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2013/03/04

北條九代記 將軍賴家卿御病惱 付 比企判官討たる 竝 比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死す

      ○將軍賴家卿御病惱  比企判官討たる  比企四郎一幡公を抱きて火中に入りて死す

此間鶴ヶ岡の御寶殿にして鳩の死する事三度(たび)、その外怪異樣々有りければ、是只事にあらずと諸人驚き思ふ所に、七月二十日、將軍賴家卿、俄に御病惱を受け給ひ、身心惱亂し給ふ。内外の人々驚き騷ぎて、神社佛閣に於いて樣々御祈禱ありけれども、その效(するし)おはしまさず、和丹(わたん)醫師伺候して、藥治(やくぢ)の術(じゆつ)を盡すといへども、更に驗氣(げんき)の色も見えず。御兆(おんうらかた)には靈神(れいじん)の御祟(たゝり)なりと申す。八月二十七日、愈々危急に迫り給ふ間、御遺言(ごゆゐげん)御讓補分(じやうぶわけ)の沙汰あり。「關より西三十三ヶ國の地頭職をば御舍弟子幡公に譲り奉り、關より東三十三ケ國の地頭職をば御舍弟千幡公(ぎみ)に讓り奉り、關より東三十三ヶ國の地頭竝に惣(そう)守護職をば御嫡子一幡公に讓り奉るべし。諸國の御家人等(ら)克(よ)く奉公を勤むべし」とて、その外、程々に隨ひて金銀、財寶、太刀、刀以下、御讓物(ゆづりもの)をぞ定められける。然る所に、御家督の外戚比企判官能員は、賴家卿の妾(おもひもの)若狹局(わかさのつぼね)の父なり。この腹に一幡公、御誕生ありければ、外戚の権威、甚(はなはだ)時を得たる折節なり。能員、竊(ひそか)に關西を御舍弟に讓り給ふ事を憤る。千幡公は北條遠江守時政の孫なり。母は政子、即ち右大將家の妻室(さいしつ)、今は尼御臺所とて權勢天下に蔓(はびこ)り、威名(いめい)、四海に輝(かゝや)けり[やぶちゃん字注:底本「兄御臺所」。訂した。]。されば賴家卿、天下を兩分して權柄(けんぺい)二つ爭はば始終宜(よろし)かるべからず。遂には北條の爲に家督を奪(うばは)れんこと疑無(うたがひな)し、今、賴家卿御存命の中に遠州北條家の一族を亡(ほろぼ)し、一幡公の世になし、外祖の權威を恣(ほしいまゝ)にせばやと思ふ心つきて、賴家卿御枕もとにまゐり、北條家追伐すべき企(くはだて)をぞ致しける。尼御臺所、障子を隔てて此密談を聞き給ひ、書を遣して父時政に告げ給ふ。時政、大に驚き、暫(しばらく)思案を廻(めぐら)し、大膳大夫廣元朝臣に「かうかうの事あり。如何思ひ給ふ」と語られしに「宜(よろし)く賢慮に任せらるべし」と申す。時政、即ち天野民部(みんぶの)入道蓮景(れんけい)、仁田四郎忠常を招きて、「能員、叛逆を企つる由。今日早く誅伐すべし、旁(かたがた)を以て追手(おつて)の大將となすべきなり」と有しかば、蓮景入道、申しけるは、「軍兵を發(おこ)すまでは候まじ。御前に召(めさ)れて誅せられんに、彼(か)の老人、何程の事か候べき」となり。時政、竊(ひそか)に謀りて、今日遠州時政の亭にして、藥師如來の尊像を日來(ひごろ)造立の願望(ぐわんまう)を遂け、落慶供養あるべし。葉上房律師、この導師なり。尼御臺所、御結緣の爲に參り給ふとて、工藤五郎を使として、能員が本(もと)に申遣(まうしつかは)されけるやう、「宿願に依て藥師の佛像供養あり。御來臨し給ひて、聽聞(ちやうもん)あるべき歟。且(かつう)は又、その次(ついで)に雜事(ざふじ)の密談を遂げらるべし。早く豫參有るべし」と申されたり。能員、何心もなく、畏(かしいこま)り候由、返事せらる。子息親類郎從等、同じく能員を諫めて云ふやう、「日來(ひごろ)、祕計の企(くはだて)あり。その事風聞あるに依て、この使を立てらるる歟。此所(こゝ)に殘心(ざんしん)なかるべきに候はず。左右なく参向(さんかう)せらるべからず。