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2013/03/26

北條九代記 賀茂長明詠歌

      ○賀茂長明詠歌

加茂の社氏(やしろうぢの)菊大夫長明(ながあきら)入道蓮胤(れんいん)は、雅經(まさつねの)朝臣の舉(きよ)し申すに付けて、關東に下向し、將軍家に對面を遂げ奉り、鎌倉に居住し、折々は御前に召されて歌の道を問ひ給ふ御徒然(おんつれづれ)の友なりと、思(おぼし)召されければ、新恩に浴して、心を延べ、打慰む事多しとかや。正月十三日は故右大將家の御忌月(きげつ)なれば、法華堂に參詣す。往當(そのかみ)の御事共思ひ續くるに、武威の輝く事、一天に普(あまね)く、軍德の勢(いきほひ)、四海を治(をさめ)て、累祖源家の洪運(こううん)、此所(ここ)に開け、靡(なび)かぬ草木もあらざりしに、無常の殺鬼(さつき)を防ぐべき謀(はかりごと)なく、五十三歳の光陰忽(たちまち)に終盡(をはりつき)て、靑草(せいさう)一箇(こ)の土饅頭(どまんぢう)、黑字數尺(くろじすせき)の卒都婆(そとば)のみ、その名の記(しるし)に殘り給ふ御事よと、懐舊の涙、頻(しきり)に催し、一首の和歌を御堂の柱に書付けたり。

  草も木も磨きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」の巻十九の建暦元(一二一一)年十月十三日の条に基づく。

○原文

十三日辛夘。鴨社氏人菊大夫長明入道。〔法名蓮胤。〕依雅經朝臣之擧。此間下向。奉謁將軍家。及度々云々。而今日當于幕下將軍御忌日。參彼法花堂。念誦讀經之間。懷舊之涙頻相催。註一首和歌於堂柱。

  草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ拂ウ山風

○やぶちゃんの書き下し文(和歌は原文に拠らず正確に読み易く示した)

十三日辛夘。鴨社の氏人(うぢびと)、菊大夫長明(ながあきら)入道〔法名、蓮胤。〕、雅經朝臣の擧(きよ)に依つて、此の間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々(どど)に及ぶと云々。

而るに今日、幕下將軍御忌日(ごきにち)に當り、彼(か)の法花堂に參り、念誦讀經の間、懷舊の涙、頻りに相ひ催し、一首の和歌を堂の柱に註(しる)す。

  草も木も靡(なび)きし秋の霜消えて空しき苔を拂ふ山風

 

「雅經」飛鳥井雅経(嘉応二(一一七〇)年~承久三(一二二一)年)は公家で歌人。義経の強力な支援者として知られ、流罪にも遇っている刑部卿難波頼経(なんばよりつね)の次男で飛鳥井家の祖。雅経も連座して鎌倉に護送されたが、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価されて頼朝の猶子となった。建久八(一一九七)年に罪を許されて帰京する際には頼朝から様々な贈物を与えられている。その後、頼家・実朝とも深く親交を結び、政所別当大江広元の娘を妻とし、後鳥羽上皇からも近臣として重んじられた。幕府の招きによって鎌倉へ度々下向、実朝と藤原定家やここに示されるように鴨長明との仲を取り持ってもいる。「新古今和歌集」(元久二(一二〇五)年奏進)の撰者の一人として二十二首採歌、以下の勅撰和歌集に計一三二首が入集している(以上はウィキの「飛鳥井雅経」に拠った)。

 

 さて、ここでは少し趣向を変えてみたい。

 私は、「吾妻鏡」に、実朝(当時満十九歳)と鴨長明(当時五十六歳)のビッグな対面がこれしか載らないのが、如何にも不審であった。長明がわざわざ逢っておいて、実朝が気に入らなかったとは思われない。私は実朝の方が、彼に対して関心を示さなかったか、何らかの不快感を抱いたのではなかったとずっと思っている。本文では長明が頼朝の法華堂の柱に残した歌を『將軍家御參詣の時、是を御覽じて、御感、淺からずとぞ聞えし』と述べているが、この歌、無常を知る僧の歌としてどうということはないものの、頼朝の御代の栄華を偲びながら、実朝に忍び寄る不吉な死の気配を潜ませて余りあるように感ぜられる。少なくとも、「吾妻鏡」は、この条の直前の九月の条に(事実であるから、ここにあって何らおかしくはないものの)、

