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2013/03/28

北條九代記 北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

和田左衞門尉義盛は、上總國伊北莊(いぎたのしやう)にありけるが、この事を聞きて急ぎ走參(はせさん)じ、御所に伺候して對面を遂げ奉る。今度、二人の子息等召誡(めしいまし)めらるゝ事を大に歎き申しければ、數年勲功の忠節に優(いう)じて、子息四郎義直、五郎義重が罪名(ざいみやう)を除きて、許し下されたり。羲盛、老後の眉目(びもく)、之に如(しか)ずと喜び奉りて、退出す。翌日、又、義盛、その一族九十八人を引卒して、御所の南庭に列坐し、迚(さても)の御恩に、囚人の内和田平太胤長を許し給はるべしと申す。平太は謀叛人の張本なれば、叶ふべからずとて、高手小手に縛搦(しばりから)め、一族共の坐したる前を引渡し、判官行村に仰せて、陸奥國岩瀨の郡(こほり)に流罪せらる。平太が家は荏柄(えがら)の天神の前にあり。御所の東の隣(となり)たるに依て、近習の侍、望み申す人多し。義盛、即ち五條局(でうのつぼね)とて、近く召使はるゝ女房に屬(しよく)して、言上しけるやう、「故右大將家の御時より、義盛が一族の所領の地としては、他人、更に住居すべからず。只今、闕所(けつしよ)に及ぶ條、是非なし。せめて彼が屋形(やかた)をば申(まうし)受け奉らん」と望み申す。實朝卿、御許容ありけるが、忽に變改(へんがい)して、相撲守義時に賜る。和田が代官久野谷(ひさのやの)彌次郎を追出し、行親、忠家、分(わけ)取りて移(うつり)住みけり。義盛、大に怒(いかつ)て曰く、「この屋形を申受けて少(すこし)の怨(うらみ)をも散ぜんと思ひし所に、忽に變改して義時に賜る事、重々以て口惜(くちをし)き事なり。此上は生きて世にありて何を面目とすべき。皆、北條が所屬なれば、思ひ知らせばべらんものを」とて、頓(やが)て叛逆を企てけり。和田新兵衞尉朝盛(とももり)は義盛が孫なり。將軍家の近習(きんじゆ)として等倫(とうりん)の寵恩、之に越(こゆ)る人なし。近比(このころ)、父祖一黨して怨(うらみ)を含み、出仕を留めて、叛逆を企てはべる。是に與すれば、君を射奉るの科(とが)あり。與せざれば、父祖の孝道に叛く事を思ひて、淨遍僧都に謁して、發心出家の身となり、實阿彌陀佛と名を付きて、京都に上りける所に、義盛、聞付けて、四郎左衞門尉義直を追手に遣はす[やぶちゃん注:「尉」は底本になく、不自然な一字空けになっている。脱字と判断して訂した。]。駿河國手越(てごし)にて追付き、引返しはべり。この事、隱(かくれ)なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)を遣(つかは)し、樣々宥(なだ)め仰せらるれども、用ひず。

 

[やぶちゃん注:〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年三月八日・九日・十七日・二十五日及び四月二日・十五日・十六日・十七日・十八日・二十七日等の条に基づくが、乱の勃発直前の、実朝幕府側と義盛との緊迫したやり取りのシークエンスは、何故か端折られている。個人的には、カタストロフへ向けての漸層的な昂まりの場面を筆者が省略したのは解せない。かなり面白いからである。特にその後半辺りは以下の「吾妻鏡」の引用で味わって戴きたい。まずは三月八日の条。

