フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 耳嚢 巻之六 犬の堂の事 | トップページ | 心理學者の誤謬 萩原朔太郎 »

2013/03/12

北條九代記 武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡

      ○武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡

京都の守護武藏前司源朝雅が第(てい)は六角東〔の〕洞院にあり。今度、實朝卿の御臺所御迎(おむかひ)の爲に、上洛せられし人々、かの第に參會して酒宴ありけるに、畠山六郎重保と亭主朝雅と計(はかり)なき諍論(じやうろん)を仕出(しいだ)し、重保、樣々悪口を吐散(はきちら)す。一座の人々兎角宥(なだ)めて無事なりけるを、朝雅、猶(なほ)も遺恨を挾(さしはさ)み、牧御方(まきのおかた)に付いて、畠山次郎重忠を讒しけり。重忠は時政前腹(ぜんばら)の娘に嫁して婿なり。朝雅は時政當腹(とうふく)の娘を迎へて、牧御方、殊更に愛せらるゝ婿たり。繼母(けいぼ)なりければ、婿ながらも重忠には疎(うと)く、朝雅には親しきに任せて、時々(よりより)畠山父子逆心ある由、時政に讒しけり。稲毛三郎重成は重忠が従弟(いとこ)なり。是も時政前腹の婿ながら、重忠と不和なりければ、同じく牧御方と心を合せて、畠山父子を滅(ほろぼ)さんと相計る、北條義時、同舎弟時房、即ち父時政を諫め申されける樣、「畠山次郎重忠は、去ぬる治承四年の役より以來(このかた)、忠義を專(もつぱら)とせしかば、故大將軍御家其志を鑒(かんが)み給ひ、將軍御家督の御代(みよ)を守護し奉るべき旨、慇懃の御遺言(ごゆゐげん)を爲し給へり。賴家卿の御方(みかた)に候じながら、判官能員叛逆の時、北條家の味方と成り、忠戦(ちうせん)の功を顯しけるも、時政公に於て婿なれば、父子の禮を重くする所なり[やぶちゃん字注:「顯しけるも、」は底本では「顯しけるり、」。文脈からかく訂した。]。然るを、今、何の憤りを以てか、重忠、叛逆を起すべき。若(もし)彼(か)の度々の忠功を捨てて楚忽(そこつ)に誅伐を行はれば、定(さだめ)て後悔に及ぶべき歟。事の實否を糺されて後、その御沙汰あらば然るべく候」と申されけるに、時政、一言にも及ばす、座を立たれければ、義時、時房も退出せらる。牧御方、この由を聞給ひ、備前守時親を使として、相州義時に仰せけるは、「重忠謀叛の事隱なし。君のため、世のため、この趣を遠州時政へしらせ奉る所に、貴殿の諫は偏(ひとへ)に重忠が奸曲(いんきよく)に方人(かたうど)して、繼母なれば、我を讒者になすべしとの御巧(おんたくみ)なるべし」と申されければ、相州義時、「この上は如何様にも御心に任せ給ふべし」とぞ返答せられける。同六月二十二日の微明(びめい)に鎌倉中騒動し、軍兵等(ら)、由比濱(ゆひのはま)の邊に馳(はせ)違ひ、佐久間太郎等(ら)大勢にて、畠由六郎重保が家を取圍む。重保、出でて防(ふせぎ)戰ふといへども、俄の事にてはあり、折節、無勢なり。主從十五人、同じ枕に討死したり。父重忠は別心なき由、申(まうし)開かんとて、鎌倉に來ると聞えしかば、相模守義時を大將として數(す)萬騎を卒(そつ)して、武州二俣河(ふたまたがは)に出向はる。先陣は葛西か〔の〕兵衞尉淸重、後陣は堺〔の〕平次兵衞尉常秀なり。相隨ふ人々には大須賀(おほすかの)四郎胤信、國分(こくぶの)五郎胤通、相馬五郎義胤、東(とうの)平太重胤、足利三郎義氏、小山左衞門尉朝政(ともまさ)、三浦兵衞尉義村、同九郎胤義、長沼〔の〕五郎宗政、結域〔の〕七郎朝光、宇都宮〔の〕彌三郎頼賴綱、筑後〔の〕左衞門尉知重、安達〔の〕藤九郎右衞門尉最盛、中條(なかでう)藤右衞門尉家長、刈田(かりたの)平右衞門尉義季、狩野介(かののすけ)入道、宇佐美(うさみの)右衞門尉祐茂(すけしげ)、波多野(はだのの)小次郎忠綱、松田次郎有綱、土屋(つちやの)彌三郎宗光、河越(かわごえの)次郎重時、同三郎重員、江戸〔の〕太郎忠重、澁河(しぶかはの)武者所、小野寺(をのでらの)太郎秀通、下河邊莊司(しもかうべのしやうじ)行平、園田(そのだの)七郎、その外、大井、品河(しながは)、春日部(かすがへ)、潮田(しほだ)、鹿島(かしま)、小栗(をぐり)、竝方(なめかた)、兒玉(こだま)、横山、金子、村山の輩、我も我もと馳(はせ)付けたり。關戸(せきど)の大將には式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵三萬餘騎、山に連(つらな)り、野に滿ちて。旗を靡(なびか)し、甲(かぶと)の星を竝べて、今や遲しと待ちかけたり。