たとひ參らるゝとも、家子(いへのこ)、郎從を相隨へ、甲冑弓箭を著帶(ちやくたい)せしめて、御身の邊(あたり)を離(はな)たれざらん事こそ然るべく候へ」と申しければ、能員、云ひけるは、「甲冑、弓箭の用意は却つて人の疑(うたがひ)を招くに似たり。當時、能員、かゝる行粧(かうしやう)を致すとならば、鎌倉中の諸人、周章(あわて)騷ぐべし[やぶちゃん注:底本は「騷く」。上代なら「さわく」で良いが、ここは誤字と見て濁音化した。]。且(かつう)は佛事結縁の爲、且は御讓補等(じやうぶとう)の事に付きて仰合(おほせあは)さるゝ事なるべし。何となく參らんには、然るべき計(はからひ)なるべきなりしとて、出立たれけり。北條時政は甲冑を著(ちやく)し、中野五郎、市河(いちかは)別當五郎は弓に名を得たる者なりければ、征矢(そや)を手挾(たばさ)みて、兩方の小門に立ちたり。天野入道蓮景、仁田忠常は腹巻卷(はらまき)を著して、西南の脇戸(わきど)の内に隱れて、今や今やと待ゐたり。能員、運命の悲しさは平禮の白き水干に葛袴(くずばかま)を著し、黑き馬に打乘り、郎等二人、雜色(ざつしき)五人を相倶して、惣門(そうもん)に入りて馬を下り、廊を昇り、妻戸を通り、北面に行至る。蓮景、忠常向うて、能員が左右の手を捕へ、引据て、首を搔(か)きたり。郎等雜色等、驚きて走(はしり)歸り、事の由を告げしかば、子息、親類家子(いへのこ)郎從等(ら)、さればこそとて一幡公の小御所(こごしよ)の引(ひき)籠り、謀叛(むほん)の色を立てたりしに、尼御臺所の仰(おほせ)に依(よつ)て、軍兵を差遣(さしつかは)さる。江馬(えまの)四郎、同太郎殿を大將として、武藏守朝房(ともふさ)、小出(をやまの)左衞門尉朝政(ともまさ)、同五郎宗政、同七郎朝光(ともみつ)、畠山次郎重忠、榛谷(はんがへの)四郎重朝、三浦平六兵衞尉義村、和田左衞門尉義盛、同兵衞尉常盛、同小四郎景長、土肥(どひの)先(せん)二郎惟光、後藤左衞門尉信康、尾藤次(びとうじ)知景、工藤小次郎行光、金窪(かなくぼの)太郎行親、加藤次景廉、同太郎景朝以下、その勢、雲霞の如く、小御所の前に押(おし)寄せたり。比企三郎、同四郎、相五郎、河原田(かはらだの)次郎は能員が猶子(いうし)なり。笠原十郎左衞門尉親景、中山五郎爲重、糟屋(かすやの)藤太兵衞尉有季、此三人は能員が婿(むこ)なり。是等を初めとして、一族、家子(いへのこ)、郎従等我も我もと馳まゐりて、矢種を惜まず散々に射ければ、面に進む寄手の兵、矢庭(やには)に射伏せらるゝ者三十餘人、其外手負(てお)ふ者百餘人、ばらばらと引退(ひきしりぞ)く[やぶちゃん字注:「手負ふ」のルビは底本では「ておふ」。「ふ」は衍字と見て削除した。]。然れども敵味方、互に相知る輩なれば、後日の恥を思ふ故に、生きて名を流さんより死して譽(ほまれ)を殘せやとて、又どつと攻懸(せめかゝ)れば、内より出でて追散(おひちら)す。加藤次景廉、景長が郎從等數百人、或は討たれ、或は疵を蒙りしかば、攻厭(せめあぐ)みたる所に、畠山重忠、新手(あらて)を入替へて攻付(せめつ)けたり。笠原十郎親景、討たれ、中山、糟屋も手を負ひたりければ、比企(ひきの)五郎、河原田〔の〕次郎、小御所に火を懸けて自害す。比企(ひきの)四郎、一幡公を抱(いだ)き奉りて、猛火の中に飛(とび)入りたり。女房達その外の輩、裏門より落ちて行く。能員が嫡男餘一(よいち)兵衞尉は女房の姿に出(いで)立ち、小袖打被(かつ)ぎて、戰場(いくさば)を遁(のがれ)出でしかども、景廉に見付けられて、首をぞ刎(は)ねられける。未刻(ひつじのこく)より申刻(さるのこく)まで一時の間に敵味方討たるゝ者、八百餘人、手負ひたるは數知らず。軍(いくさ)、既に果てければ、夜に入て、能員が舅(しうと)澁河(しぶかは)刑部丞を誅せらる。その外、餘黨等(ら)を尋(たづね)探し、死罪流刑に行はれ、鎌倉やうやう靜(しづま)りけり。

