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2013/03/18

北條九代記 實朝卿和歌定家卿批點 付 鬪鷄

      ○實朝卿和歌定家卿批點  鬪鷄

承元元年七月に將軍實朝卿、御夢想によりて和歌二十首を詠じて、住吉の寶殿に奉納あり。この次(ついで)に、去ぬる建永元年より以來の詠歌三十首を藤原定家卿に送り、批點(ひてん)を請ひ給ふ。定家卿、點を加へて返され、詠歌の口傳(くでん)一卷を參せらる。日比、和歌六義(りくぎ)の風體(ふうてい)を實朝卿、尋ね給ひける故なり。この比(ころ)、世も既に靜(しづか)なるに似て、春の空長閑(のどか)なり。三月朔日に永編福寺の梅櫻を北の御壺(つぼ)に掘移(ほりうつ)して植られ、同じき三日には北の御壺に於て鬪鷄(にはとりあはせ)の會(くわい)あり。相州、時房を初(はじめ)て、親廣、朝光、義盛、逹元、景盛、常秀、常盛、義村、宗政等(ら)をその衆として、思ひ思うひに鷄(にはとり)を出して鬪(あはせ)らる。或は距(けづめ)に金(かね)を入れ、或は翼に芥(なたね)を塗りけん[やぶちゃん字注:「或は翼に」の「或」は底本では「成」。誤植と判断して訂した。]、唐(もろこし)の季郈(きこう)、季子(きし)が古(いにしへ)もかくこそありつらめとこの比(ころ)の見物(みもの)なり。

[やぶちゃん注:標題は「實朝〔の〕卿和歌定家〔の〕卿批點(ひてん) 付 鬪鷄(にはとりあはせ)」とルビを振る。私はここまで「〇〇卿」の「〇〇」の後に「の」を入れては読んでこなかったので、これには激しい違和感がある。向後、あっても省略するので、悪しからず。

 本話はクレジットにひどい錯雑がある。実朝が和歌を住吉社に献上し、定家より詠歌口伝を伝授される部分は、「承元元年」(西暦一二〇六年)ではなく、「吾妻鏡」巻十八の承元三(一二〇九)年の七月五日及び八月十三日に基づき、住吉社献が七月、後の伝授は翌月である(本文はともに七月のことのように記してあるのは誤りである)。後半の永福寺北の壺での梅・桜の移植や闘鶏の会に至っては、「承元元年」の「三月朔日」及び同「三日」としているが、甚だしい錯誤で、これは「吾妻鏡」では承元元年の一年前、建永二(一二〇七)年三月一日及び同三日の話である。確認のために以下に示しておく。

 まず承元三(一二〇九)年七月五日の条(七月は「吾妻鏡」ではこの一条のみである)。

〇原文

五日丙申。將軍家依御夢想。被奉二十首御詠歌於住吉社。内藤右馬允知親〔好士也。定家朝臣門弟。〕爲御使。以此次。去建永元年御初學之後御歌撰卅首。爲合點。被遣定家朝臣也。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日丙申。將軍家、御夢想に依つて、二十首の御詠歌を住吉社へ奉らる。内藤右馬允知親〔好士なり。定家朝臣の門弟。〕御使たり。此の次でを以つて、去ぬる建永元年、御初學の後の御歌卅首を撰(えら)み、合點(がつてん)の爲に、定家朝臣に遣はさるるなり。

「好士」は歌人、「合點」は和歌の批評で、その際に秀歌と思うものの肩につける「〽」「○」「・」などの印を附けたことからの呼称。

 

 次に同年八月十三日の条(八月は「吾妻鏡」ではこれと十五日の二条のみ)。

〇原文

十三日甲戌。知親。〔元朝字也。與美作藏人朝親名字著到時。混乱間改之。〕自京都歸參。所被遣于京極中將定家朝臣之御歌。加合點返進。又獻詠歌口傳一巻。是六義風體事。内々依被尋仰也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日甲戌。知親〔元は朝の字なり。美作藏人(みまさかのくらんど)朝親と、名字著到の時、混乱するの間、之を改む。〕京都より歸參す。京極中將定家朝臣に遣はさるる所の御歌、合點を加へ返し進ず。又、詠歌の口傳一巻を獻ず。是れ、六義風體(りくぎふうてい)の事、内々尋ね仰せらるるに依つてなり。

