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2013/03/31

耳嚢 巻之六 鍛冶屋淸八が事 

 鍛冶屋淸八が事

 

 泉州堺のものにて、紀州家より何の譯にや二人扶持(ににんぶち)給りし由。其謂れを聞くに、何も御用も不勤(つとめざれ)ど、古今珍敷速足(めづらしきはやあし)にて、堺より江戸へ三日に來る(きた)由。近江の彦根へ三十六里の處、一晝夜に往返(わうへん)せしとかや。或時彦根の城下より木綿買出しに來りし者、堺にて急病にて果けるを、はやくしらせんと評議せる處、彼(かの)淸八今夜中にしらせんと請合(うけあひ)し故、飛脚賃として五兩渡しけるを受取(うけとり)、暮前(くれまへ)なりしが、夜食など給(たべ)て緩々(ゆるゆる)支度せるを、少しも早く出立(しゆつたつ)せよと側のもの催促しければ、明日は歸りて左右(さう)なすべし、何の急ぎ候事かあらんといひて、やがて出しが、彦根へ其明(そのあけ)の日つきて、暮時前、堺へ立(たち)歸りし由。文化元子年、五拾二歳にて今以(いまもつて)存在の由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。驚異の駿足の、ちょいと鯔背な実在した男の話(以下注を参照)である。

・「鍛冶屋淸八」最後に「文化元子年、五拾二歳にて」とあることから、彼の生年は宝暦三(一七五三)年であることが分かる。眠いさんの個人ブログ「眠い人の植民地日記」の「ある韋駄天走りの肖像」に本話を紹介されながら、出典は未詳ながら、清八のかなりの詳細を記されおられる。それによれば、彼の『本業は鍛冶屋だか足袋屋だか定かではない』とあり、何より重要なのが『後に江戸へ出て来て、高尾山信仰の信者となり、清八講の先達として、後に高尾山に宝篋印塔を建立し』ている点である。眠いさんによれば、この高尾山の宝篋印塔は、元々は後北条氏の第三代氏康が元亀元・永禄一三(一五七〇)年に奉納したものであったが、享保二(一七一七)年の大嵐で崩壊し、放置されていたものを、清八が寛政八(一七九六)年より浄財を募り、文化八(一八一一)年、先代のものより若干小振りながら、青銅製の立派な五重塔を再建したという。また、以下のような事実も記されている。『清八は長屋住まいだった』『が、まじないも良くし、これが大変流行って、高貴な方面からも信頼が篤かったと言い』、『謂わば、現代で言うスピリチュアルカウンセラー』みたような人物で、『まじないを頼む人で長屋はごった返し』たものの、『暮らし向きは至って質素で、衣服も身分相応のものを着てい』たとある。また彼は、『高尾山の秘仏開帳』『に奔走する傍ら、紀州徳川家へも足繁く通って』いたと、本話の事蹟ともクロスし、高尾山と密接な関係を持っていたらしい(詳細は眠いさんのブログをお読み頂きたい)紀州家にとって各種の『連絡役として』駿足の先達清八は『うってつけだったのかも知れ』ないと推測され、さらに、『宝篋印塔を建立する際の浄財を紀州家を通じて各大名家から募った可能性もあり』、『その宝篋印塔を復活させた際には、更に浄財を募って旧甲州街道沿いに新宿から高尾山までの間に』、三本の道標をも設置、現在もこの道標は八王子市に現存している、とある。眠いさんは最後に、『この八面六臂の活躍を見ていると、清八をネタに時代小説が一本書けそう』とおっしゃっている。まっこと、その通りの魅力的な人物である。――まだ、話は終わらない――私がこの眠いさんのブログを知ったのは、私が鎌倉地誌の電子テクスト化の中で、非常にお世話になったウェブサイト s_minaga 氏の「がらくた置場」(がらくたどころか至宝の山)の中にある、「成形層塔」(鋳造で制作された層塔)の頁のリンクであったのだが、そこには何と! 清八の、今はなき(戦時中の金属供出によって消失)その武蔵高尾山銅製五重塔の写真があるのである! それによれば、先にあったように八王子宿追分には清八の道標が残っているが、そこに平成十五年五月のクレジットを持つ八王子市教育委員会の説明番があって、そこには(改行を省略した)、この道標は文化八年に『江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。その後、昭和二十年八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです』とあるそうである。s_minaga 氏は、この塔について、先にリンクしたのとは別な写真の傍らに写っている大人の人物から推して、塔の高さは十五~六尺(四・五~四・八メートル)、台座は七~八尺(二・一~二・四メートルの見当であろうか、と推定なさっておられる(こういう邂逅こそがネット世界の醍醐味である!)。清八さんは勿論、s_minagaさんも眠いさんも、みんな、ナイス・ガイだわ!

・「二人扶持」「扶持」は戦国時代からの名残で、主君から比較的下級の家士に対して支給された俸禄(手当)の単位。一人一日玄米五合を標準(一人扶持)とする。一年三六〇日で一石八斗、約五俵(単純な現在換算だと三〇〇キログラム)になる。月割りで毎月支給された。・「三十六里」約一四〇キロメートル強。地図上の直線距離でも彦根―堺間は一一〇キロメートルを超える。知らせることが目的であるから、彦根行を最スピードで踏破したと考えてよいから、「今夜中」という言葉、出立の雰囲気から考えても、だいたい6~9時間程度とすると、時速二三~一五キロメートルになる。自転車並みの速さである。

・「左右」あれこれの知らせ。手紙。便り。

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鍛冶屋清八の事

 

 和泉国堺の者で、紀州家よりどういう訳からか、二人扶持の俸禄を給わっておる鍛冶屋清八と申す者がおる由。

 どうしてまた、鍛冶屋なんどが……と、知れる者に、その謂われを訊ねたところ……

「……いやぁ、その……正式な職分としては、これ、何の御用も勤めては御座らぬ。……されど、この男……古今にも珍しき駿足の持主で御座っての。……

……堺を出でてより――江戸へ――何と――僅か三日にて参る――と、申す。……

……堺から近江の彦根へ三十六里の行程……これを、この男……何と正味一昼夜で往復したとか……

……ある時、彦根の御城下より木綿買い出しに来て御座った男が、これ、堺にて急な病いのため、亡くなって御座った。……

……亡くなった者を知れる者ども、評議致いて、

「ともかくも……早(はよ)う在方へ知らせずんばなるまい……」

と評議一決致し、かの駿足の噂の高い清八を呼んで頼んでみたところ、

「――合点承知。――今夜中には先方へ知らせまひょ。」

と請け合って御座ったゆえ、飛脚賃として五両、これ、渡いた。……

……ところが、清八――「今夜中」と申したにも拘わらず――もう、その時には、かれこれ、日の暮れかかろうという時分で御座ったが、

「――一つ、腹ごしらえに、軽き夜食なんど、戴けまっか。」

などと申し、ゆっくらとそれを食べては、これまた、のんびりと支度致いておるによって、

「……さっさと……少しでも早(はよ)う、出なはれや!……」

と、流石に傍の者も焦れてしもうて、催促致いたところ、

「――明日、帰って首尾を述(のぶ)ればよろしかろ? 何の。急ぐことが、これある、かい。――」

と呟いて、

「――されば急かされたによって――」

と、申して、やっと出でた、と申す。……

――ところが……

――やがて彦根へは日の変わった未明に着き……

――その日の日暮れ前には……これ……平気な顔して堺へ帰って参った、と申す。……

……清八儀、文化元年子年、当年とって五十二歳……今以て、健在の由にて御座る。……」

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