[やぶちゃん注:鶴岡八幡宮の鳩の怪異の条は「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年六月三十日(ここのみ「唐鳩」とあり、これはハト目ハト科キジバト Streptopelia orientalis を指し、後の二例はただ「鳩」とするところから、恐らくは一般的なドバト、ハト科カワラバト Columba livia を指していると思われる。前者のキジバトは後者のカワラバトよりも遙かに警戒心が強く、山地に棲息し、当時は人里には普通は降りてこなかった)と七月四日及び九日を、頼家の病悩から遺言・将軍職譲補の評議の部分は同じく建仁三年七月二十日・二十三日及び八月二十七日を、比企能員の変は同九月二日及び三日の条に基づく。

「その外怪異樣々有りければ」とあるが、「吾妻鏡」には鳩の変死以外には特にこの比企能員の変の前には怪異の記載はない。

「和丹醫師」医家の和気氏と丹波氏の医師。宮内省に属した医療・調薬を担当する部署である典薬寮は、平安時代後期以降、この和気氏と丹波氏による世襲となっていた。但し、この記載は「吾妻鏡」には見えない。

「驗氣の色」治療が効果があった兆し。

「御兆には靈神の御祟なりと申す」「吾妻鏡」建仁三年七月二十三日の条に、「廿三日己丑。御病惱既危急之間。被始行數ケ御祈禱等。而卜筮之所告。靈神之崇云々。」(廿三日己丑。御病惱、既に危急の間、數ケ(すうけ)の御祈禱等(ら)を始行せらる。而るに卜筮(ぼくぜい)の告ぐる所は、靈神の崇りと云々。)とあるのに基づくが、「吾妻鏡」でもそうだが、本書でも直前の「伊東崎大洞 竝 仁田四郎富士入穴に入る」の叙述中の末尾、『古老の人々は、是を聞きて、「この穴は淺間大菩薩の住所なりと申し傳へ、昔より遂に其内を見る事能はずと聞き傳ふ。只今、斯樣に事を破り給ふには、將軍家の御身に取りて御愼無きにあらず。恐し恐し」とぞ私語ける』の部分が呼応するように書かれていることから、この「靈神」は暗に浅間大菩薩の祟りを暗に言っているように読める。