さる程に畠山次郎重忠、二俣河に付いて、遙にこの由を聞きて鶴峯(つるがみね)の麓に陣取(じんど)り、家子(いへのこ)本田(ほんだの)次郎近常(ちかつね)、榛澤(はんざわの)六郎成淸(なりきよ)に申されけるは、「我、既に小衾郡(をぶすまのこほり)を出でて爰にきたり、大軍に行逢ひたり。然るに舍弟長野〔の〕三郎重淸は信濃あり、同舍弟六郎重宗は奥州にあり、いま相隨ふ者とては一男小次郎重秀、家子に汝二人、郎從都合、百三十四人のみなり。嫡子重保は早(はや)、討たれたりと聞くからに、我、何をか期(ご)し、何處(いづく)にか遁るべき、只討死と思ふより外は他念なし。若(もし)落(おち)行かんと思ふ人々は是より歸り給へ」と申されしかば、本田、榛澤、申しけるは、「敵軍數萬騎に此小勢、對戰し難し。先づ御館に引返し、討手を待(まち)受けて軍(いくさ)し給へかし」と云ひければ、重忠、仰せけるは、「家を忘れ親(したし)きを忘るゝは勇士の道なり。嫡子重保討たれし上は、本地に歸りても何かせん。去ぬる正治の比、梶原〔の〕景時が一宮(いちのみや)の館(たち)を出でて途中にて討れしは、一時の命を惜(をし)むに似たりと後に嘲(あざけり)を殘せしぞや。引返(ひきかへ)さば、陰謀の企(くはだて)あるに似たり。只爰にて腹切(はらきる)べし」とありければ、百三十四人の輩、同じく御供申して年來の御恩を報ずべしとて、中々一人も落べしと申す者なし。斯(かく)て寄手の軍兵共、先陣を志す其中に、安達藤九郎右衞門尉景盛、其郎野田(のだの)與一、加治(かぢの)次郎、飽間(あくまの)太郎、鶴見(つるみの)平次、玉村〔の〕太郎與藤次(よとうじ)、主從七騎、眞前(まつさき)に進み、弓矢取直し、鏑矢(かぶらや)を打番(つが)うて重忠を目掛けてかゝりけり。重忠、是を見て、「安達は弓馬の親き友なり。一陣に驅出(かけい)でたるは神妙なり。如何に小次郎重秀、馳向うて戰へ」と下知しければ、重秀、太刀を拔き、安達と相戰ふ事、數刻に可ぶ。その間に重忠に渡逢(わたりあ)ひて、加治(かぢの)次郎 宗季以下二十三騎、打たれたり。本田、榛澤以下の兵、數萬騎の中に驅入(かけいつ)て、四角八方に討て廻る。さしもの大軍、村々に成て引色(ひきいろ)なり。申刻(さるのこく)に及びて、重忠既に氣疲れたり。小次郎も手負ひたり。その外の郎從も痛手薄手負(おは)ぬはなし。寄手は大軍、いやが上に新手(あらて)入替りて攻めけるが、愛甲(あいかふの)三郎季隆が放つ矢に、重忠、脇壺を射させて、一矢なれども、究竟(くつきやう)の矢壺なれば、重忠、堪へず、馬より下(おり)立ちて、太刀を杖に突き、※(すくみ)たる所を、季隆、引組みて首を取る[やぶちゃん字注:「※」は判読不能。「疒」の中に「全」のような字に見えるが、それでは「癒える」の意でおかしい。識者の御教授を乞う。]。大將討たれければ、子息小次郎を初(はじめ)て皆、一所にて討死す。重忠、今年四十二歳、多年の勳功忠義の志、讒佞(ざんねい)の掌握に落ちて、家門滅びける事は、如何なる運命の果(はて)なるらんと、心ある人々は怪(あやし)み思ひ侍(はんべ)りけり。翌日、軍兵等(ら)、鎌倉に歸參して、畠山重忠以卞の首級を遠州時政に檢(けん)せしめて、軍(いくさ)の事を語り申す。相州義時、申されけるは、「重忠が舍弟親族は皆他所にありて、戦場に隨ふ者は僅(わづか)に百餘人なり。謀叛の事は虛誕(きよたん)の讒訴なりと覺ゆ。不便(ふびん)の事かな」とて、落涙せらる。時政、何とも仰(おほせ)の旨なし。その日の酉刻とりのこく)計(ばかり)に、三浦〔の〕卒六兵衞尉、鎌倉経師谷(きやうじがやつ)にして榛谷四郎重朝、同嫡子太郎重季、次郎秀重等を誅戮す[やぶちゃん字注:「きやうじがやつ」のルビは底本では「きうじがやつ」。脱字と判断して訂した。]。この軍の起(おこり)は稻毛三郎重成入道が謀曲(ぼうきよく)にあり。遠州時政、潛(ひそか)に畠山叛逆誅伐の事を稻毛に示合(しめしあは)さる。親族の好(よしみ)を變じて、重忠を謀りし故なりとて、大河戸三郎、宇佐美與一に仰せて、稻毛入道、同子息小澤(こざはの)次郎重政を誅せらる。牧御方、非道の企(くはだて)、世に隱(かくれ)なく沙汰し合へり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久元(一二〇四)年十一月二十日及び元久二年六月二十一日・二十二日・二十三日等に基づく。所謂、畠山重忠の乱である。牧の方に対する一貫した指弾から(実際の事実であると私は客観的には思っているのだが)、私はこの後に展開される実質的な尼将軍政子への批判と同様、本作の筆者は、非常に強い女性嫌悪感情(恐らくは幼児期から青年期までの何らかのトラウマによるものと推測されるような)を持っている人物とプロファイリングする。

