。刑部丞忠季をして父祖の別涙を訪(とぶら)はしめ給ふと云々。

十八日己丑。義直、朝盛入道を相ひ具し、駿河國手越(てごし)驛より馳せ歸る。仍つて義盛、對面を遂げ、暫く鬱憤を散ずと云々。

又、黑衣を著けながら、幕府に參ず。恩喚有るに依つてなり。

・「和田新兵衞尉朝盛」(生没年不詳)彼は「朝盛は殊なる精兵」とあるように、父常盛とともに弓の名手であった。そのために以下に見るように祖父義盛が合戦の際の、不可欠の人物として連れ戻させたのであった。この直後の和田合戦では一族とともに戦い、一族は敗れたものの彼は生き延びている。恐らくは戦後に、寵愛していた実朝からの強い意向が働いたからと思われる。但し、承久三(一二二一)年の承久の乱の際には上皇方に組して参戦、乱後は逃亡するも嘉禄三(一二二七)年六月に捕縛されている。参照したウィキの「和田朝盛」によれば、その後の動向ははっきりしないものの、三浦半島の現在の三浦市初声(はつせ)町にある『高円坊に墓(朝盛塚)があり、その地名も朝盛の法名から取ったものと伝えられている』とあり、『また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏(三浦氏一族)の項の記述によれば、親族の佐久間家村の養子となり越後国奥山荘に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。 しかし、同時代の史料でそれを裏付けるものは見つかっていない』とする。何か、歴史の煙霧の中に静かに姿を消した、彼が愛しい気が、私にはするのである。

・「等倫、敢へて之を諍はず」同輩の仲間。ここは朝盛の寵愛が同輩が競うまでもなく、抜きんでていたことを語る。

・「拜趨」相手の所へ出向くことを遜って言う語。参上。

・「夙夜の長番」「夙夜」朝早く出仕し、夜遅くまで仕えることであるから、日参の永の近侍をいう。

・「朗月」朗らかな月、明るく澄み渡った月で、名月のこと。この日は陰暦十五日であるから、折しも満月である。

・「南面に於いて」君子南面すで、御所の公的な行事として、の意。

・「日來の不事の子細を陳じ」ここのところの不出仕のお詫びを申し上げ。

・「秀逸を獻ずるの間」優れた(恐らくは今の自分の置かれた微妙な立場を詠み込んだ)秀逸なる和歌を実朝卿に献じたによって。

・「公私互に蒙霧を散じ」「蒙霧」は「朦霧」とも書き、立ちこめる霧から転じて、心の晴れぬ様を言い、実朝と朝盛との間の互いの不審や疑念が雲散霧消し、の意。

・「快然」気分が晴れて、心地良くなるさま。

・「數ケ所の地頭職を一紙に縮載して」複数箇所の地頭職を朝盛に任ずる内容の下文を一枚の紙に略記して。

・「月、午に及び」満月の時であるから、まさに午前零時頃である。

・「閨中」朝盛の私室の寝所。

・「如かじ、無爲に入りて、自他の苦患を免れんには。」これ以外に、法は御座いませぬ……何もせず……そして……自分と主君と和田一族の……この曰く言い難き苦渋の苦界から出するためには。

・「父祖の別涙を訪はしめ給ふ」祖父和田義盛や父常盛の殊の外であろう無念の悲しみ(それは寧ろ実朝自身の思いであったと思われるが)を見舞わせなさった。

・「駿河國手越驛」現在の静岡県静岡市手越は安倍川の右岸に位置するが、中世の宿駅はもう少し北方の安陪川支流の藁科(わらしな)川右岸にあった。

ここに至っても、朝盛は墨染の衣で、実朝に律儀に謁見している。和田義盛もその謁見を許している。誰もが最早、諦めているところの始動したカタストロフの一齣の中、私はこの二人の謁見場面を映像に撮りたい欲望に駆られるのである。

 

「この事、隱なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏を遣し、樣々宥め仰せらるれども、用ひず」最後のこの一文部分は、「吾妻鏡」では詳細を極める。建暦三(一二一三)年四月二十七日の条を見て、本パートの終わりとしよう。

〇原文

廿七日戊寅[やぶちゃん注:これは「戊戌」の誤り。書き下し文では訂した。]。霽。宮内兵衞尉公氏爲將軍家御使。向和田左衞門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合。〔無橋。〕其際烏帽子拔落于公氏之前。彼體似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵隨分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歷二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退恥運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已決定歟。但未及著甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潛以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊戌。霽る。宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)、將軍家の御使と爲し、和田左衞門尉が宅へ向ふ。是れ、義盛、用意の事有るの由、聞こし食(め)すに依つて、其の實否を尋ね仰せらるるが故なり。而して公氏、彼の家の侍(さぶらひ)へ入り案内せしむ。小時(しばらく)あつて、義盛、御使に相ひ逢はんが爲に、寢殿より侍へ來たり、造り合せ〔橋無し。〕を飛び越ゆ。其の際、烏帽子、公氏の前に拔け落つ。彼(か)の體、人の首を斬るに似たり。公氏、以爲(おもへ)らく、

『此の人、若し、叛逆の志を彰(あら)はさば、誅戮に伏すべきの表示なり。』

と。然る後、公氏、將命の趣きを述ぶ。義盛、申して云はく、

「右大將家の御時、隨分と微功を勵ます。然らば、抽賞(ちうしやう)、頗る涯分(がいぶん)に軼(す)ぐ。而るに薨御の後、未だ二十年を歷(へ)ずして、頻りに陸沈(りくちん)の恨みを懷く。條々の愁訴、泣きて微音を出すと雖も、鶴望(かくまう)、鷁(げき)に達せず。退きて運を恥づる計りなり。更に謀叛の企て、之れ無し。」

と云々。

詞、訖はりて、保忠・義秀以下の勇士等、座に列し、兵具を調へ置く。仍つて歸參せしめ、事の由を啓(まう)すの間、相州、參じ給ひ、在鎌倉の御家人等を御所へ召さる。

「是れ、義盛、日來(ひごろ)謀叛の疑ひ有り。事、已に決定するか。但し、未だ甲冑を著するに及ばず。」

と云々。

晩景、又、刑部丞忠季を以つて御使と爲し、義盛の許へ遣はさる。

「世を度(はか)り奉るべきの由、其の聞こえ有り。殊に驚き思し食(め)す所なり。先づ蜂起を止め、退きて恩裁を待ち奉るべきなり。」

と云々。

義盛、報(こた)へ申して云はく、

「上に於いては全く恨を存ぜず。相州が所爲、傍若無人の間、子細を尋ね承らんが爲、發向すべきの由、近日、若輩等、潛かに以つて群議せしむるか。義盛、度々、之を諫むると雖も、一切、拘らず。已に同心を成し訖んぬ。此の上は事、力に及ばず。」

と云々。

・「侍」武士の屋敷内で寝殿とは別棟になっている警護の武士の詰所。戸や建具などを設けていない板敷の建物で、武具一般が常備されていた。

・「抽賞、頗る涯分に軼ぐ」その際に受けた恩賞は、これ、すこぶる大きなもので御座って拙者の分際には過ぎたもので御座った。

・「頻りに陸沈の恨みを懷く」早くも何故か、一族滅亡せんかという恨みを懐くことと相い成って御座る。

・「鶴望、鷁に達せず」一匹の地上の誠心の鶴の望みの声も、天上界を雄飛する鷁(げき:中国古代の想像上の水鳥。白い大形の鳥で、風によく耐えて大空を飛ぶとされた。ここは実朝を指すのであろう。)には遂に届くことは御座らなんだ。

・「保忠」古郡保忠。古郡氏は先に登場した横山党の一族といわれる。

・「義秀」義盛の子にして和田一族の超人ハルク朝比奈義秀(安元二(一一七六)年~?)。

・「刑部丞忠季」一部の記載では藤原姓とする。

・「恩裁」原文では実は「恩義裁」とするのだが、衍字と考えられており、除去した。有り難い御裁きの謂い。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 10

 況かゝるまれなる果報に生れあひて、三棟四棟の殿づくり、軒に軒をならべ、さき草のさきざき川いやましにさかえむ世は、濱の眞砂を數々かぞへてもなをたらぬ祈は、いつの代も下より上をおしなべてうとからぬ心ながらも、いにしへのあとをみれば淺茅が露にやどる月はよなよなかはらず。何事もむかしは蓬がそまに引かへたるをおもふにも、殘るは名也。宮寺などいとなみしはかたばかりも世にとゞまりて、今の世まで是はたれ樣のはじめて草をむすびをき給ふ、是はたれ人のたへたるをかさねて取おこし給ひて今までかくなむと、所の者の口に殘りて傳へ申を、その代の人のかたみとぞみる。是をおもへばみづからの栖居はいかにもして、かたみを神社佛閣に殘さまほしき事也。此世にはあだながらも殘る名はくちずしてつたへ、後の世は佛果の緣とならん。しかるを時の人はかゝることばをかりそめにも聞てはかた腹いたき事にいひなせども、かしこき世々のきみいかばかり智惠ある人も信じきたりたる道なれば、くだりたる世のあさき智惠にては此法をそしりやぶりがたし。やぶるはやすく立るはかたし。やすきは道にとをし、道はいたりがたき物也。百日はかりていとなみし家もやぶるは一日の中にあり。何事もかゝる理とおもふべき事なり。此寺にきてみしますが笠の軒もおち、時雨も露もふりそふあり樣ながら、晨鐘夕梵の聲のみかつがつもたえぬばかりぞ、此法の今少殘りたるしるしとぞきゝし。

  山言金澤寺稱名  響谷晨鐘夕梵聲

  時去池蓮餘敗葉  院荒籬菊尚殘英

  挾楓松竹留秋見  聽雨芭蕉入夜鳴

  屋上峯兮廊下海  登臨終日隔人情

[やぶちゃん注:書き下す。

 

  山(さん) 金澤と言ふ 寺 稱名

  谷に響く晨鐘 夕梵(ゆふぼん)の聲

  時 去りて 池蓮 敗葉(はいえふ)を餘(のこ)し

  院 荒れて 籬菊(りきく) 尚ほ英(はな)を殘す

  楓(かへで)を挾む松竹 秋を留めて見

  雨を聽くの芭蕉 夜に入りて鳴(な)る

  屋上の峯 廊下の海

  登臨 終日 人情を隔つ

 

個人的にこの詩、頗る附きで好きである。]

一言芳談 一二六

   一二六

 

 聖光上人云、凡夫は歷緣對境(りやくえんたいきやう)の名利をば可發(おこすべき)なり。但し、往生の解行(げぎやう)につきては一向(いつかう)、眞實なるべし。

 

〇歷緣對境の名利、緣にふれ、境に對して、名聞利養なり。それはさのみ往生の障にあらず。

 

[やぶちゃん注:「歷緣對境」Ⅱの大橋氏注に、『原意は行住坐臥の縁にふれて、色声などの認識の対象に対することをいう』とある。現世の不可避の欲望を指していよう。

「可發なり」この「べき」は適当である。そうした現世に於いて、しがらみとしての名利に関心を持つのは構わない、必然的に仕方がないことだ、と言っているのである。

「解行」仏教の教理の理解と実践的な修行。

「一向、眞實なるべし」Ⅱで大橋氏は、『ひたすらまことの心でなくてはなりません』と訳す。往生決定だけは――誠心でなくてはならぬ/誠心である、と言っているのである。]

耳嚢 巻之六 物を尋るに心を盡すべき事

 物を尋るに心を盡すべき事

 

 二條御城内に、久敷(ひさしく)封を不切(きらざる)御藏ありて、いつの頃、何ものか申出しけん、此藏をひらくものは、亂心なすとて、彌(いよいよ)恐れおのゝきて數年打過(うちすぎ)しが、俊明院樣御賀の時、先格(せんかく)の日記、御城内にあるべきとて、番頭より糺有(ただしあり)し故、普(あまね)く搜し求れども其舊記さらになし。せん方なければ、其譯申答(まうしこたへ)んと評儀ありしに、石川左近將監(さこんのしやうげん)、大番士たりし時、彼(かの)平日不明(あけざる)御藏内をも不改(あらためず)しては決(けつし)て無之(これなし)とも難申(まうしがたし)と言(いひ)しを、誰ありて申(まうし)傳への偶言に怖れて、明(あく)べきといふものなし。されど右を搜し殘して、なきとも難申(まうしがた)ければ、衆評の上、戸前(とまへ)を明(あ)け燈(ともしび)など入(いれ)て搜しけれど何もなし。二階を可見(みるべし)とて、濕(しめ)りも籠りたる處故(ところゆゑ)、提燈(ちやうちん)など入れしに兩度迄消へければ、彌(いよいよ)濕氣の籠れるを悟りて、彌(いよいよ)燈火を增して、不消(きえざる)に至りて上りて見しに、御長持二棹(さほ)並べありし故、右御長持を開き改めしに、御代々の御賀の記、顯然ありしかば、やがて其御用を辨ぜりと、左近將監かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。

・「尋る」標題のそれは「たづぬる」と訓じていよう。

・「俊明院樣御賀」「俊明院」は第十代将軍徳川家治(元文二(一七三七)年~天明六(一七八六)年)。岩波版長谷川氏注に『天明六年三月七日に五十の賀』とある(但し、ウィキの「徳川家治」によれば、家治の実際の誕生日は天明六年八月二十五日とする。この齟齬の意味は私には不詳)。

・「先格」前例となる格式。前からのしきたりや以前からの決まり、先例、前例の謂いであるから、家治以前の、家治の父第九代将軍家重に限定せず、それよりも前の歴代将軍家の五十の賀の儀に関わる日記・記録の謂いであろう。

・「石川左近將監」石川忠房(宝暦五(一七五六)年~天保七(一八三六)年)。本巻の「英雄の人神威ある事」に既出であるが、再掲する。石川忠房は遠山景晋・中川忠英と共に文政年間の能吏として称えられた旗本。安永二(一七七三)年大番、天明八(一七八八)年大番組頭、寛政三(一七九一)年に目付に就任、寛政五(一七九三)年には通商を求めて来たロシア使節ラクスマンとの交渉役となり、幕府は彼に対して同じく目付の村上義礼とともに「宣諭使」という役職を与え、根室で滞在していたラクスマンを松前に呼び寄せて会談を行い、忠房は鎖国の国是の為、長崎以外では交易しないことを穏便に話して長崎入港の信牌(しんぱい:長崎への入港許可証。)を渡し、ロシアに漂流していた大黒屋光太夫と磯吉の身柄を引き受けている。寛政七(一七九五)年作事奉行となり、同年十二月に従五位下左近将監に叙任された。その後も勘定奉行・道中奉行・蝦夷地御用掛・西丸留守居役・小普請支配・勘定奉行・本丸御留守居役を歴任した辣腕である(以上はウィキの「石川忠房」を参照したが、一部の漢字の誤りを正した)。「將監」はもと、近衛府の判官(じょう)の職名。彼はウィキの記載によれば、明和元(一七六四)年八月に家督を継ぎ、安永二(一七七三)年十二月に大番、天明八(一七八八)年には大番組頭となっているから、天明六年当時の大番は正しい。但し、岩波版長谷川氏注に、『左近将監を称するのは寛政七』(一七九五)年から、とある。根岸より十九歳、年若である。【2014年7月15日追記】最近、フェイスブックで知り合った方が彼の子孫であられ、勘定奉行石川左近将監忠房のブログ」というブログを書いておられる。彼の事蹟や日常が髣髴としてくる内容で、必見!

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 物を尋ねる際には心を尽くすべき事

 

 京都二条城の内に、久しく封を致いて御座って、所謂、「入らず御蔵」なるものが御座って――

――これ、何時の頃よりか――さても、何者が言い出したものか

『――この蔵を開く者は、乱心致す――』

とて、いよいよ、人々の恐れ戦き、数年、そのままにうち過ぎて御座ったと申す。

 ところが、俊明院家治樣の五十の御賀(おんが)の折り、先代将軍家の儀式に関わった日記などが、御城内にあるはずと、大番番頭(おおばんばんがしら)より糺しが御座ったによって、あまねく搜し求めてはみたものの、これ、そうした旧記、一向、見つからず御座ったと申す。

 仕方なく、

「……不明の由、お返事するしかあるまい。」

との評儀で一決して御座ったが、当時、大番役で御座った石川左近将監忠房殿は、

「……かの、普段『開かずの間と』称して御座る御蔵の内をも改めずしては、これ、『御座らぬ』とも申し難きことで御座ろう。」

と申された。

 誰(たれ)とは申さず……かねてより言い伝えて御座ったところの……たまさかの開扉……これ……乱心……との噂に怖れ……開けましょう……と申す者は、これ、一人として御座らなんだと申す。

 されど、忠房殿、

「……かの蔵を搜し残しおいて――『御座らぬ』――とは申し難きことで御座る。」

と如何にも正しき疑義を申されたによって、再度、衆議の上、かの『開かずの蔵』の戸を開いて、燈(ともしび)なんども入れて、搜して御座ったと申す。

……されど、これ、扉内の部屋には、それらしきもの、何(なんに)も御座らなんだ。

 しかし、梯子段を見た忠房殿、

「――二階をも、これ、検分致いてみるべきで御座ろう。」

と申されたによって、蔵の二階をも探索致すこととなった。

……ところが、その二階、これ、取り分けて、ひどう、湿気の籠って御座って……提燈などを入れても……何度も――

――ふっ

と、消てしまう。……

 されど、

「――これはただ、余程に湿気が籠っておるゆえに違いない。」

と、忠房殿、これ、さらに多くの燈火なんどを、追加なさった。

「……もう、消えずなりましたが……」

と、配下の者が言うたによって、御自身、上って検分なさった……ところが――

――長持二棹(おんながもちふたさお)

これ、並べて御座ったによって、その長持を開き改められたところ……その内に――

――先代将軍家御代々の御賀(おんが)の記録

――これ

――確かに御座った由。……

 

「――されば、そのまま、当将軍家御用を完遂致すこと、これ、出来申した。」

とは、左近将監殿御自身、語られた話しで御座った。

 

詩人と詩作家 萩原朔太郎

       詩人と詩作家

 

 小説家にとつて、文學は職業であり、食ふための仕事でもある。だが詩人にとつて、文學は職業でなく、いかなる生計的の仕事でもない。なぜなら詩の使命は、文學をかかる俗事の上に、純粹な創作として、眞の表現を意志することにあるのだから。詩人は所謂「作家」ではない。詩人は三年に一度、もしくは十年に一度、一篇の薄い詩集を書けば好いのである。或は全く、一筋の本すら出さないで好いのである。絶えず不斷に勉強して、毎日詩を書くといふ如き人物は、そのビヂネス的な心がけからして、既に本質的の詩人ではない。生涯に一度、二篇の善い詩をかいた人は、詩精神を失はない限りに於て、死後迄も尚永遠の詩人である。數千篇の詩を作り、孜々として詩壇的に活躍し乍ら、眞の詩精神を持たないやうな「詩作家」が、いかに現代の詩壇に多いことぞ。詩を進歩せしめるものは詩人のみ。詩作家ではないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十三番目、先に示した「醜は凡庸に優る」の直後に配されたものである。「孜孜」は「しし」と読み、熱心に努め励むさま。]

雪をのむ馬 大手拓次

   球形の鬼

 

 

 

 雪をのむ馬

 

自然をつくる大神(おほかみ)よ、

まちの巷(ちまた)をくらうする大氣のおほどかなる有樣、

めづらしい幽闇の景色をゑがいて、

その したしたとしたたる碧玉(サフイイル)のつれなさにしづみ、

ゆたかにも企畫をめぐらすものは、

これ このわたしといふ

靑白い幻の雪をのむ馬。

 

[やぶちゃん注:下線部は底本では傍点「ヽ」。最終行、「靑白い/幻の//雪をのむ馬」と詠む時、恐ろしいまでに私の琴線が倍音となって鳴り響く。]

ここより「球形の鬼」の章に入る。

鬼城句集 春之部 親雀

親雀   市に住で雀の親の小さゝよ

2013/03/27

醜は凡庸に優る 萩原朔太郎

僕はこのアフォリズムを偏愛する。何故かって? 「衛生週間の詩人たち」って、何だかとっても素敵な毒があって好きな台詞だしさ……何より……ここに並んでる作家たちが悉く皆、僕の好きな人々だからさ……



       醜は凡庸に優る

 ソクラテスの如き人物は、その醜貌の故にさへも、希臘人たる資格がないと、デカダン嫌ひのニイチエが言つてる。なぜなら醜貌は――ニイチエの思想によると――デカダンの肉體的表象であるからである。實際ニイチエの生きてゐた十九世紀は、時代の徴候であるデカダンスが、詩人の何倍にまで痛ましく表象されてゐた。酒精中毒と先天的の遺傳によつて、怪獸のやうに鼻の曲つたヹルレーヌ。阿片の常習と腦梅毒とによつて、畸型に顏の歪んだボードレエル。賭博と、癲癇と、ヒステリイと、あらゆる病的素因の變質者を代表した、あの幽鬼のやうな顏をしたドストイエフスキイ。十九世紀的なすべてのものは、まことにソクラテスと共に醜怪だつた。
 ところで現代は? 二十世紀の明朗性は、すべてのデカダン的のものを淸掃した。アメリカ・クリスチャンの病院的衞生思想は、すべての暗鬱な部屋を改造して、日當りの好いサナトリユームにし、黴臭い古雅な壁紙を引つぱがして、一面の白ペンキで塗つてしまつた。そして酒と阿片が禁じられ、戸外のスポーツやハイキングが獎勵された。アメリカ文化の二十世紀は、まことに世界の「衞生週間」を勵行した。そこで現代の詩人と文學者は、その容貌からして變つて來た。あのニイチエが身震ひした、ソクラテス的畸型の醜怪や、ヹルレーヌ的デカダンの表象は、もはや我々の地球に居なくなつた。二十世紀の詩人たちは、何れも輪廓が整つて居り、多少皆スポーツマン的の顏をして居る。でなければ、ジイドやヴアレリイのやうに、篤實な學者のやうな顏をしてゐる。しかしながらどこにもまた、ハイネやバイロンのやうな美貌の所有者――それの貴族的な上品さと優雅さとを、最高のギリシア的美貌で表象して居るやうな詩人――は現代にない。この衞生週間の詩人たちは、病院の模範看護人と同じやうに、-つの範疇的な顏をしてゐる。それは「美貌」でもなければ「醜貌」でもないところの、一つの「凡庸なもの」に過ぎない。如何に? ニイチエがそれを願つたらうか? 彼がもし生きてゐたら、むしろソクラテスの醜貌にさへも、希臘人の反語された美意識を認識したらう。即ちかう言ふだらう。デカダンさへも、尚現代よりはましであつた。醜は凡庸に遠く優ると。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十二番目、先に示した「文學者の悲哀」の直後に配されたものである。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 四 協力と束縛

……生物群体のその叙述は……もう、何かしみじみと哲学している……



     四 協力と束縛

 單獨に生活する動物では成功すれば自身だけが利益を得、失敗すれば自身だけが損害を蒙るのであるから、笑ひたいときに笑ひ、泣きたいときに泣くのも勝手であるが、多數相集まつて力を協せ敵に當る場合には大に趣が違ひ、常に全團體の利害を考へて、各自の擧動を加減しなければならぬ。笑ひたいときにも、もし自分の笑ふことが團體に取つて不利益ならば、笑はずに怺へて居なければならず、泣きたいときにも、若し自分の泣くことが團體のために不利益ならば、泣かずに忍ばねばならぬ。これが即ち所謂義務であつて、義務のために自由の一部を制限せられることは、團體生活を營む動物の免れぬ所である。しかし團體生活によつて生ずる生活上の利益は、この損失を償つてなほ餘りがあるから、種族全體の利害からいへば、個體の自由の制限せられることは頗る有望な方面に進み行くものと見做すことが出來る。「自由を與へよ。しからざれば死を與へよ。」との叫びは如何にも壯快に聞えるが、絶對の自由は團體生活をする動物には禁物であつて、もしこれを許したならば、團體は即座に分解して、敵なる團體と競爭することが出來なくなる。團體内の一部の者が暴威を振つて殘りの者を壓制するために、個體間に反抗の精神が盛になり、自分の屬する團體をも呪ふ如き者の生ずることは、その團體の生存上大に不利益であるから、かゝる場合に壓制者に對して自由を叫ぶもののあるのは當然であるが、團體生活をなす以上は、條件附の自由より外に許すことの出來ぬは論を待たぬ。
[やぶちゃん注:「怺へて」は「こらへて」と読む。]

 群體を造つて生活する動物でも、個體間にまだ分業の行はれぬ種類ならば、一疋づつに離しても生存が出來ぬこともないが、幾分でも分業が進んで、個體間に形狀や作用の相異なつたものの生じた場合には、これを別々に離しては到底完全な生活を營むことは出來ぬ。假に大工と仕立屋と百姓とが一箇所に住んで居ると考へれば、大工は三人分の家を建て、仕立屋は三人分の衣服を縫ひ、百姓は三人分の田を耕して、三人ともに安樂に暮せるが、これを一人づつに離したならば、大工も縫針を持たねばならず、仕立屋も肥桶を擔がねばならず、極めて不得手なことをも務めねばならぬであらうから、衣食住ともに頗る不自由なるを免れぬ。個体間に分業が行はれて居る動物を一疋づつに離したならば、いつでもこれと同樣な不便が生ずる。人間ならば誰も身體の形狀が同じであるから、大工が縫針を持ち、仕立屋が肥桶を擔ぐことも出來るが、群體を造る動物では、各個體の形狀・構造がその受け持ちの役目に應じて變化して居るものが多いから、一疋づつ離しては到底一日も生活が出來ぬであらう。例へば、「くだくらげ」の群體をばらばらに離したと假定すると、鐘形の個體は泳ぐだけで餓死し、葉形の個體は蔭に隱れるものがないから何の役にも立たず、物を食ふ個體は口を大きく開いて居ても餌をくれるものがなく、觸手は餌を捕へて收縮してもこれを持つて行く先がない。かやうな動物では種々の個體が集まつて、初めて完全な生活が出來るのであるから、個體は互に離れることが出來ぬ。そして他と離れることが出出來ぬといふことは既に大なる束縛である。
 蜜蜂や蟻の社會では個體の身體は相離れて居るが、各自分擔が定まて皆揃はねば完全な生活が出來ぬという點では、「くだくらげ」と同樣である。雌蜂・雄蜂だけでは卵を産むだけは出來ても、これを保護する巣も造れず、卵から孵化した幼蟲を養育することも出來ぬ。また働蜂だけでは子が生まれぬから一代限りで種族が斷絶する。働蟻の方でももこれと同樣であるが、メキシコ産の壺蟻の如きに至つては、一疋づつに離しては全く生存の意義がなくなる。されば蜂でも蟻でも、たゞ自己の屬する團體のためにのみ力を盡すやうに束縛せられて居るのである。但し、「くだくらげ」でも、蜂・蟻でも各個體は事實上かやうに束縛せられては居るが、これを人間社會で用ゐる普通の意味の束縛と名づくべきか否かは頗る疑はしい。なぜといふに、束縛といへば必ずその反對に自由のあることを豫想する。自由に動きたがるものに、制限を定めることが即ち束縛であるが、束縛せずともそれ以外のことを爲さぬものに對しては束縛といふ文字は當て嵌まらぬ。「くだくらげ」でも蜂・蟻でも長い年月の團體的競爭を經て、自然淘汰の結果今日の有樣までに達したのであるから、各個體の神經系は、たゞ團體のためにのみ力を盡す本能が現れるやうに發達して、生まれながらに團體に有利なことのみを行ふのである。蟻が終日働くのは怠けたい所を努めて働くのではなく、働かずに居られぬ性質を持つて生まれたから働くのである。蜂が敵を刺すのは、自己の屬する團體の危險を知り、大切な命をも捨てて掛るわけではなく、敵が來ればこれを刺さずには居られぬ性質を生まれながら具て居るからである。かやうな次第で、各個體は自身の役目だけを務める天性を持つて生まれ、相集つて團體を造つて居るのであるから、その務以外のことは特に禁ぜずとも行ふことはない。隨つて禁ぜられても少しも束縛とは感ぜぬ。恰も胃が呼吸を禁ぜられ肺が消化を禁ぜられても束縛とは名づけられぬのと同樣である。
 かやうに論じて見ると、團體生活のために個體の行動を束縛せられるのは、たゞ同一の目的のために力を協せて働く群集、もしくは低度の社會だけである。單獨生活を營む動物は何の束縛をも受けぬ。尤も魚が水より出られぬとか、蛙が海を渡れぬとかいふ如き、天然の束縛はむろんあるが、その他の束縛は少しもない。珊瑚や苔蟲の如き群體をなす動物では個體の身體が皆互に連絡し、全群體が恰も一疋の如くに生活して、各個體はたゞその一部分として働くから、これまた特に束縛と名づくべきことは起らぬ。また蟻や蜂の社會では、各個體の神經系がたゞ團體生活にのみ適するやうに發達し、身體は相離れて居ても生活上には各社會が全く完結して、恰も一個體の如くに働くから、大なる束縛が行はれて居ながら、何らの束縛ともならぬ。たゞ多くの鳥類・獸類の群集の如き場合には、各個體には個體を標準とした生存競爭に勝つべき性質が發達し、これが相集まつて力を協せんと務めて居るのであるから、各個體には自分を中心とした慾があり、他と力を協すには多少この慾を抑へねばならぬ。團體をなして生活するために各個體が行動を束縛せられるのはこのような類に限ることである。

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉

      ○千葉介阿靜房安念を召捕る  謀叛人白状  和田義盛叛逆滅亡

[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]

建暦三年十二月六日に改元あり。建保元年とぞ號しける。然るに、今年二月十五日、千葉介成胤が手に、一人の法師を召捕りて、相模守にぞ參せける。是、叛逆(ほんぎやく)の中使(ちうし)なり。信濃國の住人、靑栗(あをぐり)七郎が弟阿靜房安念といふ者なり。諸方に廻りて、一味同心の輩を相語(かたら)ふ。運命の極(きはま)る所、天理に叶はざる故にやありけん、千葉介が家に入來り、かうかうと語りければ、成胤は當家忠直(ちうちよく)の道を守り、即ち召捕(めしとり)て參(まゐら)せたり。相摸守、軈(やが)て、山城判官行村に仰せて糺問し、金窪(かなくぼの)兵衞尉行親を相副へて聞かしめられたりければ、安念法師一々に白狀して、謀叛(むほん)の同類をさし申す。 一村(いちむらの)小次郎、籠山(こみやまの)次郎、宿屋(しゆくやの)次郎、上田原(うへだはらの)三父子、園田七郎、狩野(かのゝ)小太郎、澁河(しぶかはの)刑部六郎、磯野(いそのゝ)小三郎、栗澤(くりざはの)太郎父子、木曾、瀧口、奥田、臼井等(ら)、殊更、和田義盛が子息四郎義直、五郎義重、一族、是(これ)に與(くみ)す。張本百三十餘人、伴類(ばんるゐ)百人に及ぶといひければ、國々の守護人(しゆごにん)に仰せて、召進ずべしと下知せらる。この事の起(おこり)を尋ぬるに、泉(いづみの)小次郎親平と云ふもの、賴家卿の御子千壽丸とておはしけるを、大將に取立てて、北條家を亡(ほろぼ)さんと相謀り、安念法師に廻文(くわいぶん)を持たせて、潛(ひそか)に諸國の武士を語(かたら)ふに與力(よりき)同心、既に多し。親平は建橋(たてばし)といふ所に隱れ居(を)ると申しければ、工藤十郎を遣して召(めし)て參るべき由、仰せ付もる。工藤は家子郎從二十餘人を倶して建橋に行き向ひ、案内しければ、親平、異なる氣色(けしき)もなく工藤を呼入(よびい)れて首打落(うちおと)し、其間(そのあひだ)に親平が郎從三十餘人、打ちて出でつゝ、工藤が郎従、一人も殘らず打殺して、親平は行方なく落失(おちう)せけり。すはや、鎌倉に大事起りぬとて、上を下へ打返しければ、諸國の御家人等(ら)聞付け、次第に鎌倉に馳參(はせまゐ)る事、幾千萬とも數知らず。

 

[やぶちゃん注:〈泉親衡の乱〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年二月十五日・十六日、三月二日・八日等の条に基づく。当該の「吾妻鏡」の条を順に示す。まず、二月十五日の条。

 

〇原文

十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衞尉行親云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。天、霽る。千葉介成胤、法師一人を生虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使なり。〔信濃國の住人靑栗七郎が弟、 阿靜房安念と云々。〕合力(かふりよく)の奉(うけたまは)りを望まんが爲、彼(か)の司馬が甘繩の家へ向ふ處に、忠直を存ずるに依つて、之を召し進ずと云々。

相州、即ち此の子細を上啓せらる。前(さき)の大膳大夫に如(したが)ひ、評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否(じつぷ)を糺し問ふべきの旨、仰せ出ださる。仍つて、金窪兵衞尉行親を相ひ副へらると云々。

・「千葉介成胤」「和田義盛上總國司職を望む」に既注。

・「相州」北条義時。

・「靑栗七郎」後掲される泉親衡の郎党と思われるが不詳。しばしば御厄介になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『長野県長野市に青木島町青木島も栗田もあるが不明』とある。

・「司馬」千葉成胤。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『唐名で国史の次官を司馬という。千葉介は下総次官』とある。

・「前の大膳大夫」大江広元。

・「如(したが)ひ」諸注釈は「ごとき」と訓じているが、従わず、オリジナルに「従い」の意で読んだ。大方の御批判を俟つ。

・「山城判官行村」二階堂行村。

・「金窪兵衞尉行親」(生没年不詳)は得宗被官で、次の条で連名で和田義盛の甥和田胤長を預かっている安東忠家とともに、義時の側近。

 

