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2013/03/29

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

五月二日の申刻計(さるのこくばかり)に、和田左衞門尉義盛大將として、嫡子新左衞門尉常盛、同じき子息新兵衞尉朝盛入道實阿、三男朝夷(あさひな)三郎義秀、四男四郎左衞門尉義直、五男五郎兵衞尉義重、六男六郎兵衞義信、七男七郎秀盛、この外には土屋大學助(つちやのだいがくのすけ)義淸、古郡(ふるごほりの)左衞門尉保忠、澁谷次郎高重、中山四郎重政、同太郎行重、土肥(とひの)先次郎左衞門尉惟平、岡崎左衞門尉實忠〔眞田與一言芳談が子なり〕、梶原六郎朝景、同次景衡、同三郎影盛、同七郎景氏、大庭次郎景兼(かげかね)、深澤(ふかざはの)三郎景家、大方(おほかたの)五郎政直、同太郎遠政、鹽屋(しほやの)三郎惟守以下親類朋友百五十騎、郎從都合三百餘人、三手に分ちて押寄せたり。一手は雑草家の南門に至り、二手は相州義時の小町の西、北の両門を圍みたり。義時は豫てより、將軍の御陣、法華堂に伺候せらる。留主の侍(さぶらひ)五十餘人、出合ひて戰ひ、殘りなく討れたり。御家人等(ら)、御所の南に出でて戰ふに、兩方、矢を發(はな)つ事、雨の如く、鋒(きつさき)より火を出し、鐔元(つばもと)に血を滴(した)で、追(おう)つ捲(まく)りつ、半時計り攻(せめ)戦ふ。波多野(はだのゝ)中務丞忠綱、三浦左衞門尉義村、馳(はせ)加はりけれども、御家人等、叶はずして、散々に追靡(おひなび)けらる。御所の四面を取圍みて内に攻入らんとす。修理亮泰時、同次郎朝時、上總三郎義氏等、力を盡してふせぎけるを、朝夷三郎義秀、惣門を押破り、軍兵(ぐんぴやう)、込入(こみいり)て、火を掛けしかば、御所の棟々(むねむね)、一宇ものこらず燒失す。

 

[やぶちゃん注:〈和田合戦Ⅰ 御所焼亡〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年五月二日の条に基づく。建暦三年(一二一三)五月二日の条の前半を以下に示す。なお、しばしばお世話になっている、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の訳の脇に、非常に分かり易い合戦関連地図が掲げられている。是非、ご覧になられたい。

〇原文

二日壬寅。陰。筑後左衞門尉朝重。在義盛之近隣。而義盛館軍兵競集。見其粧。聞其音。備戎服。發使者。告事之由於前大膳大夫。于時件朝臣。賓客在座。杯酒方酣。亭主聞之。獨起座奔參御所。次三浦平六左衞門尉義村。同弟九郎右衞門尉胤義等。始者與義盛成一諾。可警固北門之由。乍書同心起請文。後者令改變之。兄弟各相議云。曩祖三浦平太郎爲繼。奉属八幡殿。征奥州武衡家衡以降。飽所啄其恩祿也。今就内親之勸。忽奉射累代主君者。定不可遁天譴者歟。早飜先非。可告申彼内儀之趣。及後悔。則參入相州御亭。申義盛已出軍之由。于時相州有圍碁會。雖聞此事。敢以無驚動之氣。心靜加目算之後。起座改折烏帽子於立烏帽子。裝束水干。參幕府給。而義盛與時兼。雖有謀合之疑。非今朝之事歟由。猶豫之間。於御所。敢無警衞之備。然而依兩客之告。尼御臺所幷御臺所等去營中出北御門。渡御鶴岳別當坊云々。申刻。和田左衞門尉義盛率伴黨。忽襲將軍幕下。謂件與力衆者。嫡男和田新左衞門尉常盛。同子息新兵衞尉朝盛入道。三男朝夷名三郎義秀。四男和田四郎左衞門尉義直。五男同五郎兵衞尉義重。六男同六郎兵衞尉義信。七男同七郎秀盛。此外。土屋大學助義淸。古郡左衞門尉保忠。澁谷次郎高重。〔横山權守時重聟。〕中山四郎重政。同太郎行重。土肥先次郎左衞門尉惟平。岡崎左衞門尉實忠。〔眞田與一義忠子。〕梶原六郎朝景。同次郎景衡。同三郎景盛。同七郎景氏。大庭小次郎景兼。深澤三郎景家。大方五郎政直。同太郎遠政。塩屋三郎惟守以下。或爲親戚。或爲朋友。去春以來結黨成群之輩也。皆起於東西。相分百五十軍勢於三手。先圍幕府南門幷相州御第〔小町上。〕西北兩門。相州雖被候幕府。留守壯士等有義勢各切夾板。以其隙爲矢石之路攻戰。義兵多以傷死。次廣元朝臣亭。酒客在座。未去砌。義盛大軍競到進門前。雖不知其名字。已發矢攻戰。其後凶徒到横大路。〔御所南西道也。〕於御所西南政所前。御家人等支之。合戰及數反也。波多野中務丞忠綱進先登。又三浦左衞門尉義村馳加之。酉剋。賊徒遂圍幕府四面。靡旗飛箭。相摸修理亮泰時。同次郎朝時。上総三郎義氏等防戰盡兵略。而朝夷名三郎義秀敗惣門。亂入南庭。攻撃所籠之御家人等。剩縱火於御所。郭内室屋。不殘一宇燒亡。(以下は次のパートに譲る)