「八月二十七日、愈々危急に迫り給ふ間、御遺言(ごゆゐげん)御讓補分(じやうぶわけ)の沙汰あり。……」元となった「吾妻鏡」建仁三年八月二十七日の条を見よう。

〇原文

廿七日壬戌。將軍家御不例。縡危急之間。有御讓補沙汰。以關西三十八ケ國地頭職。被奉讓舎弟千幡君。〔十歳。〕以關東二十八ケ國地頭幷惣守護職。被充御長子一幡君。〔六歳。〕爰家督御外祖比企判官能員潜憤怨讓補于舎弟事。募外戚之權威。挿獨歩志之間。企叛逆。擬奉謀千幡君幷彼外家已下云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日壬戌。將軍家御不例、縡(こと)、危急の間、御讓補(じやうほ)の沙汰有り。關西三十八ケ國の地頭職を以つて、舎弟千幡君〔十歳。〕に讓り奉らる。關東二十八ケ國の地頭幷びに惣(そう)守護職を以つて、御長子一幡君〔六歳。〕に充てらる。爰に家督の御外祖 比企判官能員、潜かに舎弟に讓補する事を憤怨し、外戚の權威を募(つの)り、獨歩の志を挿むの間、叛逆を企て、千幡君幷びに彼の外家(ぐわいけ)已下を謀(はか)り奉らんと擬すと云々。

●「舎弟千幡君」は後の源実朝。

●「募り」ますます激化しくなる。昂じる。

●「獨歩の志」北条氏と一線を画して独立しようという野心。

 

「賴家卿御枕もとにまゐり、北條家追伐すべき企をぞ致しける。尼御臺所、障子を隔てて此密談を聞き給ひ、……」比企能員の変である。元となった「吾妻鏡」建仁三年九月二日の条を見よう。

〇原文

二日丁夘。今朝。廷尉能員以息女〔將軍家妾。若君母儀也。元號若狹局。〕訴申。北條殿。偏可追討由也。凡家督外。於被相分地頭職。威權分于二。挑爭之條不可疑之。爲子爲弟。雖似靜謐御計。還所招乱國基也。遠州一族被存者。被奪家督世之事。又以無異儀云々。將軍驚而招能員於病床。令談合給。追討之儀。且及許諾。而尼御臺所隔障子。潜令伺聞此密事給。爲被告申。以女房被奉尋遠州。爲修佛事。已歸名越給之由。令申之間。雖非委細之趣。聊載此子細於御書。付美女被進之。彼女奉奔付于路次。捧御書。遠州下馬拜見之。頗落涙。更乘馬之後。止駕暫有思案等之氣。遂廻轡渡御于大膳大夫廣元朝臣亭。亭主奉相逢之。遠州被仰合云。近年能員振威蔑如諸人條。世之所知也。剩將軍病疾之今。窺惘然之期。掠而稱將命。欲企逆謀之由。慥聞于告。此上先可征之歟。如何者。大官令答申云。幕下將軍御時以降。有扶政道之號。於兵法者。不弁是非。誅戮否。宜有賢慮云々。遠州聞此詞。即起座給。天野民部入道蓮景。新田四郎忠常等爲御共。於荏柄社前。又控御駕。被仰件兩人云。能員依企謀叛。今日可追伐。各可爲討手者。蓮景云。不能發軍兵。召寄御前。可被誅之。彼老翁有何事之哉者。令還御亭給之後。此事猶有儀。重爲談合。被召大官令。大官令雖有思慮之氣。憖以欲參向。家人等多以進從之處。稱有存念悉留之。只相具飯冨源太宗長許。路次之間。大官令密語于宗長云。世上之爲躰。尤可怖畏歟。於重事者。今朝被凝細碎評議訖。而又恩喚之條。太難得其意。若有不慮事者。汝先可害予者。爾後至名越殿。遠州御對面良久。此間。宗長在大官令之後。不去座云々。午尅。大官令退出。遠州於此御亭。令供養藥師如來像〔日來奉造之。〕給。葉上律師爲導師。尼御臺所爲御結縁。可有入御云々。遠州以工藤五郎爲使。被仰遣能員之許云。依宿願。有佛像供養之儀。御來臨。可被聽聞歟。且又以次可談雜事者。早申可豫參之由。御使退去之後。廷尉子息親類等諌云。日來非無計儀事。若依有風聞之旨。預專使歟。無左右不可被參向。縱雖可被參。令家子郎從等。著甲冑帶弓矢。可被相從云々。能員云。如然之行粧。敢非警固之備。謬可成人疑之因也。當時能員猶召具甲冑兵士者。鎌倉中諸人皆可遽騒。其事不可然。且爲佛事結緣。且就御讓補等事。有可被仰合事哉。忩可參者。遠州著甲冑給。召中野四郎。市河別當五郎。帶弓箭可儲兩方小門之旨下知給。仍取分征箭一腰於二。各手挾之。立件兩門。彼等依爲勝射手。應此仰云々。蓮景。忠常。著腹巻。構于西南脇戸内。小時廷尉參入。着平禮白水干葛袴。駕黑馬。郎等二人。雜色五人有共。入惣門。昇廊沓脱。通妻戸。擬參北面。于時蓮景。忠常等立向于造合脇戸之砌。取廷尉左右手。引伏于山本竹中。誅戮不廻踵。遠州出於出居見之給云々。廷尉僮僕奔歸宿廬。告事由。仍彼一族郎從等引籠一幡君御館。〔號小御所。〕謀叛之間。未三尅。依尼御臺所之仰。爲追討件輩。被差遣軍兵。所謂。江馬四郎殿。同太郎主。武藏守朝政。小山左衞門尉朝政。同五郎宗政。同七郎朝光。畠山二郎重忠。榛谷四郎重朝。三浦平六兵衞尉義村。和田左衞門尉義盛。同兵衞尉常盛。同小四郎景長。土肥先二郎惟光。後藤左衞門尉信康。所右衞門尉朝光。尾藤次知景。工藤小次郎行光。金窪太郎行親。加藤次景廉。同太郎景朝。仁田四郎忠常已下如雲霞。各襲到彼所。比企三郎。同四郎。同五郎。河原田次郎。〔能員猶子。〕笠原十郎左衞門尉親景。中山五郎爲重。糟屋藤太兵衞尉有季〔已上三人能員聟。〕等防戰。敢不愁死之間。挑戰及申剋。景朝。景廉。知景。景長等。幷郎從數輩被疵頗引退。重忠入替壯力之郎從責攻之。親景等不敵彼武威。放火于館。各於若君御前自殺。若君同不免此殃給。廷尉嫡男餘一兵衞尉假姿於女人。雖遁出戰場。於路次。爲景廉被梟首。其後。遠州遣大岳判官時親。被實檢死骸等云々。入夜被誅澁河刑部丞。依爲能員之舅也。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日丁夘。今朝、廷尉能員、息女〔將軍家の妾。若君が母儀なり。元、若狹局と號す。〕をつて、訴へ申す。