 翌二月十六日の条。

〇原文

十六日丁亥。天晴。依安念法師白狀。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。一村小次郎近村。〔信濃國住人。匠作被預之。〕籠山次郎。〔同國住人。高山小三郎重親預之。〕宿屋次郎。〔山上四郎時元預之。〕上田原平三父子三人。〔豊田太郎幹重預之。〕薗田七郎成朝。〔上條三郎時綱預之。〕狩野小太郎。〔結城左衞門尉朝光預之。〕和田四郎左衞門尉義直。〔伊東六郎祐長預之。〕和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣預之。〕澁河刑部六郎兼守。〔安達右衞門尉景盛預之。〕和田平太胤長。〔金窪兵衞尉行親。安東次郎忠家預之。〕礒野小三郎。〔小山左衞門尉朝政預之。〕此外白狀云。信濃國保科次郎。粟澤太郎父子。靑栗四郎。越後國木曾瀧口父子。下総國八田三郎。和田奥田太。同四郎。伊勢國金太郎。上総介八郎。甥臼井十郎。狩野又太郎等云々。凡張本百三十餘人。伴類及二百人云々。可召進其身之旨。被仰國々守護人等。朝政。行村。朝光。行親。忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衞門督殿若君〔尾張中務丞養君。〕爲大將軍。欲奉度相州云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日丁亥。天晴。安念法師の白狀に依つて、謀叛の輩、所々に於いて之を生虜らる。所謂、一村(いちむら)小次郎近村〔信濃國住人。匠作(しやうさく)、之を預からる。〕・籠山(こみやま)次郎〔同國住人。高山小三郎重親、之を預かる。〕・宿屋(やどや)次郎〔山上四郎時元、之を預かる。〕上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重、之を預かる。〕・薗田(そのだ)七郎成朝〔上條(かみじやう)三郎時綱、之を預かる。〕・狩野(かの)小太郎〔結城左衞門尉朝光、之を預かる。〕・和田四郎左衞門尉義直〔伊東六郎祐長、之を預かる。〕・和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣、之を預かる。〕・澁河刑部六郎兼守〔安達右衞門尉景盛、之を預かる。〕・和田平太胤長〔金窪兵衞尉行親・安東次郎忠家、之を預かる。〕・礒野(いその)小三郎〔小山左衞門尉朝政、之を預る。〕、此の外、白狀に云はく、信濃國保科(ほしな)次郎・粟澤(あはさは)太郎父子・靑栗四郎・越後國木曾瀧口父子・下総國八田三郎・和田・奥田太(おくだた)・同四郎・伊勢國金太郎・上総介八郎・甥(をひ)臼井十郎・狩野(かの)又太郎等と云々。

凡そ張本百三十餘人、伴類二百人に及ぶと云々。

其の身を召し進ずべきの旨、國々の守護人等に仰せらる。朝政・行村・朝光・行親・忠家、之を奉行すと云々。

此の事、濫觴を尋ねらるれば、信濃國住人、泉小次郎親平、去々年(きよきよねん)より以後、謀逆を企て、上(かみ)の件(くだん)の輩と相ひ語らひ、故左衞門督殿の若君〔尾張中務丞(おはりなかつかさのじょう)が養君(やしなひぎみ)。〕を以つて大將軍と爲(な)し、相州を度(はか)り奉らんと欲すと云々。

・以上の人名の読みは私が諸資料から推定したもので、確実なものではないものも含まれているので注意されたい。各人の出身地等については、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に詳しいので参照されたい。

・「匠作」北条義時。修理職(しゅりしき)の唐名。義時はこの二年前の建暦元(一二一一)年に修理亮に補任している。

・「故左衞門督殿」源頼家。

・「泉小次郎親平」泉親衡(ちかひら 生没年不詳)。親平とも書く。泉氏は信濃国小県郡小泉庄(現在の長野県上田市)を本拠としたと言われ、源満仲の弟満快(みつよし)の曾孫信濃守為公(ためとも)の後裔と伝えられ、親衡は満快の十代孫に当たる。但し、この乱によって荒唐無稽な伝説が附与されたために実像ははっきりしない。参照したウィキの「泉親衡」によれば、『その際の奮闘ぶりにより後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され、様々な伝説を産み、江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が『泉親衡物語』と題した読本を著しているなどフィクションの世界で活躍した。一方、信濃国の民話に登場する泉小太郎と同一視され、竜の化身としたり犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とあり、『子孫は信濃国飯山を拠点とし、泉氏として栄えた』とある。私はこの人物、非常に怪しいと踏んでいる。この事件そのものが、和田一族を追い落とす結果を惹起させている以上、謀略以外の何ものでもない。この闇に消えた泉親衡なる男は、実は北条義時の息が掛かった間者ではなかったかと、つい、憶測したくなるのである。義時とは北条氏とは、そういう男であり、一族である、と私は思っている。

 なお、続く「吾妻鏡」の記載は、薗田成朝の上条時綱邸からの逃亡、彼が訪れた親しい僧の出家の慫慂、それに対する一国の国司となる望みを達せぬうちは出家などしないと喝破して行方知れずとなる一件(同二月十八日)が語られ、その話を聴いた実朝が成朝の志しに御感あって恩赦を命じたり(二十日)、安達景盛預りの澁河兼守が二十六日に処刑されると告げられて憂愁の中で十首の和歌を詠じて荏柄天神に奉納(二十五日)、その和歌を工藤祐高が御所に持参、それらを賞翫した実朝がやはり御感の余りに赦免する(二十六日)など、読んでいて、実に面白い。また、二十七日の条には大方の謀叛人は流罪で済まされた旨の記載がある。

 

 次に翌建暦三(一二一三)年三月の二日の条。

〇原文

二日癸夘。天晴。今度叛逆張本泉小次郎親平。隱居于違橋之由。依有其聞。遣工藤十郎被召處。親平無左右企合戰。殺戮工藤幷郎從數輩。則逐電之間。爲遮彼前途。鎌倉中騷動。然而遂以不知其行方云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日癸夘。天、晴る。今度の叛逆の張本(ちやうぼん)泉小次郎親平、違橋(すぢかへばし)に隱居の由、其の聞え有るに依つて、工藤十郎を遣はし召さるるの處、親平、左右(さう)無く合戰を企て、工藤幷びに郎從數輩を殺戮し、則ち、逐電するの間、彼の前途を遮(さいぎ)らんが爲に、鎌倉中、騷動す。然れども、遂に以つて其の行方を知らずと云々。

・「工藤十郎」不詳。ここ「北條九代記」では『工藤が郎従、一人も殘らず打殺して』とあるが、「吾妻鏡」では『工藤幷びに郎從數輩を殺戮し』とあって工藤十郎本人も亡くなっている。この人物、「吾妻鏡」では他に建仁元(一二〇一)九月十八日の条で、頼家が犬を飼うことになり、その餌やりの六人の当番として名が載るのみである(この六人の中には能成や比企時員などの頼家の近習も選ばれている)。この謀叛を企んだトンデモ首謀者の追捕に、何故、よりによってこんな無名者の、この彼が選ばれ、そして、何故、御所の目と鼻の先での合戦なのに援軍もなく、あっけなく死なねばならなかったのか? 何だか、やっぱりおかしいぞ!

 

 「北條九代記」のこのパートの終りの部分は、三月八日の条の頭の『己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。』(八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞の間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万を知らず)に基づく(この条は次のパートで全条を示す)。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 9

金沢称名寺の衰亡の慨嘆が続く。



 堂前の池にははちすのふる葉みだれ、冬のひやゝかに伽藍の跡どもは野菜のうねと成、一の室といへるは萱が軒端かたぶきて、めぐりの房々もひえわたりて、人のおとなひもせず。おもへばかへつて寂寞無人聲の扉をとぢ、坐禪觀法の床をしめたるに似たり。かく佛法零落の時節、いかなる人の世に出給ひ、たえたるをつぎ、すたれたるをおこし給んか。慈尊三會の曉を賴むばかり也。世に生れて人の時めきさかえ、何事をなすも心にまかせ、ならずといふ事なく、いきほひになびきぬる事、いく世の因緣をつみてか、果報のかゝる事には至るべきぞや。たゞ人と生るゝのみさへかたき事なり。たとへあまつそらより針をおろして、わたつうみのそこなる一粟をさしてとらんとし、うき木をもとむる龜のごとし。
[やぶちゃん注:「慈尊三會」「じそんさんゑ」と読む。龍華三会(りゅうげさんえ:連声(れんじょう)で「りゅうげさんね」とも読む。)釈迦の入滅後五十六億七千万年の後に弥勒菩薩がこの世に出でて、龍華樹の下で悟りを開き、人々を救済するために行う三回に亙る法座(説法)のこと。弥勒三会。]

耳嚢 巻之六 在郷は古風を守るに可笑き事ある事

 在郷は古風を守るに可笑き事ある事

 

 京都江戸抔の繁華の地と違ひ、總て在邊は古風にて、尊卑の品、家筋の事など、殊の外吟味して、誰々の家にて普請に石すへならざる格式、或は門長屋玄關は不致(いたさざる)筋、婚姻葬祭にも上下(かみしも)は着ざる家筋、彼は當時衰へぬれど上下着し上座可致(いたす)ものなり抔、悉く吟味いたし候事なり。夫(それ)に付可笑(つきおかし)きは、川尻甚五郎御代官勤(つとめ)し時、和州何郡の支配たりしか、何村とかいへる村方にて、年々神事の由、百姓集りて古への武者の眞似をなす事の由。或年家筋ならぬ百姓、渡邊綱(わたなべのつな)になりしを、何分(なにぶん)村方にて合點せず、四天王は重き事にて、彼(かの)者の家筋にて綱公時(つなきんとき)になるべき謂(いは)れなし、定めて金銀等の取扱(とりあつかひ)ゆゑ成(なる)べし、以(もつて)の外の事なりとて、若きものは不及申(まうすにおよばず)、宿老なるものも合點せず、終に其(その)結構やみにしと、笑ひ語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:古来の伝承風習譚で連関。この神事はどこのどのような祭であろう? 諸本は注しない。識者の御教授を乞うものである。

・「川尻甚五郎」川尻春之(はるの)。先の古佛畫の事の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。

・「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光四天王の筆頭として剛勇で知られ、大江山の酒呑童子退治、京都の一条戻り橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で知られる。

・「公時」金太郎こと、坂田金時(長徳元・正暦六(九九五)年?~?)。公時とも書く。やはり頼光四天王の一人。

・「金銀等の取扱」岩波版長谷川氏注に、『金を出してその役を買ったという』とある。

・「宿老」「おとな」とも読み、前近代社会において集団の指導者をさす語。公家・武家・僧侶・商人・村人・町民の各組織には宿老がおり、特に中世の都市や村落において共同体組織の中心的人物をさす用語として著名である、と平凡社「世界大百科事典」にある。

・「結構」計画。企画。目論み。ここでは単にその百姓のキャスティングのみではなく、この神事に於ける複数の武者を演ずる演目(訳では行列とした)自体が取り止めになった、と解釈した。その方が読者の驚きが大きいと判断したからである。大方の御批判を俟つものである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 郷村にては古風を守ることに可笑しき事実のある事

 

 京都や江戸などの繁華の地と異なり、おしなべて田舎の風習は古風なもので、尊卑の品格、家筋のことなどにつき、殊更にうんぬん致いて――誰某(だれそれ)の家の格式では普請をするに際しては基礎に石を据えてはならぬ決まりであるとか――或いは、長屋門や玄関を設けてはならぬ家筋じゃとか――はたまた、婚姻葬祭に際しても裃(かみしも)を着てはならぬ家筋だの――彼の者、今は凋落致いておれど、裃を着し、上座に座らせねばならぬ格式の者であるとか――まあ、悉く、やかましく申すものにて御座る。

 それにつき、可笑しいことが御座る。

 川尻甚五郎春之(はるの)殿が、大和五条の御代官を勤められた折りのこと、大和国――何郡支配の何村と申したかは失念致いたが――その村方に於いては、毎年、神事が行われており、百姓どもが集って、古えの武者の真似事をなして行列を致す由なれど、ある年のこと、ある百姓、かの頼光四天王の一人、武名も猛き、かの渡邊綱の役を演ずることとなったと申す。ところが、

「――この者は渡邊綱となれる家筋にては、これ、御座ない!」

との疑義が挙がり、何としても、村内の百姓ども一同、合点せず、

「――四天王は重き役にて、かの者の家筋にては渡邊綱や坂田公時(さかたのきんとき)になれる謂われは、これ、御座ない!」

「――これ、定めて金を積んで、渡邊綱を買(こ)うたに違いない! 以ての外のことじゃ!」

とて、若き者は申すに及ばず、宿老格の者どもも、いっかな、合点せず……

……遂に……

……その年の、その武者行列は、これ、沙汰やみと相い成ったとの由。

 甚五郎殿御本人が、これ、笑いながら、私に語って御座った話である。

文學者の悲哀 萩原朔太郎

       文學者の悲哀

 

 文學者は、人生の批判者であつて行動者ではない。彼等は、人生の競技場に於て、自ら競技してゐるところの選手ではなく、彼等の觀覧席に於て、それを描寫したり、批評したりしてるところの觀察者である。しかも彼等もまた、自ら生活して生きるために、競技する行動者と同じやうに、金儲けを考へたり、世渡りの苦勞をしたり、女のことで惱まされたり、妻子を抱へて世帶を作つたりして、煩瑣な俗事に追はれながら、日々の處世をせねばならない。觀察者であつて、同時に行動人の義務を負ふといふこと。それが文學者にとつての、何より悲しい宿命である。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十一番目、先に示した「文學者と讀者」の直後に配されたものである。]

一言芳談 一二五

   一二五

 

 又云、凡(およそ)、淨土宗の元意(ぐわんい)、助け給へ、阿彌陀佛と思ふにすぎず。

 

○淨土宗の元意、願文(がんもん)の安心は三心なり。觀經の三心は彌陀經の一心なり。その一心は助け給への一念なり。

 

[やぶちゃん注:「一二六」に続く念阿良忠の言葉。極めて明快にして核心の教学である。

「願文」は弥陀の誓願の第十八誓願のことであろう。念仏往生の願・選択本願・本願三心の願・至心信楽の願・往相信心の願などとも言う。

設我得佛。十方衆生。至心信樂。欲生我國。乃至十念。若不生者。不取正覺。唯除五逆誹謗正法。

設(たと)ひ我、佛を得たらんに、十方の衆生、至心に信樂して、我が國に生まれんと欲(おも)ひて、乃至(ないし)十念せん。若し生まれずは、正覺を取らじ。唯だ、五逆と正法を誹謗せんを除く。

「安心は三心」前の「一二四」の私の注を参照のこと。

「觀經」狭義に「観無量寿経」を指す場合もあるが、以下に「彌陀經の一心」とあるから(「阿弥陀経」は「観無量寿経」とは別物である)ここは単に経を読む、看経(かんきん)の謂いであろう。

「彌陀經」「仏説阿弥陀経」のことであろう。釈尊自らが説いた経。

「一心」「一心不乱」のことであろう。「仏説阿弥陀経」に、

若有善男子善女人聞説阿彌陀佛執持名號。若一日若二日若三日若四日若五日若六日若七日。一心不亂。其人臨命終時。阿彌陀佛與諸聖衆現在其前。是人終時心不顚倒。即得往生阿彌陀佛極樂國土。

若し善男子善女人有りて、阿彌陀佛を説くを聞きて、名號を執持(しつじ)すること、若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心不亂ならば、其の人、命終の時に臨み、阿彌陀佛、諸聖衆と與(とも)に現じ、其の前に在らん、是れ、人、終はる時、心、顚倒せずして、即ち、阿彌陀の極樂國土に往生するを得ん。

とある。]

鬼城句集 春之部 鳥交る

鳥交る  高き木を雀交で落ちにけり

 [やぶちゃん注:季題は「とりさかる」と読み、「鳥つるむ」(本句の「つるんで」)「雀交(さか)る」「鳥つがふ」「鶴の舞」「鳥の恋」「恋雀」などを含む。春から初夏にかけて繁殖期を迎えた鳥の様々な求愛行動を指す。]

 

河原の沙のなかから 大手拓次

 河原の沙のなかから

河原の沙のなかから
夕映の花のなかへ むつくりとした圓いものがうかびあがる。
それは貝でもない、また魚でもない、
胴からはなれて生きるわたしの首の幻だ。
わたしの首はたいへん年をとつて
ぶらぶらとらちもない獨りあるきがしたいのだらう。
やさしくそれを看(み)とりしてやるものもない。
わたしの首は たうとう風に追はれて、月見草のくさむらへまぎれこんだ。

これを以って「陶器の鴉」の章を終わる。

2013/03/26

北條九代記 賀茂長明詠歌

      ○賀茂長明詠歌

加茂の社氏(やしろうぢの)菊大夫長明(ながあきら)入道蓮胤(れんいん)は、雅經(まさつねの)朝臣の舉(きよ)し申すに付けて、關東に下向し、將軍家に對面を遂げ奉り、鎌倉に居住し、折々は御前に召されて歌の道を問ひ給ふ御徒然(おんつれづれ)の友なりと、思(おぼし)召されければ、新恩に浴して、心を延べ、打慰む事多しとかや。正月十三日は故右大將家の御忌月(きげつ)なれば、法華堂に參詣す。往當(そのかみ)の御事共思ひ續くるに、武威の輝く事、一天に普(あまね)く、軍德の勢(いきほひ)、四海を治(をさめ)て、累祖源家の洪運(こううん)、此所(ここ)に開け、靡(なび)かぬ草木もあらざりしに、無常の殺鬼(さつき)を防ぐべき謀(はかりごと)なく、五十三歳の光陰忽(たちまち)に終盡(をはりつき)て、靑草(せいさう)一箇(こ)の土饅頭(どまんぢう)、黑字數尺(くろじすせき)の卒都婆(そとば)のみ、その名の記(しるし)に殘り給ふ御事よと、懐舊の涙、頻(しきり)に催し、一首の和歌を御堂の柱に書付けたり。

  草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条に基づく。

○原文

十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。

  草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風

○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)

十三日辛夘。鴨社の氏人(うぢびと)、菊大夫長明(ながあきら)入道〔法名、蓮胤。〕、雅經朝臣の擧(きよ)に依つて、此の間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々(どど)に及ぶと云々。

而るに今日、幕下將軍御忌日(ごきにち)に當り、彼(か)の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙、頻りに相ひ催し、一首の和歌を堂の柱に註(しる)す。

  草も木も靡(なび)きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

 

「雅經」飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)は公家で歌人。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている刑部卿難波頼経(なんばよりつね)の次男で飛鳥井家の祖。雅経も連座して鎌倉に護送されたが、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価されて頼朝の猶子となった。建久八(一一九七)年に罪を許されて帰京する際には頼朝から様々な贈物を与えられている。その後、頼家・実朝とも深く親交を結び、政所別当大江広元の娘を妻とし、後鳥羽上皇からも近臣として重んじられた。幕府の招きによって鎌倉へ度々下向、実朝と藤原定家やここに示されるように鴨長明との仲を取り持ってもいる。「新古今和歌集」(元久二(一二〇五)年奏進)の撰者の一人として二十二首採歌、以下の勅撰和歌集に計一三二首が入集している(以上はウィキの「飛鳥井雅経」に拠った)。

 

 さて、ここでは少し趣向を変えてみたい。

 私は、「吾妻鏡」に、実朝(当時満十九歳)と鴨長明(当時五十六歳)のビッグな対面がこれしか載らないのが、如何にも不審であった。長明がわざわざ逢っておいて、実朝が気に入らなかったとは思われない。私は実朝の方が、彼に対して関心を示さなかったか、何らかの不快感を抱いたのではなかったとずっと思っている。本文では長明が頼朝の法華堂の柱に残した歌を『將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし』と述べているが、この歌、無常を知る僧の歌としてどうということはないものの、頼朝の御代の栄華を偲びながら、実朝に忍び寄る不吉な死の気配を潜ませて余りあるように感ぜられる。少なくとも、「吾妻鏡」は、この条の直前の九月の条に(事実であるから、ここにあって何らおかしくはないものの)、

○原文

十五日甲子。晴。金吾將軍若宮〔善哉公。〕於定曉僧都室落飾給。法名公曉。

廿二日辛未。霽。禪師公〔公曉。〕爲登壇受戒。相伴定曉僧都。令上洛給。自將軍家被差遣扈從侍五人。是依爲御猶子也。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日甲子。晴る。金吾將軍若宮〔善哉公。〕、定曉僧都の室に於いて落飾し給ふ。法名は公曉。

廿二日辛未。霽る。禪師公〔公曉。〕、登壇受戒の爲、定曉僧都に相ひ伴はれて、上洛せめ給ふ。將軍家より扈從の侍五人を差し遣はさる。是れ、御猶子(ごいうし)たるに依りてなり。

とあるのは、「滅び」の序曲の通奏低音の響きがいやが上にも聴こえてくる構成である。もっと他の事実がこの間に挟まってしかるべきところを「吾妻鏡」のこの部分の筆者は、そうしたカタストロフへの勾配をしっかりと見せつけて書いているとしか思われないのである。

 さればこそ、この長明の歌の「ありきたり」なはずの無常感は、実朝の悲劇のために、「吾妻鏡」の「ここ」にこそ、配されているのだと読むべきである。そうして、そうした自己の「滅び」をどこかで感じ始めていたはずの実朝が、この歌を、お目出度くも手放しで讃嘆したなどとは、これ、とても思えないのである(後の実朝自身がそうした無常感から詠んだのとはわけが違う)。実朝は、この和歌に、実は不快感を持ったのではあるまいか? もしかすると、神職としての出世の道を閉ざされ、和歌辺りから実朝に取り入って何らかの形で一旗揚げようと考えていたかも知れない長明が、数度の謁見の中で実朝が自分を今一つ気に入っていないことを敏感に感じとり、この和歌を以って尻(けつ)を捲くって鎌倉を後にしたのではないか、と穿ってとらえることも出来るように思われる(全く逆で実朝が飛鳥井雅経を通して歌学の師として長明を無理に招き、熱心に鎌倉に引き留めようとしたが、長明の方に全くやる気がなく、去ったのだというシチュエーションを創作している方もいるようだが、どう考えても、だったら、老体の彼が鎌倉に来るとは思われない。「方丈記」の成立が建暦二(一二一二)年であることから、そうした仮説を立てるのかも知れないが、寧ろ、欲に満ちた俗世の社会での積極的登用工作に失敗した、失意こそが「方丈記」誕生の一つの契機であったと私は考えるものである)。

 私のこうした思いは、高校二年生の時分に読んだ太宰治の「右大臣実朝」に遡るのである。無論、これも太宰の創作に過ぎない。しかし、古典であの「方丈記」の辛気臭い冒頭文を暗記せよと言われてある種の嫌悪をさえ感じていた私には、何かひどくリアルな長明像であったのである。以下、当該部を私の電子テクストから引用しておきたい。

 

 また、そのとしの秋、當時の蹴鞠の大家でもあり、京の和歌所の寄人でもあつた參議、明日香井雅經さまが、同じお歌仲間の、あの、鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを將軍家のお歌のお相手として御推擧申し上げたのでございましたが、この雅經さまの思ひつきは、あまり成功でなかつたやうに私たちには見受けられました。入道さまは法名を蓮胤と申して居られましたが、その蓮胤さまが、けふ御所においでになるといふので私たちも緊張し、また將軍家に於いても、その日は朝からお待ちかねの御樣子でございました。なにしろ、鴨の長明さまと言へば、京に於いても屈指の高名の歌人で、かしこくも仙洞御所の御寵愛ただならぬものがあつたとか、御身分は中宮敍爵の從五位下といふむしろ低位のお方なのに、四十七歳の時には攝政左大臣良經さま、内大臣通雅さま、從三位定家卿などと共に和歌所の寄人に選ばれるといふ破格の榮光にも浴し、その後、思ふところあつて出家し、大原に隱棲なされて、さらに庵を日野外山に移し、その鎌倉下向の建暦元年には既におとしも六十歳ちかく、全くの世を捨人の御境涯であつたとは申しながら、隱す名はあらはれるの譬で、そのお歌は新古今和歌集にもいくつか載つてゐる事でございますし、やはり當代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも廣く聞えて居りました。その日、入道さまは、參議雅經さまの御案内で、御所へまゐり將軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、將軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舍ぢいさんで、お顏色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お齒も拔け落ちてしまつてゐる御樣子で、さうして御態度はどこやら輕々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた將軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、

 チト、都ノ話デモ

 と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも對するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお聲で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども將軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、

 世ヲ捨テタ人ノオ氣持ハ

 と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顏をお擧げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の氣持も全く同樣、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども將軍家は、一向に平氣でございました。

 一切ノ放下

 と微笑んで御首肯なされ、

 デキマシタカ

 ややお口早におつしやいました。

「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に應ぜられました。「物欲を去る事は、むしろ容易に出來もしまするが、名譽を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名聲ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名譽心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懷をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名譽の慾を未だ全く捨て去る事が出來ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騷ぎ、すみかを山中に營むといへども人を戀はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから惱ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念佛ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顏には、いささかも動搖の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。

 遁世ノ動機ハ

 と輕くお尋ねになる將軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。

「おのが血族との爭ひでござります。」

 とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顏に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或ひは、それは、私の氣のせゐだつたかも知れませぬ。

 ドノヤウナ和歌ガヨイカ

 將軍家は相變らず物靜かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。

「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く氣取つた意味など持たせるものでないやうな氣も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を獨り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ參議雅經どのより御垂教を得て、當將軍家のお歌數十首を拜讀いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな氣が致しまして、雅經どのからのお誘ひもあり、老齡を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀拔の歌人の御身邊に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御樣子が心許なく、かくては眞珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ氣持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。

 ヲサナイ歌モ多カラウ

「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無賴の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」

 ウソトハ、ドノヤウナ事デス。

「眞似事でございます。たとへば、戀のお歌など。將軍家には、恐れながら未だ、眞の戀のこころがおわかりなさらぬ。都の眞似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする戀、雲によする戀、または、衣によする戀、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その酒落の手振りをただ形だけ眞似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舍の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才將軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身邊に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、將軍家は笑ひながらお立ちになり、

 モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。

 とおつしやつて、お奧へお引き上げになられました。私もそのお後につき從つてお奧へまゐりましたが、お奧の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども將軍家はおだやかに、

 ナカナカ、世捨人デハナイ。

 とおつしやつただけで、何事もお氣にとめて居られない御樣子でございました。

 その翌日、參議雅經さまが少し恐縮の態で御所へおいでになられましたが、その時も、將軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歡談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御所へ參るやうにとのお言傳さへございました御樣子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出來になつたか、その後兩三度、御所へお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、將軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。

 信仰ノ無イ人ラシイ

 そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ將軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大將家の御忌日に法華堂へお參りして、讀經なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、草モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ拂フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを發足して歸洛なさつた御樣子でございますが、わざわざ故右大將さまの御堂にお參りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、當將軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、當將軍家のお心があまりにお若く無邪氣すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月經つか經たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油斷のならぬ世捨人で、あのやうに淺間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、當將軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが發して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の將軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな氣がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齡を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお氣持で、將軍家にお目にかかりにやつて來られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滯在もなさらず、故右大將さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に歸洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ經緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。

 鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも將軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或ひは之は私の愚かな氣の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お變りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その惡業深い體臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。將軍家は、戀のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども將軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顏をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお齒をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、

 コノゴロ和歌ガワカツテ來マシタ

 などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御學問にもいよいよおはげみの御樣子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお讀みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御樣子で、末は故右大將家にまさるとも劣らぬ大將軍と、御所の人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拜されました。

 

僕は長明が何故か、嫌いである。かの忌わしい兼好法師より、何故か、さらに嫌いである。――]

中島敦漢詩全集 四

  四

攻文二十年
自嗤疎世事
夜偶倦繙書
起仰天狼熾

〇やぶちゃんの訓読

攻文(こうぶん) 二十年
自(おのづ)から嗤(わら)ふ 世事 に疎(うと)きを
夜(よ) 偶(ふ)と書を繙(ひもと)くに倦(う)み
起(た)ちて仰ぐ 天狼の熾(し)たるを

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「攻」ここでは、積極的に学習したり、研究したりすること。
・「文」文学。
・「嗤」嘲笑する、あざ笑う。
・「疎」通りがよい、まばら、疎遠、おろそかにする、内容が充実していないなどの意を有する。
・「世事」世俗社会における様々なこと。俗事。
・「倦」疲労すること、若しくは、興味を失うこと。
・「繙」「翻」と同音同義。
・「起」寝ている状態から座った状態になること、あるいは、座った状態から立ち上がること。
・「天狼」天狼星。シリウス。
・「熾」火が盛んに燃えること、盛んであること、激しいこと。

○T.S.君による現代日本語訳
書物と向き合う時を、もう二十年も積み重ねてきただろうか
お蔭で世事に疎いことたるや、全く以って自嘲を禁じえない
夜、例の如く、読書に倦み
ふと立ち上がって、徐(おもむ)ろに天を振り仰げば
そこに――
ああ……
天狼の凄絶な燦(きら)めき!
永劫の彼方の蒼ざめた孤高な輝きは
透徹した冬の天空を刺し貫き
地上の私を凝っと見つめている……

