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2013/03/12

一言芳談 一一二

   一一二

 

 教佛(きやうぶつ)上人、最後の所勞の時に云、僧都御房(さうづごばう)の、佛助け給へと思ふ外は、要にあらずと仰せられし事を、さしもやと思ひしが、今こそおもひしらるれ。不淨觀(ふじやうくわん)も平生(へいぜい)の時のことなり。東城寺(とうじやうじ)の阿耨房(あのくばう)が、式の法文(ほふもん)を習ふは、猿樂(さるがく)をするにてこそあれと云ひけるも、今ぞ思ひ知らるゝ、云々。

 

〇所勞の時云とは死期三日以前の言葉なり。(句解)

〇僧都御房、明遍のことなり。

〇不淨觀、わが身の不淨を觀じて執着をさるなり。

〇不淨觀とは、五薀(ごうん)和合、身はしろきほねに、あかきわたをまき、そのうへにかわをはり、男女(なんによ)のわかきも、しばらくその色うるはしきも、紅粉いろどりたるにて、ゑならに香にもあらぬと觀ずる也。(句解)

〇東城寺、常州。

〇式の法文、聖道家にある事なり。法事の時の儀式なり。それぞれにふしをならふゆゑかくいふなり。

 

[やぶちゃん注:本文はⅠに拠ったが、「教佛上人」の後の読点、「時に云」の「に」は私が独断で附した。この条、他との異同が多い。以下に示す。

 

 教佛上人最後の所勞の時云、〔死期三日以前。〕僧都御房の、佛助玉へと思外(おもふほか)は、要(よう)にあらずと被仰(おほせられ)し事もさしもやと思ひしが、今こそおもひしらるれ。不淨觀も平生の時のこと也。東城寺の阿耨(あのく)房が、式の法文を習ば、猿樂をするにてこそあれと云けるも、今ぞ思ひ知らるゝ、云々。

 

例によって正字化して示した。〔 〕はポイント落ちで、Ⅱ本文では珍しく例外的な割注。ここでの大きな異同は「被仰し事もさしもやと思ひしが」の「事も」で、ここは次に示すⅢでは「事も然と」(「然」は「さしもや」と訓じているものと推定出来る)とあるから、Ⅱ・Ⅲの方が原形(若しくはそれに近いもの)と思われる。

 

 同上人(どううしやうにん)最後(さつご)の所勞(しやらう)の時(ときに)云〔死期(き)三日以前(いぜん)〕僧都御房(そうづごばう)の佛(ほとけ)助(たすけ)玉へと、思外(おもふほか)は要(よう)にあらずと、被仰(おほせられ)し事も然と思ひしが、今(いま)こそおもひしらざれ。不淨觀(ふじやうくわん)も、平生(へいぜい)の時(とき)のこと也、東城寺(とうじやうじ)の阿耨房(あのくはう)が、式(しき)の法文(はうもん)を習(ならは)ば、猿樂(さるがく)をするにてこそあれと云けるも、今(いま)そ思知(しら)るゝ〔云々〕

 

〔 〕は割注若しくは二行書きの部分。活字化に際しては附された総ての読みを示し、「。」のような区切り記号を読点で示した。一箇所ピリオドのような点が「所勞の時云」の「云」の直後に見えるが無視した。平仮名の清濁は画像視認によって有無そのままに示した。ここでは「今こそおもひしらざれ」に大きな異同が認められる。但し、これは『今の今まで知らなかった。この時に初めて思い知らされた』という否定句による詠嘆表現として採れ、意味の逆転は生じないようには思われる。

 

「最後の所勞の時に云」でⅡ・Ⅲに「死期三日以前」とあるのは、

末期の病いで伏せられた時に仰せられた――それは直後の示寂の、ちょうど三日前のことで御座ったが――

という謂いである。以下、煩を厭わず、教仏上人の言葉を整序し、一部に現代語の補足を附して復元してみる。

「僧都御房の、

『佛、助け給へと思ふ外は、要にあらず(大切なものなどは、これ、ない)。』

と、仰せられし事を、

『さしもや(いくらなんでも、まさかそこまで単純素朴では御座るまいに)。』

と思ひしが、今こそおもひしらるれ(今こそ、まさしくその通りであると、自ずと思い知らされて御座る)。不淨觀も平生の時のことなり(観法の不浄観を致すなんどということも、これ、平生の、実は切迫したなにものもない時にだからこそのほほんと修し得るものじゃ)。東城寺の阿耨房が、

『式の法文(正式な法会の際に用いるところの厳かな講式の文)を習ふは、猿樂をするにてこそあれ(猿楽を囃し唄うのとなんら変わらぬ下らぬ遊びぞ)。』

と云ひけるも、今ぞ思ひ知らるゝ。」

 

「不淨觀」観法の一つで、肉体を始めとしてこの世界全体が汚れたものであることを観じて、煩悩を打ち消す修行法。主に、「句解」の注にある如く、肉体が死後に腐敗して白骨に変化する過程を観想するものである。所謂、死体変相の九相詩絵巻を内観するに等しい。

「東城寺」Ⅱの大橋氏注に『不詳。廃寺。』とあるが、「標註」に「常州」とあり、これは今も茨城県土浦市にある真言宗朝望山東城寺とは違うのであろうか? 現存する東城寺については、ウィキ東城寺に、延暦一五(七九六)年、最仙によって開山、当初は常陸国における天台宗の拠点のひとつであったが、鎌倉初期に小田氏の尊崇を受けて真言宗に改められ、江戸時代には江戸幕府から朱印状も与えられていた、とある歴史ある寺で、敬仏房が末期に語る以上、彼の尊崇する高僧と思われる「阿耨房」(不詳)のいた(若しくはかつていた)寺としては充分な格と思われるのであるが。この寺ではないという否定の証左をご存知の方は御教授を乞う。

「式の法文」特に真言宗や天台宗に於いて、法会の際に用いるところの経・論・釈などを説き明かした文章のこと。

「五薀和合」五蘊仮和合(ごうんけわごう)。「五蘊」とは人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。梵語の「五つの積集」の漢訳語で、物質的身体的なものとしての色蘊(しきうん)・感覚作用としての受蘊・表象作用としての想蘊・意志・欲求などの心理作用としての行蘊(ぎょううん)、対象を識別する認識作用としての識蘊を指し、五陰(ごおん)とも言う。この五蘊が集合して仮象されたものが人間であるとする謂いが、五蘊仮和合である。

「聖道家」聖道門。自ら修行して現世に於いての悟達を目的とする自力宗門。特に真言・天台の二宗を指す。自力門。易行門(いぎょうもん)や他力門、即ち浄土門との対語である。]

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