「計なき諍論」取るに足らぬ些細なことから生じた言い争い。「吾妻鏡」でもその内容を記さない。

「稻毛三郎重成」(?~元久二(一二〇五)年)は既注済みであるが再注しておく。桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族。武蔵国稲毛荘を領した。多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年十月、隅田川の長井の渡しに於いて、従兄弟であった畠山重忠らとともに頼朝に帰伏して御家人となって政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘(武蔵国橘樹郡(たちばなのこおり))を安堵されて枡形山に枡形城(現在の生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。建久九(一一九八)年に重成は亡き妻のために相模川に橋を架けたが、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬、それが元で死去している。本話の最後にある通り、元久二(一二〇五)年六月二十二日の畠山重忠の乱によって重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したと指弾されて、翌二十三日には早々に殺害されている(ウィキの「稻毛重成」に拠る)。

カタストロフの開始である「吾妻鏡」の元久二(一二〇五)年六月二十一日の条から見る。

〇原文

廿一日丁未。晴。牧御方請朝雅〔去年爲畠山六郎被惡口。〕之讒訴。被欝陶之間。可誅重忠父子之由。内々有計議。先遠州被仰此事於相州幷式部丞時房主等。兩客被申云。重忠治承四年以來。專忠直間。右大將軍依鑒其志給。可奉護後胤之旨。被遣慇懃御詞者也。就中雖候于金吾將軍御方。能員合戰之時。參御方抽其忠。是併重御父子礼之故也。〔重忠者遠州聟也。〕而今以何憤可企叛逆哉。若被弃度々勳功。被加楚忽誅戮者。定可及後悔。糺犯否之眞僞之後。有其沙汰。不可停滯歟云々。遠州重不出詞兮。被起座。相州又退出給。備前守時親爲牧御方之使。追參相州御亭。申云。重忠謀叛事已發覺。仍爲君爲世。漏申事由於遠州之處。今貴殿被申之趣。偏相代重忠。欲被宥彼奸曲。是存繼母阿黨。爲被處吾於讒者歟云々。相州。此上者可在賢慮之由。被申之云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日丁未。晴る。牧御方、朝雅〔去年、畠山六郎の爲に惡口を被る。〕が讒訴を請けて、欝陶(うつたう)せらるるの間、重忠父子を誅すべきの由、内々計議有り。先づ遠州、此の事を相州幷びに式部丞時房主等(ぬしら)に仰せらる。兩客、申せれて云はく、