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 「事shi4」「熾chi4」が規則通り脚韻を踏む。難解な語彙は特にない。五言絶句として当然ではあるが、起承転結、いずれの句も相当の重さを持つ。各句の意は明快であり、伸びやかに読者の意識に入ってくる。
 ただしこの詩の心臓は、何といっても「天狼熾」の三文字であろう。起句は過去の振り返り、承句は自省、転句は現在の具体的行動を述べ、奇を衒うことなく論理を繋ぐ。そして結句において、最終的に一つの星の輝きに辿りつき、視線をそこに固定させて叙述を終える。
……いや――それは正しくない。
――まさにそこから詩が始まるのだ。
――その証拠に、読み終えた読者の胸に天狼星の輝きが残らないか?
――深い闇の中で――人生を照らす蒼白い光が。
――過去と、今この瞬間と、未来が、つまり、謂わば、運命というものがこの天狼星によって遥かに照射されるのである。
 さらに言おう。この詩の心臓の鼓動を司るもの、それは最後の一字――「熾」――である。
 「熾烈」の「熾」。
 強烈な光を発するだけではない。それは同時に激しく燃えているもの。ジリジリと燃えさかっているもの。理科の実験でマグネシウムの燃焼を見たことはないだろうか。それに近い強烈な蒼白い光。「輝」でも「燦」でも「煌」でもなく、ここに「熾」が置かれたのは、押韻や平仄上の要請からだけではないのだ。
 それにしても天狼星とはこの詩人にとって何なのだろう。世事に疎く、文学に自らの魂を投じることしか知らぬ彼にとって、一体何を象徴するのか。
 ――救いか――希望か――孤高の精神か――それとも、自らの誇りか……。
 この星は、詩人の心の中に、常に凄然たる光芒を曳いているようだ。
 そうした詩人と星――星に運命を重ね合わせる文学――として私は、佐藤春夫の「星」を忘れることが出来ない。全五十五章(佐藤は中国風に「折」と呼称している)の最初の四折分と後半にある三折の、読者の視線を強い力で星空に導く部分を、以下に引用したい[やぶちゃん注:「星」は作品末尾のクレジットによれば大正一〇(一九二一)年三月作。底本は岩波書店一九二八年刊(一九四〇年改版)の岩波文庫版「厭世家の誕生日 他六編」所収のものを用いた。「第一折」から「第三折」までは省略はなく、それぞれを「*」で区切った、その後の掉尾を含む後半の三つの「折」も折内での省略はせず、全文を示した。この引用はT.S.君が本詩を評釈するに際して、詩的な内的欲求として必要としたものであり、文化庁が示すところの、論文等に於いて必要な、一般的な許容される引用の範囲内に含まれると私は判断する。万一、疑義がある場合は、一切の公開上での責任を持つところの、私藪野直史に対してお願いする。なお、「第五十五折」にある「晋江」という地名であるが、底本では「普江」となっている。現在の当地の表記からも、また、岩波書店一九九二年刊の岩波文庫池内紀編「美しき町・西班牙犬の家 他六篇」の表記からも、「晋江」の誤植と判断し、訂した。]。
     《引用開始》
       第 一 折
 泉州城に近い英内の豪家陳氏には三人の兄弟息子があつた。陳氏は代代、富と譽とのある家がらで、一番年上の兄は早く立身をして、近ごろ兩廣巡察使になつた。まだ年若な二番目と三番目とは志を立てて故郷で勉強して居る。この三番息子の少年を陳氏の第三男といふわけで陳三(ちんさん)と呼んで居る。
       第 二 折
 陳三(ちんさん)は誰からであつたかは知らないが、星を見ることを習ひ覺えた。さうして秋の或る晩はつきりした星月夜に、無數の星のなかから一つの星を見出した。それは疑ふべくもなく陳三自身の運命の星であつた。何故かといふに、幾夜試みて見ても、その星は陳三の目を瞬く度ごとに瞬き光るのであつた。さうしてこの一つの星より外に、そのやうな星は一つもなかつた。陳三はそこでその星にむかつて跪いた。
       第 三 折
 「どうぞ私の星よ。私に世の中で一ばん美しい娘を私の妻として授けて下さい。又、その妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい」
 陳三の星に祈つた願事(ねぎごと)はこのとほりであつた。
       第 四 折
 來年貢生の試驗に應ずるための讀書と詩作とに疲れて秋の夜の庭に出た兄は、陳三のこの言葉を聞くともなく偸み聞いた。兄は陳三の祈願を陳三に向つて哂つた。
 「お前は馬鹿なことを祈つた。お前はまるで凡人の幸福を願つて居る。若し私がお前なら私は妻や子供のことなどは決して願はなかつたらう。その代り自分自身のことを願つたらうに。自分の子供などではない。自分自身が世の中で一番えらい人になるやうにつて!」
 「さうです兄さん」素直な陳三はそこで答へた。「私とても最初はさう願はうと思はないではなかつたのです。しかし私は考へ直した。自分がえらい人になるだけの事なら、どうやら自分だけの努力で出來さうな氣もする。それにひきかへて、世の中で一番美しい娘にめぐり遭つたり、その娘の心をひくことが出來たり、その上その娘を妻にすることができて、その妻によつて子供を持ち、しかもそれが世の中で一ばんえらい人になる――こんな幸福こそは、自分の身の上のことでしかも自分の努力ではどうにもならない。これこそ星の力にでもよらなければならない事だ。と私はさう考へたのでした‥‥」
 「なるほど、しかし」と兄は遮つた。「私はまたかうも思ふ。運命といふものはお前が考るよりももつと大きな力であるかも知れない。假りにお前がもし、惡運の星の下に生れて來て居るとしたら、お前の熱心な祈願も、それをどれだけ善くかへることが出來るだらうか。一たい私は星を信じない方だが、それともお前よりももつと信ずると言つた方がいいかも知れない。何にしろ星に祈るのも無駄なことではなささうだ。私の星はそれなら、どの星であらう」
 兄弟はこんなことを語り合つて、もう一度、目を上げて空一めんの星くづに見入つた。
 謎の空は無限に深かつた。
         *
       第三十八折
 「どうぞ、私の星よ。私に世の中で一番美しい娘を私の妻として授けて下さい。又その妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい。――あなたはもう私の祈願の半分を聞きとどけて下さつたよやうに見える。尚も、私を惠んで私の祈願を完うさせて下さい。私にどうぞ、人間らしい幸福を授けて下さい」
 陳三は、長兄との傳奇的なこの邂逅のあつた夜、彼の星にむかつて彼がその守護を得てゐることを深く感謝した。さうして彼はいつもより熱心に永いあひだ跪いた。さて、戀を思ひながら星に埋つた蒼穹を仰いだ陳三は、人間のあまりに微小なことを感じ、しかもその微小な人間の微小な胸の底にも亦一個無限の星辰を鏤めた蒼穹が宿されてゐるのを感じた。それ故に人間と生れたことは實にはかなく切なく、而もさればこそ生甲斐がある――陳三はこのやうな感に打たれながら、彼の目を星そのもののやうに輝かせた。
 陳三の星を教へられ、さてその左右に並んでゐるところの星が各自分のものであることを信じた五娘と益春ともまた、窓をとほしてその星を拜みながら、ひそかに祈念した。
 「どうぞ、私の星よ。私が私の夫によつて生涯深く愛せられるやうに私をお守り下さい」
 彼の女たちの願事(ねぎごと)は期せずして一致した。世の中のすべての花嫁たちがさうでなければならない如く。
         *
       第四十二所
 或る夜明けに、陳三は益春の房から出て五娘の房を訪れた。前の宵の五娘との約束を果さなければならないからである。陳三は五娘の牀の帳を押し明けた。訝しい事には五娘はそこに居ない。ただ枕もとに、その上へ金簪を置いた一通の手紙があつた。殘燈のほのかな白さのもとに、陳三はふるへる手でそれを開いた。驚いて、彼は扉を排して出た。まだ暗いことに氣がついて燭を秉つて再び出た――庭の井戸へ。五娘がそこへ身を投げると書き遺したところへ。石だたみの上には赤い小さな屣(くつ)が片一方ある! 五娘のものだ! 陳三は燭を高く斜にかざしてその下から井戸をのぞき込んだ。黑く屣の形が一つ、灯を金色に映じた水の圓いなかにしよんぼりと浮んでゐる。水は重たく靜まつてゐた。陳三は燭を石の上に置いた。それから石の上のを屣を拾つた。赤いうへに蔓草とそれの花とが黑く縫ひ飾つてある。――これこそ、あの第一の晩に五娘が帳中で穿いてゐたものである。陳三はもう一ペん井戸のなかを見る。そこには靜かな黑い水の面に星が一つ天から影を落してゐる。つくづく見るとそれが陳三自身の星である。
 「五娘!」
 陳三は叫んだ。星影を映した深い水が彼をおびき入れる。よろめいて彼は墜ちた――突きのめされるやうに。又狼狽して足を踏み外したやうに。
 短い叫び聲が井戸に近い穀倉から鋭く叫んだ。しかしそれは人を呑んだ黑い井戸の吼えるやうな響で消された。
 陳三は苦悶のうちに水面から擡げた頭の眞上に、彼自身の星を最後に見た。――その星だけは、どんな激しい感情が陳三を井戸のなかへ追ひ入れたかを、或は知つてゐるかも知れない‥‥
         *
       第五十五折
 「どうぞ、私の星よ。世の中で一番美しい娘を私の妻に授けて下さい。私の妻の腹に宿つて出來る私の男の子を世の中で一番えらい人にならせて下さい」そういう願事を彼の星に祈つた陳三や、その陳三と死を偕にし墓を一つにした第一夫人――世の人に一番美しいと言はれた五娘や、陳三のえらい男の子を腹に宿した第二夫人――天の目で一番美しいと思われた益春や、そのえらい男の子洪承疇や、その外のすべての彼らが生きてゐて、それぞれに笑ひ、嘆き、溜息をし、泪を流し、憤り、勝ち誇り、淋しきに堪へ、さて、死んで仕舞つてから、もう三百年以上になる。その間に淸の國も亦明と同じやうに亡びた。ただ泉州に近い英内には、陳三の五落の家が晋江の岸に沿うて流水に影を映じながら、崩れさうになつてではあるが、今でもまだ殘つてゐる。――しかし、私はその家は見ない。私は去年旅をしてあの近くへは行つたが、泉州へはとうとう行かないのだから。
   《引用終了》
――星に人生を投影すること、宇宙の運行に運命を見ること。
――私たちはそんな当たり前の健やかな心を、いつ、失ってしまったのだろうか――

耳嚢 巻之六 尾引城の事

 尾引城の事

 

 上州館林の城を、古代は尾引(をびき)の城と云(いひ)し由、土老の語りけるが、其譯を尋(たづね)しに、いにしへいつの頃にやありけん、赤井相公(しやうこう)といへる武士、年始とかや、彼(かの)邊を通りしに、草苅童共、松葉もて狐の穴をいぶし、狐の子二三疋を捕へ引歩行(ひきあるき)しを、赤井見て、狐の子を害せば親狐もなげくらむ、仇(あだ)などなさば村方の爲にもあしかりなんとて、色々諭して代償を出し、右狐の子を買取(かひとり)、とある山へ放し遣(やり)しけるに、或夜赤井が許へ來りて、うつゝに告(つげ)て云(いへ)るは、御身の放し給ひし狐の親なるが、莫大の厚恩報ずべき道なし、御身兼て城地(じやうち)を見立(みたて)、築(きづか)んの企(くはだて)ありと聞(きき)、我案内して其繩張をなし給はゞ、名城にして千歳全からんと申(まうす)にまかせ、日を極めて其指(そのさす)處に至りしに、狐出て田の中谷の間とも不言(いはず)、尾を引(ひき)て案内せる故、其尾に隨ひて繩張せし城なれば、尾引の城と唱へし由かたりぬ。太閤小田原攻(ぜめ)の頃、此城攻(せむる)に品々怪異ありて、落城六ケ敷(むつかし)かりしと、古戰記にも見へぬれば、いやしき土老の物語りながら、かゝる事もあるべきやと、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。妖狐譚で六つ前の「二尾檢校針術名譽の事」と連関。

・「尾引城」現在の群馬県館林市に館林城(尾曳城)の跡が残る。ここに記された通り、この城の築城には伝説が残っており、天文元(一五三二)年、当時の大袋城(おおぶくろじょう:現在の群馬県館林市羽附字富士山にあった。館林城の東約一・五キロメートルの城沼に東北に向かって突き出した半島に築かれていた)主赤井照光が子供達に虐められていた子狐を助けると一人の老人が現われ、新たに城を築く事を強くすすめ、翌日、一匹の老狐が現われて尾を引きながら城の「繩張」り(建築予定の敷地に縄を張って建物の位置を定めること。縄打ち)をして城の守護神になることを約束して姿を消したという。照光は吉兆と思い、新城を築いて、所縁に拠って尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て、鬼門の方角に尾曳稲荷神社を遷座させて鬼門鎮守社としたという。但し、歴史資料では文明三(一四七一)年に上杉軍が「立林城」(館林城)を攻略した、という記述があるので、それ以前から築城されていたと思われる。城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で、当時では珍しい総構え、広い城域に城下町を取り込んで、外側を高い土塁と堀で囲んでいたと推定されている。永禄五(一五六二)年に上杉謙信により落城、赤井氏は武蔵忍城に退き、謙信が死去すると、上野国の上杉家の影響力が弱体化したことで武田家・小田原北条家が支配した。江戸時代になると徳川家重臣榊原康政が城主となり、以後も東国の押さえの城として幕府から重要視され、徳川綱吉を筆頭に親藩や有力譜代大名が城主を歴任している。明治維新後は廃城となり、多くの建造物が破棄されたが、市街地にあって破却された平城の中では、土塁などの遺構が比較的残っており、近年、土橋門や土塀・井戸などが復元されて館林市指定史跡に指定されている(以上は「群馬県WEB観光案内所」の「館林城」の記載に拠った)。また、この城内にあった「尾曳稲荷神社」は現存する。現在でも社殿は旧本丸のあった西側方向に向いている(同「尾曳稲荷神社」に拠る)。底本の鈴木氏の注には、上記の他に、『赤井但馬入道法蓮が築城、功成って』弘治二(一五五六)年一月に『引移った(関八州古戦録)』とあり、また、その「繩張」りをした狐は白狐で『当国無双の稲荷新左衛門と名乗っ』たともある。……それにしても……結局、落城までは百年程、四〇〇年後には露と消えている……千年はちと、無理で御座ったな、白狐殿……

・「相公」宰相の敬称、また、参議の唐名であるが、これは赤井照光の名「照光」が、誤って伝えられたものであろう。

・「太閤小田原攻」小田原征伐。天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後の秀吉は北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが、彼らは関東制覇の実績を奢って秀吉の力を評価せず、上洛に応じなかったため、秀吉は前年の天正一八年に後北条氏の上野の名胡桃(なくるみ)奪取を契機として諸大名を動員、後北条氏討伐を下令した(本文の館林城(尾曳城)攻めはこの時のこと)。後北条氏は上杉謙信・武田信玄に対して成功した本拠相模小田原城での籠城策を採用したが、後北条側から離反の動きが生じ、「小田原評定」という故事成句の元となった北条一族と重臣との豊臣軍との徹底抗戦か降伏かの議論が長く紛糾、同年七月、当主氏直が徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出て開城となった。但し、氏直は家康の娘婿であったために助命となり、紀伊国高野山に追放されて生き延びた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「小田原征伐」の記載を参照してカップリングした)。

・「古戰記」不詳。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上州館林の城を、古えには『尾引の城』と申した由、土地の古老が語って御座ったによって、その謂われを訊ねてみたところ、

「……昔、何時の頃やら分からねど、赤井相公(そうこう)と申す武士が御座っての、……年始の頃とかに、あの辺りを歩いておったと。……

……と、草刈りに出でておった童(わらべ)どもが、これ、松葉を焚きて、狐の穴を燻(いぶ)し、狐の子(こお)を、これ、二、三疋も捕えて、引きずり回して御座ったを見かけての、……

『……狐の子(こお)を害さば……これ、親狐も嘆くであろ。……また、それを恨みて、仇(あだ)なんどをなしたり致さば……これ、村方のためにも、悪しきことじゃ……』

と、童らをいろいろに諭し、代価まで出だいて、その狐の子(こお)らを買い取ると、その近くの山に放してやったと。……

……さても、その後の、ある夜のことじゃ。……何者かが……赤井が枕許に参っての。……夢現(ゆめうつつ)のうちに告ぐることには、

「……我らは……御身が放ちて下された狐の親なるが……計り知れぬ厚き恩……これ……報いきることも出来ざる程なれど……御身……かねてより……良き地を見立て……城を築かんとする志しのあらるるを……これ……聞き及んで御座る……されば……我ら……案内(あない)致しますによって……その通りに城縄張りをなさったならば……これ……その城……千年の不落……間違い御座りませぬ……」

と申したによって、赤井、夢現のうちに、その狐妖の言うがまま、縄張りの日(ひい)を決め、場所をも示された、と申す。……

……さても、その約定(やくじょう)の日、その狐妖の指し示した所へ出向いたところ……

――確かに

――一疋の狐が出で来て

――田圃の中

――谷の間

――何処(いずく)とも委細構わず

――その長(ながー)き尾を引きて

――案内致いた、と申す。……

……さても、その狐の尾の、地曳き致いたままに、縄張り致いて築いたる城なればこそ、『尾引の城』と、唱えて御座る、じゃて。……」

とのことで御座った。

 太閤秀吉小田原攻めの頃、この城攻めをも行われて御座ったが、その折りには、これ、数多(あまた)の怪異が御座って落城が難しゅう御座った由、古戦記にも見えて御座れば、卑賤の古老の物語ながら、そうした『何かの因縁』も、これ、あるやも知れぬと、ここに書き記しておくことと致す。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 8

 かくて爰に日をくらしなんもいかならんとて、山をくだり里に入ぬれば、朔日比の山のはに纖月かすかにして鐘のひゞき海岸のそこにこたへ、岡のやかたはなみにうつり、龍の都に入ぬるやと覺つかなし。

[やぶちゃん注:「朔日比」冒頭注で示した通り、彼が相州金沢に着いたのは寛永一〇(一六三三)年十一月一日の夜のことであった。

「纖月」「せんげつ」で繊月、繊維のように細い月。新月から二日月三日月の異名。]

 

 海士のいさりをたよりに宿とひて、ひと夜を明し、まづ寺に詣けるに本堂一宇あり。諸堂皆跡ばかり也。五重の塔も一重殘りぬ。此金澤山稱名寺はいつの年にか龜山院の細願所と號せらる。この所は一切在家をまじへず。今の在家は皆當時界内なり。殺生禁斷の浦なりし。漁人など申者一人もなし。時うつり國一度みだれ、寺廢亡して再いにしへにかへらず、庄園悉落て武家押領の地と成、房跡は漁人の栖家と成、院々は跡なく海士の小屋數そひ、當寺界外下郎どもは武家の手につき、門外に有ながらかへつてかれらが顏色をうかゞふあり樣、おもひやるべし。佛前の燈もほそく朝夕のけぶりもたえがち也と老僧達三人かたられけるに袖をうるほしつ。

[やぶちゃん注:称名寺の完膚なきまでの哀れな衰亡の様が語られる。当時の現状が具体に語られており、特に開幕後に移入してきた武士階級が横暴を極めている様子など、「佛前の」「ほそ」き「燈」の前の瘦せ枯れた「老僧達三人」の画像が慄然とするほどのリアルではないか。]

 

 昔舟つかはして一切經をも異國より取わたし、其外俗書外典ども世に類すくなき本ども、金澤文庫と書付あるは、當寺より紛失したる也とかたらる。經藏もこぼれぬれば本堂に一切經をばとめをくと也。寺の致境を見めぐらしぬれば、山かこみ古木そびえ立て、松杉の色、ことに秋よりけなる紅葉のほのめきて、靑地なる錦をはりたらんはかゝるべきかなどゝいひあへり。

 何となく空に時雨のふり分て そむるかへ手にましる松杉

[やぶちゃん注:金沢文庫もすっかり毀れている。

「金澤文庫と書付ある」は鎌倉攬勝考卷之十一附録の「金澤文庫舊跡」を参照。蔵書印の影印画像がある。これは鎌倉時代とも、後の室町時代に称名寺が蔵書点検を行った際に押されたとも言われる蔵書印で、日本最古の蔵書印である。同条に『儒書には黑印、佛書には朱印を押たるといえども、今希に世に有ものは、皆黑印にてぞ有ける。又黑印も、大小のたがひも有けるといふ』とし、沢庵の時代にまだあった一切経も、この「鎌倉攬勝考」の書かれた幕末文政十二(一八二九)年頃には、書籍が移譲された足利『學校も隨て頽廢し、書籍も悉く散逸しける事なるべし。今稱名寺にも、むかし文庫の書籍の内、一冊も見えず。一切經の殘册の破たるもの、彌勒堂に僅にあれども、定かならず』という惨憺たる状況に陥っていた。

「秋よりけなる紅葉」は、(秋の頃の美しさに)心が寄せられるの意の「寄る」に、そんな感じがする、の意の形容動詞化する接尾辞「気なり」が附いたか、若しくは、羨ましい、の謂いの、口語形容詞「けなりい」が附いたものが、誤って形容動詞化したものであろうか。国語学は苦手である。識者の御教授を乞う。]

一言芳談 一二四

   一二四

 

 然阿(ねんあ)上人云、三心(じん)を具せざる者も、おして決定往生と思へば、この故實によりて、はじめて三心をば具するなり。

 

○然阿上人、良忠上人なり。

○おして決定、此のおしてといふが肝要なり。一枚起請の所詮も決定の二字なり。

 

[やぶちゃん注:「然阿上人」(正治元(一一九九)年~弘安一〇(一二八七)年)は浄土僧。諱は然阿(ねんな)。謚号記主禅師(示寂七年後の永仁元 (一二九三) 年に伏見天皇より贈)。浄土宗第三祖とされる。太政大臣藤原師実六世の孫である円実の子といわれ(この出自はⅡの大橋氏の注に拠る。以下でもウィキ忠」を元にしながら、浄土宗公式サイトの記主良忠上人略年譜と校合、補塡した)、石見国三隅庄(現在の島根県那賀郡三隅村)出身。園城寺(三井寺)に入って出家、嘉禎二(一二三六)年頃、法然の弟子である聖光房弁長に謁して弟子となり、翌年、郷里に帰国して安芸国・石見国等に浄土教を弘めた。仁治元(一二四〇)年には幕府の重臣北条経時の帰依を受けて鎌倉佐助ヶ谷に蓮華寺(現在の材木座にある光明寺の前身)を創建、宝治二(一二四八)年には後嵯峨上皇に円頓戒を授戒している。この間、浄土・天台・真言・法相・三論・華厳・律・禅等の教学を精力的に学んだ。関東において広く浄土教を布教し、日蓮と論争もしている。

「三心」既注であるが、再注する。念仏信仰で浄土に生れるための至誠心・深心(しんじん)・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの信心(安心(あんじん)とも)を指す。「至誠心」とは誠心を以って素直に阿弥陀仏の「誠心」を受け止める心、「深心」は己の凡夫たることを知り(機の信心)、弥陀の四十八誓願の教えを深く信ずること(法の信心)。「回向発願心」は以上を得て、阿弥陀仏と向き合って自らの極楽往生への願を発すること。
「三心を具せざる者も、おして決定往生と思へば、この故實によりて、はじめて三心をば具するなり」この「故實」とは古えよりある決まりや習わし、先例となる事例の意。
――三心(さんじん)を具えていないと心配する者でも、その末期(まつご)に臨んで、『往生は決定(けつじょう)している。』と思えば、そのやり方で、初めて瞬時に三心は既に具しておるのである。――
という謂いであろう。
「一枚起請」法然の「一枚起請文」。全三八七字から成り、念仏の要義を一枚の紙に平易な文章で書き記して釈迦・弥陀に偽りのないことを誓った文。「一枚消息」とも呼ぶ。以前にも出ているが、ここで全文を示しておく(原文はウィキ・アーカイブの「一枚起請文」から引用したが。引用元の親本「法然上人全集」黒田真洞・望月信亨共編(一九〇六年宗粋社刊)の注によれば『黒谷金戒光明寺にある原本を写したもの』とする。なお、踊り字「〱」を示す部分は正字化した。やぶちゃん整序版は、これを私が恣意的に正字化、読みや読点・送り仮名も追加し、漢文訓読の鉄則たる助詞・助動詞の平仮名化を行って、法然自身の誤りも含めて一部の歴史的仮名遣の誤りを訂すなどして示したオリジナルな読みである)。

 

〇原文

もろこし我がてうにもろもろの智者のさたし申さるゝ觀念の念ニモ非ズ。叉學文をして念の心を悟リテ申念佛ニモ非ズ。たゞ往生極楽のタメニハ南無阿彌陀佛と申て疑なく往生スルゾト思とりテ申外二ハ別の子さい候はず。但三心四修と申事ノ候ハ皆決定して南無阿彌陀佛にて往生スルゾト思フ内二籠り候也。此外におくふかき事を存ゼバ二尊ノあはれみニハヅレ本願にもれ候べし。念佛を信ゼン人ハたとひ一代ノ法を能々學ストモ。一文不知ノ愚どんの身ニナシテ。尼入道ノ無ちノともがらに同して。ちシャノふるまいヲせずして。只一かうに念佛すべし。

爲證以両手印

淨土宗の安心起行此一紙二至極せり。源空が所存此外二全ク別義を存ゼズ。滅後ノ邪義ヲふせがんが爲メニ所存を記し畢。

建歴二年正月二十三日

 

○やぶちゃん整序版

 唐土(もろこし)・我が朝(てう)に諸々の知者の沙汰し申さるる觀念の念佛にも非ず。又、學文(がくもん)をして、念の心を悟りて申す念佛にも非ず。ただ往生極樂の爲には「南無阿彌陀佛」と申して疑ひなく往生するぞと思ひとりて申す外には、別の子細、候はず。但し、三心四修(さんじんしじゆ)と申す事の候ふは、皆、決定(けつじやう)して「南無阿彌陀佛」にて往生するぞと、思ふ内に籠り候ふなり。此の外に奧深きことを存ぜば、二尊の慈(あはれ)みに外(はづ)れ、本願に洩(も)れ候ふべし。念佛を信ぜん人は、縱令(たと)ひ一代の法を能々(よくよく)學(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩(ともがら)に同じうして、智者の振舞(ふるま)ひをせずして、ただ一向に念佛すべし。

證の爲に兩手印を以つてす。

淨土宗の安心起行、此の一紙に至極せり。源空が所存、此外に全く別儀を存ぜず。滅後の邪義を防がんが爲に所存を記し畢んぬ。

建暦二年正月二十三日

 

既注であるが、「四修」とは恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むけんしゅ)・長時修(ぢょうじしゅ)という念仏の正しい称え方や保ち方を指す。「恭敬修」は恭しく敬った心を持って、「無余修」は雑念をなくして、「無間修」何時でも何処でも、「長時修」は生涯かけて、念仏を修せよとの謂いである(「三心四修」についての注は大阪府高槻市の浄土宗光松寺(こうしょうじ)のHPにある「仏教質問箱」の記載を参考にさせて戴いた)。

「所詮」仏教用語では、経文などによって表される内容を意味し、能詮(のうせん:経典に説かれる意義を表すところの言語。文句。)の対語としてある。ここは、そう採らずとも、所謂、最後に落ち着くところは、の意で採っても「一枚起請文」という切り詰めた文章の場合、間違いではあるまい。]

文學者と讀者 萩原朔太郎

       文學者と讀者

 文學者に對する世人の誤解は、彼等が概して感性的な氣質人であり、作品中の人物に同情したり、熱烈に戀愛したりすることによつて、人情に厚く、情誼に溺れ易い性格の人だと誤信することにある。實を言へば、文學者ほどにも、冷靜で非人情的なものはない。人情を書く場合にさへも、彼等は冷い知性によつて、さうした心理を觀察し、いつも人生を局外から、客觀的に批判してゐるのである。ところが讀者の方では、その作品の背後に、知性的な觀察者が居るといふことを、いつも忘れてゐるのである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十番目、先に示した「藝術家の原罪」の直後に配されたものである。]

憂はわたしを護る 大手拓次

 憂はわたしを護る

憂はわたしをまもる。
のびやかに此心がをどつてゆくときでも、
また限りない瞑想の朽廢へおちいるときでも、
きつと わたしの憂はわたしの弱い身體(からだ)を中庸の微韻のうちに保つ。
ああ お前よ、鳩の毛竝(けなみ)のやうにやさしくふるへる憂よ、
さあ お前の好きな五月がきた。
たんぽぽの實のしろくはじけてとぶ五月がきた。
お前は この光(ひかり)のなかに悲しげに浴(ゆあ)みして
世界のすべてを包む戀を探せ。

鬼城句集 春之部 虻

虻    虻飛んで一大圓をゑがきけり

2013/03/25

ブログ450000アクセス記念第二弾 室生犀星 あじゃり

ブログ450000アクセス記念の追加として、どうしても僕がテクスト化したかった、室生犀星「あじゃり」を公開した。これで僕の憂鬱は――またしても――完成した――。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 7

 あけゆけば海道をふるに袖も引ちぎらず、上り下り人しるしらず打すぎ打すぎゆく人、いづれか世に殘りとゞまるベき。夢にあひ夢に別る、いづれをうつゝぞや。行とまるべき終のやどりをしる人やある。本覺の都とやらんも名にはきゝつらん、覺つかなし。

  東往西還見幾人  人々相遇孰相親

  親疎不問草頭露  露脆風前夢裡身

[やぶちゃん注:書き下す。

 

   東往 西還 幾人をか見る

   人々 相ひ遇ひ 孰(いづ)れか相ひ親しむ

   親疎問はず 草頭の露

   露は風前に脆く 夢裡の身

 

底本では「相」に送り仮名を振らない。]

 西行法師、

   いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん

とかゝる事を聞ても、身のゆくへおもふ人ぞまれなる。

   とまる身もゆくも此世を旅なれは 終のやとりはいつちならまし

と口のうちにつぶやきながら行に、かしこの里のこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれといふ。そこの里の名をとへばかたびらの里と聞て、

  地白なる霜のあしたははたさむし 夏そきてみむかたひらの里

と俳諧して谷相の道をへてゆく。やうやうにしてたかき所にのぼれば、ふるき寺など見付て、山路のうれたき心もやぶれぬ。魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩をおもひ出ぬ。又一坂をのぼれば一本の松あり。おひのぼりたるまさきのかづら靑つゞら、くる人もまれなるに、山男ひとり爪木とるが、是にとへば能化堂の松これ也といふに、立よりて金澤を見おろせば詞もなくて、實にや此入海はいにしへよりもろこしの西湖ともてなしけるときくも僞ならじ。追門の明神とて入海にさし出たる山あり。古木くろみ麓に橋あり。橋の下よりしほさし入ぬれば、はるばるとをき山のいりまで湖水となり、しほ引ぬれば水鳥も陸にまどふにこそ。水陸の景氣もあした夕にかはり、金岡も筆およばざりしと也。來て見る今は冬枯の野島が崎とをしふるは、秋の千種の色もなし。水むすびつゝすゞみける折にふれてや名付けん、名は夏島に夏もなし。島根に海士の小屋みえて網をほしたる夕附日、漁村のてらし是也。そめてかはらぬ筆の跡、硯の海のうるひかや、雨にきてまし笠島は、人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり。目路とほけれど富士の根を心によせてまだふらぬ江天の雪と打ながむ。浪たちかへる市の聲、風まち出る沖つ舟、烟寺の鐘もひゞきゝぬ。洞庭とてもよそならず、月の秋こそしのばるれ。水のそこなる影を見て、臂をやのぶる猿島は、身のおろかなるなげ木より、おとしてけりな烏帽子島、海士の子どものかり殘す、沖のかぢめか鎚の音、荒磯浪に釘うたせ、あさ夕しほやさしぬらん。箱崎也とをしふるは、松さへしげり、あひにあふ、しるしの箱をおさめつゝ、西を守ると聞つるに、東の海のそこふかき、神の心ぞたふとかりける。

  島々やいく浦かけて山と歌 いかになかめん三十一文字

[やぶちゃん注:「いつくよりいつくにかよふ道なれは この世をかりの宿といふらん」この一首、西行の和歌に見出し得ない。識者の御教授を乞う。

「かたびらの里」帷子の里。かむいさんの個人ブログ「横浜の街紹介」の帷子の里に、帷子の地名は、「古(いにしへ)よりありし所なりと、されどその名の起りし故は傳へず」として「新編武蔵風土記稿巻文六十九 橘樹郡之十二 神奈川領編」に、道興准后の巡歴集「廻国雑記」(文明一八(一四八六)年成立)と伝太田道灌「平安記行」(室町中期成立)に、「帷子の里」と載る旨の紹介があるとする。「廻国雑記」には、

新羽を立ちて鎌倉に到る道すがら、さまざまの名所ども、委しく記すに及び侍らず。かたひらの宿といへる所にて、

 

  いつ来てか、旅の衣をかへてまし、風うら寒きかたひらの里

と載る。かむいさんのブログでは更に、『かたひらの里は現在の「橘樹神社」「神明社」あたりから元町(後の古町橋)にかけての』里名で、『新羽から「下の道」で芝生(現在の浅間町)の「追分」より元町→神明社の裏山を通り→かなざわかまくら道→岩井原の「北向き地蔵」→弘明寺→上大岡に至り「もちゐ坂」へ向かう』と、同定されておられる。この橘樹(たちばな)神社とは横浜市保土ヶ谷区天王町にあり、そばに現在も帷子川(かたびらがわ)と称する川が流れている。一説に、この天王町一帯は片方が山で、片方が田畑であったため、昔「かたひら」と呼称されたことに由来するという(この部分はウィキ帷子川」に拠る)。この「かたびらの里」で「以下にこなたより左に付て行末こそ金澤へ入道なれ」とあるから、この歌は、現在の西横浜辺りで詠まれたと考えられる。

「うれたき」「慨し」、元「心痛(うらいた)し」で、腹立たしい、うらめしい、いまいましい。「谷相」、谷間(たにあい)の景色の開けぬ中を延々と歩いて鬱屈していた。そこへ、景観が開けて解放された思いがしたのである。

「魂傷山峽深愁破崖寺古と杜工部がつくりけむ詩」底本の訓点は納得がいかないので、私の自己流で訓読すると、

 魂(こん) 山峽の深きに傷みしが

 愁(うれひ) 崖寺(がいじ)の古きに破らる

杜甫の五言古詩「法鏡寺」の第三・四句目であるが、字に異同がある。

 身危適他州

 勉強終勞苦

 神傷山行深

 愁破崖寺古

 嬋娟碧蘚淨

 蕭槭寒籜聚

 回回山根水

 冉冉松上雨

 洩雲蒙淸晨

 初日翳複吐

 朱甍半光炯

 戸牖粲可數

 拄策忘前期

 出蘿已亭午

 冥冥子規叫

 微徑不複取

 身危適他州

 勉強終勞苦

 愁破崖寺古原文も参考にさせて頂いた紀頌之氏の詩100」によれば、前半の紀頌之氏の訳は(訳の部分を連続させて引用)、

   《引用開始》

身の危険を覚悟の上で他の州の方へゆくのであるが、苦を厭わないことに努めようとはするが、結構きつい旅である。

自分の精神は山道を余りに深く入るのでしんぱいになってくる、愁いのこころがうち破られたのは突然に崖のところに古寺がみえてきたのだ。

みれば寺前に青ごけがしきつめてあるのであでやかで美しい感じになっている、こちらでは竹の皮が寒風に吹きよせられてさびしい様子である。

山の下をながれる水は回りうねって音をたてて流れる、そうしていると松の上からはぽつりぽつり次第に雨がふりそそいでくる。

   《引用終了》

これだと、

 神(しん) 山行の深きに傷みしが

 愁 崖寺の古きに破らる

か。第一句・第二句はもとより、次のシーンの松も対応しており、沢庵が本詩を想起したことが如何にも、と共感される。本詩の後半部は正しく、紀頌之氏で御鑑賞戴きたい。

「能化堂の松」「能化堂」は能見堂のこと。新編鎌倉八」及び鎌倉攬勝考卷之十一附録の「能見堂」の巨勢金岡(こせのかなおか)筆捨松の条々を参照されたい(絵図もある)。

「追門の明神」瀬戸明神のこと。新編鎌倉八」の「瀨戸明神」に、『瀨戸〔或作迫門(或は迫門に作る)。〕』と割注する。

「人の國なる瀟湘のよるの心もしられけり」水戸藩主徳川光圀が招いた明の禅僧東皐心越(とうこうしんえつ)が撰したものが金沢八景の由来であるが、その元となった中国で画題として知られる湖南省の瀟湘八景(瀟水が湘江に合流、他の水系も加わって洞庭湖を形成する一帯)の内、「瀟湘夜雨」(瀟水と湘水の合流する川面に降る夜の雨)の風情を受けた謂い。この前後、描き出す景観といい、韻律と言い、私は非常に美しく上手いと思う。下らぬ私の注など、不要という気さえしてくるのである。

「箱崎」現在の横須賀市箱崎町。吾妻島。現在は全島が米海軍吾妻倉庫地区に属しているために一般人は原則立ち入ることが出来ない。元は岬(箱崎半島)であったが、明治二二(一八八九)年に基部に水路が開削されて島となった(以上はウィキ吾妻島に拠った)。

「あひにあふ」とは「箱崎」という名称から身と蓋を連想したものか。また、その彼方の海が走水の海であり、倭建命(やまとたけるのみこと)のために我が身を海神に捧げた后弟橘媛(おとたちばなひめ)の二柱一体の幻影が沢庵を捉えたのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

耳嚢 巻之六 領主と姓名を同ふする者の事

 領主と姓名を同ふする者の事

 

 上總國玉崎(たまさき)明神の神主を加納遠江(かなふとほたふみ)と云(いひ)て、不葺合(ふきあへず)の尊(みこと)より統等(とうなど)永く侍りし由。當時右村は加納遠江守領分の由、人の咄(はなし)ける故、領主と姓名を同(おなじ)ふすべき謂(いは)れなし、疑敷(うたがはしき)もの語りなりとなじりけるに、いやとよ、神主も代々右の通り名乘(なのり)、領主にても許容ありて其通り濟來(すみきた)る由申(まうし)ぬ。折あらば、加納家に尋問(たづねとは)んと思ひぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:前話の報告者は「上總出生の者」とあり、同一ソースの可能性が高く、連関すると言える。