「北條殿を偏へに追討すべし。」

の由なり。

「凡そ家督の外、地頭職を相ひ分かたるるに於いては、威權、二に分かれ、挑(いど)み爭ふの條、之れ疑ふべからず。子たり、弟たり、靜謐(せいひつ)の御計(おんはから)ひに似たりと雖も、還つて乱國の基(もとゐ))を招く所なり。遠州の一族存ぜられば、家督の世を奪はるるの事、又以つて異儀無からん。」

と云々。

將軍、驚きて、能員を病床に招き、談合せしめ給ふ。追討の儀、且つは許諾に及ぶ。而るに尼御臺所、障子を隔てて、潜かに此の密事を伺ひ聞かせしめ給ひ、告げ申されんが爲に、女房を以つて遠州を尋ね奉つらる。

「佛事を修さんが爲に、已に名越へ歸り給ふ。」

の由、申さしむるの間、委細之の趣きに非ずと雖も、聊か此の子細を御書(おんしよ)に載せ、美女に付して進ぜ被らる。彼の女、路次(ろし)に奔(はし)り付きて奉り、御書を捧ぐ。遠州、下馬して之を拜見し、頗る落涙す。更に乘馬の後、駕(が)を止めて暫く思案等の氣有り。遂に轡(くつばみ)を廻らし、大膳大夫廣元朝臣亭に渡御す。亭主、之に相ひ逢ひ奉る。遠州、仰せ合はせられて云はく、

「近年、能員、威を振ひ、諸人を蔑如(べつじよ)するの條、世の知る所なり。剩へ將軍病疾の今、惘然(ぼうぜん)の期(ご)を窺(うかが)ひ、掠(かす)めて將命と稱し、逆謀を企てんと欲するの由、慥かに告(つげ)を聞く。此の上は先づ之を征すべきか、如何(いか)に。」

