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2013/03/13

★④★北條九代記 卷第四【第4巻】 朝親新古今集を進ず 付 八代集撰者

鎌倉 北條九代記  卷第四

 

      〇朝親新古今集を進ず  八代集撰者

同九月二日、藤兵衞尉朝親、京都より下著して、續新古今集を以て、將軍實朝卿に奉る。其より以前、延喜帝の御時に紀貫之等(ら)に勅して古今集を撰ぜられ、村上天皇の御宇に大中臣能宣(おほなかとみのよしのぶ)、源順(みなもとのしたがふ)、淸原元輔(きよはらのもとすけ)、紀時文(きのときぶん)、坂上棒城(さかのうへのもちき)、五人に命じて、後撰集を撰じ、一條院の御時に藤原公任(きんたふ)大納言、拾遺和歌集を撰ぜらる。是を三代集と名付けて歌道の權輿(けんよ)とし給ひけり。その後に白河院御在位の時、藤原通俊(みちとし)、後拾遺集を撰じ、崇德院の御宇に源俊賴(としより)朝臣、金曜葉集を撰じ、近衞院の音時に、藤原顯輔(あきすけ)、詞花集を撰じ、後白河院の御宇に至て、藤原俊成(としなり)に勅して千載集を撰ず。今又、後鳥羽上皇既に源通具(みちとも)、藤原有家(ありいへ)、藤原定家(さだいへ)、藤原家隆(いへたか)、藤原稚經(まさつね)に命じて、新古今和歌集を撰ぜしめ給ふ。古今集より新古今集まで、是を合せて八代集とぞ名付けたる。歌の道は我國の風俗として神代の古(いにしへ)より傳り、世世の帝(みかど)、絶(たえ)せぬ言の葉を撰ぜられける。その中に新古今集は去ぬる三月十六日に撰集し、同じき四月に奏覧す。未だ竟宴(きやうえん)を行はれず。披露の義は是(これ)なしといへども、將軍實朝卿、この道を好み給ふ。その上、故右大將の御歌も撰び入れられんと聞給ふに付けて、頻(しきり)に御覧ぜらるべき志おはしけるを、朝親、即ち定家(ていかの)卿に屬して、和歌の道、稽古淺からず、既に此集(しふ)の作者に入れられ、讀人しらずとは書かれたりけれども、歌の本意(ほんい)は有りけりと思(おもひ)喜ぶ所なり。實朝卿、如何にもして、書進(かきしん)ずべきの旨、望み給ふに依て、朝親、竊(ひそか)に寫(うつ)して、鎌倉に下向し、將軍家に奉りければ、大に御感(ぎよかん)の餘(あまり)、朝親に樣々の御引出物を賜り、歌の道、御物語ましまし、御詠なんども出されて見せ給ひけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久二(一二〇五)年九月二日に基づく。

〇原文

二日乙酉。内藤兵衞尉朝親自京都下著。持參新古今和歌集。是通具。有家。定家。家隆。雅經等朝臣奉勅定。於和歌所。去三月十六日撰進之。同四月奏覽。未被行竟宴。又無披露之儀。而將軍家令好和語給之上。故右大將軍御詠被撰入之由就聞食。頻雖有御覽之志。態不及被尋申。而朝親適屬定家朝臣嗜當道。即列此集作者〔讀人不知。〕之間。廻計略可書進之由。被仰含之處。依朝雅。重忠等事。都鄙不靜之故。于今遲引云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

二日乙酉。 内藤兵衞尉朝親、京都より下著、新古今和歌集を持參す。是れ、通具・有家・定家・家隆・雅經等朝臣、勅定(ちやくぢやう)を奉(うけたまは)り、和歌所(わかどころ)に於いて、去ぬる三月十六日、之を撰進(せんしん)し、同四月、奏覽す。未だ竟宴(きやうえん)を行はれず、又、披露の儀、無し。而れども將軍家、和語を好ましめ給ふの上、故右大將軍の御詠、撰び入れらるるの由、聞(きこ)し食(め)すに就きて、頻りに御覽の志し有りと雖も、態(わざ)と尋ね申さるるに及ばず。而るに朝親、適々(たまたま)定家朝臣に屬して當道を嗜む。即ち、此の集の作者〔讀人知らず。〕に列するの間、計略を廻らして、書き進(しん)ずべきの由、仰せ含めらるるの處、朝雅・重忠等(ら)が事に依つて、都鄙、靜かならざるが故に、今に遲引すと云々。

・「内藤兵衞尉朝親」(生没年未詳)御家人で実朝の側近。本文にあるように定家の門弟で和歌をよくした。

・「竟宴」宮中で進講や勅撰集の撰進が終わった後に催される酒宴(諸臣に詩歌を詠ませたり禄を賜ったりした)。

・「和語」は漢語に対する日本固有の語、大和言葉の謂いであるが、漢詩漢文を男系の作詩や記録の基本としていた世界では和語は和歌の謂いとなろう。

 

「延喜帝」醍醐天皇。

「三代集」勅撰和歌集「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の総称で、この名称は天永四・永久元(一一一三)年の成立とされる源俊頼「俊頼髄脳」の頃より用いられたらしい。

「八代集」この名称は鎌倉初期の藤原定家の日記「明月記」や順徳天皇による歌論書「八雲御抄(やくもみしよう)」などに既に見られる。以下、八代集の成立年代と、そのスパンを表示してみる。言霊のウェーヴの変化が見てとれる。

「古今和歌集」延喜一三(九一三)年~一四年頃、成立。

   凡そ四〇~五〇年

「後撰和歌集」未詳。村上天皇の勅は天暦五(九五一)年に発せられている。

   凡そ四〇~五〇年

「拾遺和歌集」寛弘二(一〇〇五)年~寛弘四年、成立。

   約八〇年

「後拾遺和歌集」応徳三(一〇八六)年、成立。

   約四〇年

「金葉和歌集」二度本は天治二(一一二五)年に、三奏本は大治元(一一二六)年に成立。

   約二五年

「詞花和歌集」仁平元(一一五一)年、成立。

   約三五年

「千載和歌集」文治三(一一八七)年若しくは同四年に成立。

   約二〇年

「新古今和歌集」元久二(一二〇五)年の成立後、承元四(一二一〇)年頃まで改訂続行。]

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