割注は、「知親」の元の名前は「朝親」の字であったが、「美作(藤原)蔵人朝親(ともちか)」(生没年不詳。御家人。「吾妻鏡」には承元二(一二〇八)年の五月十七日の条に、実朝の病気平癒祈願のための鶴岡八幡宮での法華経供養の奉行として「美作蔵人朝親」の名で初出し、建暦三(一二一三)年二月に設置された学問所番の二番筆頭にその名が見え、「吾妻鏡」では都合、二十四箇所ほど現われる人物で、承久の乱の後は若狭国大飯郡本郷の地頭に任ぜられて同地に下向した。子孫は本郷氏を称し、鎌倉期には在京の御家人として存続していると、ウィキの「美作朝親」にある)。の名と、「名字著到」(幕府への出勤や公務集合の際に到着と同時に署名した名簿。着到状)の際に混乱を来たすので、「知親」と変えた、の意。

「六義」和歌の六種の風体。紀貫之が「詩経」に於ける詩の六種の分類である六義(内容での区分である風・雅・頌(しょう)と表現上の区分である賦・比・興)を転用して、「古今集」の「仮名序」で述べた六種の歌の作り方。そえ歌・かぞえ歌・なずらえ歌・たとえ歌・ただごと歌・いわい歌。

 

 次に遡る建永二(一二〇七)年三月一日と「吾妻鏡」でも連続している同三日の条を、纏めて示す。

〇原文

一日丙子。櫻梅等樹多被植北御壷。自永福寺所被引移也。

三日戊寅。於北御壺。有鷄鬪會。時房朝臣 親廣 朝光 義盛 遠元 景盛 常秀 常盛 義村 宗政等爲其衆云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

一日丙子。櫻、梅等の樹、多く北御壺へ植ゑらる。永福寺より引き移さるる所なり。

三日戊寅。北御壺に於いて、鷄鬪(とりあはせ)の會(くわい)有り。時房朝臣・親廣・朝光・義盛・遠元・景盛・常秀・常盛・義村・宗政等、其の衆たりと云々。

 

「距に金を入れ、或は翼に芥を塗りけん」これは闘う鶏が優位に立てるように図られた装備と思われ、鶏の雄の足の後ろ側にある角質の突起である蹴爪(攻撃や防御に用いる)に堅い金属の爪を被せたり、相手が啄みを入れて攻撃してくる翼部分に芥子菜(からしな)から採った辛子(からし)を塗り込んだりしたものであろう、という筆者の推測部分である。増淵氏は「金を入れ」の部分を「金箔を散らしたり」と多分に装飾的な意味合いで訳されておられるが、私は以下の故事から「金属の爪」採る。

「唐の季郈、季子が古」周の敬王三年(紀元前五一七年)のこと、当時の魯国では三桓(魯の第十五代君主桓公の子孫である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏)が権力を握っており、中でも季孫氏(季子・季孫意如)が最大勢力を持ち、それに郈氏(季郈・郈昭伯)・臧(そう)氏といった大夫が反発を高めていた。ある日、季孫氏と郈氏が闘鶏をしたが、季孫氏は鶏に鎧を着させ、郈氏は鶏に金属の爪をつけて戦わせ、季孫氏の鶏に勝ったために季孫氏は郈氏に対して深く恨みを持ったという。一方では、季孫氏が屋敷地の拡張を行い、郈氏の敷地を侵犯したため、郈氏も季孫氏へ遺恨を深くしていた。期を同じくして臧氏も季孫氏と対立し、郈氏と臧氏は魯の昭公を巻き込んで、季孫氏の討伐開始しようとした。ところが、昭公が郈氏と臧氏の提案する強硬策を肯んぜず、その内に季孫氏方からの武力行使が始まってしまう。季孫氏と昭公の対立という構図が明らかになると、三桓の他の二氏孟孫氏と叔孫氏も季孫氏を支持、結局、昭公は敗れて斉に亡命した、という故事を踏まえる(以上は主に中国在住の日本人の方のブログ「中国生活の日記」の中国史年表一二一周敬王二 魯昭公出奔 周敬王復位の記載を参照させて戴いた)。]

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