〇原文

八日己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。和田左衞門尉義盛日來在上総國伊北庄。依此事馳參。今日參上御所。有御對面。以其次。且考累日勞功。且愁子息義直。義重等勘發事。仍今更有御感。不及被經沙汰。募父數度之勳功。被除彼兩息之罪名。義盛施老後之眉目。退出云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞するの間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万といふことを知らず。和田左衞門尉義盛、日來(ひごろ)、上総國伊北庄(いきたのしやう)に在り。此の事に依つて馳せ參じ、今日御所へ參上し、御對面有り。其の次でを以つて、且つは累日(るいじつ)の勞功を考へ、且つは子息義直・義重等、勘發(かんぽつ)の事を愁ふ。仍つて、今、更に御感有りて、沙汰を經らるに及ばず、父が數度の勳功に募(つの)り、彼の兩息の罪名を除かる。義盛、老後の眉目(びもく)を施して、退出すと云々。

・「伊北庄」上総国夷隅郡内に中世に作られた荘園伊隅荘(いすみのしょう)の一部。鎌倉時代には全体としての伊隅荘という総称は残ったものの、実際には分割支配されて伊北荘・伊南荘と称された。現在の研究では伊北荘の範囲は現在の夷隅郡西部の大多喜町及び旧夷隅町の一部に勝浦市北部を含んだ地域とされる。参照したウィキに「伊隅荘」によれば、初期の『荘園領主は鳥羽上皇により創建された金剛心院』で、『当荘の成立経緯は不明だが、旧夷隅郡がほとんどそのまま伊隅荘として立荘されたものと考えられる。治承年間には上総氏の支配下にあった。そして上総氏が滅亡した後は和田義盛が伊北荘を支配したが、和田合戦で北条方に敗れた後は三浦胤義がこの地を支配した。しかし、当荘が南北両荘に分割して支配されたことは南北朝時代に至っても変わらなかったことが覚園寺文書からわかっている』とある。なお、「いきた」という読みは、本来の荘園総称の「いすみ」という読み及び「北條九代記」の読みに合わせた私の判断であって、資料によっては「いほく」と読んでいる。

・「勘發」読みは「かんほつ」「かんぼつ」でもよい。過失を責めること。譴責。

・「眉目」面目。名誉。

 

 翌九日の条。

〇原文

九日庚戌。晴。義盛〔著木蘭地水干葛袴。〕今日又參御所。引率一族九十八人。列座南庭。是可被厚免囚人胤長之由。依申請也。廣元朝臣爲申次。而彼胤長爲今度張本。殊廻計畧之旨。聞食之間。不能御許容。即自行親。忠家等之手。被召渡山城判官行村方。重可加禁遏之由。相州被傳御旨。此間。面縛胤長身。渡一族座前。行村令請取之。義盛之逆心職而由之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日庚戌。晴る。義盛〔木蘭地(もくらんぢ)の水干、葛袴(くずばかま)を著す。〕、今日、又、御所に參ず。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。是れ、囚人胤長を厚免せらるべきの由、申し請(う)くるに依つてなり。廣元朝臣、申し次ぎたり。而るに、彼の胤長、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞こし食(め)すの間、御許容に能はず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村の方へ召し渡され、重ねて禁遏(きんあつ)を加ふべしの由、相州、御旨を傳へらる。此の間、胤長の身を面縛(めんばく)し、一族の座の前を渡し、行村、之を請け取らしむ。義盛の逆心、職(しよく)として之れに由(よ)ると云々。

・「木蘭地」梅谷渋(うめやしぶ:染料の名。紅梅の根や樹皮を煎じた液。)に明礬(みょうばん)を媒染剤として混ぜて染めた狩衣・直垂(ひたたれ)などの地の染め色のこと。赤味のある黄色を帯びた茶色。「もくれんじ」「むくらんじ」とも読む。

・「葛袴」葛布(くずふ:クズの繊維を紡いだ糸で織った布。)で作った袴。狩袴をやや裾短かに仕立てて、括(くく)り緒(お)を附けたもの。

・「禁遏」本来は禁じてやめさせることであるが、ここは監禁することを言っている。

・「面縛」罪人を捕縛する際の捕縛方法に附けられた名称。両手を後ろ手に縛り上げて、顔面を前方に差し出させる縛り方をいう。

・「職として」「職」は「専ら」の意、連語で、「主として」「専ら」の意味で、「吾妻鏡」では、ある事件を引き起こすことになる原因の説明に多く用いられている。「もととして」と訓ずる説もある。