〇やぶちゃんの書き下し文

二日壬寅。陰る。筑後左衞門尉朝重、義盛の近隣に在り。而るに義盛の館(たち)に軍兵競ひ集まる。其の粧ひを見、其の音を聞くに、戎服(じゆうふく)を備ふ。使者を發して、事の由を前大膳大夫に告ぐ。時に件の朝臣の賓客、座に在り。杯酒、方(まさ)に酣(たけな)はなり。亭の主、之を聞きて、獨り座を起ち、御所へ奔(はし)り參る。次いで、三浦平六左衞門尉義村・同九郎右衞門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固すべきの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改變せしめ、 兄弟各々相議して云はく、

「曩祖(なうそ)三浦平太郎爲繼、八幡殿に属し奉り、奥州の武衡・家衡を征しより以降(このかた)、飽くまで其の恩祿を啄(ついば)む所なり。今、内親(ないしん)の勸めに就きて、忽ちに累代の主君を射奉らば、定めし天譴(てんけん)を遁(のが)るべからざる者か。早く先非を飜へし、彼の内儀の趣きを告げ申すべし。」

と、後悔に及ぶ。則ち、相州の御亭に參り入り、義盛、已に出軍の由を申す。時に相州、圍碁の會有り。此の事を聞くと雖も、敢へて以つて驚動の氣無し。心靜かに目算(もくさん)を加へるの後、座を起ち、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を裝束(さうぞ)して、幕府に參り給ふ。而るに義盛と時兼と、謀合の疑ひ有りと雖も、今朝(こんちやう)の事に非ざらんかの由、猶豫(いうよ)するの間、御所に於いて、敢へて警衞の備へ無し。然れども、兩客の告げに依つて、尼御臺所幷びに御臺所等、營中を去り、北御門を出でて、鶴岳別當坊へ渡御すと云々。

申の刻、和田左衞門尉義盛、伴黨(ばんたう)を率いて、忽ちに將軍幕下を襲ふ。件(くだん)の與力衆と謂ふは、嫡男和田新左衞門尉常盛・同子息新兵衞尉朝盛入道・三男朝夷名三郎義秀・四男和田四郎左衞門尉義直・五男同五郎兵衞尉義重・六男同六郎兵衞尉義信、・七男同七郎秀盛、此の外、土屋大學助義淸・古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠・澁谷次郎高重〔横山權守時重が聟。〕・中山四郎重政・同太郎行重・土肥先次郎左衞門尉惟平・岡崎左衞門尉實忠 〔真田與一義忠が子。〕・梶原六郎朝景・同次郎景衡・同三郎景盛・同七郎景氏・大庭小次郎景兼・深澤三郎景家・大方(おほかた)五郎政直・同太郎遠政・塩屋三郎惟守以下、或ひは親戚として、或ひは朋友として、去ぬる春以來(このかた)、黨を結び群を成すの輩なり。皆、東西に於いて起ち、百五十の軍勢を三手に相ひ分ち、先づ幕府南門幷びに相州が御第(ごてい)〔小町の上(かみ)。〕西・北の兩門を圍む。相州、幕府に候ぜらると雖も、留守の壯士等、義勢(ぎせい)有り。各々夾板(はあみいた)を切り、其の隙を以つて矢石(しせき)の路(みち)と爲して攻め戰ひ、義兵、多く以つて傷死(しやうし)す。次いで廣元朝臣が亭、酒客、座に在り。未だ去ざる砌り、義盛が大軍、競ひ到りて門前に進む。其の名字を知らずと雖も、已に矢を發(はな)ちて攻め戰ふ。其の後、凶徒、横大路(よこおほぢ)〔御所の南西の道なり。〕に到る。御所の西南、政所前に於いて、御家人等、之を支へ、合戰、數反(すへん)に及ぶなり。波多野中務丞忠綱、先登に進む。又、三浦左衞門尉義村、之に馳せ加はる。酉の剋、賊徒、遂に幕府の四面を圍み、旗を靡(なび)かせ、箭(や)を飛ばす。相摸修理亮泰時・同次郎朝時・上総三郎義氏等、防ぎ戰ひ、兵略を盡す。而るに、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に亂れ入つて、籠る所の御家人等を攻撃す。 剩(あまつさ)へ、火を御所に縱(はな)ちて、郭内の室屋(しつをく)、一宇殘さず燒亡す。(以下は次のパートに譲る)

・「戎服」軍服。鎧。

・「前大膳大夫」大江広元。

・「八幡殿」源義家。

・「武衡・家衡」清原武衡と甥の家衡。後三年の役で義家に滅ぼされた。

・「内親」父方の親類。内戚。

・「天譴」天帝のとがめ。天罰。

・「内儀」内議。

・「目算」囲碁で対局中に相手と自分の地を計算すること。

・「時兼」横山党の横山時兼。武蔵七党の一つで、和田氏の与党。

・「夾板」門の袖に取り付けた板。

・「矢石の路」「矢石」は矢と弩(いしゆみ)の石で、矢狭間のこと。]

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