「重忠、治承四年以來(このかた)、忠直を專らにする間、右大將軍、其の志を鑒(かんが)み給ふに依つて、後胤(こういん)を護り奉るべきの旨、慇懃(いんぎん)の御詞(おんことば)を遣はさる者なり。就中(なかんづく)、金吾將軍の御方(みかた)に候ずと雖も、能員が合戰の時、御方に參じて、其の忠を抽(ぬき)んづ。是れ併(しか)しながら、御父子の禮を重んずるが故なり〔重忠は遠州の聟なり。〕。而るに今、何の憤りを以つてか、叛逆を企つべけんや。若し、度々の勳功を弃(す)てられ、楚忽(そこつ)の誅戮を加へらるれば、定めて後悔に及ぶべし。犯否(ぼんぷ)の眞僞を糺すの後、其の沙汰有るも、停滯すべからざらんか。」

と云々。

遠州、重ねて詞を出されずして、座を起たせらる。相州も又、退出し給ふ。備前守時親、牧御方の使ひとして、追つて相州の御亭に參り、申して云はく、

「重忠が謀叛の事、已に發覺す。仍つて君の爲、世の爲、事の由を遠州に漏らし申すの處、今、貴殿が申さるるの趣き、偏へに重忠に相ひ代はりて、彼(かれ)が奸曲(かんきよく)を宥(なだ)められんと欲す。是れ、繼母の阿黨(あたう)と存じ、吾(われ)を讒者(ざんしや)に處せられんが爲か。」

と云々。

相州、

「此の上は、賢慮在るべし。」

の由、之を申さると云々。

・「楚忽に」軽率に。

・「犯否」罪を犯すことと犯さないこと。「はんぴ」と読んでもよい。

・「備前守時親」(生没年未詳)は牧の方の父(もしくは兄)であった牧宗親(まきのむねちか 生没年未詳)の子。牧宗親は、例の頼朝の亀の前スキャンダルの際、亀の前が匿われていた伏見広綱邸を政子の命で破却、それが頼朝の怒りを買い、髻を切られる恥辱を受けた人物である。時親はこの後の実朝を廃して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとした牧氏事件で縁座して出家させられている(以上はウィキの「牧宗親」の記載を参考にした)。

・「奸曲を宥められんと欲す」「奸曲」は姦曲とも書き、心に悪だくみのあること。「宥む」は罪などに対して寛大な処置をするの謂いであるから、ここは、『(重忠の許し難い)悪だくみを誤魔化しそうとしている』の意である。

・「繼母の阿黨と存じ」「阿黨」は普通は、権力のある者に阿(おもね)って組みすること、また、その仲間を言うが、ここは、『継母であるという先入観から、悪しきおもねりをなして、悪だくみを致す不逞の輩と、我らを断じて』の意。

・「此の上は、賢慮在るべし」双方がケツを捲くっている状況であるから、ここは、『かくなる上は、どうぞ、御随意に!』といった切り口上といった感じであろう。

 

 翌元久二(一二〇五)年六月二十二日の条。畠山重忠の乱は一日でカタがついてしまうのである。如何にも鮮やか過ぎるではないか?

