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2013/03/12

「相棒 狂鬼人間」で検索を掛けてきた方へ 又は Season5第五話 悪魔への復讐殺人 評

僕のブログに「相棒 狂鬼人間」で検索を掛けてきた方がいるので、一言。

僕は先日の「相棒シーズン二第四話消エル銃弾ハ怪奇大作戦ノ優レタル末裔ナル語」で僕の心的な連関性で感想を述べたが、恐らく検索者は、この「消える銃弾」ではなく、Season5の第五話「悪魔への復讐殺人」(脚本・櫻井武晴 監督・和泉聖治)を念頭において検索されたはないかと推理したからである。
精神鑑定と不起訴、そして心神喪失で無罪となった犯人への復讐という構造は、如何にも「怪奇大作戦」の「狂鬼人間」(脚本・山浦弘靖 監督・満田※〈「※」=「禾」(のぎへん)」+「斉」〉「かずほ」と読む)の記憶が、脚本家の執筆動機の一因であったかも知れないことは想像に難くない。仮にそうでなかったとしても、本作が――正統な『狂鬼人間』の流れ――の下流にあることは疑いようがない事実である。
但し、僕は「悪魔への復讐殺人」には多くの不満が残った。それを記す。

本作はSeason4第5話の「悪魔の囁き」の続編であるが、

(以下、ネタバレを含むので要注意!)

その真犯人安斉直太郎があれだけの犯行の緻密さと正確さを保持し、さらに自身の犯罪行為を周到に隠蔽した理性的行動、更に幾多の犯行後も警察捜査の捜査線上に登らぬように行動した一貫した優れて論理的で緻密な行動を見ても、検察が簡易鑑定で心神喪失として不起訴にすることは絶対にあり得ないという点が、まず非現実的であるという難点である。あの事例は必ず裁判となり、そこで正規の精紳鑑定が行われて爭われるケースである。

また、エンディングももっとディグするのかと思ったら、表面上は犯罪者の良心による回心(勿論、それは現実に当然あることではある)に帰結させている点でも不満が残る。
快楽殺人を何度もしてきた安斉直太郎があの傲慢な精神科医やキリスト教の教誨師らしき人物によって(その映像がインサートされている)、たった一年ばかりで回心するというシチュエーションは――あり得ぬことでは無論ないが――多くの視聴者を納得させ得るリアリティを持っているようには、これ、思われない。そこに快楽殺人のエクスタシーを打ち破るような想像を絶する、それこそ、あの不快な精神科医が口にするような「異常体験」があって初めて、その可能性を是認し得るものである(勿論、現実にそれがなければ回心はしないと断定しているものではない)。少なくとも僕は、一般的なドラマのそうした『お約束』が「悪魔への復讐殺人」には脚本上、欠けているように僕は思うのである(尺の制限があるから仕方がないと言われればそれまでであるが、それは言い訳にはならない)。

しかし、更に言えば、脚本や監督は、実は視聴者に、杉下右京を含めてエンディングの作中人物全員が――実は真相に気づいていない――ということを匂わせる「禁じ手」を用いているように、僕は実は感じたのである。
安斉直太郎が何故、自身のカウセリング担当ナースである真帆に対して、かつて娘を安斉に殺された牧百合江に対する接触を「実に慇懃に熱心に」勧めたかを考えれば、容易に答えは出る。
安斉はそうすれば、真帆が、安西の更正や回心を心から語って、自分の外出訓練の情報をどこかで(無意識にでも)仄めかすであろうことを予測していたのである(事実、そうなった)。

はっきり言おう。安西は自身を牧百合江に殺させるために、真帆を、心理的に実に巧みに誘導したのである。

その証拠に、安西が殺されるシーンで彼は殆んど抵抗を見せない。それどころか、腹部を刺された後の安斉を演じた高橋一生君は、微かな笑みさえ浮かべているではいか(と私は冷静に見た)!

では、人によっては、「やはり安西は自身を自身で罰したことになり、彼は十全に回心したのでないか」と解釈される方も多くあられることと思う。

しかし、僕はそれを――法でさえ裁いて呉れない、許し難い自身を断罪させることに成功した、回心した快楽殺人者の末期の安堵や贖罪の笑み――とは、必ずしもとらないのである。

先にも述べたが、真正の快楽殺人者の殺人美学や快楽論理は、「悪魔への復讐殺人」で名前こそ出さなかったが、法廷で被害者遺族に対し、言うもおぞましい被害者の死体処理について笑って吐きかけたチカチーロのケースなどをみても、常人の「認識」や「常識」など吹き飛んでしまうような、遙かに越えた凄絶なものなのである。

犯罪心理学では究極のサディズトのエクスタシーは、時に自己に向けられることがあり、それは自身が殺されることを望むというマゾヒズムと区別がつかなくなる場合がある、と聞き及んでいる(実際にそうした過剰なサド行為による相互の結果犯罪成立例や事故死過失死のケースを僕は幾つか記録で管見している)。

安西は究極の快楽――自身を殺して貰うという快楽である――を目的として、最後に牧百合江を巧妙に自分に呼び寄せた可能性を――僕は否定出来ないのである。

何より――安斉直太郎は――精神科医を志していた。その療法は裏を返せば、容易にマインド・コントロールへと繋がるものである。

最後に。
寧ろ僕は、「悪魔への復讐殺人」がSeason4第5話の「悪魔の囁き」の続編であることに着目したい。

何故か?

「悪魔の囁き」の脚本家である。
これは砂本量・瀬巻亮犬及び砂本氏の体調悪化によって書き継いだ須藤泰司の三名による共同脚本であることがウィキの「相棒」のスタッフ・リストによって分かる。
この砂本量氏とは――
まさにあの――「消える銃弾」――の作者なのである……

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