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2013/03/16

北條九代記 黑谷源空商人流罪 付 上人傳記

      ○黑谷源空商人流罪  上人傳記

 

元久三年四月に改元あり、建永元年と號せらる。次の年十月に又改元あり、承元(しようげん)と號す。かく改元のありけるも、世の中内外(うちと)に付けて靜(しづか)ならざる故なるべし。承元元年二月に黑谷上人法然房源空を讃岐國に流罪せらる。彼の上人は、本は美作國久米南條稻岡(くめのなんでういなをか)と云ふ所の人なり。父は漆間(うるまの)左衞門尉時國と名付く。讐敵(しうてき)の爲に夜討(ようち)せられ、時國、害せられしかば、母に隨ひて、當國菩提寺の觀覺得業生(くわんがくとくごふせい)の弟子となり、後に叡山に登りて、阿闍梨皇圓(くわうゑん)の門弟として、剃髮受戒し、學文(がくもん)を極め、又、源光阿闍梨に師とし仕(つかへ)て、宗(しう)の淵底(えんてい)を明(あきら)め、遂に隱遁して、黑谷睿空(えいくう)法師の許に行きて、念佛の門に入り、法然道理(はふねんだうり)の人なりと申されしとり法然房と名を付(つ)き、又初の師源光、今の師睿空の一字を取合せて、法名を源空とぞ名のられける。四十三にして、浄土念佛の宗門を立てて、東山黑谷に居て、是を勸められしかば、その門弟三百餘人、其外貴賤の男女參(まゐり)集りて、念佛す。九條前〔の〕關白太政大臣藤原兼實公(こう)は月輪殿(つきのわどの)と申しけるが、源空上人の念佛に歸して、崇敬(しうきやう)ありし所に、後鳥羽上皇の宮女二人戒を受けて尼(あま)となる。上皇逆鱗ましまして、その弟子授戒せし住蓮安樂をば六條河原にして首(かうべ)を刎(は)ね、法然房は流罪せられ、その外上足(そく)の弟子諸國に配流せられたり。是より五年の後、勅免あり。建暦二年正月二十五日、八十歳にして吉水(よしみづ)にて遷化あり。

[やぶちゃん注:浄土宗及び浄土真宗の元祖法然(長承二(一一三三)年~建暦二(一二一二)年)の流罪と略伝。以下、ウィキ法然」から引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略し、柱の標題の頭に□を附した)。

   《引用開始》

□生い立ちと出家・授戒

長承二年(一一三三年)四月七日、美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と、母・秦氏君(はたうじのきみ)との子として生まれる。生誕地は、誕生寺(出家した熊谷直実が建立したとされる)になっている。

『四十八巻伝』(勅伝)などによれば、保延七年(一一四一年)九歳のとき、土地争論に関連し、明石源内武者貞明が父に夜討をしかけて殺害してしまうが、その際の父の遺言によって仇討ちを断念し、菩提寺の院主であった、母方の叔父の僧侶・観覚のもとに引き取られた。その才に気づいた観覚は、出家のための学問をさずけ、また、当時の仏教の最高学府であった比叡山での勉学を勧めた。

その後、天養二年(一一四五年)、比叡山延暦寺に登り、源光に師事した。源光は自分ではこれ以上教えることがないとして、久安三年(一一四七年)に同じく比叡山の皇円の下で得度し、天台座主行玄を戒師として授戒を受けた。久安六年(一一五〇年)、皇円のもとを辞し、比叡山黒谷別所に移り、叡空を師として修行して戒律を護持する生活を送ることになった。「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、このとき、十八歳で法然房という房号を、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。したがって、法然の僧としての正式な名は法然房源空である。法然は「智慧第一の法然房」と称され、保元元年(一一五六年)には京都東山黒谷を出て、清凉寺(京都市右京区嵯峨)や醍醐寺(京都市伏見区醍醐東大路町)などに遊学した。

□浄土宗の開宗

承安五年(一一七五年)四十三歳の時、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)によって回心を体験し、専修念仏を奉ずる立場に進んで浄土宗を開き、比叡山を下りて東山吉水に住んで、念仏の教えを広めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされる。法然のもとには延暦寺の官僧であった証空、隆寛、親鸞らが入門するなど次第に勢力を拡げた。

養和元年(一一八一年)、前年に焼失した東大寺の大勧進職に推挙されるが辞退し、俊乗房重源を推挙した。

文治二年(一一八六年)、大原勝林院で聖浄二門を論じた。これを「大原問答」と呼んでいる。

建久元年(一一九〇年)、重源の依頼により再建中の東大寺大仏殿に於いて浄土三部経を講ずる。 建久九年(一一九八年)、専修念仏の徒となった九条兼実の懇請を受けて『選択本願念仏集』を著した。叙述に際しては弟子たちの力も借りたという。

元久元年(一二〇四年)、後白河法皇十三回忌法要である「浄土如法経(にょほうきょう)法要」を法皇ゆかりの寺院・長講堂(現、京都市下京区富小路通六条上ル)で営んだ。絵巻『法然上人行状絵図』(国宝)にその法要の場面が描かれている。

□延暦寺奏状・興福寺奏状と承元の法難

元久元年(1204年)、比叡山の僧徒は専修念仏の停止を迫って蜂起したので、法然は『七箇条制誡』を草して門弟一九〇名の署名を添えて延暦寺に送った。しかし、元久二年(一二〇五年)の興福寺奏状の提出が原因のひとつとなって承元元年(一二〇七年)、後鳥羽上皇により念仏停止の断が下された。

念仏停止の断のより直接のきっかけは、奏状の出された年に起こった後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に院の女房たちが法然門下で唱導を能くする遵西・住蓮のひらいた東山鹿ヶ谷草庵(京都市左京区)での念仏法会に参加し、さらに出家して尼僧となったという事件であった。この事件に関連して、女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、それが上皇の大きな怒りを買ったのである。

法然は還俗させられ、「藤井元彦」を名前として土佐国(実際には讃岐国)に流罪となった。なお、親鸞はこのとき越後国に配流とされた。

□讃岐配流と晩年

讃岐国滞在は十ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、七十五歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。

承元元年(一二〇七年)十二月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元四年(一二一〇年)三月二十一日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(一二一一年)には京に入り、吉水にもどった。

建暦二年(一二一二年)一月二十五日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年八十(満七十八歳没)。なお、死の直前の一月二十三日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。

法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、式子内親王・九条兼実・宇都宮頼綱らが著名である。

   《引用終了》

「得業生」「とくごふしやう(とくごうしょう)」とも読む。元来は古代の学制の一つで、明経・紀伝(文章)・明法・算の各道の学生(がくしょう)から成績優秀の者を選んで与えた身分を指したが、それが僧の学階にも用いられるようになり、奈良では三会(さんえ:円宗寺の法華会と最勝会及び法勝寺の大乗会の三つの三代法会。)の立義(りゅうぎ:「竪義」とも書き、法会に際して学僧を試験するために行われた問答論議の儀式。探題(たんだい)が問題を出して問者(もんじゃ)が難詰、試験を受ける竪者(りっしゃ)がこれに答える儀式。)を勤め終えた僧の称号となり、比叡山では、横川(よかわ)の四季講(横川の四季講堂で行われる恵心講二十五三昧式)と定心房の三講(やはり比叡山横川にあった元三大師良源の住房定心房で四季に行われた法華経講義。定心房は別名、四季講堂と呼ばれた)が建の聴衆を勤めた僧の称号となった。ここでは後者の比叡山。

「月輪殿」九条兼実の山荘の名。]

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