・「上總國玉崎明神」現在の千葉県長生(ちょうせい)郡一宮町一宮にある上総一宮玉前(たまさき)神社。ウィキの「玉前神社」によれば、現在、祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、彼女は海からこの地に上がって、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)に託された鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を養育したが、後に二人は婚姻、初代の神武天皇らを産んだとされる、とあり、更に「延喜式神名帳」を始めとする文献上では『祭神は一座とされているが、古社記には鵜茅葺不合命の名が併記されている』とある。底本の鈴木氏注に、三村竹清氏の注を引いて、『三代実録に授位の事を記せば某旧社たる知るべしとなり、八月十三日大祭にて神輿渡御し、来賽者群集すといふ。』とその参詣の盛況を記す(但し、同神社公式サイト記載によれば、現在の例祭は九月十三日に行われている(恐らく新暦を旧暦に読み替えたものであろう)。「上総十二社祭り」または「上総裸祭り」といわれる裸祭りで千葉県の無形民俗文化財に指定されている)。

・「加納遠江」同神社公式サイト紹介には、現在、「加納」姓や「遠江」の名の方はおられない。

・「不葺合の尊」火火出見尊(ひこほほひでのみこと:山幸彦。)と海神の娘である豊玉姫の子。「古事記」では天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、「日本書紀」では彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記される。参照したウィキの「ウガヤフキアエズ」には、海神という『異類の者と結婚し、何かをするのを見るなとタブーを課し、そのタブーを破られて本来の姿を見られて別れるという話は世界各地に見られる。日本神話でも同様の説話があり(神産みの黄泉訪問説話など)、民話でも鶴の恩返しなどがある。また、この類の説話では、異類の者との間の子の子孫が王朝・氏族の始祖とされることが多い』とし、『天皇につながる神は皆「稲」に関する名を持つが、日子波限建鵜草葺不合命だけが稲穂と無関係であり、この理由には諸説がある。ウガヤフキアエズの事績の記述はほとんどないため、山と海の力が合わさったこの神により、天皇が山から海まで支配する力を表そうとの意図で、後世に作られた神であるとする説もある。ウガ(ウカ)を穀物とする説もある』とある。

・「加納遠江守」加納久周(ひさのり 宝暦元(一七五一)年~文化八(一八一一)年)。天明六(一七八六)年に養父久堅が死去したため、家督を相続して伊勢八田藩第三代藩主となったが、当時の陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。同天明七年、大番頭を兼務し、遠江守に転任、上総一宮藩加納家三代となった。伏見奉行などを務めた。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月、彼の没年までは余り時間がない(根岸の逝去は文化一二(一八一五)年十二月四日)。果たして根岸はこの真否を彼に尋ね得たのであろうか?……はい?……そんなつまらないことが気になりますんでね。僕の悪い癖です……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 領主と姓名を同じゅうする者の事

 

 上総国玉崎(たまさき)明神の神主を、

――加納遠江(かのうとおとうみ)

と言うて、不葺合尊(ふきあえずのみこと)の代より、正当な神職名として、これ、永く名乗っておる由。

 当時、この神社の建つ村は、上総一宮藩にて、

――加納遠江守久周(ひさのり)殿

の御領分で御座った。

 さる人物が以上の話を致いたゆえ、

「……領主と、これ、姓名官位ともに同じゅうしてよいという謂われは、あるまい。……幾ら何でも、それはまた、疑わしき話しじゃが……」

と批難したところが、

「いやいや! 神主もこれ、代々、右の通り名乗り、御領主からも正式な許容の御座って、その通り、今までも、何のお咎めものう、済みおいて御座ること、これ、間違い、御座らぬ。」

と申した。

 さても、折りあらば何時か、加納家の方に尋ね問うてみようとは、思うて御座る。

詩と散文 萩原朔太郎

       詩と散文

 人生は、二つの時間から成立してゐる。夜と晝と。夢と現實と。無意識の生活と、意識する生活と。そこで文學もまた、二つのジヤンルに分類される。詩は夜の夢に浮ぶイメーヂであり、散文は晝の現實に意識するヴイジヨンである。それ故に詩は、常識の方式する文法や悟性を無視して、獨自なドリームライクな仕方により、意識の幽冥に出沒する自我の主體を表現する。――理想的に言へば、人はこの二つの文學(詩と散文)とを書くことにより、意識する自我の生活と、無意識する自我の主體とを、兩面から表現することによつて、初めて自我を完全に表現し得る。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の八番目、先に示した「抽象觀念としての詩」の直後に配されたものである。]

威嚇者 大手拓次

 威嚇者

 

わたしの威嚇者がおどろいてゐる梢の上から見おろして、

いまにもその妙に曲つた固い黑い爪で

冥府から來た響の聲援によりながら

必勝を期してわたしの魂へついてゐるだらう。

わたしはもう、それを恐れたり、おびえたりする餘裕がない。

わたしは朦朧として無限とつらなつてゐるばかりで、

苦痛も慟哭も、哀れな世の不運も、據りどころない風の苦痛にすぎなくなつた。

わたしは、もう永遠の存在の端(はし)へむすびつけられたのだ。

わたしの生活の盛りは、空氣をこえ、

萬象をこえ、水色の奧祕へひびく時である。

鬼城句集 春之部 猫の戀

猫の戀  犬吼えて遠くないけり猫の戀

     いがみ合うて猫分れけり井戸の端

一言芳談 一二三

   一二三

 

 信空上人問うて云、智惠若(も)し往生の要(えう)たるべくば、正直に仰せをかうむりて、修學(しゆがく)をいとなむべし。又、たゞ稱名不足なくば、そのむねを存ずべく候、云々。答へて云、往生の業は、是(これ)、稱名といふ事、釋の文(もん)、分明(ふんみやう)なり。有智無智(うちむち)を簡(えら)まずといふこと、又以つて顯然(けんぜん)なり。然れば、往生の爲めには稱名足れりとす。學問を好むとせむよりは、一向に念佛すべし。彌陀・觀音・勢至に逢ひ奉るの時、何(いづ)れの法文(ほふもん)か達せざらん。念佛往生の旨をしらざらんほどは是を學ぶべし。若し是を知りをはりなば、いくばくならざる知惠をもとめて、稱名の暇(いとま)をさまたぐべからず。

 

○答へて云、此答は法然上人なり。

○往生の業、業(ごふ)は業因(ごふいん)なり。

○釋の文、分明なり、散善義(さんぜんぎ)の一心專念の文(もん)、又要集の念佛爲本(ゐほん)の文(もん)、其外にもかずかずあきらかなり。

○有智無智を、五會讃(ごゑさん)に、不簡下智與高才(ふげんちよかうさい)とあり、又選擇集第三章をも見るべし。

○何れの法文か達せざらん、惠心僧都は唯識(ゆゐしき)は淨土を期(ご)すとの給ひ、聖覺(しやうかく)法印も大小經典の義理は百法明門(ひやくほふみやうもん)の暮をまつべしと仰せれたり。

○是を知りをはりなば、此の分際(ぶんざい)をよく合點(がてん)すべし。

 

[やぶちゃん注:「信空上人」「三十五」に既注済みであるが、再掲する。法蓮房信空(久安二(一一四六)年~安貞二(一二二八)年)は藤原行隆の子。称弁とも。法蓮房という。十二歳で法然の師比叡山黒谷の叡空の室にて得度出家(法然の出家は天養二(一一四五)年十三歳とされる。従って当初、法然は十三歳違いの兄弟子であった)。叡空の滅後に法然に師事、以後、門下の長老として実に五十五年もの間常随し、その臨終にも近侍した。天台僧の念仏弾圧に対して元久元(一二〇四)年に法然が比叡山に送った「七箇条起請文」では執筆役を務め、法然に次いで、門下として筆頭署名をしている。法然流罪後は事実上の後継者として残された教団を統卒、浄土宗の基礎を固めた。「没後制誡」によれば彼の祖父藤原顕時が叡空に寄進した中山(黒谷光明寺の地)の別邸は法然に譲られ、後に法然によって信空に譲られている。これを寝殿造の白川禅房(二階房)と称し、この房内の松林房において九月九日に八十三歳で示寂した(以上は「浄土宗」公式HP以下の頁の記載を参照した)。

「往生の業、業は業因なり」この場合の「業因」とは、本来の狭義の意味の、未来に苦楽の果報を招く原因となる善悪の行為、という意味ではなく、寧ろ、最も/唯一の善の導きだすところの、至高の「業」たる大切な要諦、という意である。

「散善義」既注済み。善導の「觀経疏散善義(かんきょうそさんぜんぎ)」。

「一心專念の文」「觀経疏散善義」に、

 一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故

とある。古来、全文を音読みするのが通例らしい(「いっしんせんねんみだみょうごう/ぎょうじゅうざが/ふもんじせつくごん/ねんねんふしゃしゃ/ぜみょうしょうじょうしごう/じゅんぴぶつがんこ)。趣意は「――一心に専ら弥陀の名号を念じよ――行住坐臥――時の長短を問わず――念じて念じて捨てぬ者――これを正定(しょうじょ)の業(ごう)と名づく――かの阿彌陀仏の誓願に無条件で随うが故に――」と謂ったいいであろう。

「要集」源信の「往生要集」。

「念佛爲本」「往生要集」の「第五助念方法門」の「第七総結要行」に、『往生之業念佛爲本』」とある。極楽往生の正しき業因は称名念仏を本(もと)とする(それ以外の学問などの余行は極楽往生の正しき業困ではない)という意である。

「五會讃」「後善導」と称えられた唐代の浄土教の僧法照(ほっしょう)の著わした「五会法事讃」。 念仏を、①平声(ひょうしょう)に緩く念ずる、②平上声(ひょうじょうしょう)に緩く念ずる、③非緩非急に念ずる、④漸く急に念ずる(以上六字名号)、⑤阿弥陀仏の四字をまた急に念ずる、の五種の音調に乗せて修する五会念仏の行儀作法を述べ、三十九種の讃文を集めたもの(ウィキ・アーカイブ「五会法事讃」に拠った)。

「不簡下智與高才」親鸞の「唯信鈔文意」に、『「不簡下智與高才」といふは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。』(「不簡下智与高才」の「下智」は、智慧が浅く、視野が狭く、知識・経験の少ない人のことである。)とある(親鸞仏教センター」の「『唯信鈔文意』試訳 10に拠った)。

「選擇集第三章」には以下のようにある(白文は「日蓮宗 現代宗教研究所」の「選択本願念仏集 漢文」を正字化して示し、書き下し文は岩波文庫一九九七年刊の大橋俊雄校注「選択本願念仏集」を底本として、恣意的に正字化、読みを歴史的仮名遣に変更した)。

○原文

故法照禪師五會法事讚云彼佛因中立弘誓聞名念我惣迎來不簡貧窮將富貴不簡下智與高才不簡多聞持淨戒不簡破戒罪根深但使廻心多念佛能令瓦礫變成金(已上)

○書き下し文

故に法照禪師の「五會法事讚」に云く、「彼の佛の因中(いんちう)に弘誓(ぐせい)を立てたまへり。名を聞きて我を念ぜば、惣(すべ)て迎へに來たらむ。貧窮と富貴とを簡(えら)ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞にして淨戒(じやうかい)を持(たも)つを簡ばず、破戒にして罪根(ざいこん)の深きをも簡ばず、ただ心を廻(ゑ)して多く念佛せば、よく瓦礫(ぐわりやく)をして變じて金(こん)と成さしめむ。」と。(已上)

「惠心僧都」源信。

「唯識」一切の対象は心の本体である識によって現はれ出たものであり、識以外に実在するものはないということ。また、この識も誤った分別をするものに過ぎず、それ自体存在しえないという認識をも含む。

「聖覺」(仁安二(一一六七)年~嘉禎元(一二三五)年)天台僧。藤原通憲の孫。父は澄憲法印。父と共に唱導の安居院流を開く。安居院の法印とも呼ばれる。比叡山で出家し、比叡山東塔北谷竹林房の静厳について学び、恵心・檀那の両流を相伝した。後に竹林院の里坊である安居院に住み、唱導法談をもって一世を風靡した。法然に師事して浄土教に帰依し、他力念仏を勧めた「唯信抄」を書く。「一期物語」によれば、法然が瘧(おこり:マラリア。)の病いに罹った際、九条兼実が聖覚に命じて善導の影前において唱導を行わせたところ、病が治ったという。嘉禄の法難(一二二七年に法然門下の専修念仏者に加えられた迫害)では念仏停止を進言した。雅成親王からの下問に対して答申したり、後鳥羽上皇からの宗義の勅問を受けて答申しするなど、浄土門で大いに活動した(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「百法明門」一百八法明門。菩薩が初地の位において得る法門で、あらゆる真実の法に明瞭に通達させる智慧の意。]

ブログ450000アクセス記念 やぶちゃん正字化版西東三鬼句集 公開

2013/03/25 02:42:48 Blog鬼火~日々の迷走: くるり 家出娘

で来られ、トップ・ページや、プロフィール・ページ、

2013/03/25 02:44:18   Blog鬼火~日々の迷走: 冬 萩原朔太郎

などをご覧になられて、再び、

2013/03/25 02:46:20   Blog鬼火~日々の迷走: くるり 家出娘

で退出された「あなた」が、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来450000人目の訪問者でした。向後ともよろしゅうに。

只今、ブログ450000アクセス記念として「やぶちゃんの電子テクスト:俳句篇」に、HP版「やぶちゃん正字化版西東三鬼句集 《西東三鬼全四句集『旗』・『夜の桃』・『今日』・『變身』(全)+「『變身』以後」(全)+やぶちゃん選拾遺抄Ⅰ~Ⅲ》」(+縦書版)を公開した。

2013/03/24

北條九代記 和田義盛上總國司職を望む

      ○和田義盛上總國司職を望む

承元三年五月十二日、和田左衞門尉義盛、内々望み申す事あり。往當(そのかみ)、故右大將家の御時に、抜群の忠功を勵(はげま)し、平氏没落して、四海靜謐に歸し、勲功の賞、行はれて、諸侍の位次(ゐじ)を定めらる。義盛は諸司(しよしの)別當に補(ふ)せられしに、梶原景時羨みて、假初(かりそめ)にこの職を借(かり)て永く返さず。景時没落の後、義盛、二度、還補(げんふ)したりけるが、此比上總國司職を望み申しけるを、將軍家、即ち、尼御臺政子の御方へ申合されたり。尼御臺、仰せられけるやう、故右大將家の御時より、侍(さぶらひ)の受領は停止(ちやうじ)せられたり、今更、成例(じやうれい)を始めらるべからず、女性(によしやう)なんどの口入(こうじゆ)には足らざるの旨、御返事有てその事打止(うちや)めらる。義盛、歎狀(たんじやう)を大官令に付けて、一生の望(のぞみ)、この一事にある由、述懷申しければ、「如何にも御計(はからひ)あるべし。左右を待つべし」とぞ仰出(おほせいだ)されける。同十二月十五日、近國の守護補任の御下文(くだしぶみ)を進ず。その中に千葉介成胤(なりたね)は、先祖千葉〔の〕大夫、元永より後、當莊の檢非違使所(けんびゐしどころ)たるの間(あひだ)、右大將家の御時、常胤、下總一國の守護職に補(ふ)せらるゝの由を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父(おほじ)義明(よしあきら)、天治より以來(このかた)、相摸國の雑事(ざふじ)相交(まじは)るに依て、同じき御時檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、是を承るの由を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)は、本(もと)より御下文を帶せず。先租下野〔の〕少掾(じよう)豐澤(とよざは)、當國の押領使(あうりやうし)として、檢斷のこと、一向に執行(しゆぎやう)致す。秀郷朝臣(ひでさとのあそん)、天慶三年に官符を賜るの後、十三代數百歳奉行するの間、更に中絶の例(れい)なし。但し、右大將家の御時は建久年中に、亡父政光入道、この職を朝政に讓與(ゆづりあた)ふるに就いて、安堵の御下文を賜る計(ばかり)なり。敢て新恩の職にあらずと申す。その外國々皆右大將家の御下文を帶す。向後愈(いよいよ)政道怠るべからずと、仰せ含めらる。惣じて大名諸侍、其(その)先祖の武功を衒(てら)ひ、私(わたくし)の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士(ようし)の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹(つつしみ)て家を治むと名付くと、賞祿に厭(あ)かざる輩を誡仰出(いまいめおほせいだ)されけり。和田義盛、上總國司の事、所望を止(とど)め候、今は執心も無く候へば、擎(さゝ)げ奉る所の歎狀を返し給はるべき由を申す。既に御前に進覽せしめ、暫く御左右を待つべき旨、仰を承はりながら、今この訴訟、偏(ひとへ)に上を輕(かろし)め計(はから)ふ事、甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色(ごきしよく)ありけり。子息四郎義直、五郎義重等(ら)、深く心に含みて、世を謀(はか)る志出來たり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元三(一二〇九)年十一月二十七日、十二月十五日、及び巻十六の正治二(一二〇〇)年二月五日の条(義盛の侍所別当還補)に基づく(「和田義盛侍所の別當に還補す」の注に既出)。前の二条を纏めて抜粋して示す。

○原文

(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛上総國司所望事。内々有御計事。暫可奉待左右之由蒙仰。殊抃悦云々。

(十二月小)十五日乙亥。近國守護補任御下文等備進之。其中。千葉介成胤者。先祖千葉大夫元永以後爲當庄檢非違所之間。右大將家御時。以常胤被補下総一國守護職之由申之。三浦兵衞尉義村者。祖父義明天治以來依相交相摸國雜事。同御時。檢斷事同可致沙汰之旨。義澄承之訖之由申之。小山左衞門尉朝政申云。不帶本御下文。曩祖下野少掾豊澤爲當國押領使。如檢斷之事。一向執行之。秀郷朝臣天慶三年更賜官符之後。十三代數百歳。奉行之間。無片時中絶之例。但右大將家御時者。建久年中。亡父政光入道。就讓與此職於朝政。賜安堵御下文許也。敢非新恩之職。稱可散御不審。進覽彼官符以下狀等云々。其外國々又帶右大將家御下文訖。縱雖犯小過。輙難被改補之趣。有其沙汰。向後殊不可存懈緩之由。面々被仰含。廣元奉行之。

○やぶちゃんの書き下し文

(十一月大)廿七日丁巳。和田左衞門尉義盛、上総國司所望の事、内々に御計(おんはから)ひの事有り。暫く左右(さう)を待ち奉るべきの由、仰せを蒙り、殊に抃悦(べんえつ)と云々。

(十二月小)十五日乙亥。近國の守護、補任の御下文等之を備進(びしん)す。其の中に、千葉介成胤は、先祖千葉大夫、元永より以後、當庄檢非違所(けびゐどころ)たるの間、右大將家の御時、常胤を以つて下総一國の守護職を補(ふ)せらるるの由、之を申す。三浦兵衞尉義村は、祖父義明(よしあき)、天治より以來(このかた)、相摸國の雜事(ざふじ)に相ひ交はるに依つて、同じき御時、檢斷の事、同じく沙汰致すべきの旨、義澄、之を承り訖んぬるの由、之を申す。小山左衞門尉朝政(ともまさ)、申して云はく、本の御下文を帶せず。曩祖(なうそ)下野少掾豊澤(しもつけのしやうじやうとよさは)、當國の押領使(あふりやうし)として、檢斷のごときの事、一向に之を執り行ふ。秀郷朝臣、天慶三年、更に官符を賜はるの後、十三代數百歳奉行するの間、片時(へんし)も中絶の例(ためし)無し。但し、右大將家の御時は、建久年中、亡父政光入道、此の職を朝政に讓り與ふるに就き、安堵の御下文を賜はる許りなり。敢へて新恩の職に非ず。御不審を散ずべしと稱し、彼の官符以下の狀等を進覽すと云々。

其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙(たやす)く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる。廣元、之を奉行す。

 

「上總國」は親王任国(しんのうにんごく:親王が国守に任じられた常陸国・上総国・上野国の三国。親王任国の守である親王は太守といい、国府の実質的長官は「介」と称した)であるので、その国司は上総介。

「受領」国司。なお、鎌倉時代は寧ろ、幕府によって各地に配置された地頭が、荘園や国司の管理していた国衙領へ侵出し、徐々に国司の支配権を奪っていった時代でもあった。

「歎狀」嘆願書。

「大官令」大江広元。

「下文」鎌倉幕府の場合は、政所から管轄諸官庁に下した公文書。

「進ず」将軍決裁を受けるための上申。

「千葉介成胤」(久寿二(一一五五)年~建保六(一二一八)年)は、治承四(一一八〇)年に石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房国に逃れた際、祖父常胤や父胤正と共に頼朝の軍に参加、平家の総帥清盛の姉婿藤原親政を生虜にするという快挙を成し遂げて治承・寿永の乱を制する原動力となった。「吾妻鏡」によると、叔父東胤頼が安房国に逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、祖父常胤もこれを認めて、頼朝の軍に合流する事を決定し、叔父東胤頼と成胤は千葉荘を後にするに際し、下総目代を襲い、攻め滅ぼしている(治承四年九月十三日の条)。そのため、下総国千田荘領家で皇嘉門院判官代の藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になった。わずか七騎で迎え撃った成胤は、忽ち絶体絶命の窮地に陥ったが、それでも奮戦し遂に親政を生虜にしたという(同年九月十四日の条)。親政を生虜にしたことで様子見をしていた上総広常など坂東の武士団が挙って頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回る事になった。文治五(一一八九)年の奥州合戦にも加わって功を挙げ、建仁三(一二〇三)年の父の死により、家督を継いで当主となった。この後の建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱を未然に防ぎ、続く和田合戦でも義時側に与して武功を挙げている(ウィキの「千葉成胤」に拠った)。

「先祖千葉の大夫」平安期の武士で千葉氏の祖(千葉成胤の五代前)平常長(万寿元(一〇二四)年~嘉承三(一一〇八)年)のこと。前九年の役と後三年の役では源頼義・義家父子に従って戦功を立てたとされ、戦後、上総国大椎に館を構え、更には下総国千葉郷に進出して、千葉大夫と号したとされる。常長には多くの息子がおり、その息子たちで房総平氏の諸氏が形成されるが、この内、次男の常兼が千葉氏、五男の常晴が上総氏の祖となって勢力を誇示することとなった(ウィキの「平常長」に拠った)。

「元永」西暦一一一八年~一一二〇年。千葉氏の初代当主平常兼(常長の子で下総国千葉郷に因んで千葉大介と号したとされる)の時代。

「檢非違使所」諸国に置かれた検非違使(犯罪・風俗の取締りなどの警察業務及び訴訟・裁判を掌る職)の事務を扱う所。

「常胤」成胤の祖父で幕府重臣千葉常胤(元永元(一一一八)年~建仁元(一二〇一)年)。彼の代に広大な相馬御厨(そうまみくりや:現在の茨城県取手市・守谷市及び千葉県柏市・流山市・我孫子市の辺りにあった伊勢神宮の荘園)を千葉氏は掌握することとなった。

「守護職」鎌倉時代以後、一国ごとに設置された武家による治安維持・軍事的統制を掌る行政官。守護人・守護奉行職・守護奉行人とも呼ばれる。近年の研究では平安中期以降諸国において、有力在庁官人となった大武士が「国の兵(つわもの)」と呼ばれる群小武士を随時統率する形の軍制が形成されてくることが明らかになっており、近年では、この軍制が平安末期には全体として主従制的性格の濃いものとなり、その統率者が国(くに)守護人と呼ばれ始めた可能性の高いことが指摘されている(主に平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「祖父義明」三浦義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)は三浦荘(現在の神奈川県横須賀市)の在庁官人。桓武平氏平良文を祖とする三浦氏の一族。相模介三浦義継の子で三浦義村の祖父。頼朝が挙兵すると、一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃したが、途中、石橋山の戦いの敗戦を聞き、引き返して籠城、程無くして敵方に参加していた畠山重忠率いる軍勢と合戦となり(衣笠城合戦)、一族郎党を率いて奮戦するも刀折れ矢尽き、義澄以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死した。享年八十九(ウィキの「三浦義明」に拠った)。

「天治」西暦一一二四年~一一二六年。三浦義明は世襲の官である三浦介を号して、この天治年間に国務に参画、三浦半島一帯に勢力を扶植した(ウィキの「三浦義明」に拠る)。

「雑事相交る」種々雑多な政務に従事する。

「檢斷」検断職(けんだんしき)。刑事上の事件を審理評決する権限を有した職。中世に於いて侍所・六波羅探題・守護・地頭等に与えられていた。

「小山左衞門尉朝政」(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)頼朝直参の家臣。既出の奥州合戦でも活躍している。

「下野の少掾豐澤」藤原豊沢。藤原秀郷の祖父。

「押領使」基本的には国司や郡司の中でも武芸に長けた者が兼任し、主として現代でいう地方警察のような一国内の治安の維持に当たった。中には、一国に限らず、一郡を兼務していた者や、一時は東海道・東山道といった道という広範囲に亙っての軍事を担当した者もある。いずれにしても、地元密着型の職務であることから、押領使には土地の豪族を任命することが主流となり、彼らが現地において所有する私的武力がその軍事力の中心となった。天慶の乱に於いて下野国押領使として平将門を滅ぼした藤原秀郷は、まさにその代表格である(ウィキの「押領使」に拠った)。

「一向に執行致す」独占的にずっと執り行って参った。

「秀郷朝臣」藤原秀郷。

「天慶三年」西暦九四〇年。ウィキ藤原秀郷によれば、この前年、天慶二(九三九)年に平将門が兵を挙げて関東八か国を征圧すると(天慶の乱)、平貞盛・藤原為憲と連合し、翌天慶三(九四〇)年二月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察しており、この功により同年三月、従四位下に叙され、十一月に下野守に任じられた。さらに武蔵守・鎮守府将軍も兼任するようになった、とある。

「官符」太政官符(だいじょうかんぷ)。太政官から八省や諸国に命令を下した公文書。

「建久年中」西暦一一九〇年~一一九八年。

「政光入道」小山氏の祖であ小山政光(生没年未詳)。武蔵国の在庁官人で藤原秀郷の直系子孫とされる太田行政の子(または孫)である。元の名は太田政光で、平安末期の久安六(一一五〇)年頃に下野国に移住し、小山荘に住して小山氏の祖となった。後妻で三男朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母である。下野国の国府周辺に広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていた(小山政光の部分はウィキの「小山政光」に拠る)。

「敢て新恩の職にあらず」全く以って(どこぞの新興勢力が受けたような)新たな恩賞として頂戴した職ではそもそもない。

「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」この部分、増淵氏は実朝の言として、以下の「向後愈政道怠るべからず」と繋げて、『貴公ら以外の国でも皆右大将頼朝卿の御下文を所持して(それで満足して)いるのである。(それを守って)今後ますます職務を怠ってはならない』と訳しておられるが、如何か? 「吾妻鏡」を見る限り、「その外國々皆右大將家の御下文を帶す」は地の文で、『其の外の國々、又、右大將家の御下文を帶び訖んぬ。縱ひ小過を犯すと雖も、輙く改補せられ難きの趣き、其の沙汰有りて、向後、殊に懈緩(けくわん)を存ずべからざるの由、面々に仰せ含めらる』で、「その外の国々もまた、同じように頼朝卿の御下文をただ今まで所持し続けているのである。されば、ここは、

――実朝卿は『たとえ多少の罪過を犯すと雖も、(それなりの由緒があり、尚且つ、何よりも右大将御自身が公的に定められたものなれば)簡単にはその職を改変されるべきではあるまい』という趣旨の御決裁があり、加えて(そのように有り難き伝家の褒美なればこそ)『向後、特に、懈怠することなく、精を込めて幕府に仕えるよう、心懸けずんばらなず。』という趣旨の言を、それぞれの申し出た武将たちに伝えさせた。――

という謂いであろうと私は判断する。

「惣じて大名諸侍、其先祖の武功を衒ひ、私の述懷を以て上を怨み奉る事は不忠の者たるべし。足る事を知るを勇士の心とし、國家を守り奉るを忠勤の侍とす。只深く身を謹て家を治むと名付く」これは筆者の創作部分である。

「和田義盛、上總國司の事……甚だ御意に叶はずとぞ、御氣色ありけり」これも「吾妻鏡」になく、やはり筆者の創作か?

「子息四郎義直、五郎義重等、深く心に含みて、世を謀る志出來たり」義盛のこの一連の出来事によって、彼の子息である義直と義重が深く遺恨を残して、将軍家に対し、謀叛を企てんとする悪しき心が芽生えた、というのは、この次の次で語られる「和田義盛叛逆滅亡」の端緒となる、建暦三(一二一三)年の泉親衡の乱(信濃源氏の泉親衡が頼家の遺児千寿を将軍に擁立し、北条氏を打倒する陰謀が未然に発覚した事件)で、事件に関与したとして、この義直と義重二人の息子と甥の胤長が逮捕されたことに繫げる叙述である(義直・義重は義盛の多年の勲功に免じて赦免されたが、胤長は赦免を求めに来ていた義盛以下の和田一族の面前で、事件の張本人と断定されて縄で縛りあげた姿を引き立てられるという大きな屈辱を受け、流罪と決した。この胤長の処分を決めた執権北条義時への義盛の深い恨みが和田義盛の乱の大きな要因の一つとなった。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 6

 一たびかしこに往て一香をたき、報恩の志をとげ、其外諸祖の塔を燒香順禮せばやとて、寛永十年癸の酉の仲冬の初に江府を出れば、旅より旅にたつ衣手さむきあかつき、左は江水漠々として白く、右にむかへば富士の根しろし。しのゝめも明ゆくそらに村寺の鐘を聞て、

 曉出江城對士峰 路邊水白照衰容

 征人馬上知繼夢 道者緩敲村寺鐘

[やぶちゃん注:書き下す。

 

 曉に江城を出でて士峰に對す

 路邊水白うして衰容を照らす

 征人 馬上 知 夢を繼ぎ

 道者 緩(かる)く敲く 村寺の鐘

 

底本では「出て」、「繼く」、「緩敲く」である。]

  旅人の朝立てゆく馬の上に みつゝや宿に殘しつる夢

  またさめぬ此世の夢に夢をみて いやはかなゝる身のゆく衞かな

  旅衣かたしく袖に入る夢は 古郷人のよるのこゝろか

  旅衣かりねの夢は夢の世を 見ならはしともしらてはかなき

[やぶちゃん注:「寛永十年癸の酉」寛永十(一六三三)年癸酉(みずのととり)。]

 

抽象觀念としての詩 萩原朔太郎

       抽象觀念としての詩

 詩、及び詩人といふ觀念は、今日に於て一つの抽象觀念になりつつある。それの實在性が希薄であるほど、そのイデーが高貴に欲情されてるのである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の七番目、先に示した「行動主義」の直後に配されたものである。]

耳嚢 巻之六 鼬も蛇を制する事

 鼬も蛇を制する事

 

 雉子(きじ)蛇を食ふに、羽がひを蛇にまかせて羽ばたきすれば、其蛇寸々に切れるといふ事、いにしへより傳へ聞(きき)しが、上總(かづさ)出生の者來りかたりけるは、鼬も蛇にまかれて其蛇を制する事、度々上總にて見及びし由。鼬身をちゞめ十分に蛇にまかれて、惣身(そうみ)腹(はら)共(とも)張りて身をふるふに、蛇すんずんに切れける由もの語りぬ。大き成(なる)鼬、少しの穴より潛りいるを見れば、さる事も有(ある)べき事なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:標題自体が蛇を退治する動物の類話であることを表示する確信犯的連関。この本文、妙に岩波のカリフォルニア大学バークレー校版と細部が異なる。以下に示す(正字化、長谷川強氏によるルビも歴史的仮名遣に変更した)。たまにはこうした比較も楽しい。

 

 鼬(いたち)も蛇を制する事

 

 雉子(きじ)蛇を喰ふに、羽がひを蛇にま卷かせて羽たゝきすれば、其蛇直(ぢき)に切れるといふ事、いにしへより傳へ聞しに、上總出生のもの來り語りけるは、「鼬も蛇にまかれて其(その)蛇を制する事、度々上總にて見及びし」よし。鼬身を縮め十分に蛇にまかれて、惣身(そうみ)腹共張て身を振るふに、蛇直に切れける」よしもの語りぬ。大きなる鼬、少しの穴より潛り入るを見れば、さる事も有(ある)べきなり。

 

・「雉子蛇を食ふ」雉子は地上にある植物の芽・葉・種子や動物では昆虫・蜘蛛類・多足類・蝸牛などの軟体動物を捕食し、また、地中の根・球根・昆虫類などを爪で地面を搔いて食べたりするが、時には蛇なども積極的に襲って食べることがある。動画でその実際が見られる。

・「はがひ」羽交い。狭義には鳥の左右の翼が重なる箇所を言うが、ここは単に、鳥の羽、翼の謂い。

・「すんずん」底本では「ずん」の部分は踊り字「〱」であるから「すん」となるが、敢えて「ずん」とした。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鼬も蛇を制するという事

 

 雉子(きじ)が蛇を食ふ際、羽根を蛇に巻かせて羽ばたきをすると、その蛇は一瞬にして寸々に千切れるということ、これ、古くから伝え聞いておるが、上総出生(しゅっしょう)の者が私の元に来たって語ったことには、鼬(いたち)も蛇に巻かれても、その蛇を逆に成敗することが出来るということを、たびたび上総にては見及んだとの由。