〇原文

六月小廿二日戊申。快晴。寅尅。鎌倉中驚遽。軍兵競走于由比濱之邊。可被誅謀叛之輩云々。依之畠山六郎重保。具郎從三人向其所之間。三浦平六兵衞尉義村奉仰。以佐久間太郎等。相圍重保之處。雖諍雌雄。不能破多勢。主從共被誅云々。又畠山次郎重忠參上之由。風聞之間。於路次可誅之由。有其沙汰。相州已下被進發。軍兵悉以從之。仍少祗候于御所中之輩。于時問注所入道善信。相談于廣元朝臣云。朱雀院御時。將門起於東國。雖隔數日之行程。於洛陽猶有如固關之搆。上東上西兩門〔元土門也。〕始被建扉。矧重忠已莅來近所歟。盍廻用意哉云々。依之遠州候御前給。召上四百人之壯士。被固御所之四面。次軍兵等進發。大手大將軍相州也。先陣葛西兵衞尉淸重。後陣堺平次兵衞尉常秀。大須賀四郎胤信。國分五郎胤通。相馬五郎義胤。東平太重胤也。其外。足利三郎義氏。小山左衞門尉朝政。三浦兵衞尉義村。同九郎胤義。長沼五郎宗政。結城七郎朝光。宇都宮彌三郎賴綱。筑後左衞門尉知重。安達藤九郎右衞門尉景盛。中條藤右衞門尉家長。同苅田平右衞門尉義季。狩野介入道。宇佐美右衞門尉祐茂。波多野小次郎忠綱。松田次郎有經。土屋彌三郎宗光。河越次郎重時。同三郎重員。江戸太郎忠重。澁河武者所。小野寺太郎秀通。下河邊庄司行平。薗田七郎。幷大井。品河。春日部。潮田。鹿嶋。小栗。行方之輩。兒玉。横山。金子。村山黨者共。皆揚鞭。關戸大將軍式部丞時房。和田左衞門尉義盛也。前後軍兵。如雲霞兮。列山滿野。午尅各於武藏國二俣河。相逢于重忠。重忠去十九日出小衾郡菅屋館。今著此澤也。折節舍弟長野三郎重淸在信濃國。同弟六郎重宗在奥州。然間相從之輩。二男小次郎重秀。郎從本田次郎近常。榛澤六郎成淸已下百三十四騎。陣于鶴峯之麓。而重保今朝蒙誅之上。軍兵又襲來之由。於此所聞之。近常。成淸等云。如聞者。討手不知幾千万騎。吾衆更難敵件威勢。早退歸于本所。相待討手。可遂合戰云々。重忠云。其儀不可然。忘家忘親者。將軍本意也。随而重保被誅之後。不能顧本所。去正治之比。景時辭一宮館。於途中伏誅。似惜暫時之命。且又兼似有陰謀企。可恥賢察歟。尤可存後車之誡云々。爰襲來軍兵等。各懸意於先陣。欲貽譽於後代。其中。安達藤九郎右衞門尉景盛引卒野田與一。加世次郎。飽間太郎。鶴見平次。玉村太郎。與藤次等畢。主從七騎進先登。取弓挾鏑。重忠見之。此金吾者。弓馬放遊舊友也。拔万人赴一陣。何不感之哉。重秀對于彼。可輕命之由加下知。仍挑戰及數反。加治次郎宗季已下多以爲重忠被誅。凡弓箭之戰。刀劔之諍。雖移尅。無其勝負之處。及申斜。愛甲三郎季隆之所發箭中重忠〔年四十二。〕之身。季隆即取彼首。献相州之陣。而之後。小次郎重秀〔年廿三。母右衞門尉遠元女。〕幷郎從等自殺之間。縡屬無爲。今日未尅。相州室〔伊賀守朝光女。〕男子平産〔左京兆是也。〕。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿二日戊申。快晴。寅の尅、鎌倉中、驚遽(きやうきよ)し、軍兵、由比の濱の邊に競ひ走る。謀叛の輩、誅せらるべしと云々。

之れに依つて、畠山六郎重保、郎從三人を具して其の所へ向ふの間、三浦平六兵衞尉義村 仰せを奉(うけたまは)り、佐久間太郎等を以つて、重保を相ひ圍むの處、雌雄を諍(あらそ)ふと雖も、多勢を破るに能はず、主從共に誅せらると云々。

又、畠山次郎重忠參上の由、風聞の間、路次(ろし)に於いて誅すべきの由、其の沙汰有り。相州已下、進發せらる。軍兵、悉く以つて之に從ふ。仍つて御所中に祗候(しこう)するの輩(ともがら)、少なし。時に問注所入道善信、廣元朝臣に相ひ談じて云はく、

「朱雀院の御時、將門、東國に於いて起つ。數日の行程を隔つと雖も、洛陽に於いて猶ほ固關(こげん)のごときの搆(かま)へ有り。上東・上西の兩門〔元は土門(つちもん)なり。〕、始めて扉(そびら)を建てらる。矧(いはん)や重忠、已に近所に莅(のぞ)み來たらんか。盍(なん)ぞ用意を廻らさざらんや。」