 

 結局、胤長は十七日の条で『和田平太胤長配流陸奥國岩瀨郡云々。』(和田平太胤長、陸奥國岩瀨郡へ配流すと云々。)とある。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注では、『陸奥國岩瀬郡は、現福島県須賀川市のあたり。直接に繋がる資料証拠はないが、戦国初期に二階堂氏が須賀川に、結城氏は白河に、三浦の田村氏は三春にいた。田村氏は二階堂氏や結城氏と何度も争っている。三月九日の記事と会わせて思料すると、二階堂行村の領地が須賀川市(旧岩瀬郡)にあったと推測される』と記しておられる。三月九日の記事で胤長が預け替えとなった相手の山城判官行村とは二階堂行村で、この配流地は後の戦国の領地抗争史から見て、鎌倉時代には二階堂氏の所領であった可能性が高いという推理である。以下、「吾妻鏡」では、この次にある十九日の条で早くも、甲冑に身を固めた不審な五十余人の輩が義盛邸の辺りを徘徊、和田氏に組する武蔵七党の一つ、横山党連中であることが判明して、不穏な事態であることから御所で行われていた徹夜の庚申会(こうしんえ)が途中で中止されたり、二十日には流された胤長の六歳の娘が父の遠流の悲哀のために病み臥して危篤状態となり、何とかしようと、『而新兵衞尉朝盛其聞甚相似胤長。仍稱父歸來之由。訪到。少生聊擡頭。一瞬見之。遂閉眼云々。同夜火葬。母則遂素懷〔年廿七。〕西谷和泉阿闍梨爲戒師云々。』(而るに新兵衞尉朝盛、其の聞え、甚だ胤長に相ひ似る。仍つて父の歸り來るの由と稱し、訪(とぶら)ひ到る。少生、聊か擡頭して、一瞬、之を見て、遂に閉眼すと云々。同夜、火葬す。母、則ち素懷〔年廿七。〕を遂ぐ。西谷の和泉阿闍梨、戒師たりと云々。)といった、私なら何としても採り入れたいサイドの悲劇のシークエンスが描かれている。この和田朝盛(とももり:和田義盛の嫡孫)は実朝遺愛の側近で、「北條九代記」本文にも引かれている通り、この後の和田合戦直前の今一つのエピソードの主人公ともなる。

 

 次の同三月二十七日の条で荏柄天神前の旧胤長屋敷の問題がクロース・アップされる。

〇原文

廿五日丙寅。和田平太胤長屋地在荏柄前。依爲御所東隣。昵近之士面々頻望申之。而今日。左衞門尉義盛屬女房五條局。愁申云。自故將軍御時。一族領所收公之時。未被仰他人。彼地適有宿直祗候之便。可令拝領之歟云々。忽令達之。殊成喜悦之思云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿五日丙寅。和田平太胤長が屋地(やぢ)は、荏柄(えがら)の前に在り。依つて御所の東隣りたるに依つて、昵近(ぢつきん)の士、面々に頻りに之を望み申す。而るに今日、左衞門尉義盛、 女房五條局に屬して、愁ひ申して云はく、

「故將軍の御時より、一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず。彼の地は、適々(たまたま)宿直(とのゐ)の祗候(しこう)の便(びん)有り。之を拝領せしむべきか。」

と云々。

忽ち之を達せむ。殊に喜悦の思ひを成すと云々。

・「一族の領所を收公の時、未だ他人に仰せられず」中世に於いては一族連座が適応されない個別な罪状による個人の所領没収については同族にそれを還付するのが原則であったから、ここで義盛の旧胤長邸懇請、即座に行われた実朝によるその引き渡しの許諾、義盛の喜悦という部分は当然のことで、一見、やや事態にも明るい兆しが見えたかのように感じられるのだが……その一週間後、事態は思わぬ展開を見せることとなるのである。

 