鼬は身体をきゅっと縮めると、十二分に蛇に巻かせておいて、頃を見計らうと、瞬時に総身(そうみ)――特に腹(はら)の部分――をぷぅうっつ! と膨らませて身を振るう。

 すると――蛇は寸々に千切れてしまうとのこと、物語って御座った。

 大きな鼬が如何にも小さな穴より潜り入るのをしばしば見かけるから、そのようなこともあるであろうと思われる。

野の羊へ 大手拓次

 野の羊へ

野をひそひそとあゆんでゆく羊の群よ、
やさしげに湖上の夕月を眺めて
嘆息をもらすのは、
なんといふ瞑合をわたしの心にもつてくるだらう。
紫の角を持つた羊のむれ、
跳ねよ、跳ねよ、
夕月はめぐみをこぼす…………
わたし達すてられた魂のうへに。

[やぶちゃん注:「瞑合」は「みやうがふ(みょうごう)」で、恐らくは、知らず知らず一つになることという「冥合」の謂いであろう。]

鬼城句集 春之部 龜鳴く

龜鳴く  龜鳴くと噓をつきなる俳人よ

     だまされて泥龜きゝに泊まりけり

     龜鳴くや月暈を着て沼の上

 

[やぶちゃん注:「龜鳴く」という季題は、藤原定家の子である為家の和歌「川越のをちの田中の夕闇に何ぞと聞けば龜ぞ鳴くなる」が典拠とされる。実際には亀は鳴かないが、春になると亀の雄が雌を慕って鳴くという、一種の浪漫的情緒的な雰囲気を添える季題ではある。]

 

一言芳談 一二二

   一二二

 

 聖光上人云、故上人の給ひしは、往生のために念佛を申す時、念佛の行、心に大要におぼえて、行ずるに付けて勇みありて、つねに念佛の申したからんをば、我身にすでに三心を具せりとおもふべきなり。

 

○故上人、法然上人のことなり。

○三心、深心(じんしん)、至誠心(しじゃうしん)、★廻向發願心(ゑかうほつぐわんしん)。(句解)

 

[やぶちゃん注:Ⅱ・Ⅲでは「心」に「しん」と読みを振る。

「三心」「句解」のものは「観無量寿経」に説くもの。「無量寿経」第十八誓願に説く三心は至心・信楽(しんぎょう)・欲生(よくしょう)。法然が「選択本願念仏集」の第八章で「念仏する者は必ず三心を具足して念佛すべきこと」と言っている。前者に基づいて解説すると、まず、「三心」とは、本文にもある通り、念仏を称える際の心構えをいう語で、「深心」は深く信じる心を言う。これには二種あり、一方は、自分自身の機根(能力)に対する自覚の念を指し、自己の智慧が浅いものであり、修行も不足しているために常に罪悪を造っており、到底、自分自身の力では解脱を得ることは困難な凡夫であることを深く自覚することをいう。一方、今一つの深心は、そうした大凡夫の自覚を受け、阿弥陀仏の本願を無条件で深く信じることによって、即ち、本願に随順して念仏を称えるならば、必ず極楽往生が出来るということを、深く信じていることをもいう。「至誠心」は偽りのない心、真実心で、称名を称える口業(くごう)と、合掌・礼拝等をする身業(しんごう)と、「助けたまえ」と一心に念願する「意業(いごう)」とが、阿弥陀仏への信心として一致していることをいう。「廻向發願心」は自分の一切の善根功徳を極楽往生のために振り向けることを指し、すべての信仰心を阿弥陀仏に集中することをいう(以上は浄土宗僧侶伊藤俊雄氏のウェブサイト「仏教に親しむ」の浄土宗の教え11 三心具足の念の記載を参照させて頂いた)。なお、Ⅱの大橋氏の注によれば、この「観無量寿経」に説く三心を法然は『「無量寿経」に説く第十八誓願の至心・信楽(しんぎょう)・欲生我国にあてる』と注されておられる。因みに第十八願でのそれらは、「至心」が自らを救済しようという意、その至心を「信楽」する、無条件に受容し、その心を持って安楽の浄土世界に生まれようと思うこと(「欲生我国」)、という意を表わす。

「往生のために念佛を申す時、念佛の行、心に大要におぼえて、行ずるに付けて勇みありて、つねに念佛の申したからんをば、我身にすでに三心を具せりとおもふべきなり」往生のために念仏を致します時、この念仏の行は『本当に大切なことなのだなあ』と感じ、そのため、念仏を行じますにつけても、甚だ、心も高揚してまいります。そうして、不断に念仏を称え申し上げたいという心持ちになった――その時には――すでに我が身には三心が具わっているのだ、と思ってよいのです。]

2013/03/23

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 5

 第五山淨妙寺は山を稻荷といふ。千光の法嗣退耕行勇禪師開山たり。塔を光明院と云。此外十刹諸山の禪院代々の新營數をしらず。來朝の諸師、歸朝の列祖、皆此里に跡を殘し給ふ。其昔延暦の比和州大安寺行表和尚示寂、そのさき神秀派の禪師來朝あり。即行表和尚大安寺に禪院を立、行表・空海・最澄等參禪有し。其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也。おのれが十二世の先師圓通大應國師も、龜山院の文安三年の秋に歸朝ありて、建長寺に住持し給ふ。此間筑前の興德寺、同國横嶽崇福寺、京師の萬壽寺に住し給ふ。あひあはせて四會の錄あり。後宇多院その道をしたひ給ひて、國師遷化の後城西の安井に竜翔寺を草創し給ひて、師の遺像を安置し跡猶今に殘れり。其外城南の薪里妙勝寺所々跡を殘し、終に建長寺に入滅を示し給ふて天源庵と云あり。天筆をそめ給ひ塔の額を普光と賜る。

[やぶちゃん注:浄妙寺はその前身を極楽寺と言い、その創建は文治四(一一八八)年、真言密教で開山は退耕行勇、開基を足利義兼とする。浄妙寺発行の「略記」よれば、蘭渓道隆の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住持となってより禅刹に改めて寺名を浄妙寺と改称した(寺名の改称は推定で正嘉年間(一二五七年~一二五九年)とする)。それにしても、この段落は後半、浄妙寺についてではなく、臨済宗宗史になってしまっているのは、やや、違和感がある。

「行表和尚」行表(ぎょうひょう 養老六(七二二)年~延暦一六(七九七)年)は大和国葛上郡高宮郷の出身で父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。天平一三(七四一)年に恭仁宮で道璿に師事して得度、天平一五(七四三)年、興福寺北倉院で受戒後、興福寺で禅・唯識を学んだ。その後、近江国崇福寺の寺主とななって一丈余りの千手観音菩薩像を造り、次いで近江国の大国師となった。宝亀九(七七八)年、最澄の師となり、宝亀一一(七八〇)年には師主として最澄を得度させている。後、奈良大安寺に移った(以上はウィキ行表に拠った)。

「神秀派」唐代の禅僧神秀(じんしゅう)の正当な流れを汲む一派の謂いであろう。神秀は(六〇六年?~七〇六年)河南省開封の出身。当初、儒学を学び、後に出家して禅宗五祖弘忍に師事、慧能(えのう)の南宗禅に対する北宗禅の開祖。諡号は大通禅師。彼の禅の思想は段階的に悟りを進める「漸悟」にあり、弟弟子で後に禅宗六祖とされる慧能の、直下に悟りに至る「頓悟」のそれと対極をなした。神秀が本来の六租であるが、派閥の中で現在では「六租慧能」と位置付けられてしまった。ウィキ秀」には、その辺りについて、『後に六祖慧能の弟子で七祖を自称した荷澤神會の北宗批判により、それまでは区別のなかった東山法門派が神秀門下の「北宗」、慧能門下の「南宗」の二派に分かれるようになり、南宗開祖の慧能が神會の目論見通り、六祖となった』とあって、「其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也」という部分は、その経緯を指したものである。しかし、ウィキによれば、神秀『の後は弟子の普寂が嗣ぎ、日本にも奈良時代・平安初期に伝わり、日本天台宗の開祖最澄も師の国分寺行表から北宗禅の思想を受け継いでいる』とあるから、沢庵の「斷絶」という謂いは正確とは言えない。

「圓通大應國師」南浦紹明(なんぽ しょうみょう/じょうみん 嘉禎元年(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。鎌倉時代の臨済僧。駿河国安倍郡の出身。紹明は諱、南浦は道号、勅諡号が円通大応国師。幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、建長元(一二四九)年に建長寺蘭渓道隆に参禅の後、正元元(一二五九)年には渡宋して虚堂智愚の法を継いだ。文永四(一二六七)年(本文の文安三年秋というのは誤りであろうか)に帰国して建長寺に戻り、その後は文永七(一二七〇)年には筑前国興徳寺の、文永九(一二七二)年には博多の横岳山崇福寺(そうふくじ)の、それぞれ住持を務めた。嘉元二(一三〇四)年には後宇多上皇の招きによって上洛、万寿寺に入った。徳治二(一三〇七)年、鎌倉に戻って建長寺の住持となったが、翌年に、七十五で没した。没後の延慶二(一三〇九)年に後宇多上皇から円通大応の国師号が贈られているが、これは日本に於ける禅僧に下賜された国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は皆、この法系に属する(以上はウィキ南浦紹明に拠った)。

「あひあはせて四會の錄あり」建長寺・興徳寺・崇福寺・萬寿寺での講筵の記録の謂いか? 新編鎌倉志巻之三の建長寺塔頭で南浦紹明が示寂した「天源菴」(後注参照)の項に『【四會の録】あり』とある。識者の御教授を乞うものである。

「竜翔寺」瑞鳳山竜翔寺(りょうしょうじ)は京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺境内の北西に立つ塔頭として現存する。開山を南浦紹明、開基を後宇多天皇とする、大徳寺とは別山で大徳寺派の修行専門道場となっている。

「城南の薪里妙勝寺」現在、京都府京田辺市薪字里ノ内にある臨済宗大徳寺派の霊瑞山酬恩庵(しゅうおんあん)の前身。妙勝寺は正応年間(一二八八年~一二九三年)に南浦紹明が開いたが、鎌倉幕府滅亡前後の元弘年間(一三三一年~一三三四年)の兵火によって衰亡していたのを、康正二(一四五六)年、一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いるという意味で「酬恩庵」と号した。一休所縁で一休宗純の木像もあるため、「一休寺」「薪(たきぎ)の一休寺」とも称される。枯山水の石庭や納豆の一種である「一休寺納豆」でも知られる(以上はウィキ酬恩庵に拠った)。

「天源庵」「新編鎌倉志巻之三」の建長寺塔頭の項に、

天源菴 大應國師、諱は紹明、號南浦(南浦と號す)。嗣法虛堂(虛堂に嗣法す)。駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日に示寂、世壽七十三。【四會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路(雲關を透過して舊路無し)と頌せしは此の所なり。

とある。]

行動主義 萩原朔太郎

       行動主義

 文学に於ける行動主義とは、癇癪玉を破裂させようとすることの熱意である。肝心なことは、それが單なる熱意であり、熱意に過ぎないといふことである。

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の六番目、先に示した「復讐としての文學」の直後に配されたものである。]

耳嚢 巻之六 大蟲も小蟲に身を失ふ事 (二話)

 大蟲も小蟲に身を失ふ事

 

 文化の初秋、石川氏の親族の家に池ありしが、田螺蓋を明きて水中に遊居(あそびをり)しを、一尺四五寸もありし蛇出て、かの田螺を喰ふ心や、蓋へ口を付(つけ)しを、田螺急に蓋をなしける故、蛇の下腮(したあご)をくわへられ、蛇苦しみて遁れんと色々頭をふり尾を縮め、蟠(わだかま)り延(のび)て品々なしけるが、不離(はなれず)。日も暮んとせし頃、蛇甚(はなはだ)よはりて、永くなり居(をり)しが、終(つひ)に蛇は斃(たふれ)て、田螺は終に水中へ落ち入りて、理運なりしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。動物――標題とこの時代の博物学で言うなら――「蟲類」奇譚であるが、最新の噂話(実話らしき話)として読める(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae に属するタニシ類で本来の国産種は通常は五センチメートル以下であるが、大型個体もいる。噛まれたのは「下腮」とあるが、舌を挟まれたとする方がリアルかとも思われる)点で巻之六の中では着目すべき話である(但し、田螺を採餌しようとした蛇が、何らかの急性疾患によって激しく悶え苦しみ、衰弱、遂に田螺を銜えたままに力尽きて死んだ――即ち、七転八倒の様態は田螺に噛まれた結果ではない――とする方が理には適っているかも知れない。御存じの通り、古代の「漁夫の利」から近代の大型の貝類の挟まれて溺死するという都市伝説まで、この手の話は枚挙に暇がない。しかし、だからこそ糞真面目に考察してみる価値がない、とは言えまい。科学的論理的考察とは時に人には退屈で糞にしか見えぬものである)。冒頭「文化の初秋」とあることから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の、まさに直近に記載であることが分かる。本巻中でも最もホットな話柄である(次の第二話「又」の話柄の冒頭「右同時七月八日」というクレジットにも注目!)。

・「石川氏」表記が異なるが、恐らく高い確率で次の第二話「又」に登場する「石河(いしこ)壹岐守」(次話注参照)のことを指していると私は思う。その冒頭に「同時」とするのは、この二つの話が同時に齎されたことを意味しており、そこでたまたま「石川」氏とは異なる「石河(いしこ)」氏絡みの、極めて酷似した事件が起こるというのは、これ、ドラマの「相棒」みたような噴飯偶然だらけで、リアルじゃあ、ない、と思うのである。……いや……実は、この二つの話がデッチアゲの都市伝説であることを、その微細な奇妙な違い(逆に妙に似ている)部分でそれとなく示そうとする悪戯っぽい原話の創作者や伝承者たち(創作元は根岸ではないが、伝承者として無意識にその役割を担っている)の魂胆ででも、あったのかもしれない。

・「理運」「利運」とも書く。幸運。

・「一尺四五寸」約四二センチメートル強から四五センチメートル強。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事

 

 文化元年の初秋のこと。

 石川氏の親族の家に池があった。

 田螺が蓋を開けて水の中にゆっくらと泳い御座ったが、そこへ一尺四、五寸もあろうかという蛇が現われ、その田螺を喰はんとするものと見えて、蓋のところへ口吻をもっていったところが、田螺が急に蓋を閉ざしたゆえ、蛇は下腮(したあご)を銜え込まれてしもうた。

 蛇はひどう苦しんで遁れようと、激しく頭を振ってみたり、尾をきゅっと縮めてみたり、田螺を内側に蟠(わだかま)ってみたり、逆にべろり延びてみたりと、いろいろなことを試みておったが、一向に離れず。

 日も暮れようとした頃には、蛇、これ、甚だ衰弱致いて、池の端にだらりと身を横たえて御座った。

 見ておると、遂に蛇は――死に絶えて動かずなった。

――と――

 田螺はやっと蓋を緩め、池の内へと落ち入って、恙のう生き延びて御座った……とのことで御座る。

 

 

  又

 

 右同時(おなじきとき)七月八日の事なりし由、石河壹岐守屋鋪(いしこいきのかみやしき)にて、是も小蛇成(なる)が、草鞋蟲(ざうりむし)といえる小蟲をくらわんとせしが、是も其所(そこ)をさらず、蛇の舌につき居(ゐ)て終(つひ)に死せし由。わらぢ蟲もともに死せしをまのあたり見し人の、語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:小虫大虫を殺す奇譚で、「蛇の災難」の二連発、恐らく同一(「石川」=「石河」)ソースの動物都市伝説。前話注で述べた通り、異例のクレジット入りのホット・ニュース!

・「七月八日」文化元(一八〇四)年七月八日(西暦に換算すると一八〇四年八月十三日になる)。「耳嚢」で、しかも噂話や都市伝説の類いで日付までクレジットされるというのは、これ、極めて珍しい。

・「石河壹岐守」岩波版長谷川氏注に従えば石河貞通。寛政一〇(一八〇〇)年に御小性番頭とする。これは底本の鈴木氏も同じ同定であるが、そこでは『イシコ』と本姓を訓じている(長谷川氏は本文で同じく『いしこ』とルビを振る)。石河貞通という人物、下総小見川藩の第六代藩主で小見川藩内田家九代の内田正容(まさかた)なる大名のウィキの記載中に、正容が、寛政一二(一八〇〇)年八月十三日に、『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれ』たという記載があり、年代的に見ても、この伊東長丘(備中岡田藩第六代藩主)五男石河貞通と本文の「石河壹岐守」貞通とは同一人物の可能性が高いように思われるが、如何?

・「草鞋蟲」一般には甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目ワラジムシ科ワラジムシ Porcellio scaber 及びその仲間の総称。ウィキの「ワラジムシ」によれば、現生種は約一五〇〇種が知られ、その内の一〇〇種ほどが本邦に棲息するとされているが、実際には国内種は四〇〇種ほどもいる、とも言われているとある。なお、誤解されている方も多いと思われるので注しておくと、触れると球形になって防禦姿勢をとる通称ダンゴムシ、ワラジムシ亜目オカダンゴムシ科オカダンゴムシ Armadillidium vulgare と、このワラジムシ Porcellio scaber とは異なる種である。しかも、ウィキの「ダンゴムシ」の記載から、本文の「草鞋蟲」はオカダンゴムシ Armadillidium vulgare である可能性は低いように思われる。何故なら、我々がしばしば家屋の周囲で目にするところの『オカダンゴムシは、元々、日本には生息していなかったが、明治時代に船の積荷に乗ってやってきたという説が有力である。日本にはもともと、コシビロダンゴムシという土着のダンゴムシがいたが、コシビロダンゴムシはオカダンゴムシより乾燥に弱く、森林でしか生きられないため、人家周辺はオカダンゴムシが広まっていった』とあるからである(この記載中の「コシビロダンゴムシ」というのはワラジムシ亜目コシビロダンゴムシ科セグロコシビロダンゴムシ Venezillo dorsalis のことを指しているように思われる)。――以下、私のクソ考察。――但し、この石河氏の屋敷の傍に林があり、そこから虫に噛まれたまま蛇が屋敷内に侵入したとすればセグロコシビロダンゴムシの可能性が全くないとはいえない。しかし、ワラジムシやダンゴムシの類は、よく見かける種で一二センチメートル程、大型種でも二センチを超えるようなものは少ないと思われ、蛇の舌先に喰らいついて死に至らしめるような口器を腐植土などの有機物を餌としている彼らが持っているとは思われない。とすれば、先の田螺のケースと同様、何らかの蛇の内臓疾患や、猛禽類などの天敵による致命的打撲損傷(開放性の外傷が他にあったのでは、この話は成立しないと思われる)、若しくは強毒性の植物か茸などを蛇が誤って摂餌した結果、衰弱して斃死した際、たまたまそこで死んでいたワラジムシが、その口刎部に附着した、それを見た人間がワラジムシが蛇を噛み殺したと誤認した、というのが事実ではなかろうか?

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事 その二

 

 先とほとんど同時期の話で、日附も本文化元年の七月八日のことであったと申す。

 石河(いしこ)壱岐守貞通殿御屋敷にて、これも前話同様、蛇――但し、こちらは小蛇であったとのことであるが、草鞋虫(ぞうりむし)と我らが呼んでおるところの、あの小虫、これを、その蛇が喰らわんしたところ、これも、蛇の舌先に逆に喰らいついて、いっかな、離さぬ。

 舌に喰いつかれたたまま、蛇は、これ、遂に死んだと申す。

 草鞋虫もともに死んでおるを、目の当たりに見た人の直談で御座る。

鬼城句集 春之部 烏の子

烏の子  つながれて黑々育つ烏の子

一言芳談 一二一

   一二一

 

 聖光(しやうくわう)上人云、辨阿(べんあ)は、助け給へ、阿彌陀佛と心にも思ひ、口にもいふなり。

 

〇辨阿、聖光上人なり。

〇助け給へ、云決答、先師定言云、助給阿彌陀佛、云々。或時、予示云、凡諸佛習、有最要一言。善導本願往生、惠心困明直辨也。辨阿助給阿彌陀佛心思口云也。實哉、此言。賢哉、此心。仰顧先師口決、落涙千行也、云々。助給思、滅罪邊籠、生善邊收。出離方寵、往生方收。本願至心信樂、彌无疑殆者歟。

 

[やぶちゃん注:漢文の句読点は一部、Ⅰに従っていない箇所がある。

「聖光上人」「三十三」に既注。浄土宗鎮西派(現在の浄土宗)の祖弁長。弁阿は字、聖光は房号。現在は「べんな」と読んでいるが、これは後の音の転訛であろう。

「云決答……」以下の漢文をⅠの訓点を参考に私なりの書き下し文を示す。

「決答」に云ふ、『先師の定言(ぢやうげん)に云はく、「助け給へ、阿彌陀佛。」と云々。或る時、予に示して云はく、「凡そ諸佛の習ひ、最要(さいえう)の一言(いちごん)有り。善導は『本願往生』、惠心は『困明直辨(こんめいじきべん)』なり。辨阿は『助け給へ、阿彌陀佛』と心に思ひ、口に云ふなり。實なるかな、此の言。賢なるかな、此の心。仰いで先師の口決を顧(かへりみ)るに落涙千行なり。」と云々。「助け給へ」と思へば、滅罪の邊(へん)も籠(こも)り、生善(しやうぜん)の邊も收(をさ)まる。出離の方も寵り、往生の方も收まる。本願の至心信樂(ししんしんげう)、彌々(いよいよ)疑殆(ぎたい)無きをや。』と。

因みにⅡの注(訓読文で示されている)では、「凡そ諸佛の習ひ」の「諸佛」を「諸師」とする(Ⅱが正しいか。恐らくは原典「決答授手印疑問鈔」が「諸佛」であるので、森下氏が訂したものであろう。意味上では問題はない)。

●「決答」聖光の法嗣であった良忠の記した「決答授手印疑問鈔」(正嘉元(一二五七)年)のことであろう。

●「困明直辨」不詳。「困明」は混迷と同義で、「混乱して分別に迷ったただ中で素直に語る」という謂いか。識者の御教授を乞う。

●「本願の至心信樂」「至心信樂」は真心を以って仏を信じ願うという意で、これは浄土教の根本命題とするところの彌陀の四十八誓願第十八誓願(本願)中の言葉である。

●「疑殆」疑いあやぶむこと。]

2013/03/22

人魚 火野葦平

   人魚

 

 草の葉に卷かれた生ぐさい一通の手紙を、私はひらく。

 

        ―――――――――――――――――――――

 

 あしへいさん。

 また、お手紙さしあげます。先便では失禮いたしました。小説「昇天記」を送つたりなどして、あはよくば芥川賞をと考へたわけでしたが、あとで赤面する思ひをいたしました。もう二度と小説などかかうといふ野心はおこさないことにしました。したがつてこんどは新作ができたから見てくれなどといふのとはちがひます。どうぞ、あのことはお忘れください。

 さて、けふはどうしてもあなたにお話しをして、御意見をうけたまはりたいことがありますので、とつぜんお手紙をさしあげるわけです。實はぢきぢきに參上してお話し申しあげるとよいのですが、あの日以來(どの日なのか、それはあとでお話ししますが)頭痛がして起きられませんので、手紙で失禮いたします。ずきんずきん蟀谷(こめかみ)がうづき、頭の皿の皮がつつぱつてしめつけられるやうで、この手紙をかくこともやつとの思ひです。したがつて頭も混亂してをりますし、文脈もみだれ勝ちになると思ひますけれど、なにとぞ御寛恕(ごかんじよ)くださいますよう。わたしがこんな無理をしてまであなたに手紙をかくわけは、わたしの現在のなやみを一日もはやく解決したいのと、そのわたしのなやみといふのはあなた以外にはわかつてくださるまいかと思ふからです。われわれ河童にたいして、あなたほど深い愛情と理解とを示してくれるひとはほかにありませんし、わたしのいまの奇妙ななやみも、あなたなら解決してくださるやうに思ふのです。おいそがしいでせうが、まづ、ひととほりおききください。

 一週間ほど前のことでした。夕ぐれどきになつて、わたしは棲んでゐる山の池を出て、ぶらりと海岸の方へ行きました。わたしはぶしやう者で、めつたに外出をしたことはなかつたのですが、その日はなぜともなくふと久しぶりに波の音がききたくなつて、海の方へ出かけたのです。もう秋のちかいころですから、たそがれどきになると、ひやりとした風が吹くやうになつてゐて、わたしの棲んでゐる池のおもてに散る木の葉のいろも、季節のうつりかはりをあらはしてゐました。わたしが波の音をききたくなつたといふのも、單調な池の底にあつて、やはり海にひろびろとした秋の氣配をさぐりたくなつたのかも知れません。そんな瓢然(へうぜん)とした思ひが、わざはひとなつて、現在こんな苦痛をなめなくてはならなくなるといふことが、そのときにどうしてわかりませう。

 あまり遠くはないので、まもなくわたしは渚(なぎさ)ちかくへ出ました。まだすつかり陽はおちてゐずに、水平線のうへにうづくまりかさなりあつた鰯雲(いわしぐも)はまつ赤に染まり、雲と雲とのすきまから、金色の放射線が紺碧の中天へつきささるやうにのびだしてゐます。すみきつた濃い藍(あゐ)のいろにひろがつた海ははるかのかなたまで鷹揚(おうやう)なうねりをたたへ、しづかに渚にうちよせ、うちかへします。銀線の曲折をながながとつづかせて、白砂の濱の波うちぎはは眼のとどかぬところまでかすんでゐます。ここの海は荒れることで有名なのですが、風がなければ、こんな靜かなときもあるのでせう。さらさらと竹林のさやぎに似た波の音がこころよく耳にひびいてきます。

 ところが、防風林の砂丘をこえたとき、わたしはたちすくんでしまひました。濱邊には人かげもなく、鷗(かもめ)が二三羽とんでゐるほか海上にも一隻の舟のかげも見えなかつたのですが、ふと渚ちかくになにか白く光るもののあることがわたしの眼にはいつたのです。二町ほどもはなれてゐたでせうか。その白いものはうらよせかへす波にもまれただよつてゐるやうですが、なになのかはじめはわかりませんでした。わたしは、いつたんこえた砂丘をあとがへり、防風林の裏をまはつて、その白いものを正面に見ることのできる位置へ移動しました。きうして、大きな松のかげに身をひそめて、そつと顏をだしました。かるい叫びがおもはず出て、わたしの眼はその白いものに釘づけになりました。

 波にただよつてゐるのはひとりの人間の女でしたが、そのうつくしさはなんにたとへればよいでせう。とてもわたくしにはその女のうつくしさをあなたにつたへる筆をもちません。年のころは十七八かと思はれますが、一絲をもまとはぬ裸身で、すきとほるやうに白い肌はあたかも大理石のやうになめらかに光つてゐます。どこひとつ角ばつたところのないなだらかな身體の曲線は、縱横にうねりまじはり、ぷつとふくらんだ二つの乳房のさきにある薄桃いろの乳首が、紅玉(こうぎよく)をちりばめたやうにみえます。ゆたかな顏、弓なりの眉、ながい捷毛(まつげ)のしたにある二重まぶたのすずしい眼、端正な鼻、二枚のはなびらのやうな唇、わたしが畫家であつたならば、生命をかけてでもかきたいと思ふやうなうつくしい顏です。ときほぐされたながい漆黑(しつこく)の髮はその白い身體になだれまつはり、その女が波にただよふときには、海藻のやうに水面にうきます。女は夢みるやうな眼をして、夕燒の空をあふいだり、はるかの水平線をながめたり、鷗のとぶあとを眼で追つたり、防風林の方を見たりします。わたしは自分のはうに顏がむくとはつとして首をひつこめました。

 それにしても、この女はなにものでせうか。もう海の水もつめたいことでせうに、いつかう氣にしてゐる樣子もなく、たのしげに波にただよつてゐるさまはまつたく海と同化してゐるみたいで、海が自分のすみかのやうにさへ感じられます。わたしはあたりを注意してみましたが、どこにも着物をぬいでゐる樣子がありません。家とてふきんには一軒もないのですから、家から裸のままできたとも思はれないのです。不思議なことに思つてゐるうちに、わたしの疑問はまもなく氷解いたしました。女は渚からあまり遠くないところで波に浮いたりしづんだりしてゐましたが、ふとこれまでは見なかつた身體の下半分がちらと波のうへにあらはれました。わたしはさつきからまつ白いふくらはぎを想像してゐたのですが、波のうへにあらはれたのは鱗(うろこ)につつまれた魚の尻尾で、ああ人魚だつたのだとはじめて悟つたのです。さうとわかればきつきからのさまざまのこと、海と同化してゐるやうなたはむれのありきまなども當然のこととわかります。人魚といふものは話にだけきいてゐましたので、わたしはさらに好奇心をそそられ、つひに、姿をかくして、人魚のかたはらにちかよりました。わたしたちが必要に應じて姿を消すことのできることは、あなたも御承知のことと存じます。わたしは姿を消すと、人魚にちかづいてゆき、波のなかにもぐりました。

 人魚はさういふことは知りませんから、前とすこしもかはらずに、うねりにつれて波のうへをただよひ、やがてなにか歌をうたひはじめました。その聲はあまり高くはありませんでしたが、風鈴(ふうりん)が風にそよぐやうにすずしい聲で、波のうへをながれてゆきます。高くひくく抑揚(よくやう)をつけてうたふのですが、もとよりわたしは歌の意味などわかるはずもありません。ただそのたえいるやうなしらべにうつとりとなるばかりです。水中にもぐつて人魚のまはりをめぐつてゐますと、うたふたびにかすかに胸がふくらんだりちぢんだりし、二つの乳房が息をしてゐるやうにふるへます。腰から下は鱸(すずき)によく似たこまかい鱗におほはれ、そのびいどろのやうないろの鱗は一枚々々みがかれたやうにつやつやしく、うごくたびにきらつきらつと光ります。扇がたにひろがつた尾は梶をとるやうにものやはらかにくねり、ときにはげしくうごいて人魚のからだを急激に推進させます。ときに人魚のからだは夕燒雲のいろを吸ひとるやうにうす紅にそまり、人魚がもぐりますと、長い黑髮が水中にみだれよつて、昆布(こんぶ)がゆらぐやうに妖しいうごきかたをします。人魚のからだのまはりに生まれた水泡が眞珠の玉をまきちらすやうにくるくると舞ひあがります。

 わたしはかういふ人魚の姿態にみとれながら、いつか切なく胸くるしい思ひにとらはれてをりました。人魚があまりにうつくしすぎるからです。わたしはたびたびなめらかな人魚の肌に手をふれたい衝動にかられ、ふつくらとした乳房をくはへてみたい慾望を感じました。また黑髮の林のなかにもぐつたり、腰のうへに馬のりになつてみたいなどとも考へました。しかし、わたしはまるで射すくめられたやうになにをすることもできず、かなしさに泣きたい思ひがしてきたのです。わたしはわたしのみにくさがたまらなくなつて、羞恥のおもひにもはや長くそこにゐることすらつらくなつてきました。河童とうまれた宿命をこれまでいちどもくやんだことはなかつたのですが、このときになつて自分のうけてきた血の宿命をうらむこころがわいたのです。靑みどりいろの身體、毛ばだつた頭髮とそのまんなかにある皿、背の甲羅、みづかきのある手足、とがつたくちばし、さういふ一切のものがすべてきたならしく、けがらはしいもののやうに、嫌惡の感情をもよほしてきました。河童としてこれまでもつてゐた衿侍などはあとかたもなく消えてしまひ、わたしは自分の不運をかこつこころさへ生じて、切なくかなしくなりました。わたしの愚かさをわらつてください。もはやもつてうまれた絶對の宿命として、河童として生きる以外のどのやうな生きかたもできないことがわかつてゐるのに、わたしはそのとき、なにかの奇蹟があらはれて、ふつと人魚にうまれかはることがあるのではないかといふやうな、途方もない妄想に瞬時とらはれてゐたのです。さうしてわたしのからだをふりむいてみて、やはり河童であること知つたときには、かなしみといきどほりで、みづからのからだをうちくだきたいやうな狂ほしい思ひにかられました。すると、わたしをこのやうな悲歎におとしいれた人魚へいきどほりのやうなものがわいて、ふと憎惡の思ひで、人魚をながめましたが、わたしのその思ひなど、たちまちふきとんでしまひました。このやうにうつくしいものをどうして憎むことなどできませうか。わたしの心の變化などはすこしも知らない人魚は、相かはらず白いからだを光らせ、鱗をきらめかせてはおよぎ、眞珠の玉につつまれながら水中にもぐつたりします。わたしもやがてあきらめるこころが出てきて、身のほどしらぬ自分の見榮坊をわらふ餘裕も生じ、ただ人魚のうつくしさのみをたのしむゆとりができました。

 夕燒雲がしだいに茜(あかね)いろをおとしてゆき、海上には夜をまねくたそがれのけはひがながれはじめました。すると、これまではただたのしげにうたつたり泳いだりしてゐました人魚の樣子がにはかに變りました。うつとりしたまなざしが消えて、急になにかをさがすやうなせはしげな眼になりました。これまでのやうな波にたはむれてゐる風情がなくなり、人魚は用事を思ひだしたやうに、水中をあららこちらと眼を八方にくばつて泳ぎはじめました。わたしにはその變化の理由がわかりませんでしたので、ひよつとしたらわたしのゐる事に感づいて、そのあやしいものを探してゐるのではないかとひやりとしました。姿のみえない確信はもつてゐるのですが、むかふも化生(けしやう)のものですから、どんな祕法をこころえてゐるかもわからないし、わたしはすこし遠ざかつていつも逃げられるやうに警戒はおこたらなかつたのです。