てへれば、大官令、答へ申して云はく、

「幕下將軍の御時より以降(このかた)、政道を扶(たす)くるの號(な)有るも、兵法(へいはふ)に於ては、是非を弁ぜず。誅戮するや否や、宜しく賢慮有るべし。」

と云々。

遠州、此の詞を聞き、即ち座を起ち給ふ。天野民部入道蓮景(れんけい)・新田四郎忠常等、御共たり。荏柄の社前に於いて、又、御駕を控へ、件(くだん)の兩人に仰せられて云はく、

「能員謀叛を企だつに依つて、今日追伐すべし。各々、討手たるべし。」

てへれば、蓮景云はく、

「軍兵(ぐんぴやう)を發するに能はず。御前に召し寄せて、之を誅せらるべし。彼(か)の老翁、何事か有らんや。」

てへれば、御亭に還らしめ給ふの後、此の事、猶ほ儀有り。重ねて談合せんが爲に、大官令を召かる。大官令、思慮の氣有りと雖も、憖(なまじひ)に以つて參向せんと欲す。家人(けにん)等、多く以つて進み從はんとするの處、

「存念有り。」

と稱し、悉く之を留め、只だ、飯冨(いひとみ)源太宗長許(ばか)りを相ひ具す。路次(ろし)の間、 大官令、密かに宗長に語りて云はく、

「世上の躰爲(ていたらく)、尤も怖畏すべきか。重事(ちようじ)に於ては、今朝、細碎(さいさい)に評議を凝らされ訖んぬ。而るに又、恩喚の條、太だ其の意を得難し。若し、不慮の事有らば、汝、先づ予を害すべし。」

てへれば、爾(そ)の後、名越殿に至る。遠州、御對面、良(やや)久しうす。此の間、宗長、大官令の後ろに在りて、座を去らずと云々。

午の尅、大官令、退出す。遠州、此の御亭に於いて、藥師如來像〔日來(ひごろ)之れを造り奉る。〕を供養せしめ給ふ。葉上律師、導師たり。尼御臺所御結縁の爲に、入御有るべしと云々。

遠州、工藤五郎を以つて使ひと爲(な)し、能員の許へ仰せ遣はされて云はく、

「宿願に依つて、佛像供養の儀有り。御來臨ありて、聽聞(ちやうもん)せらるべきか。且つは又、次(ついで)を以つて雜事を談ずべし。」

てへれば、早く豫參すべき由を申す。御使、退去の後、廷尉の子息親類等、諫めて云はく、「日來(ひごろ)、計儀の事無きにしも非ず。若し風聞の旨有るに依つて、專使(せんし)に預るか。左右(さう)無く參向せらるべからず。縱ひ參らべしと雖も、家子(いへのこ)郎從等をして、甲冑を著(ちやく)し、弓矢を帶せしめて、相ひ從へらるべし。」

と云々。

能員云はく、

「然るごときの行粧(ぎやうさう)は、敢へて警固の備へに非ず。謬(あやま)りて人の疑ひを成すべきの因なり。當時、能員、猶ほ甲冑の兵士を召し具せば、鎌倉中の諸人、皆遽(には)かに騒ぐべし。其の事然るべからず。且つは佛事結緣(けちえん)の爲に、且つは御讓補等の事に就き、仰せ合せらるべき事有らんか。忩(いそ)ぎ參るべし。」

てへり。遠州、甲冑を著し給ひ、中野四郎・市河(いちかは)別當五郎を召し、弓箭を帶し、兩方の小門に儲(まう)くべきの旨、下知し給ふ。仍つて征箭(そや)一腰(ひとこし)を二つに取り分かち、各々之を手挾(たばさ)みて、件(くだん)の兩門に立つ。彼等は勝(すぐ)れたる射手(いて)たるに依つて、此の仰せに應ずと云々。

蓮景・忠常は、腹巻(はらまき)を着け、西南の脇戸(わきど)の内に構ふ。小時(しばらく)あつて廷尉、參入す。平禮(ひれ)、白水干(しろすいかん)に葛袴を著し、黑馬に駕す。郎等二人、雜色(ざふしき)五人共に有り。惣門に入りて、廊(らう)の沓脱(くつぬぎ)に昇り、妻戸(つまど)を通りて、北面に參らんと擬す。時に蓮景・忠常等、造り合はせの脇戸の砌りに立ち向ひ、廷尉の左右の手を取り、山本の竹中に引き伏せ、誅戮、踵(くびす)を廻らさず。遠州、出居(でゐ)に出でて之を見給ふと云々。