 翌月四月二日の条。

〇原文

二日癸酉。相州被拜領胤長荏柄前屋地。則分給于行親。忠家之間。追出前給人。和田左衞門尉義盛代官久野谷彌次郎各所卜居也。義盛雖含欝陶。論勝劣。已如虎鼠。仍再不能申子細云々。先日相率一類。參訴胤長事之時。敢無恩許沙汰。剩面縛其身。渡一族之眼前。被下判官。稱失列參之眉目。自彼日悉止出仕畢。其後。義盛給件屋地。聊欲慰怨念之處。不事問被替。逆心彌不止而起云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日癸酉。相州、胤長が荏柄の前の屋地(やぢ)を拜領せられ、則ち、行親・忠家に分ち給ふの間、前の給人(きふにん)、和田左衞門尉義盛が代官、久野谷彌次郎を追ひ出し、各々卜居(ぼくきよ)する所なり。義盛、欝陶(うつたう)を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠(こそ)のごとし。仍つて再び子細を申すに能はずと云々。

先日、一類を相ひ率いて、胤長が事を參訴の時、敢へて恩許の沙汰無し。剩(あまつさ)へ其の身を面縛(めんばく)し、一族の眼前を渡し、判官に下さる。列參の眉目を失ふと稱し、彼の日より悉く出仕を止め畢んぬ。其の後、義盛、件(くだん)の屋地を給はり、聊か怨念を慰めんと欲するの處、事問はず、替へらる。逆心、彌々(いよいよ)止まずして起こると云々。

・「虎鼠のごとし」(訴論をしても相手が義時では)虎に鼠が挑むような勝ち目のないものであることを言う。まさに義時は確信犯でこの旧胤長邸の占拠を実行している(恐らくは実朝にさえも強圧的に還付の破棄を迫ったものと思われる。いや、寧ろ、巧妙に還付をさせた上で、巧妙な手管によって合法的奪取を仕組み、義盛を絶望と憤怒の底に叩き落とし、謀叛決起を起こさせる作戦であったと読んでもよかろう)。まさしく文字通り――義時は虎狼の心あり――である。

 

 同四月十五日から「吾妻鏡」をそのまま十八日まで引く。父祖と実朝の板挟みとなった和田朝盛のエピソードである。

〇原文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛者。爲將軍家御寵愛。等倫敢不諍之。而近日父祖一黨含恨忘拜趨。朝盛同抛夙夜長番令蟄居。以其暇之隙。逢淨遍僧都。學出離生死之要道。讀經念佛之勤修未有怠。漸催發心。今夕已欲遂素懷。存年來餘波參御所。于時將軍家對朗月。於南面有和歌御會。女房數輩候其砌。朝盛參進。獻秀逸之間。御感及再往。又陳日來不事子細。公私互散蒙霧。快然之餘。縮載數ケ所地頭職於一紙。直給御下文。月及午。朝盛退出。不能歸宅。到淨蓮房草庵。忽除髪。號實阿彌陀佛。即差京都進發。郎等二人。小舎人童一人。共以出家云々。

十六日丁亥。朝盛出家事。郎從等走歸本所。告父祖等。此時乍驚。自閨中求出一通書狀。披覽之處。書載云。叛逆之企。於今者定難被默止歟。雖然。順一族不可奉射主君。又候御方不可敵于父祖。不如入無爲。免自他苦患云々。義盛聞此事。太忿怒。已雖爲法體。可追返之由。示付四郎左衞門尉義直。是朝盛者殊精兵也。依時軍勢之棟梁。義盛強惜之云々。仍義直揚鞭云々。