 ところがさういふわたしの解釋は杞憂(きいう)にすぎなかつたことがすぐにわかりました。すこし沖に出て、てんぐさ、みるめ、昆布などの海草がしげり、赤い星のやうな人手が、岩のあひだによこたはつてゐるところで、人魚はいつぴきの鯖(さば)をとらへました。それまで、海中に群れてゐた多くの魚たちは人魚が突進してくると、木の葉をふきちらすやうにして逃げてしまつたのです。鈍重ないつぴきの鯖がたうたう人魚につかまりました。すると人魚は鯖の頭と尾とを兩手につかんで、いきなり口にもつてゆきかぶりつきました。そのときのわたしのおどろきを想像してください。わたしはあつけにとられて、ぼかんと口をあけたまま、人魚のそのはしたない動作を見つめてゐました。人魚が急に用事ありげに泳ぎだしたのは、空腹を思ひだしたからだつたのです。人魚はその鯖をむしやむしやと食べてしまひますと、のこつた頭と骨とを投げすてました。さうしてさらにつぎの餌をもとめてまたけはしい眼つきで泳ぎだしました。これまでうつとりとした眼にすんでゐた瞳にはなにかいやしげないろが浮かび、あちらこちら魚を追ひまはす姿は、うつくしいだけにざんにんな不氣味さをはなちます。またとらへられたいつぴきの縞鯛(しまだい)が人魚の食膳にのぼりました。ほくそ笑んでむしやむしやと生身(なまみ)の魚をかじる人魚の口は、耳まで裂けてゐるやうにみえました。人魚はかうして貪婪(たんらん)にひかる眼つきをしてしきりに魚をとらへて食べましたが、つひに、巨大な昆布の林のなかにはいつていつて、そこへ脱糞をこころみました。尻尾にちかいところから黄いろくながいものが繩のやうにいくすぢもおしだされてきて、ちぎれるとながれにつれて底の方へしづんでゆきます。さうしながら人魚は口では魚を嚙んでゐるのです。

 もはやわたしは見るにたへなくなつて、匇々(そうそう)に海を出、重いこころをいだいて、山の池にかへりました。さうして、その日からわたしはえたいのしれぬ懷疑にとざされ、頭痛がしてきておきあがれなくなつてしまつたのです。

 あしへいさん、

 わたしの經驗したことといふのは以上のやうなことですが、あなたはどう思はれるでせうか。わたくしはうつくしさといふものに對する疑念が生じたのです。うつくしきを思ひ、うつくしきにあこがれる心は日ごろからわたしたちにあるわけなのですが、しからばそんなわたしたちを滿足させるやうなうつくしいものが實際にあるだらうか。人魚をはじめ見たときには、わたしはそのうつくしさに身ぶるひがし、日ごろの念願が達しられたよろこびにふるへたのです。ところがその人魚は、のちにはそのはしたないありきまでわたしをおどろかし、せつかくのわたしのよろこびを木つ葉みぢんにうちくだいてしまひました。昆布の林で脱糞したときの人魚ののうのうとした表情、あられもない女だてらの動作にすこしの羞恥をしめさない無智、それはわたしに一種のおそれをすらいだかせました。わたしははたして人魚がうつくしいかどうか、その日から考へはじめてたうとう病氣になり、わからなくなつてしまつたのです。

 人魚はうつくしいのですか。みにくいのですか。どつちですか。

 わたしはもう二度と海岸へ出まいと決心しました。しかしまたあの渚での濃艷な姿態が眼に浮かんできて、出てみたい誘惑にかられます。あのうつくしい姿はわたしの網膜にこびりついてしまつてはなれません。さうしてあとの半分をわすれてしまはうと必死の努力をしてみるのですが、あせればあせるほどその方もいつそうつよく浮かんできて、これも燒きついたやうに消えません。わたしはどうしたらよいのですか。この同じ人魚の二つのことなつた姿のどちらを信じたらよいのですか。どうぞ、わたしに教へてください。

 

        ―――――――――――――――――――――

 

 あしへいさん。

 御返事ありがたうございました。おいそがしいのに、さつそく返事をいただいて恐縮しました。しかし、あなたの手紙はわたしをおどろかせました。あなたは人魚のことはそつちのけにして、わたしのことばかり、かいていらつしやる。

 ――うつくしさをもとめ、うつくしさをうたがふ心、人魚がはんたうにうつくしいかどうかについて眞劍になやみ、たうとう病氣にまでなる心、その君のはうが人魚よりもよつぽどうつくしい。

 こんな一節がある。なにをいつてるんです。そんなことは聞きたくない。

 わたしはまもなく死にます。この手紙をかいてゐても手がふるへ、だんだん弱つてゆくのがわかります。もう頭の皿の水もひからびてしまつて、しめつけられるやうにいたいのですが、しかしいまわたくしはふしぎなよろこびにとざされてゐます。かういふ死にかたをすることは滿足です。

 わたしは、やつぱり人魚のうつくしさを信じることができるやうになりました。人魚はつねにうつくしい。なにもうたがつてみることなんてすこしもなかつた。さうしてそのうつくしい人魚を見たことをわたしはほこりとし、わたしの一生を人魚にささげて悔いのない思ひになりました。あなたもその人魚を見たいと思はれますか。きつと思はれるでせう。しかしけつしてごらんにならないやうにわたしはすすめます。つまり人魚のうつくしさのみに一生をささげて悔いないやうな御覺悟が、あなたにあるかどうか疑はしいからです。

 あの日以來、わたしは病氣になりましたが、それはわたしの懷疑となやみからきたものではありませんでした。あなたがいふやうに、病氣になるほどなやんだなんてことではなかつたのです。なにをおつしやる。あなたにほめてなんか貰ひたくない。わたしが病氣になり、死ななければならないのは、單なる傳説の掟にすぎないのです。はじめ、わたくしはそれを知りませんでした。この前の手紙のときにはまだ知らなかつたのです。見舞ひにきた古老が、わたくしにそのことを教へてくれました。つまり人魚を見たものは死ななければならないのです。これはゆるがすことのできない傳説の掟でした。どうしてそんな殘酷な掟ができたのでせうか。なにもわざわざ見にゆくわけでもなく、ふとゆきずりに出あふにすぎないのに、どうして死をもつて罰せられなければならないか。祕密をのぞかれた人魚の復讐であらうか。しかしながら死を眼前にみて、わたくしはその意味をはつきりと知ることができます。わたしがいまよろこびをもつて、この復讐をうけいれてゐることを申しあげれば、あなたにはすべてがおわかりでせう。

 いや、あなたなんかにはわかるまい。あなたはまたいふにきまつてゐる。うつくしさに殉じて悔いない君のはうこそ、人魚よりよつぽど美しいなんて。

 ああ、あなたもその人魚をいちど見るとよい。さうすればそんな馬鹿なことはいはなくなるにちがひない。道を教へます。ここに地圖をいれておきます。ときどきはきつとあらはれるにちがひないと思ひますから、なるだけ風のしづかな日のたそがれどきに、そこへ行つてごらんなさい。

 もう手がしびれてきました。眼さきがくらくなつてきました。たれかが呼んでゐるやうな氣がします。眠るやうな、夢みてゐるやうなよい氣持です。ではおわかれいたします。さやうなら。

 

[やぶちゃん注:中間よりやや後ろの段落「夕燒雲がしだいに茜(あかね)いろをおとしてゆき、……」の段落冒頭の「夕燒雲」は底本では「夕燒雪」。誤植と判断して勝手に訂した。]

北條九代記 熊谷小次郎上洛 付 直實入道往生 竝 相馬次郎端坐往生

      ○熊谷小次郎上洛  直實入道往生  相馬次郎端坐往生

熊谷(くまがへの)小次郎直家(なほいへ)は次郎直實が嫡子なり。然るに直實は、子細に依て發心して東山の麓黑谷に籠り、源空上人の弟子と成り、専修一心の念佛行者と成りにけり。初め平家追討の時、一の谷の先陣として、武勇の名隱(かくれ)なく、その子直家又忠戰(ちうせん)の勳功あり、父が名跡(みやうせき)相違なく下され、武蔵國にありけるが、承元二年九月に、父直實入道、使を下して、「來十四日には、黑谷にして臨終を取るべし。早く上洛せしめよ」と告げたりければ、小次郎直家、是を見訪(みとぶら)はんが爲に京都にぞ上りける。この事、鎌倉の御所に披露あり。奇代(きたい)の珍事、是ならん。豫て死期(しご)を知る事は、權化(ごんげ)にあらずは、疑(うたがひ)あるに似たり。直實入道蓮生(れんしやう)に於ては世の塵勞(ぢんらう)を遁れて一心に淨土を欣求(ごんぐ)し、念佛三昧(まい)を事とす。積年(しやくねん)修行の薫習(くんじゆ)高(たか)ければ、定(さだめ)て奇特(きどく)を現(あらは)さんものか、相馬〔の〕次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑(うたがひ)なしとて、結緣(けちえん)の緇素(しそ)、集りて拜みけり。是に合せて念佛の利益、疑ふべき事ならずと、評定、區々(まちまち)なりける所に、東(とうの)平太重胤、京都より下向して、御所に參りて洛中の事共を申す中に、熊谷次郎直實入道、九月十四日、未刻(ひつじのこく)を以て臨終すべき由、洛中に相觸れたり。其日、既に時刻に當つて、結緣の道俗、東山黑谷の草菴に集ひて、幾千萬とも數知らず。既に時刻に成て、蓮生入道、袈裟を著(ちやく)し、禮盤(らいばん)に昇り、端坐合掌して高聲(かうじやう)に念佛し、その聲と共に、臨終を遂げたり。豫て聊(いさゝか)も病氣なし。頗る奇特(きどく)の事なりと申しけり。蓮生入道が子息直家、その跡を取(とり)納め、鎌倉に歸(かへり)參り、言上せし趣(おもむき)、東〔の〕平太が申すに違(たが)はず、皆、感信(かんしん)を催されけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元二(一二〇八)年九月三日及び十月二十一日と、相馬の往生は先立つ巻十八の元久二(一二〇五)年十一月十五日の条に基づく(以下に見るように、本文は広元の直実の死の予告への感慨の直接話法とこれを巧みに繋げて地の文としている)。私の大好きな熊谷直実蓮生の往生譚である。しかも役者もこれ以上のものはない(しかも「吾妻鏡」に記された事実とされる出来事である)。父の極楽往生に京へと向かう直家は、まさにかの寿永三(一一八四)年二月の一の谷の戦さで、直実が組伏した少年平敦盛の面影に見た嫡男である。そうしてそこで心ならずも敦盛の首を搔き切った瞬間、直実の心に無常の観念と仏道への帰依が深く萌したのである。この一連の熊谷直実発心往生譚を私は映像に撮ってみたい激しい欲求にかられるのである。九月三日及び十月二十一日の条を纏めて見る(間には実際には記事がある。また、二十一日の記事の後半は東重胤(とうのしげたね)による朱雀門焼亡の報告であるが、省略した)。

〇原文

(九月)三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薰修。仰而可信歟云々。

(十月)廿一日丁亥。東平太重胤〔號東所〕遂先途。自京都歸參。即被召御所。申洛中事等。先熊谷二郎直實入道。以九月十四日未尅可爲終焉之期由相觸之間。至當日。結緣道俗圍繞彼東山草庵。時尅。著衣袈裟。昇禮盤。端坐合掌。唱高聲念佛執終。兼聊無病氣云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

(九月小)三日庚子。陰る。熊谷小次郎直家、上洛す。是れ、父入道、來たる十四日、東山の麓に於いて終はりを執(と)るべきの由、示し下すの間、之を見訪(みとぶら)はんが爲と云々。

進發の後、此の事、御所中に披露す。珍事の由、其の沙汰有り。而るに廣元朝臣云はく、

「兼ねて死期(しご)を知る。權化(ごんげ)に非ずんば、疑ひ有るに似たりと雖も、彼の入道、世塵を遁るるの後、浄土を欣求(ごんぐ)し、所願堅固にして、念佛修行の薰修(くんじゆ)を積む。仰ぎて信ずるべきか。」

と云々。

(十月大)廿一日丁亥。東(とうの)平太重胤〔東所(とうのところ)と號す。〕先途を遂げ、京都より歸參す。即ち、御所に召され、洛中の事等を申す。先づ、熊谷(くまがへの)二郎直實入道、九月十四日未の尅を以つて終焉の期(ご)たるべき由、相ひ觸るるの間、當日に至りて、結緣(けちえん)の道俗、彼の東山の草庵を圍繞(ゐねう)す。時尅に、衣・袈裟を著し、禮盤(らいばん)に昇りて、端坐合掌し、高聲(かうじやう)に念佛を唱へて終はりを執る。兼ねて聊かも病氣無しと云々。(以下略)

・「熊谷小次郎直家」(仁安四・嘉応元(一一六九)年?~?)熊谷直実長男。治承・寿永の乱に父の直実とともに加わり、一ノ谷の戦いに参加、この時は父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入、平山季重ともども討死しかけている(彼はこの時、矢に射抜かれ深手を負っており、直実はその仇討ちと勢い込んで、眼に入った若武者敦盛に挑んだのであった)。文治五(一一八九)年の奥州合戦では、頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されている。建久三(一一九二)年、父直実が大叔父久下直光との所領訴訟に敗れて驚天動地の逐電出家をするに及んで家督を相続、父祖以来の武蔵大里郡熊谷郷を領した。承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍として出陣し、活躍するが、嫡子直国が宇治・瀬田に於いて山田重忠らと戦い、討死にしている。墓所は現在、埼玉県熊谷市の熊谷寺にあり、父母の隣に眠っている(以上は主にウィキの「熊谷直家」に拠った)。

・「權化」神仏が衆生を救済せんがために、この世に仮の姿となって現れること。権現。化身。

・「東平太重胤」(治承元(一一七七)年?~宝治元(一二四七)年?)実朝の側近。千葉氏の庶流である東氏二代目当主。歌人として定家の門人でもあったと伝える(推定生没年はウィキの「東重胤」に拠った)。

・「未の尅」午後二時前後。

・「禮盤」本尊須彌壇(すみだん)の正面にあり、導師が仏を礼拝したり誦経するために上座する壇。

 

「源空上人」法然。

「相馬次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑なしとて、結緣の緇素、集りて拜みけり」元久二(一二〇五)年十一月十五日の条を引いておく。

〇原文

十五日丁酉。相馬次郎師常卒。〔年六十七。〕令端座合掌。更不動搖。決定往生敢無其疑。是念佛行者也。稱結緣。緇素擧集拜之。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丁酉。相馬次郎師常、卒す〔年六十七。〕。端座合掌せしめ、更に動搖せず。決定往生、敢へて其の疑ひ無し。是れ、念佛の行者なり。結緣(けちえん)と稱し、緇素(しそ)、擧(こぞ)りて集まり、之を拜す。

「相馬次郎師常」(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年十二月二十六日)は開幕期の重臣であった千葉常胤の次男。将門の子孫とされる篠田師国へ養子に入り、相馬を名乗って相馬氏初代当主となった。父と共に頼朝の挙兵に参加、範頼軍に従い、各地を転戦、文治五(一一八九)年九月の奥州合戦で勲功を立て、頼朝より「八幡大菩薩」の旗を賜っている。建仁元(一二〇一)年に父常胤が亡くなった際に出家し、家督を嫡男相馬義胤に譲り、自らは直実同様、法然の弟子となったと伝えられる。その往生は鎌倉の相馬邸屋敷でのことであった(以上はウィキ「相馬師常に拠った)。

「緇素」僧俗。]

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(3)/了


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[同一の種類に属ししかも形狀を異にする働蟻四種]

 

 個體が一個一個に離れながら社會を造つて生活する動物にも分業の行はれて居るものが多い。蜜蜂の如きものでも、生殖を司どる雌蜂・雄蜂の外に、巣の内外のすべての仕事を一手に引き受けて働く働蜂といふものがあつて、個體の形狀が三種類になつて居るが、蟻の類では更に分業が進んで、個體の形狀にも種類の數が殖えて居る。雌蟻・雄蟻の外に働蟻のあることは蜂と同じであるが、働蟻の中にはさまざまの分擔が行はれ形狀の異なつたものが幾種類もある。地面に少し砂糖を散して多數の蟻の集まつて來た所を見ると、顎が非常に大きく、隨つて頭の著しく大きなものが普通の働蟻に交つて處々に居るが、これらは兵蟻というて、特に敵に對して自分の團體を守ることを專門とする働蟻である。また普通の仕事をする働蟻の中に猫と鼠程に大いさの違ふ二組を區別することの出來る種類もある。これらはどこの國でも見かけることであるが、北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種では、働蟻の中の若干のものは、たゞ蜜を嚥み込んで腹の中に貯へることだけを專門の役目とし、生きながら砂糖壺の代りを務める。他の働蟻の集めて來た蜜を幾らでも引き受けて嚥み込むから、身體の形狀もこれに準じて變化し、頭と胸とは普通の蟻と餘り違はぬが、腹だけは何層倍にも大きく膨れて恰もゴム球の如くになつて居る。そして活潑に運動することは勿論出來ぬから、たゞ足で巣の壁に引き掛つて靜止して居るが、その幾疋も竝んで居る所を見ると、棚の上に壺が竝べてあるのと少しも違はぬ。蜜の入用が生ずると、他の働蟻がこの壷蟻の處へ來て、その口から一滴づつ蜜を受け取つて行くのであるから、働に於ても棚の砂糖壺と全く同じである。前に述べた「くだくらげ」の瓦斯袋でもこの壺蟻でも各々一疋の個體でありながら、單に物を容れる器としてのみ用ゐられて居るのであるから、個體を標準として考へると何のために生きて居るのか、殆どその生存の意義がない如くに見える。しかし團體を標準として考へると、かやうな自我を沒却した個體の存在することは、その團體の生活には有利であつて、かやうなものが加はつて居るので全團體が都合よく食つて産んで生存し續け得るのである。團體と團體とが競爭する場合には一歩でも分業の進んだものの方が勝つ見込が多いから、長い年月の間には次第に分業の程度が進んで、終に浮子の代り壺の代りなどを專門に務める個體までが出來たのであらう。

Mitutuboari_4

[壺蟻]

[やぶちゃん注:「北アメリカのメキシコ國に産する蟻の一種」は後掲されるその中の分業化した「壺蟻」の形態から、ミツツボアリ(蜜壺蟻)という和名を持つハチ目ハチ亜目有剣下目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ミツツボアリ属 Myrmecocystus の一種を指しているものと思われる。ウィキアリ」には、『オーストラリアに分布。名の通り花の蜜を採集し、巣の中に待機する働きアリをタンクにして蓄える。タンク役のアリは腹を大きく膨らませて巣の天井にぶらさがり、仲間のために蜜を貯め続ける。蜜を貯めたものはアボリジニの間食用にされる』とオーストラリアに限定的に分布するような記載があるが、私の好きな番組であるNHKの「あにまるワンだ~」の公式サイト内の当該解説には、全長一二ミリメートルで、『オーストラリア、メキシコ北部などの乾燥地に住む。巣に、仲間が集めた花の蜜をお腹に貯めこむアリがいる。仲間は、食べ物が少なくなると、この貯蔵アリから蜜をもらう』とあるから間違いない。属名“Myrmecocystus”の“Myrmeco-”はギリシア語の「蟻」を意味する接頭辞で、“cystus”は植物のマメ目マメ科エニシダ属と同じ綴りであるから、私の推測であるが、まさにこの「壺」担当の蟻のぶら下った姿を、エニシダの総状花序で多数の花を附けているさまに擬えた命名ではなかろうか。グーグル検索の「ミツツボアリ」の画像検索はを……ハデスの美しき宮殿である……

「浮子」は「うき」と読む。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 4

 第三龜谷山壽福寺は實朝の時に建立し、代も先なりけれど十別の位にてありし。後に五山に任ぜられける故に鎌倉五山の第三に列なれり。千光國師開山租たり。塔を逍遙庵といふ。第四山淨智寺は龜山院の文應元年に來朝ありし徑山無準の法嗣兀庵禪師開山租たり。師檀の緣やあさかりけむ、後四年に時賴既に薨じ給ふ。其後禪師は志ありて宋に歸給ふ。附法の弟子心翁禪師南洲宏海和尚歳わかきをもつて、大宋徑山石溪和尚の法嗣佛源禪師大休正念和尚に言を殘し給ふ。故に心翁・佛源兩師を開山に定む。兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ。
[やぶちゃん注:「壽福寺は實朝の時に建立」寿福寺は源頼朝が没した翌年の正治二(一二〇〇)年に、妻の政子が夫の追善のために葉上房栄西千光国師を開山に招いて創建した。
「文應元年」西暦一二六〇年。
「後四年に時賴既に薨じ給ふ」時頼の没年は弘長三(一二六三)年。数えで「後四年」と呼称している。ここに記された浄智寺の開山の経緯は複雑を極める。浄智寺は第五代執権時頼三男北条宗政の菩提を弔うために弘安六(一二八三)年に創建、開基は第十代執権北条師時とされるが、当時の師時は未だ八歳であり、実際には宗政夫人と兄北条時宗の創建になる。以下の開山についても本文にある通り特異で、当初は日本人僧南洲宏海が招聘されるも任が重いとして、自らは准開山となり、自身の師であった宋からの渡来僧大休正念(文永六(一二六九)年来日)を迎えて入仏供養を実施、更に正念に先行した名僧で宏海の尊敬する師兀菴普寧(ごったんふねい)を開山としたことから、兀菴・大休・南洲の三名が開山に名を連ねることとなった。但し、やはり宋からの渡来僧であったこの兀菴普寧は、パトロンであった時頼の死後に支持者を失って文永二(一二六五)年には帰国しており、更に実は浄智寺開山の七年前の一二七六年に没している。沢庵が「兀庵を開山とせざる事は故ありとぞ」には、そうした背景を押さえた叙述である。]

耳嚢 巻之六 尖拔奇藥の事

 尖拔奇藥の事

 

 紀州家の健士、或時魚肉を食し、與風(ふと)咽※(のどぶえ)へ尖(とげ)たち百計すれど不拔(ぬけず)[やぶちゃん字注:「※」は「吭」の最後の七・八画目がそのまま上の(なべぶた)に接合した字体。]。其儘に二三日過(すぎ)しが、後は湯水食事等にも痛(いたみ)ありて甚(はなはだ)難儀せしが、尾陽家の健士と出會(であふ)事ありて右難儀を物語りせしに、某(それがし)奇藥あり、用ひ給ふべしと、懷中の黑燒を與へける故、悦びて早速用(もちゐ)しが、其翌日朝うがひ手水(てうず)せしに、前夜までに事替りて聊(いささか)其尖の憂(うれひ)を不覺(おぼえず)。夫より食事の節、其外にも一向憂なく、一夜の中に拔失(ぬけう)せしとなり。不思議の奇藥と紀州公へも申上(まうしあげ)、其藥施(ほどこ)せし人に尋(たづね)問ふに、尾陽公御法の由。依之(これによつて)御傳(ごでん)を御乞(おんこひ)求めありしに、芭蕉の卷葉(まきば)を黑燒にして用(もちゐ)る由。尤(もつとも)外に加劑(くわざい)もなく、唯(ただ)一味の由。依之予も其法を以(もつて)、黑燒を申付(まうしつけ)し也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の「二尾檢校針術名譽の事」の紀州公連関。先に数多あった民間医薬シリーズ。製剤が簡単だったことと、副作用がなさそうに思えたからか、ここでは珍しく根岸も実際に製したと言っているのが面白い。ただ、その実際に根岸が使用した際の効果が記されていないのは惜しいところ。

・「尖拔」は「とげぬき」。

・「尖(とげ)」は底本のルビ。

・「尾陽家」尾張徳川家。

・「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo。田辺食品株式会社公式サイトの健康と青汁二〇四の医学博士遠藤仁郎氏の記載に以下のようにある。

   《引用開始》

 効能は、一般の青汁と同様だろうが、皇漢名医和漢薬処方には、

「森立之曰く、邪熱、百方效無き時、

 芭蕉の自然汁を服し效ありと聴きて試むに、毎に奇效あり」

(温知医談)。

「水腫去り難き時、芭蕉の自然汁常に奇效あり」

(同)。

 また、民間薬(富士川游著)には、

「腹痛 芭蕉の葉をつき爛らし、

    その汁をとりて白湯にて用ふべし」

(妙薬手引大成)。

「胸痛 心痛たへかぬるに芭蕉葉のしぼり汁、生酒にて用ふ」

(経験千方)。

 などとあって、解熱・利尿・鎮痛の効があるわけだし、トゲや骨のささったものには黒焼がよいらしい。

「簽刺(竹木刺、針刺)芭蕉の若葉を黒焼にして、酒にて服す」

(此君堂薬方)。

「咽喉に骨のたちたるに、

 芭蕉の巻葉を黒焼にし、白湯か濁酒にてのめば、

 鯛の骨なりとも、一夜の間にぬけること妙なり」

(懐中妙薬集)。

 また、中山太郎著、日本民族学辞典には、

「昔は、長病の患者に床ずれが出来ると、芭蕉葉を敷き、

 その上に臥かすと癒るとて用ゐた。

 また、本願寺の法王が死ぬと、その屍体を芭蕉葉に包んだ。

 これは防腐の效験があるので、こうして、遠方から来る門徒に最後の対面を許したという」

(中山聞書。)

   《引用終了》

と、確かに刺抜きの効能が記されてある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 刺抜きの奇薬の事

 

 紀州家の家士が、ある時、魚肉を食し、ふとした弾みで喉笛(のどぶえ)へ刺(とげ)を立たせてしまい、種々の方を尽くしてみたが、これがいっかな、抜けぬ。

 そのままに二、三日ほど過ぎたが、その頃には水を飲むにも食事を致すにも、疼くような痛みがあって、甚だ難儀に陥って御座った。

 そんな折り、ちょうど、尾張徳川家の家士と面談致すことが御座ったが、その談話の中で、かの刺の難儀を物語って御座ったところ、

「某(それがし)に奇薬が、これ、御座る。一つ、用いてみらるるがよかろう。」

と、懐中より何やらん黒焼きに致いた常備薬を取り出だいて呉れた。

 悦んで、屋敷に戻るや、早速に服用致いた。

 その翌日の朝のこと、いつもの通り、嗽・洗面など致いところが――前夜までとは、こと変わって――聊かも――これ、かの刺の痛みも喉(のんど)のゴロゴロも――これ――御座らぬ。……

 それより、食事其の外、これ、一向に不具合、御座らずなった。

 まさに一夜の中(うち)に――かの執拗(しゅうね)き刺――これ、美事、抜け失せて御座った。

「……ともかくも、不思議なる奇薬で御座いまする。」

と紀州公へも申し上げ、その薬を施して呉れた御仁にも尋ね問うたところ、

「――これ、尾陽公の御法(ごほう)にて御座る。」

との由にてあれば、かの紀州家家士、

「――どうか一つ、御製法方、お教え下さらぬか?」

と乞い求めたと申す。

 されば、あっさりと製法が、これ、明かされて御座った。それは、と申すに――

――芭蕉の若き巻葉(まきば)を黒焼きにして用いる

とのこと。

――外に加える生薬なし

――唯だ一味

の由。

 

……されば、私もその法を以って――芭蕉巻葉の黒焼き――これ、申し付へて常備致いて御座る。

中島敦漢詩全集 三

   三

非不愛阿堵
阿堵一無情
阨窮空憫婦
除日嗟咨聲

〇やぶちゃんの訓読

阿堵(あと)を愛さざるには非ず
阿堵は一(ひと)つとして情(こころ)無し
阨窮(やくきゆう) 空しく婦を憫(あは)れむ
除日(じよじつ) 嗟咨(さし)の聲

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「阿堵」金銭の俗称。中国の六朝時代(呉滅亡から東晋成立までの三世紀から六世紀にかけて)および唐代(七世紀から九世紀)には、口語の「これ」という指示語であったが、後に金銭を指すようになった。西晋の王衍(おうえん:清談をよくした貴公子で、従兄弟に竹林の七賢の一人王戎がいる。)が金銭を「これ」と、指示語で忌んで呼んだところからという(「晋書」王衍伝)。
・「阨窮」困苦と経済的逼迫。「阨」は困苦や災難を表わし、「厄」と同音同義。「孟子」の「公孫丑(こうそんちゅう)」に次の句がある。
   *
遺佚而不怨、阨窮而不憫。
遺佚(ゐいつ)されて怨みず、阨窮(やくきゆう)して憫(うれ)へず。
   *
「憫」も用いられていることから判断し、同句を典拠としたものと推測される。当該箇所の下りは、聖人柳下恵(りゅうかけい:周代の魯の大夫。正道を守って君に仕えた賢者として知られる)の態度が、つまらぬ役職についても卑しまず、進んで智恵を提供し、必ず正しい道を歩み、自分が見捨てられても怨まず、困窮に直面しても憂いたりしなかったというものである。必ずしも孟子は全面的に評価してはいないのだが、柳下恵は、いわば無私の心で積極的な行動に臨む聖人である。詩の解釈においては、一歩進めて、詩人自身が柳下恵と自分を密かに重ね合わせているという解釈も許されるかもしれない。[やぶちゃん注:訓読では、「憫(うれ)へず」というマイナーな読みは排して、「憫(あは)れむ」とした。T.S.君の現代語訳を考えても、わざわざ「憫(うれ)へず」と訓ずるよりも素直であると判断したからである。]
・「空」ここでは、「無駄に」「虚しく」の意。
・「憫」哀れむこと、憂うこと。「阨窮」の項の用例を参照のこと。
・「婦」狭義では既婚女性・妻・息子の嫁などを指すが、広義には女性一般を指す。ここは家計をともにする者として、狭義の妻で読むのが自然かと思われる。
・「除日」十二月の最終日、大晦日。もしくは陰陽五行説で何事を行うにも吉であるとされた「黄道吉日(こうどうきちにち)」の中の一日をも指すが、ここでは前者の意であろう。
・「嗟咨」嘆きを漏らすこと、ため息をつくこと。または嘆き、ため息そのものを指す。但し、時に賛嘆の声を指す場合もある。音読みで「サシ」と訓ずる。「咨嗟」としても同義。古来より用例は多い。

○T.S.君による現代日本語訳
金が 嫌いなわけじゃあない
金が 俺を好かないだけさ
わが身の不運と この困窮
妻よ おまえを憐れんでも何にもならぬ
歳の暮れ 身から出るのは ため息ばかり

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 五言絶句の規則通り、第二句と第四句の最終字「情qing2」と「聲sheng1」が脚韻を踏む。一見、意味を取りにくい。しかし鍵となる語を押さえてしまえば、全二十字による織物の糸目は比較的容易に見えてくる。
 難しいのは「阿堵」「阨窮」「嗟咨」だろう。もちろん平仄をも合わせねばならない厳格な定型詩であるから、使用頻度の稀な難解な語を使用せざるを得ぬこともあろう。しかし、なぜこれらの語を選んだのだろう? 私は実にそこが気になった。以下は、そうした私の思惟の過程を再現したものである。お付き合い頂ければ幸いである。……
   ▼
…………「阿堵」は金銭のことだが、直接的な表現を憚る意識が働いて出来た言葉のようだ。そういえば日本語でも金銭を『先立つもの』などと表現するではないか。……物事を直線的に表現しない婉曲な言い方……それなのに、二十文字しかない指定席の五分の一である四文字も分け与えて憚らない……さらに言えば「阿」の字……二回も繰り出されるにしては、字面はあまりよろしくない(と私は個人的に思うのである。この字を名前に使われる方には申し訳ない。他意はない。)……「阿」の字には「迎合する」という意味があって、阿諛追従、「阿(おもね)る」という和訓もまた、頗る印象が悪い。……
 ……それに比べて「阨窮」は一応、正統派ではある。なにしろ、出自が経学の本流である四書の一つ、「孟子」である。……しかし、この全二十字の小さな世界に、この「阨」を配すると、何だか……重すぎるのだ……そもそも……「阨」という字は、これも、見るからに不祥を体現しているように思われてならない……はっきり言えば、不快感を催させる字形……詩意はともあれ、第三句の冒頭を飾るにあまりに禍々しい。……
 ……そして「嗟咨」……受け止める私の問題かもしれないが……この字面と音は如何にも大時代的で……『一向に胸の奥底には届いてこない』嘆きの声なのである。……
 ……詩人は以上のような用語の選択を行って憚らなかった。
 ……詩の出来上がりを玩味した上で、敢えて、この最終形を残した。
 これをどう捉えたらいいのだろうか?……
 この他にも、今一つ、抱かざるを得ない疑問があるのだ。……
 それは……最終句で大晦日を示唆することによる効果である。
 年越しを前に旧年中の借金を返すという日本独特の旧来の習慣は誰でも知っている(但し寧ろ、この禊(みそぎ)と軌を一にする意識は、グローバルには特異的であることは当の日本人に、あまり理解されているとは思われない。閑話休題。)。
 しかし……もし詩人が絶対的な困窮に直面しており、それを真に訴えたいのであれば、ここで大晦日という場面設定を行うというのは如何なものだろう?……
 ……詩人が困窮を語る時――我々は――卑俗卑近な家計や現実生活の経済から遠く離れて語ってもらいたい――商業的営みを示唆するような境地からは隔絶していてほしい――と、無意識のうちに希求してはいないだろうか?……さもないと、漢詩たるものが、あたかも『世話物の端唄のひとくされ』の如きものに堕してしまうように、感じられはしまいか?…………
   ▲
 以上に述べた用語上の不協和音、そして場面設定のせいだろうか、私には『詩人の困窮』なるものが、今一つ、胸に響いてこないのである。
 どうも、この詩人は、真剣に窮状を訴えようとは、していないのではあるまいか?
 私には、いつものように背筋を伸ばした詩人が見えるのである。昔、高校の教科書の「山月記」の終わりに遺影の如く掲げられてあった、例の写真の彼である。
 彼は、いつものように由緒正しい言葉を口にしては、いる。
 しかし、やや斜に構えて、その片方の口元には、ほんの少し、自嘲の苦笑いさえも浮べているのではないか?