○原文

十五日甲子。晴。金吾將軍若宮〔善哉公。〕於定曉僧都室落飾給。法名公曉。

廿二日辛未。霽。禪師公〔公曉。〕爲登壇受戒。相伴定曉僧都。令上洛給。自將軍家被差遣扈從侍五人。是依爲御猶子也。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日甲子。晴る。金吾將軍若宮〔善哉公。〕、定曉僧都の室に於いて落飾し給ふ。法名は公曉。

廿二日辛未。霽る。禪師公〔公曉。〕、登壇受戒の爲、定曉僧都に相ひ伴はれて、上洛せめ給ふ。將軍家より扈從の侍五人を差し遣はさる。是れ、御猶子(ごいうし)たるに依りてなり。

とあるのは、「滅び」の序曲の通奏低音の響きがいやが上にも聴こえてくる構成である。もっと他の事実がこの間に挟まってしかるべきところを「吾妻鏡」のこの部分の筆者は、そうしたカタストロフへの勾配をしっかりと見せつけて書いているとしか思われないのである。

 さればこそ、この長明の歌の「ありきたり」なはずの無常感は、実朝の悲劇のために、「吾妻鏡」の「ここ」にこそ、配されているのだと読むべきである。そうして、そうした自己の「滅び」をどこかで感じ始めていたはずの実朝が、この歌を、お目出度くも手放しで讃嘆したなどとは、これ、とても思えないのである(後の実朝自身がそうした無常感から詠んだのとはわけが違う)。実朝は、この和歌に、実は不快感を持ったのではあるまいか? もしかすると、神職としての出世の道を閉ざされ、和歌辺りから実朝に取り入って何らかの形で一旗揚げようと考えていたかも知れない長明が、数度の謁見の中で実朝が自分を今一つ気に入っていないことを敏感に感じとり、この和歌を以って尻(けつ)を捲くって鎌倉を後にしたのではないか、と穿ってとらえることも出来るように思われる(全く逆で実朝が飛鳥井雅経を通して歌学の師として長明を無理に招き、熱心に鎌倉に引き留めようとしたが、長明の方に全くやる気がなく、去ったのだというシチュエーションを創作している方もいるようだが、どう考えても、だったら、老体の彼が鎌倉に来るとは思われない。「方丈記」の成立が建暦二(一二一二)年であることから、そうした仮説を立てるのかも知れないが、寧ろ、欲に満ちた俗世の社会での積極的登用工作に失敗した、失意こそが「方丈記」誕生の一つの契機であったと私は考えるものである)。

 私のこうした思いは、高校二年生の時分に読んだ太宰治の「右大臣実朝」に遡るのである。無論、これも太宰の創作に過ぎない。しかし、古典であの「方丈記」の辛気臭い冒頭文を暗記せよと言われてある種の嫌悪をさえ感じていた私には、何かひどくリアルな長明像であったのである。以下、当該部を私の電子テクストから引用しておきたい。

 

 また、そのとしの秋、當時の蹴鞠の大家でもあり、京の和歌所の寄人でもあつた參議、明日香井雅經さまが、同じお歌仲間の、あの、鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを將軍家のお歌のお相手として御推擧申し上げたのでございましたが、この雅經さまの思ひつきは、あまり成功でなかつたやうに私たちには見受けられました。入道さまは法名を蓮胤と申して居られましたが、その蓮胤さまが、けふ御所においでになるといふので私たちも緊張し、また將軍家に於いても、その日は朝からお待ちかねの御樣子でございました。なにしろ、鴨の長明さまと言へば、京に於いても屈指の高名の歌人で、かしこくも仙洞御所の御寵愛ただならぬものがあつたとか、御身分は中宮敍爵の從五位下といふむしろ低位のお方なのに、四十七歳の時には攝政左大臣良經さま、内大臣通雅さま、從三位定家卿などと共に和歌所の寄人に選ばれるといふ破格の榮光にも浴し、その後、思ふところあつて出家し、大原に隱棲なされて、さらに庵を日野外山に移し、その鎌倉下向の建暦元年には既におとしも六十歳ちかく、全くの世を捨人の御境涯であつたとは申しながら、隱す名はあらはれるの譬で、そのお歌は新古今和歌集にもいくつか載つてゐる事でございますし、やはり當代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも廣く聞えて居りました。その日、入道さまは、參議雅經さまの御案内で、御所へまゐり將軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、將軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舍ぢいさんで、お顏色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お齒も拔け落ちてしまつてゐる御樣子で、さうして御態度はどこやら輕々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた將軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、