十七日戊子。於御所被供養八万四千基塔婆。莊嚴房爲導師云々。〕朝盛遁世事。今日達上聞。御戀慕無他。令刑部丞忠季訪父祖別涙給云々。

十八日己丑。義直相具朝盛入道。自駿河國手越驛馳歸。仍義盛遂對面。暫散鬱憤云々。又乍著黑衣。參幕府。依有恩喚也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日丙戌。和田新兵衞尉朝盛は、將軍家の御寵愛たり。等倫(とうりん)、敢へて之を諍(あらそ)はず。而るに近日、父祖一黨、恨を含みて拜趨(はいすう)を忘れ、朝盛、同じく夙夜(しゆくや)の長番(ちやうばん)を抛(なげう)ち、蟄居せしめ、其の暇まの隙(ひま)を以つて、淨遍僧都に逢ひ、出離生死(しゆつりしゃうじ)の要道を學びて、讀經念佛の勤修(ごんじゆ)、未だ怠り有らず。漸くに發心(ほつしん)を催し、今夕、已に素懷を遂げんと欲す。年來(としごろ)の餘波(なごり)を存じ、御所へ參る。時に將軍家、朗月(らうげつ)に對し、南面に於いて和歌の御會有り。女房數輩、其の砌りに候ず。朝盛、參進し、秀逸を獻ずるの間、御感、再往に及ぶ。又、日來(ひごろ)不事の子細を陳(の)べ、公私互ひに蒙霧(もうむ)を散じて、快然たるの餘りに、數ケ所の地頭職を一紙に縮載して、直(ぢき)に御下文を(くだしぶみ)を給ふ。月、午(ご)に及び、朝盛、退出す。歸宅に能はず、淨蓮房の草庵に到り、忽ち髪を除(はら)ひて、實阿弥陀佛と號し、即ち、京都を差して進發す。郎等二人、小舎人童(こどねりわらは)一人、共に以て出家すと云々。

十六日丁亥。朝盛が出家の事、郎從等、本所へ走り歸りて、父祖等に告ぐ。此の時、驚きながら、閨中(けいちゆう)より一通の書狀を求め出だし、披覽するの處、書き載せて云はく、

「叛逆の企て、今に於いては定めて默止(もくし)せられ難からんか。然りと雖も、一族に順ひて主君を射奉るべからず。又、御方(みかた)に候じて父祖に敵するべからず。如(し)かじ、無爲に入りて、自他の苦患(くげん)を免れんには。」

と云々。

義盛、此の事を聞き、太だ忿怒(ふんぬ)し、

「已に法體(ほつてい)たりと雖も、追つて返すべし。」

の由、四郎左衞門尉義直に示し付く。是れ、朝盛は殊なる精兵(せいびやう)なり。時の軍勢の棟梁たるに依つて、義盛、強(あなが)ちに之を惜むと云々。

仍つて義直、鞭を揚ぐと云々。

十七日戊子。御所に於いて八万四千基の塔婆を供養せらる。莊嚴房、導師たりと云々。

朝盛が遁世の事、今日、上聞(じやうぶん)に達す。御戀慕、他(ほか)無し。刑部丞忠季をして父祖の別涙を訪(とぶら)はしめ給ふと云々。

十八日己丑。義直、朝盛入道を相ひ具し、駿河國手越(てごし)驛より馳せ歸る。仍つて義盛、對面を遂げ、暫く鬱憤を散ずと云々。

又、黑衣を著けながら、幕府に參ず。恩喚有るに依つてなり。

・「和田新兵衞尉朝盛」(生没年不詳)彼は「朝盛は殊なる精兵」とあるように、父常盛とともに弓の名手であった。そのために以下に見るように祖父義盛が合戦の際の、不可欠の人物として連れ戻させたのであった。この直後の和田合戦では一族とともに戦い、一族は敗れたものの彼は生き延びている。恐らくは戦後に、寵愛していた実朝からの強い意向が働いたからと思われる。但し、承久三(一二二一)年の承久の乱の際には上皇方に組して参戦、乱後は逃亡するも嘉禄三(一二二七)年六月に捕縛されている。参照したウィキの「和田朝盛」によれば、その後の動向ははっきりしないものの、三浦半島の現在の三浦市初声(はつせ)町にある『高円坊に墓(朝盛塚)があり、その地名も朝盛の法名から取ったものと伝えられている』とあり、『また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏(三浦氏一族)の項の記述によれば、親族の佐久間家村の養子となり越後国奥山荘に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。 しかし、同時代の史料でそれを裏付けるものは見つかっていない』とする。何か、歴史の煙霧の中に静かに姿を消した、彼が愛しい気が、私にはするのである。