と云々。

之れに依つて、遠州、御前に候じ給ひ、四百人の壯士を召し上ぼせ、御所の四面を固めらる。次に軍兵等、進發す。大手大將軍は相州なり。先陣は葛西兵衞尉淸重、後陣は堺平次兵衞尉常秀・大須賀四郎胤信・國分五郎胤通・相馬五郎義胤・東平太重胤なり。其の外は、 足利三郎義氏・小山左衞門尉朝政・三浦兵衞尉義村・同九郎胤義・長沼五郎宗政・結城七郎朝光・宇都宮彌三郎賴綱・筑後左衞門尉知重・安達藤九郎右衞門尉景盛・中條藤右衞門尉家長・同苅田平右衞門尉義季・狩野介入道・宇佐美右衞門尉祐茂・波多野小次郎忠綱・松田次郎有經・土屋彌三郎宗光・河越次郎重時・同三郎重員・江戸太郎忠重・澁河武者所・小野寺太郎秀通・下河邊庄司行平・薗田七郎、幷に大井・品河(しながは)・春日部(かすかべ)・潮田(うしほだ)・鹿嶋(かしま)・小栗(をぐり)・行方(なめかた)の輩、兒玉・横山・金子・村山黨(たう)の者共、皆、鞭を揚ぐ。關戸の大將軍は式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵、雲霞のごとく、山に列し、野に滿つ。午の尅、各々、武藏國二俣河に於いて、重忠に相ひ逢ふ。重忠、去ぬる十九日、小衾郡(をぶすまのこほり)菅屋(すがや)の館(たち)を出で、今、此の澤に著くなり。折節、舍弟長野三郎重淸は信濃國に在り。同じく弟六郎重宗は奥州に在る。然る間、相ひ從ふの輩は、二男小次郎重秀・郎從本田次郎近常・榛澤(はんざはの)六郎成淸已下、百三十四騎、鶴峯(つるがみね)の麓に陣す。而うして、重保、今朝、誅を蒙るの上、軍兵、又、襲ひ來たるの由、此の所に於て之を聞く。

近常・成淸等、云はく、

「聞くがごとくんば、討手(うつて)幾千万騎といふことを知らず。吾が衆、更に件(くだん)の威勢に敵(てき)し難し。早く本所に退き歸り、討手を相ひ待ち、合戰を遂ぐべし。」

と云々。

重忠、云はく、

「其の儀は然るべからず。家を忘れ、親を忘るるは、將軍の本意なり。随つて、重保誅せらるるの後は、本所を顧みるに能はず。去ぬる正治の比(ころ)、景時、一宮の館(たち)を辭し、途中に於いて誅に伏(ふく)す。暫時の命を惜むに似て、且は又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり。賢察を恥づべきか。尤も後車の誡(いましめ)と存ずべし。」

と云々。

爰に軍兵等、襲ひ來る。各々、意(こころ)を先陣に懸け、譽れ後代に貽(のこ)さんと欲す。其の中に、安達藤九郎右衞門尉景盛・野田與一・加世(かせの)次郎・飽間(あきまの)太郎・鶴見平次・玉村太郎・與藤次等を引卒し畢はり、主從七騎、先登に進み、弓を取り鏑(かぶら)を挾(さしはさ)む。重忠、之れを見て、

「此の金吾は、弓馬放遊の舊友なり。万人を拔きんで一陣に赴く。何ぞ之を感ぜざるや。重秀、彼に對し、命を輕んずるべし。」

の由、下知を加ふ。仍つて挑戰、數反(すへん)に及ぶ。加治次郎・宗季已下、多く以つて重忠の爲に誅せらる。凡そ、弓箭の戰ひ、刀劔の諍(あらそ)ひ、尅(とき)を移すと雖も、其の勝負無きの處、申の斜(ななめ)に及び、愛甲三郎季隆が發つ所の箭(や)、重忠〔年四十二。〕が身に中(あた)る。季隆、即ち彼(か)の首を取り、相州の陣へ献ず。而るの後、小次郎重秀〔年廿三、母は右衞門尉遠元の女。〕幷びに郎從等、自殺するの間、縡(こと)、無爲(ぶゐ)に屬す。今日、未の尅、相州が室〔伊賀守朝光の女。〕、男子平産す〔左京兆、是れなり。〕。

・「朱雀院の御時、將門、東國に於いて起つ。數日の行程を隔つと雖も、洛陽に於いて猶ほ固關のごときの搆へ有り。上東・上西の兩門〔元は土門なり。〕、始めて扉を建てらる。矧や重忠、已に近所に莅み來たらんか。盍ぞ用意を廻らさざらんや」の問注所執事三好康信の台詞は、