 彼はある冬の日、ふと『肩の力を抜いて』、自分の貧窮を詠む気になった――
 そこで漢籍に関する茫洋たる知識の海から、『二三の貝殻を拾い上げた』――
 と――
 諧謔の呟きを込めて『二十片の組み合わせとして定着してみた』――

 実は、ただそれだけのことだったのでは、なかろうか?……
 ……だとしたら……いや……だからこそ……
 恐らくは――完全装甲(フルメタル・ジャケット)で、この詩には対峙しない方がいい。
 全霊を以ってこの詩の世界と格闘しないほうがいい。
 読む者は、決して、きゅっと、息を詰めたりはせずに、変化球を、すぽっと、素直に受け止めればいい。
 もし詩人の書いた次の文章を想起する者がいたら、その人は間違いなく力み過ぎなのである。
『成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と』(「山月記」)[やぶちゃん注:引用は昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「中島敦全集」に拠った。]

……そして、また……

何事(なにごと)も金金(かねかね)とわらひ
すこし經(へ)て
またも俄(には)かに不平つのり來(く)
(啄木「一握の砂」より)[やぶちゃん注:引用は昭和五三(一九七八)年筑摩書房刊「石川啄木全集」に拠った。]

……啄木の無力感と苛立ちの深刻さに比べれば、苦笑いを浮べた、この五言絶句には、まだまだ余裕があるように感じられるのであるが……如何であろう?……

冬 萩原朔太郎

 冬

つみとがのしるし天にあらはれ、

ふりつむ雪のうへにあらはれ、

木木の梢にかがやきいで、

ま冬をこえて光るがに、

をかせる罪のしるしよもに現はれぬ。

みよや眠れる、

くらき土壤にいきものは、

懺悔の家をぞ建てそめし。

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)より。冒頭の「竹とその哀傷」詩群の八番目。この詩には最早、神による「淨罪」はないのではないか? あるのはただ、神なき「懺悔」のみ、なのではあるまいか?]

貘 萩原朔太郎 (「冬」初出形)

 貘

 

あきらかなるもの現れぬ、

つみとがのしるし天にあらはれ、

懺悔のひとの肩にあらはれ、

齒に現はれ、

骨に現はれ、

木木の梢に現はれ出で、

眞冬をこえて凍るがに、

犯せる罪のしるしよもにあらはれぬ。

             ――淨罪詩扁――

 

[やぶちゃん注:『地上巡禮』第二巻第二号・大正四(一九一五)年三月号所載。「扁」はママ。次に示す「月に吠える」の「冬」の初出形である。これが「淨罪詩」篇であり、映像が夢のイマージュのように描かれ、しかも題名が「貘」である時、実はこの悪夢としての一篇は「貘」に食われることを望み、若しくは「獏」に食われることによって昇華するところの、実はまさに「淨罪」の詩篇であった可能性を示唆しているように私には思えるのである。]

つんぼの犬 大手拓次

 つんぼの犬

だまつて聽いてゐる、
あけはなした恐ろしい話を。
むくむくと太古を夢見てる犬よ、
顏をあげて流れさる潮の
はなやかな色にみとれてるのか。
お前の後足のほとりには、いつも
ミモザの花のにほひが漂うてゐる。

鬼城句集 春之部 雀の子

雀の子  雀子や親と親とが鳴きかはす

     雀子や大きな口を開きけり

一言芳談 一二〇

   一二〇

 或人、明遍に問うて云、學問のほど、暫く、念佛の數反(すへん)を減じ候はんと。答へて云、學問は念佛を修(しゆ)せんがためなり。若し數反を減ぜらるべくは、教へたてまつるべからず。

〇學問のほど、學問の隙入(ひまいり)の間なり。ほどとは時節をいふ。
〇數反を減じ候はん、日所作(につしよさ)にて、何萬反(べん)ときはめたる念佛の數を少うすり事なり。
〇念佛を修せんがためなり。歸元直指云、今日有緣得逢佛法。當須究本。莫競枝條。

[やぶちゃん注:「或人」は、「問うて」いる「明遍」本人から、
『もっと教学の「學問」を受けたく存じますによって、「念佛の」する回数を「減じ」ようと思います』
と、如何にもな優等生のもの謂いをしている。明遍は、それに対し、
『「學問」は「念佛」をする「ため」のものであります。それを――「若し」「學問」のために――ほんの数回であっても、「念佛」をお「減」らしになる――ということであるのならば――私(わたくし)はあなたに「學問」とか申しておらるるものを、これ、お教え致すことは出来ませんぬ。』
と言っている。この当たり前のことを我々は確かに忘れている。悪しき謂いに於いてただ『ためにする』行為ばかりが、我々の存在を蝕んでいる、と私も思うのである。
「歸元直指云、今日有緣得逢佛法。當須究本。莫競枝條。」底本の訓点を参考に以下に書き下す。
 「歸元直指(きげんぢきし)」に云はく、『今日の有緣(うゑん)、佛法に逢ふことを得たり。當に須らく本を究むべし。枝條(しでふ)を競ふこと莫れ。』と。
「歸元直指」は明の宗本の編になる「帰元直指集」のこと。禅と念仏の一元化を主張した古来の説九十七篇を集めたもの。流石に禅語としてすっきりとして小気味よい。]

2013/03/21

北條九代記 吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる

      ○吾妻四郎靑鷺を射て勘氣を許さる

同八月十七日、鶴ヶ岡八幡宮の放生會(はうしやうゑ)あり。將軍家、御出あるべしとて、先(まづ)御供の隨兵(ずゐひやう)を定めらる。其中に吾妻(あづまの)四郎助光、故なくして參らざりければ、工藤小次郎行光を以て仰せられけるやう、「助光は、させる大名にあらずといへども、累代の勇士(ようし)たるを以て隨兵の員(かず)に召(めし)加へらる。頗(すこぶる)家の面目なりと存すべき所に、その期(ご)に臨みて、參らざる條、子細を言上すべし」とあり。助光、畏りて申しけるは、「將軍家、此御調事に御出ある事は晴(はれ)の儀たるを以て、態(わざ)と用意致せし所の鎧を、鼠の爲に損ぜられ、是に度(ど)を失ひ、俄(にはか)に申(まうし)障り候なり。別心を以て、まかり出ざるにては候はず」と陳じけり。重ねて仰せありけるは、「晴の儀たるに用意致しけるとは新造の鎧の事歟。甚(はなはだ)以て然るべからず。隨兵はその行粧(かうさう)を飾るべきにあらず。只警衛(けいゑい)の爲なり。是によつて、右大將家の御時、譜代の武土、綺麗を調ふる事を停止(ちやうじ)せらる。然れば往當(そのかみ)、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに、此男、本より花美(きわび)を好み、殊に行粧を刷(かいつく)らふて小袖十餘領(りやう)を著(ちやく)し、褄(つま)の重(かさね)色々を飾りて、御前に出たり。賴朝卿、御覽じて、俊兼が帶する所の刀を召して、重ねたる小袖の褄を切せられて、後、仰せられけるやう、汝は才漢(さいかん)有て、家富みたり。何ぞ倹約を存ぜざるや。千葉常胤、土肥實平なんどは、所領は俊兼に雙(なら)ぶべからず。されども衣裳は麁品(そひん)を用ひ、鎧以下、更に美麗を好まず、其家富裕にして、數輩の郎從を扶持せしめ、たゞ勳功の忠義を存ず。今、汝は財産の費(つひえ)を知(しら)ず、過分の奢(おごり)を極むる條、大事に臨まば、定(さだめ)て家子(いへのこ)郎從を扶持するに叶はず、軍陣の時は獨身(ひとりみ)たるべし、と誡(いまし)め給へば、俊兼、面(おもて)を垂れて敬屈(けいくつ)し、向後、花美を停止すべき由、御請(うけ)を申しけると聞しめし傳へたり。されば當時武勇の輩、豫てより、鎧一領を持たぬ者やあるべき。何ぞ重代の兵具を差(さし)置きて、新造の鎧を用ひられば、累祖重代の鎧等は相傳の詮(せん)なきに似たり。その上、放生會は恆例の神事なり。度毎(たびごと)に新造せば倹約の義に背く者歟。向後、諸人この儀を守るべし。助光は先(まづ)出仕を止(やめ)らるゝ所なり」と仰せ出されければ、助光、暫く籠居致す。同十二月三日、相州大官令以下、御所に伺候あり。嵐、烈しく、松の梢に渡り、自(おのづから)、琴(きん)の調(しらべ)に通ふらん。雲、吹(ふき)閉ぢて、雪、降(ふり)出で、木々の枝々、時ならず花咲くかと怪まれければ、將軍實朝卿、興ぜさせ給ひて、御酒宴を始めらる。その間に靑鷺(あをさぎ)一羽、進物所(しんもつどころ)に入て、ふためきつゝ、寢殿の上に留(とゞま)りたり。野鳥、室に入るは不祥の兆(きざし)なり、と將軍家、御心に掛り思(おぼし)召し、「誰かある、あの鳥、射止めよ」と仰(おほせ)出ださる。折節、然るべき射手、御所中に候(こう)せず。相州、申されけるは、「吾妻四郎助光、御氣色を蒙りて、是を愁へ申さんために、近邊に居て候。召出されて射させらるべきか」とあり。御使を下され、助光、軈(やが)て參上し、蟇目(ひきめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より狙寄(ねらひよつ)て、ひようと發(はな)つ。鳥には中(あた)らざるやうに見えて、鷺は庭上に落ちたり。助光、進覽致しける。左の目より血の少(すこし)出たる計(ばかり)にて死すべき疵(きず)にはあらざりけり。鷹の羽(は)にて矯(は)ぎたる矢なるが、鳥の目を曳(ひ)きて融(とほ)る。生ながら射留むる事、御感殊に甚しく、御赦免を蒙り、剩(あまつさ)へ御劍を賜(たまは)る。武藝に達せし故に依(よつ)て、時の面目を施しける手柄の程こそ雄々(ゆゝ)しけれと、皆(みな)人、感じ給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の建永二(一二〇七)年八月十五日及び十七日の吾妻助光の不祥事に、巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の父頼朝の同様の勘気の事蹟を添え、巻十八の承元元年十二月三日の不吉な靑鷺の侵入と、助光の名射と勘気赦免の大団円とする、劇的な面白さを狙ったいい話柄である。但し、書き方に誤りがある。放生会は実は八月十七日ではなく、その二日前の八月十五日に行われた。その十五日の条に、

〇原文

十五日戊午。小雨。鶴岳宮放生會。將軍家既欲有御參宮之處。随兵已下臨期有申障之輩。被召別人之程。數尅被扣御出。尤爲神事違亂。是則御出等事。無奉行人之故也。仍召民部大夫行光。向後供奉人散狀已下。御所中可然事。於時無闕如之樣。可計沙汰之旨。被仰含之云々。及申尅。御出之間。舞樂等入夜。取松明有其儀。未事終還御。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日戊午。小雨。鶴岳宮の放生會。將軍家、既に御參宮有らんと欲するの處、随兵已下、期(ご)に臨みて障り申すの輩(ともがら)有り。別人を召さるるの程、數尅、御出を扣(ひか)へらる。尤も神事に違亂たり。是れ、則ち御出等の事に奉行人無きが故なり。仍つて民部大夫行光を召し、向後、供奉人の散狀(さんじやう)已下、御所中の然るべき事は、時に於いて闕如(けつじよ)無きの樣、計らひ沙汰すべきの旨、之を仰せ含めらると云々。

申の尅に及びて、御出の間、舞樂等、夜に入り、松明(たいまつ)を取り、其の儀有り、未だ事、終らざるに還御す。

・「尤も神事に違亂たり」神事という尤も不具合があってはならない儀式での、とんでもない不祥事である。

・「散狀」諸役の勤番を明記して事前に回覧した文書。回状。

ここでは特に、最後の部分で、この不祥事によって儀式が大幅に遅れ、深夜に及んでしまったことが述べられ、満十四歳の育ちざかりの実朝、恐らく腹も減らして、大いに不快であったに違いないことは窺えるが、ここで気づくべきは、どうも、この随兵不参加によるごたごた、「北條九代記」は吾妻助光一人が不参加であったように読めるのであるが、それならこうはならなかったなかったことであろう。「輩有り」はどうも複数に読める。以下、十七日の記事でそれが明らかになるのである。

 

 その二日後。

〇原文

十七日庚申。晴。放生會御出之時申障之輩事。相州。武州。廣元朝臣。善信。行光等參會。有其沙汰之處。或輕服。或病痾云々。而随兵之中。吾妻四郎助光無其故不參之間。以行光被仰云。助光雖非指大名。常爲累家之勇士。被召加之訖。不存面目乎。臨其期不參。所存如何者。助光謝申云。依爲晴儀。所用意之鎧。爲鼠被損之間。失度申障云々。重仰云。依晴儀稱用意者。若新造鎧歟。太不可然。隨兵者非可飾行粧。只爲警衛也。因茲。右大將軍御時。譜代武士可必候此役之由。所被定也。武勇之輩。兼爭不帶鎧一領焉。世上狼唳者不圖而出來。何閣重代兵具。可用輕色新物哉。且累祖之鎧等似無相傳之詮。就中恒例神事也。毎度於令新造者。背儉約儀者歟。向後諸人可守此儀者。助光者所被止出仕也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日庚申。晴る。放生會御出の時、障り申すの輩の事、相州・武州・廣元朝臣・善信・行光等參會して、其の沙汰有るの處、或ひは輕服(きやうぶく)、或ひは病痾(びやうあ)と云々。

而るに随兵の中に、吾妻四郎助光、其の故無く不參するの間、行光を以つて仰せられて云はく、

「助光、指(さ)せる大名に非ずと雖も、常に累家之の勇士として、之を召加へられ訖んぬ。面目を存ぜざるか。其の期(ご)に臨んでの不參、如何なる所存か。」

てへれば、助光、謝り申して云はく、

「晴れの儀たるに依つて、用意する所の鎧、鼠の爲、損ぜらるるの間、度を失ひ、障りを申すと云々。

重ねて仰せて云はく、

「晴れの儀に依つて用意すると稱すは、若しや、新造の鎧か。太だ然るべからず。隨兵は行粧(ぎやうさう)を飾るべきに非ず。只だ、警衛の爲なり。茲(こ)れに因つて、右大將軍の御時、譜代の武士、必ず此の役に候ずべきの由、定め被らるる所なり。武勇(ぶやう)の輩(ともがら)、兼ねて爭(いか)でか鎧一領を帶せざらん。世上の狼唳(らうれい)は圖らずして出で來たる。何ぞ重代の兵具を閣(さしお)きて、輕色(きやうしよく)の新物を用ふべけんや。且つは累祖の鎧等、相傳の詮(せん)無きに似たり。就中(なかんづく)、恒例の神事なり。毎度、新造せしむに於いては、儉約の儀に背く者か。向後、諸人此の儀を守るべし。」

てへれば、助光は出仕を止めらるる所なり。

・「輕服」遠縁の者の死去による軽い服喪をいう。反対語は重服(じゅうぶく)。

・「吾妻助光」(生没年不詳)「吾妻鏡」では建仁四(一二〇四)年一月十日の弓始めの儀での射手六名の最後、三番方の二番目に名があるのが初出、この出来事以降では翌々年の承元三(一二〇九)年一月六日の条に的始の射手に召されたのを最後として記載がない。

・「助光は出仕を止めらるる」叙述からは形式上は実朝が出仕を禁じたことになるが、記載から見ると、義時・時房(武州)以下の合議決裁で二階堂行光から出勤停止処分が通行されたものであろう。満十四歳の実朝自身の意志とは思われない。

 

「然れば往當、故賴朝卿、御用の事有て筑後權守俊兼を召しけるに……」以下では、頼朝の事蹟が語られるのであるが、それが「吾妻鏡」の二十三年前に遡るところの巻三の元暦元(一一八四)年十一月二十一日の条を元にした筆者の創作部分である。

〇原文

月大廿一日丙午。今朝。武衞有御要。召筑後權守俊兼。々々參進御前。而本自爲事花美者也。只今殊刷行粧。著小袖十餘領。其袖妻重色之。武衞覽之。召俊兼之刀。即進之。自取彼刀。令切俊兼之小袖妻給後。被仰曰。汝冨才翰也。盍存儉約哉。如常胤。實平者。不分淸濁之武士也。謂所領者。又不可雙俊兼。而各衣服已下用麁品。不好美麗。故其家有冨有之聞。令扶持數輩郎從。欲勵勳功。汝不知産財之所費。太過分也云々。俊兼無所于述申。垂面敬敬※[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。]。武衞向後被仰可停止花美否之由。俊兼申可停止之旨。廣元。邦通折節候傍。皆銷魂云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日丙午。今朝、武衞御要(ごえう)有りて、筑後權守俊兼を召す。俊兼、御前に參進す。而るに本より花美を事と爲す者なり。只今、殊に行粧(ぎやうさう)を刷(かいつくろ)ひ、小袖十餘領を著け、其の袖妻、之に色を重ぬ。武衞、之を覽て、俊兼が刀を召す。即ち、之を進ず。自(みづか)ら彼(か)の刀を取り、俊兼が小袖の妻を切らしめ給ひて後、仰せられて曰く、

「汝。才翰(さいかん)に冨むなり。盍(なん)ぞ儉約を存ぜぬや。常胤・實平のごときは、淸濁を分たざるの武士なれど、謂はば所領は、又、俊兼に雙ぶべからず。而るに各々、衣服已下、麁品(そひん)を用ゐて、美麗を好まず。故に其の家、冨有の聞え有りて、數輩の郎從を扶持せしめ、勳功を勵まんと欲す。汝、産財の費(つい)ゆる所を知らず。太はだ過分なり。」

と云々。俊兼、述べ申すに所無く、面を垂れて敬※(けいくつ)す。[やぶちゃん注:「※」=「口」+「屈」。武衞、

「向後、花美を停止べくか否か。」

の由を仰せらる。俊兼、

「停止すべし。」

の旨を申す。廣元・邦通、折節、傍に候ず。皆魂を銷(け)すと云々。

・「筑後權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)は頼朝の初期の右筆。「吾妻鏡」での初出は養和二(一一八二)年一月二十八日の条で、俊兼は簀子(すのこ)に控えて、伊勢神宮に奉献される神馬十匹の毛付(馬を識別するための毛色の記録。原典では当該の馬を曳いて頼朝に進上した人物が割注で附されている)を記している。元暦元(一一八四)年四月二十三日には下河辺政義が俊兼を通じて訴え出て、頼朝の命により、俊兼が常陸国目代に御書を代書している。これ以降、同じ右筆として藤原邦通(引用した「吾妻鏡」の最後に登場している)と入れ替わるようによく登場し、逆に邦通は右筆としても影が薄くなる傾向がある。同十月二十日の条では頼朝御亭東面の廂を問注所とし、三善康信を筆頭に藤原俊兼、平盛時が諸人訴論対決の事を沙汰することになった、とある。本件を挟んで、文治二(一一八六)年三月六日の条では義経の行方について静御前の尋問を行う。同年八月十五日の条では西行の語る流鏑馬の奥義を頼朝が俊兼に書き取らせたとする。同じ京の文官である大江広元・三善康信・二階堂行政らと比べれば行政実務のトップクラスということではなかったが、奉行人・右筆として常に頼朝の側に居た様子が覗える(以上はウィキの「藤原俊兼」に拠った)。

 

 そうして青鷺事件が起こる。承元元(一二〇七)年十二月三日の条。

〇原文

三日甲辰。冴陰。白雪飛散。今日御所御酒宴。相州。大官令等被候。其間。靑鷺一羽入進物所。次集于寢殿之上。良久將軍家依恠思食。可射留件鳥之由。被仰出之處。折節可然射手不候御所中。相州被申云。吾妻四郎助光爲愁申蒙御氣色事。當時在御所近邊歟。可被召之云々。仍被遣御使之間。助光顚衣參上。挾引目。自階隱之蔭窺寄兮發矢。彼矢不中于鳥之樣雖見之。鷺忽騷墜于庭上。助光進覽之。左眼血聊出。但非可死之疵。此箭羽〔鷹羽極強云々。〕曳鳥之目兮融云々。助光兼以所相計無違也云々。乍生射留之。御感殊甚。如元可奉昵近之由。匪被仰出。所下給御釼也。

〇やぶちゃんの書き下し文

三日甲辰。冴え陰る。白雪飛散す。今日、御所の御酒宴。相州、大官令等、候ぜらる。其の間、靑鷺一羽、進物所に入る。次に寢殿の上に集まる。良(やや)久しうして將軍家、恠(あや)しみ思し食(め)すに依つて、件(くだん)の鳥を射留むべきの由、仰せ出ださるるの處、折節、然るべき射手、御所中に候ぜず。相州、申されて云はく、

「吾妻四郎助光、御氣色を蒙る事を愁へ申さんが爲、當時、御所の近邊に在らんか。之を召さるるべし。」

と云々。

仍つて御使を遣はさるるの間、助光、衣(ころも)を顚(さかしま)にして參上す。引目(ひけめ)を挾(さしはさ)み、階隱(はしがくし)の蔭より窺ひ寄つて、矢を發(はな)つ。彼(か)の矢、鳥に中(あた)らざる樣に之れ見えゆると雖も、鷺、忽ち庭上に騷ぎ墜つ。助光、之を進覽す。左の眼に血、聊か出づ。但し、死すべきの疵に非ず。此の箭(や)の羽〔鷹羽で極めて強しと云々。〕鳥の目を曳きて融(とほ)ると云々。

助光、

「兼ねて以つて相ひ計る所、違(たが)ふ無きなり。」

と云々。

生きながら之を射留むること、御感、殊に甚だし。元のごとく昵近(ぢつきん)奉るべきの由、仰せ出ださるのみに匪ず、御釼を下し給ふ所なり。

・「大官令」大江広元。

・「衣を顚にして」すわっ! と慌てふためいて。

・「引目」既出。射る対象を傷つけないように鏃を使わず、鏑に穴をあけたものを装着した矢のこと。通常は邪気を払うためにも、音を発して放たれるが、ここでは敏感な鳥を射ている以上、恐らくは穴を塞いで無音の鈍体にしたものと思われる。しかも、尖端ではなく、尾羽の鷹羽の背だけを青鷺の眼の部分に掠めさせて、そのショックで落下させるという超難度の技であった。

・「階隱」階隠間(はしがくしのま)。寝殿造で南廂の階の上にあたる中央の一間を指す。

・「兼ねて以つて相ひ計る所、違ふ無きなり」ここは助光本人の言葉で、「前以って狙っておりました射技と、全く外れるとこと、これ、御座いませなんだ。」というのだが、「北條九代記」の作者がこの自慢げな言を外したのは正解である。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 3

 瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ、そのさき大覺禪師時賴遊山の次、禪師のいはく、此地は叢林相應の所也、建立あるべしと。時賴時節をうつすべからずとて、折節田かへし居たる耕夫の鋤を取て、時賴一下し給ふ。同く大覺鋤を取て一下し給ひ、その所に草を結びそめたまふ。其後弘安元年に大覺も入滅ありて、同五年癸丑のとしに時宗公立おさめらる。時に詮藏主・英典座を兩僧使として大宋へ渡され、住持を請ぜらる、其狀にいはく、

[やぶちゃん注:「瑞鹿山圓覺寺は時賴弘長三年に薨じ給ふ」意味が通じない。底本にも「圓覺寺は」と「時賴」の右に『(脱文カ)』と傍注する。

「同五年癸丑」円覚寺落慶法要であるが干支は誤り。弘安五(一二八二)年は癸丑(みづのとうし)ではなく、壬午(みずのえうま)。]

「詮藏主・英典座」蘭渓道隆の法嗣であった無及徳詮と傑翁宗英(そうえい)。「藏主」は経蔵の管理責任者、「典座」は「てんぞ/てんざ」と読み、禅宗寺院の六知事の一つで、大衆の斎飯などの食事を司った厨房長で、傑翁も同義。

「不宣」は「ふせん」で「不一」「不悉」と同じく、自分の言うべきことを語り尽くすことが出来ていない甚だ拙文にて、という意の卑小を示す手紙の結語。]

[やぶちゃん注:以下の召請状は底本では全体が二字下げ。]

 

時宗留意宗乘積有年序、建營梵苑安止緇流、但時宗毎憶樹有其根水有其源、是以欲請宋朝名勝助行此道煩詮英兄、莫憚鯨波險阻誘引俊傑禪伯歸來本國爲望而已。不宣、

  弘安元年戊申十二月廿三日   時宗和南

   詮藏主禪師

   英典座禪師

[やぶちゃん注:以下に底本の訓点を参考に私なりに書き下したものを示す。

時宗、意を宗乘に留むること、積むに年序有り。梵苑を建營し、緇流を安止す。但し、時宗、毎に憶ふ、樹に其の根有り、水に其の源有り。是れを以つて、宋朝の名勝を請じて、此の道を助行せんと欲し、詮・英兄を煩はし、鯨波の險阻を憚ること莫く、俊傑の禪伯を誘引して、本國に歸り來たらんことを望みと爲るのみ。不宣、

  弘安元年戊申十二月廿三日   時宗和南

   詮藏主禪師

   英典座禪師

新編鎌倉志三」に「平時宗の書」として載るが、ここでも沢庵は干支を誤写している。弘安元年は戊申(つちのえさる)ではなく、戊寅(つちのえとら)である。]

 兩僧これによつて宋に入、同二年の夏佛光禪師請を受て來朝し給ふ。即圓覺寺の開山祖是也。圓滿常照國師と號す。諱は祖元、字は子元、みづから無學と號せられる。

[やぶちゃん注:「同二年」弘安二(一二七九)年。]

長き夜の夢を夢ぞと知る君はさめて迷へる人を助けむ 明恵

   上覺上人の許より、
    みる事は
    みなつねならむ
    うき世かな
    夢かとみゆる
    程のはかなさ
   と申したりける返事に

長き夜の夢を夢ぞと知る君はさめて迷へる人を助けむ   明惠

[やぶちゃん注:底本は岩波文庫一九八一年刊久保田淳・山口明穂校注「明恵上人集」の本文及び注を用いて「新続古今和歌集」巻八の釈教歌の八五一に載る形をを再現した。但し、恣意的に正字化し、また詞書を読み易い特殊な字配に変えた。「上覺上人」は真言僧。明恵の叔父(亡母の兄弟)で文覚の弟子。彼に従って明恵は数え九歳(養和元(一一八一)年)で神護寺に入山した。私撰集に「玄宝集」、歌学書「和歌色葉」を著わすなど、歌人としても知られた。底本の「明恵上人歌集」の部の本文(底本は東洋文庫版)では、

   御報

長き夜の夢を夢ぞと知る君やさめて迷へる人を助けむ

の形で載る。]



間違って貰っては困る――
この歌はありきたりな夢を無常の儚きものと捉えたり――譬えたりしている――歌では――ない――のだ――

……上覚上人さま……
……あなたは……「長き夜の夢を夢ぞと知る」あなたは「さめて迷へる人を助けむ」御方……
tえしかし私は……夢を儚きものとは……
……これ、思いませぬ……
……私は……私の「長き夜の夢」を……
……確かな私の「夢」として……
……「迷へる人を助け」んための……
……その方途と致しましょう――


……信じ難い? なれば、近いうちにそれについてお話を始めようと存ずる……
という驚天動地の確信の宣言なのである――

恐ろしく憂鬱なる 萩原朔太郎 (「青猫」版)

 恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

 

 註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべ

 からず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の

 翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものであ

 る。

 

[やぶちゃん注:詩集「青猫」(大正一二(一九二三)年一月新潮社刊)の「幻の寢臺」の掉尾に配された「恐ろしく憂鬱なる」。この微細な各所の推敲は、恐らくは初出を何度も朗誦する中で決定されたものであろう。他者がどう感じるか分からぬが、私には頗る興味深い推敲である。]

恐ろしく憂鬱なる 萩原朔太郎 (初出形)

 恐ろしく憂鬱なる

 

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる、むらがりて飛びめぐるてふ、てふ、てふ、てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか、ぴか、ぴか、ぴかと光る そのちいさな鋭どいつばさ

いつぱいに群がつてとびめぐるてふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、てふ、 てふ、てふ、てふ

ああ これはなんといふ憂欝なまぼろしだ

このおもたい手足おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だ

疲れはてたる神經のなまめかしいたそがれどきだ

私はみる、ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股(もも)や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の靑ざめた屍體のくちびるに、額に、かみに、かみのけに、ももに、胯に、腋のしたに、足くびに、あしのうらに、みぎの腕にも、ひだりの腕にも、腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああ この恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂欝の日かげをみつめる

その私の心はぢたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたえがたく腦ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂欝なる。

 

   詩中平假名にて書きたる「てふてふ」は

   文字通り「て、ふ、て、ふ」と發音して

   讀まれたし「チヨーチヨー」と讀まれて

   は困る。

 

[やぶちゃん注:『感情』第二年五月号・大正六(一九一七)年五月号所収。底本(筑摩版全集第一巻一四九頁)では五行目の「隙間」の「隙」の(つくり)上部は「少」。その他はママ。最後の注記は底本ではポイント落ち。二箇所の下線部は底本では傍点「ヽ」。標題のみ「鬱」で、本文では「欝」とある。]

耳嚢 巻之六 古佛畫の事

 古佛畫の事

 

 川尻甚五郎、被咄(はなされ)けるは、彼(かの)家に古畫の由、彌陀の像を一幅持(もち)傳へしが、手足に水かきあり。不審なれば或人尋問(たづねとひ)しに、古への佛畫には手足の指に水かきあり。群生(ぐんしやう)を救ふの爲、水に入(いり)て溺るゝ者をたすけすくわんための由。大般若經とかに、三十二相揃ふといふには、右の通り手足の指に水かきありと、いひし由なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:「水かき」のある奇怪な阿彌陀という怪談を狙ったものかも知れぬが、これは仏の三十二相の一つとして現在でも結構知られており、現存する仏像でもしばしば見出せる。怪談連関としたのならば不発であるが、神道シンパであった根岸であるから、三十二相などというものは、彼にとってこそ「不審」なのかも知れぬ(ただ、私は昔、この手足指縵網相を誇張して示した仏像を実見した際に――根岸ではないが――何故か、生理的に気味の悪い印象を持ったことをここに告白しておく)。

・「川尻」底本鈴木氏注で、河尻春之(はるの)の誤りとし(現代語訳では訂した)、寛政四(一七九二)年に代官に任ぜられた旨記載がある。他にも奈良県五條市公式サイトの五條十八景、時代背景と関連年表にも寛政七(一七九五)年に五條代官所設置され、その初代代官に「川尻甚五郎」が就任し、その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年とあるが(引用元、享和を享保と誤っている)、調べてみると、この人物はもっと注を附すべき人物のように思われる。ウェブサイト「定有堂書店」のブック・レビューにある岩田直樹氏の今月読んだ本一二〇回「近世日本における自然と異者理解-渡辺京二『逝し世の面影』『黒船前夜』を読む-(下)によれば、この記載の後(「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月)である文化四(一八〇七)年に幕府は蝦夷地全体を直轄地としたが、その際、函館奉行は松前奉行と改称され四人制となり、翌年に河尻春之・村垣定行・荒尾成章の三人制となったという記載と『河尻は後に転任』という補注がある。そうして文化五(一八〇八)年、本話のこのまさに河尻春之と荒尾成章が、蝦夷地警衛について老中から諮問を受けた際に、二人は次のような意見を上申したという。文化三(一八〇六)年と翌年にかけて樺太のクシュンコタンや択捉島のシャナを襲撃した『フヴォストフらの「不束」(暴行)を正式に謝罪すれば、交易を許してもよい。レザーノフを長崎で軟禁状態にして半年も待たせ、揚げ句の果て通商を拒否したのは、国家使節を迎える上で「不行届の義」であった』。『むろん交易は国法に叛くものである。しかし、ロシアの辺境と松前付属の土地との間であれば、すなわち国同士ではなく辺土同士であれば、交易をしても「軽き事」と見なすことが出来よう。ロシア極東領の食糧難を鑑みて許可すべきである』。『蝦夷地全域の警護がどれだけ非現実的か』。『今年の警護役の仙台・会津両藩は併せて』八十万石もの大藩であるのに、僅か三千人の兵を出すだけで『財政破綻の危機に瀕している。「ロシアなど恐るるに足らぬ」などと主張するのは、民の命を損なうことではないか』。『河尻と荒尾は、天命・天道に言及する。心を平静に保ち、ロシアと日本の「理非如何と糺し、…明白にその理を尽すべく候。もし、非なる処これありと存じ候ても、これを取りかざりて理を尽さず、命にかかわり候に及び候ては、国の大事を挙げ候とも、天より何と評判申すべきや」』(二七六頁)。『老中たちは、松前奉行の大胆な上申書を咎めるどころか、再来が予想されるフヴォストフに与える返書にその趣旨を取り入れた』という(以下はリンク先をお読みあれ)。河尻春之はあの幕末の動乱に向けて、自ら国の水かきたらんとした。そういう意味で、この驚くべき上申書はもっと知られてよいであろうと私は思う。

・「三十二相」で三十二相八十種好(はちじっしゅこう)。一見して分かる三十二相と微細な特徴としての八十種好を合わせたもの。「相好(そうごう)」ともいう。「三十二相」の詳細はウィキ三十二相八十種好を参照されたいが、その五番目に手足指縵網相(しゅそくまんもうそう)として、『手足の各指の間に、鳥の水かきのような金色の膜がある』とある(表現や順番は経により異同がある)。例えば個人ウェブサイト「仏像紀行」の広島県福山市草戸町の明王院・阿弥陀如来立像の写真で手のそれが確認出来る。

・「大般若經」大般若波羅蜜多経。六百余巻に及ぶ大乗仏教の基礎的教義が書かれている長短様々な般若教典を集大成したもの。玄奘が六六三年に漢訳として完成させた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古仏画の事

 

 河尻甚五郎春之(はるの)殿のお話。

「……拙者の家には古き仏画が御座って、阿弥陀仏の像を一幅、先祖伝来のものとして持って御座る。……ところが……これには、何と、手足に水かきが御座るのじゃ。……如何にも気味悪う、不審なれば、とある御仁に尋ね問うたところ、