・「等倫、敢へて之を諍はず」同輩の仲間。ここは朝盛の寵愛が同輩が競うまでもなく、抜きんでていたことを語る。

・「拜趨」相手の所へ出向くことを遜って言う語。参上。

・「夙夜の長番」「夙夜」朝早く出仕し、夜遅くまで仕えることであるから、日参の永の近侍をいう。

・「朗月」朗らかな月、明るく澄み渡った月で、名月のこと。この日は陰暦十五日であるから、折しも満月である。

・「南面に於いて」君子南面すで、御所の公的な行事として、の意。

・「日來の不事の子細を陳じ」ここのところの不出仕のお詫びを申し上げ。

・「秀逸を獻ずるの間」優れた(恐らくは今の自分の置かれた微妙な立場を詠み込んだ)秀逸なる和歌を実朝卿に献じたによって。

・「公私互に蒙霧を散じ」「蒙霧」は「朦霧」とも書き、立ちこめる霧から転じて、心の晴れぬ様を言い、実朝と朝盛との間の互いの不審や疑念が雲散霧消し、の意。

・「快然」気分が晴れて、心地良くなるさま。

・「數ケ所の地頭職を一紙に縮載して」複数箇所の地頭職を朝盛に任ずる内容の下文を一枚の紙に略記して。

・「月、午に及び」満月の時であるから、まさに午前零時頃である。

・「閨中」朝盛の私室の寝所。

・「如かじ、無爲に入りて、自他の苦患を免れんには。」これ以外に、法は御座いませぬ……何もせず……そして……自分と主君と和田一族の……この曰く言い難き苦渋の苦界から出するためには。

・「父祖の別涙を訪はしめ給ふ」祖父和田義盛や父常盛の殊の外であろう無念の悲しみ(それは寧ろ実朝自身の思いであったと思われるが)を見舞わせなさった。

・「駿河國手越驛」現在の静岡県静岡市手越は安倍川の右岸に位置するが、中世の宿駅はもう少し北方の安陪川支流の藁科(わらしな)川右岸にあった。

ここに至っても、朝盛は墨染の衣で、実朝に律儀に謁見している。和田義盛もその謁見を許している。誰もが最早、諦めているところの始動したカタストロフの一齣の中、私はこの二人の謁見場面を映像に撮りたい欲望に駆られるのである。

 

「この事、隱なかりしかば、將軍家より宮内兵衞尉公氏を遣し、樣々宥め仰せらるれども、用ひず」最後のこの一文部分は、「吾妻鏡」では詳細を極める。建暦三(一二一三)年四月二十七日の条を見て、本パートの終わりとしよう。

〇原文

廿七日戊寅[やぶちゃん注:これは「戊戌」の誤り。書き下し文では訂した。]。霽。宮内兵衞尉公氏爲將軍家御使。向和田左衞門尉宅。是義盛有用意事之由依聞食。被尋仰其實否之故也。而公氏入彼家之侍令案内。小時。義盛爲相逢御使。自寢殿來侍。飛越造合。〔無橋。〕其際烏帽子拔落于公氏之前。彼體似斬人首。公氏以爲。此人若彰叛逆之志者。可伏誅戮之表示也。然後。公氏述將命之趣。義盛申云。右大將家御時。勵隨分微功。然者抽賞頗軼涯分。而薨御之後。未歷二十年。頻懷陸沈之恨。條々愁訴。泣雖出微音。鶴望不達鷁。退恥運計也。更無謀叛企之云々。詞訖。保忠。義秀以下勇士等列座。調置兵具。仍令歸參。啓事由之間。相州參給。被召在鎌倉御家人等於御所。是義盛日來有謀叛之疑。事已決定歟。但未及著甲冑云々。晩景。又以刑部丞忠季爲御使。被遣義盛之許。可奉度世之由有其聞。殊所驚思食也。先止蜂起。退可奉待恩裁也云々。義盛報申云。於上全不存恨。相州所爲。傍若無人之間。爲尋承子細。可發向之由。近日若輩等潛以令群議歟。義盛度々雖諌之。一切不拘。已成同心訖。此上事力不及云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日戊戌。霽る。宮内兵衞尉公氏(きんうぢ)、將軍家の御使と爲し、和田左衞門尉が宅へ向ふ。是れ、義盛、用意の事有るの由、聞こし食(め)すに依つて、其の實否を尋ね仰せらるるが故なり。而して公氏、彼の家の侍(さぶらひ)へ入り案内せしむ。小時(しばらく)あつて、義盛、御使に相ひ逢はんが爲に、寢殿より侍へ來たり、造り合せ〔橋無し。〕を飛び越ゆ。其の際、烏帽子、公氏の前に拔け落つ。彼(か)の體、人の首を斬るに似たり。公氏、以爲(おもへ)らく、