――平将門が東国で乱を起こした際には、京の御所とは幾日もの行程を隔つほどの遠い距離にあったにも拘わらず、なおも危急に備え、鉄壁の構えで御所を守備致し、上東門と上西門〔何れも大内裏の東西の最北にある門で元は土門(つちもん。築地(ついじ)を切って簡易の扉を附けただけのもの)であった。〕に初めて本格的な門を構えて厳重な扉を建ててた先例も御座る。況や今、謀叛人重忠は眼と鼻の先まで進軍しておるので御座るぞ! 油断致いて手を拱いて何の用意も致さぬというは、これ、剣呑!――

といった謂いである。

・「關戸の大將軍は式部丞時房、和田左衞門尉義盛なり。前後の軍兵、雲霞のごとく、山に列し、野に滿つ」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条の注には、この前の義時指揮の大部隊っは二俣川へ鎌倉古道の「中の道」を通っており、この現在の東京都多摩市の『関戸への道は鎌倉古道「上の道」を通るので、途中瀬谷から矢倉沢往還を江戸方面へ向かい、中山から白根へ出ると、重忠の菅谷館への退路を断ち、挟み撃ちにできる』とあって、単に『牧の方に口説かれて、いやいや出撃する割には用意周到すぎる』と、この畠山重忠の乱の意想外に複雑な謀略性を美事に推理しておられる(なお、加藤塾では、先の義時の私が「かくなる上は、どうぞ、御随意に!」と訳した「此の上は、賢慮在るべし」という台詞を、『それならばもう一度考え直しましょう。』と訳しておられ、この注の『牧の方に口説かれて』とは、その部分を指しての謂いと推察する)。

・「小衾郡菅屋」は武蔵国にあった男衾郡(小衾郡とも書いた)で現在の埼玉県比企郡嵐山町にあった菅谷館(すがややかた)、菅谷城のこと。現在でも空堀等の遺構が残されてはいるが、これらは戦国時代の後北条氏のものであると言われる(最後の部分はウィキ畠山重忠」の記載に拠る)。

・「一男小次郎重秀」(寿永二(一一八三)年~元久二(一二〇五)年)重忠次男。

「且は又、兼ねて陰謀の企て有るに似たり。賢察を恥づべきか。尤も後車の誡と存ずべし」この重忠の台詞を配した「吾妻鏡」の筆者は鋭い。続きを読むまでもなく、既にここで重忠謀叛は謀略であったことを、重忠本人の肉声で伝えるのだから、その言説の正当性は厭上にも昂まるからである。「後車の誡」は「前車の覆轍(ふくてつ)」に同じ。先人の失敗を教訓とすること。「前車」は前を行く車、「覆」は転覆、「轍」はわだちで、車輪の跡。前の車がひっくり返った、その車輪の跡を見て、後続の車はそこを通らぬようにするという「漢書」賈誼(かぎ)伝の「前車の覆るは後車の戒め」に基づく故事成句。

――かつはまたやはり景時の最期の如く、濡れ衣であるにも拘わらず、以前より謀叛の陰謀の企みがあったかように、御所様が情けなくもお思いになられた、ということをこそ恥じと感ずべきではないか?! これらをこそ「前車の覆るは後車の戒め」とせずんばあらず!――

と喝破するのである。この場面のこの台詞は、私としては「北條九代記」でも、そのまま使って欲しかったというのが本音である。なお、ウィキのウィキ畠山重忠」によれば、『重忠は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢箆を地に突きさした。やがてこの矢は自然に根付き、年々』二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになった、と記す。この悲劇の武将畠山重忠の美談は枚挙に暇がない。

・「此の金吾」安達景盛。彼は右衞門尉で「金吾」は衞門府の唐名。

・「申の斜」「斜」は正中や半分を過ぎることであるから、午後四時過ぎから四時半頃。

・「今日、未の尅、相州が室〔伊賀守朝光の女。〕、男子平産す〔左京兆、是れなり。〕」この悲劇的で凄惨な戦さの最中、午後二時頃、北条義時の継室伊賀の方が、五男を生んだ。これが後の左京権大夫、第七代執権となる北条政村である。

 