『古えの仏画には手足の指に水かきがある。衆生を救わんがため、即ち、水に入りて溺るる者をも、これ、掬い取らんがためにあるのものである。』

とのことで御座って、何でも「大般若経」とやらんに、

『三十二相相い揃うと申す条には、右の通り、手足の指に水かきあり、と記しある。』

との由で御座った。」

肉色の薔薇 大手拓次

 肉色の薔薇

 

うまれでた季節は僞らずに幸福をおくる。

おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ、

五月はわたし達に果てもない夢である。

此汎愛の思想のよわよわしい芽生えは

旅の空をうろついてあるく女藝人のやうに人知れず涙をながしてゐる。

今、偏狹者の胸に咲いた肉色の薔薇よ、

今、惡執者の腕に散る肉色の薔薇よ、

遍在の神は吾等の上に楽しい訪れをささやく。

歡びにみちた季節は悲哀の種をまく。

うれはしげに鎧を着た接吻よ、

戦闘は白く白く波をうつてゐる。

 

[やぶちゃん注:創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」及び現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」では、二行目を、

 おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ。

と読点ではなく、句点とする。また、後者現代詩人文庫版では、更に最後の三行を独立連(第二連)としている。正字で以下に現代詩人文庫版の詩形全文を示しておく。

 

 肉色の薔薇

 

うまれでた季節は僞らずに幸福をおくる。

おお はづかしげに裸(はだか)になつた接吻よ。

五月はわたし達に果てもない夢である。

此汎愛の思想のよわよわしい芽生えは

旅の空をうろついてあるく女藝人のやうに人知れず涙をながしてゐる。

今、偏狹者の胸に咲いた肉色の薔薇よ、

今、惡執者の腕に散る肉色の薔薇よ、

遍在の神は吾等の上に楽しい訪れをささやく。

 

歡びにみちた季節は悲哀の種をまく。

うれはしげに鎧を着た接吻よ、

戦闘は白く白く波をうつてゐる。]

鬼城句集 春之部 雲雀

雲雀   百姓に雲雀揚つて夜明けたり

一言芳談 一一九

   一一九

 

 又云、十聲(とこゑ)・一聲等(ひとこゑとう)の釋は、念佛を信ずる要(えう)、念々不捨者等(すてざるものとう)は、念佛を行ずる要なり。

 

〇十聲一聲等の釋、禮賛云、上盡一形、下至十聲一聲等、以佛願力易得往生。

〇念々不捨者、散善義云、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼佛願故。

 

[やぶちゃん注:Ⅰでは「十聲一聲(じつしやういつしやう)]と中黒点を配さずに振るが、「とこゑ」はⅡ・Ⅲを採り、「ひとこゑ」は私が附した(但し、後に見るように浄土教学では「じつしょういっしょう」が正しいらしい)。次の「等」を「とう」と読むのはⅢに従い、後の「等」の「とう」の訓は私が附した。まず、二つの標註の漢文を私流に訓読しておく。

 「禮賛」に云はく、『上(じやう)は一形(いちぎやう)を盡して、下は十聲一聲(じつしやういつしやう)等(など)に至るまで、佛願力を以つて往生を得るに易し。』と。

 「散善義」に云はく、『行住坐臥は、時節の久近(くごん)を問はず、念々捨ざる者は、是れを正定の業と名づく、彼の佛願に順ずるが故に。』と。

ここで言う「十聲・一聲等の釋」とは善導の著「往生礼讃偈」に於ける念仏の解釈で、「安心(あんじん)」の章で、往生の肝要として掲げる「深心(じんしん)」の解に現われる(底本はウィキ・アーカイブ「往生礼讃 (七祖) を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、記号の一部を変更してある)。

 

 問ひていはく、「いま人を勸めて往生せしめんと欲せば、いまだ知らず、いかんが、安心・起行・作業して、さだめて、かの國土に往生することを得るや。」。

 答へていはく、「かならず、かの國土に生ぜんと欲せば、『觀經』に説きたまふがごときは、三心を具してかならず往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心。いはゆる、身業に、かの佛を禮拜し、口業に、かの佛を讚歎稱揚し、意業に、かの佛を專念觀察す。おほよそ、三業を起さば、かならず、すべからく眞實なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深心。すなはちこれ、眞實の信心なり。自身はこれ、煩惱を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流轉して火宅を出でずと信知し、いま、彌陀の本弘誓願は、名號を稱すること、下十聲・一聲等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には囘向發願心。所作の一切の善根、ことごとくみな囘して往生を願ず。ゆゑに囘向發願心と名づく。この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。「觀經」につぶさに説くがごとし、知るべし。」。

 

即ち、善導の謂いの「一形を盡」すとは一生涯の不断念仏を指すから、「十聲一聲等の釋」とは、念仏はその回数を問題が問題なのではない、という結論を指している。一方の「念々不捨者」は、同じく善導の「散善義」の「深心釈」の「第七深信」に現われる。やや長くなるが少し前から引用する(底本はウィキ・アーカイブ観経疏 散善義 (七祖)を用いたが恣意的に正字化、句読点及び鍵括弧を追加、一部の記号を変更・省略した)。

 

すなはち「彌陀經」のなかに説きたまふ。釋迦極樂の種々の莊嚴を讚歎し、また「一切の凡夫、一日七日、一心にもつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得。」と勸めたまひ、次下の文に、「十方におのおの恆河沙等の諸佛ましまして、同じく釋迦よく五濁惡時・惡世界・惡衆生・惡見・惡煩惱・惡邪・無信の盛りなる時において、彌陀の名號を指讚して、『衆生稱念すればかならず往生を得。』と勸勵したまふを讚じたまふ。」とのたまふは、すなはちその證なり。 また十方の佛等、衆生の釋迦一佛の所説を信ぜざることを恐畏れて、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠實の言を説きたまふ。「なんぢら衆生、みな、この釋迦の所説・所讚・所證を信ずべし。一切の凡夫・罪福の多少・時節の久近を問はず、ただよく、上百年を盡し、下一日七日に至るまで、一心に、もつぱら彌陀の名號を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし。」と。このゆゑに一佛の所説は、すなはち一切佛、同じくその事を證誠したまふ。これを人に就きて信を立つと名づく。

次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。

一には正行、二には雜行なり。

正行といふは、もつぱら徃生經の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心に、もつぱらこの「觀經」・「彌陀經」・「無量壽經」等を讀誦し、一心に專注してかの國の二報莊嚴を思想し觀察し憶念し、もし禮するには、すなはち、一心にもつぱらかの佛を禮し、もし口に稱するにはすなはち一心に、もつぱらかの佛を稱し、もし讚歎供養するには、すなはち一心に、もつぱら讚歎供養す、これを名づけて正となす。

また、この正のなかにつきて、また、二種あり。

一には、一心に、もつぱら彌陀の名號を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの佛の願に順ずるがゆゑなり。もし、禮誦等によるを、すなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きて以外の自餘の諸善は、ことごとく雜行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに親近して憶念斷えず、名づけて無間となす。もし後の雜行を行ずれば、すなはち心つねに間斷す、囘向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雜の行と名づく。ゆゑに深心と名づく。

 

以上から「念々不捨者」は、本来ならば「念々に捨てざるは」と読むのが正しいことが分かる。そうしてその意は、先に提示された称名念仏の回数を問題としないという要諦を踏まえた上で、「不断に心に弥陀への至高の思いを致して決して捨てぬこと」であることも分かる(と私は勝手に思っている)。]

2013/03/19

花はのこるべし

このころよりは、おおかた、せぬならでは手立てあるまじ。麒麟も老いては土馬に劣ると申すことあり。さりながら、まことに得たらん能者ならば、物數はみなみな失せて、善惡見どころは少なしとも、花は殘るべし。

(世阿彌「風姿花傳 第一 年來稽古條々」「五十有餘」冒頭)

明日は母の二周忌――そして――名古屋の義母の納骨式に参る。随分、御機嫌よう――

 

2013/03/18

生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 三 分業と進歩~(2)

個人的に……こういう図……ぶるっとくるぐらい……僕は大好きなんである。……



Kudakurage_2


[くだくらげ]

 

(イ)浮子の役を務める個體

(ロ)運動を司どる固體[やぶちゃん注:「固」はママ。]

(ハ)食物を食ふ個體

(ニ)群體の中軸

(ホ、ヘ)保護する固體の蔭に隱れた食物を食ふ個體[やぶちゃん注:「固體」はママ。]

(ト)生殖を司どる個體

(チ)保護する個體

(リ)食物を食ふ個體

(ヌ)保護する個體の蔭に物を食ふ個體の隱れた所

(ル)保護する個體

(ヲ)食物を食ふ個體

(ワ)觸手の絲

 

 群體内で個體の間に分業の行はれて居る最も著しい例は、恐らく「くだくらげ」と名づける動物であろう。これもその構造は、あたかも數多くの「ヒドラ」を束にした如きものであるが、分業の結果各個體の形狀に著しい相違が生じ、すべてが相集まつて初めて一疋の動物を成せるかの如くに見える。すべて「くだくらげ」の類は群體を成したまゝで海面に浮んで居るが、その中軸として一本の伸縮自在の絲を具へ、これに、「ヒドラ」の如き構造の個體が列をなして附著して居るものが多い。そしてこの數多い個體の間には殆ど極度までに分業が行はれ、各個體は自身の分擔する職務のみを專門に務め、そのため各々特殊の形狀を呈して、中にはその一個體なることがわからぬ程に變形して居るものさへある。まづ中軸なる絲の上端の處には、内に瓦斯を含んだ嚢があつて浮子の役を務めて居るが、丁寧に調べて見ると、これも一疋の個體であつて全群體を浮かすことだけを自分の職務とし、それに應じた形狀を具へて他の作用は一切務めぬ。次に透明な硝子の鐘の如きものが數個竝んで居るが、生きて居るときはこの鐘が皆「くらげ」の傘の如くに伸縮して水を噴き、その反動によっつて全群體を游がせる。尤も一定の方向に進行せしめるわけではなく、單に同じ處に止まらぬといふだけであるが、浮游性の餌を求めるには、これだけでも大いに效能がある。それから下の部には、木の葉の如き形のものが處々に見えるが、これは他の個體を自分の蔭に蔽ひ隱して保護することを專門の務とする。前の鐘形の物と同じく、これも各々が一個體であつて、その發生を調べると、始め「ヒドラ」と同じ形のものが、次第に變形して終にかやうになったのである。木の葉の形の物の蔭から延び出て居るのは、食物を食ふことを專門とする個體で、形狀はまづ「ヒドラ」と同じく圓筒形で、その一端に口を具へて居る。但し「ヒドラ」とは違つて口の周圍に觸手がない。さすが食ふことを專門とするだけあつて、極めて大きく口を開くことが出來て、時とすると恰も朝顏の花の開いた如き形にもなる。またこれに交つて指のやうな形で口のない個體があるが、これは物に觸れて感ずることを務める。その傍からは一本長い絲が垂れて居るが、これは即ち伸縮自在の觸手であつて、その先には敵を刺すための微細な武器が塊になつて附いて居る。「くだくらげ」に烈しく刺すものの多いのはそのためである。この類は水中で觸手を長く伸し、浮游して居る動物に觸れると、この武器を用ゐて麻醉粘著せしめ、觸手を縮めて物を食ふ個體の口の處まで近づけてやるのである。その外、別に生殖のみを司どる個體が處々に塊つて居るが、これは大小の粒の集まりで、恰も葡萄の房の如くに見える。「くだくらげ」の一群體はかやうに種々雜多に變形した個體の集まりで、各種の個體は生活作用の一部づつを分擔し、餌を捕へる者はたゞ捕へるのみで、これを食ふ者に渡し、食ふ者はたゞ食ふだけで、餌が口の傍に達するまで待つて居る。浮く者は浮くだけ游ぐ者は游ぐだけの役目を引き受けて、他の仕事は何もせず、木の葉の形した個體の如きは、單に他のものに隱れ場所を與へるだけで、殆ど何らの生活作用をもなさぬ。各個體の構造が皆一方にのみ偏して居る有樣は、これを人間に移したならば、恰も口と消化器のみ發達して、手も足もない者、手だけが大きくて他の體部の悉く小さな者、眼だけが無暗に大きな者、生殖器のみが發達して胴も頭も小さな者といふ如き畸形者ばかりを紐で珠數繫ぎにした如くであるが、これが全部力を協せると何の不自由もなしに都合よく生活が出來るのである。

[やぶちゃん注:「くだくらげ」ここで丘先生が挙げている種は刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目 Siphonophora の中でも、気胞体・泳鐘・保護葉を総て持っている点から、胞泳(ヨウラククラゲ)亜目 Physonectae に属する種を指している。胞泳亜目 Physonectae にはヨウラククラゲ科 Agalmidae やバレンクラゲ科 Phrysophoridae など数科に別れるが、中でもここで示された図の形状からみるとヨウラククラゲ科のシダレザクラクラゲ Nanomia bijuga(もしくはその近縁種)を示したもののように推測される。ウィキの「ヨウラククラゲ」(これは内容的には科レベルでの記載と読んだ)には、『その体は複数の個虫が役割を分担するポリプの群体から成り、カツオノエボシの様な管クラゲである。「ヨウラク」の由来は仏壇の飾りの「瓔珞」に似ている事からという説と、揺れて落ちることを意味する「揺落」からの二説ある』とあり、日本の太平洋岸に分布する暖海性外洋性の『透明な棒状の形のクラゲである。長さは一三センチメートル、幅三センチメートルを越えるものも。頂端に小気泡体のある橙黄色の幹から泳鐘が左右二列で数十個連なり、十二角柱型。伸びると、側枝には刺胞叢と八~九回巻いた赤色の刺胞帯がある触手が外に長く垂れる。体はとても脆く、手で触れると泳鐘は簡単にバラバラになる』(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)とあり、私が拘る『しかし、体は脆いとはいえ、カツオノエボシに匹敵する刺胞毒が強い種もいるので、本来は触るべきでない』危険動物指示がしっかりと示されているのが何より嬉しい。なお、代表的なヨウラククラゲ Agalma okenii に同定しなかった理由は、例えばTBSブリタニカ二〇〇〇年刊の並河洋「クラゲ ガイドブック」のヨウラククラゲの記載によれば、Agalma okenii の泳鐘部と栄養部の大きさはほぼ同じ長さ(栄養部がやや太い)で、泳鐘部は二列に並んだ十個の泳鐘が互いに重なり合って十二角柱となっているとあり、その付属写真をみても図の形状とはかなり異なるからである。対するシダレザクラクラゲ Nanomia bijuga の写真は、その群体が頗る細長い。更に同記載には二列の泳鐘が十個以上見られ、その下には泳鐘部の数倍の長さになる栄養部が枝垂桜の枝のような姿形で続いている、とあって本図ともよく一致するからである(同種の分布は本州中部以南沿岸とある)。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 2

 前代のかた見とて、世に殘る物は神社佛閣なり。平時賴建長禪寺を創む、五山の第一たり。大覺禪師を開山祖となす。此禪師は字は蘭溪諱道隆、大宋より後嵯峨の寛元四年に來朝し給ふ。蜀の人なり。そのかみ千光國師榮西建保年中に入滅し給ふ。我世を去つて後三十三年に來朝の僧あるべし、我三十三年の拈香の師に請ずべし、是を布施しまいらせよとて藕糸の袈裟を殘されけり。年月うつりて三十三年の忌を、筑前國羽堅の聖福寺にしていとなみけるに、來朝の憎もなし。讖もあはぬ也といひける所に、半齋ばかりの時分、太宰府に唐船入ぬ。いかなる人やわたりけると尋ければ、大覺禪師此舟にて來朝也。即拈香に請じける。拈香の語は建仁の錄にみへたり。蜀地雲高、扶桑水快、前身後身、兩彩一賽と云々。千光は扶桑の人也、永快とは千光をいへり。大覺は蜀の産也。雲高とは大覺自らいへり、自贊の語なり、前身とは千光をいひ後身とは大覺のみづからいへるなり。合て一人なり。しかれば兩彩一賽といへる也。藕糸の袈裟今に大覺禪師の塔西來院にあり。千光國師三十三年に、大覺齡三十三にして寛元四年に來朝し給ふ。そのかみ千光の遺言、大覺の來朝、千光の三十三年、大覺の歳三十三、誠に符を合するがごとし。又本朝に三十三年ありて後宇多の弘安元年に壽六十六にて入滅ありき。
[やぶちゃん注:「蘭溪諱道隆、大宋より後嵯峨の寛元四年に來朝し給ふ」寛元四(一二四六)年に来日した蘭渓道隆(諡号大覚禅師)は本文にある通り、奇しくも数え三十三歳であった。
「蜀の人なり」蘭渓道隆は南宋の西蜀(現在の四川省)の出身。
「榮西建保年中に入滅し給ふ」本邦の臨済宗開祖である栄西(諡号千光国師)は建保三(一二一五)年に享年七十五で示寂している。蘭渓の来日は三十一年後であるが、示寂の年からの数え年とすれば三十二年で、事実とすれば驚くべき予言の当確とすべきであろう。
「拈香」は、本来は香を抓まんで焚くことであるが、ここは「拈香文」、禅僧が拈香の後に死者に哀悼の意を表して朗読する文を指し、その儀の主催者とすることであろう。
「藕糸」は「ぐうし」と読み、蓮の茎や根の細い繊維。蓮の糸の意。
「筑前國羽堅の聖福寺」現在の福岡市博多区御供所(ごくそ)町にある聖福寺。建久六(一一九五)年)に、南宋より帰国いた栄西が宋人の建立した博多の百堂の跡に創建した寺で、これが日本最初の禅寺であり、禅道場である。「羽堅」という地名は不詳、識者の御教授を乞う。
「讖」「シン」と読み、予言の意。
「半齋」「はんとき」。凡そ一時間。
「建仁の錄」建仁寺の記録の謂いであろう。禅・天台・真言の三宗兼学の建仁寺は建仁二(一二〇二)年に源頼家の外護により栄西が建立した。三宗兼学であったのは当時の京で真言・天台の既存宗派の勢力が強大であったからであったが、正元元(一二五九)年にはまさにこの蘭渓道隆が第十一世住職として入寺、純粋禅の寺院となった。創建から五十七年後のことであるが、栄西は別の讖(しん)で、自分の示寂の五十年後には本邦で禅宗が最も盛んになるであろう、とも予言しているのである。
「蜀地雲高、扶桑水快、前身後身、兩彩一賽」「大覚禅師語録」に「上堂蜀地雲高扶桑水快前身後身一彩兩賽昔年今日死而不亡今日斯晨在而不在諸人還知落處麼良久香風吹萎花更雨新」とあり、四句目が異なるが、「賽」は優劣や勝負を競うことで、謂いは沢庵の理解でよいであろうと思われる。]

船室から 萩原朔太郎 (詩集「宿命」版)

 船室から

 

 嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線、上昇する地平線、落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎖(チエン)を卷け、鎖(チエン)を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓。傾むく地平線、上昇する地平線。鎖(チエン)、鎖(チエン)、鎖(チエン)。風、風、風。水、水、水。船窓(ハツチ)を閉めろ。船窓(ハツチ)を閉めろ。右舷へ、左舷へ。浪、浪、浪。ほひゆーる。ほひゆーる。ほひゆーる。

 

[やぶちゃん注:詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)より。「散文詩」という総副題の中にある一篇。]

船室から 萩原朔太郎  (アフォリズム集「新しき欲情」版)

船室から 嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線上昇する地平線、落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎖(ちえん)を卷け、鎖(ちえん)を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓、傾むく地平線、上昇する地平線。大洪水、大洪水。風、風、風。扉(どあ)を閉めろ、扉(どあ)を閉めろ。ほひゆーる、ほひゆーる、ほひゆーる、る、る、る…………(暴風雨の幻想として)

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第五放射線」より。「傾むく地平線上昇する地平線」はママ。底本では、このアフォリズムは前に「228」のナンバーを持つ。これは後に後掲するような形に改稿されて、詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)に散文詩として採録されている。]

耳嚢 巻之六 二尾檢校針術名譽の事

 二尾檢校針術名譽の事

 二尾檢校城榮(ふたをけんげうじやうえい)は針術に妙を得て、元祿の頃、紀州公へ被召出(めしいだされ)、五拾人扶持を給(たまは)り、猶(なほ)役金等も給りしが、一生無妻にて聊(いささか)欲を不知(しらず)。常に遊所へ至りて遊女を樂しみとなし、公邊に出てもいさゝか隱す事なく、其氣性剛傑ともいふべし。紀州家の愛臣、氣病にて久敷(ひさしく)不快なるを療治せしに、檢校針をおろす夜は何事もなし。當番其外君用(そのほかくんよう)にてまからざる時は其病危し。是を君も聞(きき)給ひて、檢校へ夜詰の勤番不被仰付(おほせつけられられざる)故、夜毎に彼(かの)病人の許(もと)に至りぬ。或日座敷に檢校ひとり休息しけるに、女の聲にて賴(たのみ)たき事ありといふ。いかなる事哉(や)と尋(たづね)ければ、此(この)あるじには恨(うらむ)る筋ありて、取付惱(とりつきなやま)すなり、我は野狐なり、我(わが)願ひ御身の鍼(はり)故に成就せざる間、重(かさね)ては鍼を用(もちふ)る事、容捨あるべし、若(もし)いなみ給はば御身の爲にもなるまじといひける故、檢校答けるは、汝(なんぢ)人の命をとらんとす、我は人の命を救ふを業(げふ)とす、況(いはんや)君命を請(うけ)て療治する上は、汝が望(のぞみ)、決(けつし)て承知しがたし、我に仇(あだ)なさば勝手次第、命と業とはかへがたしと申ければ、彼もの大に憤り、檢校の側へ來り、かきむしりて奧の方へ入ると覺へしに、病人以(もつて)の外(ほか)の由、奧より申(まうし)來りし故、早速立入(たちいり)、檢校も右の事を聞(きき)し故、心命を加へて鍼を下(おろ)し療養なしけるに、早速ひらき快かりしが、翌朝大庭へ年古(としふる)狐斃居(たふれゐ)たりしは、誠に檢校の心術の一鍼(いつしん)、其(その)妖は退治せると、其徒のもの、今にかたり傳へしとなり。

□やぶちゃん注
○前項連関:何と怪談四連発。妖狸譚から妖狐譚へと正統的連関でもある。
・「二尾檢校城榮」不詳。諸本に注なし。ネット検索でも掛からない。
・「紀州公」元禄の頃となると後の第八代将軍吉宗の父徳川光貞か、その嫡男徳川綱教の代となるが、ただ「紀州公」と称している点で前者であろう。
・「五拾人扶持」というのはとんでもない石高になる。ネット上の情報から江戸時代の平均的な数値で米に単純換算すると、
一人扶持=五俵=一・七五石=一七五升=一七五〇合=約二六二・五キログラム
であるから、何と、十三トン強だ! それに「役金」(幕府が幕臣に現金支給した役職手当の一種)まで! その人物の情報がまるでないというのも解せない。識者の御教授を乞うものである。
・「勤番不被仰付故」訓読したように、「勤番、仰せ付けられざる故」で問題ないが、底本では右に『(尊經閣本「勤番御免被仰付故」)』と傍注する。これだと「勤番御免、仰せ付けらる故」となり、文意としての通りはこっちの方が自然であるので、現代語訳は後者を採用した。
・「命」「業」前は「いのち」であろうが、後ろは同じく訓で「なりはひ」と読むと、朗読した際、検校の覚悟の台詞としての音(おん)が弛んでしまう気がする。かといって前を「めい」と音にすると、意味が採り難くなる。私は敢えて「命」を「いのち」と読み、「業」を「げふ(ぎょう)」と読んでおきたい。

■やぶちゃん現代語訳

 二尾検校の針術名誉の事

 二尾(ふたお)検校城栄(じょうえい)殿は、針術の技、絶妙の誉れを以って、元禄の頃、紀州公へ召し出だされ、五十人扶持を給はった上、更に役金(やっきん)などまでも給はれて御座ったが――この御仁、一生妻帯されず、また、聊かの欲をも持たるることなく、普段は遊廓へ参り、遊女らと戯るることを、これ、唯一の楽しみとなされ、公の場に出向かれても、遊廓の遊びのことを、如何にも楽しそうに話されは、聊か隠すことものう――謂わば、その御気性、これ、剛傑と申すに相応しい御方で御座ったと申す。
 さて、ある時、紀州公御寵愛の御家臣、永の気鬱の病いにて、はなはだ宜しからざるによって、二尾殿が療治致いて御座った。
 検校殿が針を下ろいた夜は何事ものう、安泰で御座ったが、検校殿が、お城の宿直(とのい)に当たっておられた折りや、その外の紀州公の御用によって、往診鍼治出来ざる折りには、その病状、甚だ危ういものとなって御座ったと申す。
 されば、これを紀州公もお聞きなられて、検校へは、夜詰宿直(とのい)の勤番の儀、これ、免除の由、仰せつけられたによって、検校殿は毎晩、かの病人の元へと往診療治に参って御座った由。
 そんなある夜のこと、いつもの通り、御家臣方屋敷へ療治に参り、その座敷にて、検校殿お一人、療治の合間とて、少しばかり休息をなさっておられたところ……
……女の声で、
「……頼みたきこと……これ……あり……」
と、申す。
 検校殿は眼の不自由なれば、その声のした方(かた)へと向き直って、
「――如何なることや?」
と質いた。すると、
「……この家(や)の主人(あるじ)には……これ……恨んでおる筋……これ……ありて……憑りつきて悩ませておる……我は……野狐……じゃが……我が願い……御身(おんみ)の鍼(はり)ゆえに成就致さぬ……どうか……重ねては鍼を用いること……これ……容捨あるべし……もし……否み給ふとならば……御身の身のためにも……これ……なりませぬぞえっ……」
と申したによって、検校、答えて、
「――汝、人の命(いのち)をとらんとす。――我れは、人の命を救うを業(ぎょう)とす。――況んや、君命を請けて療治する上は、汝が望み、これ、決して承知し難し!――我に仇をなさんとせば、これ、勝手次第!――命(いのち)と業(ぎょう)とは、これ、替え難し!」
と喝破致いたところが、かのあやかしと思しき女ならんもの、大いに憤った様子にて、検校の側へと、
――ツッ!
と寄り来たった気配の致いたかと思うと、
――シャアッツ!
という、おぞましき叫び声を挙げ、
――シャカシャカシャカシャカッ!
と検校の体を、これ、無体に掻き毟った、かと思うたところが、
――サッ!
と奧の方へと入ったと覚えた――その瞬間――
「……御病人! 以ての外の有り様にて御座いまする!……」
と、奧方より伝令の者、走り出で来たったによって、検校殿、直ちに立ち入られ――既に気鬱の病いの正体も、これ、かくの通りに聞き知って御座ったゆえ――文字通り、心命を賭して鍼を下ろし、強力苛烈なる療治をなされたと申す。……
 されば、かの病人、瞬く間に快癒致いた。……
 翌朝のこと、御屋敷の大きなる庭の隅に……年経た狐が一匹……斃れ伏して御座ったと申す。……
「……まっこと、かの検校の、心魂を込めた一撃一鍼(いっしん)の術……これ、その妖狐を美事、退治致いたので御座る!……」
と、紀州家御家中の方々、この話を今に語り伝えておらるる、とのことで御座る。

鬼城句集 春之部 蛙

蛙    浮く蛙居向をかへて浮きにけり

     事もなげに浮いて大なる蛙かな

罪の拜跪 大手拓次

 罪の拜跪

ぬしよ、この「自我」のぬしよ、
空虛な肉體をのこしてどこへいつたのか。
ぬしの御座は紫の疑惑にけがされてゐる。
跳梁(てうりやう)をほしいままにした罪の涙もろい拜跪は
祈れども祈れども、
ああ わたしの生存の標(しるし)たるぬしはみえない。
ぬしよ、囚人の悲しい音樂をきけ。
據りどころのない亡命の鳥の歌をきけ。
ぬしよ、
罪の至純なる懺悔はいづこまでそなたの影を追うてゆくのか。
ぬしよ、信仰の火把(ひたば)に火はつけられんとする。
死は香爐の扉のやうににほうてくる。

[やぶちゃん注:底本、八行目は、
據りどころ亡命の鳥の歌をきけ。
であるが、意味が通らないため、昭和二六(一九四一)年創元社刊創元文庫「大手拓次詩集」、昭和五〇(一九七五)年現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」に拠って訂した。]

北條九代記 實朝卿和歌定家卿批點 付 鬪鷄

      ○實朝卿和歌定家卿批點  鬪鷄

承元元年七月に將軍實朝卿、御夢想によりて和歌二十首を詠じて、住吉の寶殿に奉納あり。この次(ついで)に、去ぬる建永元年より以來の詠歌三十首を藤原定家卿に送り、批點(ひてん)を請ひ給ふ。定家卿、點を加へて返され、詠歌の口傳(くでん)一卷を參せらる。日比、和歌六義(りくぎ)の風體(ふうてい)を實朝卿、尋ね給ひける故なり。この比(ころ)、世も既に靜(しづか)なるに似て、春の空長閑(のどか)なり。三月朔日に永編福寺の梅櫻を北の御壺(つぼ)に掘移(ほりうつ)して植られ、同じき三日には北の御壺に於て鬪鷄(にはとりあはせ)の會(くわい)あり。相州、時房を初(はじめ)て、親廣、朝光、義盛、逹元、景盛、常秀、常盛、義村、宗政等(ら)をその衆として、思ひ思うひに鷄(にはとり)を出して鬪(あはせ)らる。或は距(けづめ)に金(かね)を入れ、或は翼に芥(なたね)を塗りけん[やぶちゃん字注:「或は翼に」の「或」は底本では「成」。誤植と判断して訂した。]、唐(もろこし)の季郈(きこう)、季子(きし)が古(いにしへ)もかくこそありつらめとこの比(ころ)の見物(みもの)なり。

[やぶちゃん注:標題は「實朝〔の〕卿和歌定家〔の〕卿批點(ひてん) 付 鬪鷄(にはとりあはせ)」とルビを振る。私はここまで「〇〇卿」の「〇〇」の後に「の」を入れては読んでこなかったので、これには激しい違和感がある。向後、あっても省略するので、悪しからず。

 本話はクレジットにひどい錯雑がある。実朝が和歌を住吉社に献上し、定家より詠歌口伝を伝授される部分は、「承元元年」(西暦一二〇六年)ではなく、「吾妻鏡」巻十八の承元三(一二〇九)年の七月五日及び八月十三日に基づき、住吉社献が七月、後の伝授は翌月である(本文はともに七月のことのように記してあるのは誤りである)。後半の永福寺北の壺での梅・桜の移植や闘鶏の会に至っては、「承元元年」の「三月朔日」及び同「三日」としているが、甚だしい錯誤で、これは「吾妻鏡」では承元元年の一年前、建永二(一二〇七)年三月一日及び同三日の話である。確認のために以下に示しておく。

 まず承元三(一二〇九)年七月五日の条(七月は「吾妻鏡」ではこの一条のみである)。

〇原文

五日丙申。將軍家依御夢想。被奉二十首御詠歌於住吉社。内藤右馬允知親〔好士也。定家朝臣門弟。〕爲御使。以此次。去建永元年御初學之後御歌撰卅首。爲合點。被遣定家朝臣也。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日丙申。將軍家、御夢想に依つて、二十首の御詠歌を住吉社へ奉らる。内藤右馬允知親〔好士なり。定家朝臣の門弟。〕御使たり。此の次でを以つて、去ぬる建永元年、御初學の後の御歌卅首を撰(えら)み、合點(がつてん)の爲に、定家朝臣に遣はさるるなり。

「好士」は歌人、「合點」は和歌の批評で、その際に秀歌と思うものの肩につける「〽」「○」「・」などの印を附けたことからの呼称。

 

 次に同年八月十三日の条(八月は「吾妻鏡」ではこれと十五日の二条のみ)。

〇原文

十三日甲戌。知親。〔元朝字也。與美作藏人朝親名字著到時。混乱間改之。〕自京都歸參。所被遣于京極中將定家朝臣之御歌。加合點返進。又獻詠歌口傳一巻。是六義風體事。内々依被尋仰也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日甲戌。知親〔元は朝の字なり。美作藏人(みまさかのくらんど)朝親と、名字著到の時、混乱するの間、之を改む。〕京都より歸參す。京極中將定家朝臣に遣はさるる所の御歌、合點を加へ返し進ず。又、詠歌の口傳一巻を獻ず。是れ、六義風體(りくぎふうてい)の事、内々尋ね仰せらるるに依つてなり。

割注は、「知親」の元の名前は「朝親」の字であったが、「美作(藤原)蔵人朝親(ともちか)」(生没年不詳。御家人。「吾妻鏡」には承元二(一二〇八)年の五月十七日の条に、実朝の病気平癒祈願のための鶴岡八幡宮での法華経供養の奉行として「美作蔵人朝親」の名で初出し、建暦三(一二一三)年二月に設置された学問所番の二番筆頭にその名が見え、「吾妻鏡」では都合、二十四箇所ほど現われる人物で、承久の乱の後は若狭国大飯郡本郷の地頭に任ぜられて同地に下向した。子孫は本郷氏を称し、鎌倉期には在京の御家人として存続していると、ウィキの「美作朝親」にある)。の名と、「名字著到」(幕府への出勤や公務集合の際に到着と同時に署名した名簿。着到状)の際に混乱を来たすので、「知親」と変えた、の意。

「六義」和歌の六種の風体。紀貫之が「詩経」に於ける詩の六種の分類である六義(内容での区分である風・雅・頌(しょう)と表現上の区分である賦・比・興)を転用して、「古今集」の「仮名序」で述べた六種の歌の作り方。そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌。

 

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