廷尉の僮僕(どうぼく)、宿廬(しゆくろ)へ奔(はし)り歸り、事の由を告ぐ。仍つて彼(か)の一族郎從等、一幡君の御館(みたち)〔小御所(こごしよ)と號す。〕に引き籠りて謀叛の間、未(ひつじ)の三尅(みつのこく)、尼御臺所の仰せに依つて、件の輩を追討せんが爲に、軍兵を差し遣はさる。所謂、江馬四郎殿・同太郎主(ぬし)・武藏守朝政・小山左衞門尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山二郎重忠・榛谷(はんがやの)四郎重朝(しげとも)・三浦平六兵衞尉義村・和田左衞門尉義盛・同兵衞尉常盛・同小四郎景長・土肥先二郎(せんじろう)惟光・後藤左衞門尉信康・所(ところの)右衞門尉朝光・尾藤次(びとうじ)知景・工藤小次郎行光・金窪(かなくぼの)太郎行親・加藤次(かとうじ)景廉・同太郎景朝・仁田四郎忠常已下、雲霞の如ごとし。 各々彼(か)の所へ襲ひ到る。比企三郎・同四郎・同五郎・河原田(かはらだの)次郎〔能員が猶子。〕・笠原十郎左衞門尉親景・中山五郎爲重・糟屋藤太(かすやのとうた)兵衞尉有季〔已上三人、能員が聟(むこ)。〕等、防ぎ戰ひ、敢へて死を愁へざるの間、挑戰、申の剋に及び、景朝・景廉・知景・景長等幷びに郎從數輩、疵を被りて頗る引き退(しりぞ)く。重忠、壯力の郎從を入れ替へ、之を責めに攻む。親景等、彼(か)の武威に敵せず、火を館に放ち、各々、若君の御前に於いて自殺す。若君も同じく此の殃(わざわひ)を免かれ給はず。廷尉が嫡男、餘一兵衞尉、姿を女人に假(か)りて、戰場を遁れ出づと雖も、路次(ろし)に於いて、景廉が爲に梟首せらる。其の後、遠州、大岳(おほをか)判官時親を遣はし、死骸等を實檢(じつけん)せらると云々。

夜に入り、澁河(しぶかは)刑部丞、誅せらる。能員の舅(しうと)たるに依つてなり。

今回は「北條九代記」と重なるシーンが多いので、特に注は附さない。

 

「若狹局」(?~建仁三(一二〇三)年)は本文にある通り、比企能員の娘で頼家の妻妾(「吾妻鏡」では若狭局は愛妾とあり、足助(あすけ)重長の女が室と書かれているが、若狭局が建久九(一一九八)年に頼家十七歳の時に生んだ一幡は嫡子に等しい扱いを受けており、誰が正室かは不明である)で頼家嫡男一幡の母。後に第四代将軍藤原頼経に嫁いだで唯一頼朝の血筋を引く生き残りであった竹御所も若狭局の子とされる。「吾妻鏡」では一幡とともに若狭局も焼死したとするが、「愚管抄」によると、一幡は母が抱いて逃げ延びたものの、三箇月後の十一月、義時の手の者によって刺し殺されたとする(以上はウィキの「若狭局」に拠った)。

「行粧」外出の際の服装。

「葛袴」葛布(くずふ:横糸に葛の繊維を、縦糸に綿・麻・絹などを用いて織った布。丈夫で防水性に優れる。)で作った袴。狩袴をやや裾短かに仕立て、括(くくり)緒(お)を附けたもの。

「妻戸」殿舎の四隅に設けた両開きの板扉。

「未刻より申刻まで」「吾妻鏡」には「未の三尅」とあるから午後二時半頃から同四時頃まで。比企能員の変は実に二時間余りで一瞬にしてケリがついたのであった。]

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