 乱の翌日。元久二(一二〇五)年六月二十三日の条。

〇原文

廿三日己酉。晴。未尅。相州已下被歸參于鎌倉。遠州被尋申場事。相州被申云。重忠弟親類大略以在他所。相從于戰場之者僅百餘輩也。然者。企謀叛事已爲虛誕。若依讒訴。逢誅戮歟。太以不便。斬首持來于陣頭。見之不忘年來合眼之眤。悲涙難禁云々。遠州無被仰之旨云々。」酉尅。鎌倉中又騷動。是三浦平六兵衞尉義村。重廻思慮。於經師谷口。謀兮討榛谷四郎重朝。同嫡男太郎重季。次郎季重等也。稻毛入道爲大河戸三郎被誅。子息小澤次郎重政者。宇佐美與一誅之。今度合戰之起。偏在彼重成法師之謀曲。所謂右衞門權佐朝雅。於畠山次郎有遺恨之間。彼一族巧反逆之由。頻依讒申于牧御方。〔遠州室。〕遠州潛被示合此事於稻毛之間。稻毛變親族之好。當時鎌倉中有兵起之由。就消息。重忠於途中逢不意之横死。人以莫不悲歎云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿三日己酉。晴る。未の尅、相州已下、鎌倉に歸參せらる。遠州、戰場の事を尋ね申さる。相州、申されて云はく、

「重忠が弟・親類は大略以つて他所(よそ)に在り。戰場に相ひ從ふの者、僅かに百餘輩なり。然れば、謀叛を企つる事、已に虛誕(きよたん)たり。若し讒訴に依つて、誅戮に逢へるか。太(はなは)だ以つて不便(ふびん)。首を斬りて陣頭に持ち來たつて、之を見るに、年來(としごろ)、合眼(がふがん)の眤(むつみ)を忘れず、悲涙禁じ難し。」

と云々。

遠州、仰せらるるの旨、無しと云々。

酉の尅、鎌倉中、又、騷動す。是れ、三浦平六兵衞尉義村、重ねて思慮を廻らし、經師谷口(きやうじがやつぐち)に於いて謀りて、榛谷四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎季重等を討つなり。稻毛入道は、大河戸三郎が爲に誅せらる。子息小澤次郎重政は、宇佐美與一、之を誅す。今度の合戰の起りは、偏へに彼(か)の重成法師の謀曲に在り。所謂、右衞門權佐朝雅、畠山次郎に遺恨有るの間、彼の一族反逆を巧(たく)むの由、頻りに牧御方〔遠州が室。〕に讒し申すに依つて、遠州、潛かに此の事を稻毛に示し合はせらるるの間、稻毛、親族の好(よし)みを變じ、當時、鎌倉中に兵起有るの由、消息に就きて、重忠、途中に於いて不意の横死に逢ふ。人、以つて悲歎せざるといふこと莫し、と云々。

・「是れ、三浦平六兵衞尉義村、重ねて思慮を廻らし、經師谷口に於いて謀りて、榛谷四郎重朝・同嫡男太郎重季・次郎季重等を討つなり」この部分には三浦氏の私怨がある。三浦義村の祖父義明(よしあき)は治承四(一一八〇)年の頼朝挙兵と同時に一族挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃したが、途中で石橋山での頼朝の敗戦を聞いて、引き返して籠城、ほどなくして当時平家方であった畠山重忠率いる軍勢と合戦となり(衣笠城合戦)、一族郎党を率いて奮戦したが、最後は刀折れ矢尽き、義澄以下、一族を安房に逃した後に独り城を守って享年八十九歳で戦死している。榛谷は畠山重忠の従兄弟であり、稲毛重成は兄に当たる。榛谷一族の誅伐の名目は、実は次の稲毛重成誅殺とともに、重忠の謀殺に荷担したという罪状であるが、実はこれによって三浦義村は積年の仇敵たる畠山一党への怨を雪いだ結果となったのである。但し、重忠旧領と畠山の名跡は足利義兼の庶長子足利義純が重忠の未亡人(時政女)と婚姻して継承した結果、畠山氏は源姓として存続することなる(最後の部分はウィキ畠山重忠」の記載に拠る)。

・「大河戸三郎」武蔵七党の一つである児玉党の宿谷(しゅくや)氏の家臣で、宿谷七騎と呼ばれた名将の一人。

・「鎌倉中に兵起有るの由、消息に就きて」とは、鎌倉で兵乱が起こったので至急参られたしという偽りの手紙を重忠に送って、の意。]

« 耳嚢 巻之六 犬の堂の事 | トップページ | 心理學者の誤謬 萩原朔太郎 »