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2013/03/23

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 5

 第五山淨妙寺は山を稻荷といふ。千光の法嗣退耕行勇禪師開山たり。塔を光明院と云。此外十刹諸山の禪院代々の新營數をしらず。來朝の諸師、歸朝の列祖、皆此里に跡を殘し給ふ。其昔延暦の比和州大安寺行表和尚示寂、そのさき神秀派の禪師來朝あり。即行表和尚大安寺に禪院を立、行表・空海・最澄等參禪有し。其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也。おのれが十二世の先師圓通大應國師も、龜山院の文安三年の秋に歸朝ありて、建長寺に住持し給ふ。此間筑前の興德寺、同國横嶽崇福寺、京師の萬壽寺に住し給ふ。あひあはせて四會の錄あり。後宇多院その道をしたひ給ひて、國師遷化の後城西の安井に竜翔寺を草創し給ひて、師の遺像を安置し跡猶今に殘れり。其外城南の薪里妙勝寺所々跡を殘し、終に建長寺に入滅を示し給ふて天源庵と云あり。天筆をそめ給ひ塔の額を普光と賜る。

[やぶちゃん注:浄妙寺はその前身を極楽寺と言い、その創建は文治四(一一八八)年、真言密教で開山は退耕行勇、開基を足利義兼とする。浄妙寺発行の「略記」よれば、蘭渓道隆の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住持となってより禅刹に改めて寺名を浄妙寺と改称した(寺名の改称は推定で正嘉年間(一二五七年~一二五九年)とする)。それにしても、この段落は後半、浄妙寺についてではなく、臨済宗宗史になってしまっているのは、やや、違和感がある。

「行表和尚」行表(ぎょうひょう 養老六(七二二)年~延暦一六(七九七)年)は大和国葛上郡高宮郷の出身で父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。天平一三(七四一)年に恭仁宮で道璿に師事して得度、天平一五(七四三)年、興福寺北倉院で受戒後、興福寺で禅・唯識を学んだ。その後、近江国崇福寺の寺主とななって一丈余りの千手観音菩薩像を造り、次いで近江国の大国師となった。宝亀九(七七八)年、最澄の師となり、宝亀一一(七八〇)年には師主として最澄を得度させている。後、奈良大安寺に移った(以上はウィキ行表に拠った)。

「神秀派」唐代の禅僧神秀(じんしゅう)の正当な流れを汲む一派の謂いであろう。神秀は(六〇六年?~七〇六年)河南省開封の出身。当初、儒学を学び、後に出家して禅宗五祖弘忍に師事、慧能(えのう)の南宗禅に対する北宗禅の開祖。諡号は大通禅師。彼の禅の思想は段階的に悟りを進める「漸悟」にあり、弟弟子で後に禅宗六祖とされる慧能の、直下に悟りに至る「頓悟」のそれと対極をなした。神秀が本来の六租であるが、派閥の中で現在では「六租慧能」と位置付けられてしまった。ウィキ秀」には、その辺りについて、『後に六祖慧能の弟子で七祖を自称した荷澤神會の北宗批判により、それまでは区別のなかった東山法門派が神秀門下の「北宗」、慧能門下の「南宗」の二派に分かれるようになり、南宗開祖の慧能が神會の目論見通り、六祖となった』とあって、「其禪は宗派斷絶す。南宗の禪日本につたはりてより、此里は誠に禪河の源也」という部分は、その経緯を指したものである。しかし、ウィキによれば、神秀『の後は弟子の普寂が嗣ぎ、日本にも奈良時代・平安初期に伝わり、日本天台宗の開祖最澄も師の国分寺行表から北宗禅の思想を受け継いでいる』とあるから、沢庵の「斷絶」という謂いは正確とは言えない。

「圓通大應國師」南浦紹明(なんぽ しょうみょう/じょうみん 嘉禎元年(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。鎌倉時代の臨済僧。駿河国安倍郡の出身。紹明は諱、南浦は道号、勅諡号が円通大応国師。幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び、建長元(一二四九)年に建長寺蘭渓道隆に参禅の後、正元元(一二五九)年には渡宋して虚堂智愚の法を継いだ。文永四(一二六七)年(本文の文安三年秋というのは誤りであろうか)に帰国して建長寺に戻り、その後は文永七(一二七〇)年には筑前国興徳寺の、文永九(一二七二)年には博多の横岳山崇福寺(そうふくじ)の、それぞれ住持を務めた。嘉元二(一三〇四)年には後宇多上皇の招きによって上洛、万寿寺に入った。徳治二(一三〇七)年、鎌倉に戻って建長寺の住持となったが、翌年に、七十五で没した。没後の延慶二(一三〇九)年に後宇多上皇から円通大応の国師号が贈られているが、これは日本に於ける禅僧に下賜された国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)を経て関山慧玄へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は皆、この法系に属する(以上はウィキ南浦紹明に拠った)。

「あひあはせて四會の錄あり」建長寺・興徳寺・崇福寺・萬寿寺での講筵の記録の謂いか? 新編鎌倉志巻之三の建長寺塔頭で南浦紹明が示寂した「天源菴」(後注参照)の項に『【四會の録】あり』とある。識者の御教授を乞うものである。

「竜翔寺」瑞鳳山竜翔寺(りょうしょうじ)は京都市北区紫野大徳寺町の大徳寺境内の北西に立つ塔頭として現存する。開山を南浦紹明、開基を後宇多天皇とする、大徳寺とは別山で大徳寺派の修行専門道場となっている。

「城南の薪里妙勝寺」現在、京都府京田辺市薪字里ノ内にある臨済宗大徳寺派の霊瑞山酬恩庵(しゅうおんあん)の前身。妙勝寺は正応年間(一二八八年~一二九三年)に南浦紹明が開いたが、鎌倉幕府滅亡前後の元弘年間(一三三一年~一三三四年)の兵火によって衰亡していたのを、康正二(一四五六)年、一休宗純が草庵を結んで中興、宗祖の遺風を慕い師恩に酬いるという意味で「酬恩庵」と号した。一休所縁で一休宗純の木像もあるため、「一休寺」「薪(たきぎ)の一休寺」とも称される。枯山水の石庭や納豆の一種である「一休寺納豆」でも知られる(以上はウィキ酬恩庵に拠った)。

「天源庵」「新編鎌倉志巻之三」の建長寺塔頭の項に、

天源菴 大應國師、諱は紹明、號南浦(南浦と號す)。嗣法虛堂(虛堂に嗣法す)。駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日に示寂、世壽七十三。【四會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路(雲關を透過して舊路無し)と頌せしは此の所なり。

とある。]

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