 チト、都ノ話デモ

 と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも對するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお聲で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども將軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、

 世ヲ捨テタ人ノオ氣持ハ

 と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、

「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顏をお擧げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の氣持も全く同樣、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども將軍家は、一向に平氣でございました。

 一切ノ放下

 と微笑んで御首肯なされ、

 デキマシタカ

 ややお口早におつしやいました。

「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に應ぜられました。「物欲を去る事は、むしろ容易に出來もしまするが、名譽を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名聲ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名譽心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懷をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名譽の慾を未だ全く捨て去る事が出來ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騷ぎ、すみかを山中に營むといへども人を戀はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから惱ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念佛ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顏には、いささかも動搖の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。

 遁世ノ動機ハ

 と輕くお尋ねになる將軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。

「おのが血族との爭ひでござります。」

 とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顏に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或ひは、それは、私の氣のせゐだつたかも知れませぬ。

 ドノヤウナ和歌ガヨイカ

 將軍家は相變らず物靜かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。

「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く氣取つた意味など持たせるものでないやうな氣も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を獨り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ參議雅經どのより御垂教を得て、當將軍家のお歌數十首を拜讀いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな氣が致しまして、雅經どのからのお誘ひもあり、老齡を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀拔の歌人の御身邊に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御樣子が心許なく、かくては眞珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ氣持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。

 ヲサナイ歌モ多カラウ

「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無賴の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」

 ウソトハ、ドノヤウナ事デス。

「眞似事でございます。たとへば、戀のお歌など。將軍家には、恐れながら未だ、眞の戀のこころがおわかりなさらぬ。都の眞似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする戀、雲によする戀、または、衣によする戀、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その酒落の手振りをただ形だけ眞似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舍の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才將軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身邊に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、將軍家は笑ひながらお立ちになり、

 モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。

 とおつしやつて、お奧へお引き上げになられました。私もそのお後につき從つてお奧へまゐりましたが、お奧の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども將軍家はおだやかに、

 ナカナカ、世捨人デハナイ。

 とおつしやつただけで、何事もお氣にとめて居られない御樣子でございました。

 その翌日、參議雅經さまが少し恐縮の態で御所へおいでになられましたが、その時も、將軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歡談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御所へ參るやうにとのお言傳さへございました御樣子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出來になつたか、その後兩三度、御所へお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、將軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。

 信仰ノ無イ人ラシイ

 そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ將軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大將家の御忌日に法華堂へお參りして、讀經なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、草モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ拂フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを發足して歸洛なさつた御樣子でございますが、わざわざ故右大將さまの御堂にお參りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、當將軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、當將軍家のお心があまりにお若く無邪氣すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月經つか經たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油斷のならぬ世捨人で、あのやうに淺間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、當將軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが發して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の將軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな氣がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齡を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお氣持で、將軍家にお目にかかりにやつて來られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滯在もなさらず、故右大將さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に歸洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ經緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。

 鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも將軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或ひは之は私の愚かな氣の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お變りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その惡業深い體臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。將軍家は、戀のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども將軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顏をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお齒をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、

 コノゴロ和歌ガワカツテ來マシタ

 などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御學問にもいよいよおはげみの御樣子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお讀みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御樣子で、末は故右大將家にまさるとも劣らぬ大將軍と、御所の人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拜されました。

 

僕は長明が何故か、嫌いである。かの忌わしい兼好法師より、何故か、さらに嫌いである。――]

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