『此の人、若し、叛逆の志を彰(あら)はさば、誅戮に伏すべきの表示なり。』

と。然る後、公氏、將命の趣きを述ぶ。義盛、申して云はく、

「右大將家の御時、隨分と微功を勵ます。然らば、抽賞(ちうしやう)、頗る涯分(がいぶん)に軼(す)ぐ。而るに薨御の後、未だ二十年を歷(へ)ずして、頻りに陸沈(りくちん)の恨みを懷く。條々の愁訴、泣きて微音を出すと雖も、鶴望(かくまう)、鷁(げき)に達せず。退きて運を恥づる計りなり。更に謀叛の企て、之れ無し。」

と云々。

詞、訖はりて、保忠・義秀以下の勇士等、座に列し、兵具を調へ置く。仍つて歸參せしめ、事の由を啓(まう)すの間、相州、參じ給ひ、在鎌倉の御家人等を御所へ召さる。

「是れ、義盛、日來(ひごろ)謀叛の疑ひ有り。事、已に決定するか。但し、未だ甲冑を著するに及ばず。」

と云々。

晩景、又、刑部丞忠季を以つて御使と爲し、義盛の許へ遣はさる。

「世を度(はか)り奉るべきの由、其の聞こえ有り。殊に驚き思し食(め)す所なり。先づ蜂起を止め、退きて恩裁を待ち奉るべきなり。」

と云々。

義盛、報(こた)へ申して云はく、

「上に於いては全く恨を存ぜず。相州が所爲、傍若無人の間、子細を尋ね承らんが爲、發向すべきの由、近日、若輩等、潛かに以つて群議せしむるか。義盛、度々、之を諫むると雖も、一切、拘らず。已に同心を成し訖んぬ。此の上は事、力に及ばず。」

と云々。

・「侍」武士の屋敷内で寝殿とは別棟になっている警護の武士の詰所。戸や建具などを設けていない板敷の建物で、武具一般が常備されていた。

・「抽賞、頗る涯分に軼ぐ」その際に受けた恩賞は、これ、すこぶる大きなもので御座って拙者の分際には過ぎたもので御座った。

・「頻りに陸沈の恨みを懷く」早くも何故か、一族滅亡せんかという恨みを懐くことと相い成って御座る。

・「鶴望、鷁に達せず」一匹の地上の誠心の鶴の望みの声も、天上界を雄飛する鷁(げき:中国古代の想像上の水鳥。白い大形の鳥で、風によく耐えて大空を飛ぶとされた。ここは実朝を指すのであろう。)には遂に届くことは御座らなんだ。

・「保忠」古郡保忠。古郡氏は先に登場した横山党の一族といわれる。

・「義秀」義盛の子にして和田一族の超人ハルク朝比奈義秀(安元二(一一七六)年~?)。

・「刑部丞忠季」一部の記載では藤原姓とする。

・「恩裁」原文では実は「恩義裁」とするのだが、衍字と考えられており、除去した。有り難い御